2005/10/11

ミンダナオの豊かな文化とテロリズム

 「アルンアルン・ダンス・サークル」は、マニラ首都圏郊外の閑静な住宅街で舞踊スクールを運営している。日曜日の午後になると、そのスクールには小さな子供から壮年女性、そして聴覚障害を抱えた女性まで20名近くの生徒が集まってくる。中には男の子や青年もいる。ここで教えているのはミンダナオ島の南西に連なるスールー諸島に伝わるパンガライという伝統舞踊。講師はリガヤ・フェルナンド・アミルバンサさん。還暦を過ぎてもなお気品の漂う女性だ。腰をかがめたままで独特の摺り足で移動する。手は複雑に波打って、その指先は極限のように反って、激しく揺れる。バックに流れている音楽は、クリンタンガンという簡素な真鍮製打楽器の音だ。私もトライしてみたが、決して激しい動きではないが、重心を常に低く保ち、それでいて全身各所にバランスよく力を入れなくてはならず、見た目以上にとてもハードな踊りだ。

 リガヤさんの経歴はとてもユニークである。生まれはマニラ。父親はマニラ首都圏のマリキナ市長という“良家”の娘で、いわば生粋の“低地キリスト教徒”。母語はタガログ語だ。大学時代にスールー海の盟主であるタウィタウィのスルタンの弟と知り合い、恋に落ちて結婚。その後1969年にパンガライの踊りに出会ったことで、その後の彼女の人生を決定的にした。スールーに住んでパンガライの研究を進める一方、スルタン家の一員として地元の伝統文化の保存と振興に取り組んだ。83年には長年の研究成果をまとめて「パンガライ」(アラヤミュージアム出版)を出版して、同年のナショナル・ブック・アワードを受賞している。夫の死後、99年にマニラに移住し、アルンアルン・ダンス・サークルを設立して現在に至っている。

 スールー諸島といえば、外国人の私などにはまず、イスラム過激派アブサヤフ(アラビア語で「父なる剣士」)の本拠地という危険なイメージが強い。アルカイーダから資金協力や軍事援助を受けていると言われていて、2000年頃より外国人を集団誘拐するようになり、昨今はフィリピン各地でのテロの主犯グループとされ、国際的にも注目されている。さらにアブサヤフ以外にも、スールー諸島を含むミンダナオには、モロ・イスラム解放戦線や、フィリピン共産党新人民軍(NPA)など、国際社会、特に米国が“テロリスト”と名指しして神経を尖らせているグループの拠点がある。最新の情報では、先日のバリでの自爆テロをはじめ、インドネシアで再三にわたってテロを起こしているジェマア・イスラミア(JI)の幹部も潜伏中と言われている。この地域は、一部の例外を除いていまや外務省の海外渡航情報でも「渡航の延期ないしは渡航の是非を検討する」必要がある地域であり、実際の距離よりもはるか遠くに感じる場所だ。

 しかしミンダナオは、1521年にマゼランがフィリピンを“発見”するはるか前から、香料の中継貿易などで繁栄を謳歌し、イスラム教徒による王国が存在していた先進地域だ。その後のスペイン統治333年の間、一度も征服されたことはなかったが、スペイン人から「モロ」(8世紀北西アフリカからイベリア半島に侵入したイスラム教徒に対する蔑称)と呼ばれ、カトリック教徒との分断統治が行われた。それを継いだ米国統治、さらには第二次大戦後のフィリピン政府も、積極的にキリスト教徒のミンダナオ移住政策を進めた結果、「キリスト教徒による政治的支配の押し付け」、「父祖伝来の土地の収奪」というイスラム教徒側の不満は高まり、紛争が絶えなかった。そして今世紀、テロが世の中を覆う時代となり、イスラム過激派に拠点を提供する“危険な”地域として世間の注目を集めるようになり、文明の衝突論にもあおられて、“ミンダナオ・イシュー”はイスラム教VSキリスト教問題としてクローズアップされるようになった。

 けれどもミンダナオは、無論テロリストの巣窟ではないし、イスラム教VSキリスト教の問題だけが重要なのではない。ぼく自身、マニラに着任してまず巡り会ったミンダナオの文化は、イスラム教やキリスト教伝来より以前の、“ルマド”と呼ばれる先住民族の文化の流れをくむエスニック音楽だった。

