2008/05/05

ライステラスと日本をつなぐ線

 今から30年以上前に出版された『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974年)という本の中で、編者の鶴見良行氏は、「文化交流の仕事は補助線を引くことだ」と書いている。政府間の交流や資本の交流関係を“実線外交”と呼び、“民衆と民衆”との間の交流を“補助線”と見立てている。

 この本の書かれた1970年代の前半は、72年タイで起こった日華排斥運動や74年インドネシアの反日暴動などに象徴されるように、東南アジアの国々で日本批判が吹き荒れて、日本と東南アジアとの関係が見直された時代だ。国際交流基金の設立は1972年だが、無論、そうしたアジア諸国での日本批判が大きく影響している。同じ本の中で、タイを代表する思想家であるスラク・シバラクサ氏は、この国際交流基金の設立についても言及していて、「真によい文化関係を築きあげるうえでの意義のある成果をあげられるかどうかについて疑念を持たざるをえない。」と“みせかけの文化交流”を批判した。そして日本人の心の中にある「東南アジアの人たちを劣ったものとみる考え方を根本的に変える必要がある」と主張する。

 その国際交流基金も設立から35年が経過した。私自身もそこで20年以上文化交流という仕事に携わり、そのなかでも多くの時間を東南アジアと関わってきた。シバラクサ氏の箴言は、今なお生きている重い課題だ。決して驕らず、そして次の時代につながるようなしっかりとした補助線をなるべく多く引き続けること、それが自分に与えられた役目だと思っている。

 そして今回、また新たな補助線を引く機会が与えられた。環境問題に取り組むNGOの若手リーダーたちを6月に日本に招待して2週間のスタディーツアーを行うというものだ。7月に開催が予定されている北海道・洞爺湖サミットの主要議題の一つが環境であることから、アジア太平洋諸国から50人もの若者を一同に集め、サミットとは異なる視点から草の根レベルで環境問題についてそれぞれの経験をシェアーしようという意欲的な企画である。環境問題のショーケースのようなフィリピンだけに様々な問題にあふれていて、NGO活動もいたって活発で多くの人々が関係しているが、今回フィリピンに与えられた4人という参加枠の中で、自分なりに優先順位を付けて人選することにした。その結果、ルソン島北部山地地方で世界遺産であるライステラスの保全活動を行っているタイサーメイ・ディナムリンさん、ルソン島南部ビコール地方で記録的な被害を与えた台風災害の生存者であり、その経験をもとに高校で環境教育に携わるラクェル・ロサスさん、南部ミンダナオ島からは弁護士として先住民族の土地の環境破壊問題に取り組むジェニファー・ラモスさん、そしてマニラからはアテネオ・デ・マニラ大学で環境マネジメントを教え始めた若き学者のジェームズ・アラネタさん、というバラエティーに富んだチームとなった。

 中でも世界遺産であるライステラス(棚田)の保全の問題は、この国の環境問題を考えるにあたって象徴的な問題であり、とても重要な視点を含んでいる。私は人選にあわせてそのライステラスのあるイフガオ州を訪ねた。

             バナウェのライステラス
 
 ルソン島北部の山地地方コルディレラは、通称イゴロットと呼ばれる山地民族の故郷だ。彼らは低地タガログ人とは出自の異なる先住民で、もとをたどれば台湾の先住民や沖縄のおじいやおばあと同じルーツであると考えられている。顔立ちは我々日本人と似通っていてどこか懐かしい感じすら覚える。かつてはヨーロッパからやって来た宣教師などから“首狩族”と言われ、その勇猛さから恐れられた人々だが、別の視点から見れば、スペイン植民地軍に対して頑強に抵抗して19世紀後半まで独立を貫いた誇り高き民族である。コルディレラ地方は古くから豊かな金の産地として知られ、16世紀以来その金の魅力に惹きつけられた西洋の探検家や宣教師、そして植民地政府軍とイゴロットとの接触、その抵抗と帰順の歴史は、『The Discovery of the Igorots』(William Henry Scott著、New Day Publishers出版、1974年)という本に詳細に描かれている。

       イフガオ族の古老(バンガアン村にて)

 民族的には大きく6つのサブグループに分かれているが、なかでも独自の文化で有名なのがイフガオ族で、彼らの故郷がイフガオ州、そしてそのいくつかの村にライステラスは散在する。マニラから夜行バスに乗って10時間でバナウエという町に着き、そこからまたトライシクル(三輪オート・サイドカー)で未舗装の荒れた道路をがたがたと1時間。標高平均1300メートルの急峻な山中に忽然と現れる棚田は、まさに世界七不思議の一つとも言われるほどの驚きである。山中の急斜面に作られたダイナミックな成り立ちと同時に、棚田を守るために丁寧に築かれた砂岩の石垣や、丘の上から下の棚田に向かってよどみなく流れるように張り巡らされた水路など、意外なほど繊細な魅力にあふれていて、それらがえもいわれぬ美しい景観を作り出している。1995年にはユネスコの世界遺産に登録されたが、その保全が危ぶまれ、2001年には消滅の危機にある世界遺産(危機遺産)として再登録された。ちなみにフィリピンではこの棚田を含めて文化遺産が3件、そして自然遺産が2件登録されている。

   砂岩の石垣で守られるバンガアン村のライステラス

 今回日本へ招待することとなったタイサーメイの勤めるNGOは、The Save the Ifugao Terraces Movement(SITMo)といって、2000年に結成されたまだ若いNGOである。いまイフガオの村では出稼ぎによる耕作地の放棄や、米よりお金になる他の作物への転作で、多くの棚田が失われつつある。さらに伝統的知識や技術を担っていたお年寄りが少なくなってきており、その継承が危ぶまれている。そのため人々の生活水準を改善し、伝統文化の価値を再認識してそれを守り、世界に誇る棚田文化を次世代に継承してゆくための活動がようやく最近になって本格的に始まった。SITMoでは、こうした危機にある棚田の保全のみならず、持続的な土地利用や森林の保全、作物や工芸品のマーケティング、伝統的知識の記録と継承などに関する指導を行っている。またエコ・カルチャー・ツーリズムのプログラムを開発して、マニラなどからやって来る観光客を対象に、実際に棚田のある村に入ってフィエスタに参加し、イフガオの伝統儀式や農作業を体験する機会を提供している。タイサー・メイが担当するのは“リニューワル・エネルギー・プログラム”といって、イフガオに伝わる伝統的な水車を復興して電気を作り、最低料金(月々100ペソ=250円)で村の家々に提供してゆこうというもので、現在州内2つの村で実施中である。マニラの工科大学を卒業したてのまだ23歳のイフガオ族の彼女は、「マニラの喧騒は嫌い。自分の土地が好き。ここでイフガオの伝統を守る仕事を続けたい。」と明るく語った。

 さてこのイフガオのライステラスに育まれた文化の中に、もう一つの世界遺産がある。フドゥフドゥといわる民衆詠唱で、2001年に無形文化遺産に登録された。フドゥフドゥはイフガオ族に代々伝わる恋の物語や戦いの叙事詩で、田植えや稲刈りなど農作業の節目に、また葬式や洗骨(通常は死後1年)などの儀式の際に謡い継がれてきたものだ。マニラ事務所では2001年にフィリピン大学で行われた「フドゥフドゥと能、文化のダイアローグ」というセミナーを支援したことがあり、その際にゲストとして参加していたイフガオ人の元高校教師で伝統文化研究家であるマニュエル・ドゥラワン氏を訪ねて、そのフドゥフドゥ揺籃の地と言われているキアガンの町を訪問した。

 キアガンはイフガオ地方のかつての中心地。小さな盆地を流れる川のほとりに、その昔フドゥフドゥを担うイフガオ族の一派が定着したと伝えられている。この町にある国立博物館イフガオ分館には、驚いたことに、このキアガンに代々伝わる33代、600年にわたる細密な家系図のコピーが展示されていた。ドゥラワン氏ももとをたどればどこかの家系に遡ることができるという。600年といえば偶然にも能の歴史とほぼ同じだ。おそるべしキアガンのイフガオ族である。

            国立博物館イフガオ分館 

 現在72歳のドゥラワン氏は、高校を定年退職後にフドゥフドゥの保存に奔走し、今では国家文化芸術委員会の無形文化遺産委員会委員を努めるほどの重鎮で、その復興になくてはならない立役者であるが、彼の話によれば、伝統文化の変容や若者の儀式離れで、一時はかなりその存続が危ぶまれたという。特にフドゥフドゥの成り立ちに欠かせない伝統的儀式の中でも、洗骨の儀式などは西欧からやって来た宣教師たちから後進的で野蛮な文化と忌み嫌われて、フドゥフドゥそのものも誤解を受けてきたという。でも考えてみればこの洗骨という儀式、かつては沖縄でも見られたようだが、時に生身の老いた人間すら汚いものとして退ける風潮のある現代の日本からみれば、亡くなった先人の骨までも慈しむ、なんとも心やさしく尊厳に満ちた伝統ではなかろうか。

 そんな存続の危機を救ったのがユネスコの世界遺産への登録という出来事だった。登録されたことでフドゥフドゥに対する人々のとらえ方が大きく変化したという。2004年からはSchool of Living Tradition(SLT)というプロジェクトもスタートし、今ではキアガン村の19の小学校の授業で、フドゥフドゥが儀式としてではなく、伝統的なフォークソングとして教えられるようになった。毎年1回子供たちも交えたフドゥフドゥのフィエスタもあるそうで、2004年にはとうとう日本と韓国で海外公演も行ったそうだ。

 そしてこのSLTプロジェクトに、実は私たち日本人の税金が使われているのだ。でも、そんなことを知っている日本人は何人いるだろうか。私も恥ずかしながら今回の訪問で初めて知った。ユネスコ(国連科学教育文化機関)は第二次世界大戦後まもなく設立された国際機関だが、広く知られているように日本が最大のスポンサーで、加盟国分担金として全体予算の2割強を拠出している。ちなみに超大国のアメリカは参加していない。またその通常予算以外にも様々な分野で「信託基金」という任意の拠出金制度があり、そこでも日本は多額の資金を提供していて、例えば無形遺産の分野では「無形文化財保存振興日本信託基金」というかたちで2001年までに559.5万ドルを拠出している。その信託基金からフィリピンの国家文化芸術委員会を通じて、このイフガオの村のフドゥフドゥを守るプロジェクトへ日本のお金が流れてきているのだ。日本人は総じて税金の使い道にあまり関心がないと言われるが、こうした事実をもっと私たちは知る必要があるのだと思う。

 ところでこのキアガンという村には、このフドゥフドゥ以外にも私たち日本人との宿命的とも言える接点がある。ここはフィリピンでの戦闘を最後まで指揮した山下将軍が、1945年9月2日に米軍に降伏をした戦争終結の場所なのだ。当時降伏のための協議が行われた建物はいまもそのまま残されており、正面にはフィリピン人ゲリラを賞賛する石碑が埋め込まれている。バナウエの町にある博物館の入り口には、その降伏の瞬間を捉えた白黒写真が飾られていた。日米比あわせて150万人以上の犠牲者を出した戦争の終結にあたって握手を求めた山下将軍に対し、米軍将校がそれを拒んだ瞬間・・と思われる写真。このキアガンは、3つの国、そして多くの市井の人々を巻き込んだ殺し合いが終わった場所だったのだ。

     かつての終戦の地、キアガン中央小学校

 戦後60年が経過して、今キアガン村と日本との接点は、戦争ではなくフドゥフドゥである。今では日本人の生活にほぼ全くと言っていいほど関係のない異国の山の中で、そこに住む人々の誇りを守るためにわたしたちのお金が使われている。そんな事実を知って初めて感じる、ちょっとこそばゆい誇り。先日、日本の政府開発援助(ODA)額が昨年度実績で世界5位に転落(1990年代は世界一だった)する見込みという報道があったが、国際協力全体が萎縮傾向にある中で、ぼくらはそのこそばゆい思いというものをかみしめて、改めて誇りの意味を考える必要があるのだと思う。尊大でもなく、矮小でもなく。
(了)

2008/03/24

ジャパゆきを超えて

 2006年に国際交流基金が全世界で行った「日本語機関調査」の中で、日本語を学ぶ学生たちにアンケートをした結果、その動機の上位を占めたのが、一位が日本文化に関する知識を得る、二位が日本語でコミュニケーションができるようになる、三位は日本語という言語そのものに興味があるというものだった。アンケートで設定された選択肢にもよるし、全世界的な傾向というものもあるのだろうが、私自身の頭の中では、何かあまりに動機があっさりしていて本当(本音)なのだろうかと疑問が残った。日本語を学ぶ動機は、もっと実利的だったり、生活に根ざしていたり、つまりもっと生々しいものなのではないのだろうか、と。

 今年の2月に実施された第35回日本語スピーチコンテスト。その社会人部門で28歳の主婦マリセル・ボルニリヤーさんが大賞に輝いた。スピーチのタイトルは「ジャパゆきを超えて」。彼女にとって、日本でエンターテイナーとして働き自分たち家族を支えてくれたお姉さんはヒーローのような存在であり、自分も日本語を一生懸命に勉強して、そんな姉への恩返しを誓うという内容のスピーチだった。

 「私の2番目の姉は、元ジャパゆきです。私がまだ10歳ぐらいのときに、姉は歌手として日本へ行きました。当時のビコールの田舎の人たちは考え方が保守的で、姉について悪口を言っていたそうです。でも、私はまだ子供だったのでよく分からず、お土産のことしか考えていませんでした。(中略)大きくなるにつれて、周りの人たちの悪口の意味が分かるようになり、つらい思いをしました。(中略)私は今でもこの姉にとても感謝しています。父が亡くなってから、母と私たち兄弟の面倒を見てくれ、おかげで私たちは学校を卒業することができました。(中略)私はこれから日本語教師になり、日本で仕事をするフィリピン人、特にITエンジニアやケアギバーを助けたいと思っています。そうすることが、ジャパゆきとして私を助けてくれた姉への恩返しにもなると思います。」

