2009/11/09

日本を目指す比のファッションデザイナーたち

 今フィリピンのファッションデザイナーたちが日本に熱い視線を注いでいる。一方、日本のファッション業界でもこの国の若い才能を”発見”しつつある。先ごろ東京で開催された「第47回全国ファッションデザインコンテスト」(財団法人ドレスメーカー服飾教育振興会、学校法人杉野学園主催)で、比人デザイナーのヴィージェー・フロレスカ氏が、準グランプリに相当する「繊研新聞社賞」を受賞した。

 1963年以来続いている伝統のあるコンテストとして日本ではデザイナーの登竜門で、審査員にも森英恵など著名人が多い。応募者も多く、今回も日本を中心に中国、ロシア、インド、シンガポールなど世界中から2534点の応募があった。

 そんな激戦のコンテストに、比からヴィージェーを含む38人もの若者が挑戦し、デザイン画審査の結果3人(全体で70人)が最終選考会に進んで東京に乗り込んだ。「ピノイ・ロボット」とタイトルされた彼の作品は、ロボットのようなシルエットだが、ピーニャなど比の伝統的素材を使用し、比独自の刺繍を一面に施した。日比文化のブレンドをコンセプトに、強く主張しながらも、細部にこだわった繊細さが評価されたという。

 日本のポップカルチャー人気を受けてコスプレが世界中を席捲。比においても例外ではなく、コスプレ大会ではアニメから飛び出したようなロリータファッションが人気だ。渋谷や原宿を発信地とするストリート系ファッションもメディアでたびたび紹介されていて、この国の若者文化にも大きな影響を与えている。しかしハイセンスなアート系ファッションとなると、比人デザイナーの目はまだまだパリやニューヨークに注がれていて、日本の影響は限定的。日比の交流は驚くほど少なく、日本で紹介される比人デザイナーなどこれまでほとんどいなかった。

 3年前、国際交流基金では比を含むアジア5カ国から将来期待されるファッションデザイナーを日本へ招待し、ハイライトとして「アジア5」と題したファッションショーを、若手デザイナー養成でリードする杉野学園ドレスメーカー学院と共催した。比からは当時フィリピンファッション協会を率いていたジョジー・リョーレン氏を派遣。彼の業界での影響力に期待しての選抜だったが、それが的中。その後若手デザイナーが続々とその杉野学園が主催する冒頭のコンテストに挑戦するようになった。

 一昨年まず最初に挑戦したのはジェローム・ロリーコ氏(25才)。当センターも制作費を支援したが、見事に審査員賞を受賞。東南アジアから初参加で初受賞だった。日本のアニメに強く影響を受けたというジェロームの作品は、近未来的なメカニックな要素が基調だが、どこか熱帯的でおおらかな生命力を感じさせる作品だった。受賞後の彼の活躍は目覚しく、比国内のメジャーなファッションショーでも確実に彼自身のブランド名を浸透させつつある。

 そして今回のヴィージェーの受賞で、比人デザイナーは2戦2勝。本紙でも紹介したことがあるが、コンテンポラリーダンスの世界でも、比人ダンサーが日本の新人登竜門のコンテストに参戦し始めて2戦2勝の負けなし。創造性が試される最先端の現代文化の分野では、フィリピン人アーティストは日本人と十分互角に戦えるという一つの証だろう。



 ヴィージェーは3年前にデ・ラ・サール大学のファッション学科を卒業したばかりの24才。比のファッション業界はいま急成長していて、経済的バックグランドのない若手たちにもチャンスがあるという。比国内に現在コンテストがないため、そんな若手デザイナーにとって、日本のそれは大きな目標の一つになりつつある。初めての日本滞在で渋谷、新宿、銀座、池袋などを訪れ、それぞれの街の持つ雰囲気とファッションの魅力を堪能した。これからはもっと若い世代のアーティストの卵たちの交流が必要だと、期待に胸をふくらませていた。

 この記事は『まにら新聞』にも掲載しました。

2009/10/02

メディアと政治

 いまフィリピンで最も時の人といえばベニグノ・アキノ三世、通称“ノイノイ”。マルコス時代に暗殺された元上院議員ベニグノ・アキノ・ジュニアと元大統領コーリー・アキノとの間に生まれた長男にして、現在、次期大統領候補の最右翼の上院議員である。そのノイノイに直接触れる機会があったので、ここで報告をしておく。

 調査報道(Investigative Journalism)という言葉がある。日々のニュースを追うだけでなく、腰を据えて政治の腐敗や世の中の不正を調査し、メディアを通じて暴いてゆこうという報道姿勢で、ここフィリピンにはその調査報道の世界で実績をあげているNGOがある。フィリピン調査情報センター(Philippine Center for Investigative Journalism、PCIJ)といって、エストラーダ元大統領の賭博疑惑を調査し報道して、大統領弾劾そして第二エドサ革命による追い落としの端緒をつけた。今年20周年を向かえ「平和、人権、グッド・ガバナンス:東アジアの民主主義の岐路」という国際セミナーを企画し、それを基金が助成した。その初日にノイノイがやって来て、この国のデモクラシーについて語った。

 いまフィリピンは熱い政治の季節を迎えようとしている。来年5月の国政選挙は特に新しい大統領を選出するとあって、現在候補者絞りの最終段階に来ている。が、ここ1ヶ月で大統領レースに大きな波があり、アキノ元大統領の長男であるノイノイ・アキノ氏が現政権批判で先頭に立つ老舗政党である自由党の候補者として名乗りをあげ、突如として最右翼に躍り出た。母親のコーリーが長い闘病の末に8月1日に亡くなったが、その後数日はコーリーの死をいたむ多くの国民が街頭に、そして棺の置かれた教会などに大量に繰り出した。さしずめ1986年のピープルズ革命の再来のようだった。その余勢をかって反体制派、改革派の大勢は長男のノイノイ上院議員に白羽の矢を当てて、そのまま彼が自由党の大統領候補に指名されたのだ。

