海外でこの仕事をしていると、時々日本で行われる展覧会に出品する作家選びに協力することがある。特に自分の推薦する作家が選ばれた時などは、我がことのようにうれしい。先日、東京国立近代美術館キュレーターの保坂健二朗氏から、来年8月に開催される予定の展覧会に、フィリピンから2名の作家が選ばれたとの連絡があった。ホセ・レガスピとマニュエル・オカンポ。オカンポは私も一推しの作家だ。展覧会のタイトルは「エモーショナル・ドローウィング」(仮称)。アジアを中心に十数名の作家が参加して、ドローイングという素朴だが生々しい表現を通して、作家の内面や描くことの本質に迫ろうという意欲的な企画である(同美術館、国際交流基金などの共催)。
オカンポは1965年生まれの42歳で、私と同世代のアーティストだ。21歳の時にカリフォルニアに移住し、その数年後には既にロサンゼルスの美術界で活躍し始め、1992年には世界的にも名の通った国際展であるドイツの「ドクメンタ」の出品作家に選ばれた。アメリカやヨーロッパで早くから認められたが、フィリピンで初めて個展をしたのが一昨年(2005年)で、そのとき既に40歳。まずは海外で認められ、その後故郷に“錦を飾る”、いわゆる“逆輸入型”アーティストだ。そのオカンポが自分の絵のモチーフとして執拗に描いているのが、なんと糞、つまり大便である。その他にも便器や骸骨、グロテスクなアニメキャラクターに混じって、キリスト教を象徴する十字架なども多く描かれている。保守的なカソリックの強いこの国では十分スキャンダラスな内容だ。2005年の展覧会のステイトメントで彼は自らのアートをこう表現する。
「たいがい、私のアートは、大食いして酒に浸り、トイレに行ったり来たりの夜が明けて、冷蔵庫の中に残されたものから作る副産物のようなものだ。」
美しい絵画を徹底的に排除し、よりによって糞をモチーフに挑戦的な激しいドローウィングを描き続ける。それでいて、というかそれだからこそ、その醜さの裏にあるものに強烈に惹き付けられて、なんともその絵に見入ってしまうのだ。一皮剥いたらそこにある、目をそむけたくなるような現実。それに気づいていながらも、あたかも何事もないようにしてやり過ごさなくてはならない日常。彼の絵に引き寄せられるのは、おそらく私の心の中にあるそうした空隙に響くものがあるからだと思う。
私はどちらかというと過激なアートが好きだ。特に東南アジアの国々にいる時は、いつも過激なアートに注目している。ラディカルならばそれで良いというわけではもちろんないけれど、日本で見られる作品に比べて素朴といえば素朴なのだが、その直載さに魅力を感じるのは一体何故だろう。
福岡市美術館(1999年より福岡アジア美術館)で1979年にアジア美術展をたちあげ、30年近くにわたって東南アジア美術の研究をしてきた後小路雅弘氏は、その本質を「自分探し」と指摘する。
「東南アジアのモダンアートの基本的な課題は、「自分探し」であったし、おそらくいまもそうである。「わたしたちが本来あるべき姿から隔たってしまっている」という自覚へと向かい、さらにそこから失われた自己の回復へと向かう道程の中に、東南アジアのモダンアートの基本的な姿を見出すことができる。」(「アジアの美術」、美術出版社刊より)
私もそう思う。これまでに駐在したタイやインドネシアでも多くの優れたアーティストと出会ったが、中でも特に強く惹かれたのが、今から思えば強烈な自画像を描く作家、タイであればチャーチャイ・プイピア(1964年生まれ)であり、インドネシアではアグス・スワゲ(1959年生まれ)であったのはおそらく偶然ではないだろう。単純だけれど究極の「自分探し」。同世代のアーティストたちが描く自画像の発見は、私自身の東南アジア発見でもあったのだと思う。
チャーチャイ・プイピア「シャムの微笑:シャムの知性」(1995年)
そしてフィリピンでは、スペイン、アメリカ、日本と400年にわたった植民地支配の結果、自分たちのもともとの文化を失ってしまったという喪失感は、人々の心の中、そして社会の隅々を覆っている。自分たちの国の、あるいは民族のアイデンティティの問題は、ジャンルを問わず、この国のアーティストの多くが共有している最も根源的な問題の一つだと思う。
けれども歴史的な意味あいとは別に、私なりに「自分探し」の理由をもう一つ付け加えるならば、ときに目を覆いたくなるような醜悪な現実に対して、「わたしたちが本来あるべき姿」を求めて敢えて目を覆わず、そして発言してゆくという意味の「自分探し」が、そこにはあるのだと思う。深刻な貧富の格差や政治腐敗、終わりの見えない民族紛争や宗教紛争、そして頻発するテロがこの国の現実であり、国家や社会がクライシスの状況にあるとしたら、アーティストと名乗る以上、たとえ「わたしたちが本来あるべき姿」を実現することは困難だとしても、その現実に対して何らかの表現をすることはむしろごくあたりまえの行為なのかもしれない。醜い自己を徹底的に露悪的に表現することで、彼なりの「自分探し」を続けるオカンポが、フィリピンに“逆輸入”されて多くの人たちから評価されるのは、いまのこの国の状況をよく映し出しているともいえる。
