2010/08/10

根付くか日本陶芸の技と心

 しばらくブログのほうはさぼっておりましたが、その間「まにら新聞」に投稿した記事を、写真を付けて再掲しておきます。
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 多島海文化の豊かなフィリピン地方都市の中でも、東ネグロス州のドゥマゲッティは、ビサヤやミンダナオをつなぐ海上交通の要所にある美しい町だ。ここには古くからテラコッタ(土を用いた素焼きの焼きもの)の伝統があり、今でも素朴な土器が作られている。また米国人によるアジア最古の大学であるシリマン大学(1901年創立)をはじめ、多くの学校が集まる学園都市でもある。そんな海とテラコッタと教育の町の大学で、今日本人陶芸家が比人の指導にあたっている。

 丸山陶心さん(63才)は萩焼きの陶芸家。3年に1度、美濃で開催される“陶磁器のオリンピック”である国際陶磁器展に2回入選するなど実績がある。2002年にマニラの国立博物館で個展を行ったが、この国の魅力に惹かれてその後も自費で訪れては各地で陶芸を指導してきた。国際交流基金でも、2007年にドゥマゲッティで開催されたテラコッタの祭典でワークショップを実施。それが彼とドゥマゲッティとの関係の始まりとなった。

              ドゥマゲティでのワークショップ

 東南アジアには、古来より中国人が持ち込んだ焼きものの文化が各地に残っている。インドネシアのカリマンタン島のシンカワン村には、古くからの製法を伝える長さ30メートルを超える窯がいまだ健在である。しかしフィリピンには窯を使った焼きものの伝統は残っていない。戦国時代に秀吉に見出され、日本で珍重された”ルソン壺”は、中国産だと言われている。
 
 しかしテラコッタは、野焼きで簡単に作れることから、このドゥマゲッティの地で代々継承されてきた。近郊の遺跡から出土した装飾土器や生活器具からは、鉄器時代(紀元前2世紀~紀元9世紀)には既にテラコッタが重要な技術だったことがうかがえる。今でも市内ダロ地区には多くの工房があり、素焼きの壺や植木鉢などが売られている。またこの伝統を現代に生かそうとテラコッタを作品に取り入れた美術作家も多く、キティ・タニグチ氏などは市内にギャラリーを構え、国内外でも活躍している。

             ダロ地区の焼き物ショップ

                      キティ氏の作品

 一方でテラコッタには限界もある。簡単で安上がりなために生き残ったローテク文化ではあるが、その容易さがかえって技術発展の障壁にもなる。釉薬を使ったり、焼成温度の高いガス窯を使用したりして、より優れた製品として現代のマーケットのニーズに合うよう革新が期待されてはいるが、なかなか担い手が育たない。生産性が低くて粗悪であっても、ローコストでとりあえず売り物となることで生活を維持するには十分なため、それ以上のことは求めないからだ。

 科学技術省の要請で今年の4月まで国際協力機構(JICA)の海外青年協力隊が何代かに渡って派遣されていたが、技術移転には困難が伴ったようで、現在は派遣されていない。ただ彼らの尽力もあって、陶芸を芸術教育の中に取り入れようとガス窯を導入する大学が現れた。ファウンデーション大学といい、その大学が陶心さんを受け入れて、この7月から新たに芸術専攻の学生に陶芸を教え始めた。

 伝統工芸はもともと無名の工芸家が代々技術を受け継いできたもので、人々の集合体の記憶やアイデンティティーを宿したものである。現代の工芸は、その上にアーティスト一人一人の個性が加わってさらに息づいている。国際交流基金では「文化協力」と称して、開発途上国の文化発展のための様々な支援をしているが、伝統工芸も重要な分野である。例えば陶芸では近年、政情不安で存亡の危機にあったアフガニスタンのイスタリフ焼きの維持・発展に協力するため、アフガン人の陶工と日本の陶芸家との交流を進めている。

 今回、陶心さんの活動を少しだけサポートすることになったが、日本人陶芸家の比での現地指導に対する支援は初めて。学生は4学年合計で25名、週に4時間の授業を2クラス受け持つ。3つのろくろを交代で使い、土のこね方から基礎を学ぶ。いずれは大学自慢のガス窯を使って、作品を完成させるのが目標だ。学生の一人アルマ・アルコランさん(20才)は、「陶芸は初めての経験だがとても楽しい。将来はプロのアーティストになって、陶芸も続けていきたい」と抱負を語る。萩で培った自らの経験と知識、そして陶芸家としての誇りを伝えてゆきたい。陶心さんのチャレンジは始まったばかりである。



「まにら新聞」8月9日

フィリピン映画の熱い思いを日本へ

 現在フィリピンで最も注目されている映画祭、「第6回シネマラヤ」が開催中である(7月18日までフィリピン文化センター)。凋落著しい35ミリ映画に替わって、今この国の映画界、そして映画製作を目指す若者達が熱い期待をよせるデジタルシネマ(Dシネ)。シネマラヤは、2005年に産声を上げた国内最大のDシネの祭典だ。この映画祭を中心に優れたDシネがいくつも生み出されており、それが海外に紹介され始めている。“シネマラヤ現象”とでも言おうか。

 毎年開催されるごとに規模を増し、今年は10日間で長編、短編合わせて一挙に137作品が上映されている。現在のフィリピンを生のまま切り取ったリアリティーと、若者の等身大の姿が映し出されていて、観ていてとてもすがすがしい。9本の長編がコンペに参加しているが、先ごろ行われた選挙の話や、海外出稼ぎ労働者や中国移民の物語の他に、なんと言っても特筆すべきは、ミンダナオものが3本も出品されていることだ。ちなみに多くの映画が英語字幕付きなので、外国人でも楽しめる。

 フィリピン映画が黄金時代を築いたのは過去のこと。しかしここ数年は、”インデペンデント”といわれる大手製作会社に属さない個人によるDシネが盛んになり、コンパクトなデジタル・ビデオカメラの技術的進歩で、多額の予算がなくても撮りたい映画が撮れるようになって息を吹き返した。確実に”ニューウェーブ”が到来している。

 そんな状況を反映して、ここ数年ヨーロッパにおける比映画に対する評価は高まる一方だ。以前このコーナーでも紹介したブリリャンテ・メンドーサ監督は、『キナタイ(屠殺)』で2009年カンヌ映画祭の監督賞を受賞。またイタリアのベネチア国際映画祭では、新人監督発掘が目的の「オリゾンテ部門」で、一昨年と昨年の2年続けてフィリピン人が最優秀賞を受賞した。ラヴ・ディアスの『メランコリア』とペペ・ディオクノの『エンクエントロ(衝突)』という作品だ。ちなみに後者は、前ダバオ市長が結成した”ダバオ・デス・スクアッド”という自警団によるマフィアの粛清殺害がモチーフの社会派人権映画である。

 こうして海外で評価の高まる比のDシネだが、日本での評判はまだまだ。国際交流基金では、かつて日本で比映画を積極的に紹介していた。「フィリピン映画祭」(1991年)や「リノ・ブロッカ映画祭」(1997年)など。リノ・ブロッカ(1991年没)は、20年間に67本もの作品を生み出して黄金期を支え、その後の映画人たちに多大な影響を与えた不世出の監督である。

             基金主催「フィリピン映画祭」(1991年)

