2007/11/26

美しい多島海の島々と文化交流

 私の事務所は日本人とフィリピン人合わせて総勢10人ちょっとの小さな事務所だけれど、自分の部屋にはフィリピンの全国図が貼ってあり、7,000の島々からなるこの国の地図をいつも眺めながら、「ボロは着てても心は錦・・」などと心の中で歌いながら、なるべく多くの地方都市で日本文化を、そして日本語を紹介したいと日々想像力を働かせている。

 インドネシアにいた時もそうだったが、多くの島に分かれているということは、それだけ文化的な多様性に富んでいて、島ごとに様々な特徴があってそこを訪れるのが楽しみだ。でもとにかく色んな島に“分断”されているので、タイのようにバスでどこでも行けるわけではなく、正直いって仕事という意味ではなかなか大変なところだ。中でも多くの島々が集中するのが中部ビサヤ地方である。ここは島と海、そしてその島々を大小の船で行き交う人々が暮らす地域だ。そしてその島々にも私たち日本人の紡いできた物語がたくさんある。このブログではこれまでに、北ルソンのバギオやミンダナオについて紹介してきたので、今回はこのビザヤ地方について書いておきたいと思う。

 この地方の人々の言語は公用語のタガログ語とは異なる。フィリピンは10の主要言語の他に、100以上もの少数言語がある多言語国家だが、国語として指定されているのはタガログ語のみ。ビサヤ地方ではビサヤ諸語と総称される言葉が話されていて、タガログ語に次いで言語人口の多いセブアノ語を話す人は、実に1,800万人に及ぶという。英語が公用語の国ということが強調されるけれど、もう一つの公用語であるタガログ語のほかに、多くの国民が自分たちの母語(ローカル言語)を持っていて、半数以上の国民がそれら3つの言葉を話す、いや話さなくてはならないということは驚きである。

 そんなビサヤ地方の中心といえば、何といってもセブアノ語の本拠地であるセブ島。州都セブ市の近郊にあるマクタン島には5つ星クラスの豪華ホテルとプライベートビーチが連なり多くの観光客を集める。青い海と白い砂浜、美しい珊瑚礁にダイビング。まさに別世界。フィリピン人の誇る観光資源を代表するリゾート地で、フィリピンといえばあまり良いイメージの浮かばない日本人にとっても、セブは別格。そんな土地柄だけあって、ここには多くの日系企業も進出していて、現在合計で約100社。日本人商工会議所や日本人会(会員数220人、2007年1月現在)、そして日本大使館の駐在員事務所もある。

 さらには、最近徐々に増えてきている「退職者ビザ」での永住者が多いこともここの特徴で、フィリピン全体で約1,500人の退職者ビザ取得者の内、4割がこのセブに住んでいる。ちなみにこの特別ビザは、フィリピン政府の肝入れもあって他の東南アジア諸国と比べてかなり取得しやすくなっており、いまや1万ドルの現金を銀行にデポジットすればほぼ誰でも取得できる。注意深く協力者を見つけて安全な定住場所を選べば、英語が通じて物価の安いこの国では、年金生活でも結構な第二の人生がおくれるのだ。広々としたアパートに暮らし、フレンドリーな人々に囲まれて、時々ゴルフなどを楽しみ、気が向いたら日本へ一時帰国して温泉にでも行く・・まあ無論そんな夢みたな話ばかりではないけれど、それに近い暮らしをしている日本人が結構いるのだ。

 さてそうした日本人コミュニティーの支援を得て、セブでは日本文化を紹介する機会が比較的多くある。私が着任してからも、市内中心部のショッピングモールで日本映画祭を2度ほど開催したり、2006年1月には世界各地で活躍する日本を代表する和太鼓グループ、倭の公演も行うことができた。またここは日系企業、特にIT企業による日本語の企業内研修が盛んで、日本語への期待が大きい。毎年全世界で実施する日本語能力試験では、フィリピン国内3ヶ所が会場となっているが、ここはマニラに次ぐ受験地で(もう1ヶ所はダバオ)、近隣の島からも受験生がやって来る。さらにここの日本人会では、戦後の日比混血児“ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン(JFC)”への支援をいち早く開始し、昨年「新日系人ネットワーク」という組織を立ち上げて全国規模で運動の先頭に立っている。日本との絆が強い場所の一つである。

 前述の通りセブ周辺ではセブアノ語というタガログ語に次ぐ言葉が話されていて、タガログ語が支配的なマニラ首都圏や、それとほぼ同じ意味の“中央”に対する対抗意識が非常に強い。そしてそのセブで、日本人が増える傾向はこれからも続くと思われる。その意味で、ここはマニラとは異なる地方の視点から、新たな日比交流のモデルが生まれてくる可能性のある町として今後も注目をしている。

            セブ公演を行った和太鼓倭

 セブに次いで重要な都市もいくつかある。ビサヤ地方の西部に位置するパナイ島。その中心都市がイロイロで、フィリピンの多くの地方都市がそうであるように、ここもたくさんの大学が集まる学園都市だ。パナイ島はもとより、ビザヤ地方の他の島々やミンダナオ島からも学生がやって来る。そんな多くの若者で活気にあふれた町の中心的な大学である西ビサヤ国立大学で、先ごろ国際交流基金の共催で日本映画祭が開催された(2007年11月23日)。

