2008/12/09

声を挙げ始めたミンダナオのモスレム女性たち

 ほぼ同じ内容が今週の「まにら新聞」にも掲載されましたが、写真をつけてブログにもアップしておきます。

 去る8月に激化したミンダナオの紛争による国内避難民は、既に50万人に達しったと言われている。長年続いたフィリピン政府とイスラム分離派勢力による和解交渉が成立寸前に決裂し、状況は一気に混迷を深めて内戦状態に逆戻りとなった。いつの世も戦争による最大の犠牲者は、女性や子供などの非戦闘員だ。そんなミンダナオの各地からモスレムの女性リーダーが集まり、このたび日本を訪問して市民と交流し、平和を訴えた。

 モスレム女性はフィリピンでは様々な意味で差別を受けている。第一にイスラム教徒であるがゆえの差別。この国の大多数を占めるキリスト教徒にとってモスレムは、スペイン植民地時代以来繰り返された戦争の結果、忌々しい敵として歴史に刻まれた。イスラム教に対する理解も不十分で、多くの誤解に満ちあふれている。特にテロが世の中を覆う時代となり、モスレムといえばアブサヤフなどイスラム過激派と関係する危険な人々と、偏見は強まった。

 第二に女性であるがゆえの差別。イスラム教は社会規範でもあるが、コーランが伝える教えは女性保護を特色とする。しかし現代社会では時にそれは女性から自由を奪い、差別の温床ともなる。伝統的イスラム色の強い地域では、女性の教育、結婚、職業選択の自由がいまだに制限されている。

 さらに問題を複雑にしているのが、民族的出自によるイスラム内部の階層化からくる差別だ。イスラムの雄を名乗るマギンダナオやマラナオは地位が高く、海洋民族であり”シー・ジプシー”とも呼ばれるサマやバジャウは低いと考えられている。

 これまで色々な人から話を聞いてわかったことだが、ミンダナオのモスレムといってもアラビア語ができてコーランの教えなどを正しく理解しているのはほんの一握りのエリートたちのみであるようだ。インドネシアのように全国津々浦々にマドラサ(イスラム学校)やプサントレン(寄宿制イスラム学校)があるわけではなく、イスラム教のオルターナティブ教育のシステムが脆弱なフィリピンでは、そもそもイスラム・コミュニティー自身の中にイスラムに関する偏見や誤解が偏在している。

 こうしたモスレム女性の問題との出会いは、かつての基金アジアセンターの同僚で、現在は九州大学アジア総合政策センターで准教授を務める小川玲子さんの紹介による。彼女の薦めもあって、まずは現地の状況を視察するため、2006年の4月にミンダナオ西部のモスレム文化の中心地であるマラウィ市を訪れた。ミンダナオ北部のカガヤン・デ・オロという町から車で向かったのだが、途中マラウィ市内へつながる山中に入った途端、国軍の検問所が立て続けに増えて緊張感が漂った。しばらく走ると風景は教会からモスクへと一変。目的地のミンダナオ国立大学はラナオ湖を見下ろす高台に広がっていた。

                ラナオ湖

 受入役は当時副学長だったエリン・グロさん。ミンダナオ国立大学はミンダナオ島一帯に何箇所ものキャンパスを有する総合大学。モスレム分離派の真っ只中にあるともいえる同大学は、対モスレム掃討の戦略上の要衝でもあったため、当時の学長は元フィリピン国軍将校。学問の世界ではかなりリベラルなフィリピンにおいては、例外的に政治的な学長ポストである。そんな大学で、彼女はモスレム女性としては初の副学長に就任していた。その後米国でジャーナリズムを研究し、現在は同大学報道広報局の所長。ラナオ湖を守るNGOも運営しており、声を挙げ始めたモスレム女性の先頭に立つ。環境破壊の影響で水位が後退して汚染の進む湖の現状や、19世紀前半に建てられたスルタンの屋敷で、現在はうち捨てられているマラナオ族の伝統家屋(トロガン)を案内してくれた。インドネシアでは似たような木造の伝統家屋をいくつも見たが、代表的なものは国の文化財局でよく修復・管理されていた。それに比べてここフィリピンでは崩壊寸前だ。紛争や環境破壊さえなければ、風光明媚で資源に恵まれ、クリンタン(銅製打楽器)の音が響いてカラフルな民族衣装の舞う、豊かな土地なのだろうと想像した。

               トロガン

            マラナオの伝統舞踊

 この訪問を契機に、在マニラのNGOであるピース・ウーマン・パートナーズが取りまとめ役となり、まずはその年に同大学から5名を日本へ招待。8月の原爆慰霊祭にあわせて訪日し、広島と長崎を訪問して被爆者と交流した。その後、それが縁で石川県原爆被害者の会の西本多美子さんが来比してマニラでフォーラムを実施した。

               西本さんを囲んで

 そして今年は再度来日するエリンがリーダーを努め、スールー、バシラン、ジェネラルサントスなどミンダナオ各地からメンバーを集めて二度目の訪日事業となった。九日間に福岡、大阪、名古屋、東京を訪問して九州大学、大阪大学、名古屋学院大学、一橋大学でそれぞれセミナーを実施。帰国後もマニラで記者会見や報告会を行い、紛争でゆれるミンダナオの現在と日本での交流について発表した。参加者の中で最年少のシティ・サリップさんは、「日本は原爆被爆国として世界に例の無い素晴らしい平和憲法を持っている。私たちも非暴力による平和を訴えてゆきたい」と語った。

 ミンダナオのモスレム女性が抱える問題は、我々日本人とも無縁ではない。ミンダナオがさらに混乱すれば、東南アジア一帯が不安定化することもあり得る。困難をおしてようやく声を挙げ始めたモスレム女性のメッセージに、私たちは耳を傾ける必要があるのだと思う。

 大阪大学で日本のクリンタングループと交流(写真:コーラ・ファブロズ)

2008/12/02

アートの力で町興し ~抵抗の精神を受け継ぐ現代のヒガンテス~

 リサール州アンゴノはマニラから車で一時間半。西方を広大なラグナ湖に接した半農半漁の町で、今ではマニラ首都圏のベッドタウンとして多くの人口を抱えるが、知る人ぞ知るアートの町だ。太古の人間の”芸術”の証があり、民衆の反骨精神を象徴するお祭りがあり、近代美術史上の傑人を生み出した。最近ではこの町に生まれマニラで学び、卒業後は都会の喧騒を避けて再びアンゴノに戻ってここを拠点に活動するアーティストが増えている。さらにアンゴノ以外の地域からも仲間が集まり、アートの力で町興しをしていこうというグループが生まれた。その名も”ネオ・アンゴノ・アーティスツ・コレクティブ”。2004年に結成され、いまやメンバーは100人にのぼる。

 彼らとの直接の関わりは今年の5月にさかのぼる。基金で「クリエイティブ・シティー」をテーマに、アジア各国から若手リーダーを集めて10日間の訪日研修を企画したが、以前から気になっていたネオ・アンゴノから招待しようと考え、初めて彼らの事務所を訪れた。「クリエイティブ・シティ」とは「文化芸術創造都市」という概念で、都市とアートを結びつけ、アートによって町とコミュニティを活性化させようという試みのことで、90年代中頃からヨーロッパで盛んになってきたコンセプトである。

 それまでにも何度か彼らの”作品”と出会ったことがあるが、最も強烈だったのが新聞の一面でも報道され、美術作品というより社会的事件ともなった作品。ネオ・アンゴノがナショナル・プレス・クラブの発注で「報道の自由」をテーマに巨大な壁画を制作した。そこには現政権を批判する著名な活動家やシンボル、そしてジャーナリストの暗殺について書かれた新聞記事などが克明に描かれていたのだが、彼らの許可無く公開直前に何者かによって改ざんが加えられた。「報道の自由」がテーマだったのが、皮肉にもこの国のジャーナリズムの限界と著作権の問題を白日の下に晒すこととなり、公開討論が行われるなど物議をかもした。いまもその壁画は未公開となっているが、今度は彼らはその事件そのものを作品として展示し、アートと表現の自由をテーマに積極的に社会と関わろうと試みた。アートを通したアドボカシーであり、一般市民を巻き込む「パブリック・アート」の原点。まさに彼らはフィリピン社会派アートの伝統を受け継ぐ確信犯である。



 訪日研修への参加を打診するため初めてアンゴノを訪問した際に、町に点在するアートの拠点をいくつか訪れた。

 まずは紀元前3000年前にさかのぼると推定されている岩窟絵画。わりと最近発見されたので詳しいことはまだわかっていないが、もちろんフィリピンで最古の絵。今ではこの町の誇るべき文化遺産であり、マニラ近郊からひきりなしに学生や観光客が訪れる。

 そして「近代美術史上の傑人」、画家のカルロス・ボトン・フランシスコ(1912~1969)の生家。彼はドラマティックな歴史画や重要な壁画など多くの名作を残したことで、この国の美術史において重要な作家の一人。また美術家としてだけではなく、上記の岩窟絵画を発見したり、後述の”ヒガンテス祭り”を復興したり、この町のアートコミュニティーを牽引した功労者であった。ナショナル・アーティスト(人間国宝)として今でもこの町の誰もが故人をしのぶ。彼の生家に通じる街路は、彼の作品を複製した壁画で埋め尽くされ、ごく普通の庶民が暮らす通りながら、アートをリスペクトする雰囲気があって生き生きとしている。


 また70年代から80年代にかけて、アンゴノを精力的に描き続けたホセ・ブランコもこの町のアート史を築いた一人。田園風景とそこに生活する人々を叙情的に描いていて、懐かしい田舎の暮らしぶりが伝わってくる。古き良きフィリピン・スピリットが満載された作品群だ。彼には七人の子供がいるが、大きなアトリエを使って家族作業で油絵を仕上げていくうちに、その七人全員が画家となってしまった。ブランコ本人は残念ながら去る8月に亡くなったが、いまはその子供たちがファミリー美術館を運営して、亡き父と子供、そして孫の絵まで含めて数え切れないほどの作品を公開している。