 以前このブログでも書いたことがあるが、フィリピン人といえばエンターテイナーというのは、現代の日本人が作り出したステレオタイプの一つだ。80年代から急増したフィリピン人エンターテイナーは、言ってみればアングラ版日比交流の象徴となった。その多くは6ヶ月間の「興行ビザ」で、ピーク時には年間8万人(2003年)のペースで日本へ渡った。両国の経済格差やフィリピンの出稼ぎ労働文化、そして日本の海外労働者受入制度の未整備という現実が作り出した“人流”の一つだろう。確かに「興行ビザ」(演劇、演奏、スポ―ツ等の興行や芸能活動のためのビザ)を取って、実際にはカラオケクラブで接客業をしているケースがほとんどで、人身売買まがいのことや売春を強要されるケースもあり、“汚れた”イメージがつきまとう。そしてフィリピン人の間でも「ジャパゆき」に対しては負の印象が強い。しかしボルニリヤーさんがスピーチで述べたように、その多くが接客業をして真面目に働き、フィリピンにお金を送金して家族の生活を支える大黒柱、こちらの言い方で“ブレッド・ウィナー”(パンを獲得する勝利者)なのだ。「ジャパゆき」というだけで非難されるいわれはないし、かといって当の本人たちにとっては“性の商品化による犠牲者”と言われることもまた、現実の感覚からはほど遠い。

 ステレオタイプや偏見は、その時代の社会状況が作り出すものだ。今では忘れられかけてはいるが、「ジャパゆき」の元となった「からゆき」という言葉。フィリピン研究者の寺見元恵氏の調査によれば、在留邦人をデータで確認できる最も早い時期において、1903年当時マニラに在住していた1000人の日本人の実に3分の1が「酌婦」や「娼婦」などの水商売に従事する女性だったようだ。(フィリピンに学ぶ会編『Filipica』2007年54号、「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」)フィリピン≒ジャパゆきというイメージも無論、未来永劫続くというものではない。いつかは過去の話となるだろう。実際、フィリピン人の「興行ビザ」による入国者の数は2006年の外国人入国管理法改正で激減しており、2007年以降は月に約500人のペースで、ピーク時の1割以下になっている。ボルニリヤーさんが元ジャパゆきの姉への恩返しのために日本語を学ぶことを選び、「ジャパゆきを超えて」ゆこうとしているように、ジャパゆきさん自身の中からも、そんな偏見に立ち向かってゆこうとしている人もいる。

 国際交流基金では毎年世界中から多くの日本語教師を日本に招待し、日本語研修や日本語教授法の研修を行っている。ここフィリピンからも多くの若手教師が参加しているが、2008年5月からの研修に、元エンターテイナーのロドリゲス・ラブリーンさんが参加することとなった。大学卒業後24歳で日本に渡った彼女は、その後6ヶ月間ごと合計7回にわたってエンターテイナーとして日本で働いた。そして2006年に帰国してからは、日本語をさらに勉強するためマニラの日本語学校に入学。国際交流基金のセミナーなどにも参加するようになり、日本語能力試験の3級にも合格して、いよいよ自ら教壇に立つようになった。そしてこれまでの努力が実り、来る5月から国際交流基金の研修生として採用されたのだ。

         国際交流基金日本語国際センター

 彼女は自分が元エンターテイナーであった経歴を周囲に隠さない。「お店でお客さんと話していた言葉と、日本人が普通に話す時の言葉が違うので、基金のセミナーでは最初何を話してよいかわからなかった。これからはもっと正しい日本語を勉強したい。」と、さらりと豊富を語る。将来の夢は、自分で子供たちのための日本語学校を開きたいと言う。生活のために選んだジャパゆき。彼女はその経歴からくる困難や悩みを積極的に語り、自らその壁を破ろうとしている。彼女のような元ジャパゆきさんが増えていけば、「ジャパゆき」のイメージはきっと変わってゆくに違いない。

 日本とフィリピン政府の間で2006年の9月に締結された経済連携協定(EPA)は、未だにフィリピンの上院で批准されておらず、発効の目処が立っていない。この協定の締結についてはフィリピンで様々な反対意見が出されているが、最も激しかったのが、環境保護団体を中心に、同協定が“不平等条約”であると指摘されたことだ。特に輸出入品目リストの中に有害廃棄物が含まれており、フィリピンが日本のゴミ捨て場になるのではないかと強く反発した。

 同協定にはもう一つの焦点がある。日本政府が初めてフィリピン人看護師・介護士の受入を認めたことである。高齢化が進む日本では現在90万人の介護士が必要といわれているが、実際の従事者は40万人で、日本人がいやがる介護の現場では今後外国人の介護士が増えると予想されている。これまでにも欧米や中東に看護師・介護士を派遣して海外送金で国家経済を支えてきたフィリピンは、締結交渉の過程で日本側により多くのフィリピン人看護師・介護士の受入と、日本人と同等の待遇確保を要求してきた。一方日本側は、外国人労働者の流入による雇用条件の悪化や社会秩序の乱れを懸念して、当初は受入に消極的だったが、双方で歩み寄り、最終的に2年間で千人の受入で決着した経緯がある。しかし先に述べたように、フィリピン側の環境保護団体によって有害廃棄物が同国に持ち込まれるとの懸念が表明されたことが発端となり、“日本とフィリピンの政府は、健康(看護師・介護士)と公害(有害廃棄物)を取引した”と主張する者も現れるようになった。

 こうした論争を通して見えてきたことは、この問題の根底にはフィリピンと日本の人々の間にいまだに大きな不信感が横たわっているということであった。フィリピンから見れば、100万人が犠牲になった太平洋戦争の記憶や、日本の経済進出に伴う富の流出など、心のどこかに常に被害者意識があるのは確かだろう。「ジャパゆき」はまさに二国間の格差を象徴している日常的現実だ。

 しかし今度のEPAによってもたらされるであろう両国交流のさらなる展開は、フィリピンと日本の間に、その人流に大きな変化をもたらす可能性がある。

 先に述べた通りEPAには様々な問題点が指摘されてはいるが、現実は一足早く進んでいる。フィリピンでは2006年あたりから協定発効後の労働市場“解禁”を期待して、介護士向けの日本語教室が雨後の筍のように出現した。そこでは主に高校を卒業してフィリピンの介護士資格を取得した人たちが日本行きを目指して学んでいる。

 日本語教育という点では、IT業界でも新たな取り組みが活発である。タガログ語とならんで英語が公用語であるフィリピンでは、優秀な人材に対する外国企業からの需要は大きい。コールセンターなど米国系のビジネス・プロセス・アウトソーシング業界には、年間23万人の大卒者が就職するというデータもある。一方で、日本におけるIT技術者は、少子高齢化や日本人学生の理系離れが影響して慢性的な人手不足の傾向にあり、2010年までに15万人が不足するという予測もある。そのため日系IT企業の間では、日本語のできるフィリピン人技術者を巡って激しい人材の争奪戦が繰り広げられている。先を見越した企業では、社内の日本語教育に力を入れたり、大学や民間の日本語学校とタイアップして人材育成を進めている。

 フィリピンは長い間スペインとアメリカの植民地であったためダイレクトに欧米文化が伝えられてきたこともあり、日本への関心は低いと言われてきた。しかし1990年代に入ってアジア諸国を席捲した日本のポップカルチャー人気の影響を受けて、日本文化や日本語への関心が高まった。国際交流基金の調査によれば、2003年の日本語学習者は11,259人で、10年前に比べて1.8倍に増加したが、ここ数年の増加率はそれをさらに上回り、2006年の調査では18,199人と、3年間で1.6倍に飛躍した。

 しかし近隣のアジア諸国に比べて日本語の教育基盤が脆弱で、かつて業界では“日本語教育不毛の地”とまでささやかれていた。質の高い日本語教師が圧倒的に不足していて、教師を養成する教育機関などのインフラも未整備なのだ。多くのフィリピン人は、自分たちの地元で話されている母語以外に、公用語であるタガログ語、それに学校教育の中や、社会でいい仕事に就くためには英語が必須になっていて、日本語などの外国語の習得には多大な負担が伴う。

 しかしそんな状況の中で、フィリピン政府もようやく最近になって日本語教育に対して真剣に目を向けるようになってきている。国際交流基金でもそうしたニーズに応えるために、2007年の2月から新たに日本語教師養成のための研修講座を開講したり、高校生の日本語学習ニーズを開拓するため「日本語キャラバン」という模擬授業や日本語を使った文化紹介をパッケージにしたプログラムを開発し、マニラ近郊の高校を中心に巡回デモンストレーションを開始した。今後日本語のニーズは、産業界はもちろん、大学や高校でもますます高まっていくことだろう。

           高校での日本語キャラバン

 いま日本語は、少子高齢化で人材不足にあえぎ将来に不安を抱える日本の人々と、人口過剰や貧富の格差拡大という問題を抱えながらもより良き将来を求めるフィリピンの人々をつなぐ、希望の鍵を握っていると言える。これまでジャパゆきさんがそうであったように、そう遠くない将来、フィリピン人看護師や介護士、それにIT技術者が日本の津々浦々で活躍する日がやってくるかもしれない。経済的な繁栄を成し遂げて、成熟した高齢化社会に向かうはずの私たちが、本当にアジアの隣人に信頼される存在になれるのか。お互いの相互不信を乗り越えて、心を開きより豊かな共生関係を築くことができるのか。そんな新たな時代を目前にして、私たちこそが試されているのかもしれない。不信感や偏見の克服というテーマは、まさに文化の領域だろう。「ジャパゆきを超えて」、それは今私たち全てに向けられたメッセージなのだと思う。


(了)

2008/03/17

日本食紹介の新たな試み、「フィリピン全国弁当コンテスト」

 いまや世界的に身近なものとなった日本料理。各地それぞれの嗜好に合った味付けや文化状況を反映したアレンジで、様々なバリエーションの日本食が試されている。ここフィリピンでも、“テンプラ”、“スシ”、“テリヤキ”は誰もが知っている日本語。巷には「TOKYO TOKYO」といった分かり易いものや、はては「太つた少年」などという怪しいネーミングの日本食ファースト・フード・チェーンから創作懐石料理を出す高級店まで、数え切れないほどの日本料理店があふれている。

 最早“ブーム”と言うだけでは片付けられないジャパニーズフード。国際交流基金の機関誌『遠近』で、様々な角度から世界で愛される日本食を紹介・分析したのは2006年4月のことだった。日本政府もあらためてジャパン・ブランドとしての日本食の振興に取り組み始めている。そうしておそらく世界における今後の日本食は、洗練された味やオリジナルな味を追求することで発展する一方で、日本食を味わうユニークなスタイルやコンセプトといったものがますます多様化してゆくことだろう。

 今回マニラ事務所では、日本食を紹介する新たなかたちのイベントとして「フィリピン全国弁当コンテスト」を実施した。当地でも日本のポピュラーカルチャーは絶大な人気があり、日本食もいわばそんなポピュラーカルチャーの代表選手。日本食を巡る様々な文化的要素の中でも大衆性に着目し、伝統的だけれど極めて日常的な文化である「弁当」に焦点を当て、多くの若い人たちを中心とした一般の方々にアピールするようなイベントを企画した。そして日本の誇る「駅弁」文化や、日本の今の現代感覚を生き生きと反映した「キャラ弁」を紹介するとともに、フィリピン人による独創的な弁当、各地のローカルな食材を使った弁当作りのコンテストを実施した。会場はマニラ首都圏のほぼ中央に位置して、日々大勢の買い物客を集めるシャングリラ・プラザ・モール。ハイエンドなお客さんが対象のちょっとお洒落なショッピングセンターで、2月23日と24日の2日間、関連のイベントとも合わせ推定でのべ1万人以上のお客様が来場した。

 一説によれば弁当は、その起源を平安時代までさかのぼることができる立派な日本の伝統文化だ。冷たくてもおいしいご飯やおかずを用いて、携帯性に優れ、農作業や旅のお供として発達した。今回もまずはその携帯文化の粋とも言える日本の「駅弁」に焦点を当て、全国各地の3000を超えると推定される駅弁の中から、独創性とデザイン性に優れた50の駅弁を選び、パッケージや写真を展示して紹介をした。

               駅弁展示風景

 さらに日本から、“キャラ弁”やとてもキュートな“ファンシーお弁当”の作者で、毎日新作弁当を制作してWEBサイト(http://www.e-obento.com/)上に公開している宮澤真理さんを招待して、デモンストレーションを実施した。楽しく心のこもったお弁当作りに活用できるテクニックや、フィリピンで人気のある世界最小の猿“ターシャ”をモチーフとした新作キャラ弁を紹介。当地のクオリティー・ペーパーであるPhilippines Daily Inquirerでも大きく取り上げられて大反響だった。

        ターシャ弁当(写真提供:宮澤真理氏)

 メインイベントとなった「フィリピン全国弁当コンテスト」では、全国各地から寄せられた応募の中から予選審査を通過した8組の若きシェフたちが出場して腕を競った。ルソン島北部のビガン市、中部ビコール地方からはナーガ市やパナイ島のイロイロ市、南部ミンダナオ島からはカガヤン・デ・オロ市、そしてマニラ首都圏からは4組と、それぞれ各地を代表する大学や料理学校の学生が中心で、文字通りの全国大会となった。決戦大会となった当日はショッピングセンターの中央吹き抜けのスペースに特設舞台を設け、そこに『料理の鉄人』にならって公開キッチンを設営。1組各4人、1時間ずつ2回に分けて観衆の前で調理が行われた。

             調理中のコンテスタント

 優勝したのはマニラにある大学の家政科に通うラレイン・リムさん。マンゴーなどフィリピンの新鮮な食材を使った寿司を中心に、日本の弁当のコンセプトをよく理解した携帯性に優れた作品だった。他にも各地の素材のバラエティが生かされたローカル色豊かなお弁当が並んだ。そして弁当箱もフィリピンらしくバナナや椰子の葉を使ったオリジナリティにあふれた作品だった。まさに“比魂和才”。日本の弁当という器にフィリピン各地の味と知恵を盛り付け、日比フュージョンの新しい弁当作品が誕生した。元来フィリピンはハロハロ文化、様々な文化の交じり合った“メスティーソ”文化の国。外国のものを吸収して消化する能力はなかなか優れたものを持っている。

          バナナの葉で編んだ箱の弁当

 今回の企画を通して、日本食はこれまでも、そしてこれからも、世界中で新たな解釈と試みに触発されて発展し、それぞれの土地のそれぞれの人々に愛され続けてゆくのだろうと確信した。
(了)

2008/03/04

ビバ・バクラ!ゲイ・カルチャーなくしてフィリピンは語れない

  2008年2月7日、マニラでは約10年ぶりとなる歌舞伎のレクチャーとデモンストレーションが実施された。出演は中村京蔵氏と中村又之助氏で松竹の制作、主催は国際交流基金である。演目は、女形の艶やかな踊りである「鷺娘(さぎむすめ)」と、立役による勇壮な獅子の踊りである「石橋(しゃっきょう)」で、途中にレクチャーが入った構成。レクデモ終了後、ご覧になった多くの方々から「初めて本物の歌舞伎を観た」というコメントが寄せられた。

