2007/07/12

”テロリストの島”と「花より男子」

 ミンダナオ島の最西端、スールー海に突き出た歴史的要塞の町、ザンボアンガを訪れた。いつかは行きたいと思っていた場所だが、このたび国際交流基金の助成で、アテネオ・デ・ザンボアンガ大学の学生が参加する訪日研修を実施する可能性が高まったことをうけ、同大学との関係づくりのために訪問することにした。

 ミンダナオ島の南西部やスールー諸島が、広範にイスラム化されたのは、実はそれほど古い話ではなく16世紀半ばと言われている。そしてその約100年後には、今度はスペイン人キリスト教徒(イエズス会士)がやって来て、1635年にこの町に要塞を築いた。以来、スールー海やインドネシアのスラウェシやマルク諸島に連なる広大な海域を舞台に、スペインなどの植民地軍と、地元のイスラム教徒との抗争が続いた。その背景には、当時ここが貿易で繁栄していた先進地域だったということがある。そんな歴史を背負い、どこか趣のある美しい町だ。

        100年前のアメリカ総督府が現在の市庁舎

 ところが今のザンボアンガといえば、テロリストとの関連で思い出される“危険な町”というイメージが定着してしまった。今から1ヶ月前にも、ここから車で4時間のザンボアンガ・シブガイ州のある町で、イタリア人宣教師がアブ・サヤフと見られる武装勢力に誘拐され、いまだ未解決である。

 ミンダナオのイスラム分離独立運動は1970年代に盛り上がり、「モロ民族解放戦線」が政治の表舞台で活躍した。その後同戦線がフィリピン政府と対話を行う間に、組織が分裂して「モロ・イスラム解放戦線」が結成された。さらに1991年には、ザンボアンガから高速船で40分のところにあるバシラン島で、アブドラガク・ジャンジャラーニというイスラム神学生によって、より急進的なグループである「アブ・サヤフ」が結成された。

 アブ・サヤフは、当初はイスラム原理主義の団体であったが、創設者の死後、安易な誘拐や人質事件などを繰り返すことで変質し、現在では単なる“テロリスト集団”とみなされるようになってしまった。数々の誘拐事件やテロを列挙したらきりがないが、2001年に外国人観光客を誘拐して、このバシラン島に連行した事件は有名。昨年、創設者の弟であり当時の最高指導者であったカダフィ・ジャンジャラーニがフィリピン軍によって殺害されたが(殺害の場所はザンボアンガから船で8時間のホロ島)、彼はアメリカの情報提供によりGPSで居場所を探知された。そして密告者のフィリピン人には、米国政府から500万ドルの懸賞金が与えられた。まさに“キリングフィールド”。

 日本から限られた情報をもとに眺めていれば、ザンボアンガという所はさぞかし危険な場所に思えてくるだろう。特にこの町には、テロリスト掃討の拠点となっているフィリピン国軍ミンダナオ軍管区の本部があるし、アンドルーズ空軍基地には、フィリピン軍との共同作戦(表向きは“訓練”)のため、沖縄から米軍海兵隊もやってきている。要するに”キリングフィールド“への出撃拠点なのだ。当然外務省の海外安全情報も、最も危険度の高いクラスに次ぐ、「渡航の延期をお勧めします」という地域になっている。

 ただ、この海外安全情報は、あくまでも用心深く、“一網打尽”的に平均的な評価をしているもので、立場が変われば見方も変わるとか、時々刻々の状況の変化とかには、なかなか対応はできない。つまり確かな現地情報を得られれば、“危険“と思われている所だって、実はマニラなどと比べてもむしろ安全だったりする時もある。

 私は以前赴任していたジャカルタで、安全に関する認識について180度発想の転換を迫られた経験がある。1998年スハルト政権を退陣に追いやったジャカルタ暴動。当時ジャカルタ中が火の海となり、現地の日本人に対して国外退避勧告が出た。インドネシア全土に散らばるJICAの専門家や青年海外協力隊なども国外に退避、ジャカルタの高級住宅街に集中していた基金の派遣専門家もシンガポールに逃れた。そんな切迫した状況の中、基金のフェローシップで当時ジャカルタのど真ん中にあるスラムにホームステイして、都市開発について研究していたある若い学者から、ぜひそのまま居残って暴動の行方を見届けたいと懇請された。市内では暴動、略奪が横行していたが、そのスラムに住む住民は嬉々として“戦利品”を持ち帰っていたようで、敵の真っ只中にいるのが最も安全、という彼の判断だった。私はすぐに東京にその旨を伝え、本部の英断で彼をそのままジャカルタに残した。地域研究者にとっては千載一遇のチャンス、その判断は今でも正しかったと思っている。

