2007/12/25

世代を超えた憂国の思い、若い作家たちへのメッセージ

 演劇、映画や美術などと違って言葉の壁もあり、なかなかリサーチする機会の少ない文学。そんな文学の歴史から現在までを学び、多くの主だった作家と知り合うまたとない機会が訪れた。フィリピン・ペンクラブ50周年記念のシンポジウムが開催され、フィリピンの代表的作家が全国から世代を超えて集まり、歴史的なイベントとなった(12月8~9日、国立博物館)。うちの事務所でも日本から若手女性作家の中上紀氏を招待して、2日間のディスカッションに参加した。

 このペンクラブを創設以来50年間にわたって牽引し続け、今回もオーガナイザーとして貢献したのがフィリピンの国民的小説家シオニール・T・ホセ氏である。

 ナショナル・アーティスト(人間国宝)でもあるホセ氏は、83歳にしてなお現役ばりばりで、つい先頃も新作の長編小説を出版したばかりだ。1880年代のスペイン植民地時代末期から、1972年のマルコスによる戒厳令布告前夜まで、約100年にわたるフィリピン史を背景にした大河小説5部作が有名である。特にその5部作の中で、時代的には4番目にあたる『仮面の群れ』(原題『The Pretenders』、1962年出版、1984年めこん社より翻訳出版)は、第二次大戦後、ルソン島の片田舎からマニラに上京し苦学して上流階級の仲間に加わった主人公が、社会に対する理想と、腐敗にまみれた偽善との間で葛藤し、最後には自らの命を絶つというストーリーで、彼の代表作として28カ国もの外国語に翻訳されている。私も20年前、まだ国際交流基金に入りたての頃に日本語版を手に入れ、ピュアーな“フィリピンの良心”に触れて一気に読んだのを覚えている。思いあまって青山にある翻訳者の山本まつよさんの事務所を訪ね、部屋中に置かれたフィリピンの民芸品や山積みとなったフィリピン関係の本に心躍らせたのを鮮明に記憶している。

 『仮面の群れ』の続編にあたる『民衆』(原題『MASS』、1983年出版、1991年めこん社より翻訳出版)は、『仮面・・』の中で自殺した主人公の私生児を中心にした物語だが、やはり父親と同様に苦学して頭角を現して上流階級からの誘惑を受けるが、父親とは別の道を歩む決心をして、1960年代末に盛り上がった民衆運動にその身を投じてゆくというストーリー。当時の民衆運動とマルコス政権の弾圧事件を題材に生々しく描いた勇気ある小説として有名だ。「訳者あとがき」にある通り、1976年にこの本を書き終えた後、しばらくはマニラで出版することは不可能で、英語で書かれた原作をわざわざオランダ語に訳して出版したのが1982年。19世紀末の体制批判の小説である『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』の初版が、ドイツでスペイン語版として出版されたことを思い出させるエピソードだ。結局ホセ氏が当局に逮捕されるという事態には至らなかったが、終始、監視や盗聴、そしていやがらせを受け続けていたという。インドネシアには、スハルト政権に立ち向って権力を告発する作品を発表し、インドネシアのソルジェニーツィンと言われたプラムディアという作家がいるが、植民地体験を経た東南アジアの国々には、ずしりとした反骨精神に裏打ちされた誇り高い作家たちがいる。

 ホセ氏は小説家であると同時に、フィリピンの文学界にとって無くてはならないプロデューサー的な存在でもある。マニラ中心部のエルミタ地区に、いまもなおラ・ソリダリダッドという有名な本屋を経営している。店の名前は19世紀末にスペインで発行されてフィリピン独立運動のオピニオンペーパーとなった『ラ・ソリダリダッド』という新聞の名前に由来する。この国で最も充実した硬派の本屋だ。さらにその本屋はペンクラブの事務局も兼ねていて、毎月最終土曜日には文学者の集まりや詩のリーディングがあって重要なサロンとなっている。今は休刊中だが『Solidarity』という月刊の文学・評論誌を35年にわたって出版し続け、アジアの代表的作家、インドネシアのモフタル・ルビスやタイのスラック・シバラクサなども紹介してきた。今の中堅作家に彼ほどの奉仕精神と行動力を備えた者はおらず、残念ながらアジアの作家のネットワークは20年前と比べて進歩しているとは言い難い。いわゆる植民地根性に対して辛らつに批判する正統派ナショナリストで、欧米や日本といった海外の資本と結託してフィリピンの富を独占する上流階級についても、“大泥棒”と言ってはばからない。毎年のように日本を訪れる彼は、伝統文化からポピュラーカルチャーまで広く日本通としても有名で、その辛口な批判は常に的を得ている。

 さて今回のシンポジウムのテーマは、「文学、国家、そしてグローバライゼーション」。スペイン、アメリカ、日本と、約400年にわたって外国からの支配を受け入れてきたフィリピンの人々にとって、ナショナリズムや愛国心は心の琴線に触れる重要なテーマである。そもそもフィリピンで最も人気のある国民的ヒーローであるホセ・リサールも作家であり、スペイン植民地体制の時代を批判的に描いた彼の代表作である『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブリテリスモ(反逆者たち)』は、いわばナショナリズムのバイブルである。

 今回のシンポジウムに集った作家たちの中で最高齢はホセ氏の83歳だが、彼以外にも50年前のペンクラブ創設時からのメンバーの何人かが参加した。その世代にとっての外国支配といえば、1942年から1945年の間にこの国を統治し、はかりしれない犠牲をもたらした大日本帝国である。その意味で、創設メンバーの一人であり著名な劇作家でもあるアメリア・ラペーニャ・ボニファシオさんが、「ペンクラブの思い出」と題したスピーチを山下将軍の処刑の話から切り出し、「私は戦争の生き残りとして(作家としての)人生をスタートした」と語ったのは象徴的だった。

 しかし彼ら創設メンバーに続く世代、現在60代から50代の作家たちにとってのナショナリズム、愛国心とは、かたちとしては独立を果たしたものの、実際には旧態依然の植民地的な負の遺産をひきずって苦悩する祖国に対する憂いである。特にマルコス政権時代、1972年の戒厳令前後の言論の冬の時代に活動していた中堅作家たちは、今この国の言論界の中枢を担っているが、その迫害の時代にいかに権力に対峙して抵抗をつらぬいたか、または権力に擦り寄ったかで、いまに至って本当の尊敬をかちえているかどうかがわかるのだ。セブアノ語詩人として著名なミンダナオ生まれのドン・パグサラは、マルコス政権に幽閉された時のことを詩に描き、牢獄からわが子を思う哀歌をせつせつと歌った。また同じくミンダナオ生まれの作家であるホセ・ラカバも、やはりマルコス政権時に捕らえられて拷問を受けた経験を詩にして朗読した。いずれの作家も今は多くの人々から尊敬を集めていて、この国の言論界の抵抗の歴史を象徴する影のヒーローであるとも言える。逆に、マルコス時代にそのスポークスマンを務め、当時若干29歳で情報省長官に抜擢されたある作家も長々と演説をぶっていたが、私の友人は冷ややかに見つめて苦笑いをしていた。ちなみにマルコス政権の戒厳令時代には、こうした文学者の集会には必ず情報省のスパイがウェイターなどに変装して潜り込んでいたという。そして、今の政権だってやりかねないことだと言う。ジョークにしては笑えない、ちょっと不気味な話だった。

 今回のシンポジウムに唯一海外から参加した日本の中上紀さんは、ご存知の方も多いと思うが故中上健次氏の長女で、つい先ごろまで基金の雑誌『をちこち』でエッセイを連載していたこともある新進気鋭の作家だ。アジアをテーマにした小説やエッセイが真骨頂で、北タイを舞台にした叙情的でミステリアスな小説『彼女のプレンカ』(集英社文庫)で、1999年のすばる文学賞を受賞している。今回縁あってマニラに招待することとなり、日本から何冊か取り寄せて読んでみた。作品の舞台となっているタイやインドネシアは私も駐在していたし、紀さんが最も愛しているというミャンマーは、私も仕事で二度ほど訪れたことのある懐かしい場所だ。1999年にはヤンゴンやパウンデーという地方都市で、ペーザーやパラバイと呼ばれる古文書の調査をしたのが昨日のように思い出される。その土地の空気と匂いが伝わってくるような彼女の作品を読んでいると、もう一度自分がその場所にいるような錯覚を覚え、とても楽しい体験だった。

 中上さんとマニラで会ってから聞いた話なのだが、彼女は彼女なりにこの国に来る理由があって、今回の招待についても快く引き受けてくれた。25年前の1982年、まだ彼女が12歳のとき父親に連れられてこのフィリピンを訪れた。彼女にとっては初めての日本以外のアジア体験だった。そして当時中上氏がここを訪れた理由の一つは、フィリピンの友人に会うためであったという。しかしその友人、アントニオ・マリア・ニエバは当時のマルコス政権を批判したために投獄されていて、結局会うことができなかったそうだ。あとで調べてわかったことだが、ニエバはこの国のナショナル・プレス・クラブの創設者で反骨のジャーナリストとして著名だが、既に亡くなっている。その後中上氏も1992年に46歳の若さで亡くなっていて、二人で語り合ったというアジアの作家による雑誌の出版は夢のままで終わってしまった。

 中上健次氏の生れ故郷は、紀伊半島の神宮市。人間の煩悩や罪深さを濃密に描いた『岬』や『枯木灘』は、いまも私たちに強烈な個性で訴えてくる。その小説の舞台となった熊野の南を流れる黒潮は、あの柳田國男が『海上の道』で描いた、南の島へつながる海流だ。フィリピンは、その黒潮の起点である。もしかしたら中上氏は、遠い記憶としての南の島々とのつながりを、その体のどこかに持っていたのかもしれない。それでアジアの作家との交流を夢に描いたのだろうか。そしてその娘の紀さんは今、彼女の言葉で表現すれば、“海の距離感の視点”を持って、そんな父親のやり残したことに挑戦しようとしているようにも見える。そもそも作家になった動機も、父親の死であったという。失ったからこそ必要に迫られた自分のルーツ探し。自身自身のルーツをたどり、父親を追って、このフィリピンを再訪したともいえる。

 今回日本から作家を招待するにあたってホセ氏が望んだことはたった二つ。英語ができることと、若いということ。紀さんは30代の“若手”作家だが、83歳のホセ氏にとっては私すら孫の世代だ。そしてシンポジウムには、彼にとって孫や曾孫の世代にあたる若い作家たちも大勢集まった。40半ばで中国系の英語小説家として第一線で活躍するチャールソン・オンや、30半ばで実力派若手タガログ語作家のニコラス・ピチャイなど、みな次の時代を担う人々だ。会議も終盤に近づいた昼食の席で、ホセ氏がスピーチを行った。

 「・・・熱意にあふれ希望に満ちた若者よ、どうかこの老人が何度も何度も言ってきたことを繰り返させてくれ。半世紀も前、我々はこの国の汚職や下劣な政治に堕落することはなかった。我々は東南アジアの優等生だった。・・・しかしその後一体何が起こったのか?

 我々はみな知っている。植民地主義がいまだ終わっていないことを。それどころかこの国には内なる植民地主義が破滅的にはびこっている。・・植民地主義とは搾取である。見せかけがどうであろうと、キリスト教や民主主義や文明を装っていたとしても、忘れてはならない。植民地主義は悪徳だ。

 いま広がっている世代間のギャップを埋めなくてはならない。旧世代の作家たちは、親切ぶった態度や自らの業績をみせびらかすことなく、若い世代の作家たちに接し、若い作家たちは、先輩を知り鬼才から学び、先人の築いた瓦礫の山を再評価しなくてはならない。そして作家たちによる世代を超えた堅固なコミュニティーを作って、未来をつくる目標を分かち合っていってほしい。・・・」

 「告別の辞」と題したスピーチは、半世紀以上にわたってフィリピンの歴史を、民族の記憶をつむいできたホセ氏の遺言のようにも聞こえた。そんなホセ氏の最後の思いを聞きながら、フィリピン・ペンクラブ50周年という歴史的イベントの幸運な一人の目撃者として、次の世代への橋渡しのために少しでも何かできないだろうかと思いを巡らせていた。
(了)

2007/12/13

ビデオカメラとペンを手にした若きスルタンの末裔

 たまたま目を通した新聞の記事がずっと気になり、切り抜いてファイルにした後もそこに書かれている主人公のことが常に頭のどこかにあって、いつかは会ってみたいと思いつつも時が過ぎ、それが言ってみれば“潜伏期”となり、そして最終的にようやく当の本人との出会いがやってくる・・なんてことがたまにはある。グチェレス・マンガンサカン2世、通称テンとの出会いも、1年前の一つの新聞記事が発端だった。その記事の中で31歳の若きフィルムメーカーとして紹介されているテンは、ミンダナオ島でもイスラム教徒が最も多い地域、マギンダナオの出身でスルタンの末裔である。ミンダナオの人々、特に若手のアーティストや研究者との交流を目指す私としては、機会があればぜひとも彼と仕事がしたいと思っていたが、今回ようやくその好機が訪れた。アジア地域の次世代の若者たちによるセミナーが、国際交流基金の主催で日本で実施されることとなり、フィリピンから2名の代表を送ることとなった。私は迷わず1年前の新聞記事を引っ張り出し、テンを派遣することに決めた。(12月17日に早稲田大学小野記念講堂にて公開シンポジウムが実施される予定)

 彼はマギンダナオの著名なスルタンの家系。いわばフィリピンにおけるモスレムの保守本流、メインストリームにいる一人だ。そんな彼が一体映画で何を撮っているのか、どうして映画なのか、最初は単純な疑問だった。しかし調べていく内に、彼が背負ったものの重さや恐ろしさ、それがためのこれまでの数知れない葛藤、そして決意の真摯さに心を打たれないではいられなかった。この世界を覆う“民族紛争”や“宗教紛争“、その一翼を担うミンダナオの内戦。もし自分がその戦争の指導者の血を引いていたとしたら、この世界は一体どのように見えるだろうか。どう見ることが許されるのだろうか。

 テンの祖父、ダトゥー・ウトック・マタラムは著名なモスレム・リーダーで、1940年代後半と1960年代に、ミンダナオのコタバト州の州知事を務めた。1960年代後半になると、フィリピン全土で共産主義運動や学生運動が盛んになり、その影響を受けてモスレムによる民衆運動も盛り上がった。当然そうした民衆運動の中心にいたダトゥー・マタラムは、1968年に起きたモスレム虐殺事件を契機に、急速にフィリピン政府からのモスレム独立を求めるようになり、その同じ年に「ミンダナオ独立運動(MIM)」を創設した。つまり彼の祖父は、それ以来今日まで40年にわたって続いているミンダナオ・モスレム独立運動の基礎を作った人なのだ。

 新聞で紹介されていた彼のドキュメンタリー映画『House Under the Crescent Moon』(2001年)は、その祖父が建て、テンを含む多くの家族とともに暮らした、故郷の大きな赤い家の物語である。上述したMIMは、まさにこの家で産声をあげた。そしてその8年後の1976年にテンが生れたのもこの家だが、その時代はMIMの運動を受け継いだ「モロ民族解放戦線(MNLF)」と政府軍との戦闘が最も激しかった時代だ。その後ダトゥー・マタラムはテンが6歳のときに亡くなり、テン自身もその家を離れて都会で学校に通うことになった。そしてその赤い家はしばらく彼の記憶から失われた。マニラの大学で映画を学んだ彼は久しぶりに帰郷してその赤い家を訪れたが、そこで彼の見たものは、当時内戦が激化して多くの難民の避難所となり荒廃した家の姿だった。テンは我を忘れたようにその姿を記録し続けた。そうしてできた映画が『House Under the Crescent Moon』だ。このルーツ探しのドキュメンタリー映画は彼の記念すべき処女作となり、フィリピン文化センターからその年の優秀映画賞が与えられた。