 マニラに来て4ヶ月間、色々なライブに行ったが、これまでに何度も足を運んだのがケソン・シティーにあるCONSPIRACYというライブハウス。“共同謀議”という、なんとも素敵なネーミング。50人も入ればいっぱいになってしまうお店は、いわばこのあたりのインテリのサロン。近くに国立フィリピン大学があり、毎週月曜日は“文学作家の夜”なる定例集会もある。オーナーは国際交流基金がかつて招聘し、いままで何度か日本でライブをしたこともあるジョイ・アヤラというミュージシャン。もう50に近いが風貌はフィリピンのボブ・ディランといったところ。エスニックな音楽をベースに、アメリカン・フォークロックから強い影響を受けて、この国の“民族音楽派”をリードしてきた。いまでもバゴーン・ルマド(「新しいネイティブ」の意味)というグループを率いる。そんな彼はミンダナオ南部の都市ダバオの出身だ。ミンダナオの土地にはノン・ムスリム、ノン・クリスチャンの先住民族が存在する。マノボ、バゴボ、ブキドノン族など17の民族に分れ、少し古いが1990年のセンサーでは、ミンダナオ全土の人口1400万人のうち、約70万人。彼らは自らを総称して“ルマド”と呼んでいる。その多くが今は山岳部に追いやられ、経済発展から取り残された暮らしをしている。

 さらに、今ぼくが最も敬愛するミュージシャンの一人である、シンシア・アレクサンドラは彼の妹だ。シンシアは、いまや実力、人気ともにお兄さんをしのぐ勢い。マニラにやって来て早々、フランス政府主催の文化イベントである「フェテ・ドゥ・ラ・ミュージック」(6月18日、会場:ポディウム他)を見る機会があった。3ヶ所の野外会場に5つのライブハウスで、夜を徹して総勢150組のグループが出演する一大音楽イベントだ。シンシアは、そのイベントのメイン会場のプライムタイムに出演していた。2000人は超すであろう若者の熱狂で、息苦しくも熱い暑いライブだった。彼女は、決して大衆的な人気があるというわけではないが、この国の文化エリート層に確かに支持されている。エスニック音楽をベースに、米国風のスピリットを兼ね備えた特色あるオリジナル曲、挑発的で鋭角的なルックスにハスキーで印象的なボイス、そして天才的ともいえる演奏テクニック。アジアでは稀有な女性ミュージシャンだと思う。

 ついでに“ルマド”関係で紹介すれば、日本でも何度か公演し、国際交流基金も支援しているアジア・ファンタジー・オーケストラ(AFO)のソロ・シンガーであり、魅惑的としかいいようのない不思議な歌声で知られるグレース・ノノも、“ルマド”(マノボ族)の一員である。また、この10月に東京で開催されるアジア・ミーツ・アジアという小劇場フェスティバル(10月17日~23日、会場:麻布die pratze他)で公演するIPAG (Integrated Performing Arts Guild) は、ミンダナオ北部のイリガン市を拠点にしている劇団(1978年設立、冒頭で紹介したリガヤはその創設者の一人)。“ルマド”、“モロ”、“キリスト教”というミンダナオの三大文化から様々な要素を取り入れた舞踊や演劇作品を創作している。東京公演の作品は、カンボジアの影絵劇団とのコラボレーションだという。この“ルマド”をめぐる問題はいずれまとめてレポートする。

 ミンダナオは、テロリストの巣窟として危険視されるところなどではなく、本来は文化的に非常に奥深いところ、観光資源も豊富な豊かな土地なのだ。

 いまやスールー諸島で、伝統的舞踊を正統に承継しているのはリガヤのグループのみといわれる。彼女がいなかったら、もしかしたらパンガライは既にこの世から失われていたかもしれない。そんな踊りを観ながら、私はインドネシアの仮面舞踊の復興に携わった時のことを思い出した。ジャワ島北岸のインドラマユという町に住んでいた、ラシナというおばあさんただ一人の記憶の中だけに残された仮面舞踊。娘の世代になって経済的理由から踊るのをあきらめたが、一人の民族音楽者の尽力で30年の時を経て再び踊ることを決意した。国際交流基金の支援もあって楽団を復興し、日本公演も行い、その後は世界各国から招聘されるようになった。その踊りは今しっかりと孫娘に受け継がれている。そのプロジェクトには米国人のドキュメンタリー作家も加わった。その映画のタイトルが、“Library on Fire”。もし図書館が火事になったら、私たちはどうするだろうか?図書館には人類の英知がつまっている。でも、ある選ばれた人間の記憶や体にも、図書館と同じ類の知恵がつまっている。それがこの世から永遠に失われてしまうとしたら・・私たちは、手をこまねいて見ていられるだろうか?

