2007/10/30

「SHIT(くそっ)!」な世界で糞を描き続けるアーティスト

 海外でこの仕事をしていると、時々日本で行われる展覧会に出品する作家選びに協力することがある。特に自分の推薦する作家が選ばれた時などは、我がことのようにうれしい。先日、東京国立近代美術館キュレーターの保坂健二朗氏から、来年8月に開催される予定の展覧会に、フィリピンから2名の作家が選ばれたとの連絡があった。ホセ・レガスピとマニュエル・オカンポ。オカンポは私も一推しの作家だ。展覧会のタイトルは「エモーショナル・ドローウィング」(仮称)。アジアを中心に十数名の作家が参加して、ドローイングという素朴だが生々しい表現を通して、作家の内面や描くことの本質に迫ろうという意欲的な企画である(同美術館、国際交流基金などの共催)。

 オカンポは1965年生まれの42歳で、私と同世代のアーティストだ。21歳の時にカリフォルニアに移住し、その数年後には既にロサンゼルスの美術界で活躍し始め、1992年には世界的にも名の通った国際展であるドイツの「ドクメンタ」の出品作家に選ばれた。アメリカやヨーロッパで早くから認められたが、フィリピンで初めて個展をしたのが一昨年(2005年)で、そのとき既に40歳。まずは海外で認められ、その後故郷に“錦を飾る”、いわゆる“逆輸入型”アーティストだ。そのオカンポが自分の絵のモチーフとして執拗に描いているのが、なんと糞、つまり大便である。その他にも便器や骸骨、グロテスクなアニメキャラクターに混じって、キリスト教を象徴する十字架なども多く描かれている。保守的なカソリックの強いこの国では十分スキャンダラスな内容だ。2005年の展覧会のステイトメントで彼は自らのアートをこう表現する。

「たいがい、私のアートは、大食いして酒に浸り、トイレに行ったり来たりの夜が明けて、冷蔵庫の中に残されたものから作る副産物のようなものだ。」

 美しい絵画を徹底的に排除し、よりによって糞をモチーフに挑戦的な激しいドローウィングを描き続ける。それでいて、というかそれだからこそ、その醜さの裏にあるものに強烈に惹き付けられて、なんともその絵に見入ってしまうのだ。一皮剥いたらそこにある、目をそむけたくなるような現実。それに気づいていながらも、あたかも何事もないようにしてやり過ごさなくてはならない日常。彼の絵に引き寄せられるのは、おそらく私の心の中にあるそうした空隙に響くものがあるからだと思う。

 私はどちらかというと過激なアートが好きだ。特に東南アジアの国々にいる時は、いつも過激なアートに注目している。ラディカルならばそれで良いというわけではもちろんないけれど、日本で見られる作品に比べて素朴といえば素朴なのだが、その直載さに魅力を感じるのは一体何故だろう。

 福岡市美術館(1999年より福岡アジア美術館)で1979年にアジア美術展をたちあげ、30年近くにわたって東南アジア美術の研究をしてきた後小路雅弘氏は、その本質を「自分探し」と指摘する。

「東南アジアのモダンアートの基本的な課題は、「自分探し」であったし、おそらくいまもそうである。「わたしたちが本来あるべき姿から隔たってしまっている」という自覚へと向かい、さらにそこから失われた自己の回復へと向かう道程の中に、東南アジアのモダンアートの基本的な姿を見出すことができる。」(「アジアの美術」、美術出版社刊より)

 私もそう思う。これまでに駐在したタイやインドネシアでも多くの優れたアーティストと出会ったが、中でも特に強く惹かれたのが、今から思えば強烈な自画像を描く作家、タイであればチャーチャイ・プイピア(1964年生まれ)であり、インドネシアではアグス・スワゲ(1959年生まれ)であったのはおそらく偶然ではないだろう。単純だけれど究極の「自分探し」。同世代のアーティストたちが描く自画像の発見は、私自身の東南アジア発見でもあったのだと思う。

  チャーチャイ・プイピア「シャムの微笑:シャムの知性」(1995年)

 そしてフィリピンでは、スペイン、アメリカ、日本と400年にわたった植民地支配の結果、自分たちのもともとの文化を失ってしまったという喪失感は、人々の心の中、そして社会の隅々を覆っている。自分たちの国の、あるいは民族のアイデンティティの問題は、ジャンルを問わず、この国のアーティストの多くが共有している最も根源的な問題の一つだと思う。

 けれども歴史的な意味あいとは別に、私なりに「自分探し」の理由をもう一つ付け加えるならば、ときに目を覆いたくなるような醜悪な現実に対して、「わたしたちが本来あるべき姿」を求めて敢えて目を覆わず、そして発言してゆくという意味の「自分探し」が、そこにはあるのだと思う。深刻な貧富の格差や政治腐敗、終わりの見えない民族紛争や宗教紛争、そして頻発するテロがこの国の現実であり、国家や社会がクライシスの状況にあるとしたら、アーティストと名乗る以上、たとえ「わたしたちが本来あるべき姿」を実現することは困難だとしても、その現実に対して何らかの表現をすることはむしろごくあたりまえの行為なのかもしれない。醜い自己を徹底的に露悪的に表現することで、彼なりの「自分探し」を続けるオカンポが、フィリピンに“逆輸入”されて多くの人たちから評価されるのは、いまのこの国の状況をよく映し出しているともいえる。

 デジタルシネマのことを紹介したときに、フィリピンの映画では社会派“オルターナティブ”が実はもうひとつのメインストリームだったと書いたが、美術の世界でも、コマーシャルアートとは一線を隔した社会派アートは、この国の美術史のメインストリームのひとつだ。フィリピン大学の美術史家であるアリス・ギレルモの書いた「Protest/Revolutionary Art in the Philippines 1970-1990」(フィリピン大学出版、2001年)は、マルコス政権が独裁色を強めて戒厳令を敷いた時代(1972年)から、平和的な黄色い革命に続いた時代(1986年)を中心に、熱い政治の季節と並走した社会派アートをめぐる物語の集大成だ。フィリピン社会派アートの系譜については、またいずれまとめて書きたいと思う。

 オカンポなどいわゆる商業主義から逸脱した作家たちにとって、アートで生活してゆくということは大変困難なことだと普通は思うけれど、今のフィリピンのアート・マーケットは非常に活況を呈していて、きわどいコンテンポラリーな作品を巡る環境も、実はそんなに悪くはないといえる。マニラ首都圏のギャラリーで個展を行い、そこに集まった身内や業界人から評判が広がれば、コレクターや投資家が作品を買ってくれるかもしれないし、運がいいアーティストは、メジャーなコンペティションで入賞でもすればさらに作品の価格が上がることは間違いなし。こうしたルートに乗ってしまえば、1年もすれば立派な売れっ子作家となる。どんな反骨のアーティストだって、多かれ少なかれ今のアートブームの恩恵を受けているのは間違いのないところだ。私が最近注目しているもう一人の若手作家にロバート・ランゲンゲールという作家がいる。昨年画家デビューをしてこれまでに3回の個展を開いた。彼こそが、チャーチャイやアグスの系譜に連なる露悪的自画像の作家だと思っているのだが、彼のグロテスクな自画像やかなりスキャンダラスな絵が、飛ぶように売れてしまうのが今のマニラだ。本人ですら、どうしてそんな絵が売れるのか不思議に思っている。

            ロバート・ランゲンゲール   

 フィリピンの経済はここ数年ずっと7~8%の成長を続けている。一方である民間NGOの調査によれば、貧困層はより拡大しているという。3ヶ月の間に1日でも食べ物に困り飢餓感を感じた世帯は、全世帯の19%(2007年2月)で、1年前の調査時からさらに2%増加した。海外からの投資が増え輸出額も伸び、株価や不動産価格、そしてペソの価値も上昇の一途である。金持ちの資産がふくらみ続けるミニバブル状況の中で、貧富の格差はさらに拡大し、開発の恩恵はあいかわらず勝ち組のみに与えられている。

 そんな不均衡な世の中をまさに象徴するような、ハイソサエティーのためだけの街の開発が、今マニラの中心部で急ピッチに進められている。名づけて「グローバルシティ」。グローバライゼーションの恩恵を受けた人々の街には象徴的なネーミングだ。10数年前までは米軍基地だったが、フィリピン最大の財閥であるアヤラ財閥が払い下げを受け、野原を一から開発し、超高級マンションにショッピングモール、学校や病院のある金持ち村を建設中だ。ピカピカのブティックや人気カフェが立ち並び、ファッショナブルな人たちで賑わっている。日本の新宿で人気のクリスピー・クリーム・ドーナッツもあり、明るくお洒落な店舗では待ち時間無しでおいしいドーナッツが手に入る。美しい芝生の中庭にはパブリックアートの彫刻がふんだんに置かれている。そして、この界隈だけでも新たに商業ギャラリーやコンテンポラリーアートを扱うスペースが一挙に10店舗近くオープンした。

             グローバルシティ

 まあこうした状況そのものは、アートにとって悪い話ではない。けれどもこの国の別の現実を見るにつけ、そう楽観的に喜べないのが複雑なところだ。そんなきらびやかな街が生まれている一方で、どうしても思い出さずにはいられない最底辺の生活もある。先日マニラ首都圏最大のゴミの集積地(スモーキーマウンテン)であるパヤタスに行ったが、そこはまさにオカンポの絵のような醜悪な場所だった。スカベンジャーと言われるゴミ拾いのために集まった人々が不法占拠して作り出した“街”で、ゴミ山の麓に作られたバラックの家々とドブ川、そして異様な異臭に包まれたところだ。グローバルシティとパヤタスでは、まさに天国と地獄・・。後者の世界の住人にとって、この世の中は「SHIT(くそっ)!」でしかないだろう。

               パヤタス

 “勝者”と“敗者”がはっきりと別れているこの国では、より大きな権力は確実に“勝者”の手中にある。そんな巨大な力に対して、アートは一体何ができるのだろうか?たとえ先が見えない闘いであっても、執拗に糞を描き続ける、そんなアーティストがいることに、なんともやるせない現実の中でも多少の希望は見えてくるのだ。

(了)

2007/09/10

次の世代へバトンをつなぐ喜び

 今回のブログはいつもと趣向を変えてとても個人的な話を書きたいと思います。

 国際文化交流という裏方の仕事をしていて最も充実していると感じるのは、おそらく、学者やアーティストなど、社会をかたち作り、支えている人々、または学生のようにそのようなことを将来にわたって期待される人々、いわばそうした主役となる人たちが、生涯にわたって影響を受けるような経験(ライフタイム・エクスペリエンス)をする後押しをしている、と実感するときだと思う。


 先日、ミンダナオ島北部の中核都市、カガヤン・デ・オロ市にあるキャピトル大学を訪問した。基金の草の根交流助成というプログラムで同大学の学生7人による訪日研修が実現するはこびとなり、その学生との顔合わせに招待された。

 実はこの町を初めて訪れたのは1979年、今から28年前、まだ私が16歳、高校1年生の時だった。当時ブームだった“南北問題”に関するある大学の懸賞論文に入選し、同級生2人とともにフィリピンにやってきた。このカガヤンに来たのは、私の高校がイエズス会系の高校であり、同じカソリックで姉妹校であるアテネオ・デ・カガヤン高校が受け入れてくれたからだ。短い滞在だったが、同じ年頃の友達もたくさんできて、高校の授業にも飛び入り参加した。田舎者の私は皮肉にも、タワーレコードやシェーキーズというアメリカ文化に初めて接したのもこの町だった。タワーレコードで買ったイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーのLP、ビニールに包まれた輸入版のあの独特な匂いは、今でも昨日のことのように覚えている。

 けれどもたくさんの濃密な経験の中で、その後のぼくの人生の中で終生忘れえぬものとなったのは、お世話になったフィリピン人家庭の温かさであり、家族で行った教会で見たフィリピン人の敬虔さ、その神秘的ともいえる姿であり、日が沈む頃になると家の前の道路のここかしこに集まっては談笑し、ギターを弾き語る、なんともいえないロマンティックな光景だった。当時から貧富の格差が激しかったフィリピンだから、若い自分には相当ショッキングな貧困の現実というものを目の当たりにしたのだけれど、私の頭の中の最終的な残像は、ほとんど幸福にまつわるものばかりだった。厳しい現実と隣り合わせのなんとも奇妙な幸福感。これが大雑把にいって、私がこの国に抱いた印象だった。1週間足らずの滞在なのに、カガヤンを発つ飛行機の中では何故か涙が止まらなかった。あまりの感情の揺らぎに自分自身も驚き、心の中で「必ず戻ってくるから」と、言い聞かせた。

 それから2、3年、そこで知り合った友人たちと文通を繰り返した。やがて音信不通になり私は大学に進んだが、このカガヤンでの体験は常に心のどこかにあったのだと思う。厳しい現実と隣り合わせのなんとも奇妙な幸福感。私たち日本の日常とは全く異なる世界、価値、そして匂いがあった。大学に入ってからもバックパッカーとなって随分いろんな国に行ったけれど、今から思えば、どの街へ行ってもあの「奇妙な幸福感」の追体験を求めて、そのなぞかけに対する答えを探していたのかもしれない。その意味で、カガヤンが全ての出発点、ぼくにとっての“異界”への入口だったのだ。

 その後カガヤンを取り巻く環境は大きく変わった。第一、ミンダナオはモスレムによる分離独立運動が激しくなった。私がフィリピンから帰国して数ヵ月後、ダバオという町で初めて爆弾テロによる犠牲者が出た。いまでは日本人の多くは、ミンダナオ島と聞けばイスラム原理主義やテロリストをイメージするだろう。私も基金に入って何度かフィリピンを訪れる機会はあったが、カガヤンに来ることはなかった。そして、2年ほど前に基金のマニラ事務所を預かることになった。

 フィリピンに赴任したら私にはぜひやってみたいことがあった。それはミンダナオの人々との交流だ。日本から見ればテロリストの巣窟かもしれないミンダナオ。でも当然だけれどそこに住む大多数の人々は、あのカガヤンで出会った友人たちのように、平和を愛するロマンティストであるに違いない。待っていては事は始まらないので自分からどんどんでかけることにした。そしてダバオから平和運動の活動家(神父)を日本に招待したり、マラウィからはモスレム女性リーダーのグループを広島と長崎の原爆の日にあわせて派遣した。幸運にもスールー諸島のスルタンの家系につながる舞踊家と出会い、同地に伝わる伝統舞踊をめぐる国際シンポジウムを実施したりした。でもやはり当然のことながら、最も気になっていたのはカガヤン・デ・オロのことだ。