 そんな彼の最新作が、ちょうど先ごろマニラで公開された。「コントラ・アゴス(反潮流):レジスタンス・フィルム・フェスティバル」という、かなりきわどい検閲すれすれの作品を集めた映画祭で、会場はいまやインディーズ・シネマのメッカとなったショッピングモールのロビンソン・ギャラリア(2007年12月5~11日)。作品のタイトルが『The Jihadist(聖戦主義者)』。『House・・』では彼の祖父がテーマだったが、今回は彼の叔父ハシム・サラマットが主人公だ。サラマットは、モスレム分離独立運動の中でもより“過激”だと言われている「モロ・イスラム解放戦線(MILF)」の創設者として有名だ。1960年代にカイロのアル・アズハル大学で学んだ知的エリートであったが、当時フィリピン大学で講師をしていた俊才のヌル・ミスアリとともに、1970年、モスレムの独立を目指して「モロ民族解放戦線(MNLF)」を結成した。その後、フィリピン政府との妥協を目指すMNFLとは袂を分かち、1977年にMILFを結成して政府との対決色を鮮明にした。MILFは彼の死後、「アブ・サヤフ」など原理主義的なグループとも接近するようになり現在に至っている。映画ではそんな叔父サラマットの足跡をたどり、彼の築いた村、そして今では内戦の傷跡が深く刻まれた村を訪れ、村人のインタビューを通して、イスラムの指導者としての純真な姿を描いてゆく。

 『House Under the Crescent Moon』と『The Jihadist』は、ともに彼の親族の足跡をたどるルーツ探しの物語だ。祖父も叔父も人々の記憶に残る、そして今後もこの国のモスレムの歴史に名を残す、独立運動のリーダーであり闘士であった。しかしテンが映画の中で描いているものはそうした独立の英雄の物語などではなく、内戦で荒廃した家や土地、そして戦争被害で心に傷を抱えた人々の心に写し出されるある種虚しさのようなものではないかと感じた。

 「コントラ・アゴス」ではテンの作品以外にも、彼がプロデュースして他のフィルムメーカーが撮影した現代のミンダナオをテーマにした短編作品が合計7本も公開された。その中でも『Walai』(アジャニ・アルンパック監督)という作品は、コタバト市の有力なスルタン一家の栄華と抗争、そして没落と苦悩を描いた秀作だ。世間の人々はミンダナオのことを宗教紛争や民族紛争のメッカと言っているが、こうした作品を見ると、実はその抗争の多くが地元の政治的または経済的な利害関係に由来した、極めて具体的な怨恨から生れているということがよくわかる。いずれにしてもテンの存在は、いまや多くのミンダナオの若手アーティストを動かす原動力になっているようだ。

 さらに彼はプロデューサーとして、もう一つ重要な仕事を最近やり遂げた。彼が編集者となって『Children of the Ever-Changing Moon: Essays by Young Moro Writers』(Anvil出版)というアンソロジーを出版したのだ。16人のミンダナオの若手ジャーナリスト、アーティストや教師らによるエッセイだが、これが現代のモスレム社会の様々な揺らぎを率直に表現していて大変興味深い。親の反対を押し切ってキリスト教徒と結婚をする話、イスラム風の名前に対する偏見と恥じらい、同じモスレムでも父方と母方が異なる民族的出自を持っているがために起こるアイデンティティ喪失の問題、イスラム教徒のゲイに向けられた偏見、超保守的な土地で育った女性モスレムの教師への険しい道のり、生れて初めて故郷のモスレムの土地タウィタウィを訪れた夢のようなひと時、マニラのイスラムコミュニティーの生活などなど、どの物語も今を生きる若いモスレムたちの本音がとてもよく伝わってくる。

 その中のエッセイの一つ、モスレムの女性としてはとても珍しいことだが、マニラを拠点とする大手新聞社でジャーナリズムのメインストリームで活躍するサミラ・アリ・グトックの作品から。マニラの大学で教育を終えて、モスレム独立運動に希望を抱いて帰郷した友人が経験した挫折感を次のように書いている。

「私の友人は生れ故郷のラナオの町に、モロ(イスラム教徒)として誇りをもって帰郷した。しかしその後私が彼女に会った時、彼女は大きなフラストレーションに直面していた。モロ民族のために、その闘いのためにと思っていた理想は、そこに住む人々の間に見つけることができなかった。そのかわり、彼らは保守的で、すぐ誰かに頼る弱い人間で、無関心で腐敗していた。」

 テンの祖父たちによって起こされたミンダナオのモスレム独立運動。40年を経た今日、その理想と希望はあまりにも多くの挫折と裏切りと腐敗と怨恨に侵されてしまったのだろう。しかしそんな理想にまとわりつく空虚さを一端受け入れた上で、そこから何かを始めようとしている若い人たちも確かに存在する。このアンソロジーからはそうした人々の息使いが十分に感じられる。そして10年前にはおそらくタブーだったことも、今、ようやくこうして30歳前後の若きモスレムたちによって発言され始めている。

 テンの子供のころの夢は医者になることだった。それが大学時代に出会った小津やフェリーニといった外国映画でその後の人生が変わったという。そして医学をあきらめた彼は映画を勉強してドキュメンタリーを撮り、こうしてミンダナオの若手アーティストのコミュニティーの中で重要な位置をしめるようになった。モスレムの伝統の核心を受け継ぐスルタンの末裔、そしてミンダナオ独立運動の戦闘家の家系。そんな彼には普通の者にはない威厳すら漂っているが、気になるのは話している間もほとんど笑わないことだ。

「人々の心の中にある不条理な怒りや恐れ、そして偏見を癒す苦くて甘い薬、私の映画や書き物がそうなることを願っている。そうなれば、かつて私が子供の頃に医者になりたいと思い描いたように、人々の心を癒すことができるだろう。」

 生まれながらにして数奇な宿命を背負い、暗い民族の記憶からおそらく逃れることのできない彼にとって、カメラとペンは彼なりの最後の抵抗の手段なのかもしれない。
(了)

2007/11/26

美しい多島海の島々と文化交流

 私の事務所は日本人とフィリピン人合わせて総勢10人ちょっとの小さな事務所だけれど、自分の部屋にはフィリピンの全国図が貼ってあり、7,000の島々からなるこの国の地図をいつも眺めながら、「ボロは着てても心は錦・・」などと心の中で歌いながら、なるべく多くの地方都市で日本文化を、そして日本語を紹介したいと日々想像力を働かせている。

 インドネシアにいた時もそうだったが、多くの島に分かれているということは、それだけ文化的な多様性に富んでいて、島ごとに様々な特徴があってそこを訪れるのが楽しみだ。でもとにかく色んな島に“分断”されているので、タイのようにバスでどこでも行けるわけではなく、正直いって仕事という意味ではなかなか大変なところだ。中でも多くの島々が集中するのが中部ビサヤ地方である。ここは島と海、そしてその島々を大小の船で行き交う人々が暮らす地域だ。そしてその島々にも私たち日本人の紡いできた物語がたくさんある。このブログではこれまでに、北ルソンのバギオやミンダナオについて紹介してきたので、今回はこのビザヤ地方について書いておきたいと思う。

 この地方の人々の言語は公用語のタガログ語とは異なる。フィリピンは10の主要言語の他に、100以上もの少数言語がある多言語国家だが、国語として指定されているのはタガログ語のみ。ビサヤ地方ではビサヤ諸語と総称される言葉が話されていて、タガログ語に次いで言語人口の多いセブアノ語を話す人は、実に1,800万人に及ぶという。英語が公用語の国ということが強調されるけれど、もう一つの公用語であるタガログ語のほかに、多くの国民が自分たちの母語(ローカル言語)を持っていて、半数以上の国民がそれら3つの言葉を話す、いや話さなくてはならないということは驚きである。

 そんなビサヤ地方の中心といえば、何といってもセブアノ語の本拠地であるセブ島。州都セブ市の近郊にあるマクタン島には5つ星クラスの豪華ホテルとプライベートビーチが連なり多くの観光客を集める。青い海と白い砂浜、美しい珊瑚礁にダイビング。まさに別世界。フィリピン人の誇る観光資源を代表するリゾート地で、フィリピンといえばあまり良いイメージの浮かばない日本人にとっても、セブは別格。そんな土地柄だけあって、ここには多くの日系企業も進出していて、現在合計で約100社。日本人商工会議所や日本人会(会員数220人、2007年1月現在)、そして日本大使館の駐在員事務所もある。

 さらには、最近徐々に増えてきている「退職者ビザ」での永住者が多いこともここの特徴で、フィリピン全体で約1,500人の退職者ビザ取得者の内、4割がこのセブに住んでいる。ちなみにこの特別ビザは、フィリピン政府の肝入れもあって他の東南アジア諸国と比べてかなり取得しやすくなっており、いまや1万ドルの現金を銀行にデポジットすればほぼ誰でも取得できる。注意深く協力者を見つけて安全な定住場所を選べば、英語が通じて物価の安いこの国では、年金生活でも結構な第二の人生がおくれるのだ。広々としたアパートに暮らし、フレンドリーな人々に囲まれて、時々ゴルフなどを楽しみ、気が向いたら日本へ一時帰国して温泉にでも行く・・まあ無論そんな夢みたな話ばかりではないけれど、それに近い暮らしをしている日本人が結構いるのだ。

 さてそうした日本人コミュニティーの支援を得て、セブでは日本文化を紹介する機会が比較的多くある。私が着任してからも、市内中心部のショッピングモールで日本映画祭を2度ほど開催したり、2006年1月には世界各地で活躍する日本を代表する和太鼓グループ、倭の公演も行うことができた。またここは日系企業、特にIT企業による日本語の企業内研修が盛んで、日本語への期待が大きい。毎年全世界で実施する日本語能力試験では、フィリピン国内3ヶ所が会場となっているが、ここはマニラに次ぐ受験地で(もう1ヶ所はダバオ)、近隣の島からも受験生がやって来る。さらにここの日本人会では、戦後の日比混血児“ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン(JFC)”への支援をいち早く開始し、昨年「新日系人ネットワーク」という組織を立ち上げて全国規模で運動の先頭に立っている。日本との絆が強い場所の一つである。

 前述の通りセブ周辺ではセブアノ語というタガログ語に次ぐ言葉が話されていて、タガログ語が支配的なマニラ首都圏や、それとほぼ同じ意味の“中央”に対する対抗意識が非常に強い。そしてそのセブで、日本人が増える傾向はこれからも続くと思われる。その意味で、ここはマニラとは異なる地方の視点から、新たな日比交流のモデルが生まれてくる可能性のある町として今後も注目をしている。

            セブ公演を行った和太鼓倭

 セブに次いで重要な都市もいくつかある。ビサヤ地方の西部に位置するパナイ島。その中心都市がイロイロで、フィリピンの多くの地方都市がそうであるように、ここもたくさんの大学が集まる学園都市だ。パナイ島はもとより、ビザヤ地方の他の島々やミンダナオ島からも学生がやって来る。そんな多くの若者で活気にあふれた町の中心的な大学である西ビサヤ国立大学で、先ごろ国際交流基金の共催で日本映画祭が開催された(2007年11月23日)。

 イロイロを訪れるのは初めてだが、ここは歴史遺産の町として有名で、今回はそれを観るのも楽しみの一つだった。もともと19世紀後半より砂糖産業が盛んになり、イロイロはその積出港として発展した。町には20世紀初頭以降に建築されたショップハウスや倉庫、そして豪華な邸宅から普通の民家まで、多くの建築物がオリジナルの状態で残されていて、古き良き時代のノスタルジーと、現代の喧騒が混沌となった独特な雰囲気のある町だ。ただし最近はマニラと同じような巨大ショッピングモールがいくつも作られ、どこにでもあるファーストフードのチェーン店が急増し、古きよき面影を伝える建築物はじょじょに肩身が狭くなる一方のようだ。行政による本格的な町並み保存の計画もなく、住民や専門家主体の運動もほとんどない。日本や他の国での町並み保存の運動とその成果について、機会があったらぜひ伝えてみたいと思った。

 そんなイロイロにもかつて多くの日本人が暮らしていた。このブログでも何度も紹介しているバギオの道路建設が1905年に一段落した後、多くの日本人がフィリピン全国に散らばり、この町も定住先の一つとなった。1919年には日本人会、1928年には日本人学校が開設されている。太平洋戦争前夜には600人を超える日本人が生活していたが、ビサヤ地方らしくその三分の一が漁師だったという。当時の面影をしのぶ建物もいくつか残されていて、町の中心部には日本人が経営していた雑貨商店“村上バザール”のあったショップハウスもいまだ健在だ。

        村上バザールの面影を残すショップハウス
 
 そして戦時中は海上交通の要、そして砂糖という戦略物質の調達のため、日本軍の司令部も置かれていた。いまその司令部に使われていた建物は、国立フィリピン大学イロイロ校となっている。戦況が悪化すると、日本軍はこの町を放棄して山中に撤退したため、マニラやフィリピン各地の多くの町のような戦闘による破壊は免れたという。この国はどこへ行っても、日本人とのつながりの痕跡、そして戦争の記憶が残されている。

 日本の敗戦でこの町に住めなくなった日本人の多くは、その後祖国へ帰国したが、少数であるが戦後もここに残って住み続けている日本人の子孫もいる。また、1980年代以降増えた日比国際結婚でやって来た日本人や、その子供たち“ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン”が相当数いる。そして今では大学で日本語を教えている日本人や、ここを定年後の第二の人生の地と選び退職者ビザを取得して定住する人など、様々な日本人が暮らしている。映画祭で訪れたこの町で、こうした日本人の何人かに出会い、またここで暮らした日本人の話を聞くことができた。

 おそらくそうしたことはここイロイロだけに限ったことではないのだろう。マニラにいるだけでは見えて来ないけれども、この国の津々浦々に実に様々な日本人、日系人が暮らしていて、そしてその多くの人たちが、日本とフィリピンの二つの国にまたがる夢と現実のはざまで日々奮闘しているのだと思う。

 パナイ島の特産ピーニャ(パイナップル)の繊維に刺繍する職人

 ビサヤ地方と日本との関係について語る時、やはりもう一つの島、レイテ島のことを忘れることはできない。

 レイテ島の東は太平洋に面していて、西にはセブ島がある。1521年にマゼランが世界一周の途中でフィリピンに侵入した際、まず初めにたどり着いたのがこのレイテ湾だった。青い海と熱帯の土地。いまその澄んだ空気に触れているだけでは、ここが第二次世界大戦の末期、日本軍とアメリカ軍の最大の激戦地となり、8万の日本兵と多くのアメリカ兵やフィリピン人が犠牲者となった悲劇の土地とは想像もつかない。レイテ島での戦闘の様子は、大岡昇平氏の『レイテ戦記』に極めて克明に再現されている。2006年の6月、私はそのレイテ島のパロという町を訪れた。

 パロは、日本軍のフィリピン占領とともに脱出したマッカーサー元帥が、“アイ・シャル・リターン”の言葉のとおり再上陸を果たした歴史上の場所だ。上陸地点となった「レッド・ビーチ」には、上陸した瞬間を再現した銅像が置かれ、今でも毎年10月20日には、アメリカの退役軍人や当時日本軍に激しく抵抗したフィリピン人ゲリラ兵の生存者などが訪れて記念日を祝っている。そんな歴史に包まれて、この町はいわば戦争被害の象徴として、戦後長い間ずっと反日感情が激しかったところだ。

