2007/05/31

海を渡らなかったキュビズム

  パリ日本文化会館で、「アジアのキュビズム」という展覧会が開かれている(5月16日~7月7日)。20世紀初頭、ヨーロッパで生まれた美術様式の一つであるキュビズムが、アジア各国でどのように受け入れられ、また受け入れられなかったかを検証する展覧会である。アジア11カ国より、53人の作家、合計77点がパリに送られて、現在展示されている。しかしここに、今回の展覧会に出品されそこなった1枚の絵がある。フィリピンを代表する作家、キュビズムの第一人者といわれているヴィセンテ・マナンサラの「スラムのマドンナ」という作品だ。

 この作品は先の東京、韓国、シンガポール展の際にも展示されず、カタログに図版入りで紹介された(ちなみにパリ展のカタログにも登場している)。今回は、早々にパリ展の作品候補リストに入り、その出品交渉をわれわれマニラ事務所スタッフが行うことになった。実はこの絵、私も初めて図版を見たときに、一遍でぐっと惹きつけられた作品で、なんとか出展を承諾してもらうべく、オーナーに何度も電話をかけ、やっとのことで面談の約束を取り付け、直談判ではありったけの言葉でこの作品の素晴らしさと、今回の展覧会でいかに重要な位置づけであるかを強調した。かなりしつこいまでにねばったのだが、結局よい回答が得られず、最終的に出展はかなわなかった。

 マナンサラは、間違いなくフィリピンの美術史における最重要の作家の一人で、1910年生まれで1981年に亡くなるまで、独自のキュビズムのようなスタイルを中心に多くの作品を残した。今回のパリ展でも、「スラムのマドンナ」にはふられたが、彼の別の作品が3点(「コラージュ」(1969年)、「磔刑」(1971年)、「ヌード」(1973年))も展示されている。その彼が人生の半ば、40才に達した1950年に描いたのが、この作品だ。当時彼は、フィリピン人として戦後初めてユネスコの奨学金を得て、カナダに6ヶ月間滞在した。そして一旦帰国した後、今度はパリへ留学して、レジェという作家に師事して本場のキュビズムに出会うこととなった。この作品は、そうした海外渡航の合間に描かれたもので、その後の彼の進路を暗示する重要な作品となった。

 以前このブログでも触れたことがあるが、フィリピンにおけるアカデミズム画檀の歴史は意外と古い。スペインの植民地時代、エリート教育の一環として絵画が導入され、何人ものフィリピン人が画学生として西洋に渡ったが、その中で、ホアン・ルナとフェリクッス・ヒダルゴという二人の作家が頭角を現し、1884年には二人そろってマドリッドのサロンで金賞と銀賞を受賞するという象徴的なできごとがあった。1884年当時の日本といえば、西洋画の基礎を築いたと言われている黒田清輝が、18歳で初めてパリに渡った年。日本洋画壇のアカデミズムを牽引することになる“外光派”が成立するには、さらに10年を要した。その頃フィリピンには、既に西欧の本場サロンで認められる作家が複数いたということが、この国におけるアカデミズムの早熟ぶりをうかがわせる。ちなみにこの時代の作品の多くは、今でもシンガポールや香港のオークションにかかり高値で売買されていて、2002年には政府系のGovernment Service Insurance System(いわゆる日本でいま話題の“社会保険庁”にあたる)が、ホアン・ルナの「パリジャンの生活」(1892年)を、4600万ペソ(約1億円)で競り落として購入したことが話題となった。どこの国でも、この社会保険を財源とする金は不透明極まりなく、行き場所にも困っているようだ。

     ホアン・ルナ作「スポラリウム(略奪)」(1884年)

 さてそんな強固なアカデミズムに対抗し、第二次大戦前あたりから反旗を翻したのが、 “サーティーン・モダーンズ”と呼ばれる13人のアーティストたちで、マナンサラはその一人と位置づけられている。

 そしてこの「スラムのマドンナ」だが、今回の展覧会の出品候補リストに載せられたのは、私が考えるところ二つの理由があると思う。一つはカソリックが主流を占めるこの国で、繰り返し描かれる母子像がテーマとなっているから。その姿は当然、幼子(おさなご)キリストとマリアの聖母子像にだぶる。展覧会場となるパリは無論キリスト教文明圏で、誰もが容易に解釈ができ、その文脈を理解(誤解)することのできる図象だからであろう。さらにもう一つ、それはおそらくスラムという表象が持つ、ある意味わかりやすいアジアのイメージによるものだろう。廃墟のようなバラック小屋の建て込むスラムの前で、幼児をすっくと抱いて、怒りや不安の中にも毅然と胸をはる若い母親。こうした二つのイメージの交差するこの作品は、今回の展覧会のモチーフを明瞭に象徴する。“悲しき熱帯”であるフィリピンに、キリスト教という西洋文明が移植された図は、あたかもキュビズムという西洋美術の技法が、土着の文化に移植された姿と二重写しになるだろう。

 でも、私がこの絵から感じるものは、そうした観念的なことではなかった。この絵の中に潜む強靭さ、そして不気味にも不屈な眼差しは、一体どこから生まれたのだろう。そして、自分自身、どうしてこんなにまでこの絵のことが、心のどこかにひっかかるのだろうか・・・いろいろ調べているうちに、あることが気になり始めた。

 この絵が描かれたのは1950年。マナンサラの作風に決定的な影響を与えたといわれる太平洋戦争の終結から5年後のことである。マニラで生まれ育った彼は、日本軍の侵攻後、北部の田舎に疎開をしていた。戦争終結とともに再びマニラに戻って見たものは、その後の彼の創作人生を決定付ける光景だった。破壊され尽くし荒廃したマニラの街。それ以来、彼は麗しき自然描写をいっさい放棄したという。

 「1945年2月3日にサント・トーマス大学の民間人収容所解放に始まったマニラ解放戦は、翌3月3日をもって日本軍が完全に掃討されるまで約1ヶ月にわたり続いた。この間にマニラ市街は文字通り廃墟と化し、日本軍守備隊約2万名はほぼ全滅、米軍も約7千名の犠牲者を出した。しかしなんと言ってもマニラ戦最大の犠牲者は、約10万にのぼると言われる非戦闘員・民間人であった。その恐らく7割が日本軍による殺戮と残虐行為の犠牲者、残り3割が米軍の重砲火による犠牲者だとされる。このように第2次世界大戦でワルシャワに次ぐ都市の破壊と言われ、また日米間で戦われた初めての、また最大の市街戦であったマニラ戦は、その結果の悲惨さゆえに、解放戦であると同時に「マニラの破壊」あるいは「マニラの死」とも呼ばれている。」
(中野聡・一橋大学教授のホームページより、「戦争の記憶」に関する同氏のホームページは、多くの示唆を与えてくれる。)

 「マニラの虐殺」ともいわれ、今も語り継がれている惨事だ。マニラの旧市街には、「非戦闘員犠牲者(non-combatant victims)」10万人を追悼する祈念碑が立ち、いまも毎年2月に追悼式が行われている。その出来事は繰り返し繰り返し、フィリピン人の間で語り継がれていて、私がこの国に赴任した2005年にも、「Terror in Manila」(メモラ-レ・マニラ1945財団)という本が新たに出版された。60年以上を経た今日でもいまだ呼び覚まされている記憶。戦後5年という時間は、凄惨な「マニラの死」から癒されるには全く不十分な月日であったに違いない。この絵に漂うただならぬ怒りと、それを包み込む絶望の先には、廃墟のマニラが広がっていたのではないだろうか。この作品を契機に彼のキュビズム人生が始まるともいえるのだが、私が思うに、彼は彼のその後の人生を決める重要な局面で、5年前のあの廃墟のマニラを思い出していたのではなかろうか。不気味にも不屈な母子像が心のどこかにひっかかるのは、そこに告発の眼差しがあるからだ。

             メモラーレ・マニラ1945記念碑

 展覧会はある意味、時に残酷だ。絵は見られてこそ価値が生まれ、見られ、消費されることでその絵を巡る物語が作られる。もしもこの「スラムのマドンナ」が海を渡ってパリに行っていたら、どんな物語を我々に示してくれていただろうか。または隠してしまったであろうか。いずれにしても1枚の絵と対峙する時、重要なのは、その絵がこの私に一体何を語りかけるのか、ということだと思う。

 「スラムのマドンナ」のオーナーと出品交渉していた時に聞いた話の中で、今でも気になっていることがある。彼女は現在、著名な内科医としてサント・トーマス大学病院に勤めているが、両親は戦前からフィリピン美術のコレクターであった。当時マニラ旧市街にあった倉庫には、マナンサラの戦前の作品をはじめ、多くの美術作品を所蔵していたという。それもあの「マニラの破壊」で灰塵に帰してしまったそうだ。そして、その後調べてみてわかったことだが、母親は国立博物館の美術課長を務めたこともある研究者でまだ健在だが、コレクターであった父親は、1958年に45歳の若さで他界している。その父親だが、終戦後、日本軍の協力者としてフィリピン人民裁判で“売国奴”として有罪となり、4年間も獄中にいたようだ。今回の出品拒否と、ファミリーの戦争体験と、因果関係があるか否かはわからない。しかし、そこにも絵画を巡って、私たちの知る由もない別の物語があるのは確かなことだ。

 いまから57年前のマニラで描かれた「スラムのマドンナ」。哀しいことにスラムはいまでもマニラの街の代表的な表象だ。結果的にこの絵に描かれた現実は、今でも同じように生々しく存在している。それは戦争による荒廃ではなく、グローバライゼーションというもの静かな侵略と、腐敗政治による荒廃の中にある。


(了)

2007/05/10

日本を夢見る日本人のこどもたち -ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン-

 日本で生まれ、日本人の両親を持つ私たちには自明のものである日本国籍。この日本国籍をめぐって、フィリピンには、私たちの想像力をはるかに超える物語がある。

 ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン、通称“JFC”といわれる日比混血児。“混血児”というと最近では差別用語らしい。誰だって多かれ少なかれ“血”は混じっているのに、そこで“日比”を強調することで偏見や差別が生まれるのだ・・という主張だ。ちなみに“ハーフ”という言い方も古いようで、“ダブル”という言葉が使われ始めている。“血”という物理的な交じりに焦点を当てるのではなく、文化的なアイデンティティに着目すれば、二つの文化を背負った“ダブル”になるという意味だ。

 さてそのJFC(これだってなんだかフライドチキンのようでとても気になるのだけれど、まあそれはさておく)だが、特に1980年代から急増したフィリピン人エンターテイナー(女性)と、日本人男性との間に生まれた子供が多く、現在、約10万人以上いると見られている。多くはフィリピン国籍を持ち、フィリピンに住んでいるが、日本国籍を持っている子供たちもいる。そんな7才~18才のJFC、8人からなるテアトロ・アケボノの日本ツアー直前公演が、マニラで行われた(5月10日、セント・スコラスティカ・カレッジ)。

 この劇団を主宰しているのは、マニラを拠点に活動するDAWN(Development Action for Women Network)というNGOで、日本へ渡ったエンターテイナー(通称ジャパゆきさん)の、帰国後の心のケアや、自立支援を推進している。厳しい労働、性的虐待、結婚や恋愛の失敗、そしてフィリピンへ帰国後の周囲からの差別や生活苦などで、精神的バランスを崩す女性が多く、このDAWNは、そうした心に傷を抱えた元ジャパゆきさんの駆け込み寺となっている。そして、カウンセリングや研修にやって来る母親とともに多くのJFCがこの事務所を訪れるが、いつしかそうした子供たちに対しても、日本語を教えるなど、支援活動を行うようになった。このテアトロ・アケボノもそうしたJFC支援活動の一環で、日本公演ツアーはこれで10回目になる。


 DAWNと僕たちとの関係は、昨年11月、このブログでも紹介したことのある、アルマ・キントという女性アーティストによるワークショップを、国際交流基金マニラ事務所の助成事業として実施したことにさかのぼる。参加したのは元ジャパゆきさんのお母さんとJFCの子供たち。将来の夢をドローウィングやパッチワークで作品に仕上げ、アートを通して心のヒーリングをしようというものだった。そして、今度はそのワークショップに参加した子供たちを中心に8人のメンバーが劇団を作り、日本へ公演旅行に行く計画だ。そのための準備ワークショップも、マニラ事務所が協力して実施した。


 この劇団のメンバーの中に、マサユキ(13才)とチエコ(10才)という二人の兄妹がいる。両親が同じ兄妹でも、兄は日本人、妹はフィリピン人だ。マサユキは3才まで日本にいたが、その後両親は離婚して母親はフィリピンに帰国。帰国の際に母のお腹の中にいたチエコは、父親から認知を受けることもなくフィリピンで生まれ、その後、父親とは音信普通となった。日本の民法では、母親が外国人で、日本人の父親と結婚していない場合、日本国籍を取得できるのは、父親による出生前の認知が前提。JFCが抱える多くのケースでは、父親が行方不明、もしくは認知がなされず、結果的に母親のフィリピン国籍となるケースが多い。でも日本国籍が取得できたとしても、無論それだけで幸せになれるとは限らない。マサユキの場合、周りのいじめや、母親が家にいつかなかったこともあり、やがて不登校となってしまった。DAWNに通うようになり、同じ境遇にいる友達と出会うまでは、希望を失っていたそうだ。今では、母親とともに事務所の近くに移り住んで、学校にも通っている。昨年のアート・ワークショップにも参加していたが、ドローウィングがとても繊細で色使いもうまく、きらりとした才能を感じさせる子だ。

 実はこのJFC問題、このところようやく社会的にクローズアップされるようになってきている。セブ島にある日本人会では、JFCのための日本語クラスを運営したり、日本国籍を持つJFCの日本渡航と仕事の斡旋なども始めている。日本国籍を持つJFCは、フィリピンでは、法律的にはいわば不法滞在者(ビザなしで長期滞在している)で、日本へ出国するためには多額の罰金を支払う必要がある。が、そんな大金、普通は持っていない。セブ日本人会では、そうした不遇な日本国籍のJFCを助けるべく、アロヨ大統領と出入国管理局に嘆願状を出し、日本出国にあたっての罰金の免除を訴えていたが、このたびその嘆願が認められるという朗報もあった。