 その後7月の訪日研修にはキョ・ザパタという女性詩人を招待したが、それから半年、今度は逆に日本から西尾ジュンさんという舞踊家をアンゴノに招待して2週間の滞在プログラムを実施。ネオ・アンゴノにとって年に一度の大きなイベントであるネオ・アンゴノ・アート・フェスティバル(11月20日~22日)に参加した。

 今年で5回目となるフェスティバルは、全国的にも有名な”ヒガンテス(巨人)祭り”にあわせて開催されている。このヒガンテス祭りは、アンゴノの人々の誇り、そしてフィリピン人の抵抗の精神を象徴していて非常に興味深い。もともとは聖イシドロという農民の守護神を祝うスペイン起源のお祭りで、紙でできた張りぼての巨大な人形が町を練り歩くというものだ。しかしこのアンゴノでは、19世紀のスペイン植民地時代に、ハシエンダ(大規模農園)地主に反抗する農民の運動として始まった。地主への抗議で職を失った農民は、ヒガンテスを作ってパレードし、地主たちにトマトを投げつけて抵抗したという。フィリピン版非暴力不服従の運動だ。


 一度はすたれたお祭りだったが、80年代にカルロス・ボトンらの手によって信仰の対象を猟師の守護神である聖クレメンテに変えて復活。彼の死後は今度はフィリピン政府が観光振興のために奨励し宣伝した。しかしネオ・アンゴノは、このヒガンテスが持っていた農民の抵抗運動の肖像としての本来の意味を現代社会に蘇らせようと、その精神を受け継ぐ活動を展開するようになった。今では若者を中心に誰もが参加できる民衆参加型の熱狂的な祭典となっているが、パレードする側の人間が、観衆に向かって放水したり泥を塗りつけたりする行為は、かつてトマトを投げつけて抵抗の意思表示をしたこの祭りの痕跡をとどめているのだろう。 


 ヒガンテスに先立って行われたネオ・アンゴノ・アート・フェスティバルでは、子供たちのための絵画コンクールや子供劇団による公演、詩の朗読会や実験映画の上映、そして前衛バンドによるコンサートなど、数日間にわたって一般住民を巻き込んだ数々のイベントが開催された。日本から参加したジュンも、大阪の梅田でアマントというアートスペースを運営して地域に根ざしたアートを実践する舞踊家。大きな体育館に集まった数百人の民衆を前に、日本人の古(いにしえ)の体の記憶を呼び覚ますようなミステリアスな踊りを披露した。

        高校生と詩を朗読するイアン

 町中いたる所、神出鬼没でアートを実践して一般大衆を巻き込むパブリックアートは世界でも多くの例がある。東南アジアで言えば、私が90年代初頭に駐在したタイでは、チェンマイ・ソーシャル・インスタレーションが実験的な試みを行っていたし、90年代末のインドネシアでは、バンドンやジョグジャカルタなどでスハルト政権末期の混沌とした社会状況の中、緊張と発散のイベントを繰り返していた。この種のアートというより運動は、いずれも中央集権を象徴する首都以外の地方都市で盛んである。中央の権威のいわば裂け目に生まれるところに面白さがあるのだろう。

 ただしここフィリピンは社会の階層分化の激しい国。社会の格差は教育の格差でもあり、アートへの関心・理解は所属する階層でかなり異なる。一般的にこの国の大多数の庶民にとって、アートは鑑賞や理解の対象からは遠く、貧困層にとっては飯のタネにならない別の世界の出来事として映るだろう。そうした環境でアートを志すこと、そしてさらにアートとコミュニティーをつなげようとすることは大きなチャレンジである。生活がかかっていればなおさらだろう。そんな困難に挑戦するネオ・アンゴノは、アートが刻まれた時の痕跡と19世紀農民の抵抗のスピリットを引き継ぐ、ある意味、現代のヒガンテスなのだと思う。

2008/11/14

”飢餓の島”からアート発信

  スペイン語で顔(カラ)がいっぱい(マス)、という意味の「マスカラ」。個性的なマスクにカラフルな衣装をまとったいくつもの集団が、軽快な音楽にあわせて激しく踊りながらストリートをパレードする。それを熱狂的な地元市民はもとより、フィリピン全国、そして海外から集まった多くの観衆が取り巻く。毎年十月に行われるバコロドのマスカラ・フェスティバルだ。燦々と照りつける太陽の暑気と人々の熱気にあふれたストリートダンスの祭典に、コンペティション部門の審査員として招待された。

 バコロドは中部ビサヤ諸島の中央に位置するネグロス島の西の中心都市。ネグロスといえば”砂糖の島”と呼ばれるほどで、町をちょっと離れればそこには広大な砂糖きびのフィールドが広がる。

 かつて1980年代の中頃、ネグロス島という地名を初めて知ったのは、”飢餓の島”を救おうという日本のNGOのキャンペーンを通してだった。当時、島の多くの農民は一握りの大土地所有者の砂糖プランテーションで生計を立てていたが、砂糖の国際価格暴落によって末端の契約農民の収入は途絶え、多くは飢餓にあえいでいた。極限状態の農民は地主に対して待遇の改善を訴えてストライキを繰り返し、反発する地主側との発砲によって死者も出た。混乱に乗じて反政府ゲリラや共産党の武装組織である新人民軍も多く島内に浸透し、ネグロスは一触即発の危険な状況に置かれていた。

 このマスカラ・フェスティバルは1979年に始まったとされるが、そうした危機の最中でも途絶えることなく、疲弊した人々の心を鼓舞する意味も加わって回を重ねてきた。“飢餓の島”で苦悩してきた民衆が、年にたった一度だけ熱狂できるお祭りとして大切に育ててきたのだろう。そんな人々の心意気の感じられる祭典だった。


3日間にわたるストリートダンスのコンペティション。初日は小学校と高校の部で17チーム。2日目がバランガイ(町内会)の部で22チームと、夜行われたエレクトリック・パレードならぬ”エレクトリック・マスカラ”の部で8チーム。そして最終の3日目はオープンの部で15チームが参加した。35人から65人でチームを組み、市内パレードでのストリートダンスとメイン会場での6分間の振付作品を披露し、ダンス、衣装、マスクの良し悪しなどで競う。絶望的な暑さの中、私は2日目と3日目の審査を担当し、のべ13時間、45チームの踊りを見たことになる。

 日本の祭りのように、基本的には町内会(バランガイ)ごとに参加するフェスティバルだが、これがバランガイ同士の競争心をかきたててコンペの結果発表の際には異様な盛り上がりを見せる。どのチームも趣向を凝らしたマスクと衣装で見ていて飽きないが、特に印象に残ったのがオープン部門で優勝したバランガイ・マンダラガンのチーム。派手なマスクに息のぴったりと合ったダンス。何より踊ることの喜びを全身全霊で表現していることが伝わって来て、審査していた自分もぐっと熱くなった。彼らのダンスを見ていると、人は何故に踊らずにはいられないのか、なんとなくわかるような気がする。ある種の祈りや陶酔、そして蕩尽といったものが祭りを発生させる源だとすれば、“飢饉の島”で苦悩する民衆をして年に1回熱狂に駆り立て、エネルギーを蕩尽させるこのイベントは、まさに祭りの本質を垣間見させてくれた。

    優勝したバランガイ・マンダラガンのチーム

 今回このマスカラ・フェスティバルで、バコロドの人々の創造性と熱狂を目の当たりにして、”飢餓の島”としてインプットされていた私のネグロスに対するイメージが大きく変わったが、さらに驚いたのが、そのバコロドから北に20キロにあるシライという町の存在だ。以前このブログにビガンのことを書いたが、この町もビガンと同様にスペイン時代の富を象徴し、今もその遺産の風情を色濃く残している。アンセストラル・ハウスと呼ばれる19世紀後半以降の歴史的建築物が30以上も残されていて、その内の2軒が博物館となって公開されている。いずれもシュガー・バロン(砂糖貴族)として財を成したファミリーの邸宅で、現代に連綿と続く名家をいくつも生み出している。

 また蓄えた財力は子供の教育に投資したため、その名家からは優秀な法律家、政治家、そしてアーティストが輩出された。フィリピンで初めて欧米の歌劇場で『カルメン』のタイトルロールで成功したメゾ・ソプラノのコンチータ・ガストンや、この国で最も著名な建築家でナショナル・アーティスト、CCPやマンダリン・オリエンタルなど数々のホテルを設計したレアンドロ・ロクシンもこの町の出身だ。今もロクシン家は町の中心部にあるいくつかのビンテージハウスを所有している。偏在する富によって生み出された知や芸術が、この国の根幹を支えていることはまぎれもない事実だ。

 以前にもこのブログに書いたが、私が初めてこのバコロドを訪れたのは20年も前のことだ。

 神田の本屋で見つけた一冊のミニコミに書かれた「The Black Artists in Asia (BAA)」というグループの不思議な響きに惹かれてここまでやって来て、3人のアーティストに出会った。その中で今でも印象に残っているのは、骨太の黒い輪郭線で克明にしっかりと描かれた、大きな目をした素朴な農民の像。鋤や鍬とともにライフル銃をかついでいて、どことなくユーモラスだが、実は殺気に満ちているという不思議な油絵だった。ヌネルシオ・アルバラードという画家の作品だ。彼は危険を承知で島の奥地へ入り込み、おそらく新人民軍の兵士らと寝食をともにして、あの油絵を描いていたのだろう。今でも同じスタイルを頑固に貫きマニラで活躍している。

    ヌネルシオ・アルバラード『給料を待つ』(1994年)