               レッドビーチ

 私がそのパロを訪れたのは、ある人の紹介で町長に会うためだ。テオドロ・セビリア町長はそうした歴史的事実は事実として、若い世代のために過去を乗り越え、日本との交流を進めようとしていた。そのためにパロ町の主催するフィエスタに国際交流基金として参加して欲しいとの要望だった。それに対して私たちは、マニラ在住の日本語教師を中心とした『よさこいソーラン踊り』のグループを派遣することを決めた。踊り仲間の呼びかけに、何人かのボランティアが応じてくれた。その結果、日本人とフィリピン人合わせて総勢10名を越える混成チームがそのフィエスタに参加することができた。

 戦後60年を経てようやく公に“解禁”となった日本文化。この60年間は、戦争の悲劇というものが、町の人々から徐々に忘れられてゆく過程だったともいえる。だとすればこれからは逆に、この文化交流という手段を通して、戦争の記憶を後世に伝えてゆく必要があるのではないだろうかと考えている。

      太平洋戦争末期に米軍の病院となったパロ大聖堂

2007/11/16

「めぐみ」の上映ともう一つの拉致問題

 昨日は横田めぐみさんが拉致されて30年目の日。偶然にも国際交流基金マニラ事務所ではちょうどその日に、めぐみさんを主人公に拉致問題を描いて話題となった「ABDUCTION -The Megumi Yokota Story-」をマニラで上映した。

 会場は国立フィリピン大学フィルムセンター。朝から激しい嵐の日で、午後3時には大学も休講となって客足が心配されたが、567人もの観客が集まった。この種のドキュメンタリーとしては想像もしていなかった数だ。大学での上映に先立って、先週末にもマカティ市のオフィース街にある小さなスペースで2回上映したが、100人のキャパを超えて120人、140人と集まった。観客の中には元最高裁長官や外交官、そして多くの若い人たちもいた。

 今回の上映はマニラに住んでいるある日本人女性の提案が発端なのだが、上映を計画する際に、日本と北朝鮮の複雑な歴史や錯綜する国際関係など、おそらくこの映画を理解するための予備知識のほとんどないフィリピンの人たちが、本当に理解できるのだろうか、そもそも関心があるのだろうかと、疑心暗鬼ではあった。しかし蓋を開けてみたらそんな心配をよそに、予想以上の観客が集まって、横田さん夫妻の喜怒哀楽に一喜一憂し、上映後には拍手が巻き起こった。

 どうしてこの国でこの映画がこれほどの感動を呼ぶのか、その理由は何なのか・・私は何度もこの映画を観ながら、そして感想を聞いているうちにあることに気が付いた。

 この映画のメインテーマは家族愛だ。そして聖書を頼りに我が子の無事を神に祈る横田さきえさんの姿は、ごくごく自然にフィリピン人の心の琴線に触れていた。

 しかしおそらくもっと生々しくも重要なことは、この国の抱えるもう一つの拉致問題の存在だろう。政情不安のこの国では、2001年5月のアロヨ大統領就任以降、「政治的殺害(Political Killing)」という事件が頻発するようになった。フィリピンの人権団体の調査報告によると、2001年から2006年6月末までの犠牲者は700人を超えているという。左派政治活動家や住民運動のリーダー、さらにはジャーナリストや教会関係者に対する暗殺、強制失踪、脅迫、いやがらせといった人権侵害が多発しているのだ。そして、昨日の上映会場となったフィリピン大学でも、昨年二人の女子学生が拉致されて現在も失踪中である。

 30年にわたって闘い続け、そして今なお娘の帰りを待ちわびる横田夫妻の姿と、自分たちの国で、しかもごくごく身近なところで実際に起きているもう一つの拉致事件を重ねあわせ、複雑な思いでこの映画を観ていたに違いない。

 30年が経ってしまった。ただただめぐみさんの無事を祈るだけだ。そして自分には何にもできないけれど、女子学生の拉致事件をはじめ、多くの人々を苦しめている政治的理由による様々な不条理が、いずれこの国からなくなることを願っている。

 そして、まだこの映画をご覧になっていない方は、ぜひどこかでご覧ください。
(了)
 

2007/10/30

「SHIT(くそっ)!」な世界で糞を描き続けるアーティスト

 海外でこの仕事をしていると、時々日本で行われる展覧会に出品する作家選びに協力することがある。特に自分の推薦する作家が選ばれた時などは、我がことのようにうれしい。先日、東京国立近代美術館キュレーターの保坂健二朗氏から、来年8月に開催される予定の展覧会に、フィリピンから2名の作家が選ばれたとの連絡があった。ホセ・レガスピとマニュエル・オカンポ。オカンポは私も一推しの作家だ。展覧会のタイトルは「エモーショナル・ドローウィング」(仮称)。アジアを中心に十数名の作家が参加して、ドローイングという素朴だが生々しい表現を通して、作家の内面や描くことの本質に迫ろうという意欲的な企画である(同美術館、国際交流基金などの共催)。

 オカンポは1965年生まれの42歳で、私と同世代のアーティストだ。21歳の時にカリフォルニアに移住し、その数年後には既にロサンゼルスの美術界で活躍し始め、1992年には世界的にも名の通った国際展であるドイツの「ドクメンタ」の出品作家に選ばれた。アメリカやヨーロッパで早くから認められたが、フィリピンで初めて個展をしたのが一昨年(2005年)で、そのとき既に40歳。まずは海外で認められ、その後故郷に“錦を飾る”、いわゆる“逆輸入型”アーティストだ。そのオカンポが自分の絵のモチーフとして執拗に描いているのが、なんと糞、つまり大便である。その他にも便器や骸骨、グロテスクなアニメキャラクターに混じって、キリスト教を象徴する十字架なども多く描かれている。保守的なカソリックの強いこの国では十分スキャンダラスな内容だ。2005年の展覧会のステイトメントで彼は自らのアートをこう表現する。

「たいがい、私のアートは、大食いして酒に浸り、トイレに行ったり来たりの夜が明けて、冷蔵庫の中に残されたものから作る副産物のようなものだ。」

 美しい絵画を徹底的に排除し、よりによって糞をモチーフに挑戦的な激しいドローウィングを描き続ける。それでいて、というかそれだからこそ、その醜さの裏にあるものに強烈に惹き付けられて、なんともその絵に見入ってしまうのだ。一皮剥いたらそこにある、目をそむけたくなるような現実。それに気づいていながらも、あたかも何事もないようにしてやり過ごさなくてはならない日常。彼の絵に引き寄せられるのは、おそらく私の心の中にあるそうした空隙に響くものがあるからだと思う。

 私はどちらかというと過激なアートが好きだ。特に東南アジアの国々にいる時は、いつも過激なアートに注目している。ラディカルならばそれで良いというわけではもちろんないけれど、日本で見られる作品に比べて素朴といえば素朴なのだが、その直載さに魅力を感じるのは一体何故だろう。

 福岡市美術館(1999年より福岡アジア美術館)で1979年にアジア美術展をたちあげ、30年近くにわたって東南アジア美術の研究をしてきた後小路雅弘氏は、その本質を「自分探し」と指摘する。

「東南アジアのモダンアートの基本的な課題は、「自分探し」であったし、おそらくいまもそうである。「わたしたちが本来あるべき姿から隔たってしまっている」という自覚へと向かい、さらにそこから失われた自己の回復へと向かう道程の中に、東南アジアのモダンアートの基本的な姿を見出すことができる。」(「アジアの美術」、美術出版社刊より)

 私もそう思う。これまでに駐在したタイやインドネシアでも多くの優れたアーティストと出会ったが、中でも特に強く惹かれたのが、今から思えば強烈な自画像を描く作家、タイであればチャーチャイ・プイピア(1964年生まれ)であり、インドネシアではアグス・スワゲ(1959年生まれ)であったのはおそらく偶然ではないだろう。単純だけれど究極の「自分探し」。同世代のアーティストたちが描く自画像の発見は、私自身の東南アジア発見でもあったのだと思う。

  チャーチャイ・プイピア「シャムの微笑:シャムの知性」(1995年)

 そしてフィリピンでは、スペイン、アメリカ、日本と400年にわたった植民地支配の結果、自分たちのもともとの文化を失ってしまったという喪失感は、人々の心の中、そして社会の隅々を覆っている。自分たちの国の、あるいは民族のアイデンティティの問題は、ジャンルを問わず、この国のアーティストの多くが共有している最も根源的な問題の一つだと思う。

 けれども歴史的な意味あいとは別に、私なりに「自分探し」の理由をもう一つ付け加えるならば、ときに目を覆いたくなるような醜悪な現実に対して、「わたしたちが本来あるべき姿」を求めて敢えて目を覆わず、そして発言してゆくという意味の「自分探し」が、そこにはあるのだと思う。深刻な貧富の格差や政治腐敗、終わりの見えない民族紛争や宗教紛争、そして頻発するテロがこの国の現実であり、国家や社会がクライシスの状況にあるとしたら、アーティストと名乗る以上、たとえ「わたしたちが本来あるべき姿」を実現することは困難だとしても、その現実に対して何らかの表現をすることはむしろごくあたりまえの行為なのかもしれない。醜い自己を徹底的に露悪的に表現することで、彼なりの「自分探し」を続けるオカンポが、フィリピンに“逆輸入”されて多くの人たちから評価されるのは、いまのこの国の状況をよく映し出しているともいえる。

 デジタルシネマのことを紹介したときに、フィリピンの映画では社会派“オルターナティブ”が実はもうひとつのメインストリームだったと書いたが、美術の世界でも、コマーシャルアートとは一線を隔した社会派アートは、この国の美術史のメインストリームのひとつだ。フィリピン大学の美術史家であるアリス・ギレルモの書いた「Protest/Revolutionary Art in the Philippines 1970-1990」(フィリピン大学出版、2001年)は、マルコス政権が独裁色を強めて戒厳令を敷いた時代(1972年)から、平和的な黄色い革命に続いた時代(1986年)を中心に、熱い政治の季節と並走した社会派アートをめぐる物語の集大成だ。フィリピン社会派アートの系譜については、またいずれまとめて書きたいと思う。

 オカンポなどいわゆる商業主義から逸脱した作家たちにとって、アートで生活してゆくということは大変困難なことだと普通は思うけれど、今のフィリピンのアート・マーケットは非常に活況を呈していて、きわどいコンテンポラリーな作品を巡る環境も、実はそんなに悪くはないといえる。マニラ首都圏のギャラリーで個展を行い、そこに集まった身内や業界人から評判が広がれば、コレクターや投資家が作品を買ってくれるかもしれないし、運がいいアーティストは、メジャーなコンペティションで入賞でもすればさらに作品の価格が上がることは間違いなし。こうしたルートに乗ってしまえば、1年もすれば立派な売れっ子作家となる。どんな反骨のアーティストだって、多かれ少なかれ今のアートブームの恩恵を受けているのは間違いのないところだ。私が最近注目しているもう一人の若手作家にロバート・ランゲンゲールという作家がいる。昨年画家デビューをしてこれまでに3回の個展を開いた。彼こそが、チャーチャイやアグスの系譜に連なる露悪的自画像の作家だと思っているのだが、彼のグロテスクな自画像やかなりスキャンダラスな絵が、飛ぶように売れてしまうのが今のマニラだ。本人ですら、どうしてそんな絵が売れるのか不思議に思っている。

            ロバート・ランゲンゲール   

 フィリピンの経済はここ数年ずっと7~8%の成長を続けている。一方である民間NGOの調査によれば、貧困層はより拡大しているという。3ヶ月の間に1日でも食べ物に困り飢餓感を感じた世帯は、全世帯の19%(2007年2月)で、1年前の調査時からさらに2%増加した。海外からの投資が増え輸出額も伸び、株価や不動産価格、そしてペソの価値も上昇の一途である。金持ちの資産がふくらみ続けるミニバブル状況の中で、貧富の格差はさらに拡大し、開発の恩恵はあいかわらず勝ち組のみに与えられている。

 そんな不均衡な世の中をまさに象徴するような、ハイソサエティーのためだけの街の開発が、今マニラの中心部で急ピッチに進められている。名づけて「グローバルシティ」。グローバライゼーションの恩恵を受けた人々の街には象徴的なネーミングだ。10数年前までは米軍基地だったが、フィリピン最大の財閥であるアヤラ財閥が払い下げを受け、野原を一から開発し、超高級マンションにショッピングモール、学校や病院のある金持ち村を建設中だ。ピカピカのブティックや人気カフェが立ち並び、ファッショナブルな人たちで賑わっている。日本の新宿で人気のクリスピー・クリーム・ドーナッツもあり、明るくお洒落な店舗では待ち時間無しでおいしいドーナッツが手に入る。美しい芝生の中庭にはパブリックアートの彫刻がふんだんに置かれている。そして、この界隈だけでも新たに商業ギャラリーやコンテンポラリーアートを扱うスペースが一挙に10店舗近くオープンした。

             グローバルシティ

 まあこうした状況そのものは、アートにとって悪い話ではない。けれどもこの国の別の現実を見るにつけ、そう楽観的に喜べないのが複雑なところだ。そんなきらびやかな街が生まれている一方で、どうしても思い出さずにはいられない最底辺の生活もある。先日マニラ首都圏最大のゴミの集積地(スモーキーマウンテン)であるパヤタスに行ったが、そこはまさにオカンポの絵のような醜悪な場所だった。スカベンジャーと言われるゴミ拾いのために集まった人々が不法占拠して作り出した“街”で、ゴミ山の麓に作られたバラックの家々とドブ川、そして異様な異臭に包まれたところだ。グローバルシティとパヤタスでは、まさに天国と地獄・・。後者の世界の住人にとって、この世の中は「SHIT(くそっ)!」でしかないだろう。

               パヤタス

 “勝者”と“敗者”がはっきりと別れているこの国では、より大きな権力は確実に“勝者”の手中にある。そんな巨大な力に対して、アートは一体何ができるのだろうか?たとえ先が見えない闘いであっても、執拗に糞を描き続ける、そんなアーティストがいることに、なんともやるせない現実の中でも多少の希望は見えてくるのだ。

(了)

2007/09/10

次の世代へバトンをつなぐ喜び

 今回のブログはいつもと趣向を変えてとても個人的な話を書きたいと思います。

 国際文化交流という裏方の仕事をしていて最も充実していると感じるのは、おそらく、学者やアーティストなど、社会をかたち作り、支えている人々、または学生のようにそのようなことを将来にわたって期待される人々、いわばそうした主役となる人たちが、生涯にわたって影響を受けるような経験(ライフタイム・エクスペリエンス)をする後押しをしている、と実感するときだと思う。


 先日、ミンダナオ島北部の中核都市、カガヤン・デ・オロ市にあるキャピトル大学を訪問した。基金の草の根交流助成というプログラムで同大学の学生7人による訪日研修が実現するはこびとなり、その学生との顔合わせに招待された。

 実はこの町を初めて訪れたのは1979年、今から28年前、まだ私が16歳、高校1年生の時だった。当時ブームだった“南北問題”に関するある大学の懸賞論文に入選し、同級生2人とともにフィリピンにやってきた。このカガヤンに来たのは、私の高校がイエズス会系の高校であり、同じカソリックで姉妹校であるアテネオ・デ・カガヤン高校が受け入れてくれたからだ。短い滞在だったが、同じ年頃の友達もたくさんできて、高校の授業にも飛び入り参加した。田舎者の私は皮肉にも、タワーレコードやシェーキーズというアメリカ文化に初めて接したのもこの町だった。タワーレコードで買ったイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーのLP、ビニールに包まれた輸入版のあの独特な匂いは、今でも昨日のことのように覚えている。