 今回訪日するキャピトル大学の7人の学生は、看護学科、国際学科、商業学科の18歳から20歳までの学生(フィリピンの学制は小学校6年、高校4年、大学4年)。その内の一人はモスレム自治区からやって来たイスラム教徒の女子学生だ。日本では1週間ちょっとの短い間に、創価大学の特別講義に出席するほかに、彼ら彼女たちによるフィリピン文化紹介や平和問題に関する日本人学生向けのレクチャーもあるという充実ぶりだ。


 28年前にこの町を訪れることがなかったら、今の僕はここにいただろうか。16歳の時にこの町からもらった大事なもの。ようやくそのいく分かをお返しすることができる。ライフタイム・エクスペリエンスを目前にして、期待に胸をふくらませて満面の笑顔をたたえる彼らを前にして、あの時僕が受け取ったバトンを、今こうやって次の世代の若者に確かに渡すことができたと、そう確信してとても嬉しくなった。

2007/09/03

Dシネ・ブームの先に見えるもの-フィリピン映画の過去・現在・未来-

 前回報告した「シネマラヤ」の興奮まだ冷めやらぬマニラで、今度は、「シネマニラ国際フィルムフェスティバル」が開催された。既に9回の歴史を重ねて年中行事といってもいい映画祭だが、国内Dシネの祭典シネマラヤと異なり、こちらは世界各国から名作を集めて充実のラインナップ。日本でいまや大人気、タイのペンエーク・ラタナルアン監督の新作「プローイ」を筆頭にASEAN映画特集や、2005年ベルリンで金の熊賞を受賞した南アフリカのカルメン歌劇「ユー・カルメン・イン・カエリージャ」などのアフリカ映画特集、カンヌ、ベルリン、ベネチアといった著名な国際映画祭での受賞作や招待作品を中心に、32カ国から133作品が上映された。日本からは「武士の領分」、「フラガール」とアニメの「時をかける少女」の3本が参加している(8月8日~28日、アラネタ・センター)。

 ちなみにフィリピンにおけるメジャーな映画祭といえば、「シネマラヤ」に「シネマニラ」、そしてあと一つ「メトロマニラ・フィルムフェスティバル」というのがある。歴史的にはこれが最古の映画祭で、1975年から数えて昨年の開催で32回目になる。こちらは純国産の商業映画が中心で、毎年クリスマスシーズンに開催。昨年はコメディー映画「Enteng Kabisote 3」(作品賞)を筆頭に9本のエンターテイメント作品がエントリーし、興行成績もまずまずだったようだ。

 さてシネマニラだが、今年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した「4ヶ月、3週間と2日」(クリスチャン・ムンギウ監督)は衝撃的だった。チャウシェスク共産党政権末期のルーマニアの小さな大学の街が舞台で、女子学生による非合法の堕胎と、それを助けるルームメイトの恐怖をリアルに描いた作品だ。ルーマニア映画がパルム・ドールを受賞したのは史上初。WEB情報では年間10~15本の映画しか製作されておらず、ムンギウ監督は国内唯一の映画学校で学び、低予算でこの映画を製作したという。そんな成功物語を目の前にして、フィリピンの若いフィルムメーカーたちは何を思っただろうか。年間50本の35ミリ映画を世に送り出し、映画を学べる学校もいくつかあり、ましては昨今のDシネの盛り上がりだ。きっとフィリピンの映画人にもチャンスはある。シネマラヤに集った若者たちの中から明日のヒーローが生まれても不思議ではない。

 シネマラヤ以来、映画にどっぷりという感じだが、派手な映画祭以外にも、地味ながらきらりと光る面白いイベントもある。この国のインデペンデント系のフィルムメーカーを取り巻く環境を知る上でも興味深いイベントを二つ紹介しておく。

 一つは、環境をテーマにしたローカルのドキュメンタリー映画祭である「ムーンライズ・フィルムフェスティバル」(8月15日~21日、ロビンソン・ギャレリア、Center for Environmental Awareness and Education主催)。コンぺティションの出品作はいずれも短編で合計9本。中部ビサヤ地方の小島で起きているダイナマイト漁による漁場の破壊を描いた「カウビアン」(ウリセス・シソン監督)、昨年ギマラン島沖で起こった石油タンカーの重油流出事件による海洋汚染を描いた「ショコイ」(レイ・ジブラルタル監督)、ルソン島コルディエラ山地の森林破壊をテーマにした「猿はどこへ行った?」(マベル・バトン監督)などを観た。

 環境破壊について日本では断然中国が注目されているが、ここフィリピンもかなりひどい状況だ。明確に人為的な環境破壊以外にも、天災や、過度の森林伐採が遠因である地すべりや鉄砲水など、天災を装った人災の被害と後遺症は想像を超えるものがある。その意味でこうしたドキュメンタリーの対象となる素材はごろごろあるというのが誇れない現実だ。

 コンペ作品の中で「猿・・」を制作したのはコルディエラ・グリーン・ネットワークといって、バギオを拠点に活動している環境NGOである。代表を務めているのは反町真理子さんという日本人で、植林運動や環境教育のほか、山岳地帯の貧しい村の子供たちに奨学金を出したりして活躍している。今回の「猿・・」プロジェクトでは、インドネシアから陶芸作家や日本人アーティスト廣田緑さんを招聘して共同制作を行った。

         「猿はどこへ行った?」のポストカード

 インドネシアはあの2年前の悪夢のような津波以外にも、自然災害や環境破壊について深刻な問題だらけだ。それに加えて長年続いた内戦による荒廃。色々な意味でここフィリピンと似たような状況にある。こうした災害や戦乱で心の傷を負った人たちにとって、文化やアートはどういう意味を持ちえるのか、持ちえないのか?これは私たち国際文化交流を仕事としている者にとっても大切な問いかけだと思う。今年になって東京とジャカルタの基金スタッフが試みたインドネシアのアチェでのワークショップ、内戦による悲惨な過去がトラウマとなっている子どもたちが参加した演劇ワークショップは、そうした問いかけに対する一つの試みとして貴重な体験だったと思う(http://www.jfsc.jp/webmember/topics_cont/fr-0708-0004)。

 今回バギオにやってきた廣田さんも、アートを通して社会との接点を求めて活動している女性作家だ。彼女の拠点はジョグジャカルタという古い都だが、一昨年の大地震では多くの犠牲者が出た。多くのアーティストが被災したこともあって彼女は被災地の支援に乗り出した。日本の友人たちからのサポートを受け「救援パック」と名づけて物資を届けるプロジェクトを続けていたが、支援の輪が広がって、最終的には子どもたちのために3つの幼稚園を建設した。その様子は彼女のブログに詳しい(http://midoriart.exblog.jp/m2006-09-01/)。そんなインドネシアの社会派アーティストとフィリピンのアーティストとの出会いに期待して、マニラ事務所では「猿・・」をさかのぼること1年前にこの廣田さんの展覧会をマニラで実施して、バギオのアーティストとも交流した。そして今回の企画につながった。

 話しがそれてしまったが、この「ムーンライズ・フィルムフェスティバル」もシネマラヤと同様に今年で三年目。やはり昨今のDシネブームと無縁ではないだろう。さらにはこの映画祭の会場となっているショッピングモール(ロビンソン・ギャレリア)のシネコンプレックスでは、今年からインディーズ系のDシネが常時観られる上映館が提供されていて、インデペンデント・フィルムメーカー協会という新しいNGOが企画を任されている。とはいってもシネマラヤで見た一部の人々の盛り上がりとは裏腹に、なかなか一般の観客は集まってこない。何度か足を運んだが、300人くらい入る映画館の中にお客さんはいつも10人、20人ほど。まだまだ本格的なDシネ時代の到来には時間がかかるだろう。それでも商売ぬきで映画館を貸しているこのショッピングモールも、なかなか懐が深いと思う。こうした新たな動きがいつか実ることを期待している。

 もう一つ紹介したいイベントは、フィリピン大学フィルム・インスティテュートで実施中の「フライデー・フィルム・バー」という企画(8月10日~10月5日の毎週金曜日)。フィリピン映画の名作上映とバンドの生演奏だ。オープニング映画は、この国の人間国宝ともいえる「ナショナル・アーティスト」に、映画監督として初めて指定(1976年)されたランベルト・アヴェリャーナ(1915年~1991年)の代表作「バジャウ」(1957年)。バジャウ族はインドネシアの島々からフィリピンに広がる海洋民で、古くから「家船」を居住空間にする“漂海民”で知られている。映画はスールー諸島のホロ島を舞台に、バジャウ族の若きリーダーと、その宿敵タウスグ族の娘とのラブストーリーを、両部族の抗争を織り交ぜて描いた作品。最後は部族間の争いを乗り越えて、若きリーダーがバジャウの後継者に選ばれる。いまではバジャウ族といえば未開や無知、貧困という偏見に満ちているなかで、50年前にそのバジャウのヒーローを描いて、立派に娯楽映画を作っていたのだから、当時のフィリピン映画界の豊かさが想像される。

 この企画の会場となっているフィリピン大学フィルム・インスティテュートは、この国の映画関係者のメッカである。1976年にフィルムセンターとして出発して以来これまでに多くの映画人が集い、一昨年にはマスコミ学部映画視聴覚学科と合併して名実ともに映画人育成の拠点となっている。日本でいう東大のような最高学府にしっかりとした映画専攻課程と研究機関があるのだ。その点では日本よりよほど恵まれているといってよい。よってこの国の映画人には、結構知的エリートが多い。そして800席のシネマ(シネ・アダルナ)とギャラリーがあり、基金主催の人気イベント、日本映画祭の実施会場でもある。ここフィリピンでは映画の上映に際して映画テレビ検閲委員会(Movie-Television Review and Classification Board)の検閲が義務付けられているが、このフィリピン大学のみ例外。ここは検閲なしでいかなる映画の上映も可能という治外法権が与えられているのだ。ちなみにこのフィリピン大学以外にも、主なところでデ・ラサール大学やサント・トマス大学といった名門私立大学のマスコミ学科で映画を学ぶことができる。サント・トマス大学は1611年に設立されたアジア最古の大学である。また映画関係者の福利厚生団体であるモウェル・ファンド・フィルム・インスティテュートというNGOでは、研究、アーカイブ事業(映画博物館もある)以外に、定期的にワークショップを実施していて、ここからも多くの映画人が輩出されている。このブログでもたびたび紹介している日系フィリピン人の売れっ子脚本家である山本みちこさんは、サント・トマス大学の卒業でモウェル・ファンドが実施した脚本ワークショップの修了生だ。多くの映画人の卵は大学を卒業した後、テレビドラマやニュース、CMやミュージックビデオなどの仕事をしながら、それぞれに映画の夢を追い続けている。


 CCPが編集した「Encyclopedia Philippine Art Volume Ⅷ Philippine Film」(1994年出版)の中で、「オルタナティブ・シネマ」に1章が与えられている。そこではフィリピン映画の誕生(マニラで最初の映画館は1897年にオープン)とともにドキュメンタリーや短編映画など商業映画とは異なる「オルタナティブ・シネマ」が生まれたとあるが、特に現在のフィルムメーカーに影響を与えているのは、1950年代半ば以降の動きだろう。マニラで初の国際映画祭が開催されたのが1956年。上述したランベルト・アヴェリャーナらがドキュメンタリーの分野でも活躍し、1960年代になると数々の海外映画祭に出品されるようになった。

 1970年代にフィリピン映画は黄金期を迎え、歴史に残る多くの秀作が生み出された。戒厳令下(1972年~1981年)のマルコス政権の全盛期とも重なるのだが、不思議なことに、この過酷な時代に敢えて挑戦するように、社会的テーマを取り上げた硬派作品や芸術性の高い作品が数多く作られたのだ。なかでもリノ・ブロッカ(1939年~1991年)は、20年間に67本もの作品を生み出して、その後の映画人たちに大きな影響を与えた。地方からマニラにやってきた青年が貧困の中で男娼となり破局を迎える「マニラ・光る爪」(1975年)や、母親の内縁の夫にレイプされるが最後は彼を殺して復讐をとげるスラムの娘を描いた「インシャン」(1976年、カンヌ監督週間にて上映)など。いずれも社会の底辺を題材に、胸に突き刺さるようなリアリズムで醜悪の中にペーソスやリリシズムを描き、一度観たら忘れられない作品である。いまでも彼は若い映画人たちにとってのヒーローであり、その作品は繰り返し上映されて大きな影響を与え続け、そうしてこの国の社会派映画人の命脈が続いているのだ。

 そして1980年代前半はインデペンデント映画が盛り上がり、このブログでも紹介したことのあるキドラット・タヒミックや、彼より一世代若いレイモンド・レッドらが活躍した。タヒミックを一躍世界的な映画監督にした代表作「悪夢の香り」(1977年、ベルリン国際映画祭批評家賞を受賞)は、実験的な自伝的ファンタジー・コメディー作品だが、これもリノ・ブロッカの名作同様に繰り返し上映され続けている。今回の「フライデー・フィルム・バー」でも、「マニラ・光る爪」とともに上映される予定だ。そして当の本人は、その特異な生き様そのものもあいまって、既にオルタナティブ映画のクレージーな“伝説的”イコンとして、多くのアーティストから尊敬されている。なおこれらブロッカ、タヒミック、レッドなどの作品は、先日国際交流基金を退職した石坂健治氏によって20年ほど前から日本で紹介されてきた。彼の精力的な仕事によって私たち日本人は、多くのフィリピンの秀作映画を観ることができたのだ。同氏は現在東京国際映画祭‘アジアの風’部門のディレクターを務めているが、このブログの場を借りて、彼のこれまでの仕事に敬意を表したいと思います。そしてもちろん東京国際での今後のご活躍を楽しみにしています。

     フィリピン映画祭(1991年国際交流基金主催)

 その石坂氏などが中心となって日本で実施されてきたフィリピン映画の特集上映は、1980年代前半の作品群の紹介を最後に、なかなか後が続かない状況となっている。もちろん単発で生まれる秀作はあっても、新しい波といったものが訪れないまま、基本的にはぱっとしない、インデペンデントな映画人にとってみればなかば絶望的な20年の時が経過してしまった。

 そしてようやく今、Dシネブームとともにフィリピンの映画界に再び大きな波が訪れようとしている。その新たな波を生み出している若いフィルムメーカーたちには、アヴェリャーナやブロッカが残した豊かな社会派の伝統や、タヒミックやレッドが示した実験的才能に富んだインデペンデントの血統が受け継がれているに違いない。今年のシネマラヤで作品賞を受賞したスラムのギャングを描いた「TRIBU」などは、明らかに”ブロッカの子どもたち”の作品の一つであろう。