 それから伝統的な素材や日常的なオブジェで作品を創るノルベルト・ロルダン。彼もその後マニラに出て今はグリーン・パパイヤというオルターナティブスペースを運営しており、若い芸術家たちに貴重な場を提供している。そして3人目は幻想的な作風で不気味な人物像を描くチャーリー・コー。みな20年前は20代後半から30代前半の油の乗りきった時代で、ネグロスという”飢餓の島”から世界に向かってアートで告発を始めていたのだ。

 アジアの現代美術は、70年代末より福岡市美術館によって本格的な日本紹介が始まった。国際交流基金も90年代初頭から様々な展覧会を企画し、アジア美術が国際的に注目される道を切り拓いてきた。いまや多くの作家の作品が香港やシンガポールのオークションで高値で取引されている。特にフィリピンでは社会的なテーマを扱う”ソーシャル・リアリズム”の作家の活躍が目覚しく、アルバラード、ロルダン、コーの3人もメッセージ性のある力強い作品が評価され、これまでに何度か日本でも紹介された。なおご参考まで、11月22日と23日に国際交流基金の東京本部で過去20年間にわたるアジア美術をめぐる諸問題を振り返る国際シンポジウム「Count 10 Before You Say Asia」が実施されますので、ご関心のある方は下記WEBサイトをご参照ください。http://www.jpf.go.jp/j/culture/new/0810/10-01.html

 マニラに出たアルバラードやロルダンとは異なり、コーはいまだバコロドに残ってこの地域のアートを牽引している。彼が2005年にオープンしたオレンジ・ギャラリーを訪ねた。2階と3階のフロアーは一帯にショッピングモールを経営する実業家から無料貸与されたという。月に1度は若手アーティストの企画展を実施しているが、ほとんどの作品がインスタレーション中心で、このバコロドという地方都市でどうやってこのスペースを運営しサバイバルしているのかとっても不思議だ。私が訪れた最中も”マジカ・マスカラ5”というバコロドの光と影をテーマにした展覧会を実施中だった。お祭り騒ぎのこの時期、こうやって影の部分も見逃さないことに彼の真摯な思いを感じた。かつて”飢餓の島”と呼ばれた場所で、アートを通してメッセージを発信し続けるコーたちを支援し、日本のアーティストとの交流などできないものかと、今は次の可能性を考えている。

2008/10/13

辺境のダンサーたちと”創造性の流出”

 フィリピン諸島の最南端に位置するジェネラル・サントス市(通称「ジェネサン」)といえば、南洋マグロの水揚げ基地として日本との関わりも深く、フィリピン人にとってはいまや国民的ヒーローであるボクシング世界チャンピオンのマニー・パッキャオの出身地として有名だが、マニラからは船で三昼夜もかかる遠隔の地。周辺地域一帯を飛行機の上から眺めると、まさに入植の地といった成り立ちの様子がよくわかる。ジェネサンの市街地から北西方向に向かって数十キロにわたってほぼ一直線に幹線道路が平地を走り、その途中に碁盤の目のように整然と区画整理された町が配置され、そこから山に向かってびっしりと隙間なく田んぼや畑が広がっている。ルソン島やビサヤ諸島から初めて移民がやって来たのが1939年。60年代よりその数が急増し、ほぼ何もなかった原野に忽然と新興都市群と開墾地が生まれていった。フィリピン各地から多くの移民の受け皿となったミンダナオを象徴するような風景だ。

 そんな南の”最果て”と思われる土地にも、ダンスを通して夢を抱く若者たちがいる。どんな思いで踊っているのだろうか、確かめたくてジェネサンを訪れた。

 テアトロ・アンバハノンは総勢15人の小さな劇団だ。代表のビン・カリーノはマニラのフィリピン大学で民族舞踊を学び、8年前に地元に戻ってラモン・マグサイサイ・メモリアル・カレッジという私立大学を拠点にこの劇団を旗揚げした。今は大学から提供されている40平米ほどの狭い板敷きの元教室をスタジオにして、学生と一緒に汗を流す。彼の祖父は中部ビサヤのボホール島からの移民だが、第二次大戦後にこのジェネサンの都市計画を進めた立志伝中の人物だ。何もない辺境の土地に新たな町を立ち上げた祖父の血が流れているのだろう。ビンはこのミンダナオの一地方都市から新しいアートムーブメントを起こそうと考えた。それも誰もが思いつきそうな伝統を売り物にしたそれではなく、自分たちの今を表現するためのコンテンポラリーなものを志した。

 しかし誰もやらないことをやるということは、無論相当な困難を伴うもの。大学からはスタジオと講師ポストを用意されたが、活動費は自ら稼がなくてはならない。裕福な名士の一族である彼のこと、おそらくかなりの私財を投入しているに違いない。しかも15人の学生はいずれも貧しい家庭の出身だという。そこで彼は大学側とかけあって彼らに対する奨学金制度を作った。厳しい選考に合格してこの劇団に入って活動を続けている限りは学費が免除になるという。練習を見せてもらったが、好きなダンスをしながらただで大学で勉強もできるとあって、学生たちは真剣そのものだった。
 
 そんな地方の小さな劇団の若手振付家であり、ビンの最初の弟子であるジュリウス・ラガレが、去る6月にマニラで行われた第3回Wifiインデペンデント・コンテンポラリーダンス・フェスティバルの新進振付家のためのコンペティションに初参加し、見事グランプリに輝いた。この国ではどこでも見かけるバスケットボール青年の男同士の恋物語、つまりゲイのラブストーリーを、バレエとストリートダンスのテクニックをダイナミックに駆使して描いた力強い作品。初めてその作品を見た私は、若者の日常をこれほどリアルに切り取った鮮烈なダンスが、つまり極めて現代性を帯びたアートが、紛争に揺れるミンダナオの、それもかなりの僻地といってよい歴史の浅い遠隔の地方都市から生まれること自体にとても驚いた。このコンペに日本から審査員として招待していた”なにわのコレオグラファー・しげやん”こと北村茂美さんも、”こんなんが見たかった~!”と大層感激していた。洗練されてはいるが様式にとらわれすぎで、どれもが同じに見えてしまうマニラの振付家の作品とは明らかに異質な何か。何もかもが集中して恵まれた環境にあるマニラの人たちに負けまいと作品を創る、彼らの心意気が感じられた。

 このブログでも度々紹介してきた草創期のフィリピンのコンテンポラリーダンス。昨年は日本のダンス界をリードするジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク(JCDN)が企画するマニラ公演も実現し、本格的な日比ダンス交流が始まった。このJCDNは京都を拠点にして1998年にできたNPOだが、日本で活動するコンテンポラリーダンスの作り手やオーガナイザーなどを画期的な方法でネットワーキングしている団体で、国際交流基金が地域に根ざした国際交流活動に実績のある団体に贈る「地球市民賞」を2006年に受賞している。「踊りに行くぜ!」という勢いあるタイトルで、普段はコンテンポラリーダンスに接する機会の少ない地方でも公演を行い、確実にオーディエンスを増やしつつある。そしていよいよ昨年からこの「踊りに行くぜ!」のアジアツアーが始まった。第2回Wifi・・のコンペで優勝し、「踊りに行くぜ!」マニラ公演でも競演したアバ・ビラヌエバが彼らに招待されたのが今年の2月。そして第3回Wifi・・では、逆にJCDNの推薦を受けた”しげやん”を私たちが招待し、彼女の強力な推薦もあって、ジュリウスのグランプリ受賞作品が10月末の福岡公演に招待されることとなった。こうやって次から次へと繋がってゆくことは本当に素晴らしいことだと思う。

             しげやん(写真/平野愛)

 海外公演が初となる今回の招待は、本人のみならず劇団にとっても青天の霹靂。「後続のダンサーたちの大きな励みにもなる」とビンも大歓迎。しかし渡航準備の過程で肝心のジュリウスに問題が発生した。もともと来年に計画していたアメリカのバレエ団での就職が急遽決まり、10月始めに渡米することとなっため、福岡へは行けなくなった。代役を立てることで日本側は納得したが、この騒動を通して”頭脳流出”ならぬ”創造性の流出”の問題が見えてきた。

 フィリピンは東南アジア諸国の中でも欧米文化を早くから積極的に受け入れてきたため、クラシックバレエがなかなか盛んな国だ。そして英語が話せるダンサーは、才能を開花させるほどに必然的に海外への誘惑が大きくなる。普段はぎりぎりの生活を強いられながら練習に励む彼らにとって、海外で得ることのできる高収入は甘いアメであり、と同時に場合によっては、自分の創造性を犠牲にしなくてはならないという落とし穴ともなる。2005年に香港ディズニーランドがオープンした際、フィリピン文化センターを拠点とする国立バレエ団の中心的ダンサーの十数人が高給で引き抜かれたケースもある。また将来を嘱望され、大阪でも踊ったことのあるエレナ・ラニオグというダンサーは現在、長期航路客船のディナーショーでアルバイトをしていて海の上だ。またダンス以外にも演劇、ミュージカル、オペラなど米欧諸国に移り住んだアーティストは数知れない。海外流出に伴う国内の人材難は、看護士や教師、エンジニアだけの問題ではない。今回のジュリウスのケースについてもマニラのダンス界では、国内のコンペで優勝して折角日本にまで招待されたのに、それを辞退してアメリカに渡ることは無責任だとして批判する人たちもいる。

 ただジェネサンというミンダナオの一地方都市から見れば、一極集中で出稼ぎ者のあふれかえるマニラに出て働くのも、遥か太平洋を隔てたアメリカへ行くのも、故郷をあとにするという意味ではあまり違いはない。生活保障からほど遠い前者よりも、少なくとも家族の生活を守ることができる後者を選択することに不自然さはない。「アメリカで優れたテクニックをマスターして、彼はまた必ずここに戻って来る。貧しい家庭の出身ながら、この劇団に入ってダンスをマスターし、マニラのコンペで優勝してアメリカに渡ることになった。ジュリウスは我々のヒーローでもある」とビンは語る。”創造性の流出”は、マニラから見れば一国の損出として嘆かわしい事態だろうが、この辺境の地で、淡い夢を抱く人々の目から見れば、そこにはまた別の意味が立ち現れるのだ。