 けれどもたくさんの濃密な経験の中で、その後のぼくの人生の中で終生忘れえぬものとなったのは、お世話になったフィリピン人家庭の温かさであり、家族で行った教会で見たフィリピン人の敬虔さ、その神秘的ともいえる姿であり、日が沈む頃になると家の前の道路のここかしこに集まっては談笑し、ギターを弾き語る、なんともいえないロマンティックな光景だった。当時から貧富の格差が激しかったフィリピンだから、若い自分には相当ショッキングな貧困の現実というものを目の当たりにしたのだけれど、私の頭の中の最終的な残像は、ほとんど幸福にまつわるものばかりだった。厳しい現実と隣り合わせのなんとも奇妙な幸福感。これが大雑把にいって、私がこの国に抱いた印象だった。1週間足らずの滞在なのに、カガヤンを発つ飛行機の中では何故か涙が止まらなかった。あまりの感情の揺らぎに自分自身も驚き、心の中で「必ず戻ってくるから」と、言い聞かせた。

 それから2、3年、そこで知り合った友人たちと文通を繰り返した。やがて音信不通になり私は大学に進んだが、このカガヤンでの体験は常に心のどこかにあったのだと思う。厳しい現実と隣り合わせのなんとも奇妙な幸福感。私たち日本の日常とは全く異なる世界、価値、そして匂いがあった。大学に入ってからもバックパッカーとなって随分いろんな国に行ったけれど、今から思えば、どの街へ行ってもあの「奇妙な幸福感」の追体験を求めて、そのなぞかけに対する答えを探していたのかもしれない。その意味で、カガヤンが全ての出発点、ぼくにとっての“異界”への入口だったのだ。

 その後カガヤンを取り巻く環境は大きく変わった。第一、ミンダナオはモスレムによる分離独立運動が激しくなった。私がフィリピンから帰国して数ヵ月後、ダバオという町で初めて爆弾テロによる犠牲者が出た。いまでは日本人の多くは、ミンダナオ島と聞けばイスラム原理主義やテロリストをイメージするだろう。私も基金に入って何度かフィリピンを訪れる機会はあったが、カガヤンに来ることはなかった。そして、2年ほど前に基金のマニラ事務所を預かることになった。

 フィリピンに赴任したら私にはぜひやってみたいことがあった。それはミンダナオの人々との交流だ。日本から見ればテロリストの巣窟かもしれないミンダナオ。でも当然だけれどそこに住む大多数の人々は、あのカガヤンで出会った友人たちのように、平和を愛するロマンティストであるに違いない。待っていては事は始まらないので自分からどんどんでかけることにした。そしてダバオから平和運動の活動家(神父)を日本に招待したり、マラウィからはモスレム女性リーダーのグループを広島と長崎の原爆の日にあわせて派遣した。幸運にもスールー諸島のスルタンの家系につながる舞踊家と出会い、同地に伝わる伝統舞踊をめぐる国際シンポジウムを実施したりした。でもやはり当然のことながら、最も気になっていたのはカガヤン・デ・オロのことだ。

 今回訪日するキャピトル大学の7人の学生は、看護学科、国際学科、商業学科の18歳から20歳までの学生(フィリピンの学制は小学校6年、高校4年、大学4年)。その内の一人はモスレム自治区からやって来たイスラム教徒の女子学生だ。日本では1週間ちょっとの短い間に、創価大学の特別講義に出席するほかに、彼ら彼女たちによるフィリピン文化紹介や平和問題に関する日本人学生向けのレクチャーもあるという充実ぶりだ。


 28年前にこの町を訪れることがなかったら、今の僕はここにいただろうか。16歳の時にこの町からもらった大事なもの。ようやくそのいく分かをお返しすることができる。ライフタイム・エクスペリエンスを目前にして、期待に胸をふくらませて満面の笑顔をたたえる彼らを前にして、あの時僕が受け取ったバトンを、今こうやって次の世代の若者に確かに渡すことができたと、そう確信してとても嬉しくなった。

2007/09/03

Dシネ・ブームの先に見えるもの-フィリピン映画の過去・現在・未来-

 前回報告した「シネマラヤ」の興奮まだ冷めやらぬマニラで、今度は、「シネマニラ国際フィルムフェスティバル」が開催された。既に9回の歴史を重ねて年中行事といってもいい映画祭だが、国内Dシネの祭典シネマラヤと異なり、こちらは世界各国から名作を集めて充実のラインナップ。日本でいまや大人気、タイのペンエーク・ラタナルアン監督の新作「プローイ」を筆頭にASEAN映画特集や、2005年ベルリンで金の熊賞を受賞した南アフリカのカルメン歌劇「ユー・カルメン・イン・カエリージャ」などのアフリカ映画特集、カンヌ、ベルリン、ベネチアといった著名な国際映画祭での受賞作や招待作品を中心に、32カ国から133作品が上映された。日本からは「武士の領分」、「フラガール」とアニメの「時をかける少女」の3本が参加している(8月8日~28日、アラネタ・センター)。

 ちなみにフィリピンにおけるメジャーな映画祭といえば、「シネマラヤ」に「シネマニラ」、そしてあと一つ「メトロマニラ・フィルムフェスティバル」というのがある。歴史的にはこれが最古の映画祭で、1975年から数えて昨年の開催で32回目になる。こちらは純国産の商業映画が中心で、毎年クリスマスシーズンに開催。昨年はコメディー映画「Enteng Kabisote 3」(作品賞)を筆頭に9本のエンターテイメント作品がエントリーし、興行成績もまずまずだったようだ。

 さてシネマニラだが、今年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した「4ヶ月、3週間と2日」(クリスチャン・ムンギウ監督)は衝撃的だった。チャウシェスク共産党政権末期のルーマニアの小さな大学の街が舞台で、女子学生による非合法の堕胎と、それを助けるルームメイトの恐怖をリアルに描いた作品だ。ルーマニア映画がパルム・ドールを受賞したのは史上初。WEB情報では年間10~15本の映画しか製作されておらず、ムンギウ監督は国内唯一の映画学校で学び、低予算でこの映画を製作したという。そんな成功物語を目の前にして、フィリピンの若いフィルムメーカーたちは何を思っただろうか。年間50本の35ミリ映画を世に送り出し、映画を学べる学校もいくつかあり、ましては昨今のDシネの盛り上がりだ。きっとフィリピンの映画人にもチャンスはある。シネマラヤに集った若者たちの中から明日のヒーローが生まれても不思議ではない。

 シネマラヤ以来、映画にどっぷりという感じだが、派手な映画祭以外にも、地味ながらきらりと光る面白いイベントもある。この国のインデペンデント系のフィルムメーカーを取り巻く環境を知る上でも興味深いイベントを二つ紹介しておく。

 一つは、環境をテーマにしたローカルのドキュメンタリー映画祭である「ムーンライズ・フィルムフェスティバル」(8月15日~21日、ロビンソン・ギャレリア、Center for Environmental Awareness and Education主催)。コンぺティションの出品作はいずれも短編で合計9本。中部ビサヤ地方の小島で起きているダイナマイト漁による漁場の破壊を描いた「カウビアン」(ウリセス・シソン監督)、昨年ギマラン島沖で起こった石油タンカーの重油流出事件による海洋汚染を描いた「ショコイ」(レイ・ジブラルタル監督)、ルソン島コルディエラ山地の森林破壊をテーマにした「猿はどこへ行った?」(マベル・バトン監督)などを観た。

 環境破壊について日本では断然中国が注目されているが、ここフィリピンもかなりひどい状況だ。明確に人為的な環境破壊以外にも、天災や、過度の森林伐採が遠因である地すべりや鉄砲水など、天災を装った人災の被害と後遺症は想像を超えるものがある。その意味でこうしたドキュメンタリーの対象となる素材はごろごろあるというのが誇れない現実だ。

 コンペ作品の中で「猿・・」を制作したのはコルディエラ・グリーン・ネットワークといって、バギオを拠点に活動している環境NGOである。代表を務めているのは反町真理子さんという日本人で、植林運動や環境教育のほか、山岳地帯の貧しい村の子供たちに奨学金を出したりして活躍している。今回の「猿・・」プロジェクトでは、インドネシアから陶芸作家や日本人アーティスト廣田緑さんを招聘して共同制作を行った。

         「猿はどこへ行った?」のポストカード

 インドネシアはあの2年前の悪夢のような津波以外にも、自然災害や環境破壊について深刻な問題だらけだ。それに加えて長年続いた内戦による荒廃。色々な意味でここフィリピンと似たような状況にある。こうした災害や戦乱で心の傷を負った人たちにとって、文化やアートはどういう意味を持ちえるのか、持ちえないのか?これは私たち国際文化交流を仕事としている者にとっても大切な問いかけだと思う。今年になって東京とジャカルタの基金スタッフが試みたインドネシアのアチェでのワークショップ、内戦による悲惨な過去がトラウマとなっている子どもたちが参加した演劇ワークショップは、そうした問いかけに対する一つの試みとして貴重な体験だったと思う(http://www.jfsc.jp/webmember/topics_cont/fr-0708-0004)。

 今回バギオにやってきた廣田さんも、アートを通して社会との接点を求めて活動している女性作家だ。彼女の拠点はジョグジャカルタという古い都だが、一昨年の大地震では多くの犠牲者が出た。多くのアーティストが被災したこともあって彼女は被災地の支援に乗り出した。日本の友人たちからのサポートを受け「救援パック」と名づけて物資を届けるプロジェクトを続けていたが、支援の輪が広がって、最終的には子どもたちのために3つの幼稚園を建設した。その様子は彼女のブログに詳しい(http://midoriart.exblog.jp/m2006-09-01/)。そんなインドネシアの社会派アーティストとフィリピンのアーティストとの出会いに期待して、マニラ事務所では「猿・・」をさかのぼること1年前にこの廣田さんの展覧会をマニラで実施して、バギオのアーティストとも交流した。そして今回の企画につながった。

 話しがそれてしまったが、この「ムーンライズ・フィルムフェスティバル」もシネマラヤと同様に今年で三年目。やはり昨今のDシネブームと無縁ではないだろう。さらにはこの映画祭の会場となっているショッピングモール(ロビンソン・ギャレリア)のシネコンプレックスでは、今年からインディーズ系のDシネが常時観られる上映館が提供されていて、インデペンデント・フィルムメーカー協会という新しいNGOが企画を任されている。とはいってもシネマラヤで見た一部の人々の盛り上がりとは裏腹に、なかなか一般の観客は集まってこない。何度か足を運んだが、300人くらい入る映画館の中にお客さんはいつも10人、20人ほど。まだまだ本格的なDシネ時代の到来には時間がかかるだろう。それでも商売ぬきで映画館を貸しているこのショッピングモールも、なかなか懐が深いと思う。こうした新たな動きがいつか実ることを期待している。

 もう一つ紹介したいイベントは、フィリピン大学フィルム・インスティテュートで実施中の「フライデー・フィルム・バー」という企画(8月10日~10月5日の毎週金曜日)。フィリピン映画の名作上映とバンドの生演奏だ。オープニング映画は、この国の人間国宝ともいえる「ナショナル・アーティスト」に、映画監督として初めて指定(1976年)されたランベルト・アヴェリャーナ(1915年~1991年)の代表作「バジャウ」(1957年)。バジャウ族はインドネシアの島々からフィリピンに広がる海洋民で、古くから「家船」を居住空間にする“漂海民”で知られている。映画はスールー諸島のホロ島を舞台に、バジャウ族の若きリーダーと、その宿敵タウスグ族の娘とのラブストーリーを、両部族の抗争を織り交ぜて描いた作品。最後は部族間の争いを乗り越えて、若きリーダーがバジャウの後継者に選ばれる。いまではバジャウ族といえば未開や無知、貧困という偏見に満ちているなかで、50年前にそのバジャウのヒーローを描いて、立派に娯楽映画を作っていたのだから、当時のフィリピン映画界の豊かさが想像される。

 この企画の会場となっているフィリピン大学フィルム・インスティテュートは、この国の映画関係者のメッカである。1976年にフィルムセンターとして出発して以来これまでに多くの映画人が集い、一昨年にはマスコミ学部映画視聴覚学科と合併して名実ともに映画人育成の拠点となっている。日本でいう東大のような最高学府にしっかりとした映画専攻課程と研究機関があるのだ。その点では日本よりよほど恵まれているといってよい。よってこの国の映画人には、結構知的エリートが多い。そして800席のシネマ(シネ・アダルナ)とギャラリーがあり、基金主催の人気イベント、日本映画祭の実施会場でもある。ここフィリピンでは映画の上映に際して映画テレビ検閲委員会(Movie-Television Review and Classification Board)の検閲が義務付けられているが、このフィリピン大学のみ例外。ここは検閲なしでいかなる映画の上映も可能という治外法権が与えられているのだ。ちなみにこのフィリピン大学以外にも、主なところでデ・ラサール大学やサント・トマス大学といった名門私立大学のマスコミ学科で映画を学ぶことができる。サント・トマス大学は1611年に設立されたアジア最古の大学である。また映画関係者の福利厚生団体であるモウェル・ファンド・フィルム・インスティテュートというNGOでは、研究、アーカイブ事業(映画博物館もある)以外に、定期的にワークショップを実施していて、ここからも多くの映画人が輩出されている。このブログでもたびたび紹介している日系フィリピン人の売れっ子脚本家である山本みちこさんは、サント・トマス大学の卒業でモウェル・ファンドが実施した脚本ワークショップの修了生だ。多くの映画人の卵は大学を卒業した後、テレビドラマやニュース、CMやミュージックビデオなどの仕事をしながら、それぞれに映画の夢を追い続けている。


 CCPが編集した「Encyclopedia Philippine Art Volume Ⅷ Philippine Film」(1994年出版)の中で、「オルタナティブ・シネマ」に1章が与えられている。そこではフィリピン映画の誕生(マニラで最初の映画館は1897年にオープン)とともにドキュメンタリーや短編映画など商業映画とは異なる「オルタナティブ・シネマ」が生まれたとあるが、特に現在のフィルムメーカーに影響を与えているのは、1950年代半ば以降の動きだろう。マニラで初の国際映画祭が開催されたのが1956年。上述したランベルト・アヴェリャーナらがドキュメンタリーの分野でも活躍し、1960年代になると数々の海外映画祭に出品されるようになった。

 1970年代にフィリピン映画は黄金期を迎え、歴史に残る多くの秀作が生み出された。戒厳令下(1972年~1981年)のマルコス政権の全盛期とも重なるのだが、不思議なことに、この過酷な時代に敢えて挑戦するように、社会的テーマを取り上げた硬派作品や芸術性の高い作品が数多く作られたのだ。なかでもリノ・ブロッカ(1939年~1991年)は、20年間に67本もの作品を生み出して、その後の映画人たちに大きな影響を与えた。地方からマニラにやってきた青年が貧困の中で男娼となり破局を迎える「マニラ・光る爪」(1975年)や、母親の内縁の夫にレイプされるが最後は彼を殺して復讐をとげるスラムの娘を描いた「インシャン」(1976年、カンヌ監督週間にて上映)など。いずれも社会の底辺を題材に、胸に突き刺さるようなリアリズムで醜悪の中にペーソスやリリシズムを描き、一度観たら忘れられない作品である。いまでも彼は若い映画人たちにとってのヒーローであり、その作品は繰り返し上映されて大きな影響を与え続け、そうしてこの国の社会派映画人の命脈が続いているのだ。

