2005/09/09

アートは訴える・・過激なフィリピンアートの過去と現在


 東京国立近代美術館で開催中の「アジアのキュビズム」展(主催:国際交流基金等、10月2日まで)のポスターとフライヤーに使われている絵、『キリストの磔刑』は、フィリピンの画家アン・キュウコク(1931~2005)という人の作品である。残念なことにそのアン・キュウコクは私のフィリピン赴任の直前、5月9日にこの世を去った。私は赴任して早々、そんなことも知らずにあるギャラリーで彼の作品と出会い、その力強い表現力にただものではない存在感を感じ、ぜひともその作家に会いたくなった。しかしその時既に、そんな機会は永遠に失われていたのだ。

 それからしばらくした7月中旬のある日、上述した「アジアのキュビズム」展の作品集荷のため、キュウコクの国内最大のコレクターであるパウリノ・ケ宅を訪問した際、なんとはなしに、彼の『キリストの磔刑』が展覧会のポスターなどに採用され、コレクターとしてもさぞ誇り高いだろうと話したところ、コレクター氏は顔色を少し曇らせて、「これほどグロテスクなキリストの磔刑像はフィリピンでも珍しいし、(キリスト教保守派からは)批判も大きい。日本では問題ないのか?」と逆に質問されてしまった。その時私は、キュウコクが寡黙な芸術家であり、この国に数いるナショナル・アーティスト(日本の文化勲章にあたる)の中で、ただ一人、その授賞式のスピーチで一言も言葉を発しなかったという逸話を思い出し、きっと彼のアートの根源は、怒りと絶望なのではないかと思い当たった。

 彼はフィリピン南部ミンダナオ島の中心都市ダバオで、中国人の両親のもとに生まれた。彼の生まれた時代のダバオは、多くの日本人にあふれていたが(現在フィリピンにいる日本人は推定15,000人、戦前の日本人は推定3万人)、彼の父親は筋金入りの反日家で、日本の満州侵略を憂えて、息子に「安救国=アン・キュウコク」と名前を付けた。その後彼の家族は、日本軍が市内を占領すると同時に家財を捨てて泣く泣く逃れ、近郊の山中に隠れ住んだという。その時彼は11歳。ちょうどいまの私の息子と同じ歳ごろだ。彼の怒りと絶望は、私たち日本人と無縁ではない。

 その後彼はマニラに出て絵画を学び、34歳でヨーロッパに渡って特にピカソから強い影響を受けた。『キリストの磔刑』は70年代から80年代にかけて、マルコス政権の後半から末期によく描かれたモチーフだ。末期のマルコス政権は、賄賂にまみれた悪名高い政権として世界的にも有名だが、キュウコクはそんな息の詰まる時代に、このような激しい絵を描いていたのだ。フィリピンの美術史家であるアレス・ギレルモは、その著書「Image to Meaning –essays on Philippine art-」(2001年、アテネオ・デ・マニラ大学出版)の中で、「キリストの死は無に等しい、なぜなら宗教は何も救いを見出すことができなかったから」という、彼のその当時のコメントを証言している。

 私はそのコメントを読んで、国も時代も異なるが、1990年代初頭、初めての海外赴任地であるタイのバンコクで、軍事政権末期のやはり思苦しい雰囲気の中、ワサン・シティケットという“抵抗の画家”が描いた一枚の絵、『仏は誰も救ってくれない』に出会った時のことを思い出した。タイでは王権と仏教に対する冒涜は最大のタブー。それと同様に、キリスト教徒が90%以上を占めるフィリピンでは、キリストのイメージは最も重要なイコンである。どの時代でもどんな場所でも、多くの人々がすがりつく信仰に反旗を翻すこと、負のイメージを提示することは、とても危険なことだ。しかし彼のキリストは、引き裂かれた彼自身のよう。キュウコクは“崇高なもの、神聖なもの”を描こうとしたのではなく、地に落ちたキリストを描こうとしたのだと思う。それは怒りと絶望のなせる業だ。

 今月は偶然にも、「アジアのキュビズム」展以外でもフィリピン人アーティストが日本で紹介される。それもやはり“告発”路線のアーティストだ。

 9月28日にオープンする第2回横浜トリエンナーレ。フィリピンから初めて出品作家が選ばれた。アルマ・キントという女性作家だ。日本への送り出しを目前に、作品制作に忙しい彼女のアトリエを訪問した。場所はマニラ首都圏の学園都市として名高いケソン市の中心部。これまでの活動が市の行政当局に評価され、市民の憩いの場所である広大な公園の一角に特別にアトリエを貸与されている。