 リガヤさんと、リガヤを支えるNGOを組織するテレサさんとの話は尽きなかった。彼女たちの夢は、いまやリガヤにとって第一の故郷となったタウィタウィにあるモスクに、スールーの誇る文化を、パンガライの踊りを後世に伝える博物館を作ること。そして、かの地の子供たちにその踊りを伝えてゆくということだ。私が、“いずれ安全になったらタウィタウィを訪れたい”と言うと、“今でも私が一緒なら絶対に安全。100%誘拐はない”と言って屈託なく笑った。さすがにスルタン家の一員、確かにそうだろう。

 ミンダナオを考えることは、この国の将来を考えることだと思う。もちろんミンダナオが対テロリストの主戦場となったら、フィリピンはおろか、東南アジア一帯が不安定になるのは間違いない。その意味で我々日本人も無縁ではない。パンガライの踊りを後世に残すということは、火の付きかけた大切な図書館を守るという意味でとても重要なことだ。けれども、文化の保存という問題にはさらに重要なことがある。保存する行為は確かに重要だけれど、それ以上に大事なのはリスペクトする気持ちだ、とつくづく思う。マニラでは時々“モロ”にまつわる差別問題とか、それ以上の無視や無知といったものに出会うことがある。その時、何故に、あの豊かなミンダナオの文化と恐ろしいテロリズムが共存しているのか・・しなくてはならなかったのか・・という問いに対する答えが隠されているような気もする。いずれにしてもそれは、私がフィリピンにいる限り、ずっと考えてゆかなくてはいけないテーマだと思っている。

2005.10.11
(了)

2005/09/09

アートは訴える・・過激なフィリピンアートの過去と現在


 東京国立近代美術館で開催中の「アジアのキュビズム」展(主催:国際交流基金等、10月2日まで)のポスターとフライヤーに使われている絵、『キリストの磔刑』は、フィリピンの画家アン・キュウコク(1931~2005)という人の作品である。残念なことにそのアン・キュウコクは私のフィリピン赴任の直前、5月9日にこの世を去った。私は赴任して早々、そんなことも知らずにあるギャラリーで彼の作品と出会い、その力強い表現力にただものではない存在感を感じ、ぜひともその作家に会いたくなった。しかしその時既に、そんな機会は永遠に失われていたのだ。

 それからしばらくした7月中旬のある日、上述した「アジアのキュビズム」展の作品集荷のため、キュウコクの国内最大のコレクターであるパウリノ・ケ宅を訪問した際、なんとはなしに、彼の『キリストの磔刑』が展覧会のポスターなどに採用され、コレクターとしてもさぞ誇り高いだろうと話したところ、コレクター氏は顔色を少し曇らせて、「これほどグロテスクなキリストの磔刑像はフィリピンでも珍しいし、(キリスト教保守派からは)批判も大きい。日本では問題ないのか?」と逆に質問されてしまった。その時私は、キュウコクが寡黙な芸術家であり、この国に数いるナショナル・アーティスト(日本の文化勲章にあたる)の中で、ただ一人、その授賞式のスピーチで一言も言葉を発しなかったという逸話を思い出し、きっと彼のアートの根源は、怒りと絶望なのではないかと思い当たった。

 彼はフィリピン南部ミンダナオ島の中心都市ダバオで、中国人の両親のもとに生まれた。彼の生まれた時代のダバオは、多くの日本人にあふれていたが(現在フィリピンにいる日本人は推定15,000人、戦前の日本人は推定3万人)、彼の父親は筋金入りの反日家で、日本の満州侵略を憂えて、息子に「安救国=アン・キュウコク」と名前を付けた。その後彼の家族は、日本軍が市内を占領すると同時に家財を捨てて泣く泣く逃れ、近郊の山中に隠れ住んだという。その時彼は11歳。ちょうどいまの私の息子と同じ歳ごろだ。彼の怒りと絶望は、私たち日本人と無縁ではない。

 その後彼はマニラに出て絵画を学び、34歳でヨーロッパに渡って特にピカソから強い影響を受けた。『キリストの磔刑』は70年代から80年代にかけて、マルコス政権の後半から末期によく描かれたモチーフだ。末期のマルコス政権は、賄賂にまみれた悪名高い政権として世界的にも有名だが、キュウコクはそんな息の詰まる時代に、このような激しい絵を描いていたのだ。フィリピンの美術史家であるアレス・ギレルモは、その著書「Image to Meaning –essays on Philippine art-」(2001年、アテネオ・デ・マニラ大学出版)の中で、「キリストの死は無に等しい、なぜなら宗教は何も救いを見出すことができなかったから」という、彼のその当時のコメントを証言している。

 私はそのコメントを読んで、国も時代も異なるが、1990年代初頭、初めての海外赴任地であるタイのバンコクで、軍事政権末期のやはり思苦しい雰囲気の中、ワサン・シティケットという“抵抗の画家”が描いた一枚の絵、『仏は誰も救ってくれない』に出会った時のことを思い出した。タイでは王権と仏教に対する冒涜は最大のタブー。それと同様に、キリスト教徒が90%以上を占めるフィリピンでは、キリストのイメージは最も重要なイコンである。どの時代でもどんな場所でも、多くの人々がすがりつく信仰に反旗を翻すこと、負のイメージを提示することは、とても危険なことだ。しかし彼のキリストは、引き裂かれた彼自身のよう。キュウコクは“崇高なもの、神聖なもの”を描こうとしたのではなく、地に落ちたキリストを描こうとしたのだと思う。それは怒りと絶望のなせる業だ。