 そして1980年代前半はインデペンデント映画が盛り上がり、このブログでも紹介したことのあるキドラット・タヒミックや、彼より一世代若いレイモンド・レッドらが活躍した。タヒミックを一躍世界的な映画監督にした代表作「悪夢の香り」(1977年、ベルリン国際映画祭批評家賞を受賞)は、実験的な自伝的ファンタジー・コメディー作品だが、これもリノ・ブロッカの名作同様に繰り返し上映され続けている。今回の「フライデー・フィルム・バー」でも、「マニラ・光る爪」とともに上映される予定だ。そして当の本人は、その特異な生き様そのものもあいまって、既にオルタナティブ映画のクレージーな“伝説的”イコンとして、多くのアーティストから尊敬されている。なおこれらブロッカ、タヒミック、レッドなどの作品は、先日国際交流基金を退職した石坂健治氏によって20年ほど前から日本で紹介されてきた。彼の精力的な仕事によって私たち日本人は、多くのフィリピンの秀作映画を観ることができたのだ。同氏は現在東京国際映画祭‘アジアの風’部門のディレクターを務めているが、このブログの場を借りて、彼のこれまでの仕事に敬意を表したいと思います。そしてもちろん東京国際での今後のご活躍を楽しみにしています。

     フィリピン映画祭(1991年国際交流基金主催)

 その石坂氏などが中心となって日本で実施されてきたフィリピン映画の特集上映は、1980年代前半の作品群の紹介を最後に、なかなか後が続かない状況となっている。もちろん単発で生まれる秀作はあっても、新しい波といったものが訪れないまま、基本的にはぱっとしない、インデペンデントな映画人にとってみればなかば絶望的な20年の時が経過してしまった。

 そしてようやく今、Dシネブームとともにフィリピンの映画界に再び大きな波が訪れようとしている。その新たな波を生み出している若いフィルムメーカーたちには、アヴェリャーナやブロッカが残した豊かな社会派の伝統や、タヒミックやレッドが示した実験的才能に富んだインデペンデントの血統が受け継がれているに違いない。今年のシネマラヤで作品賞を受賞したスラムのギャングを描いた「TRIBU」などは、明らかに”ブロッカの子どもたち”の作品の一つであろう。

 同じくシネマラヤで上映された作品の中で、今回ただ一つ、ミンダナオのイスラム社会を描いた作品があった。「ガボン(雲)」という作品で、伝統的イスラムが支配するマラウィという町を舞台に、彼らの古い言い伝えにある“子どもの幽霊”が小学校にやってくる話である。監督のエマニュエル・デラ・クルーズは、この作品で短編部門の監督賞を受賞したが、彼の次の目標は、ミンダナオの若者たちに映画を教えることだという。映画というものが私たちに最も身近なメディアの一つであり、私たちの姿を生々しく映し出す鏡でもあるとすれば、いまフィリピンの映画は、再びその本来の役割を取り戻そうとしているようにも思える。50年前にモスレムのヒーローを生き生きと描いたように、貧困、偏見、そして内戦で疲弊した現代のミンダナオの日常を、ミンダナオの若き映画人が描く時がやがてやって来るのだろうか。いまはこの新しい波の向こうにあるものを想像しては、少し希望で胸をふくらませている。

(了)

2007/08/08

豊かな物語の宝庫、フィリピンDシネマの現在

 フィリピンのデジタルシネマ(Dシネ)が異様に盛り上がっている。わざわざ“異様に”と書くほど、それは本当に驚異的な事態だと思う。今年で3回目を迎える「シネマラヤ/フィリピン・インデペンデント・フィルム・フェスティバル」(7月20~29日、フィリピン文化センター)が開催され、120本のDシネが一挙上映された。それもほとんどこの2~3年の間に製作されたもので、とにかく内容が濃い。あふれるほどの世界中の映画を毎日多くの上映館で観ることができる日本の私たちが、しかもフィリピン映画なんてほとんどその視野に入っていない私たちがこの状況に遭遇したら、きっと誰でも驚かずにはいられないと思う。

 そして基金マニラ事務所では、3年目にして初めてこのフェスティバルに参加した。同時開催されたシンポジウムに協賛するとともに、日本で最大級のDシネの祭典であるSKIPシティ国際Dシネマ・フェスティバル(http://www.skipcity-dcf.jp/index.html)よりプログラム・ディレクターの木村美砂さんを招待した。同フェスティバルも創設4年目とまだ若いが、いまや堂々たる国際フェスティバル。興味深いのは、木村さんの話によると今年のコンペ応募作品は全世界から長編、短編合わせて761本。その内フィリピンからの応募作品が数十本もあったという。12本選ばれる最終選考作品の中にも「ブラックアウト」(マーク・バウチスタ監督)というフィリピン映画が残った。この国でいまDシネの地殻変動でも起こっているのだろうか。

 第1回シネマラヤは私がフィリピンに赴任した直後の2005年7月に開催され、その時いくつかの秀作に巡り会ってこのブログの初回で報告をした。あまりに面白いので何かに記録しておきたいと思ったのが、そもそもこのブログを始めるきっかけだった。その時の予感が当たっていた、というよりフィリピンのDシネは私の予想をはるかに超えて盛り上がった。ここ2、3年のDシネ界の集大成といえる今回のシネマラヤは、これまでにない規模と熱気にあふれ、開催期間中劇場は常に若者でごった返し、多くの映画関係者の笑顔が見られた。コンペティション部門以外にも、このイベントに照準を合わせて“ワールドプレミア“と称して発表される作品も多く、舞台挨拶に訪れた製作者や役者、マスコミ関係者などで賑わっていた。どうしてこれほどまでに盛り上がっているのか。とても単純なことだけど、私たち日本人にとってはおそらく忘れかけた感覚ゆえだと思う。それは、映画に対する”渇き“のようなものだ。

     
 “メジャー”映画会社による劇場用35ミリフィルムの衰退状況については2年前に報告した通り。むしろこちらは状況が悪化している。有名歌手の知名度に頼ったラブロマンスや、中途半端なホラー映画がほとんどで、製作本数も昨年は49本とさらに減少した。まあそれでもそんな映画に観客は集まるのだから、商業映画としてはそれで細々と生きながらえていると言えるかもしれない。その他はほぼアメリカ映画の独占状態。シネマコンプレックスで「スパイダーマン」や「ハリーポッター」が上映されると、例えば10館あればその内の9館が同じ作品を上映するという有様だ。基本的には暗澹とした映画界の中で、一筋の光が差すというのはまさにこういうことを言うのだろう。製作者、役者、そして観客が、Dシネの可能性に賭けている。この国の映画を取り巻く環境が大きく変わろうとしている。そうした転換期に立ち会うことができるのは幸運だ。

 もちろん120本全部観ることは不可能だが、これまでに観た作品を含め、印象に残った作品を簡単に紹介しておく。フィリピン最北端の美しい離島を舞台にした珠玉の作品や、先住民族の生活を淡々と描いたドキュメンタリー風作品、そしてマニラのスラムに住む人々の喜怒哀楽をドラマチックに描いたものから、ゲイが主人公の危うい作品まで、実に様々なバリエーションのある物語に彩られている。

○今年度長編コンペ作品
「ENDO」(ジェイド・フランシス・カストロ監督) 期間雇用(通称“ENDO”)で家族を支える青年と、長期航路客船での就職を夢見る女の子のラブストーリー。

「KADIN(山羊)」(アドルフォ・アリックス・ジュニア監督) フィリピン最北端の島バタネスを舞台にした兄妹の物語。突然家から姿を消した山羊を探して島を巡るお話。

「GULONG(自転車)」(ソッキー・フェルナンデス監督) 1台の古い自転車を巡る物語。少年が欲しいと夢見る自転車は、かつておじいさんが恋人に贈ったプレゼントだった。

「LIGAW LIHAM(愛の手紙)」(ジェイ・アベロ監督) 街の郵便局が廃業。ある女性がベトナムにいる夫に宛てた恋文を、彼女を慕う男性が奪って“文通”し続けるお話。

「PISAY」(アウラエウス・ソリート監督) 超エリートが集まるフィリピン・サイエンス高校を舞台にしたフィリピン版中学生日記。1986年の黄色い革命前夜を描く。

「Still Life」(カトリーナ・フローレス監督) 筋ジストロフィーに侵された画家と子供を捨てた過去を持つ若い女性とのラブストーリー。

「TRIBU(部族)」(ジム・リビラン監督) 現在のトンドを舞台に、本物の少年ギャングの抗争を描く。

    「ENDO」のポスターの前でポーズする学生カップル

○2005年度コンペ作品
「BATAD:SA PAANG PALAY(藁しべの足元)」(ベンジー・ガルシア監督) 世界遺産であるライステラスで有名なバナウエを舞台にしたイフガオ青年の夢と恋、そして現実を描いた作品。

「DONSOL」(アドルフォ・アリックス・ジュニア監督) ルソン島南部の実在の町ドンソルが舞台。ホエールウォッチングのガイドと癌に侵されたツーリストの女性との悲恋物語。

「TULAD NG DATI(昨日のように)」(マイケル・サンデハス監督) 実在する伝説的ロックバンドDawnをめぐる友情の物語。Dawnの演奏満載。2005年度作品賞受賞。

○その他
「HAW-ANG」(ボン・ラモス監督) ライステラスのあるイフガオ族の山村に赴任したシスターと子供たちの愛情ストーリー。

「ATAUL FOR RENT(レンタル用棺桶)」(ブボイ・タン監督) 棺桶屋の夫婦を軸に、彼らが暮らす路地裏のスクウォッター(不法占拠者)たちの逞しさと悲哀を描く。

「KUBRADOR(借金集金人)」(ジェフリー・ジェッタリン監督) マニラのスラムを舞台に、違法賭博(フエテン)を取り仕切るおばさんをめぐる物語。

「MANORO(先生)」(ブリリャンテ・メンドーサ監督) フィリピンの先住民(通称アエタ族)の少女が小学校を卒業して大人たちにアルファベットを教える話。

「MASAHISTA(マッサージ師)」(ブリリャンテ・メンドーサ監督) ゲイ映画の真髄。ゲイを相手にするマッサージ青年の日常を描く。

 今年のコンペの長編部門では、「TRIBU(部族)」が作品賞を受賞した。全編トンドでロケを行ったドキュメンタリータッチの作品だが、役者の多くはそこに住む素人の中からオーディションで選ばれた。トンドはかつてアジア最大のスラムと言われ、ごみの山“スモーキーマウンテン”で有名になった場所だ。スカベンジャー(ごみ拾い)の子供たちによって結成された同名のポップスグループが日本で売れ、NHKの紅白にも出場したので覚えている方もいるかもしれない。そんな現代のトンドを舞台に、実際の少年ギャングを起用してその抗争を描いた。映画の中では壮絶なけんかで双方血だらけの犠牲者が出て、悲惨な最期となるのだが、実際はこの映画の製作を通じてギャング間の抗争が無くなったという。CCPで行われた表彰式で、彼らギャングの代表が主演男優賞に選ばれ、会場の盛り上がりは最高潮に達した。フィリピンならではの社会派映画がまた新たに誕生し、多くの人たちに受け入れられた瞬間だった。

         「TRIBU」主演男優賞受賞の瞬間     

 このシネマラヤは、サブタイトルに“フィリピン・インデペンデント・フィルム・フェスティバル”とあるように、“オルタナティブ・シネマ”の祭典でもある。そして、フィリピン映画の歴史の中では知る人ぞ知る、“オルタナティブ・シネマ”の占める位置は特別だ。この国のインデペンデント映画や社会派映画の系譜については改めて書きたいと思う。いずれにしても巷の映画館をハリウッド映画に占拠され、語るに値しないフィリピン映画にほぼ絶望しかかっている映画人や観客にとって、まさにこのフェスティバルは、日ごろの“渇き”を癒し、未来への希望を語る熱い10日間であったに違いない。

 惜しむらくは、こうして世界に向けてメッセージを発信しようとしている映画人がここにも大勢いることを、日本人の我々や他の国の人たちがほとんど知らないことだろう。SKIPシティの木村さんは、ここで多くの若いフィルムメーカーと出会い、「目が覚める思い」とその気持ちを正直に吐露していたが、私も同感だ。これほどまでに作品が内容的に充実しているのは、この国には語るべきストーリーが無尽蔵にあるということ。そしてストーリーがかくも豊富なのは、ある意味それだけ社会が豊か、描くに足る生命力に満ちた生活がそこにある、ということだろう。物質的な豊かさゆえに描くべきテーマを失いつつあるか、ややもすれば窮屈で生命力に乏しいテーマに凝り固まってしまう私たち日本人からすれば、いまのフィリピンのDシネは伸び伸びとした豊かな物語にあふれていて、なんとも羨ましく思えるのだ。
(了)

2007/07/30

文化の底力、インデペンデントの祭典

  今年で2回目となるコンテンポラリーダンスの祭典、「Wi-fi bodyインデペンデント・コンテンポラリーダンス・フェスティバル」が、フィリピン文化センターで開催された(7月12~15日)。主だった振付家・ダンサーの新作や、マニラ首都圏にあるバレエ・スクール、高校や大学のダンス部などによる作品披露のほか、今回初めての試みとなるコンペティション部門が注目を集めた。

 フィリピン人若手振付家による未発表のソロ又はデュオの作品を競うもので、合計12名が参加。国際交流基金マニラ事務所がスポンサーとなり、名付けて” Wi-fi JF NeXtage Award”。優勝者には2万ペソ(約5万円)の賞金と、来月に実施する予定のJCDN(ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)の公演に、日本から来る4組のグループとともに、唯一フィリピンから参加する権利が与えられる。そのコンペに私も審査員の一人として参加して、全作品を観ることができた。

 いずれも10分程度の短いものだが、それぞれの思いが凝縮された作品だった。抽象的、実験的な動きから、民族舞踊を取り入れたものや、物語性の高い演劇的作品までバラエティーに富んだ内容。夫に去られた未亡人の嘆きや、この国らしくゲイのラブストーリー、はては戦時中の日本軍人とフィリピン人女性の恋の話など。特に上位の3作品は評価が拮抗したが、優勝したのはアバ・ビラヌエバという女性振付家による「インサイド」というソロ作品だった。真っ暗な舞台の上にシンプルな照明によって約2メートル四方に区切られた空間が浮かび上がり、その中で次から次へと沸き起こる体の動き・リズムに乗り、微小な動きからやがてスクエア全体を覆う激しい動きへと展開していった。時にはその極小空間で巨人に見えるほどの圧倒的な存在感となり、とても完成度の高い作品に仕上がっていた。シンプルな作品といえばそれまでだが、特にフィリピン的かというとそんなことは全くない。優れて現代性を持つ作品は、国や民族性といったローカルなものをかえって感じさせないものだと、改めて思い直した。

              アバ・ビラヌエバ

 2年前にこの地に赴任して以来、コンテンポラリーダンスの公演にはなるべく足を運び、このブログでも紹介した通りマイラ・ベルトランを日本へ招待したり、ドナ・ミランダが日本のコンペティションへ参加する橋渡しをしたり(彼女は結局、「横浜ソロ・デュオ・コンペティション」で審査員賞を受賞した)、色々と試みてきたが、この2年という短い期間でも随分と新しい才能が育ちつつあることを実感して嬉しくなった。優勝のアバには、前述の通り日本の第一線の若手グループとの競演が待っているし、2位入賞の作品を踊ったエレーナ・ラニオグも、大阪で開催されたアジア・ダンス・ショーケース(7月28日、大阪ビジネスパーク内・OBP円形ホール、財団法人21世紀協会主催)に招待されて日本で踊っている。勢いを増すフィリピンのコンテンポラリーダンス界には、未知の世界へ分け入ろうとする大きな希望と期待があって、見ていてとても清々しい。

