2010/08/10

根付くか日本陶芸の技と心

 しばらくブログのほうはさぼっておりましたが、その間「まにら新聞」に投稿した記事を、写真を付けて再掲しておきます。
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 多島海文化の豊かなフィリピン地方都市の中でも、東ネグロス州のドゥマゲッティは、ビサヤやミンダナオをつなぐ海上交通の要所にある美しい町だ。ここには古くからテラコッタ(土を用いた素焼きの焼きもの)の伝統があり、今でも素朴な土器が作られている。また米国人によるアジア最古の大学であるシリマン大学(1901年創立)をはじめ、多くの学校が集まる学園都市でもある。そんな海とテラコッタと教育の町の大学で、今日本人陶芸家が比人の指導にあたっている。

 丸山陶心さん(63才)は萩焼きの陶芸家。3年に1度、美濃で開催される“陶磁器のオリンピック”である国際陶磁器展に2回入選するなど実績がある。2002年にマニラの国立博物館で個展を行ったが、この国の魅力に惹かれてその後も自費で訪れては各地で陶芸を指導してきた。国際交流基金でも、2007年にドゥマゲッティで開催されたテラコッタの祭典でワークショップを実施。それが彼とドゥマゲッティとの関係の始まりとなった。

              ドゥマゲティでのワークショップ

 東南アジアには、古来より中国人が持ち込んだ焼きものの文化が各地に残っている。インドネシアのカリマンタン島のシンカワン村には、古くからの製法を伝える長さ30メートルを超える窯がいまだ健在である。しかしフィリピンには窯を使った焼きものの伝統は残っていない。戦国時代に秀吉に見出され、日本で珍重された”ルソン壺”は、中国産だと言われている。
 
 しかしテラコッタは、野焼きで簡単に作れることから、このドゥマゲッティの地で代々継承されてきた。近郊の遺跡から出土した装飾土器や生活器具からは、鉄器時代(紀元前2世紀~紀元9世紀)には既にテラコッタが重要な技術だったことがうかがえる。今でも市内ダロ地区には多くの工房があり、素焼きの壺や植木鉢などが売られている。またこの伝統を現代に生かそうとテラコッタを作品に取り入れた美術作家も多く、キティ・タニグチ氏などは市内にギャラリーを構え、国内外でも活躍している。

             ダロ地区の焼き物ショップ

                      キティ氏の作品

 一方でテラコッタには限界もある。簡単で安上がりなために生き残ったローテク文化ではあるが、その容易さがかえって技術発展の障壁にもなる。釉薬を使ったり、焼成温度の高いガス窯を使用したりして、より優れた製品として現代のマーケットのニーズに合うよう革新が期待されてはいるが、なかなか担い手が育たない。生産性が低くて粗悪であっても、ローコストでとりあえず売り物となることで生活を維持するには十分なため、それ以上のことは求めないからだ。

 科学技術省の要請で今年の4月まで国際協力機構(JICA)の海外青年協力隊が何代かに渡って派遣されていたが、技術移転には困難が伴ったようで、現在は派遣されていない。ただ彼らの尽力もあって、陶芸を芸術教育の中に取り入れようとガス窯を導入する大学が現れた。ファウンデーション大学といい、その大学が陶心さんを受け入れて、この7月から新たに芸術専攻の学生に陶芸を教え始めた。

 伝統工芸はもともと無名の工芸家が代々技術を受け継いできたもので、人々の集合体の記憶やアイデンティティーを宿したものである。現代の工芸は、その上にアーティスト一人一人の個性が加わってさらに息づいている。国際交流基金では「文化協力」と称して、開発途上国の文化発展のための様々な支援をしているが、伝統工芸も重要な分野である。例えば陶芸では近年、政情不安で存亡の危機にあったアフガニスタンのイスタリフ焼きの維持・発展に協力するため、アフガン人の陶工と日本の陶芸家との交流を進めている。

 今回、陶心さんの活動を少しだけサポートすることになったが、日本人陶芸家の比での現地指導に対する支援は初めて。学生は4学年合計で25名、週に4時間の授業を2クラス受け持つ。3つのろくろを交代で使い、土のこね方から基礎を学ぶ。いずれは大学自慢のガス窯を使って、作品を完成させるのが目標だ。学生の一人アルマ・アルコランさん(20才)は、「陶芸は初めての経験だがとても楽しい。将来はプロのアーティストになって、陶芸も続けていきたい」と抱負を語る。萩で培った自らの経験と知識、そして陶芸家としての誇りを伝えてゆきたい。陶心さんのチャレンジは始まったばかりである。



