2006年に国際交流基金が全世界で行った「日本語機関調査」の中で、日本語を学ぶ学生たちにアンケートをした結果、その動機の上位を占めたのが、一位が日本文化に関する知識を得る、二位が日本語でコミュニケーションができるようになる、三位は日本語という言語そのものに興味があるというものだった。アンケートで設定された選択肢にもよるし、全世界的な傾向というものもあるのだろうが、私自身の頭の中では、何かあまりに動機があっさりしていて本当(本音)なのだろうかと疑問が残った。日本語を学ぶ動機は、もっと実利的だったり、生活に根ざしていたり、つまりもっと生々しいものなのではないのだろうか、と。
今年の2月に実施された第35回日本語スピーチコンテスト。その社会人部門で28歳の主婦マリセル・ボルニリヤーさんが大賞に輝いた。スピーチのタイトルは「ジャパゆきを超えて」。彼女にとって、日本でエンターテイナーとして働き自分たち家族を支えてくれたお姉さんはヒーローのような存在であり、自分も日本語を一生懸命に勉強して、そんな姉への恩返しを誓うという内容のスピーチだった。
「私の2番目の姉は、元ジャパゆきです。私がまだ10歳ぐらいのときに、姉は歌手として日本へ行きました。当時のビコールの田舎の人たちは考え方が保守的で、姉について悪口を言っていたそうです。でも、私はまだ子供だったのでよく分からず、お土産のことしか考えていませんでした。(中略)大きくなるにつれて、周りの人たちの悪口の意味が分かるようになり、つらい思いをしました。(中略)私は今でもこの姉にとても感謝しています。父が亡くなってから、母と私たち兄弟の面倒を見てくれ、おかげで私たちは学校を卒業することができました。(中略)私はこれから日本語教師になり、日本で仕事をするフィリピン人、特にITエンジニアやケアギバーを助けたいと思っています。そうすることが、ジャパゆきとして私を助けてくれた姉への恩返しにもなると思います。」
以前このブログでも書いたことがあるが、フィリピン人といえばエンターテイナーというのは、現代の日本人が作り出したステレオタイプの一つだ。80年代から急増したフィリピン人エンターテイナーは、言ってみればアングラ版日比交流の象徴となった。その多くは6ヶ月間の「興行ビザ」で、ピーク時には年間8万人(2003年)のペースで日本へ渡った。両国の経済格差やフィリピンの出稼ぎ労働文化、そして日本の海外労働者受入制度の未整備という現実が作り出した“人流”の一つだろう。確かに「興行ビザ」(演劇、演奏、スポ―ツ等の興行や芸能活動のためのビザ)を取って、実際にはカラオケクラブで接客業をしているケースがほとんどで、人身売買まがいのことや売春を強要されるケースもあり、“汚れた”イメージがつきまとう。そしてフィリピン人の間でも「ジャパゆき」に対しては負の印象が強い。しかしボルニリヤーさんがスピーチで述べたように、その多くが接客業をして真面目に働き、フィリピンにお金を送金して家族の生活を支える大黒柱、こちらの言い方で“ブレッド・ウィナー”(パンを獲得する勝利者)なのだ。「ジャパゆき」というだけで非難されるいわれはないし、かといって当の本人たちにとっては“性の商品化による犠牲者”と言われることもまた、現実の感覚からはほど遠い。
ステレオタイプや偏見は、その時代の社会状況が作り出すものだ。今では忘れられかけてはいるが、「ジャパゆき」の元となった「からゆき」という言葉。フィリピン研究者の寺見元恵氏の調査によれば、在留邦人をデータで確認できる最も早い時期において、1903年当時マニラに在住していた1000人の日本人の実に3分の1が「酌婦」や「娼婦」などの水商売に従事する女性だったようだ。(フィリピンに学ぶ会編『Filipica』2007年54号、「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」)フィリピン≒ジャパゆきというイメージも無論、未来永劫続くというものではない。いつかは過去の話となるだろう。実際、フィリピン人の「興行ビザ」による入国者の数は2006年の外国人入国管理法改正で激減しており、2007年以降は月に約500人のペースで、ピーク時の1割以下になっている。ボルニリヤーさんが元ジャパゆきの姉への恩返しのために日本語を学ぶことを選び、「ジャパゆきを超えて」ゆこうとしているように、ジャパゆきさん自身の中からも、そんな偏見に立ち向かってゆこうとしている人もいる。
国際交流基金では毎年世界中から多くの日本語教師を日本に招待し、日本語研修や日本語教授法の研修を行っている。ここフィリピンからも多くの若手教師が参加しているが、2008年5月からの研修に、元エンターテイナーのロドリゲス・ラブリーンさんが参加することとなった。大学卒業後24歳で日本に渡った彼女は、その後6ヶ月間ごと合計7回にわたってエンターテイナーとして日本で働いた。そして2006年に帰国してからは、日本語をさらに勉強するためマニラの日本語学校に入学。国際交流基金のセミナーなどにも参加するようになり、日本語能力試験の3級にも合格して、いよいよ自ら教壇に立つようになった。そしてこれまでの努力が実り、来る5月から国際交流基金の研修生として採用されたのだ。
国際交流基金日本語国際センター