 2004年の統計によれば、日本の婚姻の年間総計が72万組で、国際結婚が約4万組。その内、夫が日本人で、妻がフィリピン人のケースが8,400件。ちなみに逆はたったの120組で、やっぱりフィリピン人男性は日本人女性にあまり人気があるとはいえない。いずれにしても、フィリピンは、日本人の国際結婚の相手としては中国に次いで堂々の2位だ。子供(JFC)の数も、数千人から1万人のオーダーで毎年増え続けており、現在は、冒頭に書いた通り10万人を超すと言われている。しかし、その多くは貧しい階層の出身で、社会的弱者、周囲の偏見にも囲まれて悲惨な状況にある。

 世の中の人々の間では、所詮ジャパゆきさんと無責任な日本人父親の身勝手から生まれた悲劇、プライベートな問題にまで一々同情はできないという意見もあるが、子供たちに罪はないことは確か。ある時期大量のジャパゆきさんを生み出したのは、そもそも日本とフィリピンの社会が持つ宿痾という側面もあるし、JFC問題に対応できない両国の現行法の不備も指摘されている。たとえば、この国で暮らす日本国籍を持ったJFCに、日本国憲法で保証されている、いまや話題の“生存権”-すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する-が与えられているのだろうか、と疑問に思えることも多い。そんなJFCをめぐる様々な問題に対処すべく、先月、DAWNと同じビルの中に、Center for Japanese-Filipino Children’s Assistanceという新たなNGOが立ち上がり、まずはJFCの実態調査をということで、初の全国調査が始まった。「10万人のJFC」とはいうものの、その数字はまったくの推測。人数はもとより、国籍、生活状況など、データの蓄積はゼロ。一体どれくらいの日本国籍を持ったJFCがいるのかもわかっていない。

 さてテアトロ・アケボノの今回のツアーには、もう一つ重要な仕掛けがある。この8人のJFCの日本公演、そして父親の国への旅を、もう一人のJFCであり、現在フィリピンで最も注目されている若手脚本家が同行取材して、新作映画を製作するという構想だ。脚本家の名前は山本みちこ。氏名は日本名だが、フィリピン国籍。日本語は全くわからない。父親が日本人だが、一度も会ったこともなければ、本人にとっても初めての訪日になる。国際交流基金では、毎年その国の重要な文化人を短期間招待するプログラムがあるが、今年はこの山本さんを選んだ。実はこの山本さん、このブログでも以前紹介したことがある。2005年7月の原稿で、彼女にとって脚本2作目となったデジタル映画「マキシモ・オリベロスの青春」(2005年製作)のことを書いたが、その後のこの作品の“快進撃”はすごかった。国際映画祭での受賞だけでも、モントリオール世界映画祭でGolden Zenith for Best First Fiction Feature Film(2005年)、ロッテルダム国際映画祭批評家賞(2006年)、ベルリン国際映画祭・テディアワード(ゲイ、レスビアン部門)作品賞(同年)。そして世界中のインディー映画人憧れの的、サンダンス映画祭(同年)にも公式招待され、さらに結局エントリーは実現しなかったが、前回の米国アカデミー賞外国映画部門にフィリピン代表として推薦を受けた。そんな彼女の次回作、映画関係者のみならず、多くのフィリピン人が注目している新作、それがJFCの物語なのだ。山本さん本人はとても恥ずかしがりやで、なかなか自分について多くを語ろうとしない中、JFCについてのストーリーを夢見る彼女の目はきらきら輝いていた。

    「マキシモ・オリベロスの青春」の主人公マキシモ君

 今回の日本ツアーは、埼玉、川崎、新潟、大阪、福岡などを巡演し、各地の学校や教会などで公演を行う予定だ(5月18日~6月5日)。ミュージカル仕立ての芝居で、マサユキやチエコの両親たちのストーリーを、メンバーみんなで作り上げた。劇中、彼らの心中を正直に吐露するショッキングな場面もある。そしてツアー中、もう一つの目的、父親探しと対面が待っている。

 「ぼくはお父さんが大嫌い。でも、思い出さずにはいられないのは何故だろう。ぼくが今、どんな気持ちでいるか、お父さんが知る日は来るのだろうか。ぼくがどれだけ傷ついているか、お父さんにわかってほしい。ぼくの心の傷や悲しみを、すべて吐き出してしまえたらいいのに。いつか、どうにかして、お父さんへの憎しみはなくなるだろう。お父さんを許す?今はまだ・・」(テアトロ・アケボノ公演「贈りもの」より)

 今回日本へ行ける子供たちの背後には、多くの声なき子供たちが待機していることを、忘れることはできない。そうした子供たちに対する自立支援、法律援護についても、今後ますます課題が多くなることだろう。片親が日本人であるならば、いつでも誰でも日本の国籍取得を選択する自由を持つ、そんな単純なことが早く実現されることを願っている。日本に対する神話的幻想は、まだまだこの国では、まして最低限の生活を余儀なくされている人々からすれば、色褪せることはない。けれども、だからといって、あたりまえのことだけど、日本国籍が幸福を保証するとは限らない。日本か、フィリピンか、どちらの国籍を選択するにせよ、一つだけ確かなことは、彼ら、彼女らが、近い将来、日本とフィリピンの二つの国をつなぐ大切な財産になるであろうことだ。その意味で、テアトロ・アケボノや、山本さんがやり遂げようとしていることを応援し、そして多くのジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンが、彼らに続いて少しでもその夢に近づけるように、わたしたちは見守ってゆく必要があるのだと思う。
(了)

2007/04/24

マニラ一極集中にもの申す、バギオのアーティスト・コミュニティー


 マニラから北に車で6時間。標高1500メートルの山の中の街、そして“夏の首都”バギオを再訪した。ここで開催されるパフォーマンス・アートのイベント、TAMA07(Tupada Action & Media Art)に参加するためだ(2007年4月21日・22日、国際交流基金マニラ事務所ほか助成)。4月のマニラはとにかく暑く、日中は37度近くなるが、ここバギオはとても涼しくて過ごしやすい。“夏の首都”といわれる由縁である。かつては本当にこの季節になると、マニラから首都機能の一部(大統領執務関係など)が移転したという。そしてバギオは、ここからさらに北の山地地方に連なる玄関口にして、先住民の文化香る“山の首都”でもある。総称して“イゴロット(山の民)”と呼ばれる少数民族が多く移り住んでいるが、彼らは台湾の先住民や、沖縄のおじい、おばあに繋がる人々で、顔立ちは色黒の日本人のよう。素朴でどこか懐かしい。独特な雰囲気の漂う街には、アートを通じて自らの民族的アイデンティティを追及する多くの芸術家も活動していて、一種のコミュニティーを作っている。そんな活気ある街で、5人の日本人アーティストを含む、海外10カ国、総勢38人のパフォーマーが参加するイベントが開かれた。

 「パフォーマンス」は、簡単に言ってしまえば、要するに体を使ったアート。基本的には誰でも、いつでも、どこでも、それが“アート”である、という意思さえあれば発表できる。美術史的には1950年代後半から、ハプニングや反芸術を標榜する「具体」や、「ネオ・ダダ」、「フルクサス」といった前衛的グループによって、現代美術やその時代の閉塞感を打ち破ろうとして現れた、“アヴァンギャルド”アートの流れの中にある。ただ、今の日本では、“アヴァンギャルド”と言っても、美術史の中の言葉でしかないし、政治的や社会的な発言のインパクトの強さを競った時代はもはや過去のもののようだ。それだけに、このパフォーマンスは、日本ではなかなか注目されないけれど、今回バギオにやって来た霜田誠二氏率いるNIPAF(Nippon International Performance Art Festival)というグループは、1993年の結成以来、日本はもとより、世界中でずっとその活動を続けている。世間一般的に脚光を浴びるわけでもなく、ましてや素材が自分の体なので、作品が売れるわけでもなく、普段はフリーターをしながらお金をためて、作品発表や海外でのイベント参加の旅費にあてたりして、それでも頑張っている一団だ。もっともそんな状況は、日本だけというわけでもなく、ここフィリピンにも多くのパフォーマーがいて、皆生活は苦しいけれど、それなりの自負を持って活動を続けている。今回のフェスティバルもそうしたアーティスト達の手作りの祭典である。

                霜田誠二氏

  日本ではなかなか脚光を浴びないパフォーマンス・アートだが、ここフィリピンでは、現代美術のコンテキストの中では主流ともいえるジャンル。画家でも彫刻家でも、ビデオやインスタレーション作家でも、体で表現せずにはおられないアーティストは本当にたくさん存在する。カーニバルのようなアクションを好む民族性、といってしまえばそれまでだが、おそらく理由はそれだけではないだろう。パフォーマンスの原点は、なんといっても、いかにラディカルであるかということ。そうしたラディカルな表現がどこまで許容されるかという、社会のデモクラシー度の検証にもなる。といって最早ほとんど、天皇制などの例外を除き、表現にタブーの存在しない日本では、なかなかその原点の持つ意味は理解しがたいだろうけれど、発展途上の国々、そして強権的、独裁的政権の存在する国々では、それはパフォーマンス・アートの死活問題で、場合によってはアーティスト自らの死活問題にもつながるリアルな話なのだ。今回、ミャンマーから参加したHtein Linは、かって政治犯としてヤンゴンの獄中にあった7年間、民族衣装のロンジーの生地の裏に炭で絵を描き、多くの政治犯の前でパフォーマンスを続けていたという不屈の精神の持ち主だ。

 私もかつてインドネシアのジャカルタに駐在していた時、インドネシアで最もラディカルな女性アーティスト、アラフマヤーニとともに、第1回ジャカルタ国際パフォーマンス・アート・フェスティバルを企画し、NIPAFのメンバーも8名ほど参加した。その時のことについては、「こんなに不安定な時代だからこそ、文化や芸術は人々に必要とされる」というタイトルで文章を書いた。インドネシアで30年以上続いたスハルト独裁政権が崩壊し、いわば権力の空白、混沌とした百家争鳴時代を迎えていた当時の興奮は、今でもはっきりと覚えている。

 「世界各国のアーティストが、それぞれに抱える個人的問題、社会的問題、表現の問題に対し、鋭く切り込む作品を発表した。特にインドネシアの作家たちの社会問題に対するアプローチは鮮明だった。資本主義を批判し軍靴をはいてコカコーラとマクドナルドを痛めつける若者。インドネシアの白地図の上に注射器で採った自らの血液を点々とたらし、臭気ある汚土を食らう二人組。(略)いずれも分かりやすいメッセージを含んだ、強く、真摯な表現。スハルト政権時代には決して起こりようもなかった三日間だった。」
(『国際交流』89号、2000年)

 パフォーマンス・アートの影響力は、この国のアートシーンの中ではなかなかのものがある。周辺の東南アジア諸国の経済発展から取り残された感のあるフィリピン。南部にイスラム原理主義や分離運動、さらにいまだ共産党系の民兵との“内戦”状態にあるこの国では、常に軍の存在に怯え、いつなんどき強権政治が復活してもおかしくない状況にある。実際に、昨今当地のマスコミで連日報道されている「政治的殺害」と言われている一連の事件では、アロヨ大統領が2001年に政権に就いて以来、警察発表では114件、実際には200件以上の左翼活動家やジャーナリストが殺害され、今もその状況は続いているという。いまや国際機関や日本のNGOなども巻き込む国際的イシューになりつつあるのだ。そんな状況下、あまたの表現活動の中で、最もラディカルで尖っているであろうと思われるパフォーマンス・アートは、ある意味社会の危険度(健康度)のバロメーターでもある。もともとこの国は、ラディカルなアートが盛んだ。1970以降に一大ムーブメントとなったラディカル・アートは、「社会主義リアリズム」と定義され、多くの美術批評家からも注目されている。が、それについてはまた別の機会に。いずれにしても、その運動を引き継ぐ若い世代のアーティストが、今第一線で活躍している。

 さて今回このイベントの会場となったのが、VOCAS(Victor Oteyza Community Art Space, La Azotea Bldg., Upper Session Rd.)という昨年オープンしたばかりの新しいアートスペース。バギオ市のヘソであるバーンハム公園から、小高い丘に向かって一直線に走る目抜き通り、セッション・ロードの中腹に建つ雑居ビルの5階にある。広いスペースには、移築した北ルソンの伝統家屋や、東欧の田舎にあるようなビザンツ教会風の民家、中央のスペースには鬱蒼と植物を植え込み、鯉の泳ぐ池と、そのほとりには黒沢映画に影響されてあしらえたという水車。バギオに在住する作家の油絵や写真、巨大なインスタレーションや彫刻などの個性的なアートにあふれ、テラスからはバギオ市が一望できるという、なんというか、よくもまあここまでごたごたと作ったなあという、とってもクレージーな空間だ。その魔何不思議空間のオーナーが、これまたクレージー、といっても、かつて世界中の実験映画界を席捲し、“業界”で天才と慕われている、キドラット・タヒミックだ。

                 VOCAS

 彼と国際交流基金とのかかわりは深い。いまは“伝説”となり、その後のアジア映画紹介の嚆矢となった基金主催の南アジア映画祭(1982年)で、彼の出世作「悪夢の香り」(1977年、同年のベルリン国際映画祭批評家賞)が公開されて評判となった。その後、埼玉県のあるお寺に彼の家族が滞在した記録映画、「竹寺モナムール」(1986年)についても、制作費を支援している。とにかく寝るとき以外は常にカメラを離さないという徹底ぶりで、撮影したフィルムは膨大。1981年から日常生活の撮影を始め、86年より「僕は怒れる黄色」のタイトルで上映され、上映の度ごとに新たな撮影部分を加え、再編集している作品などは、“終わりのないドキュメンタリー”と呼んでいる。初老になってますます潔ぎよいアーティストで、とにかく彼の周りには自然に多くのアーティストが集まり、なんとなく一緒に飲んだり食べたりしながら、いわばサロンを提供しているのだ。

              キドラット・タヒミック

 僕が彼に初めて出会ったのが1988年。当時彼はバギオ市を見下ろす山中に、通称バンブーハウスという家を持ち、若いアーティストを何人も住まわせていて、一泊お世話になったことがある。当時バギオのアート界は、もう一人、サンティ・ボセという活動的な作家に牽引されていて、僕も彼に誘われてこのバギオにやって来て、「第1回バギオ国際アートフェスティバル」を観たものだ。東南アジアの美術界も1980年代後半に入って徐々に世界的にも活躍する作家が出始めたころ、マニラや、バンコクや、ジャカルタではなく、ここバギオのように、都会の喧騒から離れた、独自の文化を持つ地方都市が、オルタナティブな芸術運動の中で一つの中核的役割を果たすようになっていった。かつてそれについて書いた記事がある。