 さて今月のCCPでは、このWi-fi以外にも、インデペンデント系のイベントが続いている。既に演劇の「ヴァージン・ラブフェスト」が先行して行われ(6月28日~7月8日)、映画の「シネマラヤ・フィルム・フェスティバル」は先週末に終了したばかりだ(7月20~29日)。いずれも若手の才能発掘や新作の発表を目的として、メインストリームとは一線を画した内容が売りで、自前の制作費や手弁当などアーティスト個人の参加に支えられているイベントだ。国からの支援は雀の涙程度で、チケット代も「ヴァージン」が1公演200ペソ(約500円)、「Wi-fi」が200ペソから300ペソ(500円~750円、学生半額)、「シネマラヤ」が100ペソ(250円、学生半額)と、なるべく多くの若者が来やすいように安く設定されている。いずれも資金難にあえいでいて、マニラ事務所では「Wi-fi」以外にも、このインデペンデント系のイベント全てに助成金を出すなど協力をしている。商業主義に背を向けて頑張っているアーティストたちの支援は私たちのモットーなので、どれも重要なイベントなのだ。「シネマラヤ」については別にレポートするとして、今回は「ヴァージン」についても紹介しておく。

 「ヴァージン・ラブフェスト」はフィリピン人脚本家の集まりである“ライターズ・ブロック”の主催で、未発表(“unpublished”)の戯曲の初めての舞台化(“unstaged”)を競うものだ。海外からの戯曲を含めて全18作品、つまり18人の脚本家とそれと同数の演出家に、ざっと数えただけでも100人を超える役者、さらにそれ以上のスタッフが参加した。250名定員のCCPスタジオシアターを2週間にわたって貸し切り、1作品あたりそれぞれ4回の公演でのべ72公演もある一大イベントだ。日本からも劇団燐光群の坂手洋二氏が脚本家として(作品名「三人姉妹」)、また同じ劇団の若手演出家、吉田智久氏は演出家として参加した(作品名「テロリストの洗濯婦」、脚本はデビー・アン・タン)。私も日本のものを中心に18作品中、8作品を観ることができた。

 ところで劇団燐光群は、アジア諸国の演劇人と腰を据えて交流を続けている数少ない貴重な劇団だ。劇作家であり演出家である坂手洋二氏を中心に、戦争や天皇制の問題など社会的なテーマを真っ向から扱い、そのダイナミックな硬派ぶりから、私の最も敬愛する劇団の一つである。早くからフィリピン演劇に目をつけ、フィリピンから俳優を招聘しては自分たちの公演に起用してきた。そして招聘だけにとどまらず、逆に日本からもスタッフを送り込んでいる。前述した若手演出家の吉田氏は、2002年の9月から「文化庁芸術家在外研修制度」を利用して1年間マニラで武者修行を行った後、10回近くリピーターとして再訪を繰り返してはワークショップなどを行い、とうとう昨年フィリピン人女性と結婚して、”退路を絶って”長期間滞在し、いくつかの共同作業を進めてきた。

  その吉田氏が演出して2月に公演した「フィリピン・ベッドタイム・ストーリーズ」は大成功だった。ベッドをキーワードにした様々なかたちの愛憎劇を、日比両国の作家、役者、スタッフで長年にわたって作り上げたてきた、血の通った骨のある本当の共同制作である。2004年の初演であるが、今回はさらに装いを新たにして、フィリピン人脚本家の4作品に内田春菊の書き下ろし作品を加えて、計5作品を日比両国で上演した(マニラでは2007年2月17日~25日、会場:フィリピン文化センター他、主催:劇団燐光群、国際交流基金マニラ事務所他)。なかなか衝撃的な“代理母”の話や、この国に古くから伝わる吸血女“アスワン”のラブストーリー、ラストの春菊作「フィリピンパブで幸せを」では、フィリピン人エンターテイナーと日本人男性との出会いとスピード結婚をテンポの速いドタバタ喜劇で描き、満員の会場は大爆笑だった。

 その間、劇団側も昨年より3年間の計画でセゾン文化財団からフィリピンとの演劇交流のために助成金を獲得している。文化庁、基金、セゾン・・と、あらゆる手段を試みているのだ。演劇人にとってアジアとの交流はリスキーな分野だと思う。もともと世界の演劇界のメインストリームとはいえない日本だけれど、さらに日本以外のアジアとなると、インフラも不十分だし、世界的マーケットからはずれているし、例えばあちらから“招待”されても、飛行機代など結局は自腹を切ることになるのは必定。国際交流基金でもこれまでに主催事業などで多くの演劇人をアジア諸国に派遣しているが、その後自力で助成金などを獲って地道に交流を続けている人たちはとても少ない。そんな持ち出し必須の交流だからこそ、覚悟と見識が必要になるのだと思う。これから日本の社会は、アジアからもっと多くの隣人を受け入れていくことになるのは間違いない。アジア人種のるつぼ社会が近づいているのだ。もう既にそうなっているとも言える。重要なことは、なるべく早くその事実を受け入れること。そして日本人の特権意識をぬぐい捨てることだと思う。日本の演劇界からもほとんどかえりみられることのない、フィリピンの演劇人との交流を繰り返す燐光群は、ある意味では、そんな近未来の私たちの社会に先乗りして、来るべき時に備え、演劇が社会に果たすべき役割を探しているとも言える。

 さて「ヴァージン」に話を戻せば、個々の作品の完成度にばらつきがあるものの、かなりレベルの高い、内容の豊富なイベントであったと思う。おそらく現代演劇でも、せりふ芝居というジャンルでは、私の知る限り近隣の国々を凌駕していると思う。タイはなぜか伝統的に現代演劇が弱いし、インドネシアでは伝統に根ざした舞踊や肉体的な演劇(フィジカルシアター)に圧倒的な魅力があるが、せりふ重視の現代演劇となるとまだまだ良質なものは少ない。またウォーターフロントに劇場コンプレックスを擁して世界中から公演団を招聘し、いまやアジア舞台芸術のハブとなったシンガポールにしても、そこで作られる作品については、生活空間に根ざした物語のバリエーションが少なく、狭い世界観から生み出された頭でっかちの観念的で退屈な作品が結構多いように思われる。

      「テロリストの洗濯婦」(ニコラス・ピチャイ提供)

 水をはったバスタブの中で展開するこってりとしたゲイのラブストーリー。マニラの下町を舞台にゲイとオカマの“結婚”生活の日常を生き生きと描いた作品。そして吉田氏の作品は、やはりマニラの中華街の路地裏あたりのチノイ(華人)の生活を、洗濯婦と雇い主の家族を通してコメディータッチで描いた秀作。今回観た8作品はいずれも様々な世界を描いていて、言葉はわからなくても十分楽しめる内容だった。こうした物語のバリエーションの多様さが、確かにこの国の演劇を支えているのだと思う。そしてそこに盛られたたくさんの毒と、それを無力化させてしまうほどにあふれるユーモアやペーソス。決して声高に何かを主張するわけではないけれど、どの作品にも“生きたい”という思いがあふれていて、だからこそまた何度でも劇場に足を運びたくなるのだ。演劇の“辺境”、マニラのちっぽけなスタジオシアター。照明回線がねずみにかじられてボロボロの劇場だけれども、そこにはインデペンデントなスピリットが充満していて、この国の文化の本当の底力を感じさせるのだ。
(了)

2007/07/12

”テロリストの島”と「花より男子」

 ミンダナオ島の最西端、スールー海に突き出た歴史的要塞の町、ザンボアンガを訪れた。いつかは行きたいと思っていた場所だが、このたび国際交流基金の助成で、アテネオ・デ・ザンボアンガ大学の学生が参加する訪日研修を実施する可能性が高まったことをうけ、同大学との関係づくりのために訪問することにした。

 ミンダナオ島の南西部やスールー諸島が、広範にイスラム化されたのは、実はそれほど古い話ではなく16世紀半ばと言われている。そしてその約100年後には、今度はスペイン人キリスト教徒(イエズス会士)がやって来て、1635年にこの町に要塞を築いた。以来、スールー海やインドネシアのスラウェシやマルク諸島に連なる広大な海域を舞台に、スペインなどの植民地軍と、地元のイスラム教徒との抗争が続いた。その背景には、当時ここが貿易で繁栄していた先進地域だったということがある。そんな歴史を背負い、どこか趣のある美しい町だ。

        100年前のアメリカ総督府が現在の市庁舎

 ところが今のザンボアンガといえば、テロリストとの関連で思い出される“危険な町”というイメージが定着してしまった。今から1ヶ月前にも、ここから車で4時間のザンボアンガ・シブガイ州のある町で、イタリア人宣教師がアブ・サヤフと見られる武装勢力に誘拐され、いまだ未解決である。

 ミンダナオのイスラム分離独立運動は1970年代に盛り上がり、「モロ民族解放戦線」が政治の表舞台で活躍した。その後同戦線がフィリピン政府と対話を行う間に、組織が分裂して「モロ・イスラム解放戦線」が結成された。さらに1991年には、ザンボアンガから高速船で40分のところにあるバシラン島で、アブドラガク・ジャンジャラーニというイスラム神学生によって、より急進的なグループである「アブ・サヤフ」が結成された。

 アブ・サヤフは、当初はイスラム原理主義の団体であったが、創設者の死後、安易な誘拐や人質事件などを繰り返すことで変質し、現在では単なる“テロリスト集団”とみなされるようになってしまった。数々の誘拐事件やテロを列挙したらきりがないが、2001年に外国人観光客を誘拐して、このバシラン島に連行した事件は有名。昨年、創設者の弟であり当時の最高指導者であったカダフィ・ジャンジャラーニがフィリピン軍によって殺害されたが(殺害の場所はザンボアンガから船で8時間のホロ島)、彼はアメリカの情報提供によりGPSで居場所を探知された。そして密告者のフィリピン人には、米国政府から500万ドルの懸賞金が与えられた。まさに“キリングフィールド”。

 日本から限られた情報をもとに眺めていれば、ザンボアンガという所はさぞかし危険な場所に思えてくるだろう。特にこの町には、テロリスト掃討の拠点となっているフィリピン国軍ミンダナオ軍管区の本部があるし、アンドルーズ空軍基地には、フィリピン軍との共同作戦(表向きは“訓練”)のため、沖縄から米軍海兵隊もやってきている。要するに”キリングフィールド“への出撃拠点なのだ。当然外務省の海外安全情報も、最も危険度の高いクラスに次ぐ、「渡航の延期をお勧めします」という地域になっている。

 ただ、この海外安全情報は、あくまでも用心深く、“一網打尽”的に平均的な評価をしているもので、立場が変われば見方も変わるとか、時々刻々の状況の変化とかには、なかなか対応はできない。つまり確かな現地情報を得られれば、“危険“と思われている所だって、実はマニラなどと比べてもむしろ安全だったりする時もある。

 私は以前赴任していたジャカルタで、安全に関する認識について180度発想の転換を迫られた経験がある。1998年スハルト政権を退陣に追いやったジャカルタ暴動。当時ジャカルタ中が火の海となり、現地の日本人に対して国外退避勧告が出た。インドネシア全土に散らばるJICAの専門家や青年海外協力隊なども国外に退避、ジャカルタの高級住宅街に集中していた基金の派遣専門家もシンガポールに逃れた。そんな切迫した状況の中、基金のフェローシップで当時ジャカルタのど真ん中にあるスラムにホームステイして、都市開発について研究していたある若い学者から、ぜひそのまま居残って暴動の行方を見届けたいと懇請された。市内では暴動、略奪が横行していたが、そのスラムに住む住民は嬉々として“戦利品”を持ち帰っていたようで、敵の真っ只中にいるのが最も安全、という彼の判断だった。私はすぐに東京にその旨を伝え、本部の英断で彼をそのままジャカルタに残した。地域研究者にとっては千載一遇のチャンス、その判断は今でも正しかったと思っている。

 今回の訪問にあたっては、アテネオ大学の講師にあらかじめ町の様子を確認して、何ら問題はないということだったので決行したわけだが、実際に行ってみたところ、少なくとも町の中では軍や警察をほとんどみかけることもなく、あまりの見かけの平和さに拍子抜けがした。

 アテネオ・デ・ザンボアンガ大学は、イエズス会士によって1912年に創立された由緒ある大学で、付属の高校や小学校まで含めると6000人の学生を抱える。私立の名門校だけに学費も高く、キリスト教徒の富裕な家庭の子女が中心。被り物をしたモスレム女性はあまり見かけない。表敬訪問をした学長は、イエズス会のフィリピン人神父でもあり、ある意味では17世紀以来のキリスト教徒殖民の歴史と、今の姿を象徴している。彼はこの地の紛争について、「キリスト教とイスラム教という宗教対立ではない」と言い、マイクロ・ファイナンスなどの開発援助プロジェクトを通じて、貧困の問題を解決してゆきたいと抱負を語った。いわば“支配する側”の中枢にいる人といってもいいのだが、その真摯な姿から、少しは希望が見えてくる。

          アテネオ・デ・ザンボアンガ大学

 翌日、ザンボアンガからバシラン島に渡った。アブ・サヤフの生まれた土地であり、今も最大の活動拠点である。まあさすがにそこまで行くとなるとある程度の覚悟はいるし、何かあった場合の責任はどうなるんだということになるのだが、実際は、島へ渡る船内もいたって長閑なものだった。もちろんアテネオ大学講師の引率付きで、キリスト教徒が多数を占める危険地帯ではないイザベル市を訪問するということで決行した。バシラン島は6つの市に分かれていて、イザベル市と後述するラミタン市ではキリスト教徒が多数を占める。本当はイスラム教徒の町にも行きたいのはやまやまだけれども、現地の人が薦めない。このあたりが本当の限界というものだろう。

 イザベル市ではアテネオ大学とは反対の側、つまり長い間侵食され続けてきた“支配される側”のイスラム教徒が多く学ぶ、バシラン国立大学を視察することとなった。さらにイスラム教徒である学長の案内のもと、彼の出身地である隣町のラミタン市の分校を訪ねた。シュロの葉を葺いた屋根に、板張りの壁。ここから数時間の距離にあるアテネオ大学を思い出し、隣り合う二つの世界の間に広がる残酷なまでに明瞭な格差を感じぜずにはいられなかった。いかにも仮の作りという校舎では200人の学生が、政治学科、コンピューター学科、それに看護士学科に分かれて学んでいた。6割はイスラム教徒だという。“テロリストの島”の掘っ立て小屋のような学校でも、若い学生の関心を引き付けているのは、マニラの大学でもてはやされているITや看護コースだった。

          バシラン国立大学ラミタン分校



 四方田犬彦氏がパレスチナやバルカン問題について書いた言葉は、ここミンダナオでも真実だ。

 「繰り返していうが、民族と宗教の違いが戦争の原因となったのではない。戦争によって引き起こされた異常な状況が、エスニックな自己同一性を人々に準備させたのである。戦争とは単に軍事的な事件ではなく、人間の文化と生活を一変させ、彼らに敵との対立関係を通して新しいアイデンティティを与える。この時点においてもっとも身近にあって簡単に呼び出されたのが民族であり、宗教であった。」
 (「見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行」・作品社)

 イザベルの町でふと立ち寄ったモスクで、イスラム教徒の男子高校生から話しかけられた。イザベル市は、ジャンジャラーニ兄弟の生まれた町だ。彼らの人生の出発点も、こんな何のへんてつもない町のモスクだったかもしれない。テロリストの首領として米国政府から500万ドルの懸賞金をかけられた男の姿が、その男子高校生と一瞬だぶった。しかし彼らから出た言葉は、日本のマンガの話。「花より男子」が好きだという。屈託のない彼らの笑顔を見ていると、ここが世間で騒がれている“キリングフィールド”の一部であることを忘れさせてしまう。マニラや他の町でもやっているように、このバシランの高校や大学で、日本の映画を上映したり、よさこいソーランを踊ったり、そんなことができる日はいつやってくるのだろうか。いま“テロリストの島”でぼくらのできることは限りなくゼロに近いが、そんなレッテルの貼られた島にも「花より男子」が好きな高校生がいて、ITや看護を学び、外の世界へつながろうとしている大学生がいることを、忘れてはいけないと思っている。