彼女は自分が元エンターテイナーであった経歴を周囲に隠さない。「お店でお客さんと話していた言葉と、日本人が普通に話す時の言葉が違うので、基金のセミナーでは最初何を話してよいかわからなかった。これからはもっと正しい日本語を勉強したい。」と、さらりと豊富を語る。将来の夢は、自分で子供たちのための日本語学校を開きたいと言う。生活のために選んだジャパゆき。彼女はその経歴からくる困難や悩みを積極的に語り、自らその壁を破ろうとしている。彼女のような元ジャパゆきさんが増えていけば、「ジャパゆき」のイメージはきっと変わってゆくに違いない。
日本とフィリピン政府の間で2006年の9月に締結された経済連携協定(EPA)は、未だにフィリピンの上院で批准されておらず、発効の目処が立っていない。この協定の締結についてはフィリピンで様々な反対意見が出されているが、最も激しかったのが、環境保護団体を中心に、同協定が“不平等条約”であると指摘されたことだ。特に輸出入品目リストの中に有害廃棄物が含まれており、フィリピンが日本のゴミ捨て場になるのではないかと強く反発した。
同協定にはもう一つの焦点がある。日本政府が初めてフィリピン人看護師・介護士の受入を認めたことである。高齢化が進む日本では現在90万人の介護士が必要といわれているが、実際の従事者は40万人で、日本人がいやがる介護の現場では今後外国人の介護士が増えると予想されている。これまでにも欧米や中東に看護師・介護士を派遣して海外送金で国家経済を支えてきたフィリピンは、締結交渉の過程で日本側により多くのフィリピン人看護師・介護士の受入と、日本人と同等の待遇確保を要求してきた。一方日本側は、外国人労働者の流入による雇用条件の悪化や社会秩序の乱れを懸念して、当初は受入に消極的だったが、双方で歩み寄り、最終的に2年間で千人の受入で決着した経緯がある。しかし先に述べたように、フィリピン側の環境保護団体によって有害廃棄物が同国に持ち込まれるとの懸念が表明されたことが発端となり、“日本とフィリピンの政府は、健康(看護師・介護士)と公害(有害廃棄物)を取引した”と主張する者も現れるようになった。
こうした論争を通して見えてきたことは、この問題の根底にはフィリピンと日本の人々の間にいまだに大きな不信感が横たわっているということであった。フィリピンから見れば、100万人が犠牲になった太平洋戦争の記憶や、日本の経済進出に伴う富の流出など、心のどこかに常に被害者意識があるのは確かだろう。「ジャパゆき」はまさに二国間の格差を象徴している日常的現実だ。
しかし今度のEPAによってもたらされるであろう両国交流のさらなる展開は、フィリピンと日本の間に、その人流に大きな変化をもたらす可能性がある。
先に述べた通りEPAには様々な問題点が指摘されてはいるが、現実は一足早く進んでいる。フィリピンでは2006年あたりから協定発効後の労働市場“解禁”を期待して、介護士向けの日本語教室が雨後の筍のように出現した。そこでは主に高校を卒業してフィリピンの介護士資格を取得した人たちが日本行きを目指して学んでいる。
日本語教育という点では、IT業界でも新たな取り組みが活発である。タガログ語とならんで英語が公用語であるフィリピンでは、優秀な人材に対する外国企業からの需要は大きい。コールセンターなど米国系のビジネス・プロセス・アウトソーシング業界には、年間23万人の大卒者が就職するというデータもある。一方で、日本におけるIT技術者は、少子高齢化や日本人学生の理系離れが影響して慢性的な人手不足の傾向にあり、2010年までに15万人が不足するという予測もある。そのため日系IT企業の間では、日本語のできるフィリピン人技術者を巡って激しい人材の争奪戦が繰り広げられている。先を見越した企業では、社内の日本語教育に力を入れたり、大学や民間の日本語学校とタイアップして人材育成を進めている。
フィリピンは長い間スペインとアメリカの植民地であったためダイレクトに欧米文化が伝えられてきたこともあり、日本への関心は低いと言われてきた。しかし1990年代に入ってアジア諸国を席捲した日本のポップカルチャー人気の影響を受けて、日本文化や日本語への関心が高まった。国際交流基金の調査によれば、2003年の日本語学習者は11,259人で、10年前に比べて1.8倍に増加したが、ここ数年の増加率はそれをさらに上回り、2006年の調査では18,199人と、3年間で1.6倍に飛躍した。
しかし近隣のアジア諸国に比べて日本語の教育基盤が脆弱で、かつて業界では“日本語教育不毛の地”とまでささやかれていた。質の高い日本語教師が圧倒的に不足していて、教師を養成する教育機関などのインフラも未整備なのだ。多くのフィリピン人は、自分たちの地元で話されている母語以外に、公用語であるタガログ語、それに学校教育の中や、社会でいい仕事に就くためには英語が必須になっていて、日本語などの外国語の習得には多大な負担が伴う。
しかしそんな状況の中で、フィリピン政府もようやく最近になって日本語教育に対して真剣に目を向けるようになってきている。国際交流基金でもそうしたニーズに応えるために、2007年の2月から新たに日本語教師養成のための研修講座を開講したり、高校生の日本語学習ニーズを開拓するため「日本語キャラバン」という模擬授業や日本語を使った文化紹介をパッケージにしたプログラムを開発し、マニラ近郊の高校を中心に巡回デモンストレーションを開始した。今後日本語のニーズは、産業界はもちろん、大学や高校でもますます高まっていくことだろう。