「商業主義逃れ、地方都市で芸術祭

(前略)昨今の東南アジアにおいては、現代芸術の発信拠点が、大都市から地方都市へとシフトする現象が見られる。欧米追随の商業主義に侵され、公害やスラムなどの社会問題に見舞われる大都市を離れ、地方都市における芸術活動の中からそれに対するアンチ・テーゼを求める動きである。タイ北部のチェンマイや、フィリピンではルソン島中部のバギオやネグロス島のバコロド、そしてインドネシアではこのソロやジョグジャカルタがそうした新しい動きの中心地となっている。いずれはそれぞれの地方で活躍する作家同士が直接に交流しあってネットワークを作り、東南アジアの大都市を囲み込む反大都市文化の包囲網を作り出すに違いないと思われた。」(朝日新聞「アートアトラス」、 1994年4月29日)

 その後、チェンマイやジョグジャカルタは、国際的なアートシーンで活躍するアーティストを輩出し続け、まずまず発展しているようだが、ここバギオは今ひとつぱっとしない時代が続いてきた。1990年この地を襲った大地震で2000人近い犠牲者を出し(正確な死者数不明)、街は壊滅的な打撃を受けたのだ。その後アートの世界では1995年に、当時最も世界的に注目されていたフィリピンのインスタレーション作家であるロベルト・ビラヌエバという作家が急逝した。シンガポールのタン・ダウや、タイのモンティエン・ブーンマーなど同じ時代に活躍し始め、フィリピンアートの国際的な評価を高めた功労者だ。さらに、バギオのアーティスト・コミュニティーを引っ張ってきたボセが、2002年に急逝したのも致命的だった。彼の後に続く突出したリーダーが存在しなかったのだ。突出したアーティストがいなくなることで、取り返しのつかない損失を蒙ることは時々あることだ。次から次へとバギオのアート界は大きなものを失い、その喪失のショックから立ち直るには相当の時間が必要だったのだろう。

 いずれにしてもボセの急逝後、アーティスト間の確執などもあり、バギオのアート・コミュニティーは一時活気を失ったという。そんな状況の中、新たに生まれたこのVOCASは、ここに再び活気をもたらす起爆剤になってゆくだろう。来月には、ジョグジャカルタ在住の日本人アーティスト広田緑さんとインドネシアのアーティストがやって来て、バギオのアーティストと共同制作をする予定だ。大都市一極集中の弊害がはなはだしいと言われる東南アジアの国々。大都市への一極集中は、伝統文化の空洞化と表裏一体だ。フィリピンも例外ではない。ここバギオには、バギオを愛し、ここに踏みとどまる多くの若い作家がいる。彼ら、彼女らがいる間は、僕はいつでもバギオに帰って来たいと思うだろうし、同じように思う海外のアーティストがもっと増えるよう、できる限りサポートしたいと思っている。

 バギオを愛してやまず、ここからアートを発言し続けたボセの言葉。

「コルディレラ(北ルソン山地の呼称)の若い才能ある多くのアーティストたちが、商業主義の罠に陥り、伝統的な芸術作品が観光主義に提供されるとしたら悲しむべきことだ。アーティストとして、私たちの懸念、必要、そして希望を表現し、変革のための闘いに積極的に参加しなくてはならない。さもなければ、我々自身の最も深部で育てたものが、取り返しのつかないほど失われ、アートそのものも、何の意味もないからっぽなものになってしまうだろう。」(アリス・ギレルモ著、「Image of Meaning」より引用)

         バギオの目抜き通りセッションロード

 社会に根差し、決してあきらめずに発言を続ける真摯なアーティストの系譜に、今のバギオの若いアーティストも連なっている。そんな彼らを見ていると、時にどうしようもなく腐敗して、堕落したところもあるこの国でも、だからこそ、土俵際の潔い真っ白さがまぶしくも思え、なんとも心の中で応援したくなるのだ。(了)

2006/11/02

資金難と頭脳流失に悩める日々-それでもやります日比演劇共同制作

 フィリピンを代表する劇団タンハーラン・ピリピーノの新作が、それも同劇団にとって史上初となる日本の演出家による国際共同制作作品が、ここマニラで幕を開けた(国際交流基金、フィリピン文化センター、タンハーラン・ピリピーノ、シナーグ・アーツ財団、国家文化芸術委員会主催、10月20日~22日:シナーグ・アーツ・スタジオ、11月10日~26日:フィリピン文化センター)。“日本の演出家”といっても、実は在日韓国人のチョン・ウィシン(鄭 義信)氏。最近では「血と骨」(崔洋一監督)や「レディー・ジョーカー」(平山秀幸監督)などの映画脚本家として著名で、演劇でも劇団梁山泊の座付き作家として長年にわたって活躍してきた。マージナルな社会の底辺に生きる人々を、ユーモアとペーソスをもって描くのが彼の真骨頂。そんなチョンさんが今回初めて海外の劇団に作品を提供し、自ら演出した。タイトルは「バケレッタ」。“バケ”=お化けと、“レッタ”=オペレッタの合成語、つまりゴースト・オペラだ。

 話の発端は以前にも紹介したことのある日本人照明家、松本氏のアイディア。ここフィリピンでも日本のホラー人気はすごいもので、日本の総理大臣の名前は知らなくても、“サダコ”(映画「リング」に出てくる亡霊)といえば誰でも知っていて、「呪怨」や、そのハリウッド・リメイク版の「Grudge」が大ヒット。マニラの映画館では今もちょうど「Grudge2」や、「着信あり」のフィリピン版リメイクである「TXT(テキスト)」(マイク・トゥビエラ監督)が上映中だ。そんな日本のホラー人気を背景に、芝居でもホラーものをやれば絶対に若者に受けるに違いない、そんな思いからこのプロジェクトは始まった。チョンさんを起用するアイディアも松本さんから。松本さんとチョンさんが、60年代以来日本の小劇場運動の先頭を走ってきた劇団黒テントの先輩と後輩だったこともあり、トントン拍子にことは進んだ。ぼくは演劇の専門ではないけど、この仕事をしていて多くの演劇人と付き合う機会があるが、黒テントから排出された人材は、演出家、役者から舞台技術者にいたるまで、いまも日本の演劇界を支えている。早くからアジア諸国の演劇人とも交流していて、ここフィリピンでも昨年国際交流基金賞を受賞したPETA(フィリピン教育演劇協会)とは70年代以来の友情関係がある。


 チョンさんのことをここマニラで紹介する時に、いつもとまどうことがある。在日韓国人のことを英語で”Korean Japanese”(韓国系日本人)と訳す場合があるけれど、明らかに誤訳だろう。ぼくは”He is Korean in a sense of nationality or ethnicity, but he is more Japanese-like than Japanese.”と紹介していた。チョンさんもぼくたちには、“自分は韓国人だけれど、心は日本人だから(細かい部分の演出が気になる、とてもしつこい・・)”と話す。チョンさん自身は、そんなことどっちでもいいじゃないかと言っているけれど、ぼくとしては結構気になる点で、なかなかはしょる気持ちにはなれない。“単一民族神話”のくすぶる時代の雰囲気に育った自分が、こうして海外に出て、この国に打ち捨てられてきた日本人の“棄民”の歴史に触れるにつれ、“神話”とは異なるもっと生々しくも複雑な日本人の存在を意識するようになった。チョンさんは在日3世の韓国人だが、ぼくにはフィリピンにいる残留日本人やチョンさんと同世代の日系人の姿がだぶって見える。

 チョンさんは冒頭に書いたように映画の脚本家として名が知られているが、今回もこの「バケレッタ」にあわせて彼の脚本による映画を上映した。「月はどっちに出ている」(1993年、崔洋一監督)、「マークスの山」(1995年、同監督)、「岸和田愚連隊」(1996年、井筒和幸監督)の3本だ(9月13日~10月15日、シャングリラ・プラザ・モール、フィリピン大学及びフィリピン文化センター)。なかでも「月は・・」は、在日韓国人のタクシードライバーとその仲間たちを描いた秀作だが、そこにルビー・モレノという、かつて日本で人気のあったフィリピン人女優が、カラオケ屋で働くエンターテイナー役で出演していて話題となった。

              「月はどっちに出ている」

 フィリピン人といえば、エンターテイナー(通称“ジャパゆき”)。現代の日本人が作り出したステレオタイプだ。実際問題、決していいイメージではないが、チョンさんのオリジナリティは、このジャパゆきさんを、逆境にめげない天衣無縫でピュアーなキャラクターとして優しく描き、人生の悲哀を描くこの物語のトーンを明るくしたことにある。80年代から急増したフィリピン人エンターテイナーは、言ってみればアングラ版日比交流の象徴だ。その多くは6ヶ月間の「興行ビザ」で、ピーク時には年間8万人(03年)のペースで日本へ渡った。70年代半ばに日本人のフィリピン買春ツアーが激しく非難されたため、それなら日本に送り込もうということで始まったといわれているが、より根源的には、両国の経済格差やフィリピンの出稼ぎ労働文化、そして日本の海外労働者の受入制度によって作られた“人流”の一つだと思う。確かに「興行ビザ」(演劇、演奏、スポ―ツ等の興行や芸能活動のためのビザ)を取って、実際にはカラオケパブでホステスをしているケースがほとんどだと思うが、それだけで彼女たちが、ましてはフィリピン人が侮蔑されるいわれはない。アメリカ議会から指摘されたような“人身取引”まがいの中間搾取の恩恵にあずかっているのは、多くが日本人仲介業者だったりするのだ。

 フィリピン人の「興行ビザ」による入国者の数は、昨年の入管法改正で激減しており、現在では月に約500人のペースで、ピーク時の1割以下に激減している。それにかわって今熱い視線を受けているのが、看護師と介護士。先ごろ日本とフィリピン両国の政府によって経済連携協定(EPA)が締結され、とりあえず今後2年間でフィリピン人看護師と介護士が合計1,000名、日本へ送り出されることとなった。ちまたには日本での就業を夢見る介護士目当てに、ぞくぞくと新たな日本語コースが開講され、日本語ブームは加熱ぎみだ。これについてはまた別の機会でレポートする。いずれにしてもあと10年もすれば、フィリピン人のイメージは、新たな人流を支える制度の変化に伴って、“エンターテイナー”から“ケアギバー”に変貌している可能性はおおいにありうると思う。

 「バケレッタ」の元となった脚本は関西弁で書かれものだが、その原作の舞台をフィリピンに置き換えて書き直し、まず英語に翻訳してからタガログ語へ。さらにオリジナルのセッティングである関西方言のニュアンスを出すために、舞台設定をセブとして、セブ地方の方言を取り入れて脚本は完成した。10年以上劇団を支えてきた演出家の死をめぐり、彼と二人の女優との三角関係や、団員同士の友情や軋轢が織り交ぜられストーリは展開し、最後は演出家の死を乗り越えて芝居を続けてゆく決意をする。ゴースト・オペラといっても実はほとんど怖くなく、笑いと涙のヒューマン・ドラマだ。出演しているフィリピン人役者の演技力の高さには演出家も舌を巻くほどで、彼ら、彼女たちの熱演で素敵な芝居に仕上がった。チョンさん自身、今年の3月にこの地を初めて訪れて下見をして以来、8月の再訪で役者のオーディションを行い、9月中旬から1ヶ月以上滞在して作品を作り上げた。11月には場所をCCPに移して上演するため再度訪問の予定で、1年の間にとうとう4回もマニラに来ることになった。

 フィリピンを代表する劇団と共同制作することになった今回、はからずも劇団の内部に入り込んで内情を垣間見ることになり、この国の芸術活動が持つ困難さを改めて実感した。日本でも演劇の世界で生き抜くことは大変なこと。ある程度名の知れた劇団の主役級の俳優でも、本業の役者だけでは食べていけないため、アルバイトをするのは常識。ましてやこのフィリピンでどうやってサバイバルしているのかと思ったが、やはり状況は想像以上に厳しいものがある。今回の作品に出演している俳優のギャラは推定で3万5千円から6万円。手元にスケジュール表があるが、リハーサルは火曜日から日曜日までの毎日午後6時から10時、合計47日でのべ188時間。本番が16回で、拘束時間の推定はのべ80時間。試しに計算してみると、時給130円から230円。主役は全部に顔を出すわけではないが、まあせいぜい時給300円といったところか。この公演のスポンサーは我々国際交流基金なので、実際他人ごとではないのだけれど、舞台人の生活は全く大変だ。

 フィリピンの文化活動を取り巻く環境は厳しいものがあるが、この国の文化支援の現状はどうなっているのだろうか。代表的なものは国家文化芸術委員会(National Commission of Culture and Arts)。大統領直属の機関で、ジャンルや地域別に22の小委員会からなるこの国の文化活動の拠点だ。配下にはCCPや国立博物館、国立図書館、国立アーカイブなどを擁し、有形・無形文化遺産の保存やナショナル・アーティストの懸賞制度、そして様々な文化事業にグラントを提供している(「バケレッタ」も20万円ほど獲得)。しかし年間予算は全部で約4億5千万円。日本の文化庁の予算がだいたい1,000億円だから、一国の中核的文化機関としてはあまりにも物足りない。その下部組織であるCCPも、無論財政的に非常に苦しい。いくつかのレジデンシャル・カンパニーの運営以外にも、民間の様々なグループに舞台、展覧会場などを提供しているが、常に赤字ベースだ。例えばタンハーランの場合、劇団員の安い月給と事務所スペースは提供されるが、プロダクションに割ける予算は微々たるもの。今回の「バケレッタ」にいたってはゼロで、チケットの売り上げが全て。なんとも綱渡りの経営だ。