「まにら新聞」8月9日

フィリピン映画の熱い思いを日本へ

 現在フィリピンで最も注目されている映画祭、「第6回シネマラヤ」が開催中である(7月18日までフィリピン文化センター)。凋落著しい35ミリ映画に替わって、今この国の映画界、そして映画製作を目指す若者達が熱い期待をよせるデジタルシネマ(Dシネ)。シネマラヤは、2005年に産声を上げた国内最大のDシネの祭典だ。この映画祭を中心に優れたDシネがいくつも生み出されており、それが海外に紹介され始めている。“シネマラヤ現象”とでも言おうか。

 毎年開催されるごとに規模を増し、今年は10日間で長編、短編合わせて一挙に137作品が上映されている。現在のフィリピンを生のまま切り取ったリアリティーと、若者の等身大の姿が映し出されていて、観ていてとてもすがすがしい。9本の長編がコンペに参加しているが、先ごろ行われた選挙の話や、海外出稼ぎ労働者や中国移民の物語の他に、なんと言っても特筆すべきは、ミンダナオものが3本も出品されていることだ。ちなみに多くの映画が英語字幕付きなので、外国人でも楽しめる。

 フィリピン映画が黄金時代を築いたのは過去のこと。しかしここ数年は、”インデペンデント”といわれる大手製作会社に属さない個人によるDシネが盛んになり、コンパクトなデジタル・ビデオカメラの技術的進歩で、多額の予算がなくても撮りたい映画が撮れるようになって息を吹き返した。確実に”ニューウェーブ”が到来している。

 そんな状況を反映して、ここ数年ヨーロッパにおける比映画に対する評価は高まる一方だ。以前このコーナーでも紹介したブリリャンテ・メンドーサ監督は、『キナタイ(屠殺)』で2009年カンヌ映画祭の監督賞を受賞。またイタリアのベネチア国際映画祭では、新人監督発掘が目的の「オリゾンテ部門」で、一昨年と昨年の2年続けてフィリピン人が最優秀賞を受賞した。ラヴ・ディアスの『メランコリア』とペペ・ディオクノの『エンクエントロ(衝突)』という作品だ。ちなみに後者は、前ダバオ市長が結成した”ダバオ・デス・スクアッド”という自警団によるマフィアの粛清殺害がモチーフの社会派人権映画である。

 こうして海外で評価の高まる比のDシネだが、日本での評判はまだまだ。国際交流基金では、かつて日本で比映画を積極的に紹介していた。「フィリピン映画祭」(1991年)や「リノ・ブロッカ映画祭」(1997年)など。リノ・ブロッカ(1991年没)は、20年間に67本もの作品を生み出して黄金期を支え、その後の映画人たちに多大な影響を与えた不世出の監督である。

             基金主催「フィリピン映画祭」(1991年)

 異なる文化間の相互理解を目指す文化交流にとって、日本における外国文化紹介は、海外における日本文化紹介と平行して、車の両輪のごとくに重要な仕事である。一方的に日本文化を魅せつけているだけでは、相手国側から本当の信頼は得られない。映画の分野では、1982年にアジア映画紹介のさきがけとなった南アジア映画祭を開催。その後も東南アジアや中央アジア、2000年以降は中近東やアラブ諸国等の映画を発掘しては紹介してきた。

 残念ながら昨今では、外国映画の上映機会が増えたという理由で、国際交流基金が独自に上映する機会がほぼなくなってしまった。そのため商業上映に乗りにくい東南アジア映画は、まとまって紹介される機会が失われた。現在では、日本で行われる様々な映画祭への出品上映が中心。歴史が古いものでアジア・フォーカス福岡映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭。比較的新しいものでは東京フィルメックスなど。その他マイナーな映画祭を含めて、年間数本が数回上映される程度であろう。

 そうした状況の中、新しい動きもある。今年のシネマラヤのコンペ部門の審査員に、東京国際映画祭‘アジアの風’部門ディレクターの石坂健治氏が招待された。同氏は国際交流基金で上述の映画紹介事業を長年にわり手がけてきたアジア映画研究者である。昨年は同映画祭のコンペ部門に初めて比映画がノミネートされたが、彼がその作品を招へいした。今回審査員として参加することで、今後ますます東京国際映画祭とシネマラヤの連携が強まることが期待される。新たな段階を迎えているフィリピン映画。その豊かな才能の宝庫と若者たちの映画によせる熱い思いを、少しでも日本の同世代の人々に伝えていって欲しいと願っている。