高校での日本語キャラバン
いま日本語は、少子高齢化で人材不足にあえぎ将来に不安を抱える日本の人々と、人口過剰や貧富の格差拡大という問題を抱えながらもより良き将来を求めるフィリピンの人々をつなぐ、希望の鍵を握っていると言える。これまでジャパゆきさんがそうであったように、そう遠くない将来、フィリピン人看護師や介護士、それにIT技術者が日本の津々浦々で活躍する日がやってくるかもしれない。経済的な繁栄を成し遂げて、成熟した高齢化社会に向かうはずの私たちが、本当にアジアの隣人に信頼される存在になれるのか。お互いの相互不信を乗り越えて、心を開きより豊かな共生関係を築くことができるのか。そんな新たな時代を目前にして、私たちこそが試されているのかもしれない。不信感や偏見の克服というテーマは、まさに文化の領域だろう。「ジャパゆきを超えて」、それは今私たち全てに向けられたメッセージなのだと思う。
(了)
2008/03/24
2008/03/17
日本食紹介の新たな試み、「フィリピン全国弁当コンテスト」
いまや世界的に身近なものとなった日本料理。各地それぞれの嗜好に合った味付けや文化状況を反映したアレンジで、様々なバリエーションの日本食が試されている。ここフィリピンでも、“テンプラ”、“スシ”、“テリヤキ”は誰もが知っている日本語。巷には「TOKYO TOKYO」といった分かり易いものや、はては「太つた少年」などという怪しいネーミングの日本食ファースト・フード・チェーンから創作懐石料理を出す高級店まで、数え切れないほどの日本料理店があふれている。
最早“ブーム”と言うだけでは片付けられないジャパニーズフード。国際交流基金の機関誌『遠近』で、様々な角度から世界で愛される日本食を紹介・分析したのは2006年4月のことだった。日本政府もあらためてジャパン・ブランドとしての日本食の振興に取り組み始めている。そうしておそらく世界における今後の日本食は、洗練された味やオリジナルな味を追求することで発展する一方で、日本食を味わうユニークなスタイルやコンセプトといったものがますます多様化してゆくことだろう。
今回マニラ事務所では、日本食を紹介する新たなかたちのイベントとして「フィリピン全国弁当コンテスト」を実施した。当地でも日本のポピュラーカルチャーは絶大な人気があり、日本食もいわばそんなポピュラーカルチャーの代表選手。日本食を巡る様々な文化的要素の中でも大衆性に着目し、伝統的だけれど極めて日常的な文化である「弁当」に焦点を当て、多くの若い人たちを中心とした一般の方々にアピールするようなイベントを企画した。そして日本の誇る「駅弁」文化や、日本の今の現代感覚を生き生きと反映した「キャラ弁」を紹介するとともに、フィリピン人による独創的な弁当、各地のローカルな食材を使った弁当作りのコンテストを実施した。会場はマニラ首都圏のほぼ中央に位置して、日々大勢の買い物客を集めるシャングリラ・プラザ・モール。ハイエンドなお客さんが対象のちょっとお洒落なショッピングセンターで、2月23日と24日の2日間、関連のイベントとも合わせ推定でのべ1万人以上のお客様が来場した。
一説によれば弁当は、その起源を平安時代までさかのぼることができる立派な日本の伝統文化だ。冷たくてもおいしいご飯やおかずを用いて、携帯性に優れ、農作業や旅のお供として発達した。今回もまずはその携帯文化の粋とも言える日本の「駅弁」に焦点を当て、全国各地の3000を超えると推定される駅弁の中から、独創性とデザイン性に優れた50の駅弁を選び、パッケージや写真を展示して紹介をした。
駅弁展示風景
さらに日本から、“キャラ弁”やとてもキュートな“ファンシーお弁当”の作者で、毎日新作弁当を制作してWEBサイト(http://www.e-obento.com/)上に公開している宮澤真理さんを招待して、デモンストレーションを実施した。楽しく心のこもったお弁当作りに活用できるテクニックや、フィリピンで人気のある世界最小の猿“ターシャ”をモチーフとした新作キャラ弁を紹介。当地のクオリティー・ペーパーであるPhilippines Daily Inquirerでも大きく取り上げられて大反響だった。
ターシャ弁当(写真提供:宮澤真理氏)
メインイベントとなった「フィリピン全国弁当コンテスト」では、全国各地から寄せられた応募の中から予選審査を通過した8組の若きシェフたちが出場して腕を競った。ルソン島北部のビガン市、中部ビコール地方からはナーガ市やパナイ島のイロイロ市、南部ミンダナオ島からはカガヤン・デ・オロ市、そしてマニラ首都圏からは4組と、それぞれ各地を代表する大学や料理学校の学生が中心で、文字通りの全国大会となった。決戦大会となった当日はショッピングセンターの中央吹き抜けのスペースに特設舞台を設け、そこに『料理の鉄人』にならって公開キッチンを設営。1組各4人、1時間ずつ2回に分けて観衆の前で調理が行われた。
調理中のコンテスタント