        コーリーの棺を安置したマニラ大聖堂

 基金は無論政治的に中立な組織。さまざまな国際会議やセミナーに資金援助をしているが、助成金のガイドラインには政治的目的の事業には助成しないと、はっきりと断り書きがある。今回もノイノイが参加とあって、主催者のPCIJには党派的な集会にはならないようにと注文をつけた中での登場となった。

 ただ今回あらためてわかったのは、メディアと政治家との深い結びつき。PCIJとほぼ一心同体とも言えるフィリピン大手メディアのABS-CBN、そして日刊紙『Inquirer』は反政府報道の急先鋒で、自らアキノ政権の立役者、代々のアキノ家シンパと名乗ってはばからない。つまり現実的にはメディアに政治的な中立は難しいということだ。とはいえ今回はインドネシアやタイからもジャーナリストや国会議員(人権活動家)の参加があり、それぞれの国の民主化の過程や人権、ジャーナリズムの問題についての議論があったため、アキノ家に直結するピープルズ革命とその後の問題(現在の大統領選挙について)も、複眼的に見ることができたのでとても興味深いセミナーであった。
 
 ノイノイに関する個人的な評価は控えるとして、想像以上に多弁な人だった。そしてオーラが無いぶん、非常に自然体で親しみ易い人柄だと感じた。過去2回の大統領選挙では、元俳優が貧しい民衆を代弁するような形だったが、今回、最強と目される対抗馬はギルバート・テオドロ現国防長官で、ハーバード・ロー・スクール出身で若くして司法試験にトップ合格した超エリート、しかもノイノイのまたいとこにあたる。同じコファンコ家という地主階級の出身だ。支配階級と大多数の貧しい民衆という深刻な亀裂を抱えるフィリピンだけれど、同族ファミリー出身者同士が一騎打ちとなる気配の今度の大統領選挙では、根本的な対立点は一体何なのだろうか。社会の亀裂をあいまいなままにして、どちらが政権に就こうとも極端な貧富の格差が温存される気配のある将来に、本当の希望はあるのだろうかと思ったりする。

2009/09/23

フィリピン映画の勢いは止まらない、東京国際映画祭に一挙3本エントリー!

 以前このブログで紹介した私の一押しシネマラヤ参加作品「Engkwentro」(ペペ・ジョクノ監督)が、先ごろ開催されたベネチア国際映画祭でオリゾンテ部門のグランプリを受賞した。若手作家の実験的作品に贈られるこの賞の賞金はなんと10万ドル。監督の叔母であるマリス・ジョクノ・フィリピン大学教授から聞いた話では、撮影では野外にわざわざ巨大なスラムのセットを組んだそうで、そのために膨大な借金が残ったが、これで全て返済しておつりが残ったとか。

 オリゾンテに参加した最近の日本映画といえば青山真治監督の「サッドバケイション」(2007年)などがあるが、フィリピン映画としては昨年も同部門にラブ・ディアス監督の「メランコリア」が参加してグランプリを獲得している。ちなみにこの「メランコリア」は、大胆にも8時間に及ぶ超長編で、恥ずかしながら長すぎて私は一部しか見てないが、3人の若者の内省の物語。全編白黒、ゆっくりと静かに、詩的な映像が延々と続く。ペペの作品は1時間で快走するドキュメンタリータッチの作品だから、フィリピンフィルムメーカーの様々な実験的試みが、このベネチアでは評価されているようだ。

 そしていよいよそのラブ・ディアスを含む3人のフィリピン人監督の作品が、今年の東京国際映画祭(10月17日~25日、六本木ヒルズなど)にエントリーされた。

 同映画祭の「アジアの風」部門のプログラミング・ディレクターの石坂健治氏のマニラ来訪についてもこのブログで触れた通り。そしてその時の興奮混じりのお約束通り、今回一挙に3人のノミネートとなった。

 まずはコンペティション部門で、81カ国743作品の中から厳選された16本の内の一作に、レイモンド・レッド監督の最新作未公開作品「マニラ・スカイ」が選ばれた。彼は1980年代前半、フィリピン大学学生の頃から実験映画で国際的に評価された早熟の人。特にアメリカとの独立戦争を闘ったマカリオ・サカイを描いた「サカイ」(1993年)が有名で、米国シンパの多いこの国では数少ない米国帝国主義批判の歴史映画を世に送り出した(DVDでも発売されています)。また短編の「Anino(影)」(2000年)はカンヌ映画祭で短編部門のパルム・ドールを受賞している。そんなフィリピンの伝説的映画監督の待ちに待った最新作が、東京でワールドプレミアの上映となる。

 次に「アジアの風」部門で、今年のシネマラヤで評価が高く、審査員特別賞と主演男優賞を獲得した「Colorum」(ジョビン・バレステロス監督)がノミネートされた。原題はタガログ語のスラングで、車の交通違反(路肩走行、逆走、一方通行違反)などに使う言葉だが、「白タク」という邦題で上演される。

 さらに上述したフィリピン実験映画界の現在のトップランナーであるラブ・ディアスや河瀬直美など3人の監督によるオムニバス映画「デジタル三人三色2009:ある訪問」(2009年、全州国際映画祭が毎年製作しているアジア3監督によるオムニバス・シリーズの最新版)。

 カンヌ(監督賞受賞)、ベネチア、東京以外にも、モントリオールに釜山に・・・、いまフィリピン映画は世界中から引っ張りだこだ。勢いの止まらないフィリピン映画の現在。東京国際映画祭をぜひお見逃しなく。日本にいる人がああ羨ましい。詳しくは同映画祭WEBサイトで。http://www.tiff-jp.net/ja/
 

2009/09/22

変容する戦争の記憶:メモリー・オブ・ワーからメモリー・オブ・ピースへ

 去る9月3日にバギオで「国際平和演劇祭」が開催された。バギオと日本の市民が中心となり、日本人コミュニティの繁栄とその後の太平洋戦争での惨禍、人々の再会と平和の祈りをテーマとした演劇作品を作り、昨年まで「山下降伏記念日」と呼ばれていた9月3日に上演し、その日を「平和の日」に改めようという企画だった。日本からは演出家(元劇団燐光群の吉田智久氏)、役者、ダンサーなどが参加し、ベンゲット大学の学生を中心としたフィリピン人と共演した。
 