            ジュリウスと学生たち

2008/09/18

デモクラシーの祭典とリセッションの時代

 “アジアのノーベル賞”とまでいわれるマグサイサイ賞。1958年に創設されて今年でちょうど50周年。これまでにアジア各国の社会発展に寄与してきた250組を超える人たちに贈られてきた。確かにこれだけ長い間続いているアジア人に対する懸賞事業は、日本を含めて他に類例はないだろう。それだけに独特の響きがある賞だが、今年、日本人としては23人目の受賞者として、明石書店社長の石井昭男氏が選ばれた。賞は6分野に分かれているが、石井氏は報道・文学・創造的コミュニケーションの分野での受賞だ。

 それにしてもこのマグサイサイ賞は、独自の評価基準と進取の精神に富んでいて爽快だ。正直な話、華々しいジャーナリズムや芸術の分野で数多い大衆受けしそうな候補者を退け、出版という地味な分野、それも人権問題というこれまた硬派な分野で着実な実績を上げてきた明石書店の石井氏が評価されるというのは驚きであった。これまでの日本人受賞者の中でも、黒澤明や緒方貞子氏など華麗な経歴の持ち主もいるが、むしろ真骨頂は、無農薬の自然農法をアジアで広めた福岡正信氏や、先ごろの不幸な事件でマスコミに登場していたが、アフガニスタンで医療支援を続けるペシャワール会の中村哲氏など、地味ながらアジアで着実な活動をしている人々を発掘して懸賞することだと思う。その意味でこの石井氏への授賞は、マグサイサイ賞の原点ともいうべきか。晴れの授賞式が8月31日にフィリピン文化センターの大ホールで開催されたが、授賞理由として、特に日本の被差別部落の人権運動(同和問題)に奔走したことが披露されたが、会場の拍手はひときわ大きかったように思え、同じ日本人として私もちょっと誇らしい気持ちだった。と同時に、これまで明石書店のそうした活動に無知であった自分の不勉強を恥じもした。

 このマグサイサイ賞、元大統領のマグサイサイ氏の急死を受けて、50年前にロックフェラー兄弟財団からの資金援助を受けて始まった。最大のスポンサーが米国の財団であるため、アメリカ流デモクラシーの普及という考えがその底流にはあるのは当然。もともと19世紀末から米国の植民地としてデモクラシーが移植され、実際1960年代まではアジアにおけるその先頭ランナーでもあったので、この賞をフィリピンという国に設けることにはそれなりのリアリティーがあったのだろう。しかしこの50年、特に民主化運動が最高潮に達した1986年の「黄色い革命」後の20年間で、この国のデモクラシーを取り巻く状況は一変したのだと思う。

 表彰式に先立って行われた50周年を記念する国際シンポジウムは、その意味で色々と考えさせられる祭典だった。まずはキーノート・スピーカーのアキノ元大統領。いまだにこの国の民主主義勢力の象徴としてしばしばかつがれるイコンだが、体調でも悪いのか、そのスピーチにはインパクトが無く、これといった存在感は感じられなかった。そして同じ壇上にはラモン・マグサイサイ賞財団理事会の議長であり、フィリピン随一のアヤラ財閥を率いるジェイム・ゾーベル・デ・アヤラ2世らが並んだ。データの上ではまだ好調を維持しているこの国の経済を牽引し、従って結果的に体制を支えている大財閥の総帥と、かたや反政府勢力の急先鋒という奇妙な組み合わせに、マグサイサイ賞50周年とはいえ、なんとも晴れ晴れとしないちょっと醒めた思いでそのセレモニーを眺めていた。このシンポジウムの主要テーマは貧困の克服だったりしたのだが、体制派にしろ、反体制派にしろ、この国のエスタブリッシュメントがますますひどくなる一方の絶対貧困に対して何ら有効な手を打てていないのは、厳しい現実が示すところだ。

 そして肝心のデモクラシーにしても、今のフィリピンはリセッション(後退)の時代と言われている。理由はやまほどある。2004年に行われてアロヨ政権を信認した大統領選挙にまつわる選挙違反への疑いが、そもそもこの国の政権の正当性に対して圧倒的な不信感を植え付けた。さらには中国企業との超大型契約にまつわる汚職問題。そして最も深刻なのが”Extrajudicial Killing(超法規的殺人)”という恐ろしい言葉で言われている一連の事件。多くのジャーナリストや反政府活動家が暗殺されたり、拉致・誘拐されているが、新聞紙上などでもたびたび公然と国軍の関与が指摘されている。立場の異なるグループによって犠牲者の数に違いがあるが、例えば人権委員会の報告では、2001年に現政権が成立して以来、2007年5月までに403人が犠牲となった。またカトリック評議会のカウントでは、778人が犠牲となり186人が行方不明となっている。こんな状況なのにもかかわらず、現在の政権が維持されていることは、日本人の私からすれば率直に言って驚きではあるが、フィリピンならさもありなんとも思う。

 そういった具合で状況としては暗いことが多いのだけれど、全く絶望的でもない。

 国際交流基金では「アジア・リーダーシップ・フェロー・プログラム(ALFP)」といって、毎年アジア地域から選りすぐった知識人を数ヶ月間日本に招待して、グループでいわば合宿をして議論を重ねるという試みを行っているが、今年フィリピンから選ばれたのが、この国の民主化運動のトップランナーとも言えるホセ・ルイス・マーティン・ガスコン氏、通称チトだ。訪日の数日前、一緒に食事をして話を聞く機会があった。

 1964年生まれで、まさに私と同世代の44歳。国立フィリピン大学の学生自治会のリーダーとして名を馳せて、1986年マルコス大統領を追いやったあの「黄色い革命」の闘士。それが縁で当時のアキノ大統領に抜擢されて「86年共和国憲法」の最年少起草委員となった。その後政権に入って若くして教育省次官となり、現アロヨ政権になってからは反政府運動のいわばブレイン的存在である。2006年、アキノ政権から一遍に10人の閣僚が辞任して「ハイアット10」というグループを作ったが、そのスポークスマンとして宣言文などを起草した。今は最大野党(自由党)の法律顧問である。とにかくバリバリの“活動家”をイメージしていたが、とってもソフトで学者肌。確かに“活動家“ではあるが、政権に入っていたこともあり、その意味で非常にバランス感覚の優れた人だ。こういう人がいずれ社会福祉や法律、人権担当の大臣になったりするのが東南アジア。将来がとても楽しみだ。

 チトとの話は広範囲に及んだ。特にいまどきの若者の政治への無関心ぶりについてはかなり絶望していたが、「黄色い革命」を担った“エドサ1世代”はまだまだ健在。「今マニラの街角でラリーを引っ張る人たちの平均年齢は相当高いね」と言って笑う。次の照準はいよいよ2010年の大統領選挙だそうである。60年安保が過ぎ去り、高度経済成長真っ只中の63年に生まれた私としては、なんとも眩しく見える一瞬だ。

 ところで、そんな大物“活動家”がなんでこのデモクラシー・リセッションの時代に日本に滞在する必要があるのか?率直な疑問として、ある意味”亡命”のようなものかと彼に問うたところ、「そうとも言える。ちょっと頭を冷やして次の大統領選挙に備えて力を蓄えるさ」とさらっと言う。おそらく「ハイアット10」の事件の際に反アロヨ運動の熱気が最高潮に達し、色々と圧力などがあったことは想像に難くない。それで本人の言のように冷却期間が必要だったのだろうとも思う。いずれにしても今彼はアジアにおける人権とデモクラシーの明日のために鋭気を養うとともに、仲間と知恵をしぼっている最中だ。なお彼を含むALFPのメンバーによる公開セミナーが、10月31日に東京の国際文化会館で予定されているので、関心のある人はご参加ください。http://www.jpf.go.jp/j/intel/exchange/organize/alfp/index.html

 そもそも大学時代に民主化運動の道に進んだのは何故?との問いに対して、「あの頃はマルコス政権の最悪の時期。他に一体どんな選択があったの?」と答える。そのいかにも柔らかな笑顔と口ぶりからは、彼の歩んできたおそらく困難に満ちた人生は容易に想像できない。使命感と覚悟を背負った同世代人。こういう人がいるからこそなんともやりきれないことの多いこの国でも、暗闇に多少の光明が見える時があるのだ。

2008/08/20

これぞフィリピンのハート、反骨精神の故郷

 このブログではあまり旅行記のようなことは書かないのだけれど、先日訪れたビガンはとても面白い土地なので、あえてここで報告します。

 富が集まるところに貧が生まれて格差が顕在化する。富が集まるところではまた知が生まれ、やがて社会を変えてゆこうという志を育む。世界遺産にも登録されているスペイン時代の古きノスタルジックな街並みの残るビガンは、そんなことを考えさせる場所だった。

 この町にはある絵が見たくてやって来た。『バシーの反乱』とタイトルの付けられた14枚連作の油絵。エステバン・ビリャヌエバというビガンの商人でかつ画家の作品で、現在はブルゴス・ミュージアムに所蔵されている、というか何気なく飾られている。1821年の制作で、おそらく現存する作者のはっきりとわかる西洋風歴史画の中で、アジアで最も古い作品であろう。

              ブルゴス・ミュージアム
 
 フィリピンの美術は意外にも早熟である。スペイン植民地時代にもたらされた近代絵画は、この国では美術史的にはコロニアル・アートと総称されるが、19世紀初頭には既に肖像画家として成功を納めるスペイン人とフィリピン人による混血(メスティーソ)の画家を何人か生み出している。さらに驚くべきことに、同時期にマニラから遠く離れたこのビガンという北部の地方都市にさえ、独特で素朴な画風で知られる画家がいたことだ。ちなみにインドネシアには近代絵画の黎明期にラデン・サーレという作家がいたが、その代表的な油絵である『嵐』が描かれたのが1851年。その頃の日本といえば、葛飾北斎が没したのが1849年。後に西洋的なリアリズムによる油絵の技法を学び、『鮭』や『花魁』などの作品で“明治初期の洋画家”として知られる高橋由一が生れたのが1828年である。フィリピンにおける西洋画の歴史がいかに古いものか、だいたい想像がつくと思う。