 今月は偶然にも、「アジアのキュビズム」展以外でもフィリピン人アーティストが日本で紹介される。それもやはり“告発”路線のアーティストだ。

 9月28日にオープンする第2回横浜トリエンナーレ。フィリピンから初めて出品作家が選ばれた。アルマ・キントという女性作家だ。日本への送り出しを目前に、作品制作に忙しい彼女のアトリエを訪問した。場所はマニラ首都圏の学園都市として名高いケソン市の中心部。これまでの活動が市の行政当局に評価され、市民の憩いの場所である広大な公園の一角に特別にアトリエを貸与されている。

 その部屋に入ったとたんに目にしたのは、原色の色鮮やかなテキスタイルで縫い合わされ、パッチワークをほどこされた無数のオブジェ。鳥や蝶々やいろいろな動物。天井から吊るされた緑の蚊帳。そして大きく股を広げた女性と拡大された局部のぬいぐるみ。明るいおとぎ話の世界と、見え隠れする際どいエログロ。いったいこれは何なのだろうか・・・。

 昨年の彼女の個展”Soft Dreams and Bed Stories”のカタログに収録されているエッセイ「From Darkness to Light」(メイ・ダトウィン著)は、こんな話で始まる。

 「シャロンが6歳の時両親は離婚し、彼女の母親は次々と別のパートナーたちと暮らすようになったが、まもなくしてその内の一人が彼女を強姦した。(それ以前)6歳まで彼女は母親の手でしばしば“質”に入れられていた・・」

 彼女は、13歳になってようやく性的虐待児童を保護するNGOに助けられたのだが、当時の彼女の症状は、重度のパラノイドと妄想でかなりの重症であったそうだ。現在は無事に社会復帰しているが、そのきっかけとなったのが95年にアルマ・キントらが主宰していたワークショップに参加したことだった。



 アルマはPhilippine Art Educators AssociationというNGOを組織して、アートを通じて性的虐待児童のセラピー活動を行っている。絵を描いたり、様々なオブジェを作ってそれで遊ぶという行為を通じて、語りがたい記憶や苦痛を、個人の内側に押し込めてしまうのではなく、アートの領域に晒し出すこと、そしてそうしたトラウマに苦しむ子供たちの新しい生を復活させること、それが彼女たちの願いだ。

 初めてこの国のアーティストと出会ったのは今から10数年前、1980年代の終わり頃だ。神田の本屋で見つけた一冊のミニコミに書かれた「The Black Artists of Asia(BAA)」というグループの不思議な響きに惹かれて、フィリピン中部のパナイ島のイロイロという町を訪れ、3人のアーティストに会ったのが最初である。その中で今でも印象に残っているのは、骨太の黒い輪郭線で克明にしっかりと描かれた、大きな目をした素朴な農民の像。鋤や鍬とともにライフル銃をかついでいて、どことなくユーモラスだが、実は殺気に満ちているという不思議な油絵だった。隣のネグロス島出身のヌネルシオ・アルバラードという画家の作品だ。

 ネグロス島は当時、“飢餓の島”として世界中に知られていた。島の多くの農民は一握りの大土地所有者の砂糖プランテーションで生計を立てていたが、砂糖の国際価格の暴落によって末端の契約農民の収入は途絶え、多くは飢餓にあえいでいた。極限状態の農民は地主に対して待遇の改善を訴えてストライキを繰り返し、反発する地主側との発砲によって死者も出た。混乱に乗じて反政府ゲリラや共産党の武装組織である新人民軍も多く島内に浸透し、ネグロスは一触即発の危険な状況に置かれていた。アルバラードは危険を承知で島の奥地へ入り込み、おそらく新人民軍の兵士らと寝食をともにして、あの油絵を描いていたのだろう。イロイロで会った時彼は30代の後半。ほかのアーティストとともにBAAを結成し、ネグロスという飢餓の島から世界に向かってアートで告発を始めていたのだ。

 フィリピンにはもちろん芸術のための芸術も多く存在する。「ムーイ・インディ(美しい東インド)」と同じ系譜のロマンチックな写実的絵画も多い。しかし、私は過激な作品が好きだ。そして社会問題のショーケースであるフィリピンでは、社会参画型のアートの“伝統”が綿々と引き継がれている。だからといってアートの役割がアドボカシーばかりとは、決して思わない。当然だけど。けれども、やはりこの国で様々な現実を目の辺りにするとき、アートの果たすべき役割がはっきりと見える場合がある。それはある意味で幸せだと思う。絶望や怒りは決して無力化されてはいけない・・彼ら彼女らの過激な作品を見ながら、そんなことをいつも思っている。