 中には激烈に「歌舞伎を見ることが自分の夢だった。今回その夢が適い、生涯の思い出に残る経験(ライフタイム・エクスペリエンス)となった。」とのコメントもあった。そうしたコメントから、歌舞伎を観るということは、ある人々にとっては「夢」の実現に属する一大事件なのだということに気が付いた。おそらく多くの外国人にとって、歌舞伎を観るということは、日本を代表するイメージであり、書物や美術作品、映像、さらには日常生活の表象(食品の標章や日本食レストラン)等、様々なメディアを通じて引用され続け、長年自らの想像の中で抱き続けてきたイメージである歌舞伎を、実際に目のあたりにするという、かなり特殊な”体験“であるということに思い至った。

 「鷺娘」という演目は、世界的にも稀有な伝統的女形の魅力を存分に堪能するのにうってつけの演目だったと思う。鳥が人間に化身するという世界中で親しまれているモチーフゆえに、外国人にとっても大変理解し易く、物語の理解へ費やすエネルギーがほとんど必要ない分、純粋にその技(ワザ)や美的世界に集中することができたのではないかと思われる。そして歌舞伎の公演で通常強調される「伝統」よりも、後見の助けを受けて一瞬の内に衣装が早替わる「引き抜き」という技の革新性が際立って、それによって引き立てられる美的世界観がうっとりするほど見事に伝わったのだと思う。

 ところでこの歌舞伎の女形。レクチャーでは、「男性の目を通して見た女性像を抽象的に表現したもの」と解説があった。もちろん女形の説明としてはそれで正しいのかもしれないが、その特殊な形に込められた様々な意味や背景を推し量るには、それだけでは不十分なのかもしれない。実際歌舞伎の世界で女形の役者さんたちは、虚構の世界における形を求めるあまり、実生活でも「女」のようなふるまいをすることが多いと仄聞する。

 女形と言って思い出されるのは、2001年に国際交流基金の主催で行われた「アジアの女形」という公演だ。中国の越劇や、インドの「セライケラのチョウ」という伝統的な仮面舞踊、そして当時私が駐在していたインドネシアからは、ジャワ舞踊のディディ・ニニトウォ氏が招待されて比較上演された。形はそれぞれ違っても、男性が女性を演じるという大前提は同じだ。歌舞伎の女形のように極めて抽象度も高く、昇華された様式となって今に残っているものは世界でも稀だが、男が女を演じること自体、もちろん古今東西それほど珍しいことではない。

 やはりこれもインドネシアに駐在していた時のことだが、フィリピンのほぼ真南に位置するスラウェシ島のある村を訪れ、今も残る「チャラバイ」という女装した男性シャーマンに会ったことがある。彼は常に女装をしていて、つまり外見的にはオカマであるが、儀式になるとシャーマンとなり、憑依状態になって真剣を胸に押し付けたりして、まさに“男まさり”の祈りを司っていた。もともと女性が神聖な儀式を執り行う社会では、男性は女性の神聖性や、時に魔性というものを求めて、自らすすんで女装をしたという。そして、こうして性を越えた人々は、神と人間との仲介者となったり、社会的弱者である女性の相談役や男女の仲介者となったりして、コミュニティーの中で重要な社会的機能を持つようになったと考えられている。

 日本の伝統芸能であり、世界遺産でもある歌舞伎と一緒に述べるのは“不謹慎”であるとも言えるが、折角の機会なので、この機に乗じてフィリピンの“誇るべき”ゲイ・カルチャーについて書いておく。もう少し品良く言えば、フィリピンは知る人ぞ知る、第三ジェンダー(第三の性)やトランスジェンダー(越境した性)の宝庫なのだ。特にオカマはここでは「バクラ」と呼ばれ、貧富を問わず地域を問わず、社会に密着してまさに遍く存在し、コミュニティーの中では欠かせない愛すべきキャラクターである。そう、バクラなくしてフィリピン文化は語れない。まだまだ偏見や差別はあるものの、日本に比べればオープンでおおらか。映画、演劇、テレビなどのメディアでもたびたび登場して、人々を爆笑とペーソスに誘う。いくつか興味深い例を紹介しておく。

 まずは映画で、このブログでも何度か紹介したことのあるヤマモト・ミチコ脚本の『マキシモ・オベリロスの初恋』。貧しいスラムに生活するマキシモ君というバクラ少年のほろ苦い初恋の物語だ。ここでは10歳に満たない子供で、既に立派にカミングアウトしている男の子が主人公であることに注目。家族の中でもコミュニティーの中でも、世話好きな愛くるしいキャラとして、確固たる居場所を持っている。私も以前あるスラムを訪れた際、同じようなバクラ少年を見かけることがあった。フィリピンの社会ではそうした早熟なバクラは珍しくはない。

               マキシモ君

 それから日本の川口市にあるスキップシティーの国際Dシネマ映画祭で、昨年コンペ部門に出品されて話題になり、最近マニラでも公開されたイスラエル映画『ペーパー・ドール』(トメル・ヘイマン監督)。イスラエルに出稼ぎに行き、ユダヤ人の老人介護をしながら生活するフィリピン人のバクラ4人組が、“ペーパー・ドール”というダンスグループを結成して助け合って生活していた、という実話に基づいた異色のドキュメンタリー映画だ。世界の出稼ぎ大国フィリピンならではの実話だが、国際問題で非難の集中するイスラエルにも国内には深刻な高齢化問題があり、これからの日本を髣髴とさせるようにフィリピン人ケアー・ギバーがそれを支えていて、しかもそれがとても心優しいバクラたちなのだ。

 もう一つ映画の話題で、バクラもので日本と関係がある作品といえば、2004年にメジャー系のリーガル・エンターテイメントで製作された『愛シテ、イマス。1941』(ジョエル・ラマンガン監督)。日本占領時代を舞台に、当代の人気俳優であるデニス・トリーリョ演じるフィリピン人のバクラ青年が、当初は日本軍の動向を探るスパイだったはずが、逆に日本人将校に恋をしてしまうという物語。日本人将校と地元民との恋愛話は、有名なタイの小説でたびたび映画にもなった『メナムの残照』をぱくったストーリーだろうが、実はその現地人の恋人がオカマだったという、あきれたナンセンスぶりが非常にフィリピンらしい。東南アジアで最大規模の犠牲者を出したフィリピンだけに、日本の戦争の描き方は無論、日本人=悪一辺倒であり、ステレオタイプ化された描き方がほとんどであっただけに、バクラというキャラクターを介して、これまでとは全く異なる戦争を描いた点では新しいといえる。ちなみにこの作品は2005年の東京国際映画祭で公開されている。

 ところで、どうしてこの国では、バクラがこれほどまでに社会の至るところに顕在しているのだろうか。はっきりとした理由はわからないが、先に書いたインドネシアの「チャラバイ」のように、性別を超越して、あるいは男と女の中間的な要素を身につけて、ある特殊な社会的役割を果たしてきた人々は世界各地に広く存在しているようだが、東南アジアでは、特にその名残が強く残っているからなのかもしれない。そうした第三の性に対して、性に関するタブーの多い西欧キリスト教社会や、イスラム社会ほどには異端視してこなかったからとも考えられる。

 とはいえ、バクラやゲイ・カルチャーといったものが、これほどおおぴっらに語られるようになったのは、それほど過去のことではないようだ。ANVIL出版というフィリピンで最も信頼されている出版社から『Ladlad: An Anthology of Philippines Gay Writing』(“Ladlad”は曝け出すという意味のゲイ仲間によるタガログ語の隠語)という本が出版されたのが1994年のこと。その序文の中で、編集者のダントン・レモト氏は以下のように書いている。

「暗闇の後から、光が訪れて、窒息するほどの小部屋から出てきた後は、その暗闇が単なる影であったことを悟るのだ。“カミング・アウト”することは、それぞれの性の嗜好を受け入れること。・・“そう、何度神に祈ろうとも、何人の女性と交わろうとも、本当の私を変えることはできない。”」

 この序文によって編者のレモト氏は、当時おそらく自らゲイであることを“カミング・アウト”したように、ゲイ文学とゲイ・カルチャーを世間に向かって高らかに“カミング・アウト”したのだろう。その後この本は予想外の反響を得て、1996年に同じ出版社から『Ladlad2』が出版された。そして、いまやゲイ文学は国立フィリピン大学などでも教えられるような“メジャー”な存在になり、さらに昨年には『Ladlad3』が出版されている。

            『Ladlad』と『Ladlad2』

 そんなゲイ・カルチャーに対する世間の視線の変化を決定的に象徴づけたのが、2006年2月、国立タンハーラン・ピリピーノ劇団によって制作されたスーパー・オカマ・ヒローを主人公にしたSFミュージカル・コメディー、『シャシャ・ザトゥルナー』だ。原作はアメリカン・テイストのコミック・ブック(カルロ・ベルガラ作)。

         『シャシャ・ザトゥルナー』原作コミック

 主人公のゲイの美容師が、ある日突然空から降ってきた「ザトゥールナ」という石を飲み込んだところ、強大な力をもつ絶世の美貌のスーパー・ヒロイン「シャシャ・ザトゥールナ」に変身。「自由と真実と正義と沢山の素晴らしいヘアカラー剤を求め、彼女は新天地を守るべく、巨大ガエルや殺気立ったゾンビたち、しいては男性を憎悪する女王フェミーナに率いられたX星のアマゾニスタたちとひるむことなく果敢に戦う」(映画の宣伝より)というハチャメチャなストーリーである。社会に必要とされる微笑ましい存在ではあるが、常に弱々しいアウトローであって、決してメインストリームになりえないバクラが、ある日突然ヒーロー(ヒロイン?)になってしまうというパラダイム転換の物語だ。若者を中心にヒットして連日満員御礼。チケットを入手するのが困難な作品となり、その後何度か再演を重ねた。映画にもなって、2007年には東京国際シネフェスティバルでも公開されたようだ。

     『シャシャ・ザトゥルナー』ミュージカル・バージョン 

 ジェンダーの問題は、最も個人の内奥に属する極めて人間的なテーマだ。であると同時に、極めて社会的なテーマでもある。隣国のマレーシアでは、かつて首相候補といわれた政治家がホモ・セクシュアルの疑いで逮捕され、有罪となって失脚してしまった。スーパー・オカマ・ヒーローの活躍に沸くフィリピンは、ある意味、そうした隠微さに潔くさからい、個人の尊厳を求めてやまない、ジェンダーを巡る表現のフロンティアなのかもしれない。

(了)

2008/01/30

フィリピンでオペラ?たかがオペラ、されどオペラ

 世界第二位の経済力を誇り、日々世界中から輸入される舞台芸術に触れることのできる日本ですら、いまだに上流階級の道楽とも揶揄されることのあるオペラ。そんな先進国のステイタスシンボルともいえるオペラだが、なんと貧困と社会不安にあえぐこのフィリピンにもちゃんと存在する。1月の2度の週末を使って、この国のオペラ関係者やオペラファンの夢を担う公演がフィリピン文化センター(CCP)で行われた。演目はヨハン・シュトラウスの代表的なオペレッタである『こうもり』。たまたま客員で訪れていた韓国人指揮者以外は、ソリストなど出演者、演奏家、スタッフ全員がフィリピン人である。CCP主催で行われるオペラ公演、つまりちゃんと舞台装置があって歌手が衣装を着けて演じるもの、としてはほぼ1年ぶりになる。CCP以外にまずオペラ公演を行えるところはないので、ここでの公演がこの国のオペラ公演の全てである。私が知っている限りでは、“公演”とまではいかなくても、コンサート形式や、衣装を着て多少の演出付きで上演するオムニバス形式の演奏会は年に数回ある。1年に1作品とはいっても、この国を取り巻く様々な厳しい環境の中で、こうやってフルのオペラ公演を打つということは相当な覚悟が必要なはず。このフィリピンで、オペラにこだわる理由は一体何なのだろうか。ちょっと調べてみると、この国のオペラには、“存在する”以上の物語があるのがわかってきた。

 グランドオペラは、演劇、音楽、そして美術が一体となった文字通りの総合芸術だ。私もかつて日本のオペラ『夕鶴』(団伊玖磨作曲)の海外公演を制作したことがあるが、おそらくオペラの醍醐味は、一つの作品を構成するたくさんの要素が、長い準備の過程を経て最終的に重なり合い、共鳴する瞬間にあるのだと思う。本番公演に向けて芝居と歌、オーケストラ演奏、合唱、舞台装置や照明、衣装の製作などがそれぞれ別個に進められるが、それら全てが一つに集まり、いよいよ全貌がわかるのが公演本番の直前だ。つまりそれまでは誰も実際にどんな作品になるか確証がなく、各々のイマジネーションの中での作業が続く。だからこそ、最後に完成したものを目の前にした時は、何とも表現できないくらい感動することがあるのだろう。そんな創造過程のダイナミズムが観客にも伝わって、世界中の多くの人を魅了しているのだと思う。

 だけど実際問題、それだけ様々なジャンルで多くの人間が働くため、多額の資金を必要とするのは事実だ。『夕鶴』の時には中央アジアのウズベキスタンとカザフスタンで公演を行ったが、日本から演出家、指揮者、ソリスト6名はじめ総勢約30数名の公演団が12日間ほどツアーし、現地の交響楽団や合唱団と共演した。合計4回の公演で観客数は全部で約3500名。それでかかった経費は7000万円だった。ウズベキスタンなどは当時の閣僚全員や大統領一家が観たし、おそらく歴史に残る名演だったと自負はあるが、経費のことを考えるとそう何度もできることではないだろう。先進国なのにオペラハウスの一つもないと時にばかにされていた日本だが、1997年になってようやく国立のオペラハウス(新国立劇場)が完成した。年間予算は劇場の運営費・人件費など込みで80億円、うち純粋な公演にかかる経費が30億円。この予算でオペラ、バレエ、現代演劇の公演が行われていて、平成19年度のオペラの場合は10作品で44回の公演が行われている。欧米先進国に比較して貧弱な予算とはいうが、無論、フィリピンから見れば天文学的予算が使われている。