 同じくシネマラヤで上映された作品の中で、今回ただ一つ、ミンダナオのイスラム社会を描いた作品があった。「ガボン(雲)」という作品で、伝統的イスラムが支配するマラウィという町を舞台に、彼らの古い言い伝えにある“子どもの幽霊”が小学校にやってくる話である。監督のエマニュエル・デラ・クルーズは、この作品で短編部門の監督賞を受賞したが、彼の次の目標は、ミンダナオの若者たちに映画を教えることだという。映画というものが私たちに最も身近なメディアの一つであり、私たちの姿を生々しく映し出す鏡でもあるとすれば、いまフィリピンの映画は、再びその本来の役割を取り戻そうとしているようにも思える。50年前にモスレムのヒーローを生き生きと描いたように、貧困、偏見、そして内戦で疲弊した現代のミンダナオの日常を、ミンダナオの若き映画人が描く時がやがてやって来るのだろうか。いまはこの新しい波の向こうにあるものを想像しては、少し希望で胸をふくらませている。

(了)

2007/08/08

豊かな物語の宝庫、フィリピンDシネマの現在

 フィリピンのデジタルシネマ(Dシネ)が異様に盛り上がっている。わざわざ“異様に”と書くほど、それは本当に驚異的な事態だと思う。今年で3回目を迎える「シネマラヤ/フィリピン・インデペンデント・フィルム・フェスティバル」(7月20~29日、フィリピン文化センター)が開催され、120本のDシネが一挙上映された。それもほとんどこの2~3年の間に製作されたもので、とにかく内容が濃い。あふれるほどの世界中の映画を毎日多くの上映館で観ることができる日本の私たちが、しかもフィリピン映画なんてほとんどその視野に入っていない私たちがこの状況に遭遇したら、きっと誰でも驚かずにはいられないと思う。

 そして基金マニラ事務所では、3年目にして初めてこのフェスティバルに参加した。同時開催されたシンポジウムに協賛するとともに、日本で最大級のDシネの祭典であるSKIPシティ国際Dシネマ・フェスティバル(http://www.skipcity-dcf.jp/index.html)よりプログラム・ディレクターの木村美砂さんを招待した。同フェスティバルも創設4年目とまだ若いが、いまや堂々たる国際フェスティバル。興味深いのは、木村さんの話によると今年のコンペ応募作品は全世界から長編、短編合わせて761本。その内フィリピンからの応募作品が数十本もあったという。12本選ばれる最終選考作品の中にも「ブラックアウト」(マーク・バウチスタ監督)というフィリピン映画が残った。この国でいまDシネの地殻変動でも起こっているのだろうか。

 第1回シネマラヤは私がフィリピンに赴任した直後の2005年7月に開催され、その時いくつかの秀作に巡り会ってこのブログの初回で報告をした。あまりに面白いので何かに記録しておきたいと思ったのが、そもそもこのブログを始めるきっかけだった。その時の予感が当たっていた、というよりフィリピンのDシネは私の予想をはるかに超えて盛り上がった。ここ2、3年のDシネ界の集大成といえる今回のシネマラヤは、これまでにない規模と熱気にあふれ、開催期間中劇場は常に若者でごった返し、多くの映画関係者の笑顔が見られた。コンペティション部門以外にも、このイベントに照準を合わせて“ワールドプレミア“と称して発表される作品も多く、舞台挨拶に訪れた製作者や役者、マスコミ関係者などで賑わっていた。どうしてこれほどまでに盛り上がっているのか。とても単純なことだけど、私たち日本人にとってはおそらく忘れかけた感覚ゆえだと思う。それは、映画に対する”渇き“のようなものだ。

     
 “メジャー”映画会社による劇場用35ミリフィルムの衰退状況については2年前に報告した通り。むしろこちらは状況が悪化している。有名歌手の知名度に頼ったラブロマンスや、中途半端なホラー映画がほとんどで、製作本数も昨年は49本とさらに減少した。まあそれでもそんな映画に観客は集まるのだから、商業映画としてはそれで細々と生きながらえていると言えるかもしれない。その他はほぼアメリカ映画の独占状態。シネマコンプレックスで「スパイダーマン」や「ハリーポッター」が上映されると、例えば10館あればその内の9館が同じ作品を上映するという有様だ。基本的には暗澹とした映画界の中で、一筋の光が差すというのはまさにこういうことを言うのだろう。製作者、役者、そして観客が、Dシネの可能性に賭けている。この国の映画を取り巻く環境が大きく変わろうとしている。そうした転換期に立ち会うことができるのは幸運だ。

 もちろん120本全部観ることは不可能だが、これまでに観た作品を含め、印象に残った作品を簡単に紹介しておく。フィリピン最北端の美しい離島を舞台にした珠玉の作品や、先住民族の生活を淡々と描いたドキュメンタリー風作品、そしてマニラのスラムに住む人々の喜怒哀楽をドラマチックに描いたものから、ゲイが主人公の危うい作品まで、実に様々なバリエーションのある物語に彩られている。

○今年度長編コンペ作品
「ENDO」(ジェイド・フランシス・カストロ監督) 期間雇用(通称“ENDO”)で家族を支える青年と、長期航路客船での就職を夢見る女の子のラブストーリー。

「KADIN(山羊)」(アドルフォ・アリックス・ジュニア監督) フィリピン最北端の島バタネスを舞台にした兄妹の物語。突然家から姿を消した山羊を探して島を巡るお話。

「GULONG(自転車)」(ソッキー・フェルナンデス監督) 1台の古い自転車を巡る物語。少年が欲しいと夢見る自転車は、かつておじいさんが恋人に贈ったプレゼントだった。

「LIGAW LIHAM(愛の手紙)」(ジェイ・アベロ監督) 街の郵便局が廃業。ある女性がベトナムにいる夫に宛てた恋文を、彼女を慕う男性が奪って“文通”し続けるお話。

「PISAY」(アウラエウス・ソリート監督) 超エリートが集まるフィリピン・サイエンス高校を舞台にしたフィリピン版中学生日記。1986年の黄色い革命前夜を描く。

「Still Life」(カトリーナ・フローレス監督) 筋ジストロフィーに侵された画家と子供を捨てた過去を持つ若い女性とのラブストーリー。

「TRIBU(部族)」(ジム・リビラン監督) 現在のトンドを舞台に、本物の少年ギャングの抗争を描く。

    「ENDO」のポスターの前でポーズする学生カップル

○2005年度コンペ作品
「BATAD:SA PAANG PALAY(藁しべの足元)」(ベンジー・ガルシア監督) 世界遺産であるライステラスで有名なバナウエを舞台にしたイフガオ青年の夢と恋、そして現実を描いた作品。

「DONSOL」(アドルフォ・アリックス・ジュニア監督) ルソン島南部の実在の町ドンソルが舞台。ホエールウォッチングのガイドと癌に侵されたツーリストの女性との悲恋物語。

「TULAD NG DATI(昨日のように)」(マイケル・サンデハス監督) 実在する伝説的ロックバンドDawnをめぐる友情の物語。Dawnの演奏満載。2005年度作品賞受賞。

○その他
「HAW-ANG」(ボン・ラモス監督) ライステラスのあるイフガオ族の山村に赴任したシスターと子供たちの愛情ストーリー。

「ATAUL FOR RENT(レンタル用棺桶)」(ブボイ・タン監督) 棺桶屋の夫婦を軸に、彼らが暮らす路地裏のスクウォッター(不法占拠者)たちの逞しさと悲哀を描く。

「KUBRADOR(借金集金人)」(ジェフリー・ジェッタリン監督) マニラのスラムを舞台に、違法賭博(フエテン)を取り仕切るおばさんをめぐる物語。

「MANORO(先生)」(ブリリャンテ・メンドーサ監督) フィリピンの先住民(通称アエタ族)の少女が小学校を卒業して大人たちにアルファベットを教える話。

「MASAHISTA(マッサージ師)」(ブリリャンテ・メンドーサ監督) ゲイ映画の真髄。ゲイを相手にするマッサージ青年の日常を描く。

 今年のコンペの長編部門では、「TRIBU(部族)」が作品賞を受賞した。全編トンドでロケを行ったドキュメンタリータッチの作品だが、役者の多くはそこに住む素人の中からオーディションで選ばれた。トンドはかつてアジア最大のスラムと言われ、ごみの山“スモーキーマウンテン”で有名になった場所だ。スカベンジャー(ごみ拾い)の子供たちによって結成された同名のポップスグループが日本で売れ、NHKの紅白にも出場したので覚えている方もいるかもしれない。そんな現代のトンドを舞台に、実際の少年ギャングを起用してその抗争を描いた。映画の中では壮絶なけんかで双方血だらけの犠牲者が出て、悲惨な最期となるのだが、実際はこの映画の製作を通じてギャング間の抗争が無くなったという。CCPで行われた表彰式で、彼らギャングの代表が主演男優賞に選ばれ、会場の盛り上がりは最高潮に達した。フィリピンならではの社会派映画がまた新たに誕生し、多くの人たちに受け入れられた瞬間だった。

         「TRIBU」主演男優賞受賞の瞬間     

 このシネマラヤは、サブタイトルに“フィリピン・インデペンデント・フィルム・フェスティバル”とあるように、“オルタナティブ・シネマ”の祭典でもある。そして、フィリピン映画の歴史の中では知る人ぞ知る、“オルタナティブ・シネマ”の占める位置は特別だ。この国のインデペンデント映画や社会派映画の系譜については改めて書きたいと思う。いずれにしても巷の映画館をハリウッド映画に占拠され、語るに値しないフィリピン映画にほぼ絶望しかかっている映画人や観客にとって、まさにこのフェスティバルは、日ごろの“渇き”を癒し、未来への希望を語る熱い10日間であったに違いない。

 惜しむらくは、こうして世界に向けてメッセージを発信しようとしている映画人がここにも大勢いることを、日本人の我々や他の国の人たちがほとんど知らないことだろう。SKIPシティの木村さんは、ここで多くの若いフィルムメーカーと出会い、「目が覚める思い」とその気持ちを正直に吐露していたが、私も同感だ。これほどまでに作品が内容的に充実しているのは、この国には語るべきストーリーが無尽蔵にあるということ。そしてストーリーがかくも豊富なのは、ある意味それだけ社会が豊か、描くに足る生命力に満ちた生活がそこにある、ということだろう。物質的な豊かさゆえに描くべきテーマを失いつつあるか、ややもすれば窮屈で生命力に乏しいテーマに凝り固まってしまう私たち日本人からすれば、いまのフィリピンのDシネは伸び伸びとした豊かな物語にあふれていて、なんとも羨ましく思えるのだ。
(了)

2007/07/30

文化の底力、インデペンデントの祭典

  今年で2回目となるコンテンポラリーダンスの祭典、「Wi-fi bodyインデペンデント・コンテンポラリーダンス・フェスティバル」が、フィリピン文化センターで開催された(7月12~15日)。主だった振付家・ダンサーの新作や、マニラ首都圏にあるバレエ・スクール、高校や大学のダンス部などによる作品披露のほか、今回初めての試みとなるコンペティション部門が注目を集めた。

 フィリピン人若手振付家による未発表のソロ又はデュオの作品を競うもので、合計12名が参加。国際交流基金マニラ事務所がスポンサーとなり、名付けて” Wi-fi JF NeXtage Award”。優勝者には2万ペソ(約5万円)の賞金と、来月に実施する予定のJCDN(ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)の公演に、日本から来る4組のグループとともに、唯一フィリピンから参加する権利が与えられる。そのコンペに私も審査員の一人として参加して、全作品を観ることができた。

 いずれも10分程度の短いものだが、それぞれの思いが凝縮された作品だった。抽象的、実験的な動きから、民族舞踊を取り入れたものや、物語性の高い演劇的作品までバラエティーに富んだ内容。夫に去られた未亡人の嘆きや、この国らしくゲイのラブストーリー、はては戦時中の日本軍人とフィリピン人女性の恋の話など。特に上位の3作品は評価が拮抗したが、優勝したのはアバ・ビラヌエバという女性振付家による「インサイド」というソロ作品だった。真っ暗な舞台の上にシンプルな照明によって約2メートル四方に区切られた空間が浮かび上がり、その中で次から次へと沸き起こる体の動き・リズムに乗り、微小な動きからやがてスクエア全体を覆う激しい動きへと展開していった。時にはその極小空間で巨人に見えるほどの圧倒的な存在感となり、とても完成度の高い作品に仕上がっていた。シンプルな作品といえばそれまでだが、特にフィリピン的かというとそんなことは全くない。優れて現代性を持つ作品は、国や民族性といったローカルなものをかえって感じさせないものだと、改めて思い直した。

              アバ・ビラヌエバ

 2年前にこの地に赴任して以来、コンテンポラリーダンスの公演にはなるべく足を運び、このブログでも紹介した通りマイラ・ベルトランを日本へ招待したり、ドナ・ミランダが日本のコンペティションへ参加する橋渡しをしたり(彼女は結局、「横浜ソロ・デュオ・コンペティション」で審査員賞を受賞した)、色々と試みてきたが、この2年という短い期間でも随分と新しい才能が育ちつつあることを実感して嬉しくなった。優勝のアバには、前述の通り日本の第一線の若手グループとの競演が待っているし、2位入賞の作品を踊ったエレーナ・ラニオグも、大阪で開催されたアジア・ダンス・ショーケース(7月28日、大阪ビジネスパーク内・OBP円形ホール、財団法人21世紀協会主催)に招待されて日本で踊っている。勢いを増すフィリピンのコンテンポラリーダンス界には、未知の世界へ分け入ろうとする大きな希望と期待があって、見ていてとても清々しい。

 さて今月のCCPでは、このWi-fi以外にも、インデペンデント系のイベントが続いている。既に演劇の「ヴァージン・ラブフェスト」が先行して行われ(6月28日~7月8日)、映画の「シネマラヤ・フィルム・フェスティバル」は先週末に終了したばかりだ(7月20~29日)。いずれも若手の才能発掘や新作の発表を目的として、メインストリームとは一線を画した内容が売りで、自前の制作費や手弁当などアーティスト個人の参加に支えられているイベントだ。国からの支援は雀の涙程度で、チケット代も「ヴァージン」が1公演200ペソ(約500円)、「Wi-fi」が200ペソから300ペソ(500円~750円、学生半額)、「シネマラヤ」が100ペソ(250円、学生半額)と、なるべく多くの若者が来やすいように安く設定されている。いずれも資金難にあえいでいて、マニラ事務所では「Wi-fi」以外にも、このインデペンデント系のイベント全てに助成金を出すなど協力をしている。商業主義に背を向けて頑張っているアーティストたちの支援は私たちのモットーなので、どれも重要なイベントなのだ。「シネマラヤ」については別にレポートするとして、今回は「ヴァージン」についても紹介しておく。