2005.9.9
(了)

2005/08/09

ごちゃまぜフィリピン演劇から、いまのこの国の状況が見えてくる

フィリピンは知る人ぞ知る、パフォーミング・アーツの宝庫だ。

この国に来て早々、独立記念日を祝う前夜祭のイベント(6月11日)を観て、まずは圧倒された。会場となったのは“芸術の殿堂”と言われているフィリピン文化センター。イベントが始まる前から劇場の入り口は100人を超す民族舞踊やブラスバンドの混成部隊でお祭り騒ぎ。その熱気はそのまま会場に持ち込まれ、この国を代表するシンフォニー・オーケストラ、バレエ団、伝統舞踊団、世界的にも評価の高い合唱団、そして現代演劇にミュージカル。スタイルも伝統から現代ものまで幅広く、構成はフィリピンの歴史をなぞるかたちになっている。全てが渾然一体となってテンポよく進行し、クライマックスは「ミス・サイゴン」で見事にミュージカル・スターとして成功(89/90年度ローレンス・オリヴィエ賞最優秀女優賞受賞)したレア・サロンガの独唱。そして出演者、観衆が一体になっての国歌斉唱。なんとも熱気に包まれたハロハロ(タガログ語で「ごちゃまぜ」)な国家イベントだった。しかし、そのハロハロさに、この国のパフォーミング・アーツの将来を左右する鍵があると思った。

そんな宝庫の中で、最近面白いと思った二つの演劇についてレポートする。

まずはコミュニティー演劇。フィリピン経済の大動脈マカティ市から車で1時間半。マニラ首都圏の北にブラカンという州があり、そこの州都マロロス市の劇団を訪問した。当日は1日3公演のうち最も早い午前の部。朝から250名収容の小さなスタジオ形式の劇場は、400人を超える子供たち(小学校の高学年が中心)でむせ返るほどの熱気に包まれていた。演目はシリアスな家族崩壊の物語と、フィリピンの様々な代表的キャラクター(米国留学帰り、ヒップホップ少年、スターバックスのウェイトレス、山岳民族、イスラム教徒、そしてゲイ少年)をカルカチュア化したコメディー作品の二本立て。食い入るように見つめる子供たちの目と目。役者の一言一言に一喜一憂し、最後は怒涛のような歓声と拍手。休憩をはさんで2時間の公演は、異様なまでに濃密な雰囲気の中あっという間に過ぎ去った。一体、この熱は何だろう?みんな、何を演劇に期待しているのだろう?

劇場関係者の話によると、子供たちからもしっかりと入場料を取るという。金額にして70ペソ(150円)。映画館でハリウッド映画を見るより若干安い程度だが、子供にしてみれば決して安い金額ではない。しかも近隣の町々からやってくるそうだ。今回の公演では1日3回入れ替えて、合計6日間、18回の公演。毎回大入り満員だという。劇団名はBARASOAIN KALINANGAN FOUNDATION(バラソアイン文化財団、BKF)といい、今年が設立30周年。当初は様々な困難があったが、現在ではコミュニティー劇団としての実績が買われて、州政府から年間20万ペソ(40万円)の補助金と州の文化センター内の劇場(スタジオ)を無料提供されている。40万円の年間補助のおかげで10名近いフルタイムのスタッフを抱えることができる。

この劇団が普通の劇団と異なるのは、そのアウトリーチ・プログラムのユニークさにある。今回見た芝居もワークショップ(WS)の成果発表だった。誰もが100ペソ(200円)程度払えば参加できるWSだが、4ヶ月にわたる訓練の最後にはこうして本公演で結果を出すことが求められる。こうしたWSもこれで25回目になるという。WS参加者に貴賎はない。年齢も小学生から老人まで。学生から社会人まで幅広く、職業も教師、公務員、農民、トライシクル(三輪オートバイ・タクシー)の運転手もいるそうだ。昨年はフィリピン文化センターよりアートアワード(演劇部門)を受賞しており、来年には創立30周年を記念してブラカン州内の地域劇団を集めた演劇フェスティバルを計画中だ。同劇団ほど成功はしていないが、フィリピン国内各地には様々な地域劇団があるそうだ。かつて私がインドネシアに駐在していた時代、地方都市の演劇状況を調べた際にあまりの劇団の多さに絶句したことがある。日本の某著名演出家も同じように驚いていた。経済的には必ずしも恵まれていなくても、演劇はどこにでも存在していた。多くは“アマチュア”劇団だが、プロフェッショナルであるかどうかは次の問題。何より重要なことは、その演劇が生きているかどうか、ということだと思う。