(了)

2007/06/20

「赤い家」とロラの記憶

 現職のアロヨ大統領を含み、これまで2人の女性国家元首を輩出しているフィリピン。先月行われた上院議員の改選選挙(上院定数合計24人の半数)でも、トップ当選は女性だった。この国のフェミニズム度は、日本より進んでいるといっていいかもしれない。そんなフェミニズム“先進国”で、海外5カ国を含め、18人の女性アーティストによる展覧会「Trauma, interrupted」が開催されている(フィリピン文化センター、6月14日~7月29日)。

 女性に対する性暴力・虐待のほか、内戦や大規模自然災害によるトラウマと、その癒しが全体のテーマである。企画したキュレーターも、メイ・ダトゥウィンというフィリピン大学芸術研究学科の女性教授だ。そしてこの展覧会には、このブログでも度々紹介してきたアルマ・キントや、国際交流基金の知的交流フェローシップで研究のためにやって来た中西美穂さん(NPO法人大阪アーツアポリア)など、日本のアーティストやキュレーターも参加している。

 この国のフェミニズムの歴史について、詳しく振り返る余裕も知識もないが、その揺籃の物語についてだけ触れておく。「マロロスの女性たち」という物語だ。時代的には19世紀末のスペイン植民地時代末期、マニラの北にあるマロロスという街のフィリピン人、特に中国人との混血(メスティソ)を中心とした有産階級の中から、女性に対する教育への欲求が目覚め、1888年、20人の女性が、女性のための夜間学校の開設を訴える嘆願状を、当時の州知事に提出した。ちなみにこの年、樋口一葉は16歳。このマロロスという街は、その後1898年、フィリピン独立宣言後に初めての議会が召集された歴史上の街で、1905年にはフィリピン・フェミニスト・アソシエーションも創設されている。マロロスは、いわばこの国のフェミニズムの聖地だ。なおこの物語は、2004年に「The Women of Malolos」という研究書が出版され(ニカノール・チョンソン著、アテネオ・デ・マニラ大学出版)、昨年にはミュージカル(ザルスエラ)も上演された。

 ところで当時、隣国のインドネシアでも、同時代に生きた女性の同じような物語がある。やはり19世紀末、ジャワ北部の名門貴族に生まれたカルティニの物語だ。彼女は、貴族という出自ゆえに様々な古い因習に縛られながらも、教育への渇望を多くの手紙に託してしたため、時代の息吹を表現した。その物語は「カルティニの風景」(土屋健治著、めこん出版)という“インドネシアスクール”の古典ともいうべき名著で紹介されている。マロロスの女性たちとカルティニが、同じ志を持って同じ時代に生きていたことは、単なる偶然を越えて、私たちに何かを語りかけてくる。西洋植民地からの独立運動の歴史も、マッチョな男性中心の物語ばかりでなく、女性の物語について、もっと語られてよいだろう。

 さてアートの話に戻して、フェミニズムを象徴するフィリピンの代表的女性作家といえば、これまでにも日本で何度か紹介されたアグネス・アレリャーノが思い出される。国際交流基金アセアンセンターが渋谷にあった頃、そのギャラリーで見た「Myths of Creation and Destruction PartⅠ」(1987年制作)というインスタレーションのことは、今でも鮮烈に覚えている。頭を切断されて逆さ吊りとなった、石膏の女性の腹が引き裂かれてぱっくりと割れ、そこから老人姿の子供の像が顔をのぞかせていた。美術史家のアリス・ギレルモによれば、それは北ルソン山岳地方の穀物神と仏陀との混合神だそうだ(同氏著「Image of Meaning」)。そして、その割れた腹から内臓が垂れ、地面には豊穣を象徴するかのように、米と卵がこぼれている。暴力と死、再生と豊穣、矛盾と背反に満ちたとても刺激的な作品である。やはりアリスよれば、アグネスは32歳の時、実家の火災で両親と妹をいっぺんに失ったが、この事件によるトラウマは癒しがたく、彼女の作品はそれ以来、生と死、創造と破壊、エロスとタナトスといった逆説の葛藤がテーマとなった(同著)。

Myths of Creation and Destruction PartⅠ(福岡アジア美術館所蔵)

 今回の「Trauma, interrupted」では、トラウマとその癒しがテーマであるが、中でも、何人かの作家が共通してとりあげ、中心的テーマとなったのが、第二次世界大戦中の日本軍による“慰安婦”の問題だ。ちなみに最近の学会などでは、ややもすると柔らかな印象で問題の核心をぼかしかねない“慰安婦”という表現ではなく、状況に応じて”Sex Slave”とか“Rape Victim”というのが正しいそうだが、ここでは便宜的に“慰安婦”を使う。

 その展覧会オープニングの日に、パーフォマンス・アーティストのイトー・ターリさんは、韓国人元“従軍慰安婦”をテーマにした作品を披露した。ビニール製の上着をまとって登場したイトーは、やがて空気を入れて乳房とお腹をぱんぱんに膨らましたが、ある瞬間を境にそれが破裂し、全身を痙攣や痛みが襲う。苦悩の時間は長く続いたが、その中からやがて再生が始まり、最後は、玉ねぎの皮をむく行為を通じて苦悩の記憶を浄化してゆく・・、そんなパフォーマンスだった。なんとも心に突き刺さる鋭い作品だったが、それ以上にぼくの心を揺らしたのは、多くのフィリピン人元“慰安婦”のロラ(おばあちゃん)たちが、そのパフォーマンスをじっと見つめていたことだ。


 そのロラたちは、マパニケという村からやって来た。1944年11月23日、日本軍の総攻撃で住民の多くが虐殺され、多くの婦女子がレイプされた村だ。オープニングでの出会いの後、イトーさんら日本人アーティストたちとともに、今度は私たちがその村を訪れた。

 「赤い家」(バハイ・ナ・プラ)は、マニラから車で3時間、北ルソンに向かう幹線道路沿いに忽然と現れた。赤レンガで覆われた木造2階建ての家は、当時日本軍の宿舎として接取されていたそうだが、11月の総攻撃の日を境にして、おぞましいレイプ現場となっていった。この家からマパニケ村まで約3キロ。マパニケ村でのレイプの犠牲者によって結成されたマリア・ロラというグループは、当初90人のメンバーがいたが、既に28人が亡くなって、足腰がいまだ丈夫でアクティブな会員は、20人程度となってしまった。もっともレイプ被害を告白したのは犠牲者の一部で、名乗り出ることをいまだ拒んでいる人々も多いという。そのグループのリーダーをつとめるロラ・リタが、「赤い家」で私たちを待っていてくれた。以下は彼女の証言である。

 「その日は朝の6時から砲撃が始まった。砲撃などから生き残った者のうち、成人男性は村の小学校に集められて虐殺された。自分は日本兵に捕らえられ、この「赤い家」で一昼夜監禁されてレイプされた。」

 ロラの話を聞きながら、ぼくは「赤い家」の外の田園風景を眺めていた。その当時も、こうして田んぼはみずみずしい姿でそこに広がっていたのだろうか。60数年の時間が止まったように思えた。



 「赤い家」の後に訪れたマパニケ村の教会では、73歳から81歳までの21人のロラが集まった。ちょうど私の母親と同じ世代だ。現在73歳といえば、被害のあった1944年当時は10歳ということになる。想像を超える悲しい現実が目の前にあった。そしてあえて不謹慎な言い方をすれば、こんなにたくさんのレイプ犠牲者と一堂に話をすることなど、生まれて初めての経験だった。

 “従軍慰安婦”問題は、1991年に韓国の金学順さんらが、日本政府による公式謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴したことから始まり、その後フィリピンでも名乗り出る人たちが現れた。焦点となっている政府の公式謝罪について、例の「河野談話」があるが、問題の核心は、日本政府が明確に謝罪していないのではないか、という疑念にある。今年の3月には安部首相が、「強制があったという証拠がない」と発言して当地でも物議をかもしたが、被害者のロラにしてみれば、やっぱり日本は本気で謝罪していないじゃないか、ということになるのは当然だろう。

 さらに補償について日本政府は、国家賠償等で解決済みという立場で、フィリピンでは1956年に日比賠償協定が成立している。が、そこにはレイプ被害者への補償は含まれておらず、その後充分に加害者を裁くこともなく、フィリピン政府から犠牲者への支援も一切ない。ただ、日本政府は1995年に民間資金を集めて「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し、被害者に見舞い金(一人あたり200万円)を支給した。が、これも、政府の補償でないことから受け取りを拒否したロラもいる。なお、この基金は“役割を終えた”として、今年解散している。

 ざっとこれが元“慰安婦”問題の核心部分だが、この非常にハードなテーマについて、果敢にも取り組んでいる坂本千壽子さんという日本人研究者がいる。彼女は、韓国人元“慰安婦”のオモニたちが暮らしている「ナヌムの家」で、外国人として初めての居候となったという経歴の持ち主だが、昨年からフィリピン大学に研究留学している。今回も彼女のつてでマパニケ村を訪ねることができたのだ。ともすると戦闘的で怖くて暗いイメージのつきまとう元“慰安婦”のロラたちに、密着することで自然体のつきあいをし、そこから日常の素顔や本音を引き出し、それを伝えることで、普通のおばあちゃんを襲った異常なできごとを書き留めてゆく。過酷な記憶をむしかえし、声高かに主張するのではなく、静かに、しかししたかかに訴える。いま彼女は、ロラたちの日常生活を撮りためてドキュメンテーションを制作中だ。高齢なロラたちの“残された時間の中で”、大切な記憶を残して後世に伝える作業が淡々と続いている。

 集会では、彼女たちの体験談や日本への訴えとともに、イトー・ターリさんによるパフォーマンスを見た感想も聞くことができた。表現活動というものが、人間の心の傷に対して何ができるのか、また何ができないのか、どちらも真実で、その意味するところは大きくて深い。

 「こうして展覧会で取り上げられ、多くの人たちが私たちのことを表現してくれることで、私たちの心の傷は少しずつ和らいでゆくような気がします。」(ロラ・リタ)

 「玉ねぎの皮を1枚1枚はぐように、心の傷を少しずつはがしていっても、心に残った傷、そのトラウマを完全に取り除くことはできないでしょう。」(ロラ・ペルラ)

 前回に続いて今回も戦争の記憶の話になってしまった。この国にいるとどうしても目に入ってくる現実。でも、正直言えば、目をそらすことだってできるのだと思う。ただ、文化交流という仕事の原型が、人と人との交流にあるならば、人々の心の琴線に触れる記憶の今と、これからの問題から、どうして目をそらすことができるのだろうか。でもそれは私にとっては、別にたいそうな覚悟やある種の身構えのいることではなく、あらかじめ課されている宿題に等しい、とでも言ったらぴったりするだろうか。ロラたちの最も望んでいる、国による謝罪や補償の問題は、ぼくには大きすぎるテーマだけれど、記憶の風化のことならば、もしかしたら何かができるかもしれない。

 「赤い家」は、ロラたちにとって、つらく忌まわしい記憶の源泉だけれども、トラウマと闘い、謝罪と補償を求めて自らを表現してゆく記憶を支える、確かな拠り所でもあるのだ。10年後にこの家がどうなっているのか、朽ち果てているか、人手に渡って真新しい家になっているのか、誰にもわからない。もしも何年か経って、このロラたちが、皆この世を去り、そしてこの「赤い家」も無くなってしまったら、この村で起こったことは、どんな意味を持ちえるのだろうか。まだ今はかろうじて、ロラたちの記憶を蘇らせる装置として、「赤い家」は、圧倒的な存在感でぼくたちに訴えかけてくるのだ。


(了)

2007/05/31

海を渡らなかったキュビズム

  パリ日本文化会館で、「アジアのキュビズム」という展覧会が開かれている(5月16日~7月7日)。20世紀初頭、ヨーロッパで生まれた美術様式の一つであるキュビズムが、アジア各国でどのように受け入れられ、また受け入れられなかったかを検証する展覧会である。アジア11カ国より、53人の作家、合計77点がパリに送られて、現在展示されている。しかしここに、今回の展覧会に出品されそこなった1枚の絵がある。フィリピンを代表する作家、キュビズムの第一人者といわれているヴィセンテ・マナンサラの「スラムのマドンナ」という作品だ。

 この作品は先の東京、韓国、シンガポール展の際にも展示されず、カタログに図版入りで紹介された(ちなみにパリ展のカタログにも登場している)。今回は、早々にパリ展の作品候補リストに入り、その出品交渉をわれわれマニラ事務所スタッフが行うことになった。実はこの絵、私も初めて図版を見たときに、一遍でぐっと惹きつけられた作品で、なんとか出展を承諾してもらうべく、オーナーに何度も電話をかけ、やっとのことで面談の約束を取り付け、直談判ではありったけの言葉でこの作品の素晴らしさと、今回の展覧会でいかに重要な位置づけであるかを強調した。かなりしつこいまでにねばったのだが、結局よい回答が得られず、最終的に出展はかなわなかった。

 マナンサラは、間違いなくフィリピンの美術史における最重要の作家の一人で、1910年生まれで1981年に亡くなるまで、独自のキュビズムのようなスタイルを中心に多くの作品を残した。今回のパリ展でも、「スラムのマドンナ」にはふられたが、彼の別の作品が3点(「コラージュ」(1969年)、「磔刑」(1971年)、「ヌード」(1973年))も展示されている。その彼が人生の半ば、40才に達した1950年に描いたのが、この作品だ。当時彼は、フィリピン人として戦後初めてユネスコの奨学金を得て、カナダに6ヶ月間滞在した。そして一旦帰国した後、今度はパリへ留学して、レジェという作家に師事して本場のキュビズムに出会うこととなった。この作品は、そうした海外渡航の合間に描かれたもので、その後の彼の進路を暗示する重要な作品となった。

 以前このブログでも触れたことがあるが、フィリピンにおけるアカデミズム画檀の歴史は意外と古い。スペインの植民地時代、エリート教育の一環として絵画が導入され、何人ものフィリピン人が画学生として西洋に渡ったが、その中で、ホアン・ルナとフェリクッス・ヒダルゴという二人の作家が頭角を現し、1884年には二人そろってマドリッドのサロンで金賞と銀賞を受賞するという象徴的なできごとがあった。1884年当時の日本といえば、西洋画の基礎を築いたと言われている黒田清輝が、18歳で初めてパリに渡った年。日本洋画壇のアカデミズムを牽引することになる“外光派”が成立するには、さらに10年を要した。その頃フィリピンには、既に西欧の本場サロンで認められる作家が複数いたということが、この国におけるアカデミズムの早熟ぶりをうかがわせる。ちなみにこの時代の作品の多くは、今でもシンガポールや香港のオークションにかかり高値で売買されていて、2002年には政府系のGovernment Service Insurance System(いわゆる日本でいま話題の“社会保険庁”にあたる)が、ホアン・ルナの「パリジャンの生活」(1892年)を、4600万ペソ(約1億円)で競り落として購入したことが話題となった。どこの国でも、この社会保険を財源とする金は不透明極まりなく、行き場所にも困っているようだ。

     ホアン・ルナ作「スポラリウム(略奪)」(1884年)

 さてそんな強固なアカデミズムに対抗し、第二次大戦前あたりから反旗を翻したのが、 “サーティーン・モダーンズ”と呼ばれる13人のアーティストたちで、マナンサラはその一人と位置づけられている。

