2008年2月7日、マニラでは約10年ぶりとなる歌舞伎のレクチャーとデモンストレーションが実施された。出演は中村京蔵氏と中村又之助氏で松竹の制作、主催は国際交流基金である。演目は、女形の艶やかな踊りである「鷺娘(さぎむすめ)」と、立役による勇壮な獅子の踊りである「石橋(しゃっきょう)」で、途中にレクチャーが入った構成。レクデモ終了後、ご覧になった多くの方々から「初めて本物の歌舞伎を観た」というコメントが寄せられた。
中には激烈に「歌舞伎を見ることが自分の夢だった。今回その夢が適い、生涯の思い出に残る経験(ライフタイム・エクスペリエンス)となった。」とのコメントもあった。そうしたコメントから、歌舞伎を観るということは、ある人々にとっては「夢」の実現に属する一大事件なのだということに気が付いた。おそらく多くの外国人にとって、歌舞伎を観るということは、日本を代表するイメージであり、書物や美術作品、映像、さらには日常生活の表象(食品の標章や日本食レストラン)等、様々なメディアを通じて引用され続け、長年自らの想像の中で抱き続けてきたイメージである歌舞伎を、実際に目のあたりにするという、かなり特殊な”体験“であるということに思い至った。
「鷺娘」という演目は、世界的にも稀有な伝統的女形の魅力を存分に堪能するのにうってつけの演目だったと思う。鳥が人間に化身するという世界中で親しまれているモチーフゆえに、外国人にとっても大変理解し易く、物語の理解へ費やすエネルギーがほとんど必要ない分、純粋にその技(ワザ)や美的世界に集中することができたのではないかと思われる。そして歌舞伎の公演で通常強調される「伝統」よりも、後見の助けを受けて一瞬の内に衣装が早替わる「引き抜き」という技の革新性が際立って、それによって引き立てられる美的世界観がうっとりするほど見事に伝わったのだと思う。
ところでこの歌舞伎の女形。レクチャーでは、「男性の目を通して見た女性像を抽象的に表現したもの」と解説があった。もちろん女形の説明としてはそれで正しいのかもしれないが、その特殊な形に込められた様々な意味や背景を推し量るには、それだけでは不十分なのかもしれない。実際歌舞伎の世界で女形の役者さんたちは、虚構の世界における形を求めるあまり、実生活でも「女」のようなふるまいをすることが多いと仄聞する。
女形と言って思い出されるのは、2001年に国際交流基金の主催で行われた「アジアの女形」という公演だ。中国の越劇や、インドの「セライケラのチョウ」という伝統的な仮面舞踊、そして当時私が駐在していたインドネシアからは、ジャワ舞踊のディディ・ニニトウォ氏が招待されて比較上演された。形はそれぞれ違っても、男性が女性を演じるという大前提は同じだ。歌舞伎の女形のように極めて抽象度も高く、昇華された様式となって今に残っているものは世界でも稀だが、男が女を演じること自体、もちろん古今東西それほど珍しいことではない。
やはりこれもインドネシアに駐在していた時のことだが、フィリピンのほぼ真南に位置するスラウェシ島のある村を訪れ、今も残る「チャラバイ」という女装した男性シャーマンに会ったことがある。彼は常に女装をしていて、つまり外見的にはオカマであるが、儀式になるとシャーマンとなり、憑依状態になって真剣を胸に押し付けたりして、まさに“男まさり”の祈りを司っていた。もともと女性が神聖な儀式を執り行う社会では、男性は女性の神聖性や、時に魔性というものを求めて、自らすすんで女装をしたという。そして、こうして性を越えた人々は、神と人間との仲介者となったり、社会的弱者である女性の相談役や男女の仲介者となったりして、コミュニティーの中で重要な社会的機能を持つようになったと考えられている。
日本の伝統芸能であり、世界遺産でもある歌舞伎と一緒に述べるのは“不謹慎”であるとも言えるが、折角の機会なので、この機に乗じてフィリピンの“誇るべき”ゲイ・カルチャーについて書いておく。もう少し品良く言えば、フィリピンは知る人ぞ知る、第三ジェンダー(第三の性)やトランスジェンダー(越境した性)の宝庫なのだ。特にオカマはここでは「バクラ」と呼ばれ、貧富を問わず地域を問わず、社会に密着してまさに遍く存在し、コミュニティーの中では欠かせない愛すべきキャラクターである。そう、バクラなくしてフィリピン文化は語れない。まだまだ偏見や差別はあるものの、日本に比べればオープンでおおらか。映画、演劇、テレビなどのメディアでもたびたび登場して、人々を爆笑とペーソスに誘う。いくつか興味深い例を紹介しておく。
まずは映画で、このブログでも何度か紹介したことのあるヤマモト・ミチコ脚本の『マキシモ・オベリロスの初恋』。貧しいスラムに生活するマキシモ君というバクラ少年のほろ苦い初恋の物語だ。ここでは10歳に満たない子供で、既に立派にカミングアウトしている男の子が主人公であることに注目。家族の中でもコミュニティーの中でも、世話好きな愛くるしいキャラとして、確固たる居場所を持っている。私も以前あるスラムを訪れた際、同じようなバクラ少年を見かけることがあった。フィリピンの社会ではそうした早熟なバクラは珍しくはない。
マキシモ君
それから日本の川口市にあるスキップシティーの国際Dシネマ映画祭で、昨年コンペ部門に出品されて話題になり、最近マニラでも公開されたイスラエル映画『ペーパー・ドール』(トメル・ヘイマン監督)。イスラエルに出稼ぎに行き、ユダヤ人の老人介護をしながら生活するフィリピン人のバクラ4人組が、“ペーパー・ドール”というダンスグループを結成して助け合って生活していた、という実話に基づいた異色のドキュメンタリー映画だ。世界の出稼ぎ大国フィリピンならではの実話だが、国際問題で非難の集中するイスラエルにも国内には深刻な高齢化問題があり、これからの日本を髣髴とさせるようにフィリピン人ケアー・ギバーがそれを支えていて、しかもそれがとても心優しいバクラたちなのだ。