              石坂氏とともに

「まにら新聞」7月12日

演劇を通した日比交流

 毎年7月の恒例行事となった日比友好月間。今年も日本映画祭(7月1日より)や、日本を代表する和太鼓グループである倭の公演(7月8~10日)、そしてJポップ・アニメ・シンギングコンテスト(7月24日)など盛りだくさんだが、日比の共同制作事業として重要なイベントがある。日本人作家による新作戯曲を、日本人演出家とフィリピン人の役者で上演するという演劇プロジェクトだ。今、本番に向けて舞台稽古が行われている。

 脚本は直木賞作家の内田春菊、演出は元劇団燐光群の吉田智久で、作品名は「エバーさんに続け!」。“エバーさん”とは、ラリン・エバー・ガメッドさんがモデルで、日比経済連携協定によって日本に渡り、昨年見事に国家試験に合格したフィリピン人看護師のこと。この作品はエバーさんと同じ試験を目指す3人の看護師と、彼女たちを支える日本人医師らをめぐるコメディーで、日本でのフィリピン人看護師の奮闘を描いたドラマである。今回で6年目を迎える「ヴァージン・ラブフェスト」という比の演劇フェスティバルで上演される。フィリピン人脚本家の集まりであるライターズ・ブロックの主催で、未発表戯曲の初めての舞台化を競うものだ。6月22日から7月4日にかけて、「エバーさん」(初演は6月26日、午後3時と8時)を含めて全17作品が、フィリピン文化センター小劇場で一挙に上演される。

 フィリピンは演劇の盛んな国である。歴史的にも16世紀末から演劇の伝統があり、特にキリスト教の布教を目的とした芝居を通じて普及してきた。大航海時代には貿易の中継地だったことから国際色も豊かで、ある書物によれば、1630年には当時のマニラで日本人のキリスト教殉教者に対する祝福をテーマにした芝居が上演された記録が残っているという。その頃マニラは既にアジアにおける演劇の国際共同制作の拠点だったようだ。今ではプロからアマチュアまで全国津々浦々に様々な劇団があり、地域コミュニティーに密着した活動をしている。ミュージカルに至っては、レア・サロンガというアメリカのブロードウェイで主役をはる世界的スターを輩出したほどレベルが高い。

 演劇を通じた国際交流について、一般的にはせりふが中心の芝居は、音楽やダンスと異なり言葉が障壁となって国際交流が難しい分野である。しかし優れた演劇は同時代に生きる私たちが共感できるものが多く、普遍的なメッセージを備えているので、言葉の壁さえなければ国境を越えて共有可能なものである。国際交流基金としても、歌舞伎など古典芸能の海外での紹介と平行して、現代演劇による国際交流を様々なかたちで推進してきた。

 数は少ないが、海外、特にアジアで積極的に活動を展開してきた日本の劇団も存在する。60年代後半に生まれたアングラ演劇を代表する黒テントは、やはり60年代にタガログ語演劇による民衆の啓蒙を目指して結成されたフィリピン教育演劇協会(通称ペタ)と交流することで、その後の日比演劇交流の土台を作った。30年以上前に黒テントの創立メンバーがマニラで体験した演劇ワークショップの手法は、いまも若いメンバーに引き継がれている。

 さらに次の世代では、83年に旗揚げした劇団燐光群が、アジア諸国の演劇人と交流を続けている。劇作家兼演出家の坂手洋二は、フィリピン人俳優をたびたび日本に招待して起用してきた。天皇制や戦争といった社会的テーマを扱う硬派な劇団だが、アジアの隣人との共同制作は、既に到来している多文化社会に視点を据えた活動であるといえる。そして冒頭で紹介した「エバーさん」の演出を手がける吉田はその燐光群の元演出家で、日比演劇交流の本流から生まれた人材である。