 異なる文化間の相互理解を目指す文化交流にとって、日本における外国文化紹介は、海外における日本文化紹介と平行して、車の両輪のごとくに重要な仕事である。一方的に日本文化を魅せつけているだけでは、相手国側から本当の信頼は得られない。映画の分野では、1982年にアジア映画紹介のさきがけとなった南アジア映画祭を開催。その後も東南アジアや中央アジア、2000年以降は中近東やアラブ諸国等の映画を発掘しては紹介してきた。

 残念ながら昨今では、外国映画の上映機会が増えたという理由で、国際交流基金が独自に上映する機会がほぼなくなってしまった。そのため商業上映に乗りにくい東南アジア映画は、まとまって紹介される機会が失われた。現在では、日本で行われる様々な映画祭への出品上映が中心。歴史が古いものでアジア・フォーカス福岡映画祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭。比較的新しいものでは東京フィルメックスなど。その他マイナーな映画祭を含めて、年間数本が数回上映される程度であろう。

 そうした状況の中、新しい動きもある。今年のシネマラヤのコンペ部門の審査員に、東京国際映画祭‘アジアの風’部門ディレクターの石坂健治氏が招待された。同氏は国際交流基金で上述の映画紹介事業を長年にわり手がけてきたアジア映画研究者である。昨年は同映画祭のコンペ部門に初めて比映画がノミネートされたが、彼がその作品を招へいした。今回審査員として参加することで、今後ますます東京国際映画祭とシネマラヤの連携が強まることが期待される。新たな段階を迎えているフィリピン映画。その豊かな才能の宝庫と若者たちの映画によせる熱い思いを、少しでも日本の同世代の人々に伝えていって欲しいと願っている。

              石坂氏とともに

「まにら新聞」7月12日

演劇を通した日比交流

 毎年7月の恒例行事となった日比友好月間。今年も日本映画祭(7月1日より)や、日本を代表する和太鼓グループである倭の公演(7月8~10日)、そしてJポップ・アニメ・シンギングコンテスト(7月24日)など盛りだくさんだが、日比の共同制作事業として重要なイベントがある。日本人作家による新作戯曲を、日本人演出家とフィリピン人の役者で上演するという演劇プロジェクトだ。今、本番に向けて舞台稽古が行われている。

 脚本は直木賞作家の内田春菊、演出は元劇団燐光群の吉田智久で、作品名は「エバーさんに続け!」。“エバーさん”とは、ラリン・エバー・ガメッドさんがモデルで、日比経済連携協定によって日本に渡り、昨年見事に国家試験に合格したフィリピン人看護師のこと。この作品はエバーさんと同じ試験を目指す3人の看護師と、彼女たちを支える日本人医師らをめぐるコメディーで、日本でのフィリピン人看護師の奮闘を描いたドラマである。今回で6年目を迎える「ヴァージン・ラブフェスト」という比の演劇フェスティバルで上演される。フィリピン人脚本家の集まりであるライターズ・ブロックの主催で、未発表戯曲の初めての舞台化を競うものだ。6月22日から7月4日にかけて、「エバーさん」(初演は6月26日、午後3時と8時)を含めて全17作品が、フィリピン文化センター小劇場で一挙に上演される。

 フィリピンは演劇の盛んな国である。歴史的にも16世紀末から演劇の伝統があり、特にキリスト教の布教を目的とした芝居を通じて普及してきた。大航海時代には貿易の中継地だったことから国際色も豊かで、ある書物によれば、1630年には当時のマニラで日本人のキリスト教殉教者に対する祝福をテーマにした芝居が上演された記録が残っているという。その頃マニラは既にアジアにおける演劇の国際共同制作の拠点だったようだ。今ではプロからアマチュアまで全国津々浦々に様々な劇団があり、地域コミュニティーに密着した活動をしている。ミュージカルに至っては、レア・サロンガというアメリカのブロードウェイで主役をはる世界的スターを輩出したほどレベルが高い。

 演劇を通じた国際交流について、一般的にはせりふが中心の芝居は、音楽やダンスと異なり言葉が障壁となって国際交流が難しい分野である。しかし優れた演劇は同時代に生きる私たちが共感できるものが多く、普遍的なメッセージを備えているので、言葉の壁さえなければ国境を越えて共有可能なものである。国際交流基金としても、歌舞伎など古典芸能の海外での紹介と平行して、現代演劇による国際交流を様々なかたちで推進してきた。

 数は少ないが、海外、特にアジアで積極的に活動を展開してきた日本の劇団も存在する。60年代後半に生まれたアングラ演劇を代表する黒テントは、やはり60年代にタガログ語演劇による民衆の啓蒙を目指して結成されたフィリピン教育演劇協会(通称ペタ)と交流することで、その後の日比演劇交流の土台を作った。30年以上前に黒テントの創立メンバーがマニラで体験した演劇ワークショップの手法は、いまも若いメンバーに引き継がれている。

 さらに次の世代では、83年に旗揚げした劇団燐光群が、アジア諸国の演劇人と交流を続けている。劇作家兼演出家の坂手洋二は、フィリピン人俳優をたびたび日本に招待して起用してきた。天皇制や戦争といった社会的テーマを扱う硬派な劇団だが、アジアの隣人との共同制作は、既に到来している多文化社会に視点を据えた活動であるといえる。そして冒頭で紹介した「エバーさん」の演出を手がける吉田はその燐光群の元演出家で、日比演劇交流の本流から生まれた人材である。

 国際共同制作は、既に完成された作品を単に海外で上演するものとは異なり、制作のプロセスで多くの翻訳や対話を積み重ね、理解と信頼を求めてゆく手間のかかる作業である。異文化を尊重する寛容さが無ければ、その作業はむなしいものとなる。その分野で、実は日本はアジア諸国の中でかなりの実績を積み重ねてきている。日本社会の内向き傾向が強いと言われる昨今だけに、こうした国際共同制作の試みは、日本の外に向けて放たれた窓として、これからもぜひとも支援してゆきたい。



「まにら新聞」6月14日

日本語の窓を通して世界を理解

 現在当文化センターでは、フィリピン教育省からの要請の下、マニラ首都圏にある高校の社会や英語の先生たちを集めて、「日本語教師養成講座」を開講中である。4月12日から5月21日の月曜から金曜の28日間、朝9時半から午後3時までびっちりの集中特訓コースだ。15校、30人の先生が学んでいて、6月から新学期の始まる高校で、この講座で学んだ授業をほぼそっくりそのまま、今度は自分たちの学生を相手に教える計画である。

 ある日の授業では、フィリピン人がよく使う「パセンシャ」という表現について学んだ。元の意味は「我慢」だが、状況に応じて「謝罪」や「感謝」の意味になる。そんなタガログ語の用法について1時間、その間ほとんど日本語は出てこないし、教えない。どんな言語でも使う時の状況が重要だということを気づかせるためだ。次の授業になってようやく日本語の「すみません」を勉強する。「すみません」も状況に応じて謝罪、感謝や呼びかけ表現になる。

 またある日の授業では、誕生日を祝う方法は国や民族によって様々であること、でも祝うという気持ちは共通していることを紹介した。日本語や日本の文化を学ぶと同時に、他の国や自国の文化についても考える。日本語を学ぶことそれ自体が目的ではなく、日本語を一つの窓として、異なる文化を理解する力をつけること。それがこの授業の目指している理想である。異なる文化を受けとめ対応する能力を、専門的には「文化リテラシー」と呼んでいるが、そんなユニークな”語学教育”が注目されている。