 公的機関による支援体制が非常に脆弱である中、稀に美術の世界では、一握りの富裕層による私的コレクションとそれを展示する美術館の活動が目立っている。スペイン系のアヤラ財閥と華人系のロペス財閥は、その勢力を競いあうようにともに美術館と財団の運営をしているほか、つい最近も新興財閥による美術館(ユチェンコ美術館)がオープンして話題になった。フィリピン美術はもともと西洋美術の主流と直結するアカデミズムの伝統が強く、この国のハイソサエティーともつながっていて、その庇護を受けやすい立場にあった。作品は投資の対象としてこの国の富裕層に定着していて、街中には商業画廊が数多くあり、民間企業がスポンサーとなっているアート・コンペティションも複数ある。

 しかしパフォーミング・アーツはそれほど恵まれた環境にはなく、プロデューサーは時にまるで物乞いのように友人に支援を求め、極めてフィリピン的な“ウタン・ナ・ロオッブ(恩と義理)”に支えられて公演を打ち、結局赤字が出れば自分の私財を投入してその穴を埋める・・という前近代的なことを繰り返しているのだ。タンハーランにしても、そうした厳しい財政事情から、劇団の実質的な代表である芸術監督は、常に金策に頭をいためている。今の芸術監督であるハービー・コーも、昨年の就任以来常にそうやって走り続けてきた。そしてヒット作品を生み出してきたのだが、ついに疲れ果ててしまったのか、この10月末で劇団を退団し、アメリカへ移住する決意をした。 

 この移住問題、言い換えれば頭脳流出(ブレイン・ドレイン)問題は、この国のもう一つの深刻な社会問題だ。ハービーのケースのみならず、ぼくの身の周りでもここ数ヶ月で何人かのアーティストが米国、カナダ、オーストラリアなどへ移住してしまった。医師や看護師にいたってはもっと深刻だ。フィリピンでトップレベルの国立病院で医者をしていた人が、アメリカで看護師になり、10倍以上もかせいでいるのが現実。教師の流出もこの国の教育制度を根幹からゆるがしている。今年から基金マニラ事務所は、当地最大の銀行系財団(メトロバンク)が毎年実施している全国教員コンテストの審査にオブザーバーとして参加したが(優秀者の中から基金の「中高教員訪日研修」参加者を選抜する)、最終面接に残った候補者一人ひとりに向かって、審査委員長がまず開口一番、「この国に残って教師を続けてくれていてありがとう!」と言っていたのには驚いた。とにかく総人口の1割(労働人口の2割)にあたる800万人が海外で労働に従事し、海外フィリピン人からの仕送りがGNPの1割を占め、この国の経済を支えている。フィリピンはグローバライゼーションの“最先端”ともいえるし、“草刈場”ともいえるのだ。


 こうして資金難と頭脳流出に日々直面しながらも、それでも演劇は生産され続けている。「バケレッタ」の出演者と話をしていても、ギャラのことは最初からあきらめてはいる。みなそれぞれの思いはあるものの、好きだから芝居を続けることに大差はない。これは日本の小劇場系の役者も一緒。その意味では日本の演劇界の明日だって、決して明るいものではない。「バケレッタ」のラストシーン。長年の劇団の支えであった演出家を失って一度はあきらめかけた芝居だったが、演出家の遺志に思いを馳せ、もう一度みんなの夢を取り戻す場面がある。ほろっとさせるクライマックスだけれど、これは演技なのか、それとも現実の一部なのか、タンハーラン劇団が、そして俳優たち一人ひとりの人生が重なって見えて、ちょっと嬉しくもあり複雑な気持ちになった。
(了)

2006/09/20

日本の伝統文化の最も奥深いところで勝負したい・・日比能共同制作にかける思い

 マニラから車で南に1時間半の人里離れた山中に、美しいシルエットで有名なマキリン山をちょうど真横に眺めるように、この国の誇る芸術分野のエリート養成校、フィリピン国立芸術高校がある。1977年の創設。鬱蒼とした広大な山中にリゾート風のコテージがいくつも散在する。60~70年代に活躍したナショナル・アーティスト(人間国宝)のアンドレ・ロクシンの設計による洒落た教室と学生寮だ。かつてこの国を専制支配したマルコス元大統領の夫人、イメルダの“ペットプロジェクト”。その全盛期にはイメルダ夫人もたびたびここを訪れ、マニラから呼び寄せたアーティストと料理人で盛大なイベントを繰り広げたという伝説の場所だ。

 驚いたのは、ここの学生のエリートぶり。1学年30数人程度(1年次のみ60人)だが、全国の小学生より毎年選抜。フィリピンでは高校といっても日本の中一から高一にあたる4年制。この国は世界でも珍しい6(初等)・4(中等)制を採用している。だから子供たちは小学校6年生の段階で“運命のオーディション”に臨むことになる。音楽、舞踊、演劇、美術、文学専攻に別れ、学生3人に対して教師が1人の贅沢ぶり。学費はもとより、全寮制の宿泊費や食費、さらには毎週マニラに帰省するが、その往復交通費など全てが無料。子供たちの親は、将来の指導者となるべきわが子の養育を、「契約」によって高校(国)に託す。麓の街まで公共交通機関もなく、ゲームもなくテレビも制限された山中での4年間。金の卵たちはひたすら自分の才能と格闘し続ける。卒業生の多くはこの国の学術・芸術各界を牽引していて、前回紹介したコンテンポラリーダンス界の新旧のリーダー、マイラ・ベルトランやドナ・ミランダもこの高校の出身だ。マルコス政権末期の腐敗ぶりはつとに有名だが、こうした桁はずれのエリート文化尊重の歴史の名残は、皮肉なものだが、いまだこの国の財産の一つとなっている。そんな超エリート高校生200人の前で、フィリピン人大学生による能のデモンストレーションが行われた(9月12日、主催:国際交流基金、フィリピン大学国際研究センター)。

 4人の学生で構成される能のチームを率いるのは、観世流シテ方の梅若猶彦氏。能楽600年の本流の一端を担う伝統の梅若家(梅若家当主の梅若六郎氏は現在五十六世、家系そのものは1300年前までさかのぼる)に生まれながら、ロンドン大学で博士号を取得し、数多くの実験的試みに挑戦するメインストリームの中のアウトローだ。国際交流基金のプロデュースによる、シェークスピアの「リア王」を翻案した「リア」にもタイトルロール役で出演している(1997年から99年にかけて日本、香港、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ドイツ、デンマークで公演)。アジア6カ国の俳優、舞踊家、音楽家が参加して、能、京劇、タイ舞踊、インドネシアの伝統音楽と武術、現代演劇やポップスなどで構成した国際共同制作事業。私も98年にはインドネシアのジャカルタに駐在していて、現地で「リア」の公演を制作した。たった3日間の公演だったが、当時政情不安のインドネシアで、連日1200人の劇場を満員にした記憶は、いまも生々しい。そんな梅若氏とここマニラで7年ぶりの再会となった。

 フィリピンで能に取り組み始めたのは1年以上前にさかのぼる。きっかけはこのプロジェクトの仕掛け人、同志社大学で博士号をとった才媛ジーナ・ウマリ、フィリピン大学(UP)講師との出会いからだ。日本人能楽師の指導のもと、フィリピン人による能を創りたい・・。当初はたいした印象もなかったし、日本人にもあまり馴染みのない難解な能、動きがスローで東南アジアの熱帯文化にはおよそ耐えられそうもないし、だいいち室町の公家社会をパトロンにその奥義を確立して600年間も守り続けてきた伝統中の伝統を、フィリピン人が一体どこまで理解できるのか・・正直とても疑問だった。

 疑問は疑問としてそのまま残ったものの、あるビデオを見て考えが変わった。それはやはりUPが制作して2003年に公演した歌舞伎の「勧進帳」のビデオ。オール・フィリピン人キャストで、しかもタガログ語による上演。外国人による外国語での歌舞伎なので、無論キッチュなところはたくさんあるが、老松と若竹の“松羽目板”を模した背景に、三味線と鼓のお囃子が居並ぶ中、弁慶と富樫がタガログ語でやり取りする場面を見ていて、歌舞伎という日本の誇る伝統芸能へチャレンジする気迫と心意気を感ぜずにはいられなかった。すぐにでも能のプロジェクトを支援したくなった。

 ジーナの構想は、能という日本の伝統的手法を用いて、この国の文学に表された女性の中で、常に悲劇の象徴として語られる「シーサ」を描くことにあった。「シーサ」はフィリピン独立運動の英雄にして文学者であるホセ・リサールの『ノリ・メタンヘレ』(1887年初版)に登場する女性で、二人の息子をスペイン人カトリック司祭の陰謀により亡くし、ために発狂して悲劇の末路をたどる。子供を想う母の怨念、マージナルな女性の執念は次代を越えて今も多くのフィリピン人に訴え続けている。その怨念を、能によって蘇らそうという試みだ。脚本は既にアメリア・ラペーニャ・ボニファシオ、フィリピン大学名誉教授によってタガログ語で書かれ、日本語への翻訳も終わっていた。子供を殺された母の深い悲しみのように、想像を絶する激しい感情の行き着く先、その先を何かのかたちで表現するとしたら、ある意味、身体表現の極致ともいえる能というものこそふさわしいのかもしれない。

 国際交流基金の主催事業として梅若氏を初めてUPに招聘したのが昨年の8月。それから1年以上が経過した。梅若氏は現在もUPの客員教授として学生に能と伝統文化について講義をしている。この間、ワークショップを通じて主にUPの学生に能のシテ方や大鼓、小鼓を教え、いつの間にか“UP能楽アンサンブル“なるグループをつくり、実に様々な機会に公演やデモンストレーションを行ってきた。そのハイライトの一つは、日比友好年(日本フィリピン国交回復50周年)のピークを刻む”日比友好の日“に、来比した麻生外務大臣を含む多くのVIPの前で公演した「翁」だろう(7月23日、カルロス・ロムロ劇場)。ただし、この時ばかりは「翁」役は梅若氏本人が演じ、囃子方も主役は日本から招聘した専門家たちだった。


 UP能楽アンサンブルにとってのもう一つのハイライト、そして彼らにとって本当の正念場となったのは、UP劇場で行われた公演だろう(8月11~13日、主催:UP国際研究センター、国際交流基金)。最終日を観たが、2000人収容の大劇場は7割方を埋めた学生の熱気であふれていた。前日は満員だったそうで、能の公演にこれだけの若者が集まる光景を日本で見ることは少ない。日本人は能に対する先入観が多すぎるのでなかろうか。そんな熱気ある劇場で演じられたのが、友好の日と同じ演目の「翁」と、ジーナの夢であった「シーサ」の二番。そして今回の「翁」はいよいよUPの学生が、それも演劇専攻の女子学生(ダイアナ・マラハイ)が演じたのだ。



 伝統を守りぬくか、それとも革新か、古くて新しいテーマだ。でもこれほどまでに極めつけの例もなかなかないのではないだろうか。世界遺産としても名高い日本の代表的伝統文化である能、その能楽の中でも特別な曲として知られているのが「翁」。これといったストーリーはなく、せりふも意味不明だが、とにかく能の演目の中で最も古いとされ、室町のはるか以前から宗教儀式として演じられていたもの。能の主役であるシテを演じる能楽師は、その上演の1ヶ月前から女性との交渉を絶つことが求められているという、いわば秘儀中の秘儀。能の海外公演は今日それほどめずらしくないが、「翁」は意味を伝えるのが難しいし、ぱっと糸を飛ばす「土蜘蛛」などに比べて見栄えがしないという理由で、海外で上演されるのは稀だ。よりにもよってその「翁」がここマニラで、外国人、しかも女子学生によって演じられた。

 実はこのフィリピン人女子学生による「翁」の上演について、友好の日のために来比した日本人能楽師たちの間で喧々諤々の議論があった。このプロジェクトに当初から関わり、フィリピン人の真摯さに動かされていた梅若氏は、学術交流として上演を主張したのに対して、H氏(同氏も江戸時代初期から続く名家の出身)は、特別な「翁」を海外で、しかも外国の女学生が、神聖な儀式を省略して上演することは、あまりに“おこがましい”行為だと痛烈に批判した。結局梅若氏の思い通り、UP能楽アンサンブルによる「翁」の上演は行われ、同氏の言う“学術交流”は成功を収めている。しかし、例えばこれが観世流の“公認”する「翁」の公演になるかというと、おそらく絶対にそんなことにはならないだろう。日本の伝統芸能の世界を取り巻く壁は分厚く、ヒエラルキーは絶対のように見える。

 「翁」が能楽の伝統、それも最もセンシティブな儀式性、神聖さそのものに挑戦する演目だったすれば、二番目の「シーサ」は、フィリピン人女性の怨念を描くことで、能がいかに民族性や時代を超えた普遍的な芸術表現になりうるのか、ということを試す演目だった。「翁」を演じたダイアナは、続けてこの「シーサ」も演じきった。梅若氏による演出は、能の演目の中でも狂女ものとして有名な「道成寺」の翻案で、最後の場面では、死んだ二人の息子の亡霊と現前するシーサ(の亡霊)がそろって道成寺の釣鐘(に模した白いボックス)に吸い込まれていくという劇的なものだった。まあ日本人のぼくにはその翻案の意図はある程度わかったが、日本人のぼくでも驚いたのは、「道成寺」の中で最も重要、かつ数ある能の演目の中でも最も難しいとされる「乱拍子」というシテ方の特殊なステップを、あのダイアナがやってのけた(少なくとも、ぼくにはそのように見えた)ことにあった。乱拍子のステップにも取り立てて意味といったものはないが、それだけに名人級でも難しいとされる技。それをどうして2週間でこの女子学生が演じてしまうのか、演じさせることができるのか。「翁」と乱拍子に凝縮された能の最も奥深い精神性というものを、梅若氏は、日本の伝統から切り離されたフィリピンで、ある意味無垢な学生を相手に、それだからこそ逆に、敢えて惜しげもなく注ぎ込んだとも考えられるのだ。

 UPは2008年に創立100周年を迎える、この国きっての秀才が集まる最大の国立大学だ。もともとアメリカ植民地時代に、前スペイン時代の旧弊を打破し民主化を目指す拠点として作られた、いわば“前衛”を旨とする大学。全国に散らばる12のキャンパスの中で最も広大な敷地を誇るディリマン校は、500ヘクタール、23学部に2万人が学び、敷地内にはショッピングセンターから病院、ホテルまである一つのビレッジのようだ。大統領をはじめこの国のエリートを輩出する一方で、常に反権力の牙城ともなる。いまだ勢力を維持して時に激しいゲリラ戦をしかけるフィリピン共産党や、ミンダナオの独立運動とゲリラ戦を指導してきたモロ民族解放戦線の創設者も、このディリマン校の出身である。そのUPディリマンを率いる学長は、45歳の若き数学者セルジオ・カオ氏。今回のプロジェクトの最大の理解者でありサポーターでもある。学長をはじめ、多くのUPのスタッフや学生たちにも支えられた。権威と反骨のせめぎ合い、UPという場所は、まさにこのプロジェクトにふさわしい舞台を提供してくれたと思う。