 バギオは比島戦が終結した場所であり、9月3日はその象徴。戦争の悲惨な事実は事実として記憶し、しかし”降伏の日”として怨恨を子孫に伝えるのではなく、平和への願いに変えてゆきたいという趣旨に賛同し、私たち基金もこの演劇祭を支援した(市民青少年交流助成プログラム)。

 100万人以上と言われる比民間人の犠牲者を出した戦争の記憶は、60年以上経過してもこの国の人々の間で様々に語り継がれている。そうした記憶やその癒しにまつわる事柄は、心の中にある日本への眼差しそのものであり、まさに文化交流の領分と言える。

 そんな戦争の記憶に、はっきりと変容のきざしが現れている。

 イエズス会が経営するフィリピンきってのエリート校であるアテネオ・デ・マニラ大学には、東南アジアで最も歴史の古い日本研究コースがある。1967年に日本研究講座が開講して42年。太平洋戦争の惨禍で多大な犠牲を強いられたフィリピンの日本研究だけあって、ほぼ毎年開かれる日本研究セミナーなどでは、これまで戦争の問題がたびたび取り上げられてきた。昨年度も基金の支援でセミナーが開催されたが(2月6日)、そのテーマは「戦争の記憶、モニュメントとメディア、アジアにおける紛争の表象と歴史の創造」。フィリピンと日本で語り継がれ、表象され続ける太平洋戦争の記憶とその変容について、モニュメント、映画やマスメディアでの描かれ方などを通じて様々な分析が紹介された。

 記憶する、もしくは思い出すという行為は、単に過去にさかのぼるだけではなく、生きている今を反映し、将来に対する期待をも含む行為だ。その意味で印象に残ったコメントはオーストラリアのアイリーン・トゥーヘイ氏の発表で、メモリー・オブ・ワーからメモリー・オブ・ピースへシフトしていることについて述べていた。戦争という忌まわしい事実をしっかりと受け止め、次世代に向けて平和のメッセージを伝えてゆこうというバギオの例にもあてはまる。

 アテネオでセミナーが行われていたまさに同じ日(2009年2月6日)、なんとも象徴的なことであるが、ミンダナオのカガヤン・デ・オロ市にあるキャピトル大学でも、たまたま同じように戦争の記憶に関連するセミナーが行われていて、これも基金が支援した。こちらのほうは私自身は出席できなかったが、戦前ミンダナオに移住した日本人とその土地の先住民であるバゴボ族の女性との結婚、そして彼らの子孫である日系人をテーマにしたセミナーでる。”残虐非道な日本人”の子孫、縁戚者として、彼らもまた戦後長い間、戦争の記憶に苦悩してきた人々である。

 しかし今回の企画がユニークなのは、フィリピン人自身が、そうした日本人の移民史と現在の日系人の姿をベースに歴史小説を創作して、戦争の悲惨な記憶によって塗り固められてきたミンダナオの日系人の歴史に新たな光を当てようとしていることだ。

「第二次世界大戦は多くのフィリピン人の心の中に日本人についての恐ろしくネガティブなイメージを植えつけた。しかし日本や日本人にまつわる経験や記憶が、戦争とともに始まらない場所もある。そうしたフィリピンの歴史の中の特別な過去といったものは、一体どのように再構築してゆけばいいのだろうか?」(『Imaging Japan A Tale From Tagabawa Bagobo Nikkeijin』、マリテス・カンセール、リリアン・デラペーニャ共著)

 変容する戦争の記憶は、映画の世界にも現れている。以前このブログでも紹介したデジタル・シネマの『コンチェルト』。昨年のシネマラヤに出品されて話題を呼んだが、その後一般の劇場などでも公開された。映画自体の評価は分かれるところだが、日比文化交流史の中では非常に重要な作品だと思う。以前紹介した時の記事。

 第二次大戦中、ダバオで実際にあった家族の物語をもとに作られた『コンチェルト』(ポール・モラレス監督)という作品は、これまでさんざん映画でステレオタイプ化されてきた日本軍と全く異なる姿を提示した点で特筆に値する。監督の曽祖父の家族の実話にもとづいているのだが、日本軍のダバオ侵攻に伴って森の中に疎開した際に音楽を愛する日本人将校たちと交友を暖め、日本側の戦況の悪化に伴って同部隊が明日駐屯地を移動するという最後の晩に、その家族が彼らのために森の中でピアノの演奏会を開き、コンチェルト(協奏曲)を奏でるという美しいストーリーだ。戦争被害の甚大なフィリピンでこのように日本軍人を賛美するともとらえられかねない映画を作ることなど、おそらくちょっと前までは想像もつかないことであっただろう。

 この映画はポール(監督)の母親が書いた『Diary of the War: WWⅡMamories of LT.COL.Anastacio Campo』(2006年、アテネオ・デ・マニラ大学出版)という本が下敷きになっている。そしてその本は、ポール自身の曾祖父で戦時中ユサッフェ・ゲリラであったアナスタシオ・カンポ中尉の戦時中の手記(日本軍に発見されないように秘密の場所に保管されていたものが、カンポ家で2000年に発見された)に基づいて書かれたものだ。この映画のもととなった日本軍人との交流については、家族と疎開した日々やゲリラとしての活動、そして日本の憲兵隊から受けた拷問などが克明に描かれている全体のたった1ページほどに書かれているにすぎない。しかしカンポ中尉のひ孫にあたるポールの手によって、たった1ページのエピソードの記憶が、長編映画の中で美しい記憶に変容したとも言える。

 映画の中で日本軍や日本人がどのように描かれてきたかといえば、それは無論、全くひどいものだった。フィリピン人もしくはアメリカ人による映画で比島戦に関する作品は大きく3つのタイプに分かれると思う。戦史に基づいて描かれたオーソドックスな”正統派”戦争映画。次に戦争にまつわるサイドストーリーを描いた作品。そしてもう一つはドキュメンタリー。