 国際交流基金が2006年に行った「海外日本語教育機関調査」では、全世界298万人の日本語学習者の内、約57%が初中等教育段階の子供たちで、世界的傾向として学習者の若年化がかなり進んでいることが判明した。例えば隣国のインドネシアでは、日本語は既に高校の選択科目として導入されており、全国で24万人以上の高校生が学んでいて、その後も増え続けている。
 
 しかし比の高校では実験が始まったばかり。昨年の6月に教育省がガイドラインを発表して、日本語とともにスペイン語、フランス語のパイロット授業が正式に認知され、マニラ首都圏の11校で日本語授業がスタートした。従ってまだ高校には日本語を専門に教える先生はいない。

 また導入といっても選択科目であるため、実際の学習時間は週に2時間程度で、年間60時間が標準である。これだけでは無論流暢な日本語を話せるようになるわけではない。ただその限られた時間の中で、「ことば」の力だけでなく、「文化リテラシー」の発想に立って、これからのグローバル社会で活躍できる人材を育てることは可能であり、それが今求められている。そうした学生の中から、将来的に日本語能力を伸ばす者が出てくることも期待している。

 こうした現状を受けて当センターでは、昨年より日本人専門家2名とフィリピン人講師5名による「教材制作チーム」を結成し、オーストラリアや日本で研修するなどして、新たな教材作りを進めてきた。冒頭の講座はこれまでの活動の成果を試すものだ。参加者の一人、トーレス高校のエドワード・タン教諭は、「子供たちに文化的に寛容であることの大切さを教えることができる。自分なりにアレンジして教えてゆきたい」と抱負を語る。

  新たに完成した独自教材『enTree 1 Halina! Be a NIHONGOJIN!』(通称「enTree」)

 フィリピンはもともと国内に多くの”異文化”を抱えた多民族国家である。民族言語学的に110のグループに分かれており、主要な言語だけでも13ある。375年間にわたる植民地支配によって外来文化が混合し、さらに米国支配の影響で現在も英語が公用語。幸か不幸かその英語力が影響し、世界中に出稼ぎ労働にでかけ、現代の”ディアスポラ(離散)”の民とも呼ばれる。異文化理解は、フィリピン人のアイデンティティそのものに関わる本質的な課題である。その意味で、高校で「文化リテラシー」を養うことは比国の教育界全体にとっても大きな意味があるだろう。日本語がその一つの窓となるように、さらに新たな人材や教材の開発を進めてゆきたい。



「まにら新聞」5月17日

2010/03/19

バスーラ(ごみ)に託すメッセージ

 先頃マニラ日本文化センターでは、「ビデオ・アクト!日本のドキュメンタリー映画の現在!!」と銘打って、『バスーラ』(四ノ宮浩監督)、『フツーの仕事がしたい』(土屋トカチ)、『遭難フリーター』(岩淵弘樹)、『破片のきらめき』(高橋愼二)、『めぐる』(石井かほり)の5本を上映した(3月6~7日、シャングリラ・プラザ・モール、17~18日、フィリピン大学フィルムインスティテュート)。

 もともとフィリピンのスモーキーマウンテンを描いた『バスーラ』を中心に組み立てたプログラムだが、派遣労働者やフリーター、精神障害とアートなどをテーマとした作品、それに加えてフリーターとは対極にある職人の世界など、現代日本を見つめるにふさわしい多彩なラインナップになったと思う。

 どの映画も面白かったが、その中で特に今回のメインにしたのが『バスーラ』。1988年から20年間にわたってトンドのスモーキーマウンテンを描いてきた日本人監督四ノ宮浩氏の、総仕上げにあたる作品だ。日本では既に公開されて話題となっている映画だが、フィリピンを描いていても肝心のフィリピンでは未公開だった。臭いものには蓋をしたがるフィリピン人や、娯楽作品嗜好の強い大半のフィリピン人にとっては、あまり見たくないような内容だろうが、そこをあえて上映したいと思った。またマニラに住んでいる日本人にもアピールするのではとも思った。

 四ノ宮監督はこれまでに『忘れられた子供たち スカベンジャー』(1995年)と『神の子たち』(2001年)の2作品を制作しており、今回の作品は第一作目で主要登場人物として描かれたクリスティーナとその家族を中心に、スモーキーマウンテンと人々の昔と今を描いている。第一作撮影当時、クリスティーナは16才、今では36才で5人の母親。上映会の当日には彼女と子供たちが駆けつけてくれた。

 90年代頭書、まさに“スモーキーマウンテン”という子供の歌手グループが売れて紅白まで出場して話題となったが、かつてのゴミ捨て場は94年に閉鎖となり、そこで暮らしていたスクオォッターの家族は、今は政府から無償で貸与されたアパートに移住している。古い“山”は閉鎖となったが、甚大なゴミが無くなるわけでもなく、現在はその旧スモーキーマウンテンのすぐ近くに、“アロマごみ捨て場”として新たなスモーキーマウンテンが生まれ、ゴミが集めれば人も集まり、新たにニ千世帯、1万人以上が劣悪な環境で暮らすようになっている。“アロマ”とはいかにも取ってつけたような表現で、現実の悪臭のイメージの対極にある言葉だ。
 

 『バスーラ』を完成させ、“フィリピンにひと区切りをつける”ために、監督はそのアロマごみ捨て場に、「バスーラ・ハウス」なる施設の建設運動を始めた。日本から多くの学生もスタディーツアーで訪れ、現地でボランティア作業にあたっている。今後はそこを拠点に、子供のためのクリニックにして、日本の学生が宿泊できる施設にするという計画だ。映画上映の後、私は早速その「バスーラ・ハウス」を見に、アロマごみ捨て場を訪問した。

 トンドのスモーキマウンテンは初めてだったが、別の地域にある、これまた巨大なゴミ捨て場とそこに自然発生的に生まれた町であるパヤタスには二度ほど行ったので、その劣悪さは想像できたが、やはりすごいものだった。ちなみにそのパヤタスで活動する、やはり日本人が作ったNGOであるSOLT(ソルト)では、お母さんたちに手に職を付けてもらおうとタオルの制作・販売を行っていて、これがなかなか評判となり売り上げも順調なのだが、この3月には当基金の助成でそのお母さんたちを日本に招待し、自分たちの商品のマーケティング調査を行い、オルターナティブ・トレードを推進しているNGOなどと交流する予定だ。

 ビジネス街のマカティ地区からアロマごみ捨て場に行くと、まさに“天国と地獄”。汚臭と汚泥にまみれたゴミに囲まれて生きている人々の生活は言語に絶する壮絶ぶりだ。途中西欧人グループとすれ違ったが、みんな頭に風船飾りかなんか着けて(たぶん何かのお礼にそこの子供たちにもらったのだろうが)、場違いなほどに快活な雰囲気だった。そういう私自身も、ぼろをまとった裸足の子供たちには、ほぼ無理やりな笑顔で接したりして、悲惨な状況を目前にして、自己防衛なのかなんなのか、妙に快活にふるまってしまうのは何故なのだろうか。


 四ノ宮監督は何故この映画を作り、NGOを立ち上げて「バスーラ・ハウス」を建設しているのだろうか?それは何故この私が『バスーラ』の上映を国際交流基金の仕事として(つまり日本人の税金を使って)行い、そして私自身がこの「バスーラ・ハウス」にまで来ているのか、という疑問にも重なる。こうした“社会派”映画を上映すること自体が、普通の娯楽映画の上映とは違った意味を持つはずだ。ここはただ“やりっぱなし”にしないため、少しでもこの“何故”という疑問について書いておきたい。