優勝したのはマニラにある大学の家政科に通うラレイン・リムさん。マンゴーなどフィリピンの新鮮な食材を使った寿司を中心に、日本の弁当のコンセプトをよく理解した携帯性に優れた作品だった。他にも各地の素材のバラエティが生かされたローカル色豊かなお弁当が並んだ。そして弁当箱もフィリピンらしくバナナや椰子の葉を使ったオリジナリティにあふれた作品だった。まさに“比魂和才”。日本の弁当という器にフィリピン各地の味と知恵を盛り付け、日比フュージョンの新しい弁当作品が誕生した。元来フィリピンはハロハロ文化、様々な文化の交じり合った“メスティーソ”文化の国。外国のものを吸収して消化する能力はなかなか優れたものを持っている。
バナナの葉で編んだ箱の弁当
今回の企画を通して、日本食はこれまでも、そしてこれからも、世界中で新たな解釈と試みに触発されて発展し、それぞれの土地のそれぞれの人々に愛され続けてゆくのだろうと確信した。
(了)
最早“ブーム”と言うだけでは片付けられないジャパニーズフード。国際交流基金の機関誌『遠近』で、様々な角度から世界で愛される日本食を紹介・分析したのは2006年4月のことだった。日本政府もあらためてジャパン・ブランドとしての日本食の振興に取り組み始めている。そうしておそらく世界における今後の日本食は、洗練された味やオリジナルな味を追求することで発展する一方で、日本食を味わうユニークなスタイルやコンセプトといったものがますます多様化してゆくことだろう。
今回マニラ事務所では、日本食を紹介する新たなかたちのイベントとして「フィリピン全国弁当コンテスト」を実施した。当地でも日本のポピュラーカルチャーは絶大な人気があり、日本食もいわばそんなポピュラーカルチャーの代表選手。日本食を巡る様々な文化的要素の中でも大衆性に着目し、伝統的だけれど極めて日常的な文化である「弁当」に焦点を当て、多くの若い人たちを中心とした一般の方々にアピールするようなイベントを企画した。そして日本の誇る「駅弁」文化や、日本の今の現代感覚を生き生きと反映した「キャラ弁」を紹介するとともに、フィリピン人による独創的な弁当、各地のローカルな食材を使った弁当作りのコンテストを実施した。会場はマニラ首都圏のほぼ中央に位置して、日々大勢の買い物客を集めるシャングリラ・プラザ・モール。ハイエンドなお客さんが対象のちょっとお洒落なショッピングセンターで、2月23日と24日の2日間、関連のイベントとも合わせ推定でのべ1万人以上のお客様が来場した。
一説によれば弁当は、その起源を平安時代までさかのぼることができる立派な日本の伝統文化だ。冷たくてもおいしいご飯やおかずを用いて、携帯性に優れ、農作業や旅のお供として発達した。今回もまずはその携帯文化の粋とも言える日本の「駅弁」に焦点を当て、全国各地の3000を超えると推定される駅弁の中から、独創性とデザイン性に優れた50の駅弁を選び、パッケージや写真を展示して紹介をした。
駅弁展示風景
さらに日本から、“キャラ弁”やとてもキュートな“ファンシーお弁当”の作者で、毎日新作弁当を制作してWEBサイト(http://www.e-obento.com/)上に公開している宮澤真理さんを招待して、デモンストレーションを実施した。楽しく心のこもったお弁当作りに活用できるテクニックや、フィリピンで人気のある世界最小の猿“ターシャ”をモチーフとした新作キャラ弁を紹介。当地のクオリティー・ペーパーであるPhilippines Daily Inquirerでも大きく取り上げられて大反響だった。
ターシャ弁当(写真提供:宮澤真理氏)
メインイベントとなった「フィリピン全国弁当コンテスト」では、全国各地から寄せられた応募の中から予選審査を通過した8組の若きシェフたちが出場して腕を競った。ルソン島北部のビガン市、中部ビコール地方からはナーガ市やパナイ島のイロイロ市、南部ミンダナオ島からはカガヤン・デ・オロ市、そしてマニラ首都圏からは4組と、それぞれ各地を代表する大学や料理学校の学生が中心で、文字通りの全国大会となった。決戦大会となった当日はショッピングセンターの中央吹き抜けのスペースに特設舞台を設け、そこに『料理の鉄人』にならって公開キッチンを設営。1組各4人、1時間ずつ2回に分けて観衆の前で調理が行われた。
調理中のコンテスタント
優勝したのはマニラにある大学の家政科に通うラレイン・リムさん。マンゴーなどフィリピンの新鮮な食材を使った寿司を中心に、日本の弁当のコンセプトをよく理解した携帯性に優れた作品だった。他にも各地の素材のバラエティが生かされたローカル色豊かなお弁当が並んだ。そして弁当箱もフィリピンらしくバナナや椰子の葉を使ったオリジナリティにあふれた作品だった。まさに“比魂和才”。日本の弁当という器にフィリピン各地の味と知恵を盛り付け、日比フュージョンの新しい弁当作品が誕生した。元来フィリピンはハロハロ文化、様々な文化の交じり合った“メスティーソ”文化の国。外国のものを吸収して消化する能力はなかなか優れたものを持っている。
バナナの葉で編んだ箱の弁当
今回の企画を通して、日本食はこれまでも、そしてこれからも、世界中で新たな解釈と試みに触発されて発展し、それぞれの土地のそれぞれの人々に愛され続けてゆくのだろうと確信した。
(了)
2008/03/04
ビバ・バクラ!ゲイ・カルチャーなくしてフィリピンは語れない