 パフォーミングアーツの素養に恵まれ、19世紀末より米国の植民地であったフィリピンは、アジアでも最も欧米に近いモダンな文化を謳歌していただけに、近隣の国に比べてもオペラの歴史は長く、これまでに多くの歌手が世界の舞台で活躍してきたのには驚かされる。1900年代から1930年代にかけてオペラはマニラでも人気の娯楽で、1931年にオープンしたメトロポリタン劇場などが本拠地となった。ちなみに今もこの劇場は当時のまま残されており、マニラ市の肝いりで修復計画が着手されたが、未だ廃墟のようだ。

             メトロポリタン劇場

 1920年代にはフィリピン人のソリストが海外のメジャーなオペラで活躍するようになる。特にパイオニアとして歴史に名を残しているのはジョビータ・フエンテスというソプラノ歌手だが(1976年に人間国宝に認定)、1925年にイタリアのピアチェンツァ歌劇場で『マダムバタフライ』の蝶々さん役でデビューし成功を収めた。なんでも小柄な美女だったようで、西欧人からはエキゾチックな蝶々さん役として適役に思われたようだ。同時代、後に日本のオペラの黎明期を築いた藤原歌劇団の創設者である藤原義江は、日本を代表するテノールとして1920年にミラノに渡り武者修行を開始し、1931年にはパリのオペラ・コミック座で『ラ・ボエーム』の詩人の役で舞台に立っている。同じ“極東“の小国から海を渡り、オペラの本場で果敢に挑戦する二人。もしかしたらどこかの劇場で出会っていたかもしれないなどと、ちょっと楽しい想像も可能だ。

              ジョビータの伝記

 その後フィリピンのオペラは戦争中を除いて1970年代までは盛んだったようで、1980年代から斜陽が始まったと言われている。しかし現在でも海外で活躍している歌手は多く、と言うより、優秀な歌手ほど海外でしか活路を見出せないという悲しい現実はあるが、例えばオトニエル・ゴンザガというテノールは、1980年代にフランクフルト・オペラのソリストとして活躍し、その後は三大テノールのプラシド・ドミンゴのサブを務めるほどの実力者で、『オセロ』のタイトルロールがあたり役である。

フィリピン唯一のクラシック音楽専門誌の表紙を飾るゴンザガ

 周りの東南アジア諸国を見回すと、オペラカンパニーが存在する国などは、かつてはこのフィリピン以外にはなかった。だが昨今はそんな東南アジアのオペラシーンもかなり様変わりしつつあり、1990年にシンガポール・リリック・オペラ、2001年にはバンコック・オペラ、そして2003年にはリリック・オペラ・マレーシアが相次いで旗揚げしている。こうした国では経済成長に支えられて中産階級の層が厚くなり、立派な劇場やコンサートホールが新しくできた。特にシンガポールでは、2002年にエスプラナードという複合文化施設が総工費約450億円をかけて完成し、2000人収容の劇場と1500人収容のコンサートホールがオープン。国際スタンダードを備えた劇場として、海外の一流のアーティストを招聘できる体制が整った。最近ではフィリピンのオペラ歌手もよくシンガポールに“出稼ぎ”に行くことが目立つようになっている。自分たちの国の舞台環境から見れば羨ましい限りのぴかぴかのコンサートホールに立って、かつては東南アジア唯一のオペラ先進国であった過去の栄華に思いを馳せながら、一体彼女たちはどんな思いで歌っているのだろうか。オペラがあるということは、取りも直さず経済的な成功を収めたゆとりの証。社交界の花形としてのレゾンデートル。経済的にだいぶ遅れを取ってしまったフィリピンに帰れば厳しい状況が待っている。

 とはいえ、まだまだあきらめてしまったわけではない。サント・トーマス大学というアジア最古の大学内に設けられたコンセルバトワールは、昔も今もオペラ歌手を目指す若きアーティストの登竜門だ。現在は11名の声楽の教授陣のほか、ピアノから楽理、ジャズまで総勢120名を超える講師スタッフを擁する、間違いなく東南アジア最大の音楽教育機関である。また今回の『こうもり』でも演奏を務めたサント・トーマス大学交響楽団は、1927年に設立された由緒あるオーケストラで、国立フィリピン交響楽団に楽団員を提供する育成部門を担っていて、いわば半国立の大学交響楽団だ。なおこの国でオペラを学ぶには、サント・トーマス大学の他に国立フィリピン大学の音楽学部、そして民間で頑張っているのがフィリピン・オペラ・カンパニーで、随時ボイストレーニングのコースがある。

             サント・トーマス大学

 さて肝心の『こうもり』のできだが、正直に言えば素人の私でさえちょっと聞いていてつらくなるような部分もあった。『こうもり』はウィーン国立歌劇場が毎年必ず大晦日に豪華キャストで上演するという演目。19世紀後半のオーストリアの社交界を舞台にした上流階級夫婦の浮気話を核に、騙しあいの可笑しさに満ちたドタバタ、ハチャメチャな喜劇で、お祭り好きでちょっと浮気性のフィリピン人にはぴったりの演目だ。まあ喜劇だからウェトなところはないけれど、ソプラノ、テノールともにもう一つぐっとくるところが無かったし、このオペラの粋ともいえる優雅なウィンナワルツを演奏するにはオーケストラが完全に力不足ではあった。

 それにしてもオペラに対する情熱を失わず、希望を持ち続ける人々がいるのには感心する。国からの資金援助がほとんどない中で、公演のために駆け回ってスポンサーを集め、なんとかオペラを絶やさない努力を続ける姿には頭が下がる。1960年代まではアジアの優等生で1970年代以降は凋落の一途、とは経済の世界でよく言われることだが、この国のオペラがたどった歴史も経済的停滞と平仄をあわせるかのようであった。けれども現在、国民の3割が貧困であると自己認識している格差社会を抱えるフィリピンだけれど、その一方でこうした夢を持ち続ける人たちもいる。文化を扱う仕事をしていると時に確信に近く思うことがある。文化や芸術も、澄んだ空気や清潔な水など衣食住と同じように、我々が生きていく上で最低限必要なベーシック・ヒューマン・ニーズなのだと。ましてやそれが人々の誇りに触れるものであればなおさら、それを捨て去ることはできない。逆説的なようであるけれど、その意味で時に蕩尽を象徴するオペラこそが、自分たちの誇りを支えるベーシック・ヒューマン・ニーズだと考えている人々もいるのだ。

 多くの人々が待ち望むように、我々の魂を揺すぶるような真にダイナミックなオペラの復活を願っている。いつの日かCCPの大ホールで、フルスケールの『トゥーランドッド』が上演される時がやって来るのだろうか。『マダムバアフライ』のタイトルロールを、満場の喝采を浴びて歌い、演じる素晴らしいソプラノ歌手が再び誕生することがあるのだろうか。私がマニラを去った後にもしそんな時がやって来たら、またこのマニラを訪れて、その祝福の舞台をぜひ見届けたいと思っている。
(了)

2007/12/25

世代を超えた憂国の思い、若い作家たちへのメッセージ

 演劇、映画や美術などと違って言葉の壁もあり、なかなかリサーチする機会の少ない文学。そんな文学の歴史から現在までを学び、多くの主だった作家と知り合うまたとない機会が訪れた。フィリピン・ペンクラブ50周年記念のシンポジウムが開催され、フィリピンの代表的作家が全国から世代を超えて集まり、歴史的なイベントとなった(12月8~9日、国立博物館)。うちの事務所でも日本から若手女性作家の中上紀氏を招待して、2日間のディスカッションに参加した。

 このペンクラブを創設以来50年間にわたって牽引し続け、今回もオーガナイザーとして貢献したのがフィリピンの国民的小説家シオニール・T・ホセ氏である。

 ナショナル・アーティスト(人間国宝)でもあるホセ氏は、83歳にしてなお現役ばりばりで、つい先頃も新作の長編小説を出版したばかりだ。1880年代のスペイン植民地時代末期から、1972年のマルコスによる戒厳令布告前夜まで、約100年にわたるフィリピン史を背景にした大河小説5部作が有名である。特にその5部作の中で、時代的には4番目にあたる『仮面の群れ』(原題『The Pretenders』、1962年出版、1984年めこん社より翻訳出版)は、第二次大戦後、ルソン島の片田舎からマニラに上京し苦学して上流階級の仲間に加わった主人公が、社会に対する理想と、腐敗にまみれた偽善との間で葛藤し、最後には自らの命を絶つというストーリーで、彼の代表作として28カ国もの外国語に翻訳されている。私も20年前、まだ国際交流基金に入りたての頃に日本語版を手に入れ、ピュアーな“フィリピンの良心”に触れて一気に読んだのを覚えている。思いあまって青山にある翻訳者の山本まつよさんの事務所を訪ね、部屋中に置かれたフィリピンの民芸品や山積みとなったフィリピン関係の本に心躍らせたのを鮮明に記憶している。

 『仮面の群れ』の続編にあたる『民衆』(原題『MASS』、1983年出版、1991年めこん社より翻訳出版)は、『仮面・・』の中で自殺した主人公の私生児を中心にした物語だが、やはり父親と同様に苦学して頭角を現して上流階級からの誘惑を受けるが、父親とは別の道を歩む決心をして、1960年代末に盛り上がった民衆運動にその身を投じてゆくというストーリー。当時の民衆運動とマルコス政権の弾圧事件を題材に生々しく描いた勇気ある小説として有名だ。「訳者あとがき」にある通り、1976年にこの本を書き終えた後、しばらくはマニラで出版することは不可能で、英語で書かれた原作をわざわざオランダ語に訳して出版したのが1982年。19世紀末の体制批判の小説である『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』の初版が、ドイツでスペイン語版として出版されたことを思い出させるエピソードだ。結局ホセ氏が当局に逮捕されるという事態には至らなかったが、終始、監視や盗聴、そしていやがらせを受け続けていたという。インドネシアには、スハルト政権に立ち向って権力を告発する作品を発表し、インドネシアのソルジェニーツィンと言われたプラムディアという作家がいるが、植民地体験を経た東南アジアの国々には、ずしりとした反骨精神に裏打ちされた誇り高い作家たちがいる。

 ホセ氏は小説家であると同時に、フィリピンの文学界にとって無くてはならないプロデューサー的な存在でもある。マニラ中心部のエルミタ地区に、いまもなおラ・ソリダリダッドという有名な本屋を経営している。店の名前は19世紀末にスペインで発行されてフィリピン独立運動のオピニオンペーパーとなった『ラ・ソリダリダッド』という新聞の名前に由来する。この国で最も充実した硬派の本屋だ。さらにその本屋はペンクラブの事務局も兼ねていて、毎月最終土曜日には文学者の集まりや詩のリーディングがあって重要なサロンとなっている。今は休刊中だが『Solidarity』という月刊の文学・評論誌を35年にわたって出版し続け、アジアの代表的作家、インドネシアのモフタル・ルビスやタイのスラック・シバラクサなども紹介してきた。今の中堅作家に彼ほどの奉仕精神と行動力を備えた者はおらず、残念ながらアジアの作家のネットワークは20年前と比べて進歩しているとは言い難い。いわゆる植民地根性に対して辛らつに批判する正統派ナショナリストで、欧米や日本といった海外の資本と結託してフィリピンの富を独占する上流階級についても、“大泥棒”と言ってはばからない。毎年のように日本を訪れる彼は、伝統文化からポピュラーカルチャーまで広く日本通としても有名で、その辛口な批判は常に的を得ている。

 さて今回のシンポジウムのテーマは、「文学、国家、そしてグローバライゼーション」。スペイン、アメリカ、日本と、約400年にわたって外国からの支配を受け入れてきたフィリピンの人々にとって、ナショナリズムや愛国心は心の琴線に触れる重要なテーマである。そもそもフィリピンで最も人気のある国民的ヒーローであるホセ・リサールも作家であり、スペイン植民地体制の時代を批判的に描いた彼の代表作である『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブリテリスモ(反逆者たち)』は、いわばナショナリズムのバイブルである。

 今回のシンポジウムに集った作家たちの中で最高齢はホセ氏の83歳だが、彼以外にも50年前のペンクラブ創設時からのメンバーの何人かが参加した。その世代にとっての外国支配といえば、1942年から1945年の間にこの国を統治し、はかりしれない犠牲をもたらした大日本帝国である。その意味で、創設メンバーの一人であり著名な劇作家でもあるアメリア・ラペーニャ・ボニファシオさんが、「ペンクラブの思い出」と題したスピーチを山下将軍の処刑の話から切り出し、「私は戦争の生き残りとして(作家としての)人生をスタートした」と語ったのは象徴的だった。

 しかし彼ら創設メンバーに続く世代、現在60代から50代の作家たちにとってのナショナリズム、愛国心とは、かたちとしては独立を果たしたものの、実際には旧態依然の植民地的な負の遺産をひきずって苦悩する祖国に対する憂いである。特にマルコス政権時代、1972年の戒厳令前後の言論の冬の時代に活動していた中堅作家たちは、今この国の言論界の中枢を担っているが、その迫害の時代にいかに権力に対峙して抵抗をつらぬいたか、または権力に擦り寄ったかで、いまに至って本当の尊敬をかちえているかどうかがわかるのだ。セブアノ語詩人として著名なミンダナオ生まれのドン・パグサラは、マルコス政権に幽閉された時のことを詩に描き、牢獄からわが子を思う哀歌をせつせつと歌った。また同じくミンダナオ生まれの作家であるホセ・ラカバも、やはりマルコス政権時に捕らえられて拷問を受けた経験を詩にして朗読した。いずれの作家も今は多くの人々から尊敬を集めていて、この国の言論界の抵抗の歴史を象徴する影のヒーローであるとも言える。逆に、マルコス時代にそのスポークスマンを務め、当時若干29歳で情報省長官に抜擢されたある作家も長々と演説をぶっていたが、私の友人は冷ややかに見つめて苦笑いをしていた。ちなみにマルコス政権の戒厳令時代には、こうした文学者の集会には必ず情報省のスパイがウェイターなどに変装して潜り込んでいたという。そして、今の政権だってやりかねないことだと言う。ジョークにしては笑えない、ちょっと不気味な話だった。

