2007/04/24

マニラ一極集中にもの申す、バギオのアーティスト・コミュニティー


 マニラから北に車で6時間。標高1500メートルの山の中の街、そして“夏の首都”バギオを再訪した。ここで開催されるパフォーマンス・アートのイベント、TAMA07(Tupada Action & Media Art)に参加するためだ(2007年4月21日・22日、国際交流基金マニラ事務所ほか助成)。4月のマニラはとにかく暑く、日中は37度近くなるが、ここバギオはとても涼しくて過ごしやすい。“夏の首都”といわれる由縁である。かつては本当にこの季節になると、マニラから首都機能の一部(大統領執務関係など)が移転したという。そしてバギオは、ここからさらに北の山地地方に連なる玄関口にして、先住民の文化香る“山の首都”でもある。総称して“イゴロット(山の民)”と呼ばれる少数民族が多く移り住んでいるが、彼らは台湾の先住民や、沖縄のおじい、おばあに繋がる人々で、顔立ちは色黒の日本人のよう。素朴でどこか懐かしい。独特な雰囲気の漂う街には、アートを通じて自らの民族的アイデンティティを追及する多くの芸術家も活動していて、一種のコミュニティーを作っている。そんな活気ある街で、5人の日本人アーティストを含む、海外10カ国、総勢38人のパフォーマーが参加するイベントが開かれた。

 「パフォーマンス」は、簡単に言ってしまえば、要するに体を使ったアート。基本的には誰でも、いつでも、どこでも、それが“アート”である、という意思さえあれば発表できる。美術史的には1950年代後半から、ハプニングや反芸術を標榜する「具体」や、「ネオ・ダダ」、「フルクサス」といった前衛的グループによって、現代美術やその時代の閉塞感を打ち破ろうとして現れた、“アヴァンギャルド”アートの流れの中にある。ただ、今の日本では、“アヴァンギャルド”と言っても、美術史の中の言葉でしかないし、政治的や社会的な発言のインパクトの強さを競った時代はもはや過去のもののようだ。それだけに、このパフォーマンスは、日本ではなかなか注目されないけれど、今回バギオにやって来た霜田誠二氏率いるNIPAF(Nippon International Performance Art Festival)というグループは、1993年の結成以来、日本はもとより、世界中でずっとその活動を続けている。世間一般的に脚光を浴びるわけでもなく、ましてや素材が自分の体なので、作品が売れるわけでもなく、普段はフリーターをしながらお金をためて、作品発表や海外でのイベント参加の旅費にあてたりして、それでも頑張っている一団だ。もっともそんな状況は、日本だけというわけでもなく、ここフィリピンにも多くのパフォーマーがいて、皆生活は苦しいけれど、それなりの自負を持って活動を続けている。今回のフェスティバルもそうしたアーティスト達の手作りの祭典である。

                霜田誠二氏

  日本ではなかなか脚光を浴びないパフォーマンス・アートだが、ここフィリピンでは、現代美術のコンテキストの中では主流ともいえるジャンル。画家でも彫刻家でも、ビデオやインスタレーション作家でも、体で表現せずにはおられないアーティストは本当にたくさん存在する。カーニバルのようなアクションを好む民族性、といってしまえばそれまでだが、おそらく理由はそれだけではないだろう。パフォーマンスの原点は、なんといっても、いかにラディカルであるかということ。そうしたラディカルな表現がどこまで許容されるかという、社会のデモクラシー度の検証にもなる。といって最早ほとんど、天皇制などの例外を除き、表現にタブーの存在しない日本では、なかなかその原点の持つ意味は理解しがたいだろうけれど、発展途上の国々、そして強権的、独裁的政権の存在する国々では、それはパフォーマンス・アートの死活問題で、場合によってはアーティスト自らの死活問題にもつながるリアルな話なのだ。今回、ミャンマーから参加したHtein Linは、かって政治犯としてヤンゴンの獄中にあった7年間、民族衣装のロンジーの生地の裏に炭で絵を描き、多くの政治犯の前でパフォーマンスを続けていたという不屈の精神の持ち主だ。

 私もかつてインドネシアのジャカルタに駐在していた時、インドネシアで最もラディカルな女性アーティスト、アラフマヤーニとともに、第1回ジャカルタ国際パフォーマンス・アート・フェスティバルを企画し、NIPAFのメンバーも8名ほど参加した。その時のことについては、「こんなに不安定な時代だからこそ、文化や芸術は人々に必要とされる」というタイトルで文章を書いた。インドネシアで30年以上続いたスハルト独裁政権が崩壊し、いわば権力の空白、混沌とした百家争鳴時代を迎えていた当時の興奮は、今でもはっきりと覚えている。