 冒頭で紹介したデモンストレーションは、国際交流基金がスポンサーとなり、梅若氏とUP能楽アンサンブルによって行われているレクチャー&デモンストレーションの国内ツアーの1コマである。マキリンの芸術高校以外にも、既に北部ルソン島の中心都市バギオ(8月18日~19日、コルディエラ大学、フィリピン大学バギオ校、VACASアートセンター)、南部ミンダナオ島のダバオ(8月29日~30日、ミンダナオ国際大学、フィリピン大学ミンダナオ校)、中部ビザヤ地方のセブ(9月19日、サンカルロス大学、フィリピン大学セブ校)など各地で実施した。30数名の参加者を得てスタートしたプロジェクトが、こうやって国内ツアーまで行えるまでになろうとは想像もしなかった。そして昨年8月の初公演以来、48回にわたる公演やデモンストレーション、観客数は実にのべ1万2千人にのぼる。能の奥義を探求する日本文化のメインストリームの中のアウトローと、日本から見れば“開発途上”のフィリピンにおけるエリート集団の実験的スピリットとの出会い。この幸運な出会いの行き着く先がどこになるのか、いまとなっては誰も想像することはできない。
(了)

2006/09/05

たった20人の観客にもめげない・・・フィンピン・コンテンポラリーダンス界のチャレンジャーたち

 よく“草創期”という言葉を聞くけれど、フィリピンのコンテンポラリーダンス界ではまさに今、新しい何かが生まれつつある。そんな草創期にあるコンテンポラリーダンスの祭典である「Wi_Fi/インデペンデント・コンテンポラリーダンス・フェスティバル」が、初めてこの国の“文化の殿堂”であるフィリピン文化センター(CCP)で、4日間にわたって開催された。(8月17~20日、主催:世界ダンス連盟マニラ支部、CCP、国家文化委員会、共催:国際交流基金マニラ事務所ほか)


フィリピン・コンテンポラリーダンスのメッカ、ダンスフォーラムスタジオ

 クラシックバレエのようにある決められた型を追求する表現に抗い、そのアンチテーゼとして生まれたコンテンポラリーダンス。現代生活を取り巻く複雑な人間感情を表現する舞踊の新しいスタイルとして、日本では多くのダンサー、振付家、そして観客が育ちつつあり、舞踏という日本の特異な表現形式の存在もあいまって、海外でも評価の高いグループが数多く存在する。しかしここフィリピンではまだまだ始まったばかり。今回の「Wi_Fi」に先立ち、今年の4月に「コンテンポラリーダンス・マップ」というイベントが開催されたが(4月29日~5月12日)、そこにエントリーしたマニラ首都圏で活動するグループは全部で6つ。おそらくそれに2~3のグループを加えればこの国のコンテンポラリーダンスの“業界図”は完成する。

 「マップ」は今年で2年目。参加しているのは、マイラ・ベルトラン・ダンス・フォーラム、グリーン・パパイヤ・アート・プロジェクト、カメレオン・ダンス・シアター、エアーダンス、ダンシング・ウーンデッド・コンテンポラリーダンス・コンミューン、フィリピン大学(UP)ダンスカンパニー。最後の大学ベースのグループを除いて、いずれもインデペンデントな個人やグループによるカンパニーだ。合計6公演のうち5公演を観たが、クラシックバレエのテクニックを背景にした“正統派”コンテンポラリーダンスから、ドイツのタンツシアターの流れに影響を受けた表現主義的なもの、さらには日本の舞踏の影響や、この国で独特なゲイカルチャーを強烈に感じさせる作品から、演劇的で“踊らない”ダンス作品まで、実に多様な作品が上演された。ぼくはそうした作品を観ながら、コンテンポラリーダンスの日比交流の様々な可能性について思いを廻らし、一人胸を躍らせていた。

 今年は国際交流基金の主催事業または助成事業として、コンテンポラリーダンス分野の日比交流プロジェクトを集中的に企画している。まずは日本からカンパニーを招聘してマニラで公演を行い、同時に日本人批評家が日本のコンテンポラリーダンスのレクチャーをする。その後今度はフィリピン人振付家を日本に招待して日本のダンス事情を視察して、マニラで開催される重要な公演をサポートする。そして最後に、フィリピン人の若手振付家が日本、さらには国際的舞台でデビューすることをサポートする。ちょっと一気に欲張りだけれど、夢の中の話ではない。でも、なんでそもそもコンテンポラリーダンスなのか。

 新しいアートの草創期というものは、いつの時代でも抵抗が多く、続けていくためには相当な心理的・経済的な苦労を強いられるのが普通だ。今回「マップ」で実際に観た5公演は、観客数にすればどれも20人から30人ほど。お世辞にも多くの人たちから支持されているとは言いがたい。日本でこのジャンルで人気のある、たとえば山海塾や、勅使河原三郎、HRカオスなどが公演すれば、1000人規模の劇場を満員にするのは比較的容易だけれど、ここでは見果てぬ夢の世界。20人とはあまりに寂しい現実が目の前にある。だがしかし、20人だからといって簡単に片付けてはいけない。たかが20人、でも本当にその表現が尖っているとしたら、20人の理解者がいれば十分。同じようなことは歴史が何度も証明している。新しいアートが作られる現場は実はとっても重要なところなのだ。頑なに反コマーシャリズムを追求し、マージナルな場所から発信されるアートほど、メインストリームに挑む大きな力を生み出す源泉になりえるのだと思う。

 そして何よりもダンサーたちの真摯さには頭が下がる。一昨年、CCPの専属バレエ団であるフィリピン・バレエ・シアターの中核的ダンサーの10余人が、香港のディズニーランドに高給で引き抜かれたという話だってある。ある程度踊れるってことは、常にそうした“危険”が潜んでいるということでもある。けれども敢えてコマーシャリズムに抗い、なんとか自分の表現世界を創り出そうと真剣に取り組んでいて、時に悲壮感さえ漂う。何でも吸収してやろうというある種貪欲さがいいところで、こんな人たちと付き合っているときこそ、つくづく文化交流をしていてやりがいを感じるのだ。


    コンドルズの公演に集まった観衆(CCPロビー風景)

 大音量のロック音楽をバックに踊る10人の中年男性ダンサーと若い人たちの歓声。舞台の袖には特設の大型スピーカーが設置されている。CCPの大ホールでこれほど騒々しくも迫力のある公演は稀にしかないそうだ。そもそもCCPではロックコンサートはやらないし、ここは“格調高い”芸術の殿堂なのだ。今回招聘したコンドルズは、日本のコンテンポラリーダンス界の中でも異色の存在。ダンスの中にコントを取り入れて若者の人気を獲得。いまでは10代の女性を中心にファンクラブまである稀有なダンスカンパニーだ。そんなコンドルズがマニラにやって来た。(6月23日、国際交流基金・CCP主催、マニラ国際演劇フェスティバル参加招聘公演)

 この国ではおそらく誰一人としてコンドルズを知っている人はいなかっただろう。まさか1800人収容の大劇場が満席になるとは思いもしなかったが、蓋を開けてみれば事前の反響はすごいもので、いくら無料公演とはいえチケットは事前予約で早々と無くなり、当日はキャンセル待ちの若者で劇場はあふれ、1階ロビーから階段を上り2階ロビーまで連なる長蛇の列となった。

 約1時間半の公演は、いつもの通り学生服スタイルのメンバーによる躍動感あるダンスを中心に、コントと映像作品を織り交ぜて終始会場を興奮に包み、あっという間に疾走するように終わった。特にコントのコーナーでは、フィリピンの人気キャラクターやタガログ語などを取り入れてアピール。そうした観客とのインタラクションを重視するコンドルズの作風は、この国の多くの人たちに好意的に受けとめられたと思う。何故コンドルズを呼んだかといえば、ややもするとシリアスになりすぎるマニラのコンテンポラリーダンス界に、多少おバカさんだけど、ダンスはもっと楽しくていい、シリアスな表現だってマンネリ化すればただ退屈なだけ、批判の対象にもなりえる、ということを伝えたかったこともある。その意味で今回の公演は十分にメッセージを伝えることができたと思う。

 本番前の2日間にわたって行われたワークショップやディスカッションも、双方のアーティストにとってとてもいい経験になった。特に「Wi_Fi」や「マップ」で中心的役割を担うマイラ・ベルトランという女性振付家・ダンサーが運営するダンス・フォーラムというスタジオで行われたディスカッションは、この国のダンス界が抱える問題とそれへのチャレンジ、それにまつわる苦難と自負など、とても率直で生々しい話になった。マイラは現在46歳。クラシックバレエの王道を進み、国立バレエ・フィリピンのプリンシパルダンサーとして活躍したが、1991年に退団して伝統的な表現と“決別”。10年前から自宅を改造したスタジオをベースに自分のグループをなんとか維持し、自らも踊り続けるのみならず、多くのイベントも仕掛ける誰もが認めるこの世界の最大の功労者だ。こんもりとした椰子のおい茂る広い庭の一画、半野外に作られたスタジオに敷かれた黒いリノリウムの床には、そんなマイラと彼女の仲間たちの思いや迷い、そして日々のレッスンの汗が染み付いている。コンドルズの振付家である近藤良平氏や、レクチャーのために来ていた石井達郎氏(朝日新聞などでの論評で著名な舞踊評論家、慶応大学教授)もきっと何か感じるものがあったに違いない。

 そんなコンドルズ公演が終わって1ヶ月が経過した7月下旬、今度は逆にそのマイラが日本を訪問した。国際交流基金の短期招聘プログラムで11日間の滞在。彼女にとっては今回が初の訪日である。11日間の日程で、トヨタ・コレオグラフィー・アワードなどのコンテンポラリーダンスの公演はもとより、歌舞伎、能、劇団四季や宝塚の公演など、今の日本の舞台芸術を概観できる盛りだくさんの内容だった。

 でも実は彼女に一番見せたかったのは、黒田育世という女性振付家の「SHOKU」という作品だった(8月11日、横浜赤レンガ倉庫)。女性だけのBATIKというグループを率いてヨーロッパでも公演を行い高い評価を得ている。女性ダンサーが髪をふりみだし、肉体を酷使して激しく踊る力強い作品で、ストイックでいてエキセントリック、男性的に破壊的だけれど同時に女性的なリリシズムが交錯するような、一度観たら忘れられない作品だ。マニラに来てここのダンスを観て、ぼくの頭にまず思い浮かんだのが実はこの作品だった。「SHOKU」には、今のフィリピンのコンテンポラリーダンスの状況が重なって見える。現代文化のフロントランナーたちは、意識するしないにかかわらず、きっとどこかでつながっているのだろう。マイラも何かを感じるに違いない。そんな確信があったのだが、帰国後の彼女のレポートを読んで、やはりその確信は的外れでなかったことがわかった。

 「・・・(「SHOKU」を見て)私は言葉を失った。私もダンサーなので、彼女たちが直面しなくてはならない様々な困難がよくわかる。毎日かかさず体をウォーミングアップしなくてはいけないし、体は傷つきやすいし、だいちいつも疑問だらけだろう。けれども彼女たちはそれを続ける、疑いも無く、一瞬一瞬全身全霊で。私が思うに、それこそが日本人の特徴なのではないだろうか。私自身、またフィリピン人ダンサー、いや西洋のどんなダンサーだってあれほどの作品を踊りきることは想像できない。・・(中略)・・そこには何か(日本の進んだアートや文化で解釈できるもの)を超えるものがあると感じる。超越した何かとつながろうとする試み、それはこの作品を創りあげるための犠牲、その犠牲に対して“イエス”と認める気持ち。そうした“イエス”と言える心が、日本人の信念、日本の文化の核心ではないだろうか。」(マイラのレポートより)

 彼女はさらに自らの立場、フィリピンのコンテンポラリーダンスの置かれた状況に思いを馳せる。

 「・・・しばしば私は“一本気すぎる”とか“役にたたない情熱”とか言われて批判されることがある。しかし今回の作品のように私と同様に、いや私以上にそう思われるようなダンサーを見るにつけ、インスピレーションと確信はますます大きくなるばかりである。確かに彼女たちの作品は日本でよく受け入れられているし、その価値もあると思う。またそれが彼女たちにとって発奮材料にもなるのだろう。ひるがえって私たちフィリピンのダンサーが払っている犠牲だって、なかなか立派なものだと思う。自分たちの作品を創り続け、そしてなんとか今まで生き残っているのだから・・・」(同レポートより)



 マイラ・ベルトランがフィリピンのコンテンポラリーダンスの草創期を支えてきた第一の功労者だとすれば、ドナ・ミランダは、これからを担ってゆく新しい世代のリーダーだ。そもそもぼくがここでコンテンポラリーダンスに出会ったのは、ASEF(アジア欧州基金)主催の「ダンスフォーラム」というプロジェクトで、彼女が日本に招聘されたのがきっかけ。ちなみにアジア、ヨーロッパから20名を超えるダンサーが参加した同プロジェクトの公演は、国際交流基金フォーラムで行われている(2005年9月13日)。気がついてみたらASEFはいまやアジアとヨーロッパの芸術交流におけるキープレーヤーの一つだ。

 ドナは現在伸び盛りの27歳。「マップ」の主要メンバーであるグリーン・パパイヤ・アート・スペースのダンサー・振付家として昨今の活躍は目覚しい。彼女は国立芸術高校とバレエ・フィリピンでダンスの英才教育を受け、その後フィリピン大学に進むと同時にマイラ・ベルトランに師事し、数々の大舞台でも活躍してきた若きエースだ。とても小さくて華奢な体つきだけれども、一端踊りだすとその存在感は圧倒的で、確かな技術とそれを超えるセンスが光る。確実にこの国のコンテンポラリーダンスの地平を切り開いてゆく存在だと思う。彼女の現在の目標は、来年の1月に日本で開催される「横浜ソロ×デュオ 」。このコンペの優勝者はパリでの6ヶ月間の研修と、パリ日本文化会館での公演が約束される。若手振付家にとって世界への登竜門だ。フィリピンから日本を通り、そして世界へ・・それは想像しただけで目の前がぱっと開けるような素敵なことに違いない。既に予選のためにビデオを送っていて結果待ち。彼女のために、そしてこの国のコンテンポラリーダンスの明日のためにも、ドナが日本の舞台に立てることを祈っている。



