今から30年以上前に出版された『アジアからの直言』(講談社現代新書、1974年)という本の中で、編者の鶴見良行氏は、「文化交流の仕事は補助線を引くことだ」と書いている。政府間の交流や資本の交流関係を“実線外交”と呼び、“民衆と民衆”との間の交流を“補助線”と見立てている。
この本の書かれた1970年代の前半は、72年タイで起こった日華排斥運動や74年インドネシアの反日暴動などに象徴されるように、東南アジアの国々で日本批判が吹き荒れて、日本と東南アジアとの関係が見直された時代だ。国際交流基金の設立は1972年だが、無論、そうしたアジア諸国での日本批判が大きく影響している。同じ本の中で、タイを代表する思想家であるスラク・シバラクサ氏は、この国際交流基金の設立についても言及していて、「真によい文化関係を築きあげるうえでの意義のある成果をあげられるかどうかについて疑念を持たざるをえない。」と“みせかけの文化交流”を批判した。そして日本人の心の中にある「東南アジアの人たちを劣ったものとみる考え方を根本的に変える必要がある」と主張する。
その国際交流基金も設立から35年が経過した。私自身もそこで20年以上文化交流という仕事に携わり、そのなかでも多くの時間を東南アジアと関わってきた。シバラクサ氏の箴言は、今なお生きている重い課題だ。決して驕らず、そして次の時代につながるようなしっかりとした補助線をなるべく多く引き続けること、それが自分に与えられた役目だと思っている。
そして今回、また新たな補助線を引く機会が与えられた。環境問題に取り組むNGOの若手リーダーたちを6月に日本に招待して2週間のスタディーツアーを行うというものだ。7月に開催が予定されている北海道・洞爺湖サミットの主要議題の一つが環境であることから、アジア太平洋諸国から50人もの若者を一同に集め、サミットとは異なる視点から草の根レベルで環境問題についてそれぞれの経験をシェアーしようという意欲的な企画である。環境問題のショーケースのようなフィリピンだけに様々な問題にあふれていて、NGO活動もいたって活発で多くの人々が関係しているが、今回フィリピンに与えられた4人という参加枠の中で、自分なりに優先順位を付けて人選することにした。その結果、ルソン島北部山地地方で世界遺産であるライステラスの保全活動を行っているタイサーメイ・ディナムリンさん、ルソン島南部ビコール地方で記録的な被害を与えた台風災害の生存者であり、その経験をもとに高校で環境教育に携わるラクェル・ロサスさん、南部ミンダナオ島からは弁護士として先住民族の土地の環境破壊問題に取り組むジェニファー・ラモスさん、そしてマニラからはアテネオ・デ・マニラ大学で環境マネジメントを教え始めた若き学者のジェームズ・アラネタさん、というバラエティーに富んだチームとなった。
中でも世界遺産であるライステラス(棚田)の保全の問題は、この国の環境問題を考えるにあたって象徴的な問題であり、とても重要な視点を含んでいる。私は人選にあわせてそのライステラスのあるイフガオ州を訪ねた。
バナウェのライステラス
ルソン島北部の山地地方コルディレラは、通称イゴロットと呼ばれる山地民族の故郷だ。彼らは低地タガログ人とは出自の異なる先住民で、もとをたどれば台湾の先住民や沖縄のおじいやおばあと同じルーツであると考えられている。顔立ちは我々日本人と似通っていてどこか懐かしい感じすら覚える。かつてはヨーロッパからやって来た宣教師などから“首狩族”と言われ、その勇猛さから恐れられた人々だが、別の視点から見れば、スペイン植民地軍に対して頑強に抵抗して19世紀後半まで独立を貫いた誇り高き民族である。コルディレラ地方は古くから豊かな金の産地として知られ、16世紀以来その金の魅力に惹きつけられた西洋の探検家や宣教師、そして植民地政府軍とイゴロットとの接触、その抵抗と帰順の歴史は、『The Discovery of the Igorots』(William Henry Scott著、New Day Publishers出版、1974年)という本に詳細に描かれている。