演劇が生きていると実感するのは、こうした演劇の成り立ち方そのものに感銘を受ける時ばかりではない。演劇の中から心ゆさぶるメッセージが発せられ、私たちがいま現に生きている時間と、歴史という大きな時間の流れの間に何かが切り結ばれる時、やはり同じように生きていると感じる場合がある。デュラアンUP(フィリピン大学劇団)によるミュージカル公演「ST. LOUIS LOVES DEM FILIPINOS」(邦訳「セントルイスは民主主義者フィリピン人がお好き」、2005年7月13日~31日、フィリピン大学ウィルフリード・ゲレロ劇場)を観た時にも、生きた演劇というものに出会えたと実感した。なぜそう感じたのか?それは、この演劇がいまのフィリピンの多くの人々の迷いや苦悩、そして誇りや希望を代弁していると思えたからだ。言い換えれば、それがフィリピン人のナショナリズムの琴線に触れる演劇だったからだと思う。

ミュージカルはフィリピンではお家芸のようなもの。俳優の実力ははっきり言って日本以上。冒頭に書いたようにレア・サロンガのようなブロードウェイ・スターも存在する。ちなみに彼女はそのほかにもディズニー・アニメ「アラジン」の主題歌なども歌っていて、我々日本人もどこかでその声を耳にしているはずだ。また、かつて日本でも国際交流基金の主催で、フィリピンの代表的ミュージカル作品「エル・フィリ(原題:エル・フィリブリテリスモ)」が上演されて好評を博した(1995年)。英語が公用語の国だけあって、ブロードウェイやウェストエンドのミュージカルが原語そのままで上演できるため、フィリピン人スタッフ・キャストで頻繁に上演されている。先日も「美女と野獣」(2005年6月、メラルコ劇場、主演:KCコンセプシオン/カレル・マルケス)を観たが、歌のうまさについては舌を巻くほどだった。そんなミュージカル先進国だけあって、オリジナル・ミュージカル作品は数知れない。米国のミュージカル文化が移植されるはるか前、記録に残っている限りでは1629年にスペインの音楽劇ザルズエラが当地に伝えられ、いまでもフィリピン化した“サルスエラ”として上演され続けている。

 さてデュラアンUPの作品も、そうした正統派ミュージカルの系譜に属し、美しく耳に馴染み易いミュージカル・ナンバーには心底感心させられたが、なお尽きない興味を覚えたのがそのテーマにある。1904年、米国のセントルイスで歴史的なルイジアナ買収100周年を祝って万国博覧会が開かれた。1272エーカーという万博史上最大級の敷地に、1576の建物群と21キロの鉄道、のべ1969万人が訪れた(日本も参加)。フィリピンは当時米国の属領として20ヘクタールの土地が割り当てられ、100以上の建物(ニッパ椰子の家からゴシック様式の教会まで)が建てられたのだが、そこに“陳列”するためフィリピンより1200人の先住民が米国に派遣された。このことは当時よりフィリピン人民族主義者から激烈な批判を受け、つい最近まで歴史的汚辱として記録・記憶されてきた事件だ。しかしフロイ・キントスの脚本は、そうしたステレオタイプ化した視点を避け、当時バゴボ族の首領として海を渡った実在の人物ダトー・ブーラン(主演:ミゲル・カストロ)に焦点を当て、米国での成功にかける野望、最愛の妻との別れと新たな恋、夢と現実とのギャップ、凋落、そして祖国への変わらぬ思いと誇りを描き、幾多の言説にまみれた歴史的事件に新たな解釈を提示した(演出:アレキサンダー・コルテス、作曲:アントニオ・アフリカ)。300人程度の小さな劇場ではあったが、超満員に膨れ上がった観客が全員、長い長いスタンディング・オベーションを送り続けるなか、どうしてこれほどまでにみんなが熱狂的になるのだろうか、私はその理由を考えていた。

フィリピンは15年前、歴史の岐路に立たされた。それまでこの国を守っていたのは米軍だったが、91年にクラーク空軍基地を、そして92年にはスービック海軍基地を相次いで米国より奪還した。無論反対派も多くいたが、思い切った政策転換が行われたのだ。それ以来、米国崇拝一辺倒といわれた文化的嗜好にも変化が現れ、自国の固有文化に対する感心も高まった。しかし一方で、米国は依然として多くのフィリピン人移民を受け入れる“希望の土地”であることに変わりはない。いまアメリカを見つめる眼は、憎むべきかつての宗主国か、はたまた憧れの移住の地か、という単純な二律背反的なものだけではなく、もっと多様で複雑である。