2008年2月7日、マニラでは約10年ぶりとなる歌舞伎のレクチャーとデモンストレーションが実施された。出演は中村京蔵氏と中村又之助氏で松竹の制作、主催は国際交流基金である。演目は、女形の艶やかな踊りである「鷺娘(さぎむすめ)」と、立役による勇壮な獅子の踊りである「石橋(しゃっきょう)」で、途中にレクチャーが入った構成。レクデモ終了後、ご覧になった多くの方々から「初めて本物の歌舞伎を観た」というコメントが寄せられた。
中には激烈に「歌舞伎を見ることが自分の夢だった。今回その夢が適い、生涯の思い出に残る経験(ライフタイム・エクスペリエンス)となった。」とのコメントもあった。そうしたコメントから、歌舞伎を観るということは、ある人々にとっては「夢」の実現に属する一大事件なのだということに気が付いた。おそらく多くの外国人にとって、歌舞伎を観るということは、日本を代表するイメージであり、書物や美術作品、映像、さらには日常生活の表象(食品の標章や日本食レストラン)等、様々なメディアを通じて引用され続け、長年自らの想像の中で抱き続けてきたイメージである歌舞伎を、実際に目のあたりにするという、かなり特殊な”体験“であるということに思い至った。
「鷺娘」という演目は、世界的にも稀有な伝統的女形の魅力を存分に堪能するのにうってつけの演目だったと思う。鳥が人間に化身するという世界中で親しまれているモチーフゆえに、外国人にとっても大変理解し易く、物語の理解へ費やすエネルギーがほとんど必要ない分、純粋にその技(ワザ)や美的世界に集中することができたのではないかと思われる。そして歌舞伎の公演で通常強調される「伝統」よりも、後見の助けを受けて一瞬の内に衣装が早替わる「引き抜き」という技の革新性が際立って、それによって引き立てられる美的世界観がうっとりするほど見事に伝わったのだと思う。
ところでこの歌舞伎の女形。レクチャーでは、「男性の目を通して見た女性像を抽象的に表現したもの」と解説があった。もちろん女形の説明としてはそれで正しいのかもしれないが、その特殊な形に込められた様々な意味や背景を推し量るには、それだけでは不十分なのかもしれない。実際歌舞伎の世界で女形の役者さんたちは、虚構の世界における形を求めるあまり、実生活でも「女」のようなふるまいをすることが多いと仄聞する。
女形と言って思い出されるのは、2001年に国際交流基金の主催で行われた「アジアの女形」という公演だ。中国の越劇や、インドの「セライケラのチョウ」という伝統的な仮面舞踊、そして当時私が駐在していたインドネシアからは、ジャワ舞踊のディディ・ニニトウォ氏が招待されて比較上演された。形はそれぞれ違っても、男性が女性を演じるという大前提は同じだ。歌舞伎の女形のように極めて抽象度も高く、昇華された様式となって今に残っているものは世界でも稀だが、男が女を演じること自体、もちろん古今東西それほど珍しいことではない。
やはりこれもインドネシアに駐在していた時のことだが、フィリピンのほぼ真南に位置するスラウェシ島のある村を訪れ、今も残る「チャラバイ」という女装した男性シャーマンに会ったことがある。彼は常に女装をしていて、つまり外見的にはオカマであるが、儀式になるとシャーマンとなり、憑依状態になって真剣を胸に押し付けたりして、まさに“男まさり”の祈りを司っていた。もともと女性が神聖な儀式を執り行う社会では、男性は女性の神聖性や、時に魔性というものを求めて、自らすすんで女装をしたという。そして、こうして性を越えた人々は、神と人間との仲介者となったり、社会的弱者である女性の相談役や男女の仲介者となったりして、コミュニティーの中で重要な社会的機能を持つようになったと考えられている。
日本の伝統芸能であり、世界遺産でもある歌舞伎と一緒に述べるのは“不謹慎”であるとも言えるが、折角の機会なので、この機に乗じてフィリピンの“誇るべき”ゲイ・カルチャーについて書いておく。もう少し品良く言えば、フィリピンは知る人ぞ知る、第三ジェンダー(第三の性)やトランスジェンダー(越境した性)の宝庫なのだ。特にオカマはここでは「バクラ」と呼ばれ、貧富を問わず地域を問わず、社会に密着してまさに遍く存在し、コミュニティーの中では欠かせない愛すべきキャラクターである。そう、バクラなくしてフィリピン文化は語れない。まだまだ偏見や差別はあるものの、日本に比べればオープンでおおらか。映画、演劇、テレビなどのメディアでもたびたび登場して、人々を爆笑とペーソスに誘う。いくつか興味深い例を紹介しておく。
まずは映画で、このブログでも何度か紹介したことのあるヤマモト・ミチコ脚本の『マキシモ・オベリロスの初恋』。貧しいスラムに生活するマキシモ君というバクラ少年のほろ苦い初恋の物語だ。ここでは10歳に満たない子供で、既に立派にカミングアウトしている男の子が主人公であることに注目。家族の中でもコミュニティーの中でも、世話好きな愛くるしいキャラとして、確固たる居場所を持っている。私も以前あるスラムを訪れた際、同じようなバクラ少年を見かけることがあった。フィリピンの社会ではそうした早熟なバクラは珍しくはない。
マキシモ君