イフガオ族の古老(バンガアン村にて)
民族的には大きく6つのサブグループに分かれているが、なかでも独自の文化で有名なのがイフガオ族で、彼らの故郷がイフガオ州、そしてそのいくつかの村にライステラスは散在する。マニラから夜行バスに乗って10時間でバナウエという町に着き、そこからまたトライシクル(三輪オート・サイドカー)で未舗装の荒れた道路をがたがたと1時間。標高平均1300メートルの急峻な山中に忽然と現れる棚田は、まさに世界七不思議の一つとも言われるほどの驚きである。山中の急斜面に作られたダイナミックな成り立ちと同時に、棚田を守るために丁寧に築かれた砂岩の石垣や、丘の上から下の棚田に向かってよどみなく流れるように張り巡らされた水路など、意外なほど繊細な魅力にあふれていて、それらがえもいわれぬ美しい景観を作り出している。1995年にはユネスコの世界遺産に登録されたが、その保全が危ぶまれ、2001年には消滅の危機にある世界遺産(危機遺産)として再登録された。ちなみにフィリピンではこの棚田を含めて文化遺産が3件、そして自然遺産が2件登録されている。
砂岩の石垣で守られるバンガアン村のライステラス
今回日本へ招待することとなったタイサーメイの勤めるNGOは、The Save the Ifugao Terraces Movement(SITMo)といって、2000年に結成されたまだ若いNGOである。いまイフガオの村では出稼ぎによる耕作地の放棄や、米よりお金になる他の作物への転作で、多くの棚田が失われつつある。さらに伝統的知識や技術を担っていたお年寄りが少なくなってきており、その継承が危ぶまれている。そのため人々の生活水準を改善し、伝統文化の価値を再認識してそれを守り、世界に誇る棚田文化を次世代に継承してゆくための活動がようやく最近になって本格的に始まった。SITMoでは、こうした危機にある棚田の保全のみならず、持続的な土地利用や森林の保全、作物や工芸品のマーケティング、伝統的知識の記録と継承などに関する指導を行っている。またエコ・カルチャー・ツーリズムのプログラムを開発して、マニラなどからやって来る観光客を対象に、実際に棚田のある村に入ってフィエスタに参加し、イフガオの伝統儀式や農作業を体験する機会を提供している。タイサー・メイが担当するのは“リニューワル・エネルギー・プログラム”といって、イフガオに伝わる伝統的な水車を復興して電気を作り、最低料金(月々100ペソ=250円)で村の家々に提供してゆこうというもので、現在州内2つの村で実施中である。マニラの工科大学を卒業したてのまだ23歳のイフガオ族の彼女は、「マニラの喧騒は嫌い。自分の土地が好き。ここでイフガオの伝統を守る仕事を続けたい。」と明るく語った。
さてこのイフガオのライステラスに育まれた文化の中に、もう一つの世界遺産がある。フドゥフドゥといわる民衆詠唱で、2001年に無形文化遺産に登録された。フドゥフドゥはイフガオ族に代々伝わる恋の物語や戦いの叙事詩で、田植えや稲刈りなど農作業の節目に、また葬式や洗骨(通常は死後1年)などの儀式の際に謡い継がれてきたものだ。マニラ事務所では2001年にフィリピン大学で行われた「フドゥフドゥと能、文化のダイアローグ」というセミナーを支援したことがあり、その際にゲストとして参加していたイフガオ人の元高校教師で伝統文化研究家であるマニュエル・ドゥラワン氏を訪ねて、そのフドゥフドゥ揺籃の地と言われているキアガンの町を訪問した。
キアガンはイフガオ地方のかつての中心地。小さな盆地を流れる川のほとりに、その昔フドゥフドゥを担うイフガオ族の一派が定着したと伝えられている。この町にある国立博物館イフガオ分館には、驚いたことに、このキアガンに代々伝わる33代、600年にわたる細密な家系図のコピーが展示されていた。ドゥラワン氏ももとをたどればどこかの家系に遡ることができるという。600年といえば偶然にも能の歴史とほぼ同じだ。おそるべしキアガンのイフガオ族である。
国立博物館イフガオ分館