この国を代表する歴史家のアンベス・オカンポ(国家文化委員会議長)は言う。「400年に及ぶスペイン支配の“桎梏”、米国による“植民地支配”、日本軍による“残虐行為”。歴史上の数々の事実と虚構。われわれはもう一度クールな眼で、歴史を見つめ直す必要がある・・長い間わたしたちの思考を縛り付けていた“植民地言説”から逃れる努力が、いま始まったばかりである。」私はその日、まさにそのアンベス氏らとともに「ST. LOUIS・・」を観ていた。そして、なんとも表現できない高揚感を共有した。おそらく観客は、「ST. LOUIS・・」という作品を通して、一国の歴史(的言説)を書き換え、あるべき国の姿を求めてゆこうという努力の先にあるものを夢想していたに違いない。それはおそらくナショナリズムの領域だったような気もする。もちろんその意味では私は部外者。でも幸運な目撃者だ。しかしその夜、最も幸運だったのは、そうした高揚感に支えられた演劇そのものだったのかもしれない。
(了)

2005/07/19

35ミリがだめならデジタルがあるじゃないか! ~フィリピン映画の生き残りをかけた新たな挑戦~

 大型ショッピングモールにシネ・コンプレックス。アジアのメトロポリスでは既にありふれた光景となったが、ここマニラ首都圏一帯にも30を超える大型ショッピングモールが存在する。一つのモールに、多いところでは10館以上のミニ・シアターが入っている。主要なシネコンの上映スケジュールは毎日新聞でチェックできるが、やはり目立つのはアメリカ産の映画ばかり。もともとは多様化したミドル・クラスのニーズに応えるためにできたシネコンであろうが、現状はやはりハリウッド製のアクション、SF、恋愛コメディー映画などでほぼ独占状態。香港、台湾、韓国、そして時々日本映画がそれに混じって公開される(例えば現在は、「リング」、「呪怨」などのプロデュースで知られる一瀬隆重氏
が、“Jホラー”と銘打って世界のマーケット向けに鳴り物入りで製作した第一弾「予言」(鶴田法男監督)が公開中。)

 フィリピンの国産映画も非常に苦戦を強いられている。昨年の年間製作本数は54本(フィリピン・フィルム・アカデミー発表)。1996年~1999年の平均が164本、2000年~2003年の平均が82本だから、急激に落ち込んでいるのは明らか。もともとアメリカ植民地時代からハリウッド仕込みのスタジオ・システムを導入して、60年代から70年代にかけては長編劇場用映画だけで年間200本を超え、“黄金時代”を築いたほどの映画王国だった。銀幕のスターが大統領となったアメリカと同様に、アクション・スターから一人の大統領を輩出している(前大統領のエストラーダ。現在汚職容疑で収監中)。スター・シネマ、リーガル・フィルム、CMフィルムスという3大“メジャー”映画会社が、国産映画の製作・配給、外国映画の輸入・配給の多くを支配しているが、一昨年に当地の映画祭でグランプリに輝いた「Crying Ladies」を製作したユニテル・ピクチャーズなど、インデペンデント系の新興会社も数は少ないが存在する。

 さてそんな状況の中、映画界、そして映画界を目指す若者達の熱い期待を担い、フィリピンでは初のデジタルフィルムに焦点をあてた大規模映画祭となる「CINEMALAYA PHILIPPINE INDEPENDENT FILM FESTIVAL 2005」が開催された(2005年7月12~17日、フィリピン文化センターほかの主催)。長編と短編の二つの部門からなるコンペ形式の映画祭で、1年半の準備期間の末に実施された。長編部門では189のエントリーから最終的に9本が選ばれ、共催者であるドリーム・サテライトTVよりそれぞれに50万ペソ(約100万円)の製作費が与えられて本選に進んだ。短編は100を超えるエントリーの中から6本が選ばれた。20代から30代の監督を中心に、新作が長短計15本。これからのフィリピンを担う若い世代の映画に寄せる思い、フィリピン社会への眼差しが俯瞰できるなかなか面白い映画祭だった。15本の新作が描く世界は、ゲイ、レスビアン、売春、犯罪、暴力、貧困とシリアスなものが多いが、心温まる家族愛もある。スタイルはオーソドックなヒューマンドラマから、「呪怨」の影響濃いホラーものや、ミュージカル、アクション・コメディーに実験映画、そしてドキュメンタリー調と、“インデペンデント”というだけあって商業上映を目的とする“メジャー”では決して実現できない多様なものになった。