 その部屋に入ったとたんに目にしたのは、原色の色鮮やかなテキスタイルで縫い合わされ、パッチワークをほどこされた無数のオブジェ。鳥や蝶々やいろいろな動物。天井から吊るされた緑の蚊帳。そして大きく股を広げた女性と拡大された局部のぬいぐるみ。明るいおとぎ話の世界と、見え隠れする際どいエログロ。いったいこれは何なのだろうか・・・。

 昨年の彼女の個展”Soft Dreams and Bed Stories”のカタログに収録されているエッセイ「From Darkness to Light」(メイ・ダトウィン著)は、こんな話で始まる。

 「シャロンが6歳の時両親は離婚し、彼女の母親は次々と別のパートナーたちと暮らすようになったが、まもなくしてその内の一人が彼女を強姦した。(それ以前)6歳まで彼女は母親の手でしばしば“質”に入れられていた・・」

 彼女は、13歳になってようやく性的虐待児童を保護するNGOに助けられたのだが、当時の彼女の症状は、重度のパラノイドと妄想でかなりの重症であったそうだ。現在は無事に社会復帰しているが、そのきっかけとなったのが95年にアルマ・キントらが主宰していたワークショップに参加したことだった。



 アルマはPhilippine Art Educators AssociationというNGOを組織して、アートを通じて性的虐待児童のセラピー活動を行っている。絵を描いたり、様々なオブジェを作ってそれで遊ぶという行為を通じて、語りがたい記憶や苦痛を、個人の内側に押し込めてしまうのではなく、アートの領域に晒し出すこと、そしてそうしたトラウマに苦しむ子供たちの新しい生を復活させること、それが彼女たちの願いだ。

 初めてこの国のアーティストと出会ったのは今から10数年前、1980年代の終わり頃だ。神田の本屋で見つけた一冊のミニコミに書かれた「The Black Artists of Asia(BAA)」というグループの不思議な響きに惹かれて、フィリピン中部のパナイ島のイロイロという町を訪れ、3人のアーティストに会ったのが最初である。その中で今でも印象に残っているのは、骨太の黒い輪郭線で克明にしっかりと描かれた、大きな目をした素朴な農民の像。鋤や鍬とともにライフル銃をかついでいて、どことなくユーモラスだが、実は殺気に満ちているという不思議な油絵だった。隣のネグロス島出身のヌネルシオ・アルバラードという画家の作品だ。

 ネグロス島は当時、“飢餓の島”として世界中に知られていた。島の多くの農民は一握りの大土地所有者の砂糖プランテーションで生計を立てていたが、砂糖の国際価格の暴落によって末端の契約農民の収入は途絶え、多くは飢餓にあえいでいた。極限状態の農民は地主に対して待遇の改善を訴えてストライキを繰り返し、反発する地主側との発砲によって死者も出た。混乱に乗じて反政府ゲリラや共産党の武装組織である新人民軍も多く島内に浸透し、ネグロスは一触即発の危険な状況に置かれていた。アルバラードは危険を承知で島の奥地へ入り込み、おそらく新人民軍の兵士らと寝食をともにして、あの油絵を描いていたのだろう。イロイロで会った時彼は30代の後半。ほかのアーティストとともにBAAを結成し、ネグロスという飢餓の島から世界に向かってアートで告発を始めていたのだ。

 フィリピンにはもちろん芸術のための芸術も多く存在する。「ムーイ・インディ(美しい東インド)」と同じ系譜のロマンチックな写実的絵画も多い。しかし、私は過激な作品が好きだ。そして社会問題のショーケースであるフィリピンでは、社会参画型のアートの“伝統”が綿々と引き継がれている。だからといってアートの役割がアドボカシーばかりとは、決して思わない。当然だけど。けれども、やはりこの国で様々な現実を目の辺りにするとき、アートの果たすべき役割がはっきりと見える場合がある。それはある意味で幸せだと思う。絶望や怒りは決して無力化されてはいけない・・彼ら彼女らの過激な作品を見ながら、そんなことをいつも思っている。

2005.9.9
(了)

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