 戦争映画の中で私が見た象徴的な作品は、米国映画の『The Great Raid(大退却)』(2005年、ジョン・ダール監督)。1945年の戦争末期、米軍がカバナトゥアンにあった日本軍捕虜収容所から500人の米国人とフィリピン人捕虜を救出して退却し、史上最大の救出作戦を成功させたという史実に基づいた物語で、無論日本軍人を生身の人間として描く要素は皆無。

 第二のカテゴリーは、例えば『Yamashita, The Tiger's Treasure』(2001年、チト・ロニョ監督)。フィリピンには,中国戦線からばく大な財宝を持って南下してきた山下将軍(第14方面軍司令官)が,敗戦間際に北ルソンの山中にそれを隠したという有名な”伝説”があり、いまでも大真面目に発掘を続けている人たちがいるが、この映画はその財宝を埋めるまでの話(過去)と現代の財宝探しがクロスして進行する。そこでは日本兵がフィリピン人捕虜を虐待して財宝を隠す場面が描かれている。

 そしてある意味”キワモノ”で『愛シテ、イマス。1941』(2004年、ジョエル・ラマンガン監督)。日本人将校がフィリピン人と恋に落ちるが、実は彼女はオカマで将校も同性愛者だったという極めてフィリピンぽい話。この作品については、タイ映画で日本人将校コボリとタイ人女性とのラブストーリーとしてタイ人なら誰でも知っている『クーカム(邦題メナムの残照)』のパロディーとも言えるが、話の基本は日本軍と戦ったフィリピン人ゲリラの追想と彼らを称えるお話。”醜い日本人”の基調は全く変わらない。

 第三のカテゴリーであるドキュメンタリーでは、1945年2月の”マニラの虐殺”を描いた『Manila 1945: The Forgotten Atrocities(忘れられた残虐)』(2007年)が有名俳優のセザール・モンタナが出演していて話題となり、大学などでも上映された。

 そうした映画の中で繰り返し醜く表象されてきた日本人が、ここ数年『コンチェルト』のように時にポシティブに語られる作品も現れてきている。『コンチェルト』以外にも『イリウ(郷愁)』(2009年、ボナ・ファハルド監督)という作品が既に完成して公開が待たれているが、これは世界遺産で有名なビガンの街並みが、実はフィリピン人女性と恋におちた日本人将校の英断で破壊から免れて残ったというストーリー。ウソかマコトか、これも実話に基づいた作品とされている。さらに、実は私のもとに2~3年前から似たような物語の映画化の相談がいつくか寄せられている。北ルソンの山中でフィリピン人を救った日本の”シンドラー”とか、戦前からフィリピン社会に貢献してきた大沢清氏の話とか、いずれも戦時中の日本人による”美談”の映画化である。こうした動きは、戦後60年間以上封印されてきた物語にようやく日の目を当てることができるようになったということを意味する。

 こうした戦争の記憶の変容は、おそらく我々の一人一人の心の中で、実は日々起こっていることなのかもしれない。

 今年7月の日比友好月間に基金の主催で実施したJクラシック公演に、比人ギタリストのブッチ・ロハス氏をゲストに迎えた。彼の提案でこの国で親しまれているタガログ語の子守唄「サ・ウゴイ・ナン・ドゥヤン」を演奏することになったが、その曲を癌と闘う姉のために演奏したいと提案された。日比友好のために実施する公演なので、あまりに個人的な思いと違和感があったが、やがて彼の家族が抱える戦争にまつわる記憶を知るに至り、考えが変わった。

 ロハス家は有名な芸術エリート一家だが、彼の母方の祖母が戦時中日本軍に処刑された。そのショックで母親は戦後長く日本製品をボイコットしていたという。そんな歴史を背負う彼は、その子守唄を家族の癒しのために演奏したいと思っていたのだと打ち明けられた。コンサートではそのことを観衆に伝えず、日本人演奏家には公演終了後に話せばよいと考え、彼の提案通りとした。結果的に大成功で、私の前で聴いていたロハス家の人々も目を潤ませていた。コンサートの最後の曲が映画『おくりびと』のテーマだったのは偶然だが、戦争の記憶を抱えた一人の比人演奏家とその家族にとって、その日の演奏によってその記憶は変容し、確かな癒しとなったのではないかと今でも思っている。

2009/09/15

文化と政治(1)

 いま文化と政治の問題がこの国で話題になっている。文化はどこまで政治から中立でいられるか?政治はどこまで文化に介入できるのか?それぞれの国で政治と文化の土壌の違いで差異があるにしても、ひるがえって自分たちの問題を考えるためにも興味深いテーマだ。

 9月8日はフィリピンのアーティストにとって記憶すべき日である。40年前の同じ日、フィリピン文化センター(CCP)がオープンした。先週の月曜日、40周年を祝ってガラコンサートが行われた。そして同じ週の11日、今度はCCPの創設者であり、フィリピン史上最大の芸術のパトロンと呼ばれるイメルダ・マルコスを称えるためのガラが行われた。題して「Seven Arts, one Imelda」。

 Seven ArtsとはCCPが扱う7つのアートジャンル、音楽、演劇、舞踊、美術、映画、文学、メディアアートを指し、それら全てのアートがイメルダの恩恵にあるという意味だ。以前このブログでも触れたとおり確かにCCPほどの国立文化施設は東南アジアには稀有だ。財政的な問題はひとまずおいておけば、理念的な面も含めてこれほど包括的な国立文化施設は日本にも見当たらないだろう。

 私も4年前にこの国に赴任して以来、事務所と自宅を除いて最も足しげく通った場所であり、基金の主催事業でも、これまでに大劇場3回(和太鼓倭、コンドルズ、オペラ・コンサート)、中劇場1回(Jクラシック)、そして小劇場3回(室伏鴻、チョン・ウィシン演出『バケラッタ』、踊りに行くぜ!)と数多くお世話になった。全て会場費はほぼ無料で、有形無形の様々な便宜をはかってくれて、基金の舞台関係事業はCCPなしには考えられない。