 今回のシンポジウムに唯一海外から参加した日本の中上紀さんは、ご存知の方も多いと思うが故中上健次氏の長女で、つい先ごろまで基金の雑誌『をちこち』でエッセイを連載していたこともある新進気鋭の作家だ。アジアをテーマにした小説やエッセイが真骨頂で、北タイを舞台にした叙情的でミステリアスな小説『彼女のプレンカ』(集英社文庫)で、1999年のすばる文学賞を受賞している。今回縁あってマニラに招待することとなり、日本から何冊か取り寄せて読んでみた。作品の舞台となっているタイやインドネシアは私も駐在していたし、紀さんが最も愛しているというミャンマーは、私も仕事で二度ほど訪れたことのある懐かしい場所だ。1999年にはヤンゴンやパウンデーという地方都市で、ペーザーやパラバイと呼ばれる古文書の調査をしたのが昨日のように思い出される。その土地の空気と匂いが伝わってくるような彼女の作品を読んでいると、もう一度自分がその場所にいるような錯覚を覚え、とても楽しい体験だった。

 中上さんとマニラで会ってから聞いた話なのだが、彼女は彼女なりにこの国に来る理由があって、今回の招待についても快く引き受けてくれた。25年前の1982年、まだ彼女が12歳のとき父親に連れられてこのフィリピンを訪れた。彼女にとっては初めての日本以外のアジア体験だった。そして当時中上氏がここを訪れた理由の一つは、フィリピンの友人に会うためであったという。しかしその友人、アントニオ・マリア・ニエバは当時のマルコス政権を批判したために投獄されていて、結局会うことができなかったそうだ。あとで調べてわかったことだが、ニエバはこの国のナショナル・プレス・クラブの創設者で反骨のジャーナリストとして著名だが、既に亡くなっている。その後中上氏も1992年に46歳の若さで亡くなっていて、二人で語り合ったというアジアの作家による雑誌の出版は夢のままで終わってしまった。

 中上健次氏の生れ故郷は、紀伊半島の神宮市。人間の煩悩や罪深さを濃密に描いた『岬』や『枯木灘』は、いまも私たちに強烈な個性で訴えてくる。その小説の舞台となった熊野の南を流れる黒潮は、あの柳田國男が『海上の道』で描いた、南の島へつながる海流だ。フィリピンは、その黒潮の起点である。もしかしたら中上氏は、遠い記憶としての南の島々とのつながりを、その体のどこかに持っていたのかもしれない。それでアジアの作家との交流を夢に描いたのだろうか。そしてその娘の紀さんは今、彼女の言葉で表現すれば、“海の距離感の視点”を持って、そんな父親のやり残したことに挑戦しようとしているようにも見える。そもそも作家になった動機も、父親の死であったという。失ったからこそ必要に迫られた自分のルーツ探し。自身自身のルーツをたどり、父親を追って、このフィリピンを再訪したともいえる。

 今回日本から作家を招待するにあたってホセ氏が望んだことはたった二つ。英語ができることと、若いということ。紀さんは30代の“若手”作家だが、83歳のホセ氏にとっては私すら孫の世代だ。そしてシンポジウムには、彼にとって孫や曾孫の世代にあたる若い作家たちも大勢集まった。40半ばで中国系の英語小説家として第一線で活躍するチャールソン・オンや、30半ばで実力派若手タガログ語作家のニコラス・ピチャイなど、みな次の時代を担う人々だ。会議も終盤に近づいた昼食の席で、ホセ氏がスピーチを行った。

 「・・・熱意にあふれ希望に満ちた若者よ、どうかこの老人が何度も何度も言ってきたことを繰り返させてくれ。半世紀も前、我々はこの国の汚職や下劣な政治に堕落することはなかった。我々は東南アジアの優等生だった。・・・しかしその後一体何が起こったのか?

 我々はみな知っている。植民地主義がいまだ終わっていないことを。それどころかこの国には内なる植民地主義が破滅的にはびこっている。・・植民地主義とは搾取である。見せかけがどうであろうと、キリスト教や民主主義や文明を装っていたとしても、忘れてはならない。植民地主義は悪徳だ。

 いま広がっている世代間のギャップを埋めなくてはならない。旧世代の作家たちは、親切ぶった態度や自らの業績をみせびらかすことなく、若い世代の作家たちに接し、若い作家たちは、先輩を知り鬼才から学び、先人の築いた瓦礫の山を再評価しなくてはならない。そして作家たちによる世代を超えた堅固なコミュニティーを作って、未来をつくる目標を分かち合っていってほしい。・・・」

 「告別の辞」と題したスピーチは、半世紀以上にわたってフィリピンの歴史を、民族の記憶をつむいできたホセ氏の遺言のようにも聞こえた。そんなホセ氏の最後の思いを聞きながら、フィリピン・ペンクラブ50周年という歴史的イベントの幸運な一人の目撃者として、次の世代への橋渡しのために少しでも何かできないだろうかと思いを巡らせていた。
(了)

2007/12/13

ビデオカメラとペンを手にした若きスルタンの末裔

 たまたま目を通した新聞の記事がずっと気になり、切り抜いてファイルにした後もそこに書かれている主人公のことが常に頭のどこかにあって、いつかは会ってみたいと思いつつも時が過ぎ、それが言ってみれば“潜伏期”となり、そして最終的にようやく当の本人との出会いがやってくる・・なんてことがたまにはある。グチェレス・マンガンサカン2世、通称テンとの出会いも、1年前の一つの新聞記事が発端だった。その記事の中で31歳の若きフィルムメーカーとして紹介されているテンは、ミンダナオ島でもイスラム教徒が最も多い地域、マギンダナオの出身でスルタンの末裔である。ミンダナオの人々、特に若手のアーティストや研究者との交流を目指す私としては、機会があればぜひとも彼と仕事がしたいと思っていたが、今回ようやくその好機が訪れた。アジア地域の次世代の若者たちによるセミナーが、国際交流基金の主催で日本で実施されることとなり、フィリピンから2名の代表を送ることとなった。私は迷わず1年前の新聞記事を引っ張り出し、テンを派遣することに決めた。(12月17日に早稲田大学小野記念講堂にて公開シンポジウムが実施される予定)

 彼はマギンダナオの著名なスルタンの家系。いわばフィリピンにおけるモスレムの保守本流、メインストリームにいる一人だ。そんな彼が一体映画で何を撮っているのか、どうして映画なのか、最初は単純な疑問だった。しかし調べていく内に、彼が背負ったものの重さや恐ろしさ、それがためのこれまでの数知れない葛藤、そして決意の真摯さに心を打たれないではいられなかった。この世界を覆う“民族紛争”や“宗教紛争“、その一翼を担うミンダナオの内戦。もし自分がその戦争の指導者の血を引いていたとしたら、この世界は一体どのように見えるだろうか。どう見ることが許されるのだろうか。

 テンの祖父、ダトゥー・ウトック・マタラムは著名なモスレム・リーダーで、1940年代後半と1960年代に、ミンダナオのコタバト州の州知事を務めた。1960年代後半になると、フィリピン全土で共産主義運動や学生運動が盛んになり、その影響を受けてモスレムによる民衆運動も盛り上がった。当然そうした民衆運動の中心にいたダトゥー・マタラムは、1968年に起きたモスレム虐殺事件を契機に、急速にフィリピン政府からのモスレム独立を求めるようになり、その同じ年に「ミンダナオ独立運動(MIM)」を創設した。つまり彼の祖父は、それ以来今日まで40年にわたって続いているミンダナオ・モスレム独立運動の基礎を作った人なのだ。

 新聞で紹介されていた彼のドキュメンタリー映画『House Under the Crescent Moon』(2001年)は、その祖父が建て、テンを含む多くの家族とともに暮らした、故郷の大きな赤い家の物語である。上述したMIMは、まさにこの家で産声をあげた。そしてその8年後の1976年にテンが生れたのもこの家だが、その時代はMIMの運動を受け継いだ「モロ民族解放戦線(MNLF)」と政府軍との戦闘が最も激しかった時代だ。その後ダトゥー・マタラムはテンが6歳のときに亡くなり、テン自身もその家を離れて都会で学校に通うことになった。そしてその赤い家はしばらく彼の記憶から失われた。マニラの大学で映画を学んだ彼は久しぶりに帰郷してその赤い家を訪れたが、そこで彼の見たものは、当時内戦が激化して多くの難民の避難所となり荒廃した家の姿だった。テンは我を忘れたようにその姿を記録し続けた。そうしてできた映画が『House Under the Crescent Moon』だ。このルーツ探しのドキュメンタリー映画は彼の記念すべき処女作となり、フィリピン文化センターからその年の優秀映画賞が与えられた。

 そんな彼の最新作が、ちょうど先ごろマニラで公開された。「コントラ・アゴス(反潮流):レジスタンス・フィルム・フェスティバル」という、かなりきわどい検閲すれすれの作品を集めた映画祭で、会場はいまやインディーズ・シネマのメッカとなったショッピングモールのロビンソン・ギャラリア(2007年12月5~11日)。作品のタイトルが『The Jihadist(聖戦主義者)』。『House・・』では彼の祖父がテーマだったが、今回は彼の叔父ハシム・サラマットが主人公だ。サラマットは、モスレム分離独立運動の中でもより“過激”だと言われている「モロ・イスラム解放戦線(MILF)」の創設者として有名だ。1960年代にカイロのアル・アズハル大学で学んだ知的エリートであったが、当時フィリピン大学で講師をしていた俊才のヌル・ミスアリとともに、1970年、モスレムの独立を目指して「モロ民族解放戦線(MNLF)」を結成した。その後、フィリピン政府との妥協を目指すMNFLとは袂を分かち、1977年にMILFを結成して政府との対決色を鮮明にした。MILFは彼の死後、「アブ・サヤフ」など原理主義的なグループとも接近するようになり現在に至っている。映画ではそんな叔父サラマットの足跡をたどり、彼の築いた村、そして今では内戦の傷跡が深く刻まれた村を訪れ、村人のインタビューを通して、イスラムの指導者としての純真な姿を描いてゆく。

 『House Under the Crescent Moon』と『The Jihadist』は、ともに彼の親族の足跡をたどるルーツ探しの物語だ。祖父も叔父も人々の記憶に残る、そして今後もこの国のモスレムの歴史に名を残す、独立運動のリーダーであり闘士であった。しかしテンが映画の中で描いているものはそうした独立の英雄の物語などではなく、内戦で荒廃した家や土地、そして戦争被害で心に傷を抱えた人々の心に写し出されるある種虚しさのようなものではないかと感じた。

 「コントラ・アゴス」ではテンの作品以外にも、彼がプロデュースして他のフィルムメーカーが撮影した現代のミンダナオをテーマにした短編作品が合計7本も公開された。その中でも『Walai』(アジャニ・アルンパック監督)という作品は、コタバト市の有力なスルタン一家の栄華と抗争、そして没落と苦悩を描いた秀作だ。世間の人々はミンダナオのことを宗教紛争や民族紛争のメッカと言っているが、こうした作品を見ると、実はその抗争の多くが地元の政治的または経済的な利害関係に由来した、極めて具体的な怨恨から生れているということがよくわかる。いずれにしてもテンの存在は、いまや多くのミンダナオの若手アーティストを動かす原動力になっているようだ。

 さらに彼はプロデューサーとして、もう一つ重要な仕事を最近やり遂げた。彼が編集者となって『Children of the Ever-Changing Moon: Essays by Young Moro Writers』(Anvil出版)というアンソロジーを出版したのだ。16人のミンダナオの若手ジャーナリスト、アーティストや教師らによるエッセイだが、これが現代のモスレム社会の様々な揺らぎを率直に表現していて大変興味深い。親の反対を押し切ってキリスト教徒と結婚をする話、イスラム風の名前に対する偏見と恥じらい、同じモスレムでも父方と母方が異なる民族的出自を持っているがために起こるアイデンティティ喪失の問題、イスラム教徒のゲイに向けられた偏見、超保守的な土地で育った女性モスレムの教師への険しい道のり、生れて初めて故郷のモスレムの土地タウィタウィを訪れた夢のようなひと時、マニラのイスラムコミュニティーの生活などなど、どの物語も今を生きる若いモスレムたちの本音がとてもよく伝わってくる。

 その中のエッセイの一つ、モスレムの女性としてはとても珍しいことだが、マニラを拠点とする大手新聞社でジャーナリズムのメインストリームで活躍するサミラ・アリ・グトックの作品から。マニラの大学で教育を終えて、モスレム独立運動に希望を抱いて帰郷した友人が経験した挫折感を次のように書いている。

「私の友人は生れ故郷のラナオの町に、モロ(イスラム教徒)として誇りをもって帰郷した。しかしその後私が彼女に会った時、彼女は大きなフラストレーションに直面していた。モロ民族のために、その闘いのためにと思っていた理想は、そこに住む人々の間に見つけることができなかった。そのかわり、彼らは保守的で、すぐ誰かに頼る弱い人間で、無関心で腐敗していた。」

 テンの祖父たちによって起こされたミンダナオのモスレム独立運動。40年を経た今日、その理想と希望はあまりにも多くの挫折と裏切りと腐敗と怨恨に侵されてしまったのだろう。しかしそんな理想にまとわりつく空虚さを一端受け入れた上で、そこから何かを始めようとしている若い人たちも確かに存在する。このアンソロジーからはそうした人々の息使いが十分に感じられる。そして10年前にはおそらくタブーだったことも、今、ようやくこうして30歳前後の若きモスレムたちによって発言され始めている。

 テンの子供のころの夢は医者になることだった。それが大学時代に出会った小津やフェリーニといった外国映画でその後の人生が変わったという。そして医学をあきらめた彼は映画を勉強してドキュメンタリーを撮り、こうしてミンダナオの若手アーティストのコミュニティーの中で重要な位置をしめるようになった。モスレムの伝統の核心を受け継ぐスルタンの末裔、そしてミンダナオ独立運動の戦闘家の家系。そんな彼には普通の者にはない威厳すら漂っているが、気になるのは話している間もほとんど笑わないことだ。

「人々の心の中にある不条理な怒りや恐れ、そして偏見を癒す苦くて甘い薬、私の映画や書き物がそうなることを願っている。そうなれば、かつて私が子供の頃に医者になりたいと思い描いたように、人々の心を癒すことができるだろう。」

 生まれながらにして数奇な宿命を背負い、暗い民族の記憶からおそらく逃れることのできない彼にとって、カメラとペンは彼なりの最後の抵抗の手段なのかもしれない。
(了)

2007/11/26

美しい多島海の島々と文化交流

 私の事務所は日本人とフィリピン人合わせて総勢10人ちょっとの小さな事務所だけれど、自分の部屋にはフィリピンの全国図が貼ってあり、7,000の島々からなるこの国の地図をいつも眺めながら、「ボロは着てても心は錦・・」などと心の中で歌いながら、なるべく多くの地方都市で日本文化を、そして日本語を紹介したいと日々想像力を働かせている。

