2008/10/13

辺境のダンサーたちと”創造性の流出”

 フィリピン諸島の最南端に位置するジェネラル・サントス市(通称「ジェネサン」)といえば、南洋マグロの水揚げ基地として日本との関わりも深く、フィリピン人にとってはいまや国民的ヒーローであるボクシング世界チャンピオンのマニー・パッキャオの出身地として有名だが、マニラからは船で三昼夜もかかる遠隔の地。周辺地域一帯を飛行機の上から眺めると、まさに入植の地といった成り立ちの様子がよくわかる。ジェネサンの市街地から北西方向に向かって数十キロにわたってほぼ一直線に幹線道路が平地を走り、その途中に碁盤の目のように整然と区画整理された町が配置され、そこから山に向かってびっしりと隙間なく田んぼや畑が広がっている。ルソン島やビサヤ諸島から初めて移民がやって来たのが1939年。60年代よりその数が急増し、ほぼ何もなかった原野に忽然と新興都市群と開墾地が生まれていった。フィリピン各地から多くの移民の受け皿となったミンダナオを象徴するような風景だ。

 そんな南の”最果て”と思われる土地にも、ダンスを通して夢を抱く若者たちがいる。どんな思いで踊っているのだろうか、確かめたくてジェネサンを訪れた。

 テアトロ・アンバハノンは総勢15人の小さな劇団だ。代表のビン・カリーノはマニラのフィリピン大学で民族舞踊を学び、8年前に地元に戻ってラモン・マグサイサイ・メモリアル・カレッジという私立大学を拠点にこの劇団を旗揚げした。今は大学から提供されている40平米ほどの狭い板敷きの元教室をスタジオにして、学生と一緒に汗を流す。彼の祖父は中部ビサヤのボホール島からの移民だが、第二次大戦後にこのジェネサンの都市計画を進めた立志伝中の人物だ。何もない辺境の土地に新たな町を立ち上げた祖父の血が流れているのだろう。ビンはこのミンダナオの一地方都市から新しいアートムーブメントを起こそうと考えた。それも誰もが思いつきそうな伝統を売り物にしたそれではなく、自分たちの今を表現するためのコンテンポラリーなものを志した。

 しかし誰もやらないことをやるということは、無論相当な困難を伴うもの。大学からはスタジオと講師ポストを用意されたが、活動費は自ら稼がなくてはならない。裕福な名士の一族である彼のこと、おそらくかなりの私財を投入しているに違いない。しかも15人の学生はいずれも貧しい家庭の出身だという。そこで彼は大学側とかけあって彼らに対する奨学金制度を作った。厳しい選考に合格してこの劇団に入って活動を続けている限りは学費が免除になるという。練習を見せてもらったが、好きなダンスをしながらただで大学で勉強もできるとあって、学生たちは真剣そのものだった。
 
 そんな地方の小さな劇団の若手振付家であり、ビンの最初の弟子であるジュリウス・ラガレが、去る6月にマニラで行われた第3回Wifiインデペンデント・コンテンポラリーダンス・フェスティバルの新進振付家のためのコンペティションに初参加し、見事グランプリに輝いた。この国ではどこでも見かけるバスケットボール青年の男同士の恋物語、つまりゲイのラブストーリーを、バレエとストリートダンスのテクニックをダイナミックに駆使して描いた力強い作品。初めてその作品を見た私は、若者の日常をこれほどリアルに切り取った鮮烈なダンスが、つまり極めて現代性を帯びたアートが、紛争に揺れるミンダナオの、それもかなりの僻地といってよい歴史の浅い遠隔の地方都市から生まれること自体にとても驚いた。このコンペに日本から審査員として招待していた”なにわのコレオグラファー・しげやん”こと北村茂美さんも、”こんなんが見たかった~!”と大層感激していた。洗練されてはいるが様式にとらわれすぎで、どれもが同じに見えてしまうマニラの振付家の作品とは明らかに異質な何か。何もかもが集中して恵まれた環境にあるマニラの人たちに負けまいと作品を創る、彼らの心意気が感じられた。