 シャングリラでの映画上映後に監督は、300名を超える観衆の前で、こう切り出した。「20年経ってもフィリピンは全く変わってないんですよね・・。」そして、私にはこっそりとこうも言った。「この先もフィリピン政府には全く期待できないよな。」まったく同感である。

 その一方で、彼のホームページにはこのようなことが宣言されている。
『僕は絶対に「日本の若者が世界を変える」礎としての「BASURA HOUSE」を完成させ、ひとりでも多くのゴミ捨て場の子供たちの命と希望を守ります。』
『愛を込めて「共に分かち合う」こと、また「互いに仕え合う」ことをめざします。』


       バスーラ・ハウスとボランティアの学生たち、左は四ノ宮監督

 はて、私が直接監督の肉声として聞いた諦念と、この力強い“希望に満ちた”メッセージとの間にあるギャップは一体何なのだろうか。そして、20年間の長きにわたって、このフィリピンに対して同じ希望を、そして絶望を持ち続けてきたということは、いったいどういうことなのだろうか。

 私のかつての同僚で、敬愛する映画研究家の石坂健治氏の著作である『ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話』(現代書館)の中で、土本氏のコメントとしてこんな下りがある。

『私がドキュメンタリー映画を作るときも、いつもそこには考えることの快楽があった。最近、「水俣映画をなぜこのように長い間作られたのですか」と聞かれた。私は「水俣病が私を考え続けさせたからです」と答えた。これは私の正直な気持ちだ。』

 土本氏は水俣病を告発する作品を作り続け、それが大きな運動体の中心となり、現に水俣病は大きな社会的関心を集め、住民を動かし、行政を動かし、今、50年以上の時を経て、ようやく最終的な“解決”に向かおうとしている(昨今の報道では、未認定患者への和解金支払いについて裁判所の勧告が出た)。そんな土本氏と四ノ宮氏とを比較することはできないが、ここフィリピンの絶対的貧困にも、出会った(出会ってしまった)者に、何かを考えさせる強烈な磁場があることは確かなことだと思う。とりあえず考えてみるか、思考を止めるかは、無論、個人の選択だけど。

 そしてドキュメンタリーを作り、人に見せるという行為は、それを誰かに押し付けるとかいうものではなく、たった一人でも二人でもいいから、何かを感じ取って欲しいということだろう。かつて記録映画が、熱い政治の季節の中で、社会変革を唱えるメッセージを揺籃するメディアとして存在していた時代が過去のものとなり、運動の主体となるべき確かなバックボーンを具えた思想が失われた現代では、ばらばらに拡散しているかに見える様々な価値観の中で、とにかく何かに拘泥し、思考をやめないために続けること、それが重要なのではないかと思う。考えたからといって何かが変わるかっていうと、そんなことはない。考えることでとりあえず納得してしまうというのも、偽善者すれすれの態度だ。でも、ゼロと、ゼロではないとは確かに違うのだと思う。ここフィリピンは、圧倒的な、ときに信じがたい事実の前に、気持ちがすくみ、思考不能の海に沈んでしまう可能性が常につきまとう場所である。それでもなんとか自分の目でみて一度は考えてみること、この『バスーラ』という映画は、そんなことを教えてくれる。

2010/03/09

自然災害を語り継ぐ試み

 現在フィリピンでは、エルニーニョが原因とされる旱魃による被害が深刻である。昨年は逆に台風「オンドイ」、「ペペン」の水害がひどかった。四方を海に囲まれて、モンスーンも台風もやって来る火山列島の国は、大規模自然災害のデパートのようだ。

 世界に目を向けると、つい最近ではチリ大地震やハイチ大地震(死者23万人以上)、まだ記憶に残る08年の四川大地震(同5万人以上)や、04年のインド洋大津波(同24万人)など、世界中で大規模災害による犠牲者の数は年々増え続けている。古来より自然災害の経験を神話や物語で言い伝えてきた例は枚挙にいとまないが、教訓を後世に語り継ぎ、被害を最小限に抑える努力がますます重要になっている。

 先ごろ(2月15~16日)「東南アジアと日本における災害の危険回避」と題した国際セミナーが国立フィリピン大学で開催され、当基金が支援した。自然災害にまつわる様々な事柄を文化人類学、歴史学、地理学、教育学などの面から取り上げた。インド洋津波で最も多くの犠牲者を出したアチェから参加した研究者は、妻や子供を含む家族全員を失ったが、今ではその悲劇を乗り越えて、津波への対処方法を後世に伝える立派な語り部となっている。アチェは、私もかつて津波の5年前、インドネシア在勤時代に現地の国立公文書館を訪ねたことがある。昨年には津波博物館が開館している。

                    アチェの津波博物館

 世界では今、災害を後世に語り継いでいこうという試みが盛んになりつつある。このセミナーには、兵庫県教育委員会や淡路高校の先生も参加したが、阪神淡路大地震の罹災者たちがそうした運動の中心にいる。今月の20日より世界各国から約20名の専門家を招き、神戸で「世界災害語り継ぎフォーラム2010」が開催される予定だ。(国際交流基金日米センター助成、問い合わせは同フォーラム事務局:078-842-2311)

 ひるがえってフィリピンでは、忘れっぽい国民性か、過ぎ去ったことにくよくよしない天性の明るさからか、はたまた歴史感覚の欠如か、災害を語り継いでゆくことがまだ一般的でないようだ。

 フィリピン大学でのセミナーの翌日、ピナツボ山とアエタの村を訪問した。91年に起きたピナツボ火山の大噴火で、大量の火山灰や火山泥流が周辺地域を埋め尽くして多くの避難民を出した。中でも深刻な影響を受けたのが、そこに古くから住んでいたアエタ族の人々だった。噴火から18年が経ち、今現場はどうなっているのかを視察するのが目的だった。

 アエタ族は約2万年前にマレー半島経由で比にやって来たネグリート系の先住民で、現在人口は約3万人。狩猟・採集と焼畑が生活の基礎で、褐色の肌と縮れっ毛が特色。避難生活を余儀なくされていた人々も、徐々に以前の村に戻るようになったが、豊かな森林は灰に埋もれてしまい、かつての暮らしは蘇らない。外見や教育の遅れからひどい差別を受けていて、町での生活も容易ではない。

 ピナツボ山の噴火は、20世紀最大の噴火とも言われるほど激烈なものであったが、幸いに予測が的中して住民の避難が進んだため、噴火による直接の犠牲者の数は300名程度と少なかった。アエタ族のリーダー、ローマン・キング氏の話では、森の中の鳥や蛇が大量に移動するなど様々な前兆があった。山の洞窟に逃げ込んだ人々は、ラハール(火山泥流)に飲み込まれて命を落としたという。

                     ローマン・キング氏

 大爆発で吹き飛んだ山頂跡には直径2.5キロの巨大なカルデラ湖が生まれ、今は美しい公園が整備されていて、週末はかなりの観光客が訪れるようだ。我々はその地域を管轄する空軍の案内で軍用トラックに乗り、ラハール(火山泥流)で埋もれた以前は川であった地帯を1時間にわたってしたたかにゆられ、山頂付近の休憩所に到着。そこから山頂の公園までは、ハイキングで20分。一般の旅行者もかなりいて、4輪駆動のジープで訪れていた。