現在72歳のドゥラワン氏は、高校を定年退職後にフドゥフドゥの保存に奔走し、今では国家文化芸術委員会の無形文化遺産委員会委員を努めるほどの重鎮で、その復興になくてはならない立役者であるが、彼の話によれば、伝統文化の変容や若者の儀式離れで、一時はかなりその存続が危ぶまれたという。特にフドゥフドゥの成り立ちに欠かせない伝統的儀式の中でも、洗骨の儀式などは西欧からやって来た宣教師たちから後進的で野蛮な文化と忌み嫌われて、フドゥフドゥそのものも誤解を受けてきたという。でも考えてみればこの洗骨という儀式、かつては沖縄でも見られたようだが、時に生身の老いた人間すら汚いものとして退ける風潮のある現代の日本からみれば、亡くなった先人の骨までも慈しむ、なんとも心やさしく尊厳に満ちた伝統ではなかろうか。
そんな存続の危機を救ったのがユネスコの世界遺産への登録という出来事だった。登録されたことでフドゥフドゥに対する人々のとらえ方が大きく変化したという。2004年からはSchool of Living Tradition(SLT)というプロジェクトもスタートし、今ではキアガン村の19の小学校の授業で、フドゥフドゥが儀式としてではなく、伝統的なフォークソングとして教えられるようになった。毎年1回子供たちも交えたフドゥフドゥのフィエスタもあるそうで、2004年にはとうとう日本と韓国で海外公演も行ったそうだ。
そしてこのSLTプロジェクトに、実は私たち日本人の税金が使われているのだ。でも、そんなことを知っている日本人は何人いるだろうか。私も恥ずかしながら今回の訪問で初めて知った。ユネスコ(国連科学教育文化機関)は第二次世界大戦後まもなく設立された国際機関だが、広く知られているように日本が最大のスポンサーで、加盟国分担金として全体予算の2割強を拠出している。ちなみに超大国のアメリカは参加していない。またその通常予算以外にも様々な分野で「信託基金」という任意の拠出金制度があり、そこでも日本は多額の資金を提供していて、例えば無形遺産の分野では「無形文化財保存振興日本信託基金」というかたちで2001年までに559.5万ドルを拠出している。その信託基金からフィリピンの国家文化芸術委員会を通じて、このイフガオの村のフドゥフドゥを守るプロジェクトへ日本のお金が流れてきているのだ。日本人は総じて税金の使い道にあまり関心がないと言われるが、こうした事実をもっと私たちは知る必要があるのだと思う。
ところでこのキアガンという村には、このフドゥフドゥ以外にも私たち日本人との宿命的とも言える接点がある。ここはフィリピンでの戦闘を最後まで指揮した山下将軍が、1945年9月2日に米軍に降伏をした戦争終結の場所なのだ。当時降伏のための協議が行われた建物はいまもそのまま残されており、正面にはフィリピン人ゲリラを賞賛する石碑が埋め込まれている。バナウエの町にある博物館の入り口には、その降伏の瞬間を捉えた白黒写真が飾られていた。日米比あわせて150万人以上の犠牲者を出した戦争の終結にあたって握手を求めた山下将軍に対し、米軍将校がそれを拒んだ瞬間・・と思われる写真。このキアガンは、3つの国、そして多くの市井の人々を巻き込んだ殺し合いが終わった場所だったのだ。
かつての終戦の地、キアガン中央小学校
戦後60年が経過して、今キアガン村と日本との接点は、戦争ではなくフドゥフドゥである。今では日本人の生活にほぼ全くと言っていいほど関係のない異国の山の中で、そこに住む人々の誇りを守るためにわたしたちのお金が使われている。そんな事実を知って初めて感じる、ちょっとこそばゆい誇り。先日、日本の政府開発援助(ODA)額が昨年度実績で世界5位に転落(1990年代は世界一だった)する見込みという報道があったが、国際協力全体が萎縮傾向にある中で、ぼくらはそのこそばゆい思いというものをかみしめて、改めて誇りの意味を考える必要があるのだと思う。尊大でもなく、矮小でもなく。
(了)
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