 このブログでも度々紹介してきた草創期のフィリピンのコンテンポラリーダンス。昨年は日本のダンス界をリードするジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク(JCDN)が企画するマニラ公演も実現し、本格的な日比ダンス交流が始まった。このJCDNは京都を拠点にして1998年にできたNPOだが、日本で活動するコンテンポラリーダンスの作り手やオーガナイザーなどを画期的な方法でネットワーキングしている団体で、国際交流基金が地域に根ざした国際交流活動に実績のある団体に贈る「地球市民賞」を2006年に受賞している。「踊りに行くぜ!」という勢いあるタイトルで、普段はコンテンポラリーダンスに接する機会の少ない地方でも公演を行い、確実にオーディエンスを増やしつつある。そしていよいよ昨年からこの「踊りに行くぜ!」のアジアツアーが始まった。第2回Wifi・・のコンペで優勝し、「踊りに行くぜ!」マニラ公演でも競演したアバ・ビラヌエバが彼らに招待されたのが今年の2月。そして第3回Wifi・・では、逆にJCDNの推薦を受けた”しげやん”を私たちが招待し、彼女の強力な推薦もあって、ジュリウスのグランプリ受賞作品が10月末の福岡公演に招待されることとなった。こうやって次から次へと繋がってゆくことは本当に素晴らしいことだと思う。

             しげやん(写真/平野愛)

 海外公演が初となる今回の招待は、本人のみならず劇団にとっても青天の霹靂。「後続のダンサーたちの大きな励みにもなる」とビンも大歓迎。しかし渡航準備の過程で肝心のジュリウスに問題が発生した。もともと来年に計画していたアメリカのバレエ団での就職が急遽決まり、10月始めに渡米することとなっため、福岡へは行けなくなった。代役を立てることで日本側は納得したが、この騒動を通して”頭脳流出”ならぬ”創造性の流出”の問題が見えてきた。

 フィリピンは東南アジア諸国の中でも欧米文化を早くから積極的に受け入れてきたため、クラシックバレエがなかなか盛んな国だ。そして英語が話せるダンサーは、才能を開花させるほどに必然的に海外への誘惑が大きくなる。普段はぎりぎりの生活を強いられながら練習に励む彼らにとって、海外で得ることのできる高収入は甘いアメであり、と同時に場合によっては、自分の創造性を犠牲にしなくてはならないという落とし穴ともなる。2005年に香港ディズニーランドがオープンした際、フィリピン文化センターを拠点とする国立バレエ団の中心的ダンサーの十数人が高給で引き抜かれたケースもある。また将来を嘱望され、大阪でも踊ったことのあるエレナ・ラニオグというダンサーは現在、長期航路客船のディナーショーでアルバイトをしていて海の上だ。またダンス以外にも演劇、ミュージカル、オペラなど米欧諸国に移り住んだアーティストは数知れない。海外流出に伴う国内の人材難は、看護士や教師、エンジニアだけの問題ではない。今回のジュリウスのケースについてもマニラのダンス界では、国内のコンペで優勝して折角日本にまで招待されたのに、それを辞退してアメリカに渡ることは無責任だとして批判する人たちもいる。

 ただジェネサンというミンダナオの一地方都市から見れば、一極集中で出稼ぎ者のあふれかえるマニラに出て働くのも、遥か太平洋を隔てたアメリカへ行くのも、故郷をあとにするという意味ではあまり違いはない。生活保障からほど遠い前者よりも、少なくとも家族の生活を守ることができる後者を選択することに不自然さはない。「アメリカで優れたテクニックをマスターして、彼はまた必ずここに戻って来る。貧しい家庭の出身ながら、この劇団に入ってダンスをマスターし、マニラのコンペで優勝してアメリカに渡ることになった。ジュリウスは我々のヒーローでもある」とビンは語る。”創造性の流出”は、マニラから見れば一国の損出として嘆かわしい事態だろうが、この辺境の地で、淡い夢を抱く人々の目から見れば、そこにはまた別の意味が立ち現れるのだ。

            ジュリウスと学生たち

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