 「世界各国のアーティストが、それぞれに抱える個人的問題、社会的問題、表現の問題に対し、鋭く切り込む作品を発表した。特にインドネシアの作家たちの社会問題に対するアプローチは鮮明だった。資本主義を批判し軍靴をはいてコカコーラとマクドナルドを痛めつける若者。インドネシアの白地図の上に注射器で採った自らの血液を点々とたらし、臭気ある汚土を食らう二人組。(略)いずれも分かりやすいメッセージを含んだ、強く、真摯な表現。スハルト政権時代には決して起こりようもなかった三日間だった。」
(『国際交流』89号、2000年)

 パフォーマンス・アートの影響力は、この国のアートシーンの中ではなかなかのものがある。周辺の東南アジア諸国の経済発展から取り残された感のあるフィリピン。南部にイスラム原理主義や分離運動、さらにいまだ共産党系の民兵との“内戦”状態にあるこの国では、常に軍の存在に怯え、いつなんどき強権政治が復活してもおかしくない状況にある。実際に、昨今当地のマスコミで連日報道されている「政治的殺害」と言われている一連の事件では、アロヨ大統領が2001年に政権に就いて以来、警察発表では114件、実際には200件以上の左翼活動家やジャーナリストが殺害され、今もその状況は続いているという。いまや国際機関や日本のNGOなども巻き込む国際的イシューになりつつあるのだ。そんな状況下、あまたの表現活動の中で、最もラディカルで尖っているであろうと思われるパフォーマンス・アートは、ある意味社会の危険度(健康度)のバロメーターでもある。もともとこの国は、ラディカルなアートが盛んだ。1970以降に一大ムーブメントとなったラディカル・アートは、「社会主義リアリズム」と定義され、多くの美術批評家からも注目されている。が、それについてはまた別の機会に。いずれにしても、その運動を引き継ぐ若い世代のアーティストが、今第一線で活躍している。

 さて今回このイベントの会場となったのが、VOCAS(Victor Oteyza Community Art Space, La Azotea Bldg., Upper Session Rd.)という昨年オープンしたばかりの新しいアートスペース。バギオ市のヘソであるバーンハム公園から、小高い丘に向かって一直線に走る目抜き通り、セッション・ロードの中腹に建つ雑居ビルの5階にある。広いスペースには、移築した北ルソンの伝統家屋や、東欧の田舎にあるようなビザンツ教会風の民家、中央のスペースには鬱蒼と植物を植え込み、鯉の泳ぐ池と、そのほとりには黒沢映画に影響されてあしらえたという水車。バギオに在住する作家の油絵や写真、巨大なインスタレーションや彫刻などの個性的なアートにあふれ、テラスからはバギオ市が一望できるという、なんというか、よくもまあここまでごたごたと作ったなあという、とってもクレージーな空間だ。その魔何不思議空間のオーナーが、これまたクレージー、といっても、かつて世界中の実験映画界を席捲し、“業界”で天才と慕われている、キドラット・タヒミックだ。

                 VOCAS

 彼と国際交流基金とのかかわりは深い。いまは“伝説”となり、その後のアジア映画紹介の嚆矢となった基金主催の南アジア映画祭(1982年)で、彼の出世作「悪夢の香り」(1977年、同年のベルリン国際映画祭批評家賞)が公開されて評判となった。その後、埼玉県のあるお寺に彼の家族が滞在した記録映画、「竹寺モナムール」(1986年)についても、制作費を支援している。とにかく寝るとき以外は常にカメラを離さないという徹底ぶりで、撮影したフィルムは膨大。1981年から日常生活の撮影を始め、86年より「僕は怒れる黄色」のタイトルで上映され、上映の度ごとに新たな撮影部分を加え、再編集している作品などは、“終わりのないドキュメンタリー”と呼んでいる。初老になってますます潔ぎよいアーティストで、とにかく彼の周りには自然に多くのアーティストが集まり、なんとなく一緒に飲んだり食べたりしながら、いわばサロンを提供しているのだ。

