2008/09/18

デモクラシーの祭典とリセッションの時代

 “アジアのノーベル賞”とまでいわれるマグサイサイ賞。1958年に創設されて今年でちょうど50周年。これまでにアジア各国の社会発展に寄与してきた250組を超える人たちに贈られてきた。確かにこれだけ長い間続いているアジア人に対する懸賞事業は、日本を含めて他に類例はないだろう。それだけに独特の響きがある賞だが、今年、日本人としては23人目の受賞者として、明石書店社長の石井昭男氏が選ばれた。賞は6分野に分かれているが、石井氏は報道・文学・創造的コミュニケーションの分野での受賞だ。

 それにしてもこのマグサイサイ賞は、独自の評価基準と進取の精神に富んでいて爽快だ。正直な話、華々しいジャーナリズムや芸術の分野で数多い大衆受けしそうな候補者を退け、出版という地味な分野、それも人権問題というこれまた硬派な分野で着実な実績を上げてきた明石書店の石井氏が評価されるというのは驚きであった。これまでの日本人受賞者の中でも、黒澤明や緒方貞子氏など華麗な経歴の持ち主もいるが、むしろ真骨頂は、無農薬の自然農法をアジアで広めた福岡正信氏や、先ごろの不幸な事件でマスコミに登場していたが、アフガニスタンで医療支援を続けるペシャワール会の中村哲氏など、地味ながらアジアで着実な活動をしている人々を発掘して懸賞することだと思う。その意味でこの石井氏への授賞は、マグサイサイ賞の原点ともいうべきか。晴れの授賞式が8月31日にフィリピン文化センターの大ホールで開催されたが、授賞理由として、特に日本の被差別部落の人権運動(同和問題)に奔走したことが披露されたが、会場の拍手はひときわ大きかったように思え、同じ日本人として私もちょっと誇らしい気持ちだった。と同時に、これまで明石書店のそうした活動に無知であった自分の不勉強を恥じもした。

 このマグサイサイ賞、元大統領のマグサイサイ氏の急死を受けて、50年前にロックフェラー兄弟財団からの資金援助を受けて始まった。最大のスポンサーが米国の財団であるため、アメリカ流デモクラシーの普及という考えがその底流にはあるのは当然。もともと19世紀末から米国の植民地としてデモクラシーが移植され、実際1960年代まではアジアにおけるその先頭ランナーでもあったので、この賞をフィリピンという国に設けることにはそれなりのリアリティーがあったのだろう。しかしこの50年、特に民主化運動が最高潮に達した1986年の「黄色い革命」後の20年間で、この国のデモクラシーを取り巻く状況は一変したのだと思う。

 表彰式に先立って行われた50周年を記念する国際シンポジウムは、その意味で色々と考えさせられる祭典だった。まずはキーノート・スピーカーのアキノ元大統領。いまだにこの国の民主主義勢力の象徴としてしばしばかつがれるイコンだが、体調でも悪いのか、そのスピーチにはインパクトが無く、これといった存在感は感じられなかった。そして同じ壇上にはラモン・マグサイサイ賞財団理事会の議長であり、フィリピン随一のアヤラ財閥を率いるジェイム・ゾーベル・デ・アヤラ2世らが並んだ。データの上ではまだ好調を維持しているこの国の経済を牽引し、従って結果的に体制を支えている大財閥の総帥と、かたや反政府勢力の急先鋒という奇妙な組み合わせに、マグサイサイ賞50周年とはいえ、なんとも晴れ晴れとしないちょっと醒めた思いでそのセレモニーを眺めていた。このシンポジウムの主要テーマは貧困の克服だったりしたのだが、体制派にしろ、反体制派にしろ、この国のエスタブリッシュメントがますますひどくなる一方の絶対貧困に対して何ら有効な手を打てていないのは、厳しい現実が示すところだ。