 新しい何かが創られようとするとき、そんな貴重な瞬間に立ち会っているのだという実感を得られることが、国際文化交流という仕事をしている醍醐味の一つだと思う。そして新しい文化創造の現場で、多少なりとも何らかの貢献ができることは、とても誇らしいことだ。それが特に尖った世界の、時に暗闇の中で悪戦苦闘をしているチャレンジャーに出会ったとき、だからこそ誰かのサポートが最も必要とされていると感じられるとき、ぼくたちがここにいる本当の理由がわかるのだ。

2006/05/08

日本とASEANをつなぐ夢 ~舞台技術者たちの2週間の奮闘~

 マニラ首都圏のほぼ中心部、マンダルーヨン市の庶民の住宅密集地、いわゆるコミュニティーの真っただ中に、日本人舞台照明家、松本直美さんが運営しているパフォーミングアーツ・スタジオがある。松本さんの愛称はショーコ。1994年以来この国に居を構え、98年に支援者や友人らと、フィリピンの舞台技術者を養成するための拠点となるシナーグ・アーツ・ファンデーションを設立した。「シナーグ」とは、タガログ語できらきらの意味。フィリピンの舞台は面白い、でも残念なことに照明などの技術が追いつかない。優秀なスタッフを育てれば、フィリピンの舞台はもっともっと素晴らしくなる。このシナーグは、そんな松本さんたちの思いがいっぱい詰まったスタジオだ。そんなシナーグを舞台にして、日本とASEANの若手舞台技術者を集めた2週間の集中ワークショップが、国際交流基金の支援のもとに行われた(3月13~26日)。

 このワークショップにはブルネイを除くASEAN9カ国と日本から選ばれた22歳から39歳の舞台技術者、合計15名が参加した。講師はショーコさんのほかに日本人2名とフィリピン人3名。いずれも第一線で活躍する人たち。照明、音響、セットデザイン、技術、舞台監督、アートマネジメントの合計6項目で、ほぼこれが舞台の全てだ。ワークショップは2週間、朝の9時から夜、時には深夜にわたってみっちりと行われた。1日も休むことなく体力は大丈夫だろうか、精神的にもきつくないか、そんな心配をよそに参加者全員が無事にこのハードな研修を修了。3月25日にはその成果発表をかねて、国立タンハーラン・フィリピーノの新作で、スーパー・オカマ・ヒーローを主人公にしたコミックが原作のミュージカル・コメディー、「シャシャ・ザトゥルナー」の公演を行った。ところでこの「シャシャ」は2月の初演以来、タンハーラン劇団の久々のヒット作品となり連日若者で満員、チケットを入手するのが困難な作品。フィリピンの演劇で最も人気があるといえるバクラ(オカマ)もので、荒唐無稽なストーリーだが、なんともバクラの存在感が際立つ面白いミュージカルだ。この国の成熟した“バクラ文化”についてはまた別の機会に報告する。

           (写真は全て澤口佳代さん撮影)


 そもそもこの企画の発端は、2003年にショーコさんも参加した国際共同制作プロジェクトにさかのぼる。日本ASEAN友好年を記念して創られたダンス作品「リアライジング・ラーマ」。アジアが共有するインド起源の古典、「ラーマヤーナ」をモチーフにして、現代的にアレンジした創作舞踊だ。その企画に日本からただ一人照明家として参加し、ASEAN諸国のキャストやスタッフと長期にわたって寝食を共にすることで、人材育成と交流の重要性を実感した。それから夢がふくらんで、いつか自分のスタジオでASEANから若者を集めて将来につながる何かがしたい。そんな構想に寄せる思いを、準備段階からショーコさんに聞かされていたぼくは、やはり2003年に自分が手がけた、日本とASEANとの共同制作事業を思い出しながら、再びこのマニラの地で起こるはずの、多くの人との出会いに期待をふくらませていた。

 2003年はぼくにとっても忘れられない年だ。

 「東南アジアと日本を舞台にして、昨年の秋、一つの歌を巡る物語が始まった。ASEANはこの東南アジアの10の国々からなる。域内の人口は5億人。民族や言葉は異なるけれど・・・そんなASEANの国々と日本の人々が、もし一つの歌を共有することができたら・・・。“6億人の歌”、J-ASEAN POPsのイメージソング作りはそんな夢から生まれた。」(J-ASEAN POPs横浜公演のパンフレットより)

 正直言って最初は単なる思いつきに等しかった、日本とASEANをつなぐイメージソング作り。それが「島唄」で有名なBOOMの宮沢和史さんと、彼をめぐる人々との出会いを通じて実現していった。宮沢氏が原曲を作り、英語のオリジナル歌詞をシンガポールのディック・リーが書き下ろす。タイトルは「Treasure the World」。それを11カ国の言葉と、異なるアレンジの曲に作り変え、各国を代表する歌手が歌い継いだ(日本語版タイトル「あなたに会いに行こう」、詩・大貫妙子、歌・有里知花、東芝EMIより発売)。もちろん6億人の歌というのは見果てぬ夢だけど、バラード調からロックバージョン、ラップまで、11通りの「Treasure the World」が生まれた。それまでタイやインドネシアに駐在して、東南アジアの国々に出かけていくことが多かっただけに、ぼくにとってこのJ-ASEAN POPsは、国際文化交流という仕事をし続けてきた一つの中間報告、折り返し地点のようなプロジェクトだった。広くて多様な東南アジアの国々。思い出そうとすれば、次から次へと様々な風景が頭に浮かんでくる。

 「その水はチベット高原を源に、ミャンマー、ラオス、タイの山間部を通り、カンボジアを抜け、ベトナムのデルタ地帯を貫通して東シナ海に流れ込む。インドシナ半島の穀倉地帯を支える壮大なメコンの流れ。東南アジアの大陸部は、このメコンのような大河が生命線だ。タイからは南の赤道に向かってマレー半島が延び、その先端にはシンガポール、東南アジアの島嶼部は海の世界。マレー半島をまたぎ西はアチェから東のパプアまで東西に広大な海域を持つインドネシア。そして隣接するブルネイと、海流に乗って北上すればフィリピン諸島群。東南アジアは実に多様な自然、風土、文化に恵まれている。」(同)

 「リアライジング・ラーマ」を携えて、東南アジアの国々を旅したショーコさんの頭の中にも、様々な風景がいっぱいつまっているのだろう。彼女とはそんな東南アジアの風景と“2003年の夢”を共有していると思った。

 でも何故フィリピンのマニラで-?せっかく外国人を相手に舞台技術の研修をするのだったら、立派な劇場があり、設備や機材が整っている日本でやればいいじゃないか・・と、普通は思うかもしれない。はっきり言ってASEAN諸国の中でだって、最近のフィリピンは、国としてはかなり低迷していると言っていい。シンガポール、マレーシア、タイからは既に経済的に相当の遅れを取ってしまい、いまや後からASEANに加盟したベトナムにも追いつかれそうな情勢だ。そんな近隣諸国の発展を尻目に、自分の足元はあいかわらずのクーデターや反政府勢力の活動、大統領の汚職疑惑や不正選挙疑惑で不安定きわまりない。

 しかし国としてはそんなひどい状況でも、NGOなどの国際的プロジェクトとなると、フィリピン人は異様なリーダーシップを発揮する。国際交流基金の事業の中に、アジア域内の知的交流を推進するグラント(助成)があるが、毎年フィリピン1国で4~5件の狭き採用枠に100件近い申請が寄せられる。おそらく申請の数でいえば、東南アジアでダントツ一位だろう。英語が公用語の国なので国際会議はお手のもの。英語で要求される分厚い申請書だって難なく書いてしまう。まあこれは才能の部類に入るのだろう。今回のワークショップも、その意味でマニラで実施することに違和感はない。少なくとも日本でやるよりは余程スムーズにコミュニケーションができ、そして何といっても安上がりだ。いい設備、いい機材があるだけでは中身のある研修はできない。ものが無ければ、ないなりになんとかなる。第一、ワークショップに参加したメンバーだって、本国に帰ればもっと悲惨な状況が待っていたりするのだ。


 シンガポールから参加した音響デザイナーのユン・ホーが言っていた。「これまでに多くの外国人と一緒に仕事をして指導を受けたが、基本的に欧米人は自分の指示に従わせるだけ、アジア流はケースバイケースでふさわしい方法を見つけてゆく。決して押し付けはしない。」ちなみに彼女は、クオ・パオ・クンという東南アジアを代表する劇作家(故人)が立ち上げた演劇学校のスタッフで、この学校では日本の能、インドのクーリヤッタムからチャイニーズ・オペラまで、アジアの伝統演劇を一線級の役者たちから学ぶことができる。アイデンティティーの交錯する極めてシンガポールらしい学校だ。そんな国際的で汎アジア的な環境にいる彼女の発言は、あながち嘘ではないだろう。

 ラオスから参加した日本人の諸富裕典氏もユニークな存在だ。彼の会社の名前がメコン・オーキッド。ラオスとカンボジアに事務所を構える。二つの国の将来性を見込んで仲間と一緒にイベント制作会社を立ち上げた。フィリピンに腰を据えて格闘する日本人照明家の存在には驚いたが、ラオスを拠点に定めた日本人の舞台技術者がいるとは・・ショーコさんの存在を超える驚きだった。本当に日本人は世界中でいろんなことにチャレンジしている、とつくづく思うのだ。その二カ国から同じ会社の女性スタッフも参加している。彼の影響が大きいのだろうか、どちらも優秀な若手だ。

 インドネシアから来たクリントは、今回ただ一人、プロフェッショナルな劇団専属の照明家だ。彼の劇団はディープなジャワ文化の故郷、ジョグジャカルタを拠点とするテアトル・ガラシ。大地に根ざしたようなジャワの伝統文化と前衛的な実験精神があふれた優れた作品を創りだしている。ちなみにこの劇団は、現在国際交流基金が共催するプロジェクトのために日本に招聘されていて、6月には日本の劇団ク・ナウカとの合同公演を予定している(6月11~18日、ザ・スズナリ)。クリントは、シナーグで学んだことを早速日本で実践することになる。こうやって色々とつながってゆくことは素晴らしいことだと思う。


 ワークショップの最中にぼくも何度かスタジオをのぞいたが、短い期間に何でも吸収してやろうと意欲がみなぎっていて、皆いい顔をしていた。風土や文化が違い、言葉が違い、政治体制や社会状況、そして一人一人のバックグランドは異なるけれど、だからこそ一緒に何かを創ってゆく醍醐味がある。そんな参加者の中で最も忘れがたい一人が、ミャンマーから参加したゾウ・ミン・ウーだ。彼も2003年の「リアライジング・ラーマ」の参加者で、今回ぜひこのワークショップに参加させようと、ショーコさんが賢明に連絡先を探り、なんとかぎりぎり間に合った。彼はいまヤンゴン文化大学で照明技術を教えているが、いまのミャンマーの軍事政権下、実際問題インフラはぼろぼろで、本当は舞台どころではないだろう。表現の自由が奪われた国で、舞台の仕事を続けることがどんなにリスクを伴い、苦しい生活を強いられるか、今のぼくには想像もつかない。でもそんな厳しい状況を背負っているはずの彼が、このワークショップでは一番生き生きしているように思われた。将来は自分で設計した新しい国立劇場を作りたいという。「リアライジング・ラーマ」の公演で訪れた日本で、ぜひ本格的に舞台のことを勉強したいと訴える。

 2週間という限られた時間の中で、果たしてどの程度期待していた“技術移転”ができたかはわからない。ASEANの国々と日本に散らばってしまえば、あまりにもちっぽけな15粒の種だ。でも、いまから思えばつかの間のことだったが、参加した彼ら、彼女らにとっては、この体験がいずれ大きな力になるに違いない。いまは想像もつかないかもしれないが、いつかゾウ氏のつくったヤンゴンの劇場で、フィリピン人のバクラ演じるコメディー・ミュージカルに、ミャンマーの人たちが報復絶倒するする時代がやってくるかもしれない。ぼくらは現在進行形のミャンマーの状況に、何か特段にコミットできるわけではないけれど、いつかは自分たちの劇場をと、あきらめないで奮闘している彼と、こうやって”2003年の夢“を共有し、少なくとも心の中で応援し続けることはできるのだ。
(了)2006.5.8

2006/04/27

バギオの“アボン(家)”と戦争の記憶


 マニラから北にバスで6時間、コルディエラ山脈の懐、標高1500メートルの山間の盆地に、人口23万人の“夏の首都”バギオがある。2月から3月にかけて最高のシーズンで、15度前後の涼しい気候の中、毎年この町が誇るフラワーフェスティバルが開催される。そのフェスティバルの最中に、バギオでは初めてとなる「日本文化祭」が開かれた(3月3日~12日、バギオ市コンベンションセンター)。国際交流基金が提供する日本人形展、写真展、映画祭、それに日本のNGOが参加して生け花やお茶を披露、現地の日系人らが中心となって賑やかなフェスティバルとなった。

 以前短信06号でダバオの日系人の話を紹介したが、ここバギオがそもそも戦前の日系移民揺籃の土地である。1898年にフィリピンが米国の殖民地になった後、米国政府がバギオを避暑地にするために開発が始まったが、マニラからの幹線道路の工事が非常に困難を極め、日本の労働者を投入したのがきっかけ。日本からまとまった第一陣の移民がやって来たのが1903年。その道路は今でも健在だ。道路が完成した後、日本人移民労働者はダバオなどフィリピン各地に移住したが、バギオやその周辺の街にも多く残り、農業、建設業、商業などに従事した。1921年に日本人会、24年には日本人学校も作られ、戦争前の1939年当時、バギオの総人口24000人の内、約1000人が日本人だったとの記録がある。当時のバギオの様子は移民100周年を記念して出版された「Japanese Pioneers –In the Northern Philippine Highlands」(パトリシア大久保アファブル編)に、貴重な写真付きで詳しく紹介されている。市街図を見ると、目抜き通りにある店舗の2軒に1軒は日本の商店。特に雑貨商が目立つ。日本の商店や日本人はその当時、流行の最先端、外界への窓口として憧れの的だったようだ。