それから日本の川口市にあるスキップシティーの国際Dシネマ映画祭で、昨年コンペ部門に出品されて話題になり、最近マニラでも公開されたイスラエル映画『ペーパー・ドール』(トメル・ヘイマン監督)。イスラエルに出稼ぎに行き、ユダヤ人の老人介護をしながら生活するフィリピン人のバクラ4人組が、“ペーパー・ドール”というダンスグループを結成して助け合って生活していた、という実話に基づいた異色のドキュメンタリー映画だ。世界の出稼ぎ大国フィリピンならではの実話だが、国際問題で非難の集中するイスラエルにも国内には深刻な高齢化問題があり、これからの日本を髣髴とさせるようにフィリピン人ケアー・ギバーがそれを支えていて、しかもそれがとても心優しいバクラたちなのだ。
もう一つ映画の話題で、バクラもので日本と関係がある作品といえば、2004年にメジャー系のリーガル・エンターテイメントで製作された『愛シテ、イマス。1941』(ジョエル・ラマンガン監督)。日本占領時代を舞台に、当代の人気俳優であるデニス・トリーリョ演じるフィリピン人のバクラ青年が、当初は日本軍の動向を探るスパイだったはずが、逆に日本人将校に恋をしてしまうという物語。日本人将校と地元民との恋愛話は、有名なタイの小説でたびたび映画にもなった『メナムの残照』をぱくったストーリーだろうが、実はその現地人の恋人がオカマだったという、あきれたナンセンスぶりが非常にフィリピンらしい。東南アジアで最大規模の犠牲者を出したフィリピンだけに、日本の戦争の描き方は無論、日本人=悪一辺倒であり、ステレオタイプ化された描き方がほとんどであっただけに、バクラというキャラクターを介して、これまでとは全く異なる戦争を描いた点では新しいといえる。ちなみにこの作品は2005年の東京国際映画祭で公開されている。
ところで、どうしてこの国では、バクラがこれほどまでに社会の至るところに顕在しているのだろうか。はっきりとした理由はわからないが、先に書いたインドネシアの「チャラバイ」のように、性別を超越して、あるいは男と女の中間的な要素を身につけて、ある特殊な社会的役割を果たしてきた人々は世界各地に広く存在しているようだが、東南アジアでは、特にその名残が強く残っているからなのかもしれない。そうした第三の性に対して、性に関するタブーの多い西欧キリスト教社会や、イスラム社会ほどには異端視してこなかったからとも考えられる。
とはいえ、バクラやゲイ・カルチャーといったものが、これほどおおぴっらに語られるようになったのは、それほど過去のことではないようだ。ANVIL出版というフィリピンで最も信頼されている出版社から『Ladlad: An Anthology of Philippines Gay Writing』(“Ladlad”は曝け出すという意味のゲイ仲間によるタガログ語の隠語)という本が出版されたのが1994年のこと。その序文の中で、編集者のダントン・レモト氏は以下のように書いている。
「暗闇の後から、光が訪れて、窒息するほどの小部屋から出てきた後は、その暗闇が単なる影であったことを悟るのだ。“カミング・アウト”することは、それぞれの性の嗜好を受け入れること。・・“そう、何度神に祈ろうとも、何人の女性と交わろうとも、本当の私を変えることはできない。”」
この序文によって編者のレモト氏は、当時おそらく自らゲイであることを“カミング・アウト”したように、ゲイ文学とゲイ・カルチャーを世間に向かって高らかに“カミング・アウト”したのだろう。その後この本は予想外の反響を得て、1996年に同じ出版社から『Ladlad2』が出版された。そして、いまやゲイ文学は国立フィリピン大学などでも教えられるような“メジャー”な存在になり、さらに昨年には『Ladlad3』が出版されている。
『Ladlad』と『Ladlad2』
そんなゲイ・カルチャーに対する世間の視線の変化を決定的に象徴づけたのが、2006年2月、国立タンハーラン・ピリピーノ劇団によって制作されたスーパー・オカマ・ヒローを主人公にしたSFミュージカル・コメディー、『シャシャ・ザトゥルナー』だ。原作はアメリカン・テイストのコミック・ブック(カルロ・ベルガラ作)。
『シャシャ・ザトゥルナー』原作コミック
主人公のゲイの美容師が、ある日突然空から降ってきた「ザトゥールナ」という石を飲み込んだところ、強大な力をもつ絶世の美貌のスーパー・ヒロイン「シャシャ・ザトゥールナ」に変身。「自由と真実と正義と沢山の素晴らしいヘアカラー剤を求め、彼女は新天地を守るべく、巨大ガエルや殺気立ったゾンビたち、しいては男性を憎悪する女王フェミーナに率いられたX星のアマゾニスタたちとひるむことなく果敢に戦う」(映画の宣伝より)というハチャメチャなストーリーである。社会に必要とされる微笑ましい存在ではあるが、常に弱々しいアウトローであって、決してメインストリームになりえないバクラが、ある日突然ヒーロー(ヒロイン?)になってしまうというパラダイム転換の物語だ。若者を中心にヒットして連日満員御礼。チケットを入手するのが困難な作品となり、その後何度か再演を重ねた。映画にもなって、2007年には東京国際シネフェスティバルでも公開されたようだ。
『シャシャ・ザトゥルナー』ミュージカル・バージョン
ジェンダーの問題は、最も個人の内奥に属する極めて人間的なテーマだ。であると同時に、極めて社会的なテーマでもある。隣国のマレーシアでは、かつて首相候補といわれた政治家がホモ・セクシュアルの疑いで逮捕され、有罪となって失脚してしまった。スーパー・オカマ・ヒーローの活躍に沸くフィリピンは、ある意味、そうした隠微さに潔くさからい、個人の尊厳を求めてやまない、ジェンダーを巡る表現のフロンティアなのかもしれない。