                     ラハールの上を疾走


             四駆のジープで観光客もやって来る


           ラハールの上に作られたアエタの人々の家

  山頂のカルデラ湖は、エメラルドグリーンの神秘的な水をたたえていた。しかし気になったのは、噴火に関する資料館どころか、一切何の説明もなかったことだ。


  今回の国際セミナーを主催したフィリピン大学国際研究センターでは、新しい取り組みとして今年度から「災害の文化」と題する講座を開講している。現在15名の学生が学んでいるが、専攻は心理学、経済学、工学など様々だ。同センター代表のシンシア・ザヤス教授は、将来的には小学校から大学の授業で災害について学べる環境を整えたいと抱負を語る。この国でも今後防災意識が高まり、貴重な体験を次世代に伝えてゆく動きがもっと広がることを期待したい。

 ほぼ同じ内容の記事を「まにら新聞」にも掲載しました。


(了)

2010/02/15

平和を愛する人々の静かな戦い

 ここフィリピンで暮らし、仕事をしていると、絶望的な貧富の格差や腐敗しきった政治など、とてもやるせないことも多いのだけれども、時々きらりと光る人に出会い、まだまだフィリピンは捨てたものではないなあ、とうなったりすることもままある。今回の出会いはマンギャン族の若きリーダー。四月に予定している訪日研修(テーマは文化の多様性)の候補者選びのためミンドロ島を訪れた。

 フィリピンは民族言語学的には110のグループに分かれていると言われているが、中でもこのマンギャン族は以前からとても気になっていた存在だ。”イゴロット”と総称されるコルディレラ地方の山の民や、”モロ”と呼ばれるミンダナオのイスラム教徒たちは、いずれも差別を受け、教育の格差に苦しみ、経済的にも決して恵まれてはいないけれども、血気盛んな民族気質のゆえ、多くの人々の声を糾合し、自らのアイデンティティを声高に主張し、中央政府などに対して異議を申し立ててきた。しかしマンギャン族は、平和を愛するがゆえに闘うことを避け、または自らの利益のみを追求することがその美学に反するがゆえに、弱い立場でいることに甘んじ、結果として自分たちの土地を追われ、人里離れた電気も通じない土地でひっそりと暮らしているという。

 『Mangyan Survival Strategies(マンギャン族の生き残り戦略)』(Helbling, Jurg/Schult, Volker著, New Day Publishers, 2004)によれば、マンギャン族はフィリピンで最も平和を愛する、言い方をかえれば臆病な民族であるという。フィリピンで七番目に大きな島には、二千五百メートル級の山が迫っていて急峻な渓谷で分断されており、今でも島内をくまなくつなぐ道路は無く人の往来が困難な場所だ。そんな土地でも先住民たちはスペイン植民地時代からキリスト教化を迫られ、二十世紀になってからはアメリカからの独立戦争や日本軍占領時代を通して攻撃は繰り返され、さらにそれと平行してルソン島やビサヤ地方からの移民がやって来て、六十年代以降になるとそれが大量になり、法律に無知なマンギャン族は土地を奪われていった。しかし彼らはそのたびに紛争を避け、ある者はより生活環境の厳しい山に逃れた。そして結果的に山に入った人々の間に伝統的価値観や文化を保った生活が残されたという。争いを避け、臆病と言われても、それが結果として種族と文化を存続させる究極の知恵であったということにはおそらく大きな意味があるのだろう。

 世界中から消滅しつつある豊かな文化に、私たちが本当に思いをはせるためには、マイノリティの中でもさらにマージナルな場所に追いやられている人々のことについて考える必要があるのではないか、そんな思いからこのマンギャンを取り上げてみたいと思った。

 ミンドロ島の先住民族であるマンギャンは、大きく七つの部族に分かれる。中でもハヌノオ・マンギャンは比較的よく知られていて、日本語の本では『ハヌノオ・マンヤン族』(宮本勝著、第一書房)がある。またインド起源の独特の文字と、アンバハンと呼ばれる美しい韻をふむ七音節の詩が有名だ。オランダ人のアントゥーン・ポストマ神父がそのハヌノオの村に40年にわたって住み続けていて、その間に収集した詩は『Mangyan Treasures』(Mangyan Heritage Center、2005年)などとして出版されている。

 今回会うことになったのは、ミンドロ島の北部に住んでいるイラヤという部族のレオンシオ・バナアグ氏、通称オッチョ。イラヤは30のコミュニティーに三千人が暮らしている。上記の宮本氏の著書では、1970年のデータとして推定人口六千人と書かれているので、この四十年で半減したことなる。彼の住む村はミンドロ島の北の玄関、プエルト・ガレラから徒歩で1時間(ただし普通の人の足だと2~3時間)。マニラからプエルト・ガレラまでバスとボートで4時間くらいだから、私でも6~7時間で到着する。そんな場所に電気も通じない、素足で暮らしている人々の村がある。近いとみるか、遠いとみるか。かつてジャカルタで勤務していた時代、ジャカルタから車で4時間の距離にあるバドゥイという先住民族の村を訪問したことがある。彼らはマンギャンよりさらに保守的で、かたくなに文明を拒否して暮らしていて、一切の工業製品の使用を禁止している人々だが、文明からの隔絶は、物理的な距離感からくるものではなく意思の問題であると思う。

 さてそのオッチョは、12人兄弟の下から三番目で32歳。農耕を生業とするマンギャンにとって、子供の数は多いほどよい。村のマンギャン・コミュニティーの小学校を出た後、ビクトリアという町で農業大学を卒業し、1年間イスラエルに留学もしたことのあるインテリ。その間マンギャンのためにソーシャルワーカーとして働き、現在ではマニラに拠点のある国家文化芸術委員会から、マンギャン族のリーダーに指名されている。リゾートとして有名なホワイト・ビーチに近いイラヤのコミュニティーを訪問した時も、長老や村人から色々な相談を受けていた。

 彼のこれまでの業績のハイライトはなんと言っても2004年に「先祖伝来の土地証明書」(Certificate Ancestral Domain Title)を獲得したことだ。五千七百ヘクタールに及ぶ広大なその山林は、ホワイト・ビーチの背後にどんと鎮座している。その権利は全てイラヤの人々にゆだねられた。ちなみに山手線内の土地面積は六千三百ヘクタール。



 フィリピンでは「先住民族権法」(Indigenous Peoples Right Act)が1997年に施行され、先住民族国家委員会(National Commission on Indigenous Peoples)という政府機関も設立された。この法律自体は本当によくできていて、先祖伝来の土地に関する権利や、文化や言語、慣習法を保護する権利など、先住民の権利保護を包括的に保障している。例えば先祖伝来の土地をどう定義するのかといった問題については、原則として先住民自らの申告制をとっていて、その根拠は慣習とか言い伝え(を書き記したもの)や、物理的な標しである境界石や古い村とかからどれか一つ、という規程になっている。実際にイラヤの土地の境界と認定された境界石も見せてもらった。



 ところでこの「先住民族権法」はおそらく世界的にも進んでいるほうで、例えば国連でさえ「世界先住民族の権利に関する宣言」が国連総会で採択されたのが、ようやく2007年になってからだ。