 「ヴァージン・ラブフェスト」はフィリピン人脚本家の集まりである“ライターズ・ブロック”の主催で、未発表(“unpublished”)の戯曲の初めての舞台化(“unstaged”)を競うものだ。海外からの戯曲を含めて全18作品、つまり18人の脚本家とそれと同数の演出家に、ざっと数えただけでも100人を超える役者、さらにそれ以上のスタッフが参加した。250名定員のCCPスタジオシアターを2週間にわたって貸し切り、1作品あたりそれぞれ4回の公演でのべ72公演もある一大イベントだ。日本からも劇団燐光群の坂手洋二氏が脚本家として(作品名「三人姉妹」)、また同じ劇団の若手演出家、吉田智久氏は演出家として参加した(作品名「テロリストの洗濯婦」、脚本はデビー・アン・タン)。私も日本のものを中心に18作品中、8作品を観ることができた。

 ところで劇団燐光群は、アジア諸国の演劇人と腰を据えて交流を続けている数少ない貴重な劇団だ。劇作家であり演出家である坂手洋二氏を中心に、戦争や天皇制の問題など社会的なテーマを真っ向から扱い、そのダイナミックな硬派ぶりから、私の最も敬愛する劇団の一つである。早くからフィリピン演劇に目をつけ、フィリピンから俳優を招聘しては自分たちの公演に起用してきた。そして招聘だけにとどまらず、逆に日本からもスタッフを送り込んでいる。前述した若手演出家の吉田氏は、2002年の9月から「文化庁芸術家在外研修制度」を利用して1年間マニラで武者修行を行った後、10回近くリピーターとして再訪を繰り返してはワークショップなどを行い、とうとう昨年フィリピン人女性と結婚して、”退路を絶って”長期間滞在し、いくつかの共同作業を進めてきた。

  その吉田氏が演出して2月に公演した「フィリピン・ベッドタイム・ストーリーズ」は大成功だった。ベッドをキーワードにした様々なかたちの愛憎劇を、日比両国の作家、役者、スタッフで長年にわたって作り上げたてきた、血の通った骨のある本当の共同制作である。2004年の初演であるが、今回はさらに装いを新たにして、フィリピン人脚本家の4作品に内田春菊の書き下ろし作品を加えて、計5作品を日比両国で上演した(マニラでは2007年2月17日~25日、会場:フィリピン文化センター他、主催:劇団燐光群、国際交流基金マニラ事務所他)。なかなか衝撃的な“代理母”の話や、この国に古くから伝わる吸血女“アスワン”のラブストーリー、ラストの春菊作「フィリピンパブで幸せを」では、フィリピン人エンターテイナーと日本人男性との出会いとスピード結婚をテンポの速いドタバタ喜劇で描き、満員の会場は大爆笑だった。

 その間、劇団側も昨年より3年間の計画でセゾン文化財団からフィリピンとの演劇交流のために助成金を獲得している。文化庁、基金、セゾン・・と、あらゆる手段を試みているのだ。演劇人にとってアジアとの交流はリスキーな分野だと思う。もともと世界の演劇界のメインストリームとはいえない日本だけれど、さらに日本以外のアジアとなると、インフラも不十分だし、世界的マーケットからはずれているし、例えばあちらから“招待”されても、飛行機代など結局は自腹を切ることになるのは必定。国際交流基金でもこれまでに主催事業などで多くの演劇人をアジア諸国に派遣しているが、その後自力で助成金などを獲って地道に交流を続けている人たちはとても少ない。そんな持ち出し必須の交流だからこそ、覚悟と見識が必要になるのだと思う。これから日本の社会は、アジアからもっと多くの隣人を受け入れていくことになるのは間違いない。アジア人種のるつぼ社会が近づいているのだ。もう既にそうなっているとも言える。重要なことは、なるべく早くその事実を受け入れること。そして日本人の特権意識をぬぐい捨てることだと思う。日本の演劇界からもほとんどかえりみられることのない、フィリピンの演劇人との交流を繰り返す燐光群は、ある意味では、そんな近未来の私たちの社会に先乗りして、来るべき時に備え、演劇が社会に果たすべき役割を探しているとも言える。

 さて「ヴァージン」に話を戻せば、個々の作品の完成度にばらつきがあるものの、かなりレベルの高い、内容の豊富なイベントであったと思う。おそらく現代演劇でも、せりふ芝居というジャンルでは、私の知る限り近隣の国々を凌駕していると思う。タイはなぜか伝統的に現代演劇が弱いし、インドネシアでは伝統に根ざした舞踊や肉体的な演劇(フィジカルシアター)に圧倒的な魅力があるが、せりふ重視の現代演劇となるとまだまだ良質なものは少ない。またウォーターフロントに劇場コンプレックスを擁して世界中から公演団を招聘し、いまやアジア舞台芸術のハブとなったシンガポールにしても、そこで作られる作品については、生活空間に根ざした物語のバリエーションが少なく、狭い世界観から生み出された頭でっかちの観念的で退屈な作品が結構多いように思われる。

      「テロリストの洗濯婦」(ニコラス・ピチャイ提供)

 水をはったバスタブの中で展開するこってりとしたゲイのラブストーリー。マニラの下町を舞台にゲイとオカマの“結婚”生活の日常を生き生きと描いた作品。そして吉田氏の作品は、やはりマニラの中華街の路地裏あたりのチノイ(華人)の生活を、洗濯婦と雇い主の家族を通してコメディータッチで描いた秀作。今回観た8作品はいずれも様々な世界を描いていて、言葉はわからなくても十分楽しめる内容だった。こうした物語のバリエーションの多様さが、確かにこの国の演劇を支えているのだと思う。そしてそこに盛られたたくさんの毒と、それを無力化させてしまうほどにあふれるユーモアやペーソス。決して声高に何かを主張するわけではないけれど、どの作品にも“生きたい”という思いがあふれていて、だからこそまた何度でも劇場に足を運びたくなるのだ。演劇の“辺境”、マニラのちっぽけなスタジオシアター。照明回線がねずみにかじられてボロボロの劇場だけれども、そこにはインデペンデントなスピリットが充満していて、この国の文化の本当の底力を感じさせるのだ。
(了)

2007/07/12

”テロリストの島”と「花より男子」

 ミンダナオ島の最西端、スールー海に突き出た歴史的要塞の町、ザンボアンガを訪れた。いつかは行きたいと思っていた場所だが、このたび国際交流基金の助成で、アテネオ・デ・ザンボアンガ大学の学生が参加する訪日研修を実施する可能性が高まったことをうけ、同大学との関係づくりのために訪問することにした。

 ミンダナオ島の南西部やスールー諸島が、広範にイスラム化されたのは、実はそれほど古い話ではなく16世紀半ばと言われている。そしてその約100年後には、今度はスペイン人キリスト教徒(イエズス会士)がやって来て、1635年にこの町に要塞を築いた。以来、スールー海やインドネシアのスラウェシやマルク諸島に連なる広大な海域を舞台に、スペインなどの植民地軍と、地元のイスラム教徒との抗争が続いた。その背景には、当時ここが貿易で繁栄していた先進地域だったということがある。そんな歴史を背負い、どこか趣のある美しい町だ。

        100年前のアメリカ総督府が現在の市庁舎

 ところが今のザンボアンガといえば、テロリストとの関連で思い出される“危険な町”というイメージが定着してしまった。今から1ヶ月前にも、ここから車で4時間のザンボアンガ・シブガイ州のある町で、イタリア人宣教師がアブ・サヤフと見られる武装勢力に誘拐され、いまだ未解決である。

 ミンダナオのイスラム分離独立運動は1970年代に盛り上がり、「モロ民族解放戦線」が政治の表舞台で活躍した。その後同戦線がフィリピン政府と対話を行う間に、組織が分裂して「モロ・イスラム解放戦線」が結成された。さらに1991年には、ザンボアンガから高速船で40分のところにあるバシラン島で、アブドラガク・ジャンジャラーニというイスラム神学生によって、より急進的なグループである「アブ・サヤフ」が結成された。

 アブ・サヤフは、当初はイスラム原理主義の団体であったが、創設者の死後、安易な誘拐や人質事件などを繰り返すことで変質し、現在では単なる“テロリスト集団”とみなされるようになってしまった。数々の誘拐事件やテロを列挙したらきりがないが、2001年に外国人観光客を誘拐して、このバシラン島に連行した事件は有名。昨年、創設者の弟であり当時の最高指導者であったカダフィ・ジャンジャラーニがフィリピン軍によって殺害されたが(殺害の場所はザンボアンガから船で8時間のホロ島)、彼はアメリカの情報提供によりGPSで居場所を探知された。そして密告者のフィリピン人には、米国政府から500万ドルの懸賞金が与えられた。まさに“キリングフィールド”。

 日本から限られた情報をもとに眺めていれば、ザンボアンガという所はさぞかし危険な場所に思えてくるだろう。特にこの町には、テロリスト掃討の拠点となっているフィリピン国軍ミンダナオ軍管区の本部があるし、アンドルーズ空軍基地には、フィリピン軍との共同作戦(表向きは“訓練”)のため、沖縄から米軍海兵隊もやってきている。要するに”キリングフィールド“への出撃拠点なのだ。当然外務省の海外安全情報も、最も危険度の高いクラスに次ぐ、「渡航の延期をお勧めします」という地域になっている。

 ただ、この海外安全情報は、あくまでも用心深く、“一網打尽”的に平均的な評価をしているもので、立場が変われば見方も変わるとか、時々刻々の状況の変化とかには、なかなか対応はできない。つまり確かな現地情報を得られれば、“危険“と思われている所だって、実はマニラなどと比べてもむしろ安全だったりする時もある。

 私は以前赴任していたジャカルタで、安全に関する認識について180度発想の転換を迫られた経験がある。1998年スハルト政権を退陣に追いやったジャカルタ暴動。当時ジャカルタ中が火の海となり、現地の日本人に対して国外退避勧告が出た。インドネシア全土に散らばるJICAの専門家や青年海外協力隊なども国外に退避、ジャカルタの高級住宅街に集中していた基金の派遣専門家もシンガポールに逃れた。そんな切迫した状況の中、基金のフェローシップで当時ジャカルタのど真ん中にあるスラムにホームステイして、都市開発について研究していたある若い学者から、ぜひそのまま居残って暴動の行方を見届けたいと懇請された。市内では暴動、略奪が横行していたが、そのスラムに住む住民は嬉々として“戦利品”を持ち帰っていたようで、敵の真っ只中にいるのが最も安全、という彼の判断だった。私はすぐに東京にその旨を伝え、本部の英断で彼をそのままジャカルタに残した。地域研究者にとっては千載一遇のチャンス、その判断は今でも正しかったと思っている。

 今回の訪問にあたっては、アテネオ大学の講師にあらかじめ町の様子を確認して、何ら問題はないということだったので決行したわけだが、実際に行ってみたところ、少なくとも町の中では軍や警察をほとんどみかけることもなく、あまりの見かけの平和さに拍子抜けがした。

 アテネオ・デ・ザンボアンガ大学は、イエズス会士によって1912年に創立された由緒ある大学で、付属の高校や小学校まで含めると6000人の学生を抱える。私立の名門校だけに学費も高く、キリスト教徒の富裕な家庭の子女が中心。被り物をしたモスレム女性はあまり見かけない。表敬訪問をした学長は、イエズス会のフィリピン人神父でもあり、ある意味では17世紀以来のキリスト教徒殖民の歴史と、今の姿を象徴している。彼はこの地の紛争について、「キリスト教とイスラム教という宗教対立ではない」と言い、マイクロ・ファイナンスなどの開発援助プロジェクトを通じて、貧困の問題を解決してゆきたいと抱負を語った。いわば“支配する側”の中枢にいる人といってもいいのだが、その真摯な姿から、少しは希望が見えてくる。

          アテネオ・デ・ザンボアンガ大学

 翌日、ザンボアンガからバシラン島に渡った。アブ・サヤフの生まれた土地であり、今も最大の活動拠点である。まあさすがにそこまで行くとなるとある程度の覚悟はいるし、何かあった場合の責任はどうなるんだということになるのだが、実際は、島へ渡る船内もいたって長閑なものだった。もちろんアテネオ大学講師の引率付きで、キリスト教徒が多数を占める危険地帯ではないイザベル市を訪問するということで決行した。バシラン島は6つの市に分かれていて、イザベル市と後述するラミタン市ではキリスト教徒が多数を占める。本当はイスラム教徒の町にも行きたいのはやまやまだけれども、現地の人が薦めない。このあたりが本当の限界というものだろう。

 イザベル市ではアテネオ大学とは反対の側、つまり長い間侵食され続けてきた“支配される側”のイスラム教徒が多く学ぶ、バシラン国立大学を視察することとなった。さらにイスラム教徒である学長の案内のもと、彼の出身地である隣町のラミタン市の分校を訪ねた。シュロの葉を葺いた屋根に、板張りの壁。ここから数時間の距離にあるアテネオ大学を思い出し、隣り合う二つの世界の間に広がる残酷なまでに明瞭な格差を感じぜずにはいられなかった。いかにも仮の作りという校舎では200人の学生が、政治学科、コンピューター学科、それに看護士学科に分かれて学んでいた。6割はイスラム教徒だという。“テロリストの島”の掘っ立て小屋のような学校でも、若い学生の関心を引き付けているのは、マニラの大学でもてはやされているITや看護コースだった。

          バシラン国立大学ラミタン分校



 四方田犬彦氏がパレスチナやバルカン問題について書いた言葉は、ここミンダナオでも真実だ。

 「繰り返していうが、民族と宗教の違いが戦争の原因となったのではない。戦争によって引き起こされた異常な状況が、エスニックな自己同一性を人々に準備させたのである。戦争とは単に軍事的な事件ではなく、人間の文化と生活を一変させ、彼らに敵との対立関係を通して新しいアイデンティティを与える。この時点においてもっとも身近にあって簡単に呼び出されたのが民族であり、宗教であった。」
 (「見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行」・作品社)