              キドラット・タヒミック

 僕が彼に初めて出会ったのが1988年。当時彼はバギオ市を見下ろす山中に、通称バンブーハウスという家を持ち、若いアーティストを何人も住まわせていて、一泊お世話になったことがある。当時バギオのアート界は、もう一人、サンティ・ボセという活動的な作家に牽引されていて、僕も彼に誘われてこのバギオにやって来て、「第1回バギオ国際アートフェスティバル」を観たものだ。東南アジアの美術界も1980年代後半に入って徐々に世界的にも活躍する作家が出始めたころ、マニラや、バンコクや、ジャカルタではなく、ここバギオのように、都会の喧騒から離れた、独自の文化を持つ地方都市が、オルタナティブな芸術運動の中で一つの中核的役割を果たすようになっていった。かつてそれについて書いた記事がある。

「商業主義逃れ、地方都市で芸術祭

(前略)昨今の東南アジアにおいては、現代芸術の発信拠点が、大都市から地方都市へとシフトする現象が見られる。欧米追随の商業主義に侵され、公害やスラムなどの社会問題に見舞われる大都市を離れ、地方都市における芸術活動の中からそれに対するアンチ・テーゼを求める動きである。タイ北部のチェンマイや、フィリピンではルソン島中部のバギオやネグロス島のバコロド、そしてインドネシアではこのソロやジョグジャカルタがそうした新しい動きの中心地となっている。いずれはそれぞれの地方で活躍する作家同士が直接に交流しあってネットワークを作り、東南アジアの大都市を囲み込む反大都市文化の包囲網を作り出すに違いないと思われた。」(朝日新聞「アートアトラス」、 1994年4月29日)

 その後、チェンマイやジョグジャカルタは、国際的なアートシーンで活躍するアーティストを輩出し続け、まずまず発展しているようだが、ここバギオは今ひとつぱっとしない時代が続いてきた。1990年この地を襲った大地震で2000人近い犠牲者を出し(正確な死者数不明)、街は壊滅的な打撃を受けたのだ。その後アートの世界では1995年に、当時最も世界的に注目されていたフィリピンのインスタレーション作家であるロベルト・ビラヌエバという作家が急逝した。シンガポールのタン・ダウや、タイのモンティエン・ブーンマーなど同じ時代に活躍し始め、フィリピンアートの国際的な評価を高めた功労者だ。さらに、バギオのアーティスト・コミュニティーを引っ張ってきたボセが、2002年に急逝したのも致命的だった。彼の後に続く突出したリーダーが存在しなかったのだ。突出したアーティストがいなくなることで、取り返しのつかない損失を蒙ることは時々あることだ。次から次へとバギオのアート界は大きなものを失い、その喪失のショックから立ち直るには相当の時間が必要だったのだろう。

 いずれにしてもボセの急逝後、アーティスト間の確執などもあり、バギオのアート・コミュニティーは一時活気を失ったという。そんな状況の中、新たに生まれたこのVOCASは、ここに再び活気をもたらす起爆剤になってゆくだろう。来月には、ジョグジャカルタ在住の日本人アーティスト広田緑さんとインドネシアのアーティストがやって来て、バギオのアーティストと共同制作をする予定だ。大都市一極集中の弊害がはなはだしいと言われる東南アジアの国々。大都市への一極集中は、伝統文化の空洞化と表裏一体だ。フィリピンも例外ではない。ここバギオには、バギオを愛し、ここに踏みとどまる多くの若い作家がいる。彼ら、彼女らがいる間は、僕はいつでもバギオに帰って来たいと思うだろうし、同じように思う海外のアーティストがもっと増えるよう、できる限りサポートしたいと思っている。

 バギオを愛してやまず、ここからアートを発言し続けたボセの言葉。

「コルディレラ(北ルソン山地の呼称)の若い才能ある多くのアーティストたちが、商業主義の罠に陥り、伝統的な芸術作品が観光主義に提供されるとしたら悲しむべきことだ。アーティストとして、私たちの懸念、必要、そして希望を表現し、変革のための闘いに積極的に参加しなくてはならない。さもなければ、我々自身の最も深部で育てたものが、取り返しのつかないほど失われ、アートそのものも、何の意味もないからっぽなものになってしまうだろう。」(アリス・ギレルモ著、「Image of Meaning」より引用)

         バギオの目抜き通りセッションロード

 社会に根差し、決してあきらめずに発言を続ける真摯なアーティストの系譜に、今のバギオの若いアーティストも連なっている。そんな彼らを見ていると、時にどうしようもなく腐敗して、堕落したところもあるこの国でも、だからこそ、土俵際の潔い真っ白さがまぶしくも思え、なんとも心の中で応援したくなるのだ。(了)