デジタルシネマのことを紹介したときに、フィリピンの映画では社会派“オルターナティブ”が実はもうひとつのメインストリームだったと書いたが、美術の世界でも、コマーシャルアートとは一線を隔した社会派アートは、この国の美術史のメインストリームのひとつだ。フィリピン大学の美術史家であるアリス・ギレルモの書いた「Protest/Revolutionary Art in the Philippines 1970-1990」(フィリピン大学出版、2001年)は、マルコス政権が独裁色を強めて戒厳令を敷いた時代(1972年)から、平和的な黄色い革命に続いた時代(1986年)を中心に、熱い政治の季節と並走した社会派アートをめぐる物語の集大成だ。フィリピン社会派アートの系譜については、またいずれまとめて書きたいと思う。
オカンポなどいわゆる商業主義から逸脱した作家たちにとって、アートで生活してゆくということは大変困難なことだと普通は思うけれど、今のフィリピンのアート・マーケットは非常に活況を呈していて、きわどいコンテンポラリーな作品を巡る環境も、実はそんなに悪くはないといえる。マニラ首都圏のギャラリーで個展を行い、そこに集まった身内や業界人から評判が広がれば、コレクターや投資家が作品を買ってくれるかもしれないし、運がいいアーティストは、メジャーなコンペティションで入賞でもすればさらに作品の価格が上がることは間違いなし。こうしたルートに乗ってしまえば、1年もすれば立派な売れっ子作家となる。どんな反骨のアーティストだって、多かれ少なかれ今のアートブームの恩恵を受けているのは間違いのないところだ。私が最近注目しているもう一人の若手作家にロバート・ランゲンゲールという作家がいる。昨年画家デビューをしてこれまでに3回の個展を開いた。彼こそが、チャーチャイやアグスの系譜に連なる露悪的自画像の作家だと思っているのだが、彼のグロテスクな自画像やかなりスキャンダラスな絵が、飛ぶように売れてしまうのが今のマニラだ。本人ですら、どうしてそんな絵が売れるのか不思議に思っている。
ロバート・ランゲンゲール
フィリピンの経済はここ数年ずっと7~8%の成長を続けている。一方である民間NGOの調査によれば、貧困層はより拡大しているという。3ヶ月の間に1日でも食べ物に困り飢餓感を感じた世帯は、全世帯の19%(2007年2月)で、1年前の調査時からさらに2%増加した。海外からの投資が増え輸出額も伸び、株価や不動産価格、そしてペソの価値も上昇の一途である。金持ちの資産がふくらみ続けるミニバブル状況の中で、貧富の格差はさらに拡大し、開発の恩恵はあいかわらず勝ち組のみに与えられている。
そんな不均衡な世の中をまさに象徴するような、ハイソサエティーのためだけの街の開発が、今マニラの中心部で急ピッチに進められている。名づけて「グローバルシティ」。グローバライゼーションの恩恵を受けた人々の街には象徴的なネーミングだ。10数年前までは米軍基地だったが、フィリピン最大の財閥であるアヤラ財閥が払い下げを受け、野原を一から開発し、超高級マンションにショッピングモール、学校や病院のある金持ち村を建設中だ。ピカピカのブティックや人気カフェが立ち並び、ファッショナブルな人たちで賑わっている。日本の新宿で人気のクリスピー・クリーム・ドーナッツもあり、明るくお洒落な店舗では待ち時間無しでおいしいドーナッツが手に入る。美しい芝生の中庭にはパブリックアートの彫刻がふんだんに置かれている。そして、この界隈だけでも新たに商業ギャラリーやコンテンポラリーアートを扱うスペースが一挙に10店舗近くオープンした。
グローバルシティ
まあこうした状況そのものは、アートにとって悪い話ではない。けれどもこの国の別の現実を見るにつけ、そう楽観的に喜べないのが複雑なところだ。そんなきらびやかな街が生まれている一方で、どうしても思い出さずにはいられない最底辺の生活もある。先日マニラ首都圏最大のゴミの集積地(スモーキーマウンテン)であるパヤタスに行ったが、そこはまさにオカンポの絵のような醜悪な場所だった。スカベンジャーと言われるゴミ拾いのために集まった人々が不法占拠して作り出した“街”で、ゴミ山の麓に作られたバラックの家々とドブ川、そして異様な異臭に包まれたところだ。グローバルシティとパヤタスでは、まさに天国と地獄・・。後者の世界の住人にとって、この世の中は「SHIT(くそっ)!」でしかないだろう。
パヤタス
“勝者”と“敗者”がはっきりと別れているこの国では、より大きな権力は確実に“勝者”の手中にある。そんな巨大な力に対して、アートは一体何ができるのだろうか?たとえ先が見えない闘いであっても、執拗に糞を描き続ける、そんなアーティストがいることに、なんともやるせない現実の中でも多少の希望は見えてくるのだ。
(了)
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