 国際共同制作は、既に完成された作品を単に海外で上演するものとは異なり、制作のプロセスで多くの翻訳や対話を積み重ね、理解と信頼を求めてゆく手間のかかる作業である。異文化を尊重する寛容さが無ければ、その作業はむなしいものとなる。その分野で、実は日本はアジア諸国の中でかなりの実績を積み重ねてきている。日本社会の内向き傾向が強いと言われる昨今だけに、こうした国際共同制作の試みは、日本の外に向けて放たれた窓として、これからもぜひとも支援してゆきたい。



「まにら新聞」6月14日

日本語の窓を通して世界を理解

 現在当文化センターでは、フィリピン教育省からの要請の下、マニラ首都圏にある高校の社会や英語の先生たちを集めて、「日本語教師養成講座」を開講中である。4月12日から5月21日の月曜から金曜の28日間、朝9時半から午後3時までびっちりの集中特訓コースだ。15校、30人の先生が学んでいて、6月から新学期の始まる高校で、この講座で学んだ授業をほぼそっくりそのまま、今度は自分たちの学生を相手に教える計画である。

 ある日の授業では、フィリピン人がよく使う「パセンシャ」という表現について学んだ。元の意味は「我慢」だが、状況に応じて「謝罪」や「感謝」の意味になる。そんなタガログ語の用法について1時間、その間ほとんど日本語は出てこないし、教えない。どんな言語でも使う時の状況が重要だということを気づかせるためだ。次の授業になってようやく日本語の「すみません」を勉強する。「すみません」も状況に応じて謝罪、感謝や呼びかけ表現になる。

 またある日の授業では、誕生日を祝う方法は国や民族によって様々であること、でも祝うという気持ちは共通していることを紹介した。日本語や日本の文化を学ぶと同時に、他の国や自国の文化についても考える。日本語を学ぶことそれ自体が目的ではなく、日本語を一つの窓として、異なる文化を理解する力をつけること。それがこの授業の目指している理想である。異なる文化を受けとめ対応する能力を、専門的には「文化リテラシー」と呼んでいるが、そんなユニークな”語学教育”が注目されている。

 国際交流基金が2006年に行った「海外日本語教育機関調査」では、全世界298万人の日本語学習者の内、約57%が初中等教育段階の子供たちで、世界的傾向として学習者の若年化がかなり進んでいることが判明した。例えば隣国のインドネシアでは、日本語は既に高校の選択科目として導入されており、全国で24万人以上の高校生が学んでいて、その後も増え続けている。
 
 しかし比の高校では実験が始まったばかり。昨年の6月に教育省がガイドラインを発表して、日本語とともにスペイン語、フランス語のパイロット授業が正式に認知され、マニラ首都圏の11校で日本語授業がスタートした。従ってまだ高校には日本語を専門に教える先生はいない。

 また導入といっても選択科目であるため、実際の学習時間は週に2時間程度で、年間60時間が標準である。これだけでは無論流暢な日本語を話せるようになるわけではない。ただその限られた時間の中で、「ことば」の力だけでなく、「文化リテラシー」の発想に立って、これからのグローバル社会で活躍できる人材を育てることは可能であり、それが今求められている。そうした学生の中から、将来的に日本語能力を伸ばす者が出てくることも期待している。

 こうした現状を受けて当センターでは、昨年より日本人専門家2名とフィリピン人講師5名による「教材制作チーム」を結成し、オーストラリアや日本で研修するなどして、新たな教材作りを進めてきた。冒頭の講座はこれまでの活動の成果を試すものだ。参加者の一人、トーレス高校のエドワード・タン教諭は、「子供たちに文化的に寛容であることの大切さを教えることができる。自分なりにアレンジして教えてゆきたい」と抱負を語る。

  新たに完成した独自教材『enTree 1 Halina! Be a NIHONGOJIN!』(通称「enTree」)

 フィリピンはもともと国内に多くの”異文化”を抱えた多民族国家である。民族言語学的に110のグループに分かれており、主要な言語だけでも13ある。375年間にわたる植民地支配によって外来文化が混合し、さらに米国支配の影響で現在も英語が公用語。幸か不幸かその英語力が影響し、世界中に出稼ぎ労働にでかけ、現代の”ディアスポラ(離散)”の民とも呼ばれる。異文化理解は、フィリピン人のアイデンティティそのものに関わる本質的な課題である。その意味で、高校で「文化リテラシー」を養うことは比国の教育界全体にとっても大きな意味があるだろう。日本語がその一つの窓となるように、さらに新たな人材や教材の開発を進めてゆきたい。



「まにら新聞」5月17日