(了)
中には激烈に「歌舞伎を見ることが自分の夢だった。今回その夢が適い、生涯の思い出に残る経験(ライフタイム・エクスペリエンス)となった。」とのコメントもあった。そうしたコメントから、歌舞伎を観るということは、ある人々にとっては「夢」の実現に属する一大事件なのだということに気が付いた。おそらく多くの外国人にとって、歌舞伎を観るということは、日本を代表するイメージであり、書物や美術作品、映像、さらには日常生活の表象(食品の標章や日本食レストラン)等、様々なメディアを通じて引用され続け、長年自らの想像の中で抱き続けてきたイメージである歌舞伎を、実際に目のあたりにするという、かなり特殊な”体験“であるということに思い至った。
「鷺娘」という演目は、世界的にも稀有な伝統的女形の魅力を存分に堪能するのにうってつけの演目だったと思う。鳥が人間に化身するという世界中で親しまれているモチーフゆえに、外国人にとっても大変理解し易く、物語の理解へ費やすエネルギーがほとんど必要ない分、純粋にその技(ワザ)や美的世界に集中することができたのではないかと思われる。そして歌舞伎の公演で通常強調される「伝統」よりも、後見の助けを受けて一瞬の内に衣装が早替わる「引き抜き」という技の革新性が際立って、それによって引き立てられる美的世界観がうっとりするほど見事に伝わったのだと思う。
ところでこの歌舞伎の女形。レクチャーでは、「男性の目を通して見た女性像を抽象的に表現したもの」と解説があった。もちろん女形の説明としてはそれで正しいのかもしれないが、その特殊な形に込められた様々な意味や背景を推し量るには、それだけでは不十分なのかもしれない。実際歌舞伎の世界で女形の役者さんたちは、虚構の世界における形を求めるあまり、実生活でも「女」のようなふるまいをすることが多いと仄聞する。
女形と言って思い出されるのは、2001年に国際交流基金の主催で行われた「アジアの女形」という公演だ。中国の越劇や、インドの「セライケラのチョウ」という伝統的な仮面舞踊、そして当時私が駐在していたインドネシアからは、ジャワ舞踊のディディ・ニニトウォ氏が招待されて比較上演された。形はそれぞれ違っても、男性が女性を演じるという大前提は同じだ。歌舞伎の女形のように極めて抽象度も高く、昇華された様式となって今に残っているものは世界でも稀だが、男が女を演じること自体、もちろん古今東西それほど珍しいことではない。
やはりこれもインドネシアに駐在していた時のことだが、フィリピンのほぼ真南に位置するスラウェシ島のある村を訪れ、今も残る「チャラバイ」という女装した男性シャーマンに会ったことがある。彼は常に女装をしていて、つまり外見的にはオカマであるが、儀式になるとシャーマンとなり、憑依状態になって真剣を胸に押し付けたりして、まさに“男まさり”の祈りを司っていた。もともと女性が神聖な儀式を執り行う社会では、男性は女性の神聖性や、時に魔性というものを求めて、自らすすんで女装をしたという。そして、こうして性を越えた人々は、神と人間との仲介者となったり、社会的弱者である女性の相談役や男女の仲介者となったりして、コミュニティーの中で重要な社会的機能を持つようになったと考えられている。
日本の伝統芸能であり、世界遺産でもある歌舞伎と一緒に述べるのは“不謹慎”であるとも言えるが、折角の機会なので、この機に乗じてフィリピンの“誇るべき”ゲイ・カルチャーについて書いておく。もう少し品良く言えば、フィリピンは知る人ぞ知る、第三ジェンダー(第三の性)やトランスジェンダー(越境した性)の宝庫なのだ。特にオカマはここでは「バクラ」と呼ばれ、貧富を問わず地域を問わず、社会に密着してまさに遍く存在し、コミュニティーの中では欠かせない愛すべきキャラクターである。そう、バクラなくしてフィリピン文化は語れない。まだまだ偏見や差別はあるものの、日本に比べればオープンでおおらか。映画、演劇、テレビなどのメディアでもたびたび登場して、人々を爆笑とペーソスに誘う。いくつか興味深い例を紹介しておく。
まずは映画で、このブログでも何度か紹介したことのあるヤマモト・ミチコ脚本の『マキシモ・オベリロスの初恋』。貧しいスラムに生活するマキシモ君というバクラ少年のほろ苦い初恋の物語だ。ここでは10歳に満たない子供で、既に立派にカミングアウトしている男の子が主人公であることに注目。家族の中でもコミュニティーの中でも、世話好きな愛くるしいキャラとして、確固たる居場所を持っている。私も以前あるスラムを訪れた際、同じようなバクラ少年を見かけることがあった。フィリピンの社会ではそうした早熟なバクラは珍しくはない。
マキシモ君
それから日本の川口市にあるスキップシティーの国際Dシネマ映画祭で、昨年コンペ部門に出品されて話題になり、最近マニラでも公開されたイスラエル映画『ペーパー・ドール』(トメル・ヘイマン監督)。イスラエルに出稼ぎに行き、ユダヤ人の老人介護をしながら生活するフィリピン人のバクラ4人組が、“ペーパー・ドール”というダンスグループを結成して助け合って生活していた、という実話に基づいた異色のドキュメンタリー映画だ。世界の出稼ぎ大国フィリピンならではの実話だが、国際問題で非難の集中するイスラエルにも国内には深刻な高齢化問題があり、これからの日本を髣髴とさせるようにフィリピン人ケアー・ギバーがそれを支えていて、しかもそれがとても心優しいバクラたちなのだ。