 歴史に“もし”はありえないが、この国にもしCCPが存在しなかったら、アートの“業界図“はざぞかし寒々としていたのではと想像するが、それだけその存在感は突出している。どうしようもない問題を抱えるフィリピンであるが、多くのアーティストの活動を支え、つまり人々の夢や誇りを支え、日々物語りを生産し続けている。

 しかしそのCCPの礎を築いたのが、史上最悪と言われる汚職と圧制にまみれたマルコス政権の第一夫人であれば話は複雑である。イメルダを称賛する今回のガラについても、Alliance of Concerned Teachersという戦闘的な教員団体が、マルコス時代に迫害を受けた多くの人々の気持ちを代弁し、同イベントに否を唱え、ガラ公演当日も会場前でデモを行った。

 当日は新たに館長代理に就いたラウル・ズニーコ氏が、開会のあいさつの中で「政治と文化を切り離し」と、ちょっと苦しげな(と見える)スピーチをしていた。ガラ後半のイメルダの生涯をテーマにした音楽劇の最後には本人がステージに上ったが、スタンディング・オベーションで迎えたのは約8割くらいであろうか、やや複雑な表情でかたくなに座ったままの人々もかなりいたのは象徴的だった。

 私はといえば、CCPの成立がある強大な権力を持った政治家の決断の結果だったとしても(CCPの土地は第二次大戦後海軍の所有となったが、イメルダ夫人の肝入りでマルコス政権の最初期に海軍から召し上げたという経緯がある)、やはりそれは人々の汗水たらして得た労働の対価からくる税金で作られたものであり、ましてはその時代が信じられない汚職と政治的迫害の時代のただ中にあったとすれば、そこに称賛などありえるのだろうか、と率直に疑問に思うのだ。たとえ部外者としてもスタンディング・オベーションなどする気にはなれなかった。

 しかしもし人間の性悪説を認めるとして、政治というものが必要悪であらゆる利権や物欲の調整機能であるとした場合、いかにひどい統治者であったとしても、あとから振り返れば後世に残ることもしていると、功罪論として語られるようになるのだろうか。

 イベントのパンフレットの冒頭にジェレミー・バーンズ(マラカニアン宮殿ギャラリー館長)のエッセイが掲載されている。

「もしイメルダ夫人のCCPという目標に向かった尽力がなければ、40年を経た今日、私たちの時代に、いまあるものと等しいものが存在していただろうか?・・・CCPはある意味遺産であり立証であると言えるだろう。たとえそれがひどく破壊的な政治的ビジョンの遺産だとしても、それにもかかわらずフィリピン人精神を絶賛し、芸術的才能と文化的表現を生み出してきた。・・・」

 「破壊的な政治的ビジョンの遺産」なんて、なんとも悲しい表現であるが、そんな遺産を称賛しなくてはならないほど、いまの政治的状況や文化と政治との関係が破壊的であるとも解釈できるし、この国の民主主義は未成熟だと言うこともできるだろう。

2009/07/29

シネマラヤ5報告(その2)

 さて今回の長編コンペ作品については、受賞結果が示している通りかなり評価が割れたようだ。以下が主な賞と作品内容。

○作品賞:最後の晩餐ナンバー3
 実話に基づいたコメディー映画。テレビコマーシャルの撮影のために一般市民から「最後の晩餐」の壁掛けをいくつか借用したが、ナンバー3を紛失。その賠償をめぐって貸し手と借り手との間で繰り広げられるドタバタ喜劇。失くした主人公は美術担当のおかまちゃん、とコメディーの王道。






○審査員特別賞:ColorumとPanggagahasa Kay Fe
 Colorumは、ひょんな人身事故がきっかけで一緒に旅をすることになった警察官とおじいちゃんのロードムービー。おじいちゃん役の役者はこれで主演男優賞も獲得。

 Panggagahasa Kay Fe(フェの恍惚)は、果物を差し出す精霊をモチーフにしたホラー。夫婦の不倫関係を軸に、妻のフェがいつしかその精霊に魂を奪われてしまう。




○女優賞:Sanglaan(質屋)のIna Feleo
タイトル通り、マニラの下町トンドの質屋を舞台にした人間模様。

○脚本賞: Nerseri(苗床)
精神分裂病の兄二人と姉一人を持つ男の子の物語。

○デザイン賞:Mangatyanan
近親相姦のつらい過去を抱える若き女性写真が、ルソン島北部の村で行われる儀式(Mangatyanan)の撮影旅行を通じて、過去を正視して乗り越えてゆこうというお話。

○オリジナル作曲賞とオーディエンスチョイス:Dinig Sana Kita
                 親に反抗するロック好きの女の子が、バギオに研修に送られ、そこで聴覚障害者と出会い、立ち直ってゆくという話。

 







 
 前回紹介した「Engkwentro」以外には、“すごい!“と思う作品は無かったが(ちなみに「Engkwentro」は主要な賞を逃したが)、どれも粒ぞろいで秀作だ。個人的には質屋を舞台にした「Sanglaan」が、米国への移住問題、遠洋航海のフィリピン人船員の雇用や臓器売買など、フィリピンならではのストーリーが満載で、かつほのぼのとした路線で好感が持てた。

 今回のシネマラヤで重要なことは、以前はほとんど海外の映画関係者から無視されていたのが(フランスは毎年カンヌのディレクターが見に来ていたが)、このブログでも紹介したメンドーサ監督のカンヌ受賞で、海外映画祭のディレクターなど関係者がたくさん訪れたということだろう。“メンドーサ効果”が早くも現れた。

 そして日本からはいよいよ東京国際映画祭「アジアの風」プログラミング・ディレクターの石坂健治氏がやって来た。旧知の間柄ゆえざっくばらんに色々意見交換したが、お世辞ではなく、今のフィリピンのDシネの盛り上がりにはいたく感激したようで、10月に予定される本選へはフィリピンから1本、2本エントリーされてもおかしくない、と期待を持たせるご発言があった(ご本人承諾の上、証拠写真入りで公開しちゃいます)。乞うご期待です。