 インドネシアにいた時もそうだったが、多くの島に分かれているということは、それだけ文化的な多様性に富んでいて、島ごとに様々な特徴があってそこを訪れるのが楽しみだ。でもとにかく色んな島に“分断”されているので、タイのようにバスでどこでも行けるわけではなく、正直いって仕事という意味ではなかなか大変なところだ。中でも多くの島々が集中するのが中部ビサヤ地方である。ここは島と海、そしてその島々を大小の船で行き交う人々が暮らす地域だ。そしてその島々にも私たち日本人の紡いできた物語がたくさんある。このブログではこれまでに、北ルソンのバギオやミンダナオについて紹介してきたので、今回はこのビザヤ地方について書いておきたいと思う。

 この地方の人々の言語は公用語のタガログ語とは異なる。フィリピンは10の主要言語の他に、100以上もの少数言語がある多言語国家だが、国語として指定されているのはタガログ語のみ。ビサヤ地方ではビサヤ諸語と総称される言葉が話されていて、タガログ語に次いで言語人口の多いセブアノ語を話す人は、実に1,800万人に及ぶという。英語が公用語の国ということが強調されるけれど、もう一つの公用語であるタガログ語のほかに、多くの国民が自分たちの母語(ローカル言語)を持っていて、半数以上の国民がそれら3つの言葉を話す、いや話さなくてはならないということは驚きである。

 そんなビサヤ地方の中心といえば、何といってもセブアノ語の本拠地であるセブ島。州都セブ市の近郊にあるマクタン島には5つ星クラスの豪華ホテルとプライベートビーチが連なり多くの観光客を集める。青い海と白い砂浜、美しい珊瑚礁にダイビング。まさに別世界。フィリピン人の誇る観光資源を代表するリゾート地で、フィリピンといえばあまり良いイメージの浮かばない日本人にとっても、セブは別格。そんな土地柄だけあって、ここには多くの日系企業も進出していて、現在合計で約100社。日本人商工会議所や日本人会(会員数220人、2007年1月現在)、そして日本大使館の駐在員事務所もある。

 さらには、最近徐々に増えてきている「退職者ビザ」での永住者が多いこともここの特徴で、フィリピン全体で約1,500人の退職者ビザ取得者の内、4割がこのセブに住んでいる。ちなみにこの特別ビザは、フィリピン政府の肝入れもあって他の東南アジア諸国と比べてかなり取得しやすくなっており、いまや1万ドルの現金を銀行にデポジットすればほぼ誰でも取得できる。注意深く協力者を見つけて安全な定住場所を選べば、英語が通じて物価の安いこの国では、年金生活でも結構な第二の人生がおくれるのだ。広々としたアパートに暮らし、フレンドリーな人々に囲まれて、時々ゴルフなどを楽しみ、気が向いたら日本へ一時帰国して温泉にでも行く・・まあ無論そんな夢みたな話ばかりではないけれど、それに近い暮らしをしている日本人が結構いるのだ。

 さてそうした日本人コミュニティーの支援を得て、セブでは日本文化を紹介する機会が比較的多くある。私が着任してからも、市内中心部のショッピングモールで日本映画祭を2度ほど開催したり、2006年1月には世界各地で活躍する日本を代表する和太鼓グループ、倭の公演も行うことができた。またここは日系企業、特にIT企業による日本語の企業内研修が盛んで、日本語への期待が大きい。毎年全世界で実施する日本語能力試験では、フィリピン国内3ヶ所が会場となっているが、ここはマニラに次ぐ受験地で(もう1ヶ所はダバオ)、近隣の島からも受験生がやって来る。さらにここの日本人会では、戦後の日比混血児“ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン(JFC)”への支援をいち早く開始し、昨年「新日系人ネットワーク」という組織を立ち上げて全国規模で運動の先頭に立っている。日本との絆が強い場所の一つである。

 前述の通りセブ周辺ではセブアノ語というタガログ語に次ぐ言葉が話されていて、タガログ語が支配的なマニラ首都圏や、それとほぼ同じ意味の“中央”に対する対抗意識が非常に強い。そしてそのセブで、日本人が増える傾向はこれからも続くと思われる。その意味で、ここはマニラとは異なる地方の視点から、新たな日比交流のモデルが生まれてくる可能性のある町として今後も注目をしている。

            セブ公演を行った和太鼓倭

 セブに次いで重要な都市もいくつかある。ビサヤ地方の西部に位置するパナイ島。その中心都市がイロイロで、フィリピンの多くの地方都市がそうであるように、ここもたくさんの大学が集まる学園都市だ。パナイ島はもとより、ビザヤ地方の他の島々やミンダナオ島からも学生がやって来る。そんな多くの若者で活気にあふれた町の中心的な大学である西ビサヤ国立大学で、先ごろ国際交流基金の共催で日本映画祭が開催された(2007年11月23日)。

 イロイロを訪れるのは初めてだが、ここは歴史遺産の町として有名で、今回はそれを観るのも楽しみの一つだった。もともと19世紀後半より砂糖産業が盛んになり、イロイロはその積出港として発展した。町には20世紀初頭以降に建築されたショップハウスや倉庫、そして豪華な邸宅から普通の民家まで、多くの建築物がオリジナルの状態で残されていて、古き良き時代のノスタルジーと、現代の喧騒が混沌となった独特な雰囲気のある町だ。ただし最近はマニラと同じような巨大ショッピングモールがいくつも作られ、どこにでもあるファーストフードのチェーン店が急増し、古きよき面影を伝える建築物はじょじょに肩身が狭くなる一方のようだ。行政による本格的な町並み保存の計画もなく、住民や専門家主体の運動もほとんどない。日本や他の国での町並み保存の運動とその成果について、機会があったらぜひ伝えてみたいと思った。

 そんなイロイロにもかつて多くの日本人が暮らしていた。このブログでも何度も紹介しているバギオの道路建設が1905年に一段落した後、多くの日本人がフィリピン全国に散らばり、この町も定住先の一つとなった。1919年には日本人会、1928年には日本人学校が開設されている。太平洋戦争前夜には600人を超える日本人が生活していたが、ビサヤ地方らしくその三分の一が漁師だったという。当時の面影をしのぶ建物もいくつか残されていて、町の中心部には日本人が経営していた雑貨商店“村上バザール”のあったショップハウスもいまだ健在だ。

        村上バザールの面影を残すショップハウス
 
 そして戦時中は海上交通の要、そして砂糖という戦略物質の調達のため、日本軍の司令部も置かれていた。いまその司令部に使われていた建物は、国立フィリピン大学イロイロ校となっている。戦況が悪化すると、日本軍はこの町を放棄して山中に撤退したため、マニラやフィリピン各地の多くの町のような戦闘による破壊は免れたという。この国はどこへ行っても、日本人とのつながりの痕跡、そして戦争の記憶が残されている。

 日本の敗戦でこの町に住めなくなった日本人の多くは、その後祖国へ帰国したが、少数であるが戦後もここに残って住み続けている日本人の子孫もいる。また、1980年代以降増えた日比国際結婚でやって来た日本人や、その子供たち“ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン”が相当数いる。そして今では大学で日本語を教えている日本人や、ここを定年後の第二の人生の地と選び退職者ビザを取得して定住する人など、様々な日本人が暮らしている。映画祭で訪れたこの町で、こうした日本人の何人かに出会い、またここで暮らした日本人の話を聞くことができた。

 おそらくそうしたことはここイロイロだけに限ったことではないのだろう。マニラにいるだけでは見えて来ないけれども、この国の津々浦々に実に様々な日本人、日系人が暮らしていて、そしてその多くの人たちが、日本とフィリピンの二つの国にまたがる夢と現実のはざまで日々奮闘しているのだと思う。

 パナイ島の特産ピーニャ(パイナップル)の繊維に刺繍する職人

 ビサヤ地方と日本との関係について語る時、やはりもう一つの島、レイテ島のことを忘れることはできない。

 レイテ島の東は太平洋に面していて、西にはセブ島がある。1521年にマゼランが世界一周の途中でフィリピンに侵入した際、まず初めにたどり着いたのがこのレイテ湾だった。青い海と熱帯の土地。いまその澄んだ空気に触れているだけでは、ここが第二次世界大戦の末期、日本軍とアメリカ軍の最大の激戦地となり、8万の日本兵と多くのアメリカ兵やフィリピン人が犠牲者となった悲劇の土地とは想像もつかない。レイテ島での戦闘の様子は、大岡昇平氏の『レイテ戦記』に極めて克明に再現されている。2006年の6月、私はそのレイテ島のパロという町を訪れた。

 パロは、日本軍のフィリピン占領とともに脱出したマッカーサー元帥が、“アイ・シャル・リターン”の言葉のとおり再上陸を果たした歴史上の場所だ。上陸地点となった「レッド・ビーチ」には、上陸した瞬間を再現した銅像が置かれ、今でも毎年10月20日には、アメリカの退役軍人や当時日本軍に激しく抵抗したフィリピン人ゲリラ兵の生存者などが訪れて記念日を祝っている。そんな歴史に包まれて、この町はいわば戦争被害の象徴として、戦後長い間ずっと反日感情が激しかったところだ。

               レッドビーチ

 私がそのパロを訪れたのは、ある人の紹介で町長に会うためだ。テオドロ・セビリア町長はそうした歴史的事実は事実として、若い世代のために過去を乗り越え、日本との交流を進めようとしていた。そのためにパロ町の主催するフィエスタに国際交流基金として参加して欲しいとの要望だった。それに対して私たちは、マニラ在住の日本語教師を中心とした『よさこいソーラン踊り』のグループを派遣することを決めた。踊り仲間の呼びかけに、何人かのボランティアが応じてくれた。その結果、日本人とフィリピン人合わせて総勢10名を越える混成チームがそのフィエスタに参加することができた。

 戦後60年を経てようやく公に“解禁”となった日本文化。この60年間は、戦争の悲劇というものが、町の人々から徐々に忘れられてゆく過程だったともいえる。だとすればこれからは逆に、この文化交流という手段を通して、戦争の記憶を後世に伝えてゆく必要があるのではないだろうかと考えている。

      太平洋戦争末期に米軍の病院となったパロ大聖堂

2007/11/16

「めぐみ」の上映ともう一つの拉致問題

 昨日は横田めぐみさんが拉致されて30年目の日。偶然にも国際交流基金マニラ事務所ではちょうどその日に、めぐみさんを主人公に拉致問題を描いて話題となった「ABDUCTION -The Megumi Yokota Story-」をマニラで上映した。

 会場は国立フィリピン大学フィルムセンター。朝から激しい嵐の日で、午後3時には大学も休講となって客足が心配されたが、567人もの観客が集まった。この種のドキュメンタリーとしては想像もしていなかった数だ。大学での上映に先立って、先週末にもマカティ市のオフィース街にある小さなスペースで2回上映したが、100人のキャパを超えて120人、140人と集まった。観客の中には元最高裁長官や外交官、そして多くの若い人たちもいた。

 今回の上映はマニラに住んでいるある日本人女性の提案が発端なのだが、上映を計画する際に、日本と北朝鮮の複雑な歴史や錯綜する国際関係など、おそらくこの映画を理解するための予備知識のほとんどないフィリピンの人たちが、本当に理解できるのだろうか、そもそも関心があるのだろうかと、疑心暗鬼ではあった。しかし蓋を開けてみたらそんな心配をよそに、予想以上の観客が集まって、横田さん夫妻の喜怒哀楽に一喜一憂し、上映後には拍手が巻き起こった。

 どうしてこの国でこの映画がこれほどの感動を呼ぶのか、その理由は何なのか・・私は何度もこの映画を観ながら、そして感想を聞いているうちにあることに気が付いた。

 この映画のメインテーマは家族愛だ。そして聖書を頼りに我が子の無事を神に祈る横田さきえさんの姿は、ごくごく自然にフィリピン人の心の琴線に触れていた。

 しかしおそらくもっと生々しくも重要なことは、この国の抱えるもう一つの拉致問題の存在だろう。政情不安のこの国では、2001年5月のアロヨ大統領就任以降、「政治的殺害(Political Killing)」という事件が頻発するようになった。フィリピンの人権団体の調査報告によると、2001年から2006年6月末までの犠牲者は700人を超えているという。左派政治活動家や住民運動のリーダー、さらにはジャーナリストや教会関係者に対する暗殺、強制失踪、脅迫、いやがらせといった人権侵害が多発しているのだ。そして、昨日の上映会場となったフィリピン大学でも、昨年二人の女子学生が拉致されて現在も失踪中である。

 30年にわたって闘い続け、そして今なお娘の帰りを待ちわびる横田夫妻の姿と、自分たちの国で、しかもごくごく身近なところで実際に起きているもう一つの拉致事件を重ねあわせ、複雑な思いでこの映画を観ていたに違いない。

 30年が経ってしまった。ただただめぐみさんの無事を祈るだけだ。そして自分には何にもできないけれど、女子学生の拉致事件をはじめ、多くの人々を苦しめている政治的理由による様々な不条理が、いずれこの国からなくなることを願っている。

 そして、まだこの映画をご覧になっていない方は、ぜひどこかでご覧ください。
(了)
 

2007/10/30

「SHIT(くそっ)!」な世界で糞を描き続けるアーティスト

 海外でこの仕事をしていると、時々日本で行われる展覧会に出品する作家選びに協力することがある。特に自分の推薦する作家が選ばれた時などは、我がことのようにうれしい。先日、東京国立近代美術館キュレーターの保坂健二朗氏から、来年8月に開催される予定の展覧会に、フィリピンから2名の作家が選ばれたとの連絡があった。ホセ・レガスピとマニュエル・オカンポ。オカンポは私も一推しの作家だ。展覧会のタイトルは「エモーショナル・ドローウィング」(仮称)。アジアを中心に十数名の作家が参加して、ドローイングという素朴だが生々しい表現を通して、作家の内面や描くことの本質に迫ろうという意欲的な企画である(同美術館、国際交流基金などの共催)。

 オカンポは1965年生まれの42歳で、私と同世代のアーティストだ。21歳の時にカリフォルニアに移住し、その数年後には既にロサンゼルスの美術界で活躍し始め、1992年には世界的にも名の通った国際展であるドイツの「ドクメンタ」の出品作家に選ばれた。アメリカやヨーロッパで早くから認められたが、フィリピンで初めて個展をしたのが一昨年(2005年)で、そのとき既に40歳。まずは海外で認められ、その後故郷に“錦を飾る”、いわゆる“逆輸入型”アーティストだ。そのオカンポが自分の絵のモチーフとして執拗に描いているのが、なんと糞、つまり大便である。その他にも便器や骸骨、グロテスクなアニメキャラクターに混じって、キリスト教を象徴する十字架なども多く描かれている。保守的なカソリックの強いこの国では十分スキャンダラスな内容だ。2005年の展覧会のステイトメントで彼は自らのアートをこう表現する。