 そして肝心のデモクラシーにしても、今のフィリピンはリセッション(後退)の時代と言われている。理由はやまほどある。2004年に行われてアロヨ政権を信認した大統領選挙にまつわる選挙違反への疑いが、そもそもこの国の政権の正当性に対して圧倒的な不信感を植え付けた。さらには中国企業との超大型契約にまつわる汚職問題。そして最も深刻なのが”Extrajudicial Killing(超法規的殺人)”という恐ろしい言葉で言われている一連の事件。多くのジャーナリストや反政府活動家が暗殺されたり、拉致・誘拐されているが、新聞紙上などでもたびたび公然と国軍の関与が指摘されている。立場の異なるグループによって犠牲者の数に違いがあるが、例えば人権委員会の報告では、2001年に現政権が成立して以来、2007年5月までに403人が犠牲となった。またカトリック評議会のカウントでは、778人が犠牲となり186人が行方不明となっている。こんな状況なのにもかかわらず、現在の政権が維持されていることは、日本人の私からすれば率直に言って驚きではあるが、フィリピンならさもありなんとも思う。

 そういった具合で状況としては暗いことが多いのだけれど、全く絶望的でもない。

 国際交流基金では「アジア・リーダーシップ・フェロー・プログラム(ALFP)」といって、毎年アジア地域から選りすぐった知識人を数ヶ月間日本に招待して、グループでいわば合宿をして議論を重ねるという試みを行っているが、今年フィリピンから選ばれたのが、この国の民主化運動のトップランナーとも言えるホセ・ルイス・マーティン・ガスコン氏、通称チトだ。訪日の数日前、一緒に食事をして話を聞く機会があった。

 1964年生まれで、まさに私と同世代の44歳。国立フィリピン大学の学生自治会のリーダーとして名を馳せて、1986年マルコス大統領を追いやったあの「黄色い革命」の闘士。それが縁で当時のアキノ大統領に抜擢されて「86年共和国憲法」の最年少起草委員となった。その後政権に入って若くして教育省次官となり、現アロヨ政権になってからは反政府運動のいわばブレイン的存在である。2006年、アキノ政権から一遍に10人の閣僚が辞任して「ハイアット10」というグループを作ったが、そのスポークスマンとして宣言文などを起草した。今は最大野党(自由党)の法律顧問である。とにかくバリバリの“活動家”をイメージしていたが、とってもソフトで学者肌。確かに“活動家“ではあるが、政権に入っていたこともあり、その意味で非常にバランス感覚の優れた人だ。こういう人がいずれ社会福祉や法律、人権担当の大臣になったりするのが東南アジア。将来がとても楽しみだ。

 チトとの話は広範囲に及んだ。特にいまどきの若者の政治への無関心ぶりについてはかなり絶望していたが、「黄色い革命」を担った“エドサ1世代”はまだまだ健在。「今マニラの街角でラリーを引っ張る人たちの平均年齢は相当高いね」と言って笑う。次の照準はいよいよ2010年の大統領選挙だそうである。60年安保が過ぎ去り、高度経済成長真っ只中の63年に生まれた私としては、なんとも眩しく見える一瞬だ。

 ところで、そんな大物“活動家”がなんでこのデモクラシー・リセッションの時代に日本に滞在する必要があるのか?率直な疑問として、ある意味”亡命”のようなものかと彼に問うたところ、「そうとも言える。ちょっと頭を冷やして次の大統領選挙に備えて力を蓄えるさ」とさらっと言う。おそらく「ハイアット10」の事件の際に反アロヨ運動の熱気が最高潮に達し、色々と圧力などがあったことは想像に難くない。それで本人の言のように冷却期間が必要だったのだろうとも思う。いずれにしても今彼はアジアにおける人権とデモクラシーの明日のために鋭気を養うとともに、仲間と知恵をしぼっている最中だ。なお彼を含むALFPのメンバーによる公開セミナーが、10月31日に東京の国際文化会館で予定されているので、関心のある人はご参加ください。http://www.jpf.go.jp/j/intel/exchange/organize/alfp/index.html

 そもそも大学時代に民主化運動の道に進んだのは何故?との問いに対して、「あの頃はマルコス政権の最悪の時期。他に一体どんな選択があったの?」と答える。そのいかにも柔らかな笑顔と口ぶりからは、彼の歩んできたおそらく困難に満ちた人生は容易に想像できない。使命感と覚悟を背負った同世代人。こういう人がいるからこそなんともやりきれないことの多いこの国でも、暗闇に多少の光明が見える時があるのだ。