今年で2回目となるコンテンポラリーダンスの祭典、「Wi-fi bodyインデペンデント・コンテンポラリーダンス・フェスティバル」が、フィリピン文化センターで開催された(7月12~15日)。主だった振付家・ダンサーの新作や、マニラ首都圏にあるバレエ・スクール、高校や大学のダンス部などによる作品披露のほか、今回初めての試みとなるコンペティション部門が注目を集めた。
フィリピン人若手振付家による未発表のソロ又はデュオの作品を競うもので、合計12名が参加。国際交流基金マニラ事務所がスポンサーとなり、名付けて” Wi-fi JF NeXtage Award”。優勝者には2万ペソ(約5万円)の賞金と、来月に実施する予定のJCDN(ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)の公演に、日本から来る4組のグループとともに、唯一フィリピンから参加する権利が与えられる。そのコンペに私も審査員の一人として参加して、全作品を観ることができた。
いずれも10分程度の短いものだが、それぞれの思いが凝縮された作品だった。抽象的、実験的な動きから、民族舞踊を取り入れたものや、物語性の高い演劇的作品までバラエティーに富んだ内容。夫に去られた未亡人の嘆きや、この国らしくゲイのラブストーリー、はては戦時中の日本軍人とフィリピン人女性の恋の話など。特に上位の3作品は評価が拮抗したが、優勝したのはアバ・ビラヌエバという女性振付家による「インサイド」というソロ作品だった。真っ暗な舞台の上にシンプルな照明によって約2メートル四方に区切られた空間が浮かび上がり、その中で次から次へと沸き起こる体の動き・リズムに乗り、微小な動きからやがてスクエア全体を覆う激しい動きへと展開していった。時にはその極小空間で巨人に見えるほどの圧倒的な存在感となり、とても完成度の高い作品に仕上がっていた。シンプルな作品といえばそれまでだが、特にフィリピン的かというとそんなことは全くない。優れて現代性を持つ作品は、国や民族性といったローカルなものをかえって感じさせないものだと、改めて思い直した。
アバ・ビラヌエバ
2年前にこの地に赴任して以来、コンテンポラリーダンスの公演にはなるべく足を運び、このブログでも紹介した通りマイラ・ベルトランを日本へ招待したり、ドナ・ミランダが日本のコンペティションへ参加する橋渡しをしたり(彼女は結局、「横浜ソロ・デュオ・コンペティション」で審査員賞を受賞した)、色々と試みてきたが、この2年という短い期間でも随分と新しい才能が育ちつつあることを実感して嬉しくなった。優勝のアバには、前述の通り日本の第一線の若手グループとの競演が待っているし、2位入賞の作品を踊ったエレーナ・ラニオグも、大阪で開催されたアジア・ダンス・ショーケース(7月28日、大阪ビジネスパーク内・OBP円形ホール、財団法人21世紀協会主催)に招待されて日本で踊っている。勢いを増すフィリピンのコンテンポラリーダンス界には、未知の世界へ分け入ろうとする大きな希望と期待があって、見ていてとても清々しい。
さて今月のCCPでは、このWi-fi以外にも、インデペンデント系のイベントが続いている。既に演劇の「ヴァージン・ラブフェスト」が先行して行われ(6月28日~7月8日)、映画の「シネマラヤ・フィルム・フェスティバル」は先週末に終了したばかりだ(7月20~29日)。いずれも若手の才能発掘や新作の発表を目的として、メインストリームとは一線を画した内容が売りで、自前の制作費や手弁当などアーティスト個人の参加に支えられているイベントだ。国からの支援は雀の涙程度で、チケット代も「ヴァージン」が1公演200ペソ(約500円)、「Wi-fi」が200ペソから300ペソ(500円~750円、学生半額)、「シネマラヤ」が100ペソ(250円、学生半額)と、なるべく多くの若者が来やすいように安く設定されている。いずれも資金難にあえいでいて、マニラ事務所では「Wi-fi」以外にも、このインデペンデント系のイベント全てに助成金を出すなど協力をしている。商業主義に背を向けて頑張っているアーティストたちの支援は私たちのモットーなので、どれも重要なイベントなのだ。「シネマラヤ」については別にレポートするとして、今回は「ヴァージン」についても紹介しておく。
「ヴァージン・ラブフェスト」はフィリピン人脚本家の集まりである“ライターズ・ブロック”の主催で、未発表(“unpublished”)の戯曲の初めての舞台化(“unstaged”)を競うものだ。海外からの戯曲を含めて全18作品、つまり18人の脚本家とそれと同数の演出家に、ざっと数えただけでも100人を超える役者、さらにそれ以上のスタッフが参加した。250名定員のCCPスタジオシアターを2週間にわたって貸し切り、1作品あたりそれぞれ4回の公演でのべ72公演もある一大イベントだ。日本からも劇団燐光群の坂手洋二氏が脚本家として(作品名「三人姉妹」)、また同じ劇団の若手演出家、吉田智久氏は演出家として参加した(作品名「テロリストの洗濯婦」、脚本はデビー・アン・タン)。私も日本のものを中心に18作品中、8作品を観ることができた。