 日本にいたっては先住民族は公式にはいないことになっているようで、アイヌを先住民族として認めるのか、認めないのか、中途半端な状況にある。1899年から1997年まで施行されていた 「北海道旧土人保護法」はアイヌの保護を名目に共有地を奪ったものであったようだし、悪名高い同法に代わって制定された「アイヌ文化振興法」は、アイヌを先住民族とは認めずに、先祖伝来の土地の権利については沈黙したままである。

 そんなことを考えた場合、この五千七百ヘクタールの土地の持つ意味はまた違ったものになるだろう。ちなみにマンギャン全体では彼の業績が第一号となり、他にも2つの地域で証明書が発行されたようだ。オッチョはそうした土地問題以外にも、ユネスコが支援している伝統文化保存運動(School of Living Tradition)で12歳から25歳の若者を対象に音楽や詩、伝統工芸を教える活動をしたり、マンギャンの祭りをオーガナイズしている。様々な活動をしてはいるが、オッチョの現在の最大の関心事で、手が付けられないでいることは、消滅の危機にあるイラヤ語の問題。いまのところ小学校でも教えておらず、イラヤ語を話せる人の数は減る一方だ。

 素晴らしい法律に守られ、広大な土地を与えられているといっても、現実はかなり悲惨である。今回訪問したカリパナンという村は、イラヤのもとの居住地を離れて、低地人との混血が進む中で新しくできた村だが、主な収入源は伝統的なラタン(籐)のバスケットと出稼ぎで、極めて不安定。私もいくつか購入したが、完成まで5日間くらいかかるものが500ペソ程度。1日、100ペソ(約200円)の勘定で、それも運良く売れた場合である。粗末な掘っ立て小屋の不衛生な環境に暮らしている。マニラのアヤラ財団の支援でできた学校だけが妙に立派だが、生活は一見して苦しそうだった。出稼ぎと言ってもいい職にはめったにありつけず、マンギャン独特の風貌と貧しい身なりから、タガログやビサヤの移民からは疎まれ、あからさまな差別を受け続けている。





 彼のように教育を受けていながら電気のない村にとどまるのは、一体どういった動機なのか尋ねたら、「町で暮らしても常に自分の生まれ故郷のコミュニティーのことが心配だ。結婚して子供でもできれば自分の家族のほうが大切になってしまうので、いまは結婚もしたくない」と語り、私をホワイト・ビーチのホテルまで見送った後、山の中へ帰っていった。夜になれば、ランプの光の中でまだ見ぬ日本のことをあれこれと思い巡らしているだろう。そんな若者も育むことのできるフィリピンの夜の闇は、私など想像もできないほど、とても深いのだと思う。

2010/02/09

平和構築をモスレム女性たちの手で

 紛争が泥沼化しているミンダナオのモスレム自治区を中心に、全国各地から150名を超えるモスレム女性リーダーたちが集まり、平和構築に向かって行動することを高らかに宣言した。

 「平和の灯火、女性たちの誓い」と題された国際会議が、1月24日から2日間ダバオで開催された。主催はマグバサキタ財団とイスラム民主主義フィリピン・カウンシル(PCID)。前者は、比史上でただ一人モスレム女性で上院議員となったサンタニーナ・ラスル氏が代表で、モスレム社会の識字教育の推進に尽力してきた。PCIDの創立者は娘のアミナ・ラスル氏で、イスラム社会で重要な役割を担うウラマー(男性知識人)の全国的組織を作り、イスラム教徒の声を糾合してきた。今回の会議では女性知識人(アラビア語で「アリーマ」)の組織化を目指し、海外からゲストを招いて初の全国大会となった。

 日本政府はミンダナオの復興と開発のために、日本・バンサモロ共同イニシアティブ(通称J-BIRD)などを通じて、教育、衛生、労働などのインフラ整備を重点的に支援しているが、私たち国際交流基金は、こうした文化交流や知的交流を通じた平和構築の活動を支援してゆきたいと考えている。

 ミンダナオの状況が一昨年の8月から悪化して以来、一時は50万人もの国内避難民が発生した。比政府と分離独立派の和平交渉はようやく再開されたが、今でもミンダナオ中西部を中心に難民キャンプがあり、恐怖心から自分たちの村に帰れない多くの女性や子供たちがいる。

 昨年11月にはマギンダナオ州で、今年5月に予定されている統一選挙のからみで対立する候補者による57人もの虐殺事件が起きた。犠牲者には多くの無抵抗な女性やジャーナリストが含まれていて、この不名誉な事件は一気に世界中に知れ渡った。現職の同州知事をはじめ、軍・警察や私兵を含む600人以上の男たちが書類送検されている。今回の会議には、逮捕された州知事の代行を務めるモスレム女性のナリマン・アンボルット氏も参加して、マギンダナオの復興を説いていたが、その弁舌には覇気はなく、彼女や同州の人々がこの事件のトラウマから快復するには相当な時間がかかるだるだろうと思われた。

 一昨年私が初めてマグバサキタ財団の事務所を訪れ、サンタニーナ元上院議員から話を聞いた時、「女性こそが平和への触媒たらんと立ち上がるべき時だ。家族の要である母親として、地域コミュニティーの中心として。大きな紛争の種は、多くの場合はコミュニティーという身近な世界で起きる争いや憎しみあいがほとんどだ。そこではモスレム女性としての知恵と慈愛が試される。男性に支配された暴力に彩られた歴史を今こそ変えなくてはならない。ミンダナオの平和構築を私たち女性の手で実現してゆきたい」と熱く語っていた。

 無論ミンダナオ紛争の根底には貧困、そしてキリスト教徒の支配する他の地域との格差という大きな社会問題が横たわる。教育の格差も深刻だ。2003年の統計によれば、モスレム自治区の識字率は比国内で最低の70%。他のミンダナオ地域の87%からもさらに離されている。

 今回の会議には、ジェンダー問題で国政をリードするピア・カエタノ上院議員や、女性政党ガブリエラの党首で下院議員(政党リスト制)のリザ・マサらも参加して、女性の社会進出について熱弁をふるった。ジェンダー問題の大物を二人も呼んでくるとは、さすがに政治力がある。海外からの参加者の中では、特に四千万人のモスレム会員を抱えるインドネシアの巨大組織、ナフダトール・ウラマーの女性支部代表も参加し、先行するモスレム女性組織の奮闘史を紹介した。

 今後はこのネットワークを通して、自分たちの地元で識字教育の改善や人材育成に取り組み、全国レベルで彼女たちの声をまとめて中央の政界や国際社会に訴えてゆく計画だ。今回の会議を企画したアミナ氏の夢はつきない。モスレム女性の声を届ける雑誌や、ゆくゆくはモスレム女性政党も作りたいと抱負を語る。産声をあげたばかりのモスレム女性たちの力で、ミンダナオの平和構築に新たな灯火がともされることを心から願っている。



 ほぼ同じ内容の記事を『まにら新聞』にも掲載しました。

2010/02/01

カタリスト(触媒)としての文化交流

 海外にいると、時に外国人だからこそできることがある。旧習やしがらみで縛られた地元の人々には思いもよらないこと。そんな大胆なことが、ある意味”よそ者”であるがゆえに実現できる。バギオに本拠を置くコルディレラ・グリーン・ネットワーク(CGN)が行っている「コリディレラ・ユース・エコ・サミット」という活動を見ていてその思いを強くした。