 イザベルの町でふと立ち寄ったモスクで、イスラム教徒の男子高校生から話しかけられた。イザベル市は、ジャンジャラーニ兄弟の生まれた町だ。彼らの人生の出発点も、こんな何のへんてつもない町のモスクだったかもしれない。テロリストの首領として米国政府から500万ドルの懸賞金をかけられた男の姿が、その男子高校生と一瞬だぶった。しかし彼らから出た言葉は、日本のマンガの話。「花より男子」が好きだという。屈託のない彼らの笑顔を見ていると、ここが世間で騒がれている“キリングフィールド”の一部であることを忘れさせてしまう。マニラや他の町でもやっているように、このバシランの高校や大学で、日本の映画を上映したり、よさこいソーランを踊ったり、そんなことができる日はいつやってくるのだろうか。いま“テロリストの島”でぼくらのできることは限りなくゼロに近いが、そんなレッテルの貼られた島にも「花より男子」が好きな高校生がいて、ITや看護を学び、外の世界へつながろうとしている大学生がいることを、忘れてはいけないと思っている。


(了)

2007/06/20

「赤い家」とロラの記憶

 現職のアロヨ大統領を含み、これまで2人の女性国家元首を輩出しているフィリピン。先月行われた上院議員の改選選挙(上院定数合計24人の半数)でも、トップ当選は女性だった。この国のフェミニズム度は、日本より進んでいるといっていいかもしれない。そんなフェミニズム“先進国”で、海外5カ国を含め、18人の女性アーティストによる展覧会「Trauma, interrupted」が開催されている(フィリピン文化センター、6月14日~7月29日)。

 女性に対する性暴力・虐待のほか、内戦や大規模自然災害によるトラウマと、その癒しが全体のテーマである。企画したキュレーターも、メイ・ダトゥウィンというフィリピン大学芸術研究学科の女性教授だ。そしてこの展覧会には、このブログでも度々紹介してきたアルマ・キントや、国際交流基金の知的交流フェローシップで研究のためにやって来た中西美穂さん(NPO法人大阪アーツアポリア)など、日本のアーティストやキュレーターも参加している。

 この国のフェミニズムの歴史について、詳しく振り返る余裕も知識もないが、その揺籃の物語についてだけ触れておく。「マロロスの女性たち」という物語だ。時代的には19世紀末のスペイン植民地時代末期、マニラの北にあるマロロスという街のフィリピン人、特に中国人との混血(メスティソ)を中心とした有産階級の中から、女性に対する教育への欲求が目覚め、1888年、20人の女性が、女性のための夜間学校の開設を訴える嘆願状を、当時の州知事に提出した。ちなみにこの年、樋口一葉は16歳。このマロロスという街は、その後1898年、フィリピン独立宣言後に初めての議会が召集された歴史上の街で、1905年にはフィリピン・フェミニスト・アソシエーションも創設されている。マロロスは、いわばこの国のフェミニズムの聖地だ。なおこの物語は、2004年に「The Women of Malolos」という研究書が出版され(ニカノール・チョンソン著、アテネオ・デ・マニラ大学出版)、昨年にはミュージカル(ザルスエラ)も上演された。

 ところで当時、隣国のインドネシアでも、同時代に生きた女性の同じような物語がある。やはり19世紀末、ジャワ北部の名門貴族に生まれたカルティニの物語だ。彼女は、貴族という出自ゆえに様々な古い因習に縛られながらも、教育への渇望を多くの手紙に託してしたため、時代の息吹を表現した。その物語は「カルティニの風景」(土屋健治著、めこん出版)という“インドネシアスクール”の古典ともいうべき名著で紹介されている。マロロスの女性たちとカルティニが、同じ志を持って同じ時代に生きていたことは、単なる偶然を越えて、私たちに何かを語りかけてくる。西洋植民地からの独立運動の歴史も、マッチョな男性中心の物語ばかりでなく、女性の物語について、もっと語られてよいだろう。

 さてアートの話に戻して、フェミニズムを象徴するフィリピンの代表的女性作家といえば、これまでにも日本で何度か紹介されたアグネス・アレリャーノが思い出される。国際交流基金アセアンセンターが渋谷にあった頃、そのギャラリーで見た「Myths of Creation and Destruction PartⅠ」(1987年制作)というインスタレーションのことは、今でも鮮烈に覚えている。頭を切断されて逆さ吊りとなった、石膏の女性の腹が引き裂かれてぱっくりと割れ、そこから老人姿の子供の像が顔をのぞかせていた。美術史家のアリス・ギレルモによれば、それは北ルソン山岳地方の穀物神と仏陀との混合神だそうだ(同氏著「Image of Meaning」)。そして、その割れた腹から内臓が垂れ、地面には豊穣を象徴するかのように、米と卵がこぼれている。暴力と死、再生と豊穣、矛盾と背反に満ちたとても刺激的な作品である。やはりアリスよれば、アグネスは32歳の時、実家の火災で両親と妹をいっぺんに失ったが、この事件によるトラウマは癒しがたく、彼女の作品はそれ以来、生と死、創造と破壊、エロスとタナトスといった逆説の葛藤がテーマとなった(同著)。

Myths of Creation and Destruction PartⅠ(福岡アジア美術館所蔵)

 今回の「Trauma, interrupted」では、トラウマとその癒しがテーマであるが、中でも、何人かの作家が共通してとりあげ、中心的テーマとなったのが、第二次世界大戦中の日本軍による“慰安婦”の問題だ。ちなみに最近の学会などでは、ややもすると柔らかな印象で問題の核心をぼかしかねない“慰安婦”という表現ではなく、状況に応じて”Sex Slave”とか“Rape Victim”というのが正しいそうだが、ここでは便宜的に“慰安婦”を使う。

 その展覧会オープニングの日に、パーフォマンス・アーティストのイトー・ターリさんは、韓国人元“従軍慰安婦”をテーマにした作品を披露した。ビニール製の上着をまとって登場したイトーは、やがて空気を入れて乳房とお腹をぱんぱんに膨らましたが、ある瞬間を境にそれが破裂し、全身を痙攣や痛みが襲う。苦悩の時間は長く続いたが、その中からやがて再生が始まり、最後は、玉ねぎの皮をむく行為を通じて苦悩の記憶を浄化してゆく・・、そんなパフォーマンスだった。なんとも心に突き刺さる鋭い作品だったが、それ以上にぼくの心を揺らしたのは、多くのフィリピン人元“慰安婦”のロラ(おばあちゃん)たちが、そのパフォーマンスをじっと見つめていたことだ。


 そのロラたちは、マパニケという村からやって来た。1944年11月23日、日本軍の総攻撃で住民の多くが虐殺され、多くの婦女子がレイプされた村だ。オープニングでの出会いの後、イトーさんら日本人アーティストたちとともに、今度は私たちがその村を訪れた。

 「赤い家」(バハイ・ナ・プラ)は、マニラから車で3時間、北ルソンに向かう幹線道路沿いに忽然と現れた。赤レンガで覆われた木造2階建ての家は、当時日本軍の宿舎として接取されていたそうだが、11月の総攻撃の日を境にして、おぞましいレイプ現場となっていった。この家からマパニケ村まで約3キロ。マパニケ村でのレイプの犠牲者によって結成されたマリア・ロラというグループは、当初90人のメンバーがいたが、既に28人が亡くなって、足腰がいまだ丈夫でアクティブな会員は、20人程度となってしまった。もっともレイプ被害を告白したのは犠牲者の一部で、名乗り出ることをいまだ拒んでいる人々も多いという。そのグループのリーダーをつとめるロラ・リタが、「赤い家」で私たちを待っていてくれた。以下は彼女の証言である。

 「その日は朝の6時から砲撃が始まった。砲撃などから生き残った者のうち、成人男性は村の小学校に集められて虐殺された。自分は日本兵に捕らえられ、この「赤い家」で一昼夜監禁されてレイプされた。」

 ロラの話を聞きながら、ぼくは「赤い家」の外の田園風景を眺めていた。その当時も、こうして田んぼはみずみずしい姿でそこに広がっていたのだろうか。60数年の時間が止まったように思えた。



 「赤い家」の後に訪れたマパニケ村の教会では、73歳から81歳までの21人のロラが集まった。ちょうど私の母親と同じ世代だ。現在73歳といえば、被害のあった1944年当時は10歳ということになる。想像を超える悲しい現実が目の前にあった。そしてあえて不謹慎な言い方をすれば、こんなにたくさんのレイプ犠牲者と一堂に話をすることなど、生まれて初めての経験だった。

 “従軍慰安婦”問題は、1991年に韓国の金学順さんらが、日本政府による公式謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴したことから始まり、その後フィリピンでも名乗り出る人たちが現れた。焦点となっている政府の公式謝罪について、例の「河野談話」があるが、問題の核心は、日本政府が明確に謝罪していないのではないか、という疑念にある。今年の3月には安部首相が、「強制があったという証拠がない」と発言して当地でも物議をかもしたが、被害者のロラにしてみれば、やっぱり日本は本気で謝罪していないじゃないか、ということになるのは当然だろう。

 さらに補償について日本政府は、国家賠償等で解決済みという立場で、フィリピンでは1956年に日比賠償協定が成立している。が、そこにはレイプ被害者への補償は含まれておらず、その後充分に加害者を裁くこともなく、フィリピン政府から犠牲者への支援も一切ない。ただ、日本政府は1995年に民間資金を集めて「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し、被害者に見舞い金(一人あたり200万円)を支給した。が、これも、政府の補償でないことから受け取りを拒否したロラもいる。なお、この基金は“役割を終えた”として、今年解散している。

 ざっとこれが元“慰安婦”問題の核心部分だが、この非常にハードなテーマについて、果敢にも取り組んでいる坂本千壽子さんという日本人研究者がいる。彼女は、韓国人元“慰安婦”のオモニたちが暮らしている「ナヌムの家」で、外国人として初めての居候となったという経歴の持ち主だが、昨年からフィリピン大学に研究留学している。今回も彼女のつてでマパニケ村を訪ねることができたのだ。ともすると戦闘的で怖くて暗いイメージのつきまとう元“慰安婦”のロラたちに、密着することで自然体のつきあいをし、そこから日常の素顔や本音を引き出し、それを伝えることで、普通のおばあちゃんを襲った異常なできごとを書き留めてゆく。過酷な記憶をむしかえし、声高かに主張するのではなく、静かに、しかししたかかに訴える。いま彼女は、ロラたちの日常生活を撮りためてドキュメンテーションを制作中だ。高齢なロラたちの“残された時間の中で”、大切な記憶を残して後世に伝える作業が淡々と続いている。

 集会では、彼女たちの体験談や日本への訴えとともに、イトー・ターリさんによるパフォーマンスを見た感想も聞くことができた。表現活動というものが、人間の心の傷に対して何ができるのか、また何ができないのか、どちらも真実で、その意味するところは大きくて深い。

 「こうして展覧会で取り上げられ、多くの人たちが私たちのことを表現してくれることで、私たちの心の傷は少しずつ和らいでゆくような気がします。」(ロラ・リタ)

 「玉ねぎの皮を1枚1枚はぐように、心の傷を少しずつはがしていっても、心に残った傷、そのトラウマを完全に取り除くことはできないでしょう。」(ロラ・ペルラ)

 前回に続いて今回も戦争の記憶の話になってしまった。この国にいるとどうしても目に入ってくる現実。でも、正直言えば、目をそらすことだってできるのだと思う。ただ、文化交流という仕事の原型が、人と人との交流にあるならば、人々の心の琴線に触れる記憶の今と、これからの問題から、どうして目をそらすことができるのだろうか。でもそれは私にとっては、別にたいそうな覚悟やある種の身構えのいることではなく、あらかじめ課されている宿題に等しい、とでも言ったらぴったりするだろうか。ロラたちの最も望んでいる、国による謝罪や補償の問題は、ぼくには大きすぎるテーマだけれど、記憶の風化のことならば、もしかしたら何かができるかもしれない。

 「赤い家」は、ロラたちにとって、つらく忌まわしい記憶の源泉だけれども、トラウマと闘い、謝罪と補償を求めて自らを表現してゆく記憶を支える、確かな拠り所でもあるのだ。10年後にこの家がどうなっているのか、朽ち果てているか、人手に渡って真新しい家になっているのか、誰にもわからない。もしも何年か経って、このロラたちが、皆この世を去り、そしてこの「赤い家」も無くなってしまったら、この村で起こったことは、どんな意味を持ちえるのだろうか。まだ今はかろうじて、ロラたちの記憶を蘇らせる装置として、「赤い家」は、圧倒的な存在感でぼくたちに訴えかけてくるのだ。


(了)

2007/05/31

海を渡らなかったキュビズム

  パリ日本文化会館で、「アジアのキュビズム」という展覧会が開かれている(5月16日~7月7日)。20世紀初頭、ヨーロッパで生まれた美術様式の一つであるキュビズムが、アジア各国でどのように受け入れられ、また受け入れられなかったかを検証する展覧会である。アジア11カ国より、53人の作家、合計77点がパリに送られて、現在展示されている。しかしここに、今回の展覧会に出品されそこなった1枚の絵がある。フィリピンを代表する作家、キュビズムの第一人者といわれているヴィセンテ・マナンサラの「スラムのマドンナ」という作品だ。

 この作品は先の東京、韓国、シンガポール展の際にも展示されず、カタログに図版入りで紹介された(ちなみにパリ展のカタログにも登場している)。今回は、早々にパリ展の作品候補リストに入り、その出品交渉をわれわれマニラ事務所スタッフが行うことになった。実はこの絵、私も初めて図版を見たときに、一遍でぐっと惹きつけられた作品で、なんとか出展を承諾してもらうべく、オーナーに何度も電話をかけ、やっとのことで面談の約束を取り付け、直談判ではありったけの言葉でこの作品の素晴らしさと、今回の展覧会でいかに重要な位置づけであるかを強調した。かなりしつこいまでにねばったのだが、結局よい回答が得られず、最終的に出展はかなわなかった。

 マナンサラは、間違いなくフィリピンの美術史における最重要の作家の一人で、1910年生まれで1981年に亡くなるまで、独自のキュビズムのようなスタイルを中心に多くの作品を残した。今回のパリ展でも、「スラムのマドンナ」にはふられたが、彼の別の作品が3点(「コラージュ」(1969年)、「磔刑」(1971年)、「ヌード」(1973年))も展示されている。その彼が人生の半ば、40才に達した1950年に描いたのが、この作品だ。当時彼は、フィリピン人として戦後初めてユネスコの奨学金を得て、カナダに6ヶ月間滞在した。そして一旦帰国した後、今度はパリへ留学して、レジェという作家に師事して本場のキュビズムに出会うこととなった。この作品は、そうした海外渡航の合間に描かれたもので、その後の彼の進路を暗示する重要な作品となった。