ところで劇団燐光群は、アジア諸国の演劇人と腰を据えて交流を続けている数少ない貴重な劇団だ。劇作家であり演出家である坂手洋二氏を中心に、戦争や天皇制の問題など社会的なテーマを真っ向から扱い、そのダイナミックな硬派ぶりから、私の最も敬愛する劇団の一つである。早くからフィリピン演劇に目をつけ、フィリピンから俳優を招聘しては自分たちの公演に起用してきた。そして招聘だけにとどまらず、逆に日本からもスタッフを送り込んでいる。前述した若手演出家の吉田氏は、2002年の9月から「文化庁芸術家在外研修制度」を利用して1年間マニラで武者修行を行った後、10回近くリピーターとして再訪を繰り返してはワークショップなどを行い、とうとう昨年フィリピン人女性と結婚して、”退路を絶って”長期間滞在し、いくつかの共同作業を進めてきた。
その吉田氏が演出して2月に公演した「フィリピン・ベッドタイム・ストーリーズ」は大成功だった。ベッドをキーワードにした様々なかたちの愛憎劇を、日比両国の作家、役者、スタッフで長年にわたって作り上げたてきた、血の通った骨のある本当の共同制作である。2004年の初演であるが、今回はさらに装いを新たにして、フィリピン人脚本家の4作品に内田春菊の書き下ろし作品を加えて、計5作品を日比両国で上演した(マニラでは2007年2月17日~25日、会場:フィリピン文化センター他、主催:劇団燐光群、国際交流基金マニラ事務所他)。なかなか衝撃的な“代理母”の話や、この国に古くから伝わる吸血女“アスワン”のラブストーリー、ラストの春菊作「フィリピンパブで幸せを」では、フィリピン人エンターテイナーと日本人男性との出会いとスピード結婚をテンポの速いドタバタ喜劇で描き、満員の会場は大爆笑だった。
その間、劇団側も昨年より3年間の計画でセゾン文化財団からフィリピンとの演劇交流のために助成金を獲得している。文化庁、基金、セゾン・・と、あらゆる手段を試みているのだ。演劇人にとってアジアとの交流はリスキーな分野だと思う。もともと世界の演劇界のメインストリームとはいえない日本だけれど、さらに日本以外のアジアとなると、インフラも不十分だし、世界的マーケットからはずれているし、例えばあちらから“招待”されても、飛行機代など結局は自腹を切ることになるのは必定。国際交流基金でもこれまでに主催事業などで多くの演劇人をアジア諸国に派遣しているが、その後自力で助成金などを獲って地道に交流を続けている人たちはとても少ない。そんな持ち出し必須の交流だからこそ、覚悟と見識が必要になるのだと思う。これから日本の社会は、アジアからもっと多くの隣人を受け入れていくことになるのは間違いない。アジア人種のるつぼ社会が近づいているのだ。もう既にそうなっているとも言える。重要なことは、なるべく早くその事実を受け入れること。そして日本人の特権意識をぬぐい捨てることだと思う。日本の演劇界からもほとんどかえりみられることのない、フィリピンの演劇人との交流を繰り返す燐光群は、ある意味では、そんな近未来の私たちの社会に先乗りして、来るべき時に備え、演劇が社会に果たすべき役割を探しているとも言える。
さて「ヴァージン」に話を戻せば、個々の作品の完成度にばらつきがあるものの、かなりレベルの高い、内容の豊富なイベントであったと思う。おそらく現代演劇でも、せりふ芝居というジャンルでは、私の知る限り近隣の国々を凌駕していると思う。タイはなぜか伝統的に現代演劇が弱いし、インドネシアでは伝統に根ざした舞踊や肉体的な演劇(フィジカルシアター)に圧倒的な魅力があるが、せりふ重視の現代演劇となるとまだまだ良質なものは少ない。またウォーターフロントに劇場コンプレックスを擁して世界中から公演団を招聘し、いまやアジア舞台芸術のハブとなったシンガポールにしても、そこで作られる作品については、生活空間に根ざした物語のバリエーションが少なく、狭い世界観から生み出された頭でっかちの観念的で退屈な作品が結構多いように思われる。
「テロリストの洗濯婦」(ニコラス・ピチャイ提供)
水をはったバスタブの中で展開するこってりとしたゲイのラブストーリー。マニラの下町を舞台にゲイとオカマの“結婚”生活の日常を生き生きと描いた作品。そして吉田氏の作品は、やはりマニラの中華街の路地裏あたりのチノイ(華人)の生活を、洗濯婦と雇い主の家族を通してコメディータッチで描いた秀作。今回観た8作品はいずれも様々な世界を描いていて、言葉はわからなくても十分楽しめる内容だった。こうした物語のバリエーションの多様さが、確かにこの国の演劇を支えているのだと思う。そしてそこに盛られたたくさんの毒と、それを無力化させてしまうほどにあふれるユーモアやペーソス。決して声高に何かを主張するわけではないけれど、どの作品にも“生きたい”という思いがあふれていて、だからこそまた何度でも劇場に足を運びたくなるのだ。演劇の“辺境”、マニラのちっぽけなスタジオシアター。照明回線がねずみにかじられてボロボロの劇場だけれども、そこにはインデペンデントなスピリットが充満していて、この国の文化の本当の底力を感じさせるのだ。
(了)
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