もう一つ映画の話題で、バクラもので日本と関係がある作品といえば、2004年にメジャー系のリーガル・エンターテイメントで製作された『愛シテ、イマス。1941』(ジョエル・ラマンガン監督)。日本占領時代を舞台に、当代の人気俳優であるデニス・トリーリョ演じるフィリピン人のバクラ青年が、当初は日本軍の動向を探るスパイだったはずが、逆に日本人将校に恋をしてしまうという物語。日本人将校と地元民との恋愛話は、有名なタイの小説でたびたび映画にもなった『メナムの残照』をぱくったストーリーだろうが、実はその現地人の恋人がオカマだったという、あきれたナンセンスぶりが非常にフィリピンらしい。東南アジアで最大規模の犠牲者を出したフィリピンだけに、日本の戦争の描き方は無論、日本人=悪一辺倒であり、ステレオタイプ化された描き方がほとんどであっただけに、バクラというキャラクターを介して、これまでとは全く異なる戦争を描いた点では新しいといえる。ちなみにこの作品は2005年の東京国際映画祭で公開されている。
ところで、どうしてこの国では、バクラがこれほどまでに社会の至るところに顕在しているのだろうか。はっきりとした理由はわからないが、先に書いたインドネシアの「チャラバイ」のように、性別を超越して、あるいは男と女の中間的な要素を身につけて、ある特殊な社会的役割を果たしてきた人々は世界各地に広く存在しているようだが、東南アジアでは、特にその名残が強く残っているからなのかもしれない。そうした第三の性に対して、性に関するタブーの多い西欧キリスト教社会や、イスラム社会ほどには異端視してこなかったからとも考えられる。
とはいえ、バクラやゲイ・カルチャーといったものが、これほどおおぴっらに語られるようになったのは、それほど過去のことではないようだ。ANVIL出版というフィリピンで最も信頼されている出版社から『Ladlad: An Anthology of Philippines Gay Writing』(“Ladlad”は曝け出すという意味のゲイ仲間によるタガログ語の隠語)という本が出版されたのが1994年のこと。その序文の中で、編集者のダントン・レモト氏は以下のように書いている。
「暗闇の後から、光が訪れて、窒息するほどの小部屋から出てきた後は、その暗闇が単なる影であったことを悟るのだ。“カミング・アウト”することは、それぞれの性の嗜好を受け入れること。・・“そう、何度神に祈ろうとも、何人の女性と交わろうとも、本当の私を変えることはできない。”」
この序文によって編者のレモト氏は、当時おそらく自らゲイであることを“カミング・アウト”したように、ゲイ文学とゲイ・カルチャーを世間に向かって高らかに“カミング・アウト”したのだろう。その後この本は予想外の反響を得て、1996年に同じ出版社から『Ladlad2』が出版された。そして、いまやゲイ文学は国立フィリピン大学などでも教えられるような“メジャー”な存在になり、さらに昨年には『Ladlad3』が出版されている。
『Ladlad』と『Ladlad2』
そんなゲイ・カルチャーに対する世間の視線の変化を決定的に象徴づけたのが、2006年2月、国立タンハーラン・ピリピーノ劇団によって制作されたスーパー・オカマ・ヒローを主人公にしたSFミュージカル・コメディー、『シャシャ・ザトゥルナー』だ。原作はアメリカン・テイストのコミック・ブック(カルロ・ベルガラ作)。
『シャシャ・ザトゥルナー』原作コミック
主人公のゲイの美容師が、ある日突然空から降ってきた「ザトゥールナ」という石を飲み込んだところ、強大な力をもつ絶世の美貌のスーパー・ヒロイン「シャシャ・ザトゥールナ」に変身。「自由と真実と正義と沢山の素晴らしいヘアカラー剤を求め、彼女は新天地を守るべく、巨大ガエルや殺気立ったゾンビたち、しいては男性を憎悪する女王フェミーナに率いられたX星のアマゾニスタたちとひるむことなく果敢に戦う」(映画の宣伝より)というハチャメチャなストーリーである。社会に必要とされる微笑ましい存在ではあるが、常に弱々しいアウトローであって、決してメインストリームになりえないバクラが、ある日突然ヒーロー(ヒロイン?)になってしまうというパラダイム転換の物語だ。若者を中心にヒットして連日満員御礼。チケットを入手するのが困難な作品となり、その後何度か再演を重ねた。映画にもなって、2007年には東京国際シネフェスティバルでも公開されたようだ。
『シャシャ・ザトゥルナー』ミュージカル・バージョン
ジェンダーの問題は、最も個人の内奥に属する極めて人間的なテーマだ。であると同時に、極めて社会的なテーマでもある。隣国のマレーシアでは、かつて首相候補といわれた政治家がホモ・セクシュアルの疑いで逮捕され、有罪となって失脚してしまった。スーパー・オカマ・ヒーローの活躍に沸くフィリピンは、ある意味、そうした隠微さに潔くさからい、個人の尊厳を求めてやまない、ジェンダーを巡る表現のフロンティアなのかもしれない。
(了)
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1 comment:
面白い記事をありがとうございます。普通のニュースでは分からないことなので面白かったです。もう少し字が大きいと読みやすいです。
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