 以前このブログでも触れたことがあるが、フィリピンにおけるアカデミズム画檀の歴史は意外と古い。スペインの植民地時代、エリート教育の一環として絵画が導入され、何人ものフィリピン人が画学生として西洋に渡ったが、その中で、ホアン・ルナとフェリクッス・ヒダルゴという二人の作家が頭角を現し、1884年には二人そろってマドリッドのサロンで金賞と銀賞を受賞するという象徴的なできごとがあった。1884年当時の日本といえば、西洋画の基礎を築いたと言われている黒田清輝が、18歳で初めてパリに渡った年。日本洋画壇のアカデミズムを牽引することになる“外光派”が成立するには、さらに10年を要した。その頃フィリピンには、既に西欧の本場サロンで認められる作家が複数いたということが、この国におけるアカデミズムの早熟ぶりをうかがわせる。ちなみにこの時代の作品の多くは、今でもシンガポールや香港のオークションにかかり高値で売買されていて、2002年には政府系のGovernment Service Insurance System(いわゆる日本でいま話題の“社会保険庁”にあたる)が、ホアン・ルナの「パリジャンの生活」(1892年)を、4600万ペソ(約1億円)で競り落として購入したことが話題となった。どこの国でも、この社会保険を財源とする金は不透明極まりなく、行き場所にも困っているようだ。

     ホアン・ルナ作「スポラリウム(略奪)」(1884年)

 さてそんな強固なアカデミズムに対抗し、第二次大戦前あたりから反旗を翻したのが、 “サーティーン・モダーンズ”と呼ばれる13人のアーティストたちで、マナンサラはその一人と位置づけられている。

 そしてこの「スラムのマドンナ」だが、今回の展覧会の出品候補リストに載せられたのは、私が考えるところ二つの理由があると思う。一つはカソリックが主流を占めるこの国で、繰り返し描かれる母子像がテーマとなっているから。その姿は当然、幼子(おさなご)キリストとマリアの聖母子像にだぶる。展覧会場となるパリは無論キリスト教文明圏で、誰もが容易に解釈ができ、その文脈を理解(誤解)することのできる図象だからであろう。さらにもう一つ、それはおそらくスラムという表象が持つ、ある意味わかりやすいアジアのイメージによるものだろう。廃墟のようなバラック小屋の建て込むスラムの前で、幼児をすっくと抱いて、怒りや不安の中にも毅然と胸をはる若い母親。こうした二つのイメージの交差するこの作品は、今回の展覧会のモチーフを明瞭に象徴する。“悲しき熱帯”であるフィリピンに、キリスト教という西洋文明が移植された図は、あたかもキュビズムという西洋美術の技法が、土着の文化に移植された姿と二重写しになるだろう。

 でも、私がこの絵から感じるものは、そうした観念的なことではなかった。この絵の中に潜む強靭さ、そして不気味にも不屈な眼差しは、一体どこから生まれたのだろう。そして、自分自身、どうしてこんなにまでこの絵のことが、心のどこかにひっかかるのだろうか・・・いろいろ調べているうちに、あることが気になり始めた。

 この絵が描かれたのは1950年。マナンサラの作風に決定的な影響を与えたといわれる太平洋戦争の終結から5年後のことである。マニラで生まれ育った彼は、日本軍の侵攻後、北部の田舎に疎開をしていた。戦争終結とともに再びマニラに戻って見たものは、その後の彼の創作人生を決定付ける光景だった。破壊され尽くし荒廃したマニラの街。それ以来、彼は麗しき自然描写をいっさい放棄したという。

 「1945年2月3日にサント・トーマス大学の民間人収容所解放に始まったマニラ解放戦は、翌3月3日をもって日本軍が完全に掃討されるまで約1ヶ月にわたり続いた。この間にマニラ市街は文字通り廃墟と化し、日本軍守備隊約2万名はほぼ全滅、米軍も約7千名の犠牲者を出した。しかしなんと言ってもマニラ戦最大の犠牲者は、約10万にのぼると言われる非戦闘員・民間人であった。その恐らく7割が日本軍による殺戮と残虐行為の犠牲者、残り3割が米軍の重砲火による犠牲者だとされる。このように第2次世界大戦でワルシャワに次ぐ都市の破壊と言われ、また日米間で戦われた初めての、また最大の市街戦であったマニラ戦は、その結果の悲惨さゆえに、解放戦であると同時に「マニラの破壊」あるいは「マニラの死」とも呼ばれている。」
(中野聡・一橋大学教授のホームページより、「戦争の記憶」に関する同氏のホームページは、多くの示唆を与えてくれる。)

 「マニラの虐殺」ともいわれ、今も語り継がれている惨事だ。マニラの旧市街には、「非戦闘員犠牲者(non-combatant victims)」10万人を追悼する祈念碑が立ち、いまも毎年2月に追悼式が行われている。その出来事は繰り返し繰り返し、フィリピン人の間で語り継がれていて、私がこの国に赴任した2005年にも、「Terror in Manila」(メモラ-レ・マニラ1945財団)という本が新たに出版された。60年以上を経た今日でもいまだ呼び覚まされている記憶。戦後5年という時間は、凄惨な「マニラの死」から癒されるには全く不十分な月日であったに違いない。この絵に漂うただならぬ怒りと、それを包み込む絶望の先には、廃墟のマニラが広がっていたのではないだろうか。この作品を契機に彼のキュビズム人生が始まるともいえるのだが、私が思うに、彼は彼のその後の人生を決める重要な局面で、5年前のあの廃墟のマニラを思い出していたのではなかろうか。不気味にも不屈な母子像が心のどこかにひっかかるのは、そこに告発の眼差しがあるからだ。

             メモラーレ・マニラ1945記念碑

 展覧会はある意味、時に残酷だ。絵は見られてこそ価値が生まれ、見られ、消費されることでその絵を巡る物語が作られる。もしもこの「スラムのマドンナ」が海を渡ってパリに行っていたら、どんな物語を我々に示してくれていただろうか。または隠してしまったであろうか。いずれにしても1枚の絵と対峙する時、重要なのは、その絵がこの私に一体何を語りかけるのか、ということだと思う。

 「スラムのマドンナ」のオーナーと出品交渉していた時に聞いた話の中で、今でも気になっていることがある。彼女は現在、著名な内科医としてサント・トーマス大学病院に勤めているが、両親は戦前からフィリピン美術のコレクターであった。当時マニラ旧市街にあった倉庫には、マナンサラの戦前の作品をはじめ、多くの美術作品を所蔵していたという。それもあの「マニラの破壊」で灰塵に帰してしまったそうだ。そして、その後調べてみてわかったことだが、母親は国立博物館の美術課長を務めたこともある研究者でまだ健在だが、コレクターであった父親は、1958年に45歳の若さで他界している。その父親だが、終戦後、日本軍の協力者としてフィリピン人民裁判で“売国奴”として有罪となり、4年間も獄中にいたようだ。今回の出品拒否と、ファミリーの戦争体験と、因果関係があるか否かはわからない。しかし、そこにも絵画を巡って、私たちの知る由もない別の物語があるのは確かなことだ。

 いまから57年前のマニラで描かれた「スラムのマドンナ」。哀しいことにスラムはいまでもマニラの街の代表的な表象だ。結果的にこの絵に描かれた現実は、今でも同じように生々しく存在している。それは戦争による荒廃ではなく、グローバライゼーションというもの静かな侵略と、腐敗政治による荒廃の中にある。


(了)

2007/05/10

日本を夢見る日本人のこどもたち -ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン-

 日本で生まれ、日本人の両親を持つ私たちには自明のものである日本国籍。この日本国籍をめぐって、フィリピンには、私たちの想像力をはるかに超える物語がある。

 ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン、通称“JFC”といわれる日比混血児。“混血児”というと最近では差別用語らしい。誰だって多かれ少なかれ“血”は混じっているのに、そこで“日比”を強調することで偏見や差別が生まれるのだ・・という主張だ。ちなみに“ハーフ”という言い方も古いようで、“ダブル”という言葉が使われ始めている。“血”という物理的な交じりに焦点を当てるのではなく、文化的なアイデンティティに着目すれば、二つの文化を背負った“ダブル”になるという意味だ。

 さてそのJFC(これだってなんだかフライドチキンのようでとても気になるのだけれど、まあそれはさておく)だが、特に1980年代から急増したフィリピン人エンターテイナー(女性)と、日本人男性との間に生まれた子供が多く、現在、約10万人以上いると見られている。多くはフィリピン国籍を持ち、フィリピンに住んでいるが、日本国籍を持っている子供たちもいる。そんな7才~18才のJFC、8人からなるテアトロ・アケボノの日本ツアー直前公演が、マニラで行われた(5月10日、セント・スコラスティカ・カレッジ)。

 この劇団を主宰しているのは、マニラを拠点に活動するDAWN(Development Action for Women Network)というNGOで、日本へ渡ったエンターテイナー(通称ジャパゆきさん)の、帰国後の心のケアや、自立支援を推進している。厳しい労働、性的虐待、結婚や恋愛の失敗、そしてフィリピンへ帰国後の周囲からの差別や生活苦などで、精神的バランスを崩す女性が多く、このDAWNは、そうした心に傷を抱えた元ジャパゆきさんの駆け込み寺となっている。そして、カウンセリングや研修にやって来る母親とともに多くのJFCがこの事務所を訪れるが、いつしかそうした子供たちに対しても、日本語を教えるなど、支援活動を行うようになった。このテアトロ・アケボノもそうしたJFC支援活動の一環で、日本公演ツアーはこれで10回目になる。


 DAWNと僕たちとの関係は、昨年11月、このブログでも紹介したことのある、アルマ・キントという女性アーティストによるワークショップを、国際交流基金マニラ事務所の助成事業として実施したことにさかのぼる。参加したのは元ジャパゆきさんのお母さんとJFCの子供たち。将来の夢をドローウィングやパッチワークで作品に仕上げ、アートを通して心のヒーリングをしようというものだった。そして、今度はそのワークショップに参加した子供たちを中心に8人のメンバーが劇団を作り、日本へ公演旅行に行く計画だ。そのための準備ワークショップも、マニラ事務所が協力して実施した。


 この劇団のメンバーの中に、マサユキ(13才)とチエコ(10才)という二人の兄妹がいる。両親が同じ兄妹でも、兄は日本人、妹はフィリピン人だ。マサユキは3才まで日本にいたが、その後両親は離婚して母親はフィリピンに帰国。帰国の際に母のお腹の中にいたチエコは、父親から認知を受けることもなくフィリピンで生まれ、その後、父親とは音信普通となった。日本の民法では、母親が外国人で、日本人の父親と結婚していない場合、日本国籍を取得できるのは、父親による出生前の認知が前提。JFCが抱える多くのケースでは、父親が行方不明、もしくは認知がなされず、結果的に母親のフィリピン国籍となるケースが多い。でも日本国籍が取得できたとしても、無論それだけで幸せになれるとは限らない。マサユキの場合、周りのいじめや、母親が家にいつかなかったこともあり、やがて不登校となってしまった。DAWNに通うようになり、同じ境遇にいる友達と出会うまでは、希望を失っていたそうだ。今では、母親とともに事務所の近くに移り住んで、学校にも通っている。昨年のアート・ワークショップにも参加していたが、ドローウィングがとても繊細で色使いもうまく、きらりとした才能を感じさせる子だ。

 実はこのJFC問題、このところようやく社会的にクローズアップされるようになってきている。セブ島にある日本人会では、JFCのための日本語クラスを運営したり、日本国籍を持つJFCの日本渡航と仕事の斡旋なども始めている。日本国籍を持つJFCは、フィリピンでは、法律的にはいわば不法滞在者(ビザなしで長期滞在している)で、日本へ出国するためには多額の罰金を支払う必要がある。が、そんな大金、普通は持っていない。セブ日本人会では、そうした不遇な日本国籍のJFCを助けるべく、アロヨ大統領と出入国管理局に嘆願状を出し、日本出国にあたっての罰金の免除を訴えていたが、このたびその嘆願が認められるという朗報もあった。

 2004年の統計によれば、日本の婚姻の年間総計が72万組で、国際結婚が約4万組。その内、夫が日本人で、妻がフィリピン人のケースが8,400件。ちなみに逆はたったの120組で、やっぱりフィリピン人男性は日本人女性にあまり人気があるとはいえない。いずれにしても、フィリピンは、日本人の国際結婚の相手としては中国に次いで堂々の2位だ。子供(JFC)の数も、数千人から1万人のオーダーで毎年増え続けており、現在は、冒頭に書いた通り10万人を超すと言われている。しかし、その多くは貧しい階層の出身で、社会的弱者、周囲の偏見にも囲まれて悲惨な状況にある。

 世の中の人々の間では、所詮ジャパゆきさんと無責任な日本人父親の身勝手から生まれた悲劇、プライベートな問題にまで一々同情はできないという意見もあるが、子供たちに罪はないことは確か。ある時期大量のジャパゆきさんを生み出したのは、そもそも日本とフィリピンの社会が持つ宿痾という側面もあるし、JFC問題に対応できない両国の現行法の不備も指摘されている。たとえば、この国で暮らす日本国籍を持ったJFCに、日本国憲法で保証されている、いまや話題の“生存権”-すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する-が与えられているのだろうか、と疑問に思えることも多い。そんなJFCをめぐる様々な問題に対処すべく、先月、DAWNと同じビルの中に、Center for Japanese-Filipino Children’s Assistanceという新たなNGOが立ち上がり、まずはJFCの実態調査をということで、初の全国調査が始まった。「10万人のJFC」とはいうものの、その数字はまったくの推測。人数はもとより、国籍、生活状況など、データの蓄積はゼロ。一体どれくらいの日本国籍を持ったJFCがいるのかもわかっていない。

 さてテアトロ・アケボノの今回のツアーには、もう一つ重要な仕掛けがある。この8人のJFCの日本公演、そして父親の国への旅を、もう一人のJFCであり、現在フィリピンで最も注目されている若手脚本家が同行取材して、新作映画を製作するという構想だ。脚本家の名前は山本みちこ。氏名は日本名だが、フィリピン国籍。日本語は全くわからない。父親が日本人だが、一度も会ったこともなければ、本人にとっても初めての訪日になる。国際交流基金では、毎年その国の重要な文化人を短期間招待するプログラムがあるが、今年はこの山本さんを選んだ。実はこの山本さん、このブログでも以前紹介したことがある。2005年7月の原稿で、彼女にとって脚本2作目となったデジタル映画「マキシモ・オリベロスの青春」(2005年製作)のことを書いたが、その後のこの作品の“快進撃”はすごかった。国際映画祭での受賞だけでも、モントリオール世界映画祭でGolden Zenith for Best First Fiction Feature Film(2005年)、ロッテルダム国際映画祭批評家賞(2006年)、ベルリン国際映画祭・テディアワード(ゲイ、レスビアン部門)作品賞(同年)。そして世界中のインディー映画人憧れの的、サンダンス映画祭(同年)にも公式招待され、さらに結局エントリーは実現しなかったが、前回の米国アカデミー賞外国映画部門にフィリピン代表として推薦を受けた。そんな彼女の次回作、映画関係者のみならず、多くのフィリピン人が注目している新作、それがJFCの物語なのだ。山本さん本人はとても恥ずかしがりやで、なかなか自分について多くを語ろうとしない中、JFCについてのストーリーを夢見る彼女の目はきらきら輝いていた。