 今回の訪問にあたっては、アテネオ大学の講師にあらかじめ町の様子を確認して、何ら問題はないということだったので決行したわけだが、実際に行ってみたところ、少なくとも町の中では軍や警察をほとんどみかけることもなく、あまりの見かけの平和さに拍子抜けがした。

 アテネオ・デ・ザンボアンガ大学は、イエズス会士によって1912年に創立された由緒ある大学で、付属の高校や小学校まで含めると6000人の学生を抱える。私立の名門校だけに学費も高く、キリスト教徒の富裕な家庭の子女が中心。被り物をしたモスレム女性はあまり見かけない。表敬訪問をした学長は、イエズス会のフィリピン人神父でもあり、ある意味では17世紀以来のキリスト教徒殖民の歴史と、今の姿を象徴している。彼はこの地の紛争について、「キリスト教とイスラム教という宗教対立ではない」と言い、マイクロ・ファイナンスなどの開発援助プロジェクトを通じて、貧困の問題を解決してゆきたいと抱負を語った。いわば“支配する側”の中枢にいる人といってもいいのだが、その真摯な姿から、少しは希望が見えてくる。

          アテネオ・デ・ザンボアンガ大学

 翌日、ザンボアンガからバシラン島に渡った。アブ・サヤフの生まれた土地であり、今も最大の活動拠点である。まあさすがにそこまで行くとなるとある程度の覚悟はいるし、何かあった場合の責任はどうなるんだということになるのだが、実際は、島へ渡る船内もいたって長閑なものだった。もちろんアテネオ大学講師の引率付きで、キリスト教徒が多数を占める危険地帯ではないイザベル市を訪問するということで決行した。バシラン島は6つの市に分かれていて、イザベル市と後述するラミタン市ではキリスト教徒が多数を占める。本当はイスラム教徒の町にも行きたいのはやまやまだけれども、現地の人が薦めない。このあたりが本当の限界というものだろう。

 イザベル市ではアテネオ大学とは反対の側、つまり長い間侵食され続けてきた“支配される側”のイスラム教徒が多く学ぶ、バシラン国立大学を視察することとなった。さらにイスラム教徒である学長の案内のもと、彼の出身地である隣町のラミタン市の分校を訪ねた。シュロの葉を葺いた屋根に、板張りの壁。ここから数時間の距離にあるアテネオ大学を思い出し、隣り合う二つの世界の間に広がる残酷なまでに明瞭な格差を感じぜずにはいられなかった。いかにも仮の作りという校舎では200人の学生が、政治学科、コンピューター学科、それに看護士学科に分かれて学んでいた。6割はイスラム教徒だという。“テロリストの島”の掘っ立て小屋のような学校でも、若い学生の関心を引き付けているのは、マニラの大学でもてはやされているITや看護コースだった。

          バシラン国立大学ラミタン分校



 四方田犬彦氏がパレスチナやバルカン問題について書いた言葉は、ここミンダナオでも真実だ。

 「繰り返していうが、民族と宗教の違いが戦争の原因となったのではない。戦争によって引き起こされた異常な状況が、エスニックな自己同一性を人々に準備させたのである。戦争とは単に軍事的な事件ではなく、人間の文化と生活を一変させ、彼らに敵との対立関係を通して新しいアイデンティティを与える。この時点においてもっとも身近にあって簡単に呼び出されたのが民族であり、宗教であった。」
 (「見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行」・作品社)

 イザベルの町でふと立ち寄ったモスクで、イスラム教徒の男子高校生から話しかけられた。イザベル市は、ジャンジャラーニ兄弟の生まれた町だ。彼らの人生の出発点も、こんな何のへんてつもない町のモスクだったかもしれない。テロリストの首領として米国政府から500万ドルの懸賞金をかけられた男の姿が、その男子高校生と一瞬だぶった。しかし彼らから出た言葉は、日本のマンガの話。「花より男子」が好きだという。屈託のない彼らの笑顔を見ていると、ここが世間で騒がれている“キリングフィールド”の一部であることを忘れさせてしまう。マニラや他の町でもやっているように、このバシランの高校や大学で、日本の映画を上映したり、よさこいソーランを踊ったり、そんなことができる日はいつやってくるのだろうか。いま“テロリストの島”でぼくらのできることは限りなくゼロに近いが、そんなレッテルの貼られた島にも「花より男子」が好きな高校生がいて、ITや看護を学び、外の世界へつながろうとしている大学生がいることを、忘れてはいけないと思っている。


(了)

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