「たいがい、私のアートは、大食いして酒に浸り、トイレに行ったり来たりの夜が明けて、冷蔵庫の中に残されたものから作る副産物のようなものだ。」

 美しい絵画を徹底的に排除し、よりによって糞をモチーフに挑戦的な激しいドローウィングを描き続ける。それでいて、というかそれだからこそ、その醜さの裏にあるものに強烈に惹き付けられて、なんともその絵に見入ってしまうのだ。一皮剥いたらそこにある、目をそむけたくなるような現実。それに気づいていながらも、あたかも何事もないようにしてやり過ごさなくてはならない日常。彼の絵に引き寄せられるのは、おそらく私の心の中にあるそうした空隙に響くものがあるからだと思う。

 私はどちらかというと過激なアートが好きだ。特に東南アジアの国々にいる時は、いつも過激なアートに注目している。ラディカルならばそれで良いというわけではもちろんないけれど、日本で見られる作品に比べて素朴といえば素朴なのだが、その直載さに魅力を感じるのは一体何故だろう。

 福岡市美術館(1999年より福岡アジア美術館)で1979年にアジア美術展をたちあげ、30年近くにわたって東南アジア美術の研究をしてきた後小路雅弘氏は、その本質を「自分探し」と指摘する。

「東南アジアのモダンアートの基本的な課題は、「自分探し」であったし、おそらくいまもそうである。「わたしたちが本来あるべき姿から隔たってしまっている」という自覚へと向かい、さらにそこから失われた自己の回復へと向かう道程の中に、東南アジアのモダンアートの基本的な姿を見出すことができる。」(「アジアの美術」、美術出版社刊より)

 私もそう思う。これまでに駐在したタイやインドネシアでも多くの優れたアーティストと出会ったが、中でも特に強く惹かれたのが、今から思えば強烈な自画像を描く作家、タイであればチャーチャイ・プイピア(1964年生まれ)であり、インドネシアではアグス・スワゲ(1959年生まれ)であったのはおそらく偶然ではないだろう。単純だけれど究極の「自分探し」。同世代のアーティストたちが描く自画像の発見は、私自身の東南アジア発見でもあったのだと思う。

  チャーチャイ・プイピア「シャムの微笑:シャムの知性」(1995年)

 そしてフィリピンでは、スペイン、アメリカ、日本と400年にわたった植民地支配の結果、自分たちのもともとの文化を失ってしまったという喪失感は、人々の心の中、そして社会の隅々を覆っている。自分たちの国の、あるいは民族のアイデンティティの問題は、ジャンルを問わず、この国のアーティストの多くが共有している最も根源的な問題の一つだと思う。

 けれども歴史的な意味あいとは別に、私なりに「自分探し」の理由をもう一つ付け加えるならば、ときに目を覆いたくなるような醜悪な現実に対して、「わたしたちが本来あるべき姿」を求めて敢えて目を覆わず、そして発言してゆくという意味の「自分探し」が、そこにはあるのだと思う。深刻な貧富の格差や政治腐敗、終わりの見えない民族紛争や宗教紛争、そして頻発するテロがこの国の現実であり、国家や社会がクライシスの状況にあるとしたら、アーティストと名乗る以上、たとえ「わたしたちが本来あるべき姿」を実現することは困難だとしても、その現実に対して何らかの表現をすることはむしろごくあたりまえの行為なのかもしれない。醜い自己を徹底的に露悪的に表現することで、彼なりの「自分探し」を続けるオカンポが、フィリピンに“逆輸入”されて多くの人たちから評価されるのは、いまのこの国の状況をよく映し出しているともいえる。

 デジタルシネマのことを紹介したときに、フィリピンの映画では社会派“オルターナティブ”が実はもうひとつのメインストリームだったと書いたが、美術の世界でも、コマーシャルアートとは一線を隔した社会派アートは、この国の美術史のメインストリームのひとつだ。フィリピン大学の美術史家であるアリス・ギレルモの書いた「Protest/Revolutionary Art in the Philippines 1970-1990」(フィリピン大学出版、2001年)は、マルコス政権が独裁色を強めて戒厳令を敷いた時代(1972年)から、平和的な黄色い革命に続いた時代(1986年)を中心に、熱い政治の季節と並走した社会派アートをめぐる物語の集大成だ。フィリピン社会派アートの系譜については、またいずれまとめて書きたいと思う。

 オカンポなどいわゆる商業主義から逸脱した作家たちにとって、アートで生活してゆくということは大変困難なことだと普通は思うけれど、今のフィリピンのアート・マーケットは非常に活況を呈していて、きわどいコンテンポラリーな作品を巡る環境も、実はそんなに悪くはないといえる。マニラ首都圏のギャラリーで個展を行い、そこに集まった身内や業界人から評判が広がれば、コレクターや投資家が作品を買ってくれるかもしれないし、運がいいアーティストは、メジャーなコンペティションで入賞でもすればさらに作品の価格が上がることは間違いなし。こうしたルートに乗ってしまえば、1年もすれば立派な売れっ子作家となる。どんな反骨のアーティストだって、多かれ少なかれ今のアートブームの恩恵を受けているのは間違いのないところだ。私が最近注目しているもう一人の若手作家にロバート・ランゲンゲールという作家がいる。昨年画家デビューをしてこれまでに3回の個展を開いた。彼こそが、チャーチャイやアグスの系譜に連なる露悪的自画像の作家だと思っているのだが、彼のグロテスクな自画像やかなりスキャンダラスな絵が、飛ぶように売れてしまうのが今のマニラだ。本人ですら、どうしてそんな絵が売れるのか不思議に思っている。

            ロバート・ランゲンゲール   

 フィリピンの経済はここ数年ずっと7~8%の成長を続けている。一方である民間NGOの調査によれば、貧困層はより拡大しているという。3ヶ月の間に1日でも食べ物に困り飢餓感を感じた世帯は、全世帯の19%(2007年2月)で、1年前の調査時からさらに2%増加した。海外からの投資が増え輸出額も伸び、株価や不動産価格、そしてペソの価値も上昇の一途である。金持ちの資産がふくらみ続けるミニバブル状況の中で、貧富の格差はさらに拡大し、開発の恩恵はあいかわらず勝ち組のみに与えられている。

 そんな不均衡な世の中をまさに象徴するような、ハイソサエティーのためだけの街の開発が、今マニラの中心部で急ピッチに進められている。名づけて「グローバルシティ」。グローバライゼーションの恩恵を受けた人々の街には象徴的なネーミングだ。10数年前までは米軍基地だったが、フィリピン最大の財閥であるアヤラ財閥が払い下げを受け、野原を一から開発し、超高級マンションにショッピングモール、学校や病院のある金持ち村を建設中だ。ピカピカのブティックや人気カフェが立ち並び、ファッショナブルな人たちで賑わっている。日本の新宿で人気のクリスピー・クリーム・ドーナッツもあり、明るくお洒落な店舗では待ち時間無しでおいしいドーナッツが手に入る。美しい芝生の中庭にはパブリックアートの彫刻がふんだんに置かれている。そして、この界隈だけでも新たに商業ギャラリーやコンテンポラリーアートを扱うスペースが一挙に10店舗近くオープンした。

             グローバルシティ

 まあこうした状況そのものは、アートにとって悪い話ではない。けれどもこの国の別の現実を見るにつけ、そう楽観的に喜べないのが複雑なところだ。そんなきらびやかな街が生まれている一方で、どうしても思い出さずにはいられない最底辺の生活もある。先日マニラ首都圏最大のゴミの集積地(スモーキーマウンテン)であるパヤタスに行ったが、そこはまさにオカンポの絵のような醜悪な場所だった。スカベンジャーと言われるゴミ拾いのために集まった人々が不法占拠して作り出した“街”で、ゴミ山の麓に作られたバラックの家々とドブ川、そして異様な異臭に包まれたところだ。グローバルシティとパヤタスでは、まさに天国と地獄・・。後者の世界の住人にとって、この世の中は「SHIT(くそっ)!」でしかないだろう。

               パヤタス

 “勝者”と“敗者”がはっきりと別れているこの国では、より大きな権力は確実に“勝者”の手中にある。そんな巨大な力に対して、アートは一体何ができるのだろうか?たとえ先が見えない闘いであっても、執拗に糞を描き続ける、そんなアーティストがいることに、なんともやるせない現実の中でも多少の希望は見えてくるのだ。

(了)

2007/09/10

次の世代へバトンをつなぐ喜び

 今回のブログはいつもと趣向を変えてとても個人的な話を書きたいと思います。

 国際文化交流という裏方の仕事をしていて最も充実していると感じるのは、おそらく、学者やアーティストなど、社会をかたち作り、支えている人々、または学生のようにそのようなことを将来にわたって期待される人々、いわばそうした主役となる人たちが、生涯にわたって影響を受けるような経験(ライフタイム・エクスペリエンス)をする後押しをしている、と実感するときだと思う。


 先日、ミンダナオ島北部の中核都市、カガヤン・デ・オロ市にあるキャピトル大学を訪問した。基金の草の根交流助成というプログラムで同大学の学生7人による訪日研修が実現するはこびとなり、その学生との顔合わせに招待された。

 実はこの町を初めて訪れたのは1979年、今から28年前、まだ私が16歳、高校1年生の時だった。当時ブームだった“南北問題”に関するある大学の懸賞論文に入選し、同級生2人とともにフィリピンにやってきた。このカガヤンに来たのは、私の高校がイエズス会系の高校であり、同じカソリックで姉妹校であるアテネオ・デ・カガヤン高校が受け入れてくれたからだ。短い滞在だったが、同じ年頃の友達もたくさんできて、高校の授業にも飛び入り参加した。田舎者の私は皮肉にも、タワーレコードやシェーキーズというアメリカ文化に初めて接したのもこの町だった。タワーレコードで買ったイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーのLP、ビニールに包まれた輸入版のあの独特な匂いは、今でも昨日のことのように覚えている。

 けれどもたくさんの濃密な経験の中で、その後のぼくの人生の中で終生忘れえぬものとなったのは、お世話になったフィリピン人家庭の温かさであり、家族で行った教会で見たフィリピン人の敬虔さ、その神秘的ともいえる姿であり、日が沈む頃になると家の前の道路のここかしこに集まっては談笑し、ギターを弾き語る、なんともいえないロマンティックな光景だった。当時から貧富の格差が激しかったフィリピンだから、若い自分には相当ショッキングな貧困の現実というものを目の当たりにしたのだけれど、私の頭の中の最終的な残像は、ほとんど幸福にまつわるものばかりだった。厳しい現実と隣り合わせのなんとも奇妙な幸福感。これが大雑把にいって、私がこの国に抱いた印象だった。1週間足らずの滞在なのに、カガヤンを発つ飛行機の中では何故か涙が止まらなかった。あまりの感情の揺らぎに自分自身も驚き、心の中で「必ず戻ってくるから」と、言い聞かせた。

 それから2、3年、そこで知り合った友人たちと文通を繰り返した。やがて音信不通になり私は大学に進んだが、このカガヤンでの体験は常に心のどこかにあったのだと思う。厳しい現実と隣り合わせのなんとも奇妙な幸福感。私たち日本の日常とは全く異なる世界、価値、そして匂いがあった。大学に入ってからもバックパッカーとなって随分いろんな国に行ったけれど、今から思えば、どの街へ行ってもあの「奇妙な幸福感」の追体験を求めて、そのなぞかけに対する答えを探していたのかもしれない。その意味で、カガヤンが全ての出発点、ぼくにとっての“異界”への入口だったのだ。

 その後カガヤンを取り巻く環境は大きく変わった。第一、ミンダナオはモスレムによる分離独立運動が激しくなった。私がフィリピンから帰国して数ヵ月後、ダバオという町で初めて爆弾テロによる犠牲者が出た。いまでは日本人の多くは、ミンダナオ島と聞けばイスラム原理主義やテロリストをイメージするだろう。私も基金に入って何度かフィリピンを訪れる機会はあったが、カガヤンに来ることはなかった。そして、2年ほど前に基金のマニラ事務所を預かることになった。

 フィリピンに赴任したら私にはぜひやってみたいことがあった。それはミンダナオの人々との交流だ。日本から見ればテロリストの巣窟かもしれないミンダナオ。でも当然だけれどそこに住む大多数の人々は、あのカガヤンで出会った友人たちのように、平和を愛するロマンティストであるに違いない。待っていては事は始まらないので自分からどんどんでかけることにした。そしてダバオから平和運動の活動家(神父)を日本に招待したり、マラウィからはモスレム女性リーダーのグループを広島と長崎の原爆の日にあわせて派遣した。幸運にもスールー諸島のスルタンの家系につながる舞踊家と出会い、同地に伝わる伝統舞踊をめぐる国際シンポジウムを実施したりした。でもやはり当然のことながら、最も気になっていたのはカガヤン・デ・オロのことだ。

 今回訪日するキャピトル大学の7人の学生は、看護学科、国際学科、商業学科の18歳から20歳までの学生(フィリピンの学制は小学校6年、高校4年、大学4年)。その内の一人はモスレム自治区からやって来たイスラム教徒の女子学生だ。日本では1週間ちょっとの短い間に、創価大学の特別講義に出席するほかに、彼ら彼女たちによるフィリピン文化紹介や平和問題に関する日本人学生向けのレクチャーもあるという充実ぶりだ。


 28年前にこの町を訪れることがなかったら、今の僕はここにいただろうか。16歳の時にこの町からもらった大事なもの。ようやくそのいく分かをお返しすることができる。ライフタイム・エクスペリエンスを目前にして、期待に胸をふくらませて満面の笑顔をたたえる彼らを前にして、あの時僕が受け取ったバトンを、今こうやって次の世代の若者に確かに渡すことができたと、そう確信してとても嬉しくなった。