    「マキシモ・オリベロスの青春」の主人公マキシモ君

 今回の日本ツアーは、埼玉、川崎、新潟、大阪、福岡などを巡演し、各地の学校や教会などで公演を行う予定だ(5月18日~6月5日)。ミュージカル仕立ての芝居で、マサユキやチエコの両親たちのストーリーを、メンバーみんなで作り上げた。劇中、彼らの心中を正直に吐露するショッキングな場面もある。そしてツアー中、もう一つの目的、父親探しと対面が待っている。

 「ぼくはお父さんが大嫌い。でも、思い出さずにはいられないのは何故だろう。ぼくが今、どんな気持ちでいるか、お父さんが知る日は来るのだろうか。ぼくがどれだけ傷ついているか、お父さんにわかってほしい。ぼくの心の傷や悲しみを、すべて吐き出してしまえたらいいのに。いつか、どうにかして、お父さんへの憎しみはなくなるだろう。お父さんを許す?今はまだ・・」(テアトロ・アケボノ公演「贈りもの」より)

 今回日本へ行ける子供たちの背後には、多くの声なき子供たちが待機していることを、忘れることはできない。そうした子供たちに対する自立支援、法律援護についても、今後ますます課題が多くなることだろう。片親が日本人であるならば、いつでも誰でも日本の国籍取得を選択する自由を持つ、そんな単純なことが早く実現されることを願っている。日本に対する神話的幻想は、まだまだこの国では、まして最低限の生活を余儀なくされている人々からすれば、色褪せることはない。けれども、だからといって、あたりまえのことだけど、日本国籍が幸福を保証するとは限らない。日本か、フィリピンか、どちらの国籍を選択するにせよ、一つだけ確かなことは、彼ら、彼女らが、近い将来、日本とフィリピンの二つの国をつなぐ大切な財産になるであろうことだ。その意味で、テアトロ・アケボノや、山本さんがやり遂げようとしていることを応援し、そして多くのジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンが、彼らに続いて少しでもその夢に近づけるように、わたしたちは見守ってゆく必要があるのだと思う。
(了)

2007/04/24

マニラ一極集中にもの申す、バギオのアーティスト・コミュニティー


 マニラから北に車で6時間。標高1500メートルの山の中の街、そして“夏の首都”バギオを再訪した。ここで開催されるパフォーマンス・アートのイベント、TAMA07(Tupada Action & Media Art)に参加するためだ(2007年4月21日・22日、国際交流基金マニラ事務所ほか助成)。4月のマニラはとにかく暑く、日中は37度近くなるが、ここバギオはとても涼しくて過ごしやすい。“夏の首都”といわれる由縁である。かつては本当にこの季節になると、マニラから首都機能の一部(大統領執務関係など)が移転したという。そしてバギオは、ここからさらに北の山地地方に連なる玄関口にして、先住民の文化香る“山の首都”でもある。総称して“イゴロット(山の民)”と呼ばれる少数民族が多く移り住んでいるが、彼らは台湾の先住民や、沖縄のおじい、おばあに繋がる人々で、顔立ちは色黒の日本人のよう。素朴でどこか懐かしい。独特な雰囲気の漂う街には、アートを通じて自らの民族的アイデンティティを追及する多くの芸術家も活動していて、一種のコミュニティーを作っている。そんな活気ある街で、5人の日本人アーティストを含む、海外10カ国、総勢38人のパフォーマーが参加するイベントが開かれた。

 「パフォーマンス」は、簡単に言ってしまえば、要するに体を使ったアート。基本的には誰でも、いつでも、どこでも、それが“アート”である、という意思さえあれば発表できる。美術史的には1950年代後半から、ハプニングや反芸術を標榜する「具体」や、「ネオ・ダダ」、「フルクサス」といった前衛的グループによって、現代美術やその時代の閉塞感を打ち破ろうとして現れた、“アヴァンギャルド”アートの流れの中にある。ただ、今の日本では、“アヴァンギャルド”と言っても、美術史の中の言葉でしかないし、政治的や社会的な発言のインパクトの強さを競った時代はもはや過去のもののようだ。それだけに、このパフォーマンスは、日本ではなかなか注目されないけれど、今回バギオにやって来た霜田誠二氏率いるNIPAF(Nippon International Performance Art Festival)というグループは、1993年の結成以来、日本はもとより、世界中でずっとその活動を続けている。世間一般的に脚光を浴びるわけでもなく、ましてや素材が自分の体なので、作品が売れるわけでもなく、普段はフリーターをしながらお金をためて、作品発表や海外でのイベント参加の旅費にあてたりして、それでも頑張っている一団だ。もっともそんな状況は、日本だけというわけでもなく、ここフィリピンにも多くのパフォーマーがいて、皆生活は苦しいけれど、それなりの自負を持って活動を続けている。今回のフェスティバルもそうしたアーティスト達の手作りの祭典である。

                霜田誠二氏

  日本ではなかなか脚光を浴びないパフォーマンス・アートだが、ここフィリピンでは、現代美術のコンテキストの中では主流ともいえるジャンル。画家でも彫刻家でも、ビデオやインスタレーション作家でも、体で表現せずにはおられないアーティストは本当にたくさん存在する。カーニバルのようなアクションを好む民族性、といってしまえばそれまでだが、おそらく理由はそれだけではないだろう。パフォーマンスの原点は、なんといっても、いかにラディカルであるかということ。そうしたラディカルな表現がどこまで許容されるかという、社会のデモクラシー度の検証にもなる。といって最早ほとんど、天皇制などの例外を除き、表現にタブーの存在しない日本では、なかなかその原点の持つ意味は理解しがたいだろうけれど、発展途上の国々、そして強権的、独裁的政権の存在する国々では、それはパフォーマンス・アートの死活問題で、場合によってはアーティスト自らの死活問題にもつながるリアルな話なのだ。今回、ミャンマーから参加したHtein Linは、かって政治犯としてヤンゴンの獄中にあった7年間、民族衣装のロンジーの生地の裏に炭で絵を描き、多くの政治犯の前でパフォーマンスを続けていたという不屈の精神の持ち主だ。

 私もかつてインドネシアのジャカルタに駐在していた時、インドネシアで最もラディカルな女性アーティスト、アラフマヤーニとともに、第1回ジャカルタ国際パフォーマンス・アート・フェスティバルを企画し、NIPAFのメンバーも8名ほど参加した。その時のことについては、「こんなに不安定な時代だからこそ、文化や芸術は人々に必要とされる」というタイトルで文章を書いた。インドネシアで30年以上続いたスハルト独裁政権が崩壊し、いわば権力の空白、混沌とした百家争鳴時代を迎えていた当時の興奮は、今でもはっきりと覚えている。

 「世界各国のアーティストが、それぞれに抱える個人的問題、社会的問題、表現の問題に対し、鋭く切り込む作品を発表した。特にインドネシアの作家たちの社会問題に対するアプローチは鮮明だった。資本主義を批判し軍靴をはいてコカコーラとマクドナルドを痛めつける若者。インドネシアの白地図の上に注射器で採った自らの血液を点々とたらし、臭気ある汚土を食らう二人組。(略)いずれも分かりやすいメッセージを含んだ、強く、真摯な表現。スハルト政権時代には決して起こりようもなかった三日間だった。」
(『国際交流』89号、2000年)

 パフォーマンス・アートの影響力は、この国のアートシーンの中ではなかなかのものがある。周辺の東南アジア諸国の経済発展から取り残された感のあるフィリピン。南部にイスラム原理主義や分離運動、さらにいまだ共産党系の民兵との“内戦”状態にあるこの国では、常に軍の存在に怯え、いつなんどき強権政治が復活してもおかしくない状況にある。実際に、昨今当地のマスコミで連日報道されている「政治的殺害」と言われている一連の事件では、アロヨ大統領が2001年に政権に就いて以来、警察発表では114件、実際には200件以上の左翼活動家やジャーナリストが殺害され、今もその状況は続いているという。いまや国際機関や日本のNGOなども巻き込む国際的イシューになりつつあるのだ。そんな状況下、あまたの表現活動の中で、最もラディカルで尖っているであろうと思われるパフォーマンス・アートは、ある意味社会の危険度(健康度)のバロメーターでもある。もともとこの国は、ラディカルなアートが盛んだ。1970以降に一大ムーブメントとなったラディカル・アートは、「社会主義リアリズム」と定義され、多くの美術批評家からも注目されている。が、それについてはまた別の機会に。いずれにしても、その運動を引き継ぐ若い世代のアーティストが、今第一線で活躍している。

 さて今回このイベントの会場となったのが、VOCAS(Victor Oteyza Community Art Space, La Azotea Bldg., Upper Session Rd.)という昨年オープンしたばかりの新しいアートスペース。バギオ市のヘソであるバーンハム公園から、小高い丘に向かって一直線に走る目抜き通り、セッション・ロードの中腹に建つ雑居ビルの5階にある。広いスペースには、移築した北ルソンの伝統家屋や、東欧の田舎にあるようなビザンツ教会風の民家、中央のスペースには鬱蒼と植物を植え込み、鯉の泳ぐ池と、そのほとりには黒沢映画に影響されてあしらえたという水車。バギオに在住する作家の油絵や写真、巨大なインスタレーションや彫刻などの個性的なアートにあふれ、テラスからはバギオ市が一望できるという、なんというか、よくもまあここまでごたごたと作ったなあという、とってもクレージーな空間だ。その魔何不思議空間のオーナーが、これまたクレージー、といっても、かつて世界中の実験映画界を席捲し、“業界”で天才と慕われている、キドラット・タヒミックだ。

                 VOCAS

 彼と国際交流基金とのかかわりは深い。いまは“伝説”となり、その後のアジア映画紹介の嚆矢となった基金主催の南アジア映画祭(1982年)で、彼の出世作「悪夢の香り」(1977年、同年のベルリン国際映画祭批評家賞)が公開されて評判となった。その後、埼玉県のあるお寺に彼の家族が滞在した記録映画、「竹寺モナムール」(1986年)についても、制作費を支援している。とにかく寝るとき以外は常にカメラを離さないという徹底ぶりで、撮影したフィルムは膨大。1981年から日常生活の撮影を始め、86年より「僕は怒れる黄色」のタイトルで上映され、上映の度ごとに新たな撮影部分を加え、再編集している作品などは、“終わりのないドキュメンタリー”と呼んでいる。初老になってますます潔ぎよいアーティストで、とにかく彼の周りには自然に多くのアーティストが集まり、なんとなく一緒に飲んだり食べたりしながら、いわばサロンを提供しているのだ。

              キドラット・タヒミック

 僕が彼に初めて出会ったのが1988年。当時彼はバギオ市を見下ろす山中に、通称バンブーハウスという家を持ち、若いアーティストを何人も住まわせていて、一泊お世話になったことがある。当時バギオのアート界は、もう一人、サンティ・ボセという活動的な作家に牽引されていて、僕も彼に誘われてこのバギオにやって来て、「第1回バギオ国際アートフェスティバル」を観たものだ。東南アジアの美術界も1980年代後半に入って徐々に世界的にも活躍する作家が出始めたころ、マニラや、バンコクや、ジャカルタではなく、ここバギオのように、都会の喧騒から離れた、独自の文化を持つ地方都市が、オルタナティブな芸術運動の中で一つの中核的役割を果たすようになっていった。かつてそれについて書いた記事がある。

「商業主義逃れ、地方都市で芸術祭

(前略)昨今の東南アジアにおいては、現代芸術の発信拠点が、大都市から地方都市へとシフトする現象が見られる。欧米追随の商業主義に侵され、公害やスラムなどの社会問題に見舞われる大都市を離れ、地方都市における芸術活動の中からそれに対するアンチ・テーゼを求める動きである。タイ北部のチェンマイや、フィリピンではルソン島中部のバギオやネグロス島のバコロド、そしてインドネシアではこのソロやジョグジャカルタがそうした新しい動きの中心地となっている。いずれはそれぞれの地方で活躍する作家同士が直接に交流しあってネットワークを作り、東南アジアの大都市を囲み込む反大都市文化の包囲網を作り出すに違いないと思われた。」(朝日新聞「アートアトラス」、 1994年4月29日)

 その後、チェンマイやジョグジャカルタは、国際的なアートシーンで活躍するアーティストを輩出し続け、まずまず発展しているようだが、ここバギオは今ひとつぱっとしない時代が続いてきた。1990年この地を襲った大地震で2000人近い犠牲者を出し(正確な死者数不明)、街は壊滅的な打撃を受けたのだ。その後アートの世界では1995年に、当時最も世界的に注目されていたフィリピンのインスタレーション作家であるロベルト・ビラヌエバという作家が急逝した。シンガポールのタン・ダウや、タイのモンティエン・ブーンマーなど同じ時代に活躍し始め、フィリピンアートの国際的な評価を高めた功労者だ。さらに、バギオのアーティスト・コミュニティーを引っ張ってきたボセが、2002年に急逝したのも致命的だった。彼の後に続く突出したリーダーが存在しなかったのだ。突出したアーティストがいなくなることで、取り返しのつかない損失を蒙ることは時々あることだ。次から次へとバギオのアート界は大きなものを失い、その喪失のショックから立ち直るには相当の時間が必要だったのだろう。

 いずれにしてもボセの急逝後、アーティスト間の確執などもあり、バギオのアート・コミュニティーは一時活気を失ったという。そんな状況の中、新たに生まれたこのVOCASは、ここに再び活気をもたらす起爆剤になってゆくだろう。来月には、ジョグジャカルタ在住の日本人アーティスト広田緑さんとインドネシアのアーティストがやって来て、バギオのアーティストと共同制作をする予定だ。大都市一極集中の弊害がはなはだしいと言われる東南アジアの国々。大都市への一極集中は、伝統文化の空洞化と表裏一体だ。フィリピンも例外ではない。ここバギオには、バギオを愛し、ここに踏みとどまる多くの若い作家がいる。彼ら、彼女らがいる間は、僕はいつでもバギオに帰って来たいと思うだろうし、同じように思う海外のアーティストがもっと増えるよう、できる限りサポートしたいと思っている。