 バギオからジープニーで北の山中をさらに4時間のところにレパントという鉱山の村がある。山中の村、といより立派な町と言ったほうがいいかもしれない。町全体がLepanto Consolidated Mining Companyの所有する私有地で、従業員は現在千七百名。家族を含めれば約七千名が住んでいて、学校、病院、スーパーなどもある。そんな山中奥深くに、かつて映画館として使われていたというかなり立派な劇場もあり、そこが今回の舞台となった。

 エコ・サミットは今回で3回目。コルディレラ地方の子供たちの環境問題への関心を高め、理解を深めるのが目的。同地方を構成する六つの全ての州(アブラ、アパヤオ、ベンゲット、イフガオ、カリンガ、マウンテン・プロビンス)から代表の高校を選んで、環境をテーマにした演劇作品を創作。自分たちのローカル言語で制作して、一ヶ所に集まって発表するというもの。レパントからもこの鉱山内にあるレパント国立高校の学生たちが参加した。日本人演出家でこのブログでも何度か紹介したことのある吉田智久氏の演出。同氏が作品作りのために各州の代表校で実施したワークショップの記録、コルディレラ山中行脚のレアーな記録はCGNのブログで読める(http://ameblo.jp/cordillera/)。また吉田氏以外にも日本人ミュージシャンや舞踊家が参加してこのイベントに国際交流の花を添えた。私たちも国際交流の活動に対して初回から支援してきた。



 このイベントの仕掛け人はCGN代表の反町眞理子さん。鉱山というと、環境破壊の象徴と見られる存在。しかしそんな象徴の懐で、まさに環境問題をテーマにしたイベントを実施するという大胆さ。最初はホストとしての受け入れにあまり積極的ではなかったようだが、それは反町氏の持ち前のバイタリティーと、CGNスタッフの一人がこの町の出身だったことが幸いして、実現にこぎつけた。開会日にはLepanto Consolidated Mining Companyからも代表が挨拶に現れたし、当日の鉱山の見学ツアーでは、環境に配慮した同社のポリシーを私たち外国人やサミットに参加している高校生に説明していた。

 しかし他のNGO関係者からあとで聞いたところによれば、鉱山開発によって付近の地盤が弱くなって崩落や沈下の問題に悩まされていることもあるようで、やはり環境に対してイノセントではいられない。だからこそ、今回の企画の大胆さがわかる。

 コルディレラ地方は”イゴロット”と呼ばれる山地民族の故郷だ。かつてはヨーロッパからやって来た宣教師などから“首狩族”と言われ、その勇猛さから恐れられた人々だが、別の視点から見れば、スペイン植民地軍に対して頑強に抵抗して十九世紀後半まで独立を貫いた誇り高き民族である。コルディレラ地方は古くから豊かな金の産地として知られ、十六世紀以来その金の魅力に惹きつけられた西洋の探検家や宣教師、そして植民地政府軍とイゴロットとの争いが絶えなかった。その抵抗と帰順の歴史は、『The Discovery of the Igorots(イゴロットの発見)』という本に詳細に描かれている。

 ここで鉱山が本格的に開発されたのはアメリカ時代の1930年代になってから。大恐慌時代の1933年に、ルーズベルトが行った政策によって金の価格が急激に高騰した結果、鉱山の大規模開発に拍車をかけたのだ。そしてこのレパントもその時代、1936年に開発された。金の他に銅も産出するが、今でも1日あたり1,500トンもの土を掘り出していて、(金の平均産出量は1トン当たり3グラム)。既に70年以上も堀り続けていることになるが、まだ新しい鉱脈もみつかっているという。開発当初はアメリカ資本だったが、今では完全にフィリピン資本の株式会社である。

 日本のフィリピン占領時代には、ここは三井マンカヤン鉱山と言われていて、日本人技術者によって操業されていた縁もある。新聞記事が当時の様子を生き生きと伝えているので、長くなるが引用する。

『大阪朝日新聞』 1942.3.27(昭和17)

「比島~装甲車に軽機を据え山から金塊を運ぶ、配当十割の黄金狂時代 金と銅」

【バギオにて 扇谷特派員二十六日発】皇軍の占領以来すでに三ヶ月フィリッピン諸島の中心地ルソン島はバタアンの一角を残しほぼ全島にわたって治安が確立され力強い建設の歩みを踏み出しているが各産業部門に魁けて中でも資源開発は急速調に進められ世界的に有名なバギオ金山ならびに品位の優秀な点では東洋一と称されるマンカヤン銅山がこのほどわが軍により確保された、同時に内地からは早くも三井マンカヤン銅山調査隊団長山下諭吉氏が乗込み警備隊に守られつつ鶴嘴を揮っているなど占領即建設の面目を遺憾なく発揮、フィリッピン資源の扉は今新東亜建設の脚光を浴びて開かれようとしている、記者は一日バギオを訪れ占領下のバギオ金山ならびにマンカヤン銅山の状況を視察、鉱山確保にいたるまでの道路隊や警備隊の苦心あるいはバギオ在留邦人挺身協力の模様を知ることができた、以下はその報告書である。

一、バギオの金山は七つある、海抜六千尺、松の緑に囲まれた山岳都市バギオ市外南方四十キロにわたる山々に一本の金脈が走っている、通称キーンストン金脈とよばれ幅平均十米、長さ七十六キロにわたる金脈である、この金脈を中心に点在するパラドック・ベンゲット・コンソリテーデッド・イトコン・アンタモック・ゴールドフィールド、ビッグウェッジ・バギオ・ゴールド・デモンストレーションなどの金山がこれで開戦前の産金額は七つの金山で全比島の約七割、ここに働く従業員は家族を合せると二万人といわれる尨大なものでこの金山はさる一月はじめバギオ市の皇軍占領と同時に無血占領された、しかもこの占領に当っては勝手知った在留邦人がわづか一名ないし二名で乗込みアッという間に占領したといわれしたがって鉱山附属の重油こそ焼かれたがその他の施設はそっくりそのまま確保されている、愉快なことは各会社とも日米開戦をみこし万一の場合アメリカ本国と交通遮断されることを予想し旧臘鉱山資材のストックを運び終えたばかりで夥しい鉄管やパイプがそのまま残されてあり今後の資源開発に恰好の資材を提供していることである、現在はこの金山を南北両地区にわけバギオ金山生活二十余年という吉本、稲吉の両技師によって管理されているが金景気の時代には各会社とも配当十割、月二回山からマニラ金塊を運ぶときには装甲自動車に軽機を据え強盗の襲撃に備えるという物々しさだったという

二、フィリッピンの宝庫マンカヤン銅山はバギオ市の北方約百六キロにある、最高七千尺、最低三千尺の峰つづきの山々を縫う辺り日本アルプスの燕の縦走路を思わす山道は去る二月バギオを追われた敵によって滅茶苦茶に破壊された、車を駆ってみると脚下はそそり立つような断崖絶壁に深い霧が漂い谷底は見えず見下すと目がくらくらする、ただ酷暑のフィリッピンにここだけは別世界、内地の十月位の温度でどこやらで啼く鶯の声に一しきり故国への感慨を催される、道は屈折が多くて一キロに四、五ヶ所もあり、カーブをきり損ねると千仭の谷底で思わずひやひやする、徐行して進む、ドドドドと山崩れの音がする地質の弱いこの山は山頂からたえず土砂と岩石がころげ落ちてくるのだという、道端に「上前通」という碑がたっている、去る三月六日ここで戦死した上前忠通訳(岡山県)に捧げた道路碑であった、記者は今さらのごとく深山に僅か〇名で日夜敗残の敵と戦い道路修理工事をつづけた藤田隊の地味な努力に思わず頭が下った、同隊岡本俊二中尉(滋賀県庁土木課勤務)はその苦心を左のごとく語る