もう一つ映画の話題で、バクラもので日本と関係がある作品といえば、2004年にメジャー系のリーガル・エンターテイメントで製作された『愛シテ、イマス。1941』(ジョエル・ラマンガン監督)。日本占領時代を舞台に、当代の人気俳優であるデニス・トリーリョ演じるフィリピン人のバクラ青年が、当初は日本軍の動向を探るスパイだったはずが、逆に日本人将校に恋をしてしまうという物語。日本人将校と地元民との恋愛話は、有名なタイの小説でたびたび映画にもなった『メナムの残照』をぱくったストーリーだろうが、実はその現地人の恋人がオカマだったという、あきれたナンセンスぶりが非常にフィリピンらしい。東南アジアで最大規模の犠牲者を出したフィリピンだけに、日本の戦争の描き方は無論、日本人=悪一辺倒であり、ステレオタイプ化された描き方がほとんどであっただけに、バクラというキャラクターを介して、これまでとは全く異なる戦争を描いた点では新しいといえる。ちなみにこの作品は2005年の東京国際映画祭で公開されている。
ところで、どうしてこの国では、バクラがこれほどまでに社会の至るところに顕在しているのだろうか。はっきりとした理由はわからないが、先に書いたインドネシアの「チャラバイ」のように、性別を超越して、あるいは男と女の中間的な要素を身につけて、ある特殊な社会的役割を果たしてきた人々は世界各地に広く存在しているようだが、東南アジアでは、特にその名残が強く残っているからなのかもしれない。そうした第三の性に対して、性に関するタブーの多い西欧キリスト教社会や、イスラム社会ほどには異端視してこなかったからとも考えられる。
とはいえ、バクラやゲイ・カルチャーといったものが、これほどおおぴっらに語られるようになったのは、それほど過去のことではないようだ。ANVIL出版というフィリピンで最も信頼されている出版社から『Ladlad: An Anthology of Philippines Gay Writing』(“Ladlad”は曝け出すという意味のゲイ仲間によるタガログ語の隠語)という本が出版されたのが1994年のこと。その序文の中で、編集者のダントン・レモト氏は以下のように書いている。
「暗闇の後から、光が訪れて、窒息するほどの小部屋から出てきた後は、その暗闇が単なる影であったことを悟るのだ。“カミング・アウト”することは、それぞれの性の嗜好を受け入れること。・・“そう、何度神に祈ろうとも、何人の女性と交わろうとも、本当の私を変えることはできない。”」
この序文によって編者のレモト氏は、当時おそらく自らゲイであることを“カミング・アウト”したように、ゲイ文学とゲイ・カルチャーを世間に向かって高らかに“カミング・アウト”したのだろう。その後この本は予想外の反響を得て、1996年に同じ出版社から『Ladlad2』が出版された。そして、いまやゲイ文学は国立フィリピン大学などでも教えられるような“メジャー”な存在になり、さらに昨年には『Ladlad3』が出版されている。
『Ladlad』と『Ladlad2』
そんなゲイ・カルチャーに対する世間の視線の変化を決定的に象徴づけたのが、2006年2月、国立タンハーラン・ピリピーノ劇団によって制作されたスーパー・オカマ・ヒローを主人公にしたSFミュージカル・コメディー、『シャシャ・ザトゥルナー』だ。原作はアメリカン・テイストのコミック・ブック(カルロ・ベルガラ作)。
『シャシャ・ザトゥルナー』原作コミック
主人公のゲイの美容師が、ある日突然空から降ってきた「ザトゥールナ」という石を飲み込んだところ、強大な力をもつ絶世の美貌のスーパー・ヒロイン「シャシャ・ザトゥールナ」に変身。「自由と真実と正義と沢山の素晴らしいヘアカラー剤を求め、彼女は新天地を守るべく、巨大ガエルや殺気立ったゾンビたち、しいては男性を憎悪する女王フェミーナに率いられたX星のアマゾニスタたちとひるむことなく果敢に戦う」(映画の宣伝より)というハチャメチャなストーリーである。社会に必要とされる微笑ましい存在ではあるが、常に弱々しいアウトローであって、決してメインストリームになりえないバクラが、ある日突然ヒーロー(ヒロイン?)になってしまうというパラダイム転換の物語だ。若者を中心にヒットして連日満員御礼。チケットを入手するのが困難な作品となり、その後何度か再演を重ねた。映画にもなって、2007年には東京国際シネフェスティバルでも公開されたようだ。
『シャシャ・ザトゥルナー』ミュージカル・バージョン
ジェンダーの問題は、最も個人の内奥に属する極めて人間的なテーマだ。であると同時に、極めて社会的なテーマでもある。隣国のマレーシアでは、かつて首相候補といわれた政治家がホモ・セクシュアルの疑いで逮捕され、有罪となって失脚してしまった。スーパー・オカマ・ヒーローの活躍に沸くフィリピンは、ある意味、そうした隠微さに潔くさからい、個人の尊厳を求めてやまない、ジェンダーを巡る表現のフロンティアなのかもしれない。
(了)
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