 イロイロを訪れるのは初めてだが、ここは歴史遺産の町として有名で、今回はそれを観るのも楽しみの一つだった。もともと19世紀後半より砂糖産業が盛んになり、イロイロはその積出港として発展した。町には20世紀初頭以降に建築されたショップハウスや倉庫、そして豪華な邸宅から普通の民家まで、多くの建築物がオリジナルの状態で残されていて、古き良き時代のノスタルジーと、現代の喧騒が混沌となった独特な雰囲気のある町だ。ただし最近はマニラと同じような巨大ショッピングモールがいくつも作られ、どこにでもあるファーストフードのチェーン店が急増し、古きよき面影を伝える建築物はじょじょに肩身が狭くなる一方のようだ。行政による本格的な町並み保存の計画もなく、住民や専門家主体の運動もほとんどない。日本や他の国での町並み保存の運動とその成果について、機会があったらぜひ伝えてみたいと思った。

 そんなイロイロにもかつて多くの日本人が暮らしていた。このブログでも何度も紹介しているバギオの道路建設が1905年に一段落した後、多くの日本人がフィリピン全国に散らばり、この町も定住先の一つとなった。1919年には日本人会、1928年には日本人学校が開設されている。太平洋戦争前夜には600人を超える日本人が生活していたが、ビサヤ地方らしくその三分の一が漁師だったという。当時の面影をしのぶ建物もいくつか残されていて、町の中心部には日本人が経営していた雑貨商店“村上バザール”のあったショップハウスもいまだ健在だ。

        村上バザールの面影を残すショップハウス
 
 そして戦時中は海上交通の要、そして砂糖という戦略物質の調達のため、日本軍の司令部も置かれていた。いまその司令部に使われていた建物は、国立フィリピン大学イロイロ校となっている。戦況が悪化すると、日本軍はこの町を放棄して山中に撤退したため、マニラやフィリピン各地の多くの町のような戦闘による破壊は免れたという。この国はどこへ行っても、日本人とのつながりの痕跡、そして戦争の記憶が残されている。

 日本の敗戦でこの町に住めなくなった日本人の多くは、その後祖国へ帰国したが、少数であるが戦後もここに残って住み続けている日本人の子孫もいる。また、1980年代以降増えた日比国際結婚でやって来た日本人や、その子供たち“ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン”が相当数いる。そして今では大学で日本語を教えている日本人や、ここを定年後の第二の人生の地と選び退職者ビザを取得して定住する人など、様々な日本人が暮らしている。映画祭で訪れたこの町で、こうした日本人の何人かに出会い、またここで暮らした日本人の話を聞くことができた。

 おそらくそうしたことはここイロイロだけに限ったことではないのだろう。マニラにいるだけでは見えて来ないけれども、この国の津々浦々に実に様々な日本人、日系人が暮らしていて、そしてその多くの人たちが、日本とフィリピンの二つの国にまたがる夢と現実のはざまで日々奮闘しているのだと思う。

 パナイ島の特産ピーニャ(パイナップル)の繊維に刺繍する職人

 ビサヤ地方と日本との関係について語る時、やはりもう一つの島、レイテ島のことを忘れることはできない。

 レイテ島の東は太平洋に面していて、西にはセブ島がある。1521年にマゼランが世界一周の途中でフィリピンに侵入した際、まず初めにたどり着いたのがこのレイテ湾だった。青い海と熱帯の土地。いまその澄んだ空気に触れているだけでは、ここが第二次世界大戦の末期、日本軍とアメリカ軍の最大の激戦地となり、8万の日本兵と多くのアメリカ兵やフィリピン人が犠牲者となった悲劇の土地とは想像もつかない。レイテ島での戦闘の様子は、大岡昇平氏の『レイテ戦記』に極めて克明に再現されている。2006年の6月、私はそのレイテ島のパロという町を訪れた。

 パロは、日本軍のフィリピン占領とともに脱出したマッカーサー元帥が、“アイ・シャル・リターン”の言葉のとおり再上陸を果たした歴史上の場所だ。上陸地点となった「レッド・ビーチ」には、上陸した瞬間を再現した銅像が置かれ、今でも毎年10月20日には、アメリカの退役軍人や当時日本軍に激しく抵抗したフィリピン人ゲリラ兵の生存者などが訪れて記念日を祝っている。そんな歴史に包まれて、この町はいわば戦争被害の象徴として、戦後長い間ずっと反日感情が激しかったところだ。

               レッドビーチ

 私がそのパロを訪れたのは、ある人の紹介で町長に会うためだ。テオドロ・セビリア町長はそうした歴史的事実は事実として、若い世代のために過去を乗り越え、日本との交流を進めようとしていた。そのためにパロ町の主催するフィエスタに国際交流基金として参加して欲しいとの要望だった。それに対して私たちは、マニラ在住の日本語教師を中心とした『よさこいソーラン踊り』のグループを派遣することを決めた。踊り仲間の呼びかけに、何人かのボランティアが応じてくれた。その結果、日本人とフィリピン人合わせて総勢10名を越える混成チームがそのフィエスタに参加することができた。

 戦後60年を経てようやく公に“解禁”となった日本文化。この60年間は、戦争の悲劇というものが、町の人々から徐々に忘れられてゆく過程だったともいえる。だとすればこれからは逆に、この文化交流という手段を通して、戦争の記憶を後世に伝えてゆく必要があるのではないだろうかと考えている。

      太平洋戦争末期に米軍の病院となったパロ大聖堂

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