 いま、その戦前からの日系人の子孫たちは、6世まで含めて合計で6700名(2005年8月時点)。北ルソン・フィリピン日系人財団という組織がまとめ役となって、様々な活動を行っている。財団の通称は「アボン」。土地の言葉で「家」を意味する。バギオ市内の中心部を見下ろす小高い丘の中腹にある2階建ての瀟洒な邸宅を改築して、事務所を運営している。この財団の基礎を築いたのは日本人シスターの海野常世さん。1972年にバギオを訪れて以来、この地方に放置された日本人戦没者の遺骨収集に着手し、それと同時にうち捨てられた日系人を支援する組織を立ち上げた。シスター海野は、ここではまさに天使のような存在で、彼女の献身は永遠にバギオの日系人の間に語り継がれていくだろう。




 彼女は1989年に亡くなったが、その遺志を継いでアボンを切り盛りしているのが、日系2世のカルロス寺岡氏と彼の親族。カルロス氏はここを拠点に、北ルソン地方のみならず、フィリピン全土の日系人組織も束ねている。彼の父親は山口県出身、母親はフィリピン人。戦争の直前に父が急死してから、寺岡家の悲劇が始まった。二人の兄の内、長男は日本軍にスパイ容疑で銃殺され、次男は逆に地元のゲリラに殺された。山中を逃亡中に米軍の機銃掃射で母親も亡くした。なにもかも失って戦後帰国。しかし日本は安住の地ではなかった。当時まだ日本国籍の取得が認められていなかったため、様々なかたちで差別され疎外感を味わい、結局フィリピンに戻り永住を決意した。その後苦労を重ねて、いまではバギオから車で3時間のパンガシナンに広大な農場を経営するまでになった。

      寺岡氏と家族、スタッフ


 日本文化祭の開催に先立ち、アボンに共催者となってもらうため昨年の10月にバギオを訪れ、そこでこの寺岡氏と初めて出会った。ちょうど同じ時期に高知県からの視察団が訪問していて、歓迎のメッセージを兼ねた寺岡氏の講演があったが、戦時中の話になった途端、彼は突然涙を抑えきれなくなって嗚咽した。日本人が訪れるたび、おそらく思い出したくない記憶を無理に搾り出し、こうして語り聞かせているのだろうと、聞いている私もつらくなった。寺岡氏と一緒に生き残った妹のマリエさんは、いまも遺骨収集を続けていて、定期的にその遺骨を日本に持ち帰っているという。フィリピンでの日本人戦没者の数は518,000人。そのうち遺骨が収集されたのは132,000柱にすぎない。まだ38万柱の遺骨が行方不明なのだ。ここバギオは、フィリピンにおいて太平洋戦争が始まった場所であり(最初の空爆)、終わった場所でもある(降伏文書の調印)。戦後60年以上が経って、いまだにこうして現実に淡々と戦争の後始末をし続けている人々がいることに、なんともやるせない気持ちになった。日本にいるだけではとてもじゃないけど見えてこない現実、そんな現実がこの国では日常的ですらある。“アムネシア(記憶喪失)”は、日本とフィリピンの関係を解く鍵だと思う。

 バギオの日本文化祭と同じころ、マニラでは日本研究セミナーが開かれたが(3月8~9日、在フィリピン日本大使館、国際交流基金マニラ事務所、デ・ラサール大学ユチェンコセンター共催)、戦争に関する“アムネシア”が一つの重要なキーワードとなった。開会の挨拶に立った山崎隆一郎・日本大使は、真摯な言葉で“先の”大戦での日本軍による多大な被害に関してお詫びの言葉を述べていたが、発表者の一人であり、アジア・太平洋の国際関係に関して戦争の記憶や戦争責任の問題に焦点を当てて研究している中野聡・一橋大学教授が指摘するとおり、こうして日本政府が繰り返し謝罪しても日本のメディアではほとんど注目されず、フィリピンにおける戦争被害に関する日本人の“アムネシア”の進行をとめる手立てはない。しかしここマニラでは、何かの機会に、ごく日常的に、戦争の記憶というものが、もちろん僕の記憶ではないけれど、その記憶の総体みたいなものが立ち現れることがままあるのだ。

 初めて開催された日本文化祭のオープニングには、地元選出の下院議員やバギオ市長など各界の重要人物が集まり、地元メディアでも大きく取り上げられた。予想以上に日本への感心は高い。日本人会の人の話では、数年前までは日本の出し物に対して土地の言葉で露骨な悪口が聞かれたが、最近はそれも少なくなり、今年は全く聞こえてこなかったそうだ。戦争の記憶に関する日本人のアムネシアは激しいが、フィリピン人だって忘れつつあるのも事実。バギオの人々が日本や日本人に寄せる思いは、おそらく戦後60年以上が経ち、いまようやく戦争前に日本に抱いていたような憧れに近い気持ちに近づいているのかもしれない。かつて戦前、日本人の雑貨屋に外の世界の香りを嗅いでいたように、日本食や日本のファッションに、熱い視線を寄せている。日本文化の紹介や日本語教育、アーティストの交流など、特別な“縁”で結ばれた、このバギオでやることはたくさんある。今年の9月からは、このアボンに国際交流基金ボランティアの派遣も計画している。


          ボランティアの学生さん


 もちろんそうした日本との特殊な関係以外にも、バギオは文化的に非常に重要な意味を持つ。ここは北ルソンの山岳地方(コルディエラ)文化の中心地で、ユニークな芸術家のコミュニティーがある。実験映画の世界で有名なキッドラット・タヒミックという映画監督もここに住んでいる。ちなみに彼は国際交流基金との関係も深く、かつて基金の支援によって日本で「竹寺」というドキュメンタリー映画を製作した。度々日本を訪れていて、純粋なフィリピン人だが、“イナズマ・ヒカリ”という日本名も名乗る。片時もビデオカメラを離さない、とにかくクレージーなアーティストだ。バギオのアートコミュニティーについては、いずれ別の機会にレポートする。

 フィリピンの日系人にとって、カルロス氏の存在はとても大きい。すさまじい戦争体験や、“自分は一体何人だろうか”という疑問。日本に戻りたくても、戻れなかった多くの人々。彼はそうした日系人の、“棄民”としての歴史と苦悶を背負っている。けれど今の彼からは、日本という国に対する恨みつらみの言葉は聞かれない。それどころか、周りの誰しもを包み込むような大きな包容力を感じさせる。そんな彼の存在を通して、昭和30年代生まれのこの僕が、戦争の記憶を感じるとることに一体どんな意味があるのだろうか、と考える。

 別に格好つけるわけじゃないけれど、アムネシアに抗うこと。とりあえずそれこそが、いまの僕にできるほとんど唯一のことだと思っている。自分の元に送られた様々な企画書の中で、例えば元“従軍慰安婦”(フィリピンではほとんどのケースがレイプだと言われている)に対する癒しのためのアートワークショップや、レイテ戦でマッカーサーの上陸地点となった街、パロで行われるフェスティバルへの参加要請など、戦争に関連するものがいくつかある。戦争責任というものに真正面から取り組んでこなかった日本の、それも公的機関に働く一員として、戦争の問題は、どこかで避けて通りたいと思うところがあるのは確か。しかし、このフィリピンという国で、文化というものに携わる以上、避けては通れないことも時々ある。文化や芸術の重要な役割の一つに、癒しというものがあるとしたら、ぼくはこの国で可能な限りアムネシアに抗いながら、少しでも癒しのための文化交流を続けてゆきたい。おそらくそれがこの国に暮らす自分に与えられた、一つの役割だろうと思っている。
(了)

民衆劇団と国立劇団 ~どちらも骨のあるフィリピンの舞台芸術~

 11月4日フィリピン国家文化芸術委員会から招待されマラカニアン宮殿を訪れた。国際交流基金奨励賞を受賞したフィリピン教育演劇協会(PETA)が大統領表敬を行うので、そのセレモニーへ同席するためだ。現在のフィリピン大統領は第14代のグローリア・マカパガル・アロヨ。フィリピン大学で経済学博士を取った才女、父親も第9代大統領だった政治一家の出身である。マラカニアン宮殿といえば、あのマルコス大統領がテレビカメラに向かって最後の演説をした執務室や、イメルダ婦人の贅沢三昧な生活を映す数百の靴の展示などが思い出される、“歴史的”な場所である。セレモニー・ホールとしてよく使われるのがマビニの間。その前室には1枚が人の背丈以上もある歴代大統領の肖像画が壁にずらりと並んでいて、奥の間にはこの国の有史以来の英雄の肖像画も数多く展示されている。歴史の舞台となり、今もなおそれを作り出している場所には、やはり独特の磁場がある。



 大統領に会えるとあって、私などはさすがに多少晴れがましい気持ちで、フィリピンの民族衣装バロン・タガログなどを着て向かったのだが、肝心の主役であるPETAの現役メンバーが誰一人として来ないということを当日になって知らされ愕然とした。理由は“政治的に中立を守るため”ということだそうだが、ノンポリ的発想からすれば、中立であるのならむしろ大統領への表敬など何ら問題ないわけで、これは明らかに彼らが現政権を支持していないという意思表示なのだな、とすぐに気が付いた。アロヨ大統領については、一族が関係しているといわれる巨額の賭博疑惑、さらには昨年の大統領選挙にまつわる不正疑惑が次々と明らかになり、数ヶ月にわたって国中を二分した非難合戦が行われている。

 結局表敬のほうは現役メンバー不在のまま行われ、PETAの創設者であり、現在は大統領文化顧問として権力の中枢にいて、そもそもこの表敬を仕掛けた張本人であるセシル・ギドーテ氏が自ら表彰台に立つという、“自作自演”のセレモニーになった。実はこのギドーテ氏は、1967年のPETA設立以来、社会運動としてのタガログ語演劇の先頭に立ち、マルコス政権に反旗を翻し、そのために権力からにらまれ、夫の上院議員とともに米国亡命を余技なくされたという経歴を持つ。しかし時代は変転して現在は権力のまさに中枢にいて、PETAを引き継いだ現役世代の反骨精神とは真っ向から対立するという、なんとも皮肉なことになっている。

 私がPETAに初めて出会ったのは1989年。日本のピープルズ・プラン21というNGOの招聘で来日公演。マニラのスラムを舞台にガキ大将を主人公としたミュージカル「カピタン・ポポ」を観たのが最初だ。お世辞にも完成された演劇というわけではなかったが、何故か印象の強烈な芝居だったことを覚えている。おそらく日本ではお目にかかれないメッセージ性の強い作品で、こんな演劇世界もあるんだと妙に関心した。あれから10数年が経過して、今年PETAは「演劇を通しての民衆啓発やコミュニティ形成への取り組み、および日本をはじめ多くのアジア諸国の芸術・市民団体とのコラボレーションの業績を称えるとともに、アジアの芸術ネットワーク形成への今後の貢献を期待して」という理由で国際交流基金の賞を受賞した。大統領表敬を敢えてボイコットするところに、いまもなお頑固に主張する気骨あるPETAの伝統が脈々と引き継がれていると納得した。

 そのPETAの長年の夢であった自前の劇場がこのほどようやく完成して、そのお披露目公演が行われた(10月16日)。演目は「Ang Palasyo ni Valentin(バレンタインのダンスホール)」というミュージカル(ソクシー・トパシオ演出)。第二次大戦前のザルズエラ(スペイン起源のミュージカル)劇場を舞台に、座付きピアニストとスター女優の恋と苦悩を軸にした半世紀にわたる物語。インドネシアにもPETAと同じように“反権力”を標榜してスハルト独裁政権時代に果敢に風刺劇を発表し続けていたテアトル・コマという劇団があるが、そのコマのレパートリーの一つにも「オペラ・プリマドンナ」という戦前の劇団を舞台としたミュージカルがあり、なんとも共通する部分があって面白い。

       PETAのワークショップ

 オープニング公演に続いたのが、メコン流域諸国の演劇人を集めてワークシップと芝居作りに取り組む「メコン・パフォーミングアーツ・ラボラトリー」(10月9日~28日)。中国(雲南)、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイから総勢30名。エイズをテーマに各国ごとに芝居を作り一般公開した。こうした企画はPETAの真骨頂で、自前の劇場も完成して、いよいよアジアの演劇拠点として次のステップに進むための体制を整えつつある。ちなみにこの企画のスポンサーはロックフェラー財団で、私のアジアセンター時代の同僚であるアラン・ファインスタイン氏が同財団バンコク事務所のAssociate Directorになっていてマニラで再会した。同氏によれば、ロックフェラー財団は現在メコン流域プロジェクトを集中的に支援していて(“Learning Across Boundaries in the Greater Mekong Sub-region”)、文化・芸術、食糧安保、衛生などの分野に年間2億円の予算を投入。さすがに米国の民間財団である。「選択と集中」とは本来、こういうことを指すのだろうなと考えさせられた。

 この国の現代舞台芸術史を振り返る時、PETAがタガログ語演劇による一種の民衆運動で重要な役割を果たしたとすれば、国家による文化政策の遂行という意味で重要な役割を担ったのが1969年にオープンしたフィリピン文化センター(CCP)である。

 CCPはマニラ湾に面した広大な土地にあり、コンクリートむき出しの幾何学的で重厚な外観を誇る。もともとマルコス政権時代にイメルダ婦人の陣頭指揮で国威発揚のために建設された。独裁政権からの予算(国民の税金だ)を惜しみなく投入していた当時は華やかなイベントを繰り返し、実験的なこともたくさん行った。マルコス政権崩壊後、“民主的”な大統領のもとでの運営は、予算不足と人材流失に悩まされた。今でもイメルダ時代を懐かしむ人が多いのは皮肉なものだ。ちなみにそのイメルダ(マルコス家)はとっくの昔に復権を果たし、娘が上院議員、息子は県知事、本人も下院議員だ。私もCCPで何度かフィリピン史上最大の芸術の“パトロン”を見かけたが、なんとも複雑な心境だ。