 ビガンを中心とした北ルソン西部の海岸地帯は、スペイン植民地の礎を築いたレガスピの孫であるサルセド(私が住んでいるマカティのビレッジ名でもある)による平定の後は、サトウキビやタバコのプランテーションと専売が進んだ。“バシー”とは地元のサトウキビ産のワインのことで、この連作絵画は、このバシーをめぐり1807年に実際に起こった農民一揆を描いたものだ。スペイン植民地政府は18世紀末からバシーの流通を抑え地元民の取引を禁止した。その専売反対に端を発した農民たちの一揆を、発端から平定そして処刑までの物語の形式で描いている。もともとこの作者は、おそらくはスペイン政府からの依頼で反乱農民への見せしめの意味で描いたようだが、約200年を経た今、皮肉にもフィリピン人によるスペイン植民地政府に対する抵抗運動の初期の歴史的事実を証明する貴重な資料として記録にとどめることとなった。

反乱軍が決起。ハーレー彗星が不吉な予感を告げる。
バンタイ川の戦い
首謀者の処刑
細部
 










 このビガンを中心としたイロコス地方は、この「バシーの反乱」以前も以降も、激しい抵抗の歴史に彩られている。

 学歴社会のフィリピンで、博士号を持っていてあたりまえの学術界の中で、それも最高学府の国立フィリピン大学で、博士号を持たない学者として舌鋒鋭くあらゆる植民地言説に常に反骨精神を燃やすアーノルド・アズリンという学者もまた、このビガンの出身だ。ちなみに基金ではアジア域内の第一級の知識人を日本に集めて一定期間生活を共にするアジア・リーダーシップ・フェローという事業を1996年に開始したが、彼は初代のフィリピン代表である。手前勝手ながら“無冠の反骨学者”を招待するとはなかなかいいセンスだなあと思う。その彼は「After Cristobal Colon: The Dialectic of Colonization /Decolonization in Ilocos(コロンブス以降:イロコスの植民地化/脱植民地化の弁証法)」(『Reinventing the Filipino Sense of Being and Becoming』所収、フィリピン大学出版局、1995年)という論文の中で、ビガンの街並みを“古き良き”スペイン時代の“麗しい”継承ととらえることは、サルセド将軍以来の征服とその暴力による血塗られた住民の受難の歴史を振り返る時、決して許される言説ではないと主張する。それはフィリピンの歴史をゆがめるものだ。スペインを美化するどころか、ビガンの街は反骨精神を胚胎していたという。

「外見的にスペイン風の誘惑や鎧や様式で飾られていたにもかかわらず、ビガンの街は結果として社会・政治的な変動とヨーロッパを覆うイデオロギーの流れに沿って動くさざ波を吸収していた。」

 農民の反乱は早くも1589年に起こる。その後記録で明らかな大規模な反乱だけでも1669年、1762年、そして「バシーの反乱」の1807年。「バシーの反乱」以降も反骨の、あるいは革命的な、またあるいは社会改革を希求する多くの傑出した人物を生み出してきた。改革派神父として1872年に処刑され、この国の独立運動を早めたと言われているブルゴス神父。独立運動カティプナンのリーダーとして活躍し、その後教会の民主化を求めて独立派教会を創設するアグリパイ。芸術の世界では、『スポリアリウム(虐殺)』の成功で西洋画壇で評価される一方、独立運動にも大きな影響を与えたホアン・ルナ。第二次大戦後、初のフィリピン議会選挙で下院議員となったフロロ・クリソロゴは労働運動を支援し続け、現在この国の労働者を支えるソーシャル・セイフティー・ネットであるSSSの創設に尽力した。それから忘れてはいけないのが80歳を過ぎてなお意気軒昂で植民地根性を激しく糾弾し続けている社会派作家、シオニール・ホセ氏の故郷もこのイロコスだ。

 そしておそらく極めてつけは何と言ってもフィリピン史上最強の弁護士と言われ、32歳の若さで憲政史上最年少の下院議員となり、48歳で大統領になったマルコスだろう。彼もおそらく若き頃は理想に燃え志高く、大胆な社会改革を夢見ていたのかもしれない。彼の遺体はこのイロコスのバタックという生れ故郷の町の生家に防腐処理をされて今も横たわっている。その遺体が安置された部屋の前には「全ての人類の父」と題して次の言葉が掲げられている。

         マルコスの生家と遺体の眠る博物館

「かくも多くの我々人間は腐敗や貪欲、そして暴力の中に生きている。しかし忘れてはいけないのは、この国は、いやいかなる国でも、自己主義的な目的ではなく、人々共通の善を求めて兄弟として生きることを学ぶことなしに永続と繁栄はありえない。
我々の自己欲と腐敗、そして無責任な態度を永遠に退け、我々の生命を創る強靭さを我々に与えたまえ。」

 貪欲と物質主義の限りを蕩尽した大統領とその取り巻き。北イロコスの片田舎の湖のほとりには、その見果てぬ夢と宴の後の残骸が呆然と残されている。反骨精神を胚胎する故郷として多くの気骨ある革命家、社会運動家、思想家、芸術家を生み出した土地は、また人間という存在の弱さを教えてくれる場所でもあるのだ。

           物欲の象徴、”北のマラカニアン”

2008/08/12

平和を愛する山の民を描いた秀作映画 ~第4回シネマラヤ~

 このブログでもたびたび紹介してきたインデペンデント系のアート界の動き。今年もまたCCPを会場に6月から7月にかけて、ダンス、演劇、映画と熱いイベントが続いた。

 今回で4回目を迎えたデジタルシネマ国内最大の祭典シネマラヤ。年々回を重ねるごとに増殖するこの映画の祭典は、今年もその期待にたがわず大いに盛りあがった(7月11日~20日)。新作はコンペ部門(長短10本ずつ)とエキシビション部門。それにこれまでのシネマラヤ出品作や国内の他のDシネのコンペ出品作などをあわせ、なんと一挙に165本のDシネがたった9日間に怒涛のように上映された。コンペ出品作の内、長編9本と短編10本を見たが、最も印象に残った作品について報告する。

 長編コンペに出品された『BRUTS』(タラ・アイレンベルガー監督)という作品。ルソン島の南に位置するミンドロ島を舞台にしたマンギャン族という少数民族の子供のカップルの物語だ。マンギャン族はいまでもミンドロ島の山中で伝統的な暮らしをしており、独自の文字や“アンバハン”と呼ばれる美しい韻をふむ詩、それにユニークな幾何学的文様をあしらった織物や工芸品があり、独特の伝統文化を持った民族である。マンギャン族の生活の様子は、オランダ人の神父で1960年代始めよりこの島の南部山中に住み着いたアントゥーン・ポストマ氏のいくつかの本で知ることができる。例えば『Mindoro Mangyan Mission』(Arnoldus Press、1983年)という写真集からは1980年代の彼らの生活が生き生きと伝わってくる。


 物語はそのマンギャン族の女の子の家族をおそった悲劇から始まる。伝統的焼畑で生計を維持していたところに都会から来た移住者に土地を奪われて家を焼かれ、父親は失意のうちにマラリヤで命を落とす。この物語の主人公である女の子の兄は、違法伐採による木材を筏で川下の町まで運ぶ運び人(BRUTS(ブルートゥス)と呼ばれる)となったが行方不明。その兄を求めて、同じくBRUTSとなり幼なじみの男の子との二人連れの川旅が始まる。二人は旅の途中でお尋ね者の共産ゲリラのリーダーや、彼を追って密林を捜索する政府軍兵士などと出会うことになる。やがて両者の戦いに巻き込まれるが、最終的には共産ゲリラが捕まって二人は政府軍兵士に保護される。女の子がそのゲリラに心を惹かれたことで男の子の間に微妙な隙間が生じたが、様々な冒険の果てに故郷の家にたどりついた二人は、再び仲直りする・・というストーリー。この作品で審査員賞、助演男優賞、音楽賞、撮影賞を受賞した。


 マンギャン族の伝統文化の問題と環境破壊が縦軸のテーマだが、そこにこの国がいまだ苦しみ続けている共産ゲリラと政府軍との争いが横軸で挿入されている。なかなか重厚な社会的テーマをいくつも織り込んで物語の破綻もなく、それでいてみずみずしく描かれているのは、幼いカップルが筏で川を下るに従って物語が展開するという冒険譚のような虚構の世界だからか。でも私が特に感心したのは、共産ゲリラとそれに対峙する政府軍の描き方だ。マルコス独裁時代の1969年に結成されて以来、いまだに農村を拠点に政府軍と戦いを続けている新人民軍のゲリラ指導者が、この映画ではなんと心優しく描かれていることか。さらに奇異なことに、政府軍の兵士もまた、その司令官に人情味ある風貌と演技で人気の俳優ロニー・ラザロを起用するなど人間味あふれる描き方をしている。40年近く続く共産ゲリラと政府軍とのある種“倦んだ”戦いを、理想的すぎるきらいはあるとしても、こうやってあえて柔らかな視点で描く20代の若者がいることに、私はまず新鮮な驚きを覚えた。

 この映画全体を包み込むなんともいえない優しさというものの不思議さが心の中に残っていた私は、それから数日後にある本を発見し、何かその秘密の一つがわかったような気がした。7月23日から26日の4日間にわたってフィリピン研究国際会議が行われ、250名を超える研究者が合計71のパネルでペーパー発表が行われた。日本人研究者も名前が登録されているだけで29人もの研究者が参加している。この会議の内容を書き始めるとまたそれだけで長くなってしまうが、こうした会議での楽しみの一つが会場で行われるフィリピン関係本の即売会だ。今回はマンギャン族のことが気になっていたので探してみたが、『Mangyan Survival Strategies』(Jurg Helbling/Volker Schult 著、New Day Publishers、2004年)という本に巡り会った。