2009/07/28

シネマラヤ5報告(その1)

 今年も盛り上がりました、第5回シネマラヤ。例年通り長編、短編10本ずつのコンペ作品以外にも、これまでのシネマラヤ入選作品、特別出品作品から、学生による短編上映やリノ・ブロッカ回顧上映など、期待を裏切らない全165本。全部国産の映画が、7月17日から26日の10日間に怒涛のように上映され、熱狂的な観衆が押しかけた。特にコンペ作品の上映会場では、映画の中のシーンに一喜一憂し、上映終了後は拍手が起こり観客は一体感に包まれた。

 今年も10本の長編コンペ作品の内の9本を見たので、それについて報告する。

 劇場長編映画としての作品評価は別として、最も心に残ったのが「Engkwentro」という作品。ミンダナオ島のダバオという町を舞台にした実話に基づいたドキュメンタリータッチの作品だ。

 ダバオはミンダナオで最大の都市だが、政府軍とイスラム分離独立派の内戦状態の続くミンダナオ島では比較的安全な都市。外務省の海外安全情報でも、危険度の最も低い「十分注意」のランク。しかしその治安は、皮肉にも知る人ぞ知る、ダバオ市長が結成した私兵による公然の秘密たる暴力によって成り立っている。ドゥテルテ市長はDavao Death Squad(DDS)という自警団を持っていて、“テレビ番組で「処刑団」(自警団)による犯罪容疑者の殺人を認めると共に「犯罪者を恐怖で震え上がらせている」と自慢した”というから驚きだ。最早公然の“秘密”でもないのか。ダバオではマフィアや不良の多くが何者かによって粛清殺害される事件が頻発していて、1998年以来800人を超える犠牲者がいて、このDDSの仕業といわれている。

 「Engkwentro」は、まさにその“粛清”をテーマにした話。ダバオ海辺の貧しいスラムに暮らす兄弟の物語で、マニラへの出稼ぎのために金策に走る兄と、マフィアに巻き込まれる弟の話を核に、最後はバイクに乗った不審者に突然銃撃されて終わる。スラムでのシーン撮影には、超長回しのドキュメンタリー風タッチが臨場感を盛り上げるが、そのシーンの背後に流れるドゥテルテ市長と思われる政治家の演説のナレーションが重要。“この町の平和を守るのは自分だ”と張り上げる声は、いやおうなく不気味に響く。

 さてこんなに恐ろしい映画だが、驚くべきはペペ・ジョクノという監督。若干21才のフィリピン大学映画専攻の学部学生なのだ。いくらなんでも800人以上の犠牲者を出している噂の「処刑団」を率いるやくざまがいの市長に対して、現役大学生がまともに喧嘩を売るなんて、勇気があるどころの話しではない。

 しかし彼はその血筋から、普通の若者とは異なる宿命を背負っているところが、またフィリピン。ペペは、ジョクノ家という著名な政治一家の一員。特に祖父は著名な法律家で人権活動家の故ホセ・ジョクノ。司法長官や上院議員を務め、戒厳令時代には反マルコスでも中心的役割を果たし、暗殺されたベニグノ・アキノ・ジュニアやサロンガ元上院議長などと並び称された。エドサ革命後は人権委員会の議長となった、まさにフィリピン人権史のヒーローのような存在なのだ。ついでに彼のおばさんは、フィリピン大学歴史学部の教授でこれまた人権史で著名なマリア・セレナ・ジョクノというスーパー・ウーマンである。いくら血筋とはいえ、若干21歳にして早々と人権活動家の宣言をしているようで、なんともまぶしいやら、いずれにしても(2006年には同じシネマラヤの短編で入選しているが)大型新人の登場ということだろう。

2009/06/26

第4回Wifiコンテンポラリーダンス・フェスが開幕

 今年も開幕しました。コンテンポラリーダンスの祭典。今年が4回目で、年をおうごとに増殖している。CCPを会場に8日間で12の公演、8回のワークショップ。ダンス映画の上映と写真展にセミナー。そして13組の新進振付家が競うコンペティションなど盛りだくさん。何日か通えば、この国のダンス界を俯瞰できるようになること請け合い。

 一昨年に続いて今回も審査員をすることになったコンペでは、新しい才能の発見にいまから期待感でわくわくしている。このコンペの優勝者や準優勝者の中から、毎年横浜で行われる横浜ダンスコレクションR、ソロ・デュオ・コンペティションに推薦してきたが、ご報告したとおり前回はローサムという男性振付家がなんとグランプリに輝いてしまった。今年もローサムに続けと、皆気合が入っている。

 それから昨年に続いて日本人振付家・ダンサーも招待した。森下真樹さんという目下売り出し中のアーティストで、著名な振付家・伊藤キムの下でダンスを学び、発条ト(バネト)というダンス・ユニットで活躍。元気な踊りが信条のようで、マニラのダンス界にどんな旋風を巻き起こすか楽しみだ。

 主な日程は以下のとおりなので、ぜひ会場まで足を運んでください。

 6/26(金)午後8時~ 大学のダンスカンパニーとしては最もレベルの高いUPダンスカンパニーの公演。
 6/28(日)午後6時~ 民間ダンスカンパニーとして最もレベルの高い、イケメン集団のエアー・ダンスによる公演。横浜グランプリのローサムなどが出演。
 7/2(木)午後8時~ 森下真樹のソロ、ローサムとのデュオ。
 7/4(土)午後3時~/6時~ 新進振付家コンペティション
 
 

2009/06/19

バタネス、ああバタネス

 とうとう行ってきました。南の国の北の最果て。想像以上に素晴らしいところだったので、ここで一気呵成に紹介します。ただし3泊4日の駆け足観光ですので、もちろん初心者向きです。

 そもそも私がバタネスと最初に出会ったのは映画の中。2007年はちょっとした”バタネス・ブーム”で、バタネスを舞台にした映画が立て続けに二本公開された。

 一本目はデジタル映画の『カディン(山羊)』。このブログでも紹介したが、国内最大のデジタル・シネマ・フェスティバルであるシネマラヤのコンペティション部門に出品された。監督はアドルフォ・アリックス・ジュニア。山羊の世話をして家族を助けていた兄弟だが、ある日その山羊が行方不明になり、島中を探し回る・・という話。全編に挿入される美しい島の風景と昔ながらの人々の暮らしが印象に残る秀作だった。