「敵は火薬を約二万箱も使用しこの山道を約四十ヶ所にわたって削り取った、山の傾斜が約八十度、一本のロープに生命を託してまず足場を作り杭をうち込み橋桁をわたす、橋といっても粗末なものでやっと道と道をつないだのです、敗残の敵は約二百、地の利を知る彼らは我々の手薄に乗じて襲撃する、遂に戦死一、重傷者〇名を出した、殊に朝晩はよく霜が降り内地の十一月ごろの気候、夏服の兵隊さんの大半は下痢するという始末だったが我々はその度にその道は東亜の資源に通ずる道だといい合った、この我々の気持を籠めて各橋には報国、皇国、強国開国、愛国、経国、護国と名づけて進み最後の橋に我々がたえず頭に描いている靖国橋という名前をつけた、この橋を完成した日待望のマンカヤン銅山を目のあたりに見たときは思わず涙が出た」

            フィリピン・ハイウェイの最高地点を通過

             現在のレパント鉱山への入り口

             1954年に掘削された坑道への入り口

 今回の企画がユニークなのは、環境破壊の懐で環境問題を考えるイベントをやるということの他にもう一つある。それは、コルディレラの人々の”イゴロット”としてのアイデンティティに関わる問題だ。古来コルディレラの人々は部族ごとに激しく対立していて、部族間の抗争”トライバルウォー”が絶えなかった。現代になってもさすがに”首狩”の習俗は破棄されたが、まだまだ部族間の争いは多い。昨年、やはり同じイベントでカリンガ州のルブアガンという山の中の町を訪問したが、ライフル銃を持つ男たちに警護された副町長に挨拶した時にはさずがに緊張した。参加する子供たちの親の中には、あんな恐ろしい場所に自分の子供を行かせることができないとむずかった者もいたと仄聞した。

 そんなアイデンティティの錯綜したコルディレラで、6つ全ての州から子供たちを集めて、しかも芝居ではそれぞれ異なるローカルな言葉を使って演じて英語で字幕が付けられる。あくまでも自分たちの足元のアイデンティティを確認しつつ、”イゴロット”としての一体感も醸成しようという野心的な意図がある。

 Gerard Fininというハワイ大学の研究者が書いた「The Making of Igorot: Contours of Cordillera Consciousness(イゴロットの創造:コルディレラ意識の輪郭)」(2005年、アテネオ・デ・マニラ大学出版)という本がある。もともと部族に分かれて抗争に明け暮れていたコルディレラの人々が、歴史的にどのような経緯で”イゴロット”としての一体感やアイデンティティを持つまでに至ったのかを描いているが、その中で、アメリカ時代の鉱山の果たした役割を強調している。大量の労働者を必要とする大規模鉱山が、史上初のイゴロット・コミュニティーを生み出し、それがその後のイゴロットとしてのまとまりの原点となっていったという。



 その意味で今回のエコ・サミットは、結果的にはイゴロット・アイデンティティーにとって歴史的に縁のある地で、現代のイゴロットの若者たちがそのアイデンティティーを確認するという、まさに象徴的なイベントとなった。“よそ者”だからこそできるカタリストとしての役割。それは文化交流という仕事の持つ一つの醍醐味でもある。

2009/11/09

日本を目指す比のファッションデザイナーたち

 今フィリピンのファッションデザイナーたちが日本に熱い視線を注いでいる。一方、日本のファッション業界でもこの国の若い才能を”発見”しつつある。先ごろ東京で開催された「第47回全国ファッションデザインコンテスト」(財団法人ドレスメーカー服飾教育振興会、学校法人杉野学園主催)で、比人デザイナーのヴィージェー・フロレスカ氏が、準グランプリに相当する「繊研新聞社賞」を受賞した。

 1963年以来続いている伝統のあるコンテストとして日本ではデザイナーの登竜門で、審査員にも森英恵など著名人が多い。応募者も多く、今回も日本を中心に中国、ロシア、インド、シンガポールなど世界中から2534点の応募があった。

 そんな激戦のコンテストに、比からヴィージェーを含む38人もの若者が挑戦し、デザイン画審査の結果3人(全体で70人)が最終選考会に進んで東京に乗り込んだ。「ピノイ・ロボット」とタイトルされた彼の作品は、ロボットのようなシルエットだが、ピーニャなど比の伝統的素材を使用し、比独自の刺繍を一面に施した。日比文化のブレンドをコンセプトに、強く主張しながらも、細部にこだわった繊細さが評価されたという。

 日本のポップカルチャー人気を受けてコスプレが世界中を席捲。比においても例外ではなく、コスプレ大会ではアニメから飛び出したようなロリータファッションが人気だ。渋谷や原宿を発信地とするストリート系ファッションもメディアでたびたび紹介されていて、この国の若者文化にも大きな影響を与えている。しかしハイセンスなアート系ファッションとなると、比人デザイナーの目はまだまだパリやニューヨークに注がれていて、日本の影響は限定的。日比の交流は驚くほど少なく、日本で紹介される比人デザイナーなどこれまでほとんどいなかった。

 3年前、国際交流基金では比を含むアジア5カ国から将来期待されるファッションデザイナーを日本へ招待し、ハイライトとして「アジア5」と題したファッションショーを、若手デザイナー養成でリードする杉野学園ドレスメーカー学院と共催した。比からは当時フィリピンファッション協会を率いていたジョジー・リョーレン氏を派遣。彼の業界での影響力に期待しての選抜だったが、それが的中。その後若手デザイナーが続々とその杉野学園が主催する冒頭のコンテストに挑戦するようになった。

 一昨年まず最初に挑戦したのはジェローム・ロリーコ氏(25才)。当センターも制作費を支援したが、見事に審査員賞を受賞。東南アジアから初参加で初受賞だった。日本のアニメに強く影響を受けたというジェロームの作品は、近未来的なメカニックな要素が基調だが、どこか熱帯的でおおらかな生命力を感じさせる作品だった。受賞後の彼の活躍は目覚しく、比国内のメジャーなファッションショーでも確実に彼自身のブランド名を浸透させつつある。

 そして今回のヴィージェーの受賞で、比人デザイナーは2戦2勝。本紙でも紹介したことがあるが、コンテンポラリーダンスの世界でも、比人ダンサーが日本の新人登竜門のコンテストに参戦し始めて2戦2勝の負けなし。創造性が試される最先端の現代文化の分野では、フィリピン人アーティストは日本人と十分互角に戦えるという一つの証だろう。



 ヴィージェーは3年前にデ・ラ・サール大学のファッション学科を卒業したばかりの24才。比のファッション業界はいま急成長していて、経済的バックグランドのない若手たちにもチャンスがあるという。比国内に現在コンテストがないため、そんな若手デザイナーにとって、日本のそれは大きな目標の一つになりつつある。初めての日本滞在で渋谷、新宿、銀座、池袋などを訪れ、それぞれの街の持つ雰囲気とファッションの魅力を堪能した。これからはもっと若い世代のアーティストの卵たちの交流が必要だと、期待に胸をふくらませていた。

 この記事は『まにら新聞』にも掲載しました。