 今回見た長編6本と短編6本の中で特に印象に残った作品が何本かある。まずはアウレリアス・ソリート監督、山本みちこ脚本の「マキシモ・オリベロスの青春」。スラムで暮らすゲイの少年の淡くほろ苦い初恋の話。この国ではゲイであることをカミングアウトしても日本のように差別されることはない。どこにでもゲイは存在していて、コミュニティーの一要員として居場所がちゃんとある。個性的なキャラクターであることが多く、映画や演劇などでは頻繁に登場する。この作品に登場するマキシモ君も10歳に満たないお洒落なゲイ”少年“だが、スリで生計を立てる一家には既になくてはならない世話役だ。そんな彼がハンサムな若い警察官に恋をした。彼との出会いがマキシモの未来を変えるかにも思われたが、泥棒一家は警察とは対立関係にある。やがて自分の父親が恋した警官の上司に自分の目の前で殺され、彼は自分自身の立場に気づく・・そして自ら彼の元を離れてゆく、というストーリー。基本的には貧困と不条理という厳しい現実が横たわっているのは確かだが、山本の視点はマキシモの世界にとても自然に密着していてリリシズムにあふれている。雑然さと混濁に包まれたスラムの環境と、清純さと洒落たセンスに包まれたマキシモとの対比がなんとも鮮烈な映画である。

 同じく長編の「ルームボーイ」(アルフレッド・アロイシウス・アドラワン監督)は、若い娼婦とその娼婦が常宿としているモーテルのボーイとのラブストーリー。娼婦役の新人女優メリル・ソリアノはこの美しく悲しい娼婦役を軽妙に演じて高い評価を得た。さらに短編では「ババエ(ウーマン)」(シグリッド・アンドレア・ベルナルド監督)が圧倒的に良かった。これもスラムが舞台となっている。二人の幼馴染の女の子が一緒に暮らしながら成長してゆく過程でやがて愛しあうようになり、レイプで身ごもった一方の子供を二人で育ててゆくというお話だが、20分足らずの時間の中で完成度の高い作品を作りあげた。いわゆるレスビアンの話といってしまえばそれまでだが、二人が愛情を育んでゆく姿がペーソスとユーモアに包まれて描かれてゆく。民族楽器を使って現代風に軽妙な演奏をするマキリン・アンサンブルの音楽もいい。貧困、ゲイ、レズ、犯罪などなど、フィリピン社会の底辺ではありふれすぎた素材でしかない。ただそれを描くだけなら、ああまたか・・ということなのだろうが、そう感じさせないところにフィリピン映画界の未来がある。いやというほどそうした不条理と日々格闘し、その上で生きることを肯定し、その醜い現実から一編の真実を掬い取る方法を獲得した人たちのみに与えられた力が、これらの作品のクオリティーを高めていると思った。

 コンペ出品作品以外にも、インデペンデント映画の最近の代表作が特集上映された。その中で際立っていたのは、2003年カンヌ国際映画祭の短編部門でパルム・ドールを受賞した「アニーノ」(レイモンド・レッド監督)や、今年の第7回プラハ国際人権映画祭で最優秀監督賞を受賞した「ブンソー(最年少)」(ディッツィー・カロリーノ監督)。後者はセブの監獄を舞台に、劣悪な環境下で暮らす少年犯のドキュメンタリー映画。2003年の製作だが、映画の“タイトルロール”である主人公の二人の少年は、ドラッグ中毒と交通事故で既にこの世にいない。日本の人たちにはほとんど知られていないだろうが、こうしてフィリピンの映画人は結構頑張っているのだ。

 シネマラヤでは、映画上映のほかにもインデペンデント映画をテーマに2日間のシンポジウムが開かれた。“メジャー”映画の黄金期を築いた先人に対する敬意は忘れないが、この国の映画界は、“メジャー“の世界から逸脱した多くのインデペンデント系の作家を輩出してきており、そのことに対する自負心には大きなものがある。そして現在まさにその”メジャー“が瀕死状態に陥っている中、インデペンデントという言葉に託す思いはさらに強くなっていると感じた。しかもデジタル映像の技術的進歩が、こうした思いを後押ししている。「35ミリがだめなら、デジタルがあるじゃないか。」無論デジタル映像は、いまだセルロイドに追いついてはいない。大画面で、それも明るい画面での画質の劣勢は誰の目にも明らか。しかし、映画を撮る者にしてみれば、メジャーもインデペンデントも、セルロイドもデジタルも本質的には関係ないのかもしれない。ただ映画が撮りたいだけだ。映画研究家のニック・デ・オカンポが言っていたように、映画は常にテクノロジーとともに歩んできた。今後デジタル・フォーマットにどんな運命が待っているか誰にもわからないが、このまま衰退するよりも挑戦することが重要。選択肢はない。この国の文化はある意味で健全だ。革新的なものの多くが周辺から生まれてくるように、どん詰まりに行きかけたこの国の映画界の中から、近い将来、世界をあっと驚かせる傑作が生み出されるかもしれない。
(了)
2005.7.19