 そして二本目は大手GMA映画が製作し劇場公開された、その名も『バタネス』。台湾の人気グループF4のケン・チューが主演して話題となったのでご覧になった方も多いかもしれない。監督はこれもアドルフォ・アリックス・ジュニア。台湾から漂着した謎のわけあり男(ケン・チュー)と、地元の美しい女性(イサ・カルザド)とのラブストーリー。たわいもないストーリーだけど、やはり島の美しさが際立った作品だった。




 美しい映画を観て、いつかは行きたいと思っていたが、そんなバタネスへのさらなる思いを募らせたのが『バタン漂流記、神力丸巴丹漂流記を追って』という本だ。著者は岡山県立博物館学芸課長(2001年当時)の臼井洋輔氏。文政三年(1830年)8月に備前を出航した後に遭難して二ヶ月余り漂流し、奇跡的にもバタネスに漂着した乗組員の内の14人が、その二年後に日本に無事帰国。藩による取調べの記録が『巴丹漂流記』として岡山の池田藩の末裔のもとなどに残されていて、当時のバタン島の詳細を今に伝えている。この本は、著書がその『巴丹漂流記』に触発されて現代のバタネスを訪れ、そこに記された風土、文物、人々と今の様子を比較し、さらには同じフィリピン国内で太古の文化を今に伝えるミンドロ島のハヌノオ・マンギャン族の文化などとも比較し、黒潮文化の中での日本とのつながりを俯瞰するという、とても知的興奮にあふれた本だ。おそらく既に絶版だろうけど、図書館かどこかで手に入れて読めばバタネスへの理解はより深まるだろう。

 さらに直前予習のために役に立ったのが州政府のホームページ。以下のことは全部そのホームページから抜粋。http://www.purocastillejos.com/

 バタネスの”歴史”の始まりは、17世紀後半に英国人が漂着した記録から。スペイン統治時代になっても、正式にスペイン領に編入されたのはようやく1783年のこと。レガスピによってマニラが占領された二百年以上後のことだ。スペインとの独立戦争の際には、1898年にイバナという町に独立派カティプナンのメンバーがやって来て、スペイン人司祭を捕らえたという記録がある。こんな小さな離れ小島にもカティプナンはやって来たのは驚きだ。いかに当時の独立戦争が国内で広範に展開していたかがわかる。そして1941年12月8日、つまり真珠湾攻撃の日に日本軍はこのバタン島に上陸している。そのイバナ町では16人の住民がゲリラの容疑で処刑されたとある。

 ここまで予習していざバタネスのバタン島へ。バタネス州はフィリピン最北の州でルソン島の北端からは280キロほど。ちなみに台湾までは200キロもなく、むしろ近い。飛行機で1時間半ほどで、私の場合はSEAIRで飛んだ。32人乗りのドイツのドルニエ社製のプロペラ機。料金は日によって異なるが普通の日で片道6,000~7,000ペソから。ただし気候条件や乗客の集まり具合などでよく欠航するので、ぎりぎりの予定での渡航はお薦めしない。飛行場はバタン島最高峰のイラヤ山の山腹を削った滑走路でスロープになっている。おそらく平地の少ないバタン島では2000メートル級の長い滑走路を作るための土地はないのだろう。従って大きなジェット機は乗り入れ不可能。

 上空から眺めたバタン島。南シナ海と太平洋双方から荒波を受け、島全体に断崖絶壁が多く、波濤のくだける白が美しい。4月から6月は東からの季節風が吹くそうで、西側の南シナ海に面したバスコなどは比較的波が穏やかな季節である。

 バタネス州の州都、バスコBascoの町。バスコはバタネスがスペインに領有された後の初代知事の名前にちなんだもの。バタン島はバスコを含めて6つの町からなる。

 北には標高1517メートルの休火山、イラヤIraya山がそびえる。島の最北に位置して急勾配で海に面する威容は、かつて黒潮を航海する人々の目印となっていたことだろう。

 宿泊したシーサイドロッジの海側からの眺め。大きくて清潔な部屋で食事もおいしかった。町にはレストランがないのでほぼ毎食ここで食べた。他にも宿泊施設はあるが、町の中心街まで近く買い物などにも便利。インターネットを通して予約して素泊まりで1,000ペソ。直接支払いの場合は800ペソだった。ここはお薦め。バスコ近郊にあるバタネス・リゾートは綺麗なコテージが売りだが、町の中心部から遠くて自由な散策には不向き。ただ現地で仕入れた情報で、アーティストのパシータ・アバドが経営するフンダシオン・パシータは素晴らしいとの噂。収益の一部はバタネスの伝統文化保存にも利用されているようで、最低1泊5,000ペソの価値があるかもしれない。 http://www.fundacionpacita.ph/programs.php

 朝食で食べた飛魚の干物のから揚げ。飛魚は黒潮海域の名物で特に4月から6月が漁期。たくさん獲ってまとめて干物にする。とても肉厚で独特な味だ。











 干物状態(サブタン島のチャブヤンで)

 バスコにはとにかく国や州など官公庁が多い。写真は州庁舎。周辺には公共事業道路省、農業省、環境省や地方裁判所などなど。さらにバタネス国立大学に、なんと国立サイエンス・ハイスクールまである。人口は約6000人というが、ここで働く多くの人はおそらく公務員だろう。フィリピンには81もの州があってなんて多いのだろうと思っていたが、おそらく僻地にあっては、州都があるとないとでは大違い。なるほど地方振興、雇用対策の面ではおおいに意味がある。