 この本の作者によれば、ミンドロ島のマンギャン族は北部コルディレラの山地民族やミンダナオのモスレムなどと異なり、フィリピンで最も平和を愛する、言い方をかえれば臆病な民族であるという。フィリピンで7番目に大きな島には2500メートル級の山が迫っていて急峻な渓谷で分断されており、今でも島内をくまなくつなぐ道路は無く人の往来が困難な場所だ。そんな土地でも先住民たちはスペイン植民地時代からキリスト教化を迫られ、20世紀になってからはアメリカからの独立戦争や日本軍占領時代を通して攻撃は繰り返され、さらにそれと平行してルソン島やビサヤ地方からの移民がやって来て、1960年代以降になるとそれが大量になり、法律に無知なマンギャン族は土地を奪われていった。しかし彼らはそのたびに紛争を避け、ある者はより生活環境の厳しい山に逃れた。そして結果的に山に入った人々の間に伝統的価値観や文化を保った生活が残されたという。争いを避け、臆病と言われても、それが結果として種族と文化を存続させる究極の知恵であったということにはおそらく大きな意味があるのだろう。

 『BRUTS』の女性監督は2004年にマンギャン族のドキュメンタリーフィルムを手がけた後、移民から土地を奪われ森林伐採で森が失われる現状に対して、何とかしなくてはいけないと今回の映画制作を思い立ったという。平和を愛するマンギャンの人々の世界を描く現代の御伽噺の中に、たとえ空想的と言われても心優しき共産ゲリラや人情味あふれる政府軍兵士を登場させたこともまた、争いは無意味だという彼女なりのメッセージなのだと思う。内戦状態が続いて40年。それはちょうど彼女の世代の人生とも重なる厭戦には十分な時間だ。全ての希望が打ち砕かれてもなお、新たな空想や理想を抱くのは若者の特権だろう。


 ところでマニラの映画人によって地方の少数民族やその独自の文化・風土が描かれるというケースは、これまでのシネマラヤでいえばライステラスで有名なイフガオ族の村バタッドを舞台とした『BATAD:SA PAANG PALAY(バタッド:稲穂の足)』(2006年)や、ルソン島からさらに北の離島バタネスを描いた『KADIN(山羊)』(2007年)などがあるが、この『BRUTS』もそうした系譜上の作品であるといえる。また別の長編コンペ作品の中で心に残った『NAMETS(美味い)』(ジェイ・アベーリョ監督)という作品は、中部ネグロス島のバコロドという町を舞台に地元の食材と味を生かしたレストラン作りに挑戦するというフィリピン版『美味しんぼう』物語だが、地方ネタを軽く娯楽作品風に仕上げるというのはこれまでにない新しい傾向だと思った。

 こうした地方色という意味で、今回のコンペで長編作品以上に話題になったのが、短編部門出品の『ANGAN-ANGAN(希望)』という作品。スールー諸島のバシラン島を舞台にしたヤカン族の9歳の女の子の嫁入り物語で、ドキュメンタリー風のみずみずしい映像が印象的だ。昨年のシネマラヤでマニラの若手監督がミンダナオをテーマにした作品を出品して(『ガボン(雲)』)、それについてこのブログでも、いつかミンダナオの若者が自分たちのストーリーを映画にする日がやってくることを願っていると書いたが、早くもそれが実現したかたちだ。プロデューサーはこのブログでも紹介したことのあるテン・マンガンサカンで、監督はザンボアンガ出身のシェロン・ダヨック。二人ともミンダナオ島が本拠地の若きフィルムメーカーである。

 さて映画祭の受賞レース、作品賞はオカマのテレビ・プロデューサーを描いた『JAY』(フランシス・パション監督)が受賞した(この作品のみ見逃してしまった!)。監督賞は、死を宣告された女性が死ぬ前に100のやりたい事を次々とかなえてゆく『100』のクリス・マルティネスで、暗いテーマをユーモアとペーソスあふれる映像美で描いた。その『100』はオーディエンス賞、主演女優賞、助演女優賞、脚本賞も受賞した。そのほか父親から虐待を受けて言葉を失った男の子と恋人を亡くして失意の底にあるバイオリニストが、バイオリンを通して触れ合い自分を取り戻してゆくという『BOSES』(エレン・オンケコ・マルフィル監督)も賞を逸したが印象に残った。

 また第二次大戦中、ダバオで実際にあった家族の物語をもとに作られた『コンチェルト』(ポール・モラレス監督)という作品は、これまでさんざん映画でステレオタイプ化されてきた日本軍と全く異なる姿を提示した点で特筆に値する。監督の祖父母の実話にもとづいているのだが、日本軍のダバオ侵攻に伴って森の中に疎開したフィリピン人家族が音楽を愛する日本人将校たちと交友を暖め、日本側の戦況の悪化に伴って同部隊が明日駐屯地を移動するという最後の晩に、その家族が彼らのために森の中でピアノの演奏会を開き、コンチェルト(協奏曲)を奏でるという美しいストーリーだ。戦争被害の甚大なフィリピンでこのように日本軍人を賛美するともとらえられかねない映画を作ることなど、おそらくちょっと前までは想像もつかないことであっただろう。物語の構成が多少物足りないことや演技面での不足を補って余りあるほど、この監督の勇気には敬意を表したいと思う。

            びっしりのラインナップ!

 誕生から4年目にして数多くの若者の参加をえて、いまやミンダナオからも作品が生まれ、シネマラヤはますます増殖しているようだ。それは既に“シネマラヤ現象”といってもいいかもしれない。そこで提示される世界やフィーリングは、いまのフィリピンの若者の等身大の姿を明確に映し出していて観ていてとてもすがすがしい。昨年は120本、そして今年は165本だったので、このペースでゆけば来年は200本を超えてしまうか、とも思えてくる。尽きせぬ物語と若き才能との新しい出会い。今から来年のシネマラヤが楽しみだ。

2008/07/21

沖縄舞踊と黒潮文化

 沖縄とフィリピンは近い。気候・風土も似ている。沖縄名物のゴーヤー(苦瓜)はフィリピンでもよく食べられているし、パパイヤやマンゴーなどフルーツの植生も似通っている。フィリピンの先住民族は、沖縄のオジイやオバアとは遠い親類同士だから顔つきもそっくりだ。歴史的にも日本からの移民の多くは沖縄からで、戦後は米軍キャンプのある沖縄で多くのフィリピン人が働いてきた。“パタイ”という言葉はフィリピンでも沖縄でも同じ “死”を意味する。日本広しといえども、タガログ語の単語が方言に採用されているのは沖縄ぐらいだろう。だからこの7月にマニラで行われた沖縄舞踊の公演は、いつものいわゆる“日本文化紹介”とは、意味というかニュアンスが若干異なる仕事だった。

 沖縄から15人の公演団を率いてきたのは「沖縄文化民間交流協会」というNPOの代表で84歳になっても意気軒昂な玉城正保氏。沖縄舞踊はいくつかの流派に分かれていてそれぞれしのぎを削っており、今回初めてわかったことだが、その舞踊界をサポートする地元の二大新聞(沖縄タイムズと琉球新報)の系列で真っ二つに舞踊界を分かつ派閥があるようで、双方のグループ同士でなかなか交流する機会はないという。しかしこのNPOの企画に限っては派閥を超え、流派を超えて、踊りの演目ごとに持ち味を十分に発揮できる舞踊家が集まり、演奏を担当する地方も、組踊りで重要無形文化財の集団指定を受けている喜瀬慎仁氏をはじめ一流の演奏家がそろった。

 公演のほうは800人収容の劇場にほぼ満員の観客を集め、冒頭の「かぎやでぃ風」から観衆を引き付け、華やかな紅型をまとった「本貫花(むとぅぬちばな)」、芭蕉布の衣装による農民の踊り「むんずるー」、濃い藍染めの琉球絣で優雅な「花風」と見所多い踊りが続き、クライマックスには舞台の上で観客を巻き込んでお決まりのカチャーシーで、最後まで多くの観衆を魅了して成功裏に終了した。

 沖縄舞踊は、宮廷舞踊と民衆踊りという対極的な二つの要素を同時に持っためずらしい舞踊だ。宮廷舞踊は能を彷彿とさせる摺り足と優雅な所作を基本に、華やかな衣装が彩りを添える。一方民衆踊りである“雑踊り”は、民衆生活や沖縄の自然をモチーフとした生き生きとして軽快な所作が特徴。衣装も芭蕉など伝統的に庶民に親しまれてきたものが中心である。変化に富んでいるので見ていて飽きない。こうした多様性が受け入れられているのか、海外における“日本”文化紹介事業の中でも、和太鼓や津軽三味線などと並ぶ“御三家“として人気の分野である。

 タイやインドネシアに駐在した際にも公演やワークショップなどで沖縄舞踊の紹介をしてきたが、そのたびに沖縄のアーティストの心意気といったものに感銘を受けたものだ。いまや沖縄舞踊の大家の一人で、玉城流の家元である秀子先生率いるグループをバンコクで受け入れた際には、楽屋やバスの中でも気がつくと三線を伴奏に歌いだす陽気な人々に、確かに“ヤマト”の人々とは異なる気性をかいま見た。またアユタヤという古都に行った際には、自分たちの祖先がかつて住んでいたという日本人街に思いを馳せて目をうるますその姿に、世代を越えた想像力の豊かさに驚きを覚えた。インドネシアの古都ジョグジャカルタで比嘉いずみさんという中堅の舞踊家を招いて行ったワークショップでは、ジャワ文化の粋ともいえるジャワ古典舞踊の舞踊家たちと交流し、腰を据えたゆったりとした動作や優雅な手の所作など様式の共通点に嬉々とした。