2007/09/03

Dシネ・ブームの先に見えるもの-フィリピン映画の過去・現在・未来-

 前回報告した「シネマラヤ」の興奮まだ冷めやらぬマニラで、今度は、「シネマニラ国際フィルムフェスティバル」が開催された。既に9回の歴史を重ねて年中行事といってもいい映画祭だが、国内Dシネの祭典シネマラヤと異なり、こちらは世界各国から名作を集めて充実のラインナップ。日本でいまや大人気、タイのペンエーク・ラタナルアン監督の新作「プローイ」を筆頭にASEAN映画特集や、2005年ベルリンで金の熊賞を受賞した南アフリカのカルメン歌劇「ユー・カルメン・イン・カエリージャ」などのアフリカ映画特集、カンヌ、ベルリン、ベネチアといった著名な国際映画祭での受賞作や招待作品を中心に、32カ国から133作品が上映された。日本からは「武士の領分」、「フラガール」とアニメの「時をかける少女」の3本が参加している(8月8日~28日、アラネタ・センター)。

 ちなみにフィリピンにおけるメジャーな映画祭といえば、「シネマラヤ」に「シネマニラ」、そしてあと一つ「メトロマニラ・フィルムフェスティバル」というのがある。歴史的にはこれが最古の映画祭で、1975年から数えて昨年の開催で32回目になる。こちらは純国産の商業映画が中心で、毎年クリスマスシーズンに開催。昨年はコメディー映画「Enteng Kabisote 3」(作品賞)を筆頭に9本のエンターテイメント作品がエントリーし、興行成績もまずまずだったようだ。

 さてシネマニラだが、今年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した「4ヶ月、3週間と2日」(クリスチャン・ムンギウ監督)は衝撃的だった。チャウシェスク共産党政権末期のルーマニアの小さな大学の街が舞台で、女子学生による非合法の堕胎と、それを助けるルームメイトの恐怖をリアルに描いた作品だ。ルーマニア映画がパルム・ドールを受賞したのは史上初。WEB情報では年間10~15本の映画しか製作されておらず、ムンギウ監督は国内唯一の映画学校で学び、低予算でこの映画を製作したという。そんな成功物語を目の前にして、フィリピンの若いフィルムメーカーたちは何を思っただろうか。年間50本の35ミリ映画を世に送り出し、映画を学べる学校もいくつかあり、ましては昨今のDシネの盛り上がりだ。きっとフィリピンの映画人にもチャンスはある。シネマラヤに集った若者たちの中から明日のヒーローが生まれても不思議ではない。

 シネマラヤ以来、映画にどっぷりという感じだが、派手な映画祭以外にも、地味ながらきらりと光る面白いイベントもある。この国のインデペンデント系のフィルムメーカーを取り巻く環境を知る上でも興味深いイベントを二つ紹介しておく。

 一つは、環境をテーマにしたローカルのドキュメンタリー映画祭である「ムーンライズ・フィルムフェスティバル」(8月15日~21日、ロビンソン・ギャレリア、Center for Environmental Awareness and Education主催)。コンぺティションの出品作はいずれも短編で合計9本。中部ビサヤ地方の小島で起きているダイナマイト漁による漁場の破壊を描いた「カウビアン」(ウリセス・シソン監督)、昨年ギマラン島沖で起こった石油タンカーの重油流出事件による海洋汚染を描いた「ショコイ」(レイ・ジブラルタル監督)、ルソン島コルディエラ山地の森林破壊をテーマにした「猿はどこへ行った?」(マベル・バトン監督)などを観た。

 環境破壊について日本では断然中国が注目されているが、ここフィリピンもかなりひどい状況だ。明確に人為的な環境破壊以外にも、天災や、過度の森林伐採が遠因である地すべりや鉄砲水など、天災を装った人災の被害と後遺症は想像を超えるものがある。その意味でこうしたドキュメンタリーの対象となる素材はごろごろあるというのが誇れない現実だ。

 コンペ作品の中で「猿・・」を制作したのはコルディエラ・グリーン・ネットワークといって、バギオを拠点に活動している環境NGOである。代表を務めているのは反町真理子さんという日本人で、植林運動や環境教育のほか、山岳地帯の貧しい村の子供たちに奨学金を出したりして活躍している。今回の「猿・・」プロジェクトでは、インドネシアから陶芸作家や日本人アーティスト廣田緑さんを招聘して共同制作を行った。

         「猿はどこへ行った?」のポストカード

 インドネシアはあの2年前の悪夢のような津波以外にも、自然災害や環境破壊について深刻な問題だらけだ。それに加えて長年続いた内戦による荒廃。色々な意味でここフィリピンと似たような状況にある。こうした災害や戦乱で心の傷を負った人たちにとって、文化やアートはどういう意味を持ちえるのか、持ちえないのか?これは私たち国際文化交流を仕事としている者にとっても大切な問いかけだと思う。今年になって東京とジャカルタの基金スタッフが試みたインドネシアのアチェでのワークショップ、内戦による悲惨な過去がトラウマとなっている子どもたちが参加した演劇ワークショップは、そうした問いかけに対する一つの試みとして貴重な体験だったと思う(http://www.jfsc.jp/webmember/topics_cont/fr-0708-0004)。

 今回バギオにやってきた廣田さんも、アートを通して社会との接点を求めて活動している女性作家だ。彼女の拠点はジョグジャカルタという古い都だが、一昨年の大地震では多くの犠牲者が出た。多くのアーティストが被災したこともあって彼女は被災地の支援に乗り出した。日本の友人たちからのサポートを受け「救援パック」と名づけて物資を届けるプロジェクトを続けていたが、支援の輪が広がって、最終的には子どもたちのために3つの幼稚園を建設した。その様子は彼女のブログに詳しい(http://midoriart.exblog.jp/m2006-09-01/)。そんなインドネシアの社会派アーティストとフィリピンのアーティストとの出会いに期待して、マニラ事務所では「猿・・」をさかのぼること1年前にこの廣田さんの展覧会をマニラで実施して、バギオのアーティストとも交流した。そして今回の企画につながった。

 話しがそれてしまったが、この「ムーンライズ・フィルムフェスティバル」もシネマラヤと同様に今年で三年目。やはり昨今のDシネブームと無縁ではないだろう。さらにはこの映画祭の会場となっているショッピングモール(ロビンソン・ギャレリア)のシネコンプレックスでは、今年からインディーズ系のDシネが常時観られる上映館が提供されていて、インデペンデント・フィルムメーカー協会という新しいNGOが企画を任されている。とはいってもシネマラヤで見た一部の人々の盛り上がりとは裏腹に、なかなか一般の観客は集まってこない。何度か足を運んだが、300人くらい入る映画館の中にお客さんはいつも10人、20人ほど。まだまだ本格的なDシネ時代の到来には時間がかかるだろう。それでも商売ぬきで映画館を貸しているこのショッピングモールも、なかなか懐が深いと思う。こうした新たな動きがいつか実ることを期待している。

 もう一つ紹介したいイベントは、フィリピン大学フィルム・インスティテュートで実施中の「フライデー・フィルム・バー」という企画(8月10日~10月5日の毎週金曜日)。フィリピン映画の名作上映とバンドの生演奏だ。オープニング映画は、この国の人間国宝ともいえる「ナショナル・アーティスト」に、映画監督として初めて指定(1976年)されたランベルト・アヴェリャーナ(1915年~1991年)の代表作「バジャウ」(1957年)。バジャウ族はインドネシアの島々からフィリピンに広がる海洋民で、古くから「家船」を居住空間にする“漂海民”で知られている。映画はスールー諸島のホロ島を舞台に、バジャウ族の若きリーダーと、その宿敵タウスグ族の娘とのラブストーリーを、両部族の抗争を織り交ぜて描いた作品。最後は部族間の争いを乗り越えて、若きリーダーがバジャウの後継者に選ばれる。いまではバジャウ族といえば未開や無知、貧困という偏見に満ちているなかで、50年前にそのバジャウのヒーローを描いて、立派に娯楽映画を作っていたのだから、当時のフィリピン映画界の豊かさが想像される。

 この企画の会場となっているフィリピン大学フィルム・インスティテュートは、この国の映画関係者のメッカである。1976年にフィルムセンターとして出発して以来これまでに多くの映画人が集い、一昨年にはマスコミ学部映画視聴覚学科と合併して名実ともに映画人育成の拠点となっている。日本でいう東大のような最高学府にしっかりとした映画専攻課程と研究機関があるのだ。その点では日本よりよほど恵まれているといってよい。よってこの国の映画人には、結構知的エリートが多い。そして800席のシネマ(シネ・アダルナ)とギャラリーがあり、基金主催の人気イベント、日本映画祭の実施会場でもある。ここフィリピンでは映画の上映に際して映画テレビ検閲委員会(Movie-Television Review and Classification Board)の検閲が義務付けられているが、このフィリピン大学のみ例外。ここは検閲なしでいかなる映画の上映も可能という治外法権が与えられているのだ。ちなみにこのフィリピン大学以外にも、主なところでデ・ラサール大学やサント・トマス大学といった名門私立大学のマスコミ学科で映画を学ぶことができる。サント・トマス大学は1611年に設立されたアジア最古の大学である。また映画関係者の福利厚生団体であるモウェル・ファンド・フィルム・インスティテュートというNGOでは、研究、アーカイブ事業(映画博物館もある)以外に、定期的にワークショップを実施していて、ここからも多くの映画人が輩出されている。このブログでもたびたび紹介している日系フィリピン人の売れっ子脚本家である山本みちこさんは、サント・トマス大学の卒業でモウェル・ファンドが実施した脚本ワークショップの修了生だ。多くの映画人の卵は大学を卒業した後、テレビドラマやニュース、CMやミュージックビデオなどの仕事をしながら、それぞれに映画の夢を追い続けている。


 CCPが編集した「Encyclopedia Philippine Art Volume Ⅷ Philippine Film」(1994年出版)の中で、「オルタナティブ・シネマ」に1章が与えられている。そこではフィリピン映画の誕生(マニラで最初の映画館は1897年にオープン)とともにドキュメンタリーや短編映画など商業映画とは異なる「オルタナティブ・シネマ」が生まれたとあるが、特に現在のフィルムメーカーに影響を与えているのは、1950年代半ば以降の動きだろう。マニラで初の国際映画祭が開催されたのが1956年。上述したランベルト・アヴェリャーナらがドキュメンタリーの分野でも活躍し、1960年代になると数々の海外映画祭に出品されるようになった。

 1970年代にフィリピン映画は黄金期を迎え、歴史に残る多くの秀作が生み出された。戒厳令下(1972年~1981年)のマルコス政権の全盛期とも重なるのだが、不思議なことに、この過酷な時代に敢えて挑戦するように、社会的テーマを取り上げた硬派作品や芸術性の高い作品が数多く作られたのだ。なかでもリノ・ブロッカ(1939年~1991年)は、20年間に67本もの作品を生み出して、その後の映画人たちに大きな影響を与えた。地方からマニラにやってきた青年が貧困の中で男娼となり破局を迎える「マニラ・光る爪」(1975年)や、母親の内縁の夫にレイプされるが最後は彼を殺して復讐をとげるスラムの娘を描いた「インシャン」(1976年、カンヌ監督週間にて上映)など。いずれも社会の底辺を題材に、胸に突き刺さるようなリアリズムで醜悪の中にペーソスやリリシズムを描き、一度観たら忘れられない作品である。いまでも彼は若い映画人たちにとってのヒーローであり、その作品は繰り返し上映されて大きな影響を与え続け、そうしてこの国の社会派映画人の命脈が続いているのだ。

 そして1980年代前半はインデペンデント映画が盛り上がり、このブログでも紹介したことのあるキドラット・タヒミックや、彼より一世代若いレイモンド・レッドらが活躍した。タヒミックを一躍世界的な映画監督にした代表作「悪夢の香り」(1977年、ベルリン国際映画祭批評家賞を受賞)は、実験的な自伝的ファンタジー・コメディー作品だが、これもリノ・ブロッカの名作同様に繰り返し上映され続けている。今回の「フライデー・フィルム・バー」でも、「マニラ・光る爪」とともに上映される予定だ。そして当の本人は、その特異な生き様そのものもあいまって、既にオルタナティブ映画のクレージーな“伝説的”イコンとして、多くのアーティストから尊敬されている。なおこれらブロッカ、タヒミック、レッドなどの作品は、先日国際交流基金を退職した石坂健治氏によって20年ほど前から日本で紹介されてきた。彼の精力的な仕事によって私たち日本人は、多くのフィリピンの秀作映画を観ることができたのだ。同氏は現在東京国際映画祭‘アジアの風’部門のディレクターを務めているが、このブログの場を借りて、彼のこれまでの仕事に敬意を表したいと思います。そしてもちろん東京国際での今後のご活躍を楽しみにしています。

     フィリピン映画祭(1991年国際交流基金主催)

 その石坂氏などが中心となって日本で実施されてきたフィリピン映画の特集上映は、1980年代前半の作品群の紹介を最後に、なかなか後が続かない状況となっている。もちろん単発で生まれる秀作はあっても、新しい波といったものが訪れないまま、基本的にはぱっとしない、インデペンデントな映画人にとってみればなかば絶望的な20年の時が経過してしまった。

 そしてようやく今、Dシネブームとともにフィリピンの映画界に再び大きな波が訪れようとしている。その新たな波を生み出している若いフィルムメーカーたちには、アヴェリャーナやブロッカが残した豊かな社会派の伝統や、タヒミックやレッドが示した実験的才能に富んだインデペンデントの血統が受け継がれているに違いない。今年のシネマラヤで作品賞を受賞したスラムのギャングを描いた「TRIBU」などは、明らかに”ブロッカの子どもたち”の作品の一つであろう。

 同じくシネマラヤで上映された作品の中で、今回ただ一つ、ミンダナオのイスラム社会を描いた作品があった。「ガボン(雲)」という作品で、伝統的イスラムが支配するマラウィという町を舞台に、彼らの古い言い伝えにある“子どもの幽霊”が小学校にやってくる話である。監督のエマニュエル・デラ・クルーズは、この作品で短編部門の監督賞を受賞したが、彼の次の目標は、ミンダナオの若者たちに映画を教えることだという。映画というものが私たちに最も身近なメディアの一つであり、私たちの姿を生々しく映し出す鏡でもあるとすれば、いまフィリピンの映画は、再びその本来の役割を取り戻そうとしているようにも思える。50年前にモスレムのヒーローを生き生きと描いたように、貧困、偏見、そして内戦で疲弊した現代のミンダナオの日常を、ミンダナオの若き映画人が描く時がやがてやって来るのだろうか。いまはこの新しい波の向こうにあるものを想像しては、少し希望で胸をふくらませている。

(了)