 夕方になると州庁舎前のグラウンドは役所や学校の部活動で賑わい、公園は人々の憩いの場となる。僻地かと思ったが、若者は結構あか抜けていた。

 バスコの海岸は、日没近くになると家族連れで海水浴を楽しむ人々で賑わっていた。ここには無論ストリートチルドレンはいないし、土地の老人が言っていたが、泥棒もいないそうだ。街はきれいでプラスチックゴミもほとんど落ちていない。こちらから意識的に目を合わせれば、多くの人が挨拶をしてくれる。そんな場所だ。

 バスコのシンボルの灯台。ロッジから徒歩で20分ほど。米国時代には無線の中継地だった場所。












 サント・ドミンゴSanto Domingo教会。18世紀後半、初めてバタネスに教会が建てられた土地。バタネ町はどの町でも教会が中心。こんな僻地にも威容を誇る教会が存在している。

 空から見たマハタオMahataoの町(バスコの隣町)の様子。真中が教会。教会がいかに町作りの中心となっているかよくわかる。

 バヤンVayan。ロッジから車で10分。なお島内の幹線道路にはジープニーが走っているが、初めての際は車を貸しきって回るのがベスト。1時間250ペソ。5~6時間もあれば島を一周できる。慣れればジープニーが便利。緑の絨毯となった丘が幾重も連なり、その先に真っ青な海。牛や山羊が放牧されている。水平線上にうっすら浮かぶのはバタネス州最大の島、イトバヤットItbayat島。その先に無人のヤミ島。そしてフォルモサ、台湾。南シナ海と太平洋が交わる大海の壮大な眺めが堪能できる。実に地球は丸い。

 ボールダー・ビーチ。ロッジから車で10数分。悠久の歴史、荒れる波濤にまるまると削られたゴロタ石が無数にころがる。

 漁師の出航。この小さなバンカボート、釣り糸と針だけで、人の背丈ほどのカジキマグロも獲れるという。もっとも多くの場合たいした収獲はないのだろう。博打のようなものだ。

 バランガイ・トゥコンTukonの高台。現在ラジオ・ステーションを建設中。ここは360度の視界が息を飲む。中央がイリヤ山で右が太平洋、左は南シナ海。

 高台から降りる途中の教会。ゴロタ石の美しいファサード。








 バスコから南へ向かう道は海に迫った断崖絶壁の中腹を削って作られた道。車道の下には壮大な景色が続く。











 途中には洒落た展望台View Deckがある。

 イバナIvana町、バランガイ・サン・ホセSan Joseにあるバハイ・ニ・ダカイVahay ni Dakay(ダカイの家)と呼ばれる伝統的ストーン・ハウス。石は珊瑚の死骸からできたライムストーン。18世紀建造、最も古い家屋の一つ。現在でも使われている。

 ボート作りの現場。全長2.5メートルほどの小型バンカ。3枚の長い板を接合している。木材は沖縄などでもよくあり黄色の染料にもなるフクギ。木材の曲線の掘り出しは太古からの伝統を受け継ぐ職人の勘。大航海時代、フィリピンはガレオン船の建造地かつ輸出基地として、海洋貿易の発展に大いに寄与したという。もっと古くは日本の船作りにも影響を与えたと推測されている。一ヶ月の作業で600米ドルで売るそうだ。

 ウユガンUyugan町のバランガイ・イトブッドItbud。バタン島で最も伝統的ストーン・ハウスの残る美しい町並み。家屋の半数近くが石作りの壁とコゴン草の屋根。今は美しい姿だが、意識的に保存していかなければいずれ失われてしまうだろう。土地の人の話では、ストーン・ハウスの修復の際には州政府の補助金が出るそうである。

 三日目は隣りのサブタンSabtang島へボートトリップ。6時半にロッジからジープニーに乗り、イバナ町のサン・ビセンテSan Vicente港まで。約30分で25ペソ。そこから写真のバンカ(20人乗り)で45分かけてサブタン島へ。50ペソ。サブタン島は人口1800人。

 港は日本の政府開発援助(ODA)で整備されていた。またこの港の近くの小学校もODA(おそらく草の根援助)だった。ちなみにバスコの小学校でもODAマークを発見。バタネスではODAが大活躍だ。

 港に着いたらまず近くのヘリテージ事務局で登録(100ペソ)。そこで出会った公認ガイドのボーイ・アラバードBoy Alabadoさんは、とても親切でしっかりとガイドしてくれた。ガイド付きバイクで3時間600ペソ。ガイドブックにはサブタン島には宿泊施設が無いとあるが、少人数ならこのヘリテージに宿泊可能。絶景の海辺でキャンプもできるそうだ。サブタン島を訪れる際は彼に連絡すると良い。Tel:0919-866-6497

 港のカンティーンで昼食。ある方のブログの薦めに従いココナッツクラブ(椰子蟹)を食べる。身がしまっていて、味噌もいっぱいで美味。一匹250ペソ。

 臼井氏の本で紹介されている日本では”修羅”と呼ばれた車輪の無い運搬道具。本当にまだ使われていた。地面との摩擦の少ない車輪の発明は、人類にとって革命的なできごとだったのだろうと納得。

 バランガイ・サビドゥッグSAVIDUGにあった原型をとどめるイバタン族の伝統的ストーンハウス。原型は屋根が低い位置まで降りていて、入り口の間口は7~80センチ程度。台風の激しい風に耐えるため。

 緑の絨毯のような丘陵と紺碧の海。そして映画『カディン』にも登場した山羊。ここは映画のロケ地になった。

 バランガイ・チャバヤンChavayanの美しい町並み。『カディン』の主人公の兄弟が住んでいる家がある。

 イバタンの伝統家屋の本当のオリジナルはライムストーンを使わずに、コゴン草と椰子の葉などでできていた。ストーンハウスの技術はここを支配したスペイン人が持ち込んだもの。





 土地の名物である女性用のヘッドギアー、ヴァクルVakulを編む。素材はアバカの繊維。











 バージンアイランド









 帰りのバンカでカツオが釣れた。たった一本の糸と針で。小ぶりだけどれっきとした黒潮海流のカツオが、たったの100ペソ。早速買って帰り、ロッジで刺身にしてもらった。当然美味。ちなみにロッジには日本の醤油とわさびまであった。









 南シナ海に沈む夕日