 今回は公演の翌日に国立フィリピン大学(UP)でワークショップも実施したが、緊張感張り詰めた公演とは打って変わり、多くの学生を相手に賑やかで楽しい交流となった。舞踊、音楽とそれぞれに別れて双方30名はいただろうか、午前はそれぞれのパートに分かれて練習、午後は合流してのミニ発表会となった。それにしても踊りのパートで師匠格の久手堅一子さんが話していた内容に目から鱗が落ちるような思いを抱いた。伝統舞踊というもの、まずは型からと思いきや、「沖縄の人々はとても音楽を愛しています。今日も素晴らしい演奏をする先生がそろっています。さてどこからか音楽が聞こえてきました。私たちはそんな音楽を聴くと、もういてもたってもいられなくなるんです。ほらほら体が自然と動き出します・・」と言って学生たちを踊りに誘っていった。これほど踊りの本質を簡潔にかつ素直に伝えることは意外と難しい。三線の音色や踊りのリズムが生活に密着した沖縄のウチナンチューだからこそできることなのかもしれない。ちなみにこのフィリピンにおける東大ともいえるUPにも音楽学部の中に舞踊学科があるが、主流は西欧のバレエで伝統舞踊は教えていない。伝統のほうはまた別に体育学部にコースがあるようだが目立った活動はない。姿勢をまっすぐにしてひたすら上へ上へと体を伸ばしてバレエの訓練を積み重ねてきた学生の体は、それと見てはっきりとわかる体型の子たちが多い。重心を低くしてスローにゆったりと踊る沖縄舞踊に触れることで、体が記憶しているに違いない自分たちの祖先の踊り、その身のこなしの感覚を少しでも蘇らすことはできただろうか。


 フィリピンと沖縄をつなぐ絆は想像以上に太い。1940年当時フィリピンにいた日本人は領事館の登録ベースで19,288人。そのうち沖縄県人が9,899人と半数を超えている。例えば漁業の世界での糸満漁師の活躍は特質に値する。フィリピンの複雑な海岸線と遠浅の海は追込漁を得意とした糸満の漁師にとっては願ってもない漁場だったらしく、マニラにおける漁業の実権はほとんど沖縄の人々が握っていたようだ。

 3年前にフィリピンに来て取り組みたいことが色々とあった中で、フィリピンから海流に乗って北上し、台湾を経由して沖縄を貫く“琉球弧”に至る黒潮の道をたどる交流事業は、ぜひともやってみたいことの一つであった。かつて東京のアジアセンターという部署でアジアの文化財保存事業を担当していた頃、アジアの織物文化をテーマに各地から織物作家を招待し、芭蕉布を求めて西表島まででかけたことがある。芭蕉布は、今回の舞踊公演でも影の主役を努めた沖縄の民衆に愛用されたバナナ科の植物繊維から作られる織物だが、第二次大戦の戦火で一度は途絶えたものが沖縄本島の北部の喜如嘉で復興したものだ。西表にも紅露工房というところがあり、芭蕉の採集から糸作り、染料の採集と染め、そして織りに至るまでの一連の作業を体験することができた。

 芭蕉布が一体どこからやって来たかという疑問についてはいまだに解答はないが、ここフィリピンにもやはり芭蕉の一種であるアバカを用いた織物がミンダナオに残っている。かつてはフィリピン全土にあったといわれる織物だが、現在ではミンダナオ島南西部のチボリ族に伝わるティナラクという織物が最も原型をとどめていて有名だ。私が山原の喜如嘉にある芭蕉布会館を訪れた際も、そのチボリ族のティナラク織りが展示されていた。アジアの染織作家を集めた研修旅行の後、その芭蕉布のことが気になってある人に依頼して台湾にも同じような織物があるかどうか調べてもらったことがある。しかし残念ながら現段階では台湾の芭蕉布はみつかっていない。そんなこともあり、沖縄の芭蕉布とミンダナオのティナラクとの間のミッシングリンクを埋めるような“黒潮文化”に関する国際会議などできないものかと、今でも夢に思い描いている。

               ティナラク織り

 文化交流は人と人とをつなぐ仕事だ。新しい人と人との出会いはそれだけでかけがいのない価値を持つものだが、それが人と人とのつながりの記憶を、ひょっとしたら古き時代から交流してきた民族と民族の記憶を呼び覚ます可能性があるものであれば、そこにはまた次元の異なる意味が生れる。グローバライゼーションの時代といわれる中でますます希薄化していると言われている人間関係。国境を越えた人間関係もまたある種の希薄化をまぬがれない。しかしだからこそかつては確かにあったリンクに思いを馳せ、そのつながりを実感することが大切なのだと思う。華やかで爽快な沖縄舞踊の中にも、踊りの所作や衣装の中にそうした交流の痕跡が残されているはずだ。ミッシングリンクを埋めることはそう簡単なことではないけれど、ほんの一握りのウチナンチューとフィリピーノとの出会いを生み出すこともまた、その空隙を埋めるための一歩なのだと思っている。

2008/05/19

マニラのアートスペース・ガイド

 今回本文は後述です。マニラの主要なアートスペースを紹介します。マニラ首都圏、北から順番に。

○ケソン市

●mag:net Cafe


 まずは何と言っても、今マニラで最も重要なアートスペースと言っても過言ではない「マグ:ネット・カフェ」。アテネオ・デ・マニラ大学の門前にあるカティプナン店(2006年オープン)を中心に、新興のグローバル・シティやマカティにも支店を構える。もともとアート系雑誌のネットワークを企画し、マガジン・ネット=マグ:ネットとして始まった。ギャラリーにカフェを併設したのが成功し、現在では毎日のようにライブ(ロック、エスニック、レゲエ、ジャズ)があり、毎週火曜日はシネ・カティプナンと称して、芸術的・実験的な映画の上映がある。現代美術の分野では今やある意味で若手作家の登竜門とも言え、毎月1人のペースで個展を中心に展覧会が行われている。フィリピンでは珍しく1年先まで予定が決まっている超人気のスペースだ。書店も併設していてアート関係の本・雑誌、地元ミュージシャンの音楽CDや名作映画のDVDが購入できる。WEBサイトも充実していて、最近数年の展覧会についてはデータベースが公開されていて、現代美術作家の情報が得られる。申し込めば定期的にEmailニュースも送ってくれる。オーナーの一人であり1970年代から活躍する画家のロック・ドリロン氏は、次はやはりアート・マガジンの発行をと意気込んでいる。

Address: AGCOR Building. 335 Katipunan Avenue, Quezon City
Tel/Fax: +63-2-929-3191/+63-921-6681279
Email: magnetcafegroup@gmail.com
WEB: http://www.magnet.com.ph

●Green Papaya Art Projects

 2000年にオープンしたがいまや老舗とも言えるアートスペース。『アジアのアートスペースガイド2005』でも紹介されている。パナイ島出身のインスタレーション作家ピーウィー・ロルダンと、このブログでも紹介した新進気鋭のダンサー、ドナ・ミランダが運営している。美術、映像、ダンスなど境界を超えたコラボレーションが真骨頂。滞在設備も備えており訪れる外国人アーティストも多い。


Address: 12 A Maginhawa St. UP Village, Diliman, Quezon City
Tel: +63-926-6635606
Email: info@greenpapaya.org
WEB: http://papayapost.blogspot.com

●アテネオ・アート・ギャラリー

 イエズス会系私立名門のアテネオ・デ・マニラ大学の構内にあるギャラリー。近代絵画のコレクションが有名だが、現代美術の企画展も多く、海外の研究者・キュレーターとの対話事業も盛ん。2006年から始まった「アテネオ・アート・アワード」は、既に現代美術では国内で最も“権威”あるコンペティションに成長した。優勝者はシドニーで滞在制作ができる。


Address: Ground Floor, Rizal Library, Ateneo de Manila University, Katipunan Avenue, Loyola Heights, Quezon City
Tel: +63-2-426-6001 local 4160
WEB: http://gallery.ateneo.edu/

●Lingoren Gallery

 1960年代以降の社会派リアリズムの作家(アンティパス・デロターボやレナト・ハブランなど)を扱う異色のギャラリー。展覧会も社会的硬派なテーマが多い。ギャラリーのオーナーはアルフレド・リンゴレン(抽象画)、子息はエリック・リンゴレン(写真)でともに著名なアーティスト。

Address: 111 New York / Stanford Str., Cubao, Quezon City
Tel: +63-2-439-3962
Fax: +63-2-912-4319

○マンダルーヨン市/パシッグ市

●SM Megamall Art Walk

 マニラ首都圏のショッピングモールの中で最もギャラリーが集中する。合計19のギャラリーと企画展を実施するアートセンターがある。ギャラリーの中では「FINALE」が2000年のスタート時から続くパイオニアで、現代美術作家の展覧会が多い。また「West Gallery」や「THE CRUCIBLE」も現代美術が中心。「OLD MANILA」は美術関連の古書が豊富。いつ行っても何かしらの展覧会が行われている。

Address: 4th level, SM Megamall, Mandaluyong City


●ロペス美術館

 国内有数の華人系財閥が経営するロペス財団の美術館。近代美術のコレクションで有名。現代美術の企画展も積極的に展開している。

Address: G/F Benpres Building, Exchange Road corner Meralco Avenue, Ortigas Center, Pasig City
Tel: +63-2-631-2417
Email: pezseum@skyinet.net
WEB: http://www.lopezmuseum.org.ph/

○グローバル・シティ(タギグ市)

●MO_SPACE

 マニラ首都圏で今最もホットなスポットに2007年にできたばかりのアートスペース。小さいスペースだが、通常は現在注目されている現代美術作家のコレクションをコンパクトに展示しており、フィリピン現代美術作家の概観ができる。定期的に企画展も開催。