 そしてこの「スラムのマドンナ」だが、今回の展覧会の出品候補リストに載せられたのは、私が考えるところ二つの理由があると思う。一つはカソリックが主流を占めるこの国で、繰り返し描かれる母子像がテーマとなっているから。その姿は当然、幼子(おさなご)キリストとマリアの聖母子像にだぶる。展覧会場となるパリは無論キリスト教文明圏で、誰もが容易に解釈ができ、その文脈を理解(誤解)することのできる図象だからであろう。さらにもう一つ、それはおそらくスラムという表象が持つ、ある意味わかりやすいアジアのイメージによるものだろう。廃墟のようなバラック小屋の建て込むスラムの前で、幼児をすっくと抱いて、怒りや不安の中にも毅然と胸をはる若い母親。こうした二つのイメージの交差するこの作品は、今回の展覧会のモチーフを明瞭に象徴する。“悲しき熱帯”であるフィリピンに、キリスト教という西洋文明が移植された図は、あたかもキュビズムという西洋美術の技法が、土着の文化に移植された姿と二重写しになるだろう。

 でも、私がこの絵から感じるものは、そうした観念的なことではなかった。この絵の中に潜む強靭さ、そして不気味にも不屈な眼差しは、一体どこから生まれたのだろう。そして、自分自身、どうしてこんなにまでこの絵のことが、心のどこかにひっかかるのだろうか・・・いろいろ調べているうちに、あることが気になり始めた。

 この絵が描かれたのは1950年。マナンサラの作風に決定的な影響を与えたといわれる太平洋戦争の終結から5年後のことである。マニラで生まれ育った彼は、日本軍の侵攻後、北部の田舎に疎開をしていた。戦争終結とともに再びマニラに戻って見たものは、その後の彼の創作人生を決定付ける光景だった。破壊され尽くし荒廃したマニラの街。それ以来、彼は麗しき自然描写をいっさい放棄したという。

 「1945年2月3日にサント・トーマス大学の民間人収容所解放に始まったマニラ解放戦は、翌3月3日をもって日本軍が完全に掃討されるまで約1ヶ月にわたり続いた。この間にマニラ市街は文字通り廃墟と化し、日本軍守備隊約2万名はほぼ全滅、米軍も約7千名の犠牲者を出した。しかしなんと言ってもマニラ戦最大の犠牲者は、約10万にのぼると言われる非戦闘員・民間人であった。その恐らく7割が日本軍による殺戮と残虐行為の犠牲者、残り3割が米軍の重砲火による犠牲者だとされる。このように第2次世界大戦でワルシャワに次ぐ都市の破壊と言われ、また日米間で戦われた初めての、また最大の市街戦であったマニラ戦は、その結果の悲惨さゆえに、解放戦であると同時に「マニラの破壊」あるいは「マニラの死」とも呼ばれている。」
(中野聡・一橋大学教授のホームページより、「戦争の記憶」に関する同氏のホームページは、多くの示唆を与えてくれる。)

 「マニラの虐殺」ともいわれ、今も語り継がれている惨事だ。マニラの旧市街には、「非戦闘員犠牲者(non-combatant victims)」10万人を追悼する祈念碑が立ち、いまも毎年2月に追悼式が行われている。その出来事は繰り返し繰り返し、フィリピン人の間で語り継がれていて、私がこの国に赴任した2005年にも、「Terror in Manila」(メモラ-レ・マニラ1945財団)という本が新たに出版された。60年以上を経た今日でもいまだ呼び覚まされている記憶。戦後5年という時間は、凄惨な「マニラの死」から癒されるには全く不十分な月日であったに違いない。この絵に漂うただならぬ怒りと、それを包み込む絶望の先には、廃墟のマニラが広がっていたのではないだろうか。この作品を契機に彼のキュビズム人生が始まるともいえるのだが、私が思うに、彼は彼のその後の人生を決める重要な局面で、5年前のあの廃墟のマニラを思い出していたのではなかろうか。不気味にも不屈な母子像が心のどこかにひっかかるのは、そこに告発の眼差しがあるからだ。

             メモラーレ・マニラ1945記念碑

 展覧会はある意味、時に残酷だ。絵は見られてこそ価値が生まれ、見られ、消費されることでその絵を巡る物語が作られる。もしもこの「スラムのマドンナ」が海を渡ってパリに行っていたら、どんな物語を我々に示してくれていただろうか。または隠してしまったであろうか。いずれにしても1枚の絵と対峙する時、重要なのは、その絵がこの私に一体何を語りかけるのか、ということだと思う。

 「スラムのマドンナ」のオーナーと出品交渉していた時に聞いた話の中で、今でも気になっていることがある。彼女は現在、著名な内科医としてサント・トーマス大学病院に勤めているが、両親は戦前からフィリピン美術のコレクターであった。当時マニラ旧市街にあった倉庫には、マナンサラの戦前の作品をはじめ、多くの美術作品を所蔵していたという。それもあの「マニラの破壊」で灰塵に帰してしまったそうだ。そして、その後調べてみてわかったことだが、母親は国立博物館の美術課長を務めたこともある研究者でまだ健在だが、コレクターであった父親は、1958年に45歳の若さで他界している。その父親だが、終戦後、日本軍の協力者としてフィリピン人民裁判で“売国奴”として有罪となり、4年間も獄中にいたようだ。今回の出品拒否と、ファミリーの戦争体験と、因果関係があるか否かはわからない。しかし、そこにも絵画を巡って、私たちの知る由もない別の物語があるのは確かなことだ。

 いまから57年前のマニラで描かれた「スラムのマドンナ」。哀しいことにスラムはいまでもマニラの街の代表的な表象だ。結果的にこの絵に描かれた現実は、今でも同じように生々しく存在している。それは戦争による荒廃ではなく、グローバライゼーションというもの静かな侵略と、腐敗政治による荒廃の中にある。


(了)

2007/05/10

日本を夢見る日本人のこどもたち -ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン-

 日本で生まれ、日本人の両親を持つ私たちには自明のものである日本国籍。この日本国籍をめぐって、フィリピンには、私たちの想像力をはるかに超える物語がある。

 ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン、通称“JFC”といわれる日比混血児。“混血児”というと最近では差別用語らしい。誰だって多かれ少なかれ“血”は混じっているのに、そこで“日比”を強調することで偏見や差別が生まれるのだ・・という主張だ。ちなみに“ハーフ”という言い方も古いようで、“ダブル”という言葉が使われ始めている。“血”という物理的な交じりに焦点を当てるのではなく、文化的なアイデンティティに着目すれば、二つの文化を背負った“ダブル”になるという意味だ。

 さてそのJFC(これだってなんだかフライドチキンのようでとても気になるのだけれど、まあそれはさておく)だが、特に1980年代から急増したフィリピン人エンターテイナー(女性)と、日本人男性との間に生まれた子供が多く、現在、約10万人以上いると見られている。多くはフィリピン国籍を持ち、フィリピンに住んでいるが、日本国籍を持っている子供たちもいる。そんな7才~18才のJFC、8人からなるテアトロ・アケボノの日本ツアー直前公演が、マニラで行われた(5月10日、セント・スコラスティカ・カレッジ)。

 この劇団を主宰しているのは、マニラを拠点に活動するDAWN(Development Action for Women Network)というNGOで、日本へ渡ったエンターテイナー(通称ジャパゆきさん)の、帰国後の心のケアや、自立支援を推進している。厳しい労働、性的虐待、結婚や恋愛の失敗、そしてフィリピンへ帰国後の周囲からの差別や生活苦などで、精神的バランスを崩す女性が多く、このDAWNは、そうした心に傷を抱えた元ジャパゆきさんの駆け込み寺となっている。そして、カウンセリングや研修にやって来る母親とともに多くのJFCがこの事務所を訪れるが、いつしかそうした子供たちに対しても、日本語を教えるなど、支援活動を行うようになった。このテアトロ・アケボノもそうしたJFC支援活動の一環で、日本公演ツアーはこれで10回目になる。


 DAWNと僕たちとの関係は、昨年11月、このブログでも紹介したことのある、アルマ・キントという女性アーティストによるワークショップを、国際交流基金マニラ事務所の助成事業として実施したことにさかのぼる。参加したのは元ジャパゆきさんのお母さんとJFCの子供たち。将来の夢をドローウィングやパッチワークで作品に仕上げ、アートを通して心のヒーリングをしようというものだった。そして、今度はそのワークショップに参加した子供たちを中心に8人のメンバーが劇団を作り、日本へ公演旅行に行く計画だ。そのための準備ワークショップも、マニラ事務所が協力して実施した。


 この劇団のメンバーの中に、マサユキ(13才)とチエコ(10才)という二人の兄妹がいる。両親が同じ兄妹でも、兄は日本人、妹はフィリピン人だ。マサユキは3才まで日本にいたが、その後両親は離婚して母親はフィリピンに帰国。帰国の際に母のお腹の中にいたチエコは、父親から認知を受けることもなくフィリピンで生まれ、その後、父親とは音信普通となった。日本の民法では、母親が外国人で、日本人の父親と結婚していない場合、日本国籍を取得できるのは、父親による出生前の認知が前提。JFCが抱える多くのケースでは、父親が行方不明、もしくは認知がなされず、結果的に母親のフィリピン国籍となるケースが多い。でも日本国籍が取得できたとしても、無論それだけで幸せになれるとは限らない。マサユキの場合、周りのいじめや、母親が家にいつかなかったこともあり、やがて不登校となってしまった。DAWNに通うようになり、同じ境遇にいる友達と出会うまでは、希望を失っていたそうだ。今では、母親とともに事務所の近くに移り住んで、学校にも通っている。昨年のアート・ワークショップにも参加していたが、ドローウィングがとても繊細で色使いもうまく、きらりとした才能を感じさせる子だ。

 実はこのJFC問題、このところようやく社会的にクローズアップされるようになってきている。セブ島にある日本人会では、JFCのための日本語クラスを運営したり、日本国籍を持つJFCの日本渡航と仕事の斡旋なども始めている。日本国籍を持つJFCは、フィリピンでは、法律的にはいわば不法滞在者(ビザなしで長期滞在している)で、日本へ出国するためには多額の罰金を支払う必要がある。が、そんな大金、普通は持っていない。セブ日本人会では、そうした不遇な日本国籍のJFCを助けるべく、アロヨ大統領と出入国管理局に嘆願状を出し、日本出国にあたっての罰金の免除を訴えていたが、このたびその嘆願が認められるという朗報もあった。

 2004年の統計によれば、日本の婚姻の年間総計が72万組で、国際結婚が約4万組。その内、夫が日本人で、妻がフィリピン人のケースが8,400件。ちなみに逆はたったの120組で、やっぱりフィリピン人男性は日本人女性にあまり人気があるとはいえない。いずれにしても、フィリピンは、日本人の国際結婚の相手としては中国に次いで堂々の2位だ。子供(JFC)の数も、数千人から1万人のオーダーで毎年増え続けており、現在は、冒頭に書いた通り10万人を超すと言われている。しかし、その多くは貧しい階層の出身で、社会的弱者、周囲の偏見にも囲まれて悲惨な状況にある。

 世の中の人々の間では、所詮ジャパゆきさんと無責任な日本人父親の身勝手から生まれた悲劇、プライベートな問題にまで一々同情はできないという意見もあるが、子供たちに罪はないことは確か。ある時期大量のジャパゆきさんを生み出したのは、そもそも日本とフィリピンの社会が持つ宿痾という側面もあるし、JFC問題に対応できない両国の現行法の不備も指摘されている。たとえば、この国で暮らす日本国籍を持ったJFCに、日本国憲法で保証されている、いまや話題の“生存権”-すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する-が与えられているのだろうか、と疑問に思えることも多い。そんなJFCをめぐる様々な問題に対処すべく、先月、DAWNと同じビルの中に、Center for Japanese-Filipino Children’s Assistanceという新たなNGOが立ち上がり、まずはJFCの実態調査をということで、初の全国調査が始まった。「10万人のJFC」とはいうものの、その数字はまったくの推測。人数はもとより、国籍、生活状況など、データの蓄積はゼロ。一体どれくらいの日本国籍を持ったJFCがいるのかもわかっていない。

 さてテアトロ・アケボノの今回のツアーには、もう一つ重要な仕掛けがある。この8人のJFCの日本公演、そして父親の国への旅を、もう一人のJFCであり、現在フィリピンで最も注目されている若手脚本家が同行取材して、新作映画を製作するという構想だ。脚本家の名前は山本みちこ。氏名は日本名だが、フィリピン国籍。日本語は全くわからない。父親が日本人だが、一度も会ったこともなければ、本人にとっても初めての訪日になる。国際交流基金では、毎年その国の重要な文化人を短期間招待するプログラムがあるが、今年はこの山本さんを選んだ。実はこの山本さん、このブログでも以前紹介したことがある。2005年7月の原稿で、彼女にとって脚本2作目となったデジタル映画「マキシモ・オリベロスの青春」(2005年製作)のことを書いたが、その後のこの作品の“快進撃”はすごかった。国際映画祭での受賞だけでも、モントリオール世界映画祭でGolden Zenith for Best First Fiction Feature Film(2005年)、ロッテルダム国際映画祭批評家賞(2006年)、ベルリン国際映画祭・テディアワード(ゲイ、レスビアン部門)作品賞(同年)。そして世界中のインディー映画人憧れの的、サンダンス映画祭(同年)にも公式招待され、さらに結局エントリーは実現しなかったが、前回の米国アカデミー賞外国映画部門にフィリピン代表として推薦を受けた。そんな彼女の次回作、映画関係者のみならず、多くのフィリピン人が注目している新作、それがJFCの物語なのだ。山本さん本人はとても恥ずかしがりやで、なかなか自分について多くを語ろうとしない中、JFCについてのストーリーを夢見る彼女の目はきらきら輝いていた。

    「マキシモ・オリベロスの青春」の主人公マキシモ君

 今回の日本ツアーは、埼玉、川崎、新潟、大阪、福岡などを巡演し、各地の学校や教会などで公演を行う予定だ(5月18日~6月5日)。ミュージカル仕立ての芝居で、マサユキやチエコの両親たちのストーリーを、メンバーみんなで作り上げた。劇中、彼らの心中を正直に吐露するショッキングな場面もある。そしてツアー中、もう一つの目的、父親探しと対面が待っている。

 「ぼくはお父さんが大嫌い。でも、思い出さずにはいられないのは何故だろう。ぼくが今、どんな気持ちでいるか、お父さんが知る日は来るのだろうか。ぼくがどれだけ傷ついているか、お父さんにわかってほしい。ぼくの心の傷や悲しみを、すべて吐き出してしまえたらいいのに。いつか、どうにかして、お父さんへの憎しみはなくなるだろう。お父さんを許す?今はまだ・・」(テアトロ・アケボノ公演「贈りもの」より)

 今回日本へ行ける子供たちの背後には、多くの声なき子供たちが待機していることを、忘れることはできない。そうした子供たちに対する自立支援、法律援護についても、今後ますます課題が多くなることだろう。片親が日本人であるならば、いつでも誰でも日本の国籍取得を選択する自由を持つ、そんな単純なことが早く実現されることを願っている。日本に対する神話的幻想は、まだまだこの国では、まして最低限の生活を余儀なくされている人々からすれば、色褪せることはない。けれども、だからといって、あたりまえのことだけど、日本国籍が幸福を保証するとは限らない。日本か、フィリピンか、どちらの国籍を選択するにせよ、一つだけ確かなことは、彼ら、彼女らが、近い将来、日本とフィリピンの二つの国をつなぐ大切な財産になるであろうことだ。その意味で、テアトロ・アケボノや、山本さんがやり遂げようとしていることを応援し、そして多くのジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンが、彼らに続いて少しでもその夢に近づけるように、わたしたちは見守ってゆく必要があるのだと思う。
(了)