 バギオを愛してやまず、ここからアートを発言し続けたボセの言葉。

「コルディレラ(北ルソン山地の呼称)の若い才能ある多くのアーティストたちが、商業主義の罠に陥り、伝統的な芸術作品が観光主義に提供されるとしたら悲しむべきことだ。アーティストとして、私たちの懸念、必要、そして希望を表現し、変革のための闘いに積極的に参加しなくてはならない。さもなければ、我々自身の最も深部で育てたものが、取り返しのつかないほど失われ、アートそのものも、何の意味もないからっぽなものになってしまうだろう。」(アリス・ギレルモ著、「Image of Meaning」より引用)

         バギオの目抜き通りセッションロード

 社会に根差し、決してあきらめずに発言を続ける真摯なアーティストの系譜に、今のバギオの若いアーティストも連なっている。そんな彼らを見ていると、時にどうしようもなく腐敗して、堕落したところもあるこの国でも、だからこそ、土俵際の潔い真っ白さがまぶしくも思え、なんとも心の中で応援したくなるのだ。(了)

2006/11/02

資金難と頭脳流失に悩める日々-それでもやります日比演劇共同制作

 フィリピンを代表する劇団タンハーラン・ピリピーノの新作が、それも同劇団にとって史上初となる日本の演出家による国際共同制作作品が、ここマニラで幕を開けた(国際交流基金、フィリピン文化センター、タンハーラン・ピリピーノ、シナーグ・アーツ財団、国家文化芸術委員会主催、10月20日~22日:シナーグ・アーツ・スタジオ、11月10日~26日:フィリピン文化センター)。“日本の演出家”といっても、実は在日韓国人のチョン・ウィシン(鄭 義信)氏。最近では「血と骨」(崔洋一監督)や「レディー・ジョーカー」(平山秀幸監督)などの映画脚本家として著名で、演劇でも劇団梁山泊の座付き作家として長年にわたって活躍してきた。マージナルな社会の底辺に生きる人々を、ユーモアとペーソスをもって描くのが彼の真骨頂。そんなチョンさんが今回初めて海外の劇団に作品を提供し、自ら演出した。タイトルは「バケレッタ」。“バケ”=お化けと、“レッタ”=オペレッタの合成語、つまりゴースト・オペラだ。

 話の発端は以前にも紹介したことのある日本人照明家、松本氏のアイディア。ここフィリピンでも日本のホラー人気はすごいもので、日本の総理大臣の名前は知らなくても、“サダコ”(映画「リング」に出てくる亡霊)といえば誰でも知っていて、「呪怨」や、そのハリウッド・リメイク版の「Grudge」が大ヒット。マニラの映画館では今もちょうど「Grudge2」や、「着信あり」のフィリピン版リメイクである「TXT(テキスト)」(マイク・トゥビエラ監督)が上映中だ。そんな日本のホラー人気を背景に、芝居でもホラーものをやれば絶対に若者に受けるに違いない、そんな思いからこのプロジェクトは始まった。チョンさんを起用するアイディアも松本さんから。松本さんとチョンさんが、60年代以来日本の小劇場運動の先頭を走ってきた劇団黒テントの先輩と後輩だったこともあり、トントン拍子にことは進んだ。ぼくは演劇の専門ではないけど、この仕事をしていて多くの演劇人と付き合う機会があるが、黒テントから排出された人材は、演出家、役者から舞台技術者にいたるまで、いまも日本の演劇界を支えている。早くからアジア諸国の演劇人とも交流していて、ここフィリピンでも昨年国際交流基金賞を受賞したPETA(フィリピン教育演劇協会)とは70年代以来の友情関係がある。


 チョンさんのことをここマニラで紹介する時に、いつもとまどうことがある。在日韓国人のことを英語で”Korean Japanese”(韓国系日本人)と訳す場合があるけれど、明らかに誤訳だろう。ぼくは”He is Korean in a sense of nationality or ethnicity, but he is more Japanese-like than Japanese.”と紹介していた。チョンさんもぼくたちには、“自分は韓国人だけれど、心は日本人だから(細かい部分の演出が気になる、とてもしつこい・・)”と話す。チョンさん自身は、そんなことどっちでもいいじゃないかと言っているけれど、ぼくとしては結構気になる点で、なかなかはしょる気持ちにはなれない。“単一民族神話”のくすぶる時代の雰囲気に育った自分が、こうして海外に出て、この国に打ち捨てられてきた日本人の“棄民”の歴史に触れるにつれ、“神話”とは異なるもっと生々しくも複雑な日本人の存在を意識するようになった。チョンさんは在日3世の韓国人だが、ぼくにはフィリピンにいる残留日本人やチョンさんと同世代の日系人の姿がだぶって見える。

 チョンさんは冒頭に書いたように映画の脚本家として名が知られているが、今回もこの「バケレッタ」にあわせて彼の脚本による映画を上映した。「月はどっちに出ている」(1993年、崔洋一監督)、「マークスの山」(1995年、同監督)、「岸和田愚連隊」(1996年、井筒和幸監督)の3本だ(9月13日~10月15日、シャングリラ・プラザ・モール、フィリピン大学及びフィリピン文化センター)。なかでも「月は・・」は、在日韓国人のタクシードライバーとその仲間たちを描いた秀作だが、そこにルビー・モレノという、かつて日本で人気のあったフィリピン人女優が、カラオケ屋で働くエンターテイナー役で出演していて話題となった。

              「月はどっちに出ている」

 フィリピン人といえば、エンターテイナー(通称“ジャパゆき”)。現代の日本人が作り出したステレオタイプだ。実際問題、決していいイメージではないが、チョンさんのオリジナリティは、このジャパゆきさんを、逆境にめげない天衣無縫でピュアーなキャラクターとして優しく描き、人生の悲哀を描くこの物語のトーンを明るくしたことにある。80年代から急増したフィリピン人エンターテイナーは、言ってみればアングラ版日比交流の象徴だ。その多くは6ヶ月間の「興行ビザ」で、ピーク時には年間8万人(03年)のペースで日本へ渡った。70年代半ばに日本人のフィリピン買春ツアーが激しく非難されたため、それなら日本に送り込もうということで始まったといわれているが、より根源的には、両国の経済格差やフィリピンの出稼ぎ労働文化、そして日本の海外労働者の受入制度によって作られた“人流”の一つだと思う。確かに「興行ビザ」(演劇、演奏、スポ―ツ等の興行や芸能活動のためのビザ)を取って、実際にはカラオケパブでホステスをしているケースがほとんどだと思うが、それだけで彼女たちが、ましてはフィリピン人が侮蔑されるいわれはない。アメリカ議会から指摘されたような“人身取引”まがいの中間搾取の恩恵にあずかっているのは、多くが日本人仲介業者だったりするのだ。

 フィリピン人の「興行ビザ」による入国者の数は、昨年の入管法改正で激減しており、現在では月に約500人のペースで、ピーク時の1割以下に激減している。それにかわって今熱い視線を受けているのが、看護師と介護士。先ごろ日本とフィリピン両国の政府によって経済連携協定(EPA)が締結され、とりあえず今後2年間でフィリピン人看護師と介護士が合計1,000名、日本へ送り出されることとなった。ちまたには日本での就業を夢見る介護士目当てに、ぞくぞくと新たな日本語コースが開講され、日本語ブームは加熱ぎみだ。これについてはまた別の機会でレポートする。いずれにしてもあと10年もすれば、フィリピン人のイメージは、新たな人流を支える制度の変化に伴って、“エンターテイナー”から“ケアギバー”に変貌している可能性はおおいにありうると思う。

 「バケレッタ」の元となった脚本は関西弁で書かれものだが、その原作の舞台をフィリピンに置き換えて書き直し、まず英語に翻訳してからタガログ語へ。さらにオリジナルのセッティングである関西方言のニュアンスを出すために、舞台設定をセブとして、セブ地方の方言を取り入れて脚本は完成した。10年以上劇団を支えてきた演出家の死をめぐり、彼と二人の女優との三角関係や、団員同士の友情や軋轢が織り交ぜられストーリは展開し、最後は演出家の死を乗り越えて芝居を続けてゆく決意をする。ゴースト・オペラといっても実はほとんど怖くなく、笑いと涙のヒューマン・ドラマだ。出演しているフィリピン人役者の演技力の高さには演出家も舌を巻くほどで、彼ら、彼女たちの熱演で素敵な芝居に仕上がった。チョンさん自身、今年の3月にこの地を初めて訪れて下見をして以来、8月の再訪で役者のオーディションを行い、9月中旬から1ヶ月以上滞在して作品を作り上げた。11月には場所をCCPに移して上演するため再度訪問の予定で、1年の間にとうとう4回もマニラに来ることになった。

 フィリピンを代表する劇団と共同制作することになった今回、はからずも劇団の内部に入り込んで内情を垣間見ることになり、この国の芸術活動が持つ困難さを改めて実感した。日本でも演劇の世界で生き抜くことは大変なこと。ある程度名の知れた劇団の主役級の俳優でも、本業の役者だけでは食べていけないため、アルバイトをするのは常識。ましてやこのフィリピンでどうやってサバイバルしているのかと思ったが、やはり状況は想像以上に厳しいものがある。今回の作品に出演している俳優のギャラは推定で3万5千円から6万円。手元にスケジュール表があるが、リハーサルは火曜日から日曜日までの毎日午後6時から10時、合計47日でのべ188時間。本番が16回で、拘束時間の推定はのべ80時間。試しに計算してみると、時給130円から230円。主役は全部に顔を出すわけではないが、まあせいぜい時給300円といったところか。この公演のスポンサーは我々国際交流基金なので、実際他人ごとではないのだけれど、舞台人の生活は全く大変だ。

 フィリピンの文化活動を取り巻く環境は厳しいものがあるが、この国の文化支援の現状はどうなっているのだろうか。代表的なものは国家文化芸術委員会(National Commission of Culture and Arts)。大統領直属の機関で、ジャンルや地域別に22の小委員会からなるこの国の文化活動の拠点だ。配下にはCCPや国立博物館、国立図書館、国立アーカイブなどを擁し、有形・無形文化遺産の保存やナショナル・アーティストの懸賞制度、そして様々な文化事業にグラントを提供している(「バケレッタ」も20万円ほど獲得)。しかし年間予算は全部で約4億5千万円。日本の文化庁の予算がだいたい1,000億円だから、一国の中核的文化機関としてはあまりにも物足りない。その下部組織であるCCPも、無論財政的に非常に苦しい。いくつかのレジデンシャル・カンパニーの運営以外にも、民間の様々なグループに舞台、展覧会場などを提供しているが、常に赤字ベースだ。例えばタンハーランの場合、劇団員の安い月給と事務所スペースは提供されるが、プロダクションに割ける予算は微々たるもの。今回の「バケレッタ」にいたってはゼロで、チケットの売り上げが全て。なんとも綱渡りの経営だ。

 公的機関による支援体制が非常に脆弱である中、稀に美術の世界では、一握りの富裕層による私的コレクションとそれを展示する美術館の活動が目立っている。スペイン系のアヤラ財閥と華人系のロペス財閥は、その勢力を競いあうようにともに美術館と財団の運営をしているほか、つい最近も新興財閥による美術館(ユチェンコ美術館)がオープンして話題になった。フィリピン美術はもともと西洋美術の主流と直結するアカデミズムの伝統が強く、この国のハイソサエティーともつながっていて、その庇護を受けやすい立場にあった。作品は投資の対象としてこの国の富裕層に定着していて、街中には商業画廊が数多くあり、民間企業がスポンサーとなっているアート・コンペティションも複数ある。

 しかしパフォーミング・アーツはそれほど恵まれた環境にはなく、プロデューサーは時にまるで物乞いのように友人に支援を求め、極めてフィリピン的な“ウタン・ナ・ロオッブ(恩と義理)”に支えられて公演を打ち、結局赤字が出れば自分の私財を投入してその穴を埋める・・という前近代的なことを繰り返しているのだ。タンハーランにしても、そうした厳しい財政事情から、劇団の実質的な代表である芸術監督は、常に金策に頭をいためている。今の芸術監督であるハービー・コーも、昨年の就任以来常にそうやって走り続けてきた。そしてヒット作品を生み出してきたのだが、ついに疲れ果ててしまったのか、この10月末で劇団を退団し、アメリカへ移住する決意をした。 

 この移住問題、言い換えれば頭脳流出(ブレイン・ドレイン)問題は、この国のもう一つの深刻な社会問題だ。ハービーのケースのみならず、ぼくの身の周りでもここ数ヶ月で何人かのアーティストが米国、カナダ、オーストラリアなどへ移住してしまった。医師や看護師にいたってはもっと深刻だ。フィリピンでトップレベルの国立病院で医者をしていた人が、アメリカで看護師になり、10倍以上もかせいでいるのが現実。教師の流出もこの国の教育制度を根幹からゆるがしている。今年から基金マニラ事務所は、当地最大の銀行系財団(メトロバンク)が毎年実施している全国教員コンテストの審査にオブザーバーとして参加したが(優秀者の中から基金の「中高教員訪日研修」参加者を選抜する)、最終面接に残った候補者一人ひとりに向かって、審査委員長がまず開口一番、「この国に残って教師を続けてくれていてありがとう!」と言っていたのには驚いた。とにかく総人口の1割(労働人口の2割)にあたる800万人が海外で労働に従事し、海外フィリピン人からの仕送りがGNPの1割を占め、この国の経済を支えている。フィリピンはグローバライゼーションの“最先端”ともいえるし、“草刈場”ともいえるのだ。


 こうして資金難と頭脳流出に日々直面しながらも、それでも演劇は生産され続けている。「バケレッタ」の出演者と話をしていても、ギャラのことは最初からあきらめてはいる。みなそれぞれの思いはあるものの、好きだから芝居を続けることに大差はない。これは日本の小劇場系の役者も一緒。その意味では日本の演劇界の明日だって、決して明るいものではない。「バケレッタ」のラストシーン。長年の劇団の支えであった演出家を失って一度はあきらめかけた芝居だったが、演出家の遺志に思いを馳せ、もう一度みんなの夢を取り戻す場面がある。ほろっとさせるクライマックスだけれど、これは演技なのか、それとも現実の一部なのか、タンハーラン劇団が、そして俳優たち一人ひとりの人生が重なって見えて、ちょっと嬉しくもあり複雑な気持ちになった。
(了)