Address: 3rd level, Mos Design, Bonifacio High Street, Bonifacio Global City, Taguig City
Tel: +632 8562745
Fax: +632 8562745
Email: mo.space@yahoo.com.ph

●High Street(野外)

 国内随一のスペイン系財閥であるアヤラ・グループが開発した新都市の中心部にできたショッピングモール。元米軍基地の跡地に高級ショッピングモールの他、マンション、病院、インターナショナルスクールなどが忽然と現れ、この周辺だけで商業ギャラリーが10ヶ所近く新たにオープンした。現代のフィリピンの富の象徴。アートに触れる街つくりを目指していて、美しい街路と芝生の各所に若手作家によるパブリック・アートやインスタレーションが設置されている。


Address: Bonifacio High Street, Bonifacio Global City, Taguig City

○マカティ市

●THE DRAWING ROOM GALLERY

 国内の旬の作家を含む良質のドローウィングを扱うギャラリー。2ヶ月に1回のペースで個展を中心に展覧会も実施している。


Address: 1007 Metropolitan Avenue, Metrostar Building, Makati City
Tel: +63-2-897-7877
Fax: +63-2 -890-7455
Email: drawings@pldtdsl.net
WEB: http://www.drawingroomgallery.com/public.concv/8

●Silverlens Gallery

 現代写真を中心に現在活躍目覚しいギャラリー。シルバーレンズ財団では新進作家の作品を購入してグラントを提供している。またアジア・カルチュラル・カウンシルがスポンサーとなって、米国やアジア諸国での研究スカラシップも提供している。


Address: 2320 Pasong Tamo Extention, Warehouse 2, Yupangco Building, Makati City
Tel: +63-2-816-0044
Email: manage@silverlensphoto.com
WEB: http://www.silverlensphoto.com/#

●アヤラ博物館

 フィリピン最大のアヤラ財閥系の財団が経営する民間博物館。首都圏マカティ市の中心を占めるきらびやかなショッピングモール街の一角にあって、国際的スタンダードを備えた展示スペースを擁し、フィリピンの美術界をリードしている。2008年の5月には新たに常設展示室を改修オープンして、16世紀植民地時代以前にさかのぼる、1000点を超える金の装飾品のコレクションを一挙に公開した。かつて金の産地として名を馳せたフィリピンだが、ミンダナオやパラワン島など、今は発展に取り残された地域で発見された金の装飾品からは、インド文化や近隣諸国の影響が見て取れるが、その精巧な技術には全く圧倒される。近代美術や現代美術の企画展、海外作品の展示なども活発。

Address: Makati Avenue cor. De La Rosa Street, Makati City
Tel: +63-2-757-7117 to 21 local 10 and 35
Email: museum_inquiry@ayalamuseum.org
WEB: http://www.ayalamuseum.org/

○パサイ市

●Galleria DUEMILA


 マニラで最も老舗のギャラリーの一つ。1975年にイタリア人オーナーのシルバナ氏によってオープン。コレクションも充実しており、絵画の修復なども手がける。WEBサイト内の作家の公開資料も豊富。

Address: 210 Loring Street,1300 Pasay City
Tel: + 63-2-831-9990 or 833-9815
Fax: +63-2-833-9815
Email: duemila@mydestiny.net
WEB: http://www.galleriaduemila.com/

●Cultural Center of the Philippines(CCP)
 
 フィリピン文化センターの美術部門として、1960年代~80年代名作のコレクションが有名。大(440平米)・中・小のギャラリーなど6ヶ所の展示スペースがあり、個展・グループ展が頻繁に開催されている。


Address: Roxas Boulevard, Pasay City
Tel: + 63-2-832-1125 loc. 1505 to 1506
WEB: http://www.culturalcenter.gov.ph/

○マニラ市

●HIRAYA GALLERY

 ここも1980年オープンの老舗画廊。ガブリエル・バラド、ホセ・レガスピなど数多くの作家がこの画廊から巣立っている。1980年代の作家から現代作家までコレクションも豊富で画廊2階の倉庫を観るのも楽しい。オーナーのディディ・ディーのネットワークは豊富である。ここもWEBサイトの作家情報が充実している。

Address: 530 United Nations Avenue, Ermita, Manila City
Tel・Fax: + 63-2-523-3331
Email: hiraya@info.com.ph
WEB: http://www.hiraya.com/home.asp

●Museum of Contemporary Art and Design, SDA

 アテネオと並び称される名門私立大学のデザイン芸術学部の付属施設として2008年2月にオープンしたばかりのギャラリー。マニラ市内に斬新なデザインの建築が威容を誇る。同学部、劇場、映画館など全体で14階建ての55000平米。ギャラリーは美術、デザイン、建築、映像、パフォーマンスなどジャンルを超えた企画展を随時公募している。


Address: The De La Salle-College of Saint Benilde (DLS-CSB) School of Design and Arts Building (SDA Building), 950 P. Ocampo Street, Malate, Manila City
Tel・Fax: + 63-2-536-6752 local 135 to 138
Email: sda@dls-csb.edu.ph
WEB: http://www.dls-csb.edu.ph

●国立博物館(ナショナルギャラリー)

 2007年に念願のナショナルギャラリーがオープンして、19世紀後半アジア美術の最大の傑作の一つとも言える『スポリアリウム(虐殺)』をはじめ、近代の名作を一般公開するようになった。別館では企画展も多く実施されており、この6月には国際交流基金との共催で日比現代写真展が開催される予定。

Address: P. Burgos Street, Manila City
Tel: + 63-2-527-1215
Fax: + 63-2-527-0306
Email: nmuseum@i-next.net
WEB: http://members.tripod.com/philmuseum/index



(本文)
 セブで開かれた第二回東アジア諸国首脳会議に出席する途上、マニラを訪れた時の安倍首相と懇談する機会があったのが2007年1月のこと。安全保障や憲法問題など果敢な政策を積極的に掲げ、首相官邸機能の強化をなかば強引に進めた結果、各方面にフリクションを起こしてバッシングを受ける状況に陥り、その政権を放棄してしまったのが9月。様々な政策が中途半端な状態に投げ出されたままだが、私たちの仕事の関係で唯一、安部政権の政策の果実からの恩恵を受けているものがある。東アジア青少年交流拡大計画。通称JENESYS(ジェネシス)と言われ、アセアンや中国、韓国、それにインドや大洋州の国々を含め、今後5年間、毎年6000人の青少年の交流を行おうという壮大な計画で、予算は総額350億円。フィリピンからも毎年200人の高校生と大学生が10日間の日本研修旅行を与えられることになった。

 国際交流基金でも、このジェネシスの枠組みで日本語教師を日本から派遣したり、逆にアジア諸国から日本語教師や学生を日本へ研修に招待したり、前回のブログで紹介したようなスタディーツアーを実施するなど、その企画・運営にあたっていて、マニラ事務所だけでも年間26人程度の交流事業を新たに実施することとなった。芸術交流の分野でも、年間2名の「クリエーター」を日本へ招待することとなり、今年の第一期生として、ビジュアル・アーティストのゲーリー・ロス・パストラナと、UPの学生で能楽の大鼓を学ぶダニエル・ナオミ・ウイが選ばれた。

 ゲーリーは1977年生まれの期待のインスタレーション作家。近代美術の黎明期に活躍した作家たちに与えられたグループ名“サーティーン・モダーンズ”にちなみ、3年おきに優れた現代美術の作家に与えられる「CCPサーティーン・アーティスト」賞に、2006年に選ばれている。1枚1枚破った辞書をくしゃくしゃに丸めて落ち葉のように見せかけた作品や、ハイソの集まる高級ショッピングモールの一画に穀物の種などを使って曼荼羅を描くなど、日常的にありふれたものを使って新たな文脈を生む作品を作り続けている。今回日本で新たに取り組む作品は、漁村に放置された古い小船を分解して韓国に運び、そこで新たな文脈のもとに組み立て直すというプラン。日本と韓国との間に横たわる海峡を、東南アジアのアーティストが取り持つというとっても素敵なアイディアだ。

       既に鳥の餌場となっている芝生の上の曼荼羅

 日本での滞在制作は、京都アートセンターと京都アエロポートが受け入れる。京都アートセンターは、京都市内にある廃校となった小学校を改造した滞在型アートスペースで、京都アエロポートは、稲次義明氏という映像作家が作った新しい滞在制作拠点である。今回はその稲次氏がまずフィリピンを訪れたことからこのプロジェクトは始まったのだが、フィリピン人アーティストとのコラボレーションへの意気込みに共感し、私たちも協力することにした。ゲーリーは作家以外にも、キュレーターやプロデューサーとしての経験もあり、現在は閉鎖となってしまった「Future Prospect」というアートスペースも運営していた経験の持ち主で、フィリピンと日本の現代アート交流の展開にとっても期待の人材である。

 ところで、稲次氏とフィリピンとを結びつけた1冊の本がある。アジア16カ国のオルタナティヴなスペースを中心に紹介した『オルタナティヴス アジアのアートスペースガイド2005』というガイドブックで、2004年に国際交流基金が出版した。実は稲次氏に会う以前にも、ある日本人からこの本を頼りにマニラのアートスペースを訪れたという話を聞いたことがある。もちろん何人もいるわけではないけれど、地元の人だって知る人の少ないマニラの町の一画にあるちっぽけなオルタナティブ・スペースに、わざわざ日本からその本を携えてやって来る人たちがいる。こうして情報を公開することが、貴重な点と点とを結びつける見えない糸を紡いでいるのだということがわかると、こういう仕事をしていて嬉しく思えてくる。

 さてそのマニラのアートスペースについて。商業的なギャラリーでなければその存在基盤はとても脆く、変化の激しい世界である。『アジアのアートスペースガイド2005』についても既に情報が古くなりつつある。また昨今のアートマーケットの加熱で、市内各所に新たなスペースも続々とできているので、この機会に重要なスペースを紹介しておく。