 ところで広く東南アジア全体を見渡しても、CCPほどの国家文化機関は見当たらない。大劇場(1800名収容)、中劇場、スタジオ、映画館、ギャラリー、図書館などを擁する複合施設ということのほかに、多くのレジデントカンパニーを抱える。シンフォニーオーケストラ、バレエ団、民族舞踊団、合唱団、そして劇団。ないのはオペラぐらいで、これだけのレジデントカンパニーを維持するのは大変なことだと思う。インドネシアのタマン・イスマイル・マズルキやタイ文化センターにはレジデントカンパニーは存在しないし、今や舞台芸術の国際的ハブとして目覚しい発展を遂げたシンガポールはそもそも民営が基本。東京の新国立劇場は、オペラはあるが劇団を持たないのが決定的に違う。このCCPの存在は、フィリピンの国情を考えるとまったく奇跡としかいいようがないほどだ。しかし当然運営は非常に厳しく、昨年度の赤字が数千万円。最近大劇場の照明をコントロールする調光卓が故障したが修理する予算すらなく、先日のトヨタクラシック(ブタペスト・オペレッタ管弦楽団)のコンサートの途中で明かりがつかなくなり、10分ほど公演が中断した。



      フィリピン文化センター外観

 そんな厳しい状況の中でも、アーティストたちは頑張っている。現在中劇場ではレジデントカンパニーのタンハーラン・ピリピーノが「ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)」というミュージカルを上演中で、今後の劇団の方向を示す上でとても興味深い。

 「ノリ・メ・タンヘレ」はフィリピンの独立運動に多大な影響を与えた国民的ヒーローであるホセ・リサール(1861~1896)の原作(1887年出版)。おそらくもの心ついたフィリピン人でその名を知らない人はいないだろう。それだけこの国におけるホセ・リサールの英雄化はすさまじいものがある。同じように長い間西欧諸国の支配を受けたインドネシアには、これほどの民族的英雄は存在しない。ストーリーは、イバラという西欧留学帰りの若者が、スペイン修道会の圧制から序々に植民地政策の不条理に目覚めてゆく過程を、幼馴染のクララとの再会と別れというラブストーリーを縦糸にして展開してゆく。

 原作の発表から100年以上の時を経て1995年にミュージカル初演。ビエンヴェニード・ルンベーラ脚本、ラヤン・カヤブヤブ作曲、ノノン・パディーリャ演出。日本でも同年に初演、さらには国際交流基金が続編の「エル・フィリブステリスモ」と2本立てで招聘し、再演された。この作品自体はアマチュア劇団や映画やテレビで何度も扱われているが、タンハーランとしては今回の公演が10年ぶりの新演出。今シーズンから若手演出家のハーバード・ゴーを新芸術監督に迎え、新しいタンハーランを印象付ける機会となった。私が見た公演は高校の貸切公演だったため劇場内は若者の熱気であふれていたが、その熱気に負けない熱い舞台だった。秀逸だったのが実験的な舞台セット。床全体を木材で組んだスロープ形式、それも波打つ坂道のようにして、そのスロープの各所に役者を配し、舞台全体に波動が伝わるダイナミックな雰囲気となり、結果として非常に重層的な群集劇に仕上がっていた。

 新芸術監督のねらいはとにかく若い世代に演劇の面白さ、リアリティーを伝えること。去る8月に行われた彼の芸術監督デビュー作は「R’meo Luvs Dew-Lhiett」(8月5日~9月18日毎週末、演出も同氏)。シェークスピアの定番ラブストーリーを元にして、ヒップホップ世代のマニラの下町を舞台に、“ジョログ”という“不良”言葉が飛び交うスピーディーなコメディに作り換え、連日会場を埋め尽くした高校生から拍手喝采を受けていた。(ちなみにJFマニラ事務所前副所長の上杉氏が“パリス”役で出演した。)そして今回の「ノリ」では自らの大学時代の同級生を演出家(ポール・モラレス)、セット・デザイナー(クリント・ラモス)に抜擢し、見事に成功した。いずれも35歳の俊英だ。

 1960年代後半にほぼ時を同じくして誕生した民衆劇団と官製劇団。当然のことだがリーダーは世代交代する。けれどもその反骨精神や実験精神は受け継がれ、彼らが牽引役になって、フィリピンの舞台芸術はその裾野を広げている。こちらに来て何本もミュージカルを観たが、時々つくづく思うことがある。日本でもいくつか気の抜けたようなミュージカルを観たが、日本で何十年やってもおそらくフィリピンのミュージカルの水準には追い付かないのではないだろうか・・。でもいくら素晴らしくても、フィリピン製ってことで簡単に済んでしまうことがあまりに多い。

 PETAの奨励賞受賞を祝うマニラでのレセプション会場で、代表のガルーチョが言った言葉は忘れられない。彼女は東京での授賞式のハイライトでもある天皇・皇后両陛下への拝謁を行ったが、現天皇の父である先の昭和天皇は、この国で100万人といわれる犠牲者を出した第二次世界大戦の時の最高責任者。拝謁することに抵抗はなかったかと素直に聞いたところ、「あの戦争は私たちの(あなたの)世代が起こしたことではない。今回日本の天皇に会えた意味は、それよりも別のところにある。日頃フィリピン人は日本人から下に見られていると思う。問題なのは、それをフィリピン人も感じとっていること。今回天皇に拝謁したことで、わたしたちのイメージを少しでも変えたいし、もっと誇りを持つようにフィリピン人にも伝えたいと思う。」

 その言葉は今でもぼくの喉の奥に、魚の骨のように突き刺さったままだ。
2005.11.21

2006/02/26

こんな時にコスプレしている場合? “非常事態宣言”下のポップスコンサート

 2月24日金曜の昼、フィリピン全土に衝撃が走った。アロヨ大統領がクーデター計画を未然に察知して国軍の幹部を逮捕し、“国家非常事態宣言”を発出した。というか、出してしまったのだ。自宅にいた私は、事務所の同僚からの第一報を受け、すぐにテレビのニュースをチェック。街頭を埋め尽くしたデモ隊と当局とがにらみあう様子が生々しく伝えられていた。

フィリピンでは2月22~25日は「エドサ革命記念日」といって、マルコス政権を倒した“ピープルズ・パワー”を讃える日。それも今年は20周年という特別な年だ。威圧する戦車を目の前に、民衆の先頭に立って国軍と対峙したシスターが、こともあろうに兵士に向かって一輪の花を手向けたシーンは、今も人々の記憶に残っていることだろう。そんな現代の無血革命を再びと、その日は多くの民衆がエドサ通りの革命記念碑を中心に集まって、大統領退陣を要求していた。そんな矢先に“宣言”が出たことで、デモ隊の群集に油が注がれて事態は緊迫度を増していた。

 一報を受けてまず考えたことは、これで明日(2月25日)のポップスコンサートを中止にしなくてはいけなくなるのではないかということ。日本からコア・オブ・ソウル(COS)というグループが来比していて、フィリピンの人気ミュージシャン、HALE、キッチー・ナダル、バービー・アルマルビスの3組とライブをする予定だった。コンサートの予定会場は、これが運悪く革命記念碑から10キロ程度しか離れていないエドサ通り沿いにあるショッピングモールの野外会場。“非常事態宣言”で集会が禁止となり、いまや反政府勢力のメッカとなっている拠点から至近距離の野外で、しかも夜の公演。フィリピンの人気歌手が出演とあって、かなりの数の観衆が予想される。誰だって躊躇して当然。絶体絶命だった。


 しかし結果的にはコンサートを決行したうえに、神様の仕業かどうかわからないが、これ以上人が集まったら会場はパンクぎりぎりという2000人ほどの観衆を集めて大成功。路上に座り込む人たちや何重もの人垣で、実際何人来てくれたのかカウント不可能だった。こちらではほとんど知名度ゼロと思っていたCOSの曲を知っている人たちもいて、J-POPファン=日本アニメファンの底深さを垣間見た。フィリピン人出演者も今が旬のアーティスト揃いで、ミュージシャンと観客との一体感にあふれた素晴らしいライブとなった。3時間に及ばんとする公演の最後の曲、COSの「パープルスカイ」を聴きながら、私はおおよそ1年前のソウルの夜のことを思い出していた。

 国際交流基金の主催事業としてはおそらく初めてとなる海外でのオールナイトイベント。日本から10組のDJやバンドなど総勢80名のメンバーが、ソウルのホンデという音楽の街でライブを行った。しかしそのライブを実現するまでに、多くの関係者が苦悩した。公演の準備をしていた3月中旬、島根県議会の「竹島の日」条例制定を機に“竹島問題”が勃発。韓国メディアは反日一色になり、韓国側メインスポンサーが急遽降板したり、共催者の韓国クラブ文化協会にはいやがらせの電話が相次いだ。

 ほとんど中止にしようと考えていた私を思いとどまらせてくれたのが、そのクラブ文化協会の代表であるチェ・ジョンファン氏の一言。“竹島問題は国家間の政治問題。政治と音楽は別。ホンデという街を誰もが音楽を楽しめる街にしたい。いまこのプロジェクトを中止にしたらホンデに未来はない。私はこの街の若者を信じている。”彼は50歳を越えたばかりの活動家で、かつてはバリバリの反日だった。私はこの一言でコンサートの実施を決心した。そして代表の言葉通り、韓国と日本の若者はその日、思いっきり音楽に酔いしれた。嫌がらせやトラブルは一切無かった。多くの人々でごった返すホンデの路上に出現した巨大テントの中で、ソウル・フラワー・ユニオンという日本のロックバンドが歌った「アリラン」を、私はいつまでも忘れないだろう。

 それから約1年が経過して、今度はフィリピンで同じようなぎりぎりの選択を迫られることになった。ただし今回の場合はチェ氏のように全幅の信頼を置ける人はいない。最後は自分で決めなくてはいけない。私はソウルの夜のことを思い出した。あの「アリラン」や、音楽に酔いしれて入り乱れる日韓の若者たち、そして多くの人々との出会いを思い出していた。中止にすることは簡単。でもぎりぎりまで待つ・・。

 フィリピンでは現在、反政府運動に最早かつてのような広汎な市民の支持はない。国軍や政界に隠然たる力を持っているラモス元大統領が暴力革命を支持しないと明言したことで、政治色のないポップスコンサートが混乱を招くことはありえないと判断し、最終的に実施を決断した。本番開演5時間前のこと。でも最終的に私を思いとどまらせたのは、コンサートを待ち望む多くの人たちの見えない力だったのかもしれない。

 予想通りライブはまったく平穏に、多くの観衆の黄色い声援に包まれた。そんなライブ会場で驚いたのは、観客の中に“コスプレ”のコスチュームでやって来た学生が何人かいたことだ。“非常事態宣言”と“コスプレ”との間には計り知れない距離が横たわっているように思えた。どう考えても理解できないミスマッチに私の頭は若干混乱した。

 20年前の同じ日、政権に最後までしがみついたマルコスを引きずり降ろして世界中から喝采を浴びたフィリピンの“ピープルズ・パワー”(エドサ革命=エドサ1)。その後2001年には、汚職疑惑にまみれたエストラーダ政権を崩壊に導いた(エドサ2)。しかし今回、“エドサ3”はなかなか成就しない。というより、一向に改善しない社会格差、政権が代わってもなくならない汚職や社会不正、そんな国家の深刻な課題を放棄して政争に明け暮れる政治家や軍人たち、多くの良識ある若者の間には、確実に政治への無関心が広がりつつあるのだろう。“ピープルズ・パワー”が死んでしまったか否か、私にはまだ判断はできないが、このコンサートを通じて見えてきたものは、大多数の無関心層と先鋭化した少数の反政府勢力という、この国の二極分化の姿だ。こんな時にコスプレしている場合なの?・・と思う一方で、黄色いスーツを颯爽と着て反大統領デモの先頭に立つコーリー(アキノ元大統領)を眺めながら、千載一隅のチャンスであった農地改革に失敗して社会格差是正の機会を失い、この国の民主主義に喪失感という深い傷を負わせてしまった責任は一体誰にあるのだろうか、とも思うのだ。

 エドサ革命の際に高らかに歌われて“第二の国歌”とも言われた「バヤンコ(我が祖国)」。今でも反大統領デモや集会で歌われている。私もかつては覚えていたけれど、今はほとんど歌えない。自分がまだ学生の頃、テレビにかじりついて感動的に見守っていたエドサ革命。ちょうど20年が経過して、自分はそのエドサで、「非常事態宣言」を無視して若者たちのきらきらした目に囲まれて、「バヤンコ」ではなく、COSの「パープルスカイ」を歌っている。アイロニカルだけれども、これが今のフィリピンの現実だ。




 その夜のコンサートに集まった彼ら、彼女たちの明日が明るいなどと決して思わないが、「非常事態宣言」を無視して、思いっきりおしゃれをしてコンサート会場にやって来るその心意気に、この国を別の方向に導くかもしれない新しい世代が生まれつつあることを実感した。

2006.2.28
(了)

2006/02/21

日比をつなぐ“ふたつの血” 日本語スピーチコンテストを制した若きトップランナー


 全世界で250万人以上が学んでいると言われている日本語。日本語を始める動機は人それぞれだが、今の若い人なら“日本のアニメや漫画が好きだから”というのが一般的で、もうちょっと年上だと“就職に役立つから”といったことが多い。テクノロジーとポピュラーカルチャー。これが大多数の外国人がまずは抱く日本のイメージ。

 しかしこの世界には、そうした表象的なイメージを通した日本とのつながりよりも、もっと生々しく、そして残酷なまでに運命的に日本とつながっている場所もある。

 日本語スピーチコンテスト。世界各国で日本語を学ぶ人たちのために行われる一大イベント。フィリピンは今年で33回目を迎え、去る2月18日に開催された。会場となったショッピングセンターSHANGRI-LA PLAZA MALLの映画館は大勢の聴衆で満員となり、期待と適度の緊張感に包まれた。日本語の学習時間数などによってビギナー部門とオープン部門に分けられて、それぞれ5人と7人が5分ずつのスピーチを行った。私は主催者である国際交流基金マニラ事務所の所長として審査に加わったので、審査の内部情報については書くことはできないが、個人的な感想として圧倒的に印象に残っているのは、ミンダナオ島南部の町ダバオからやって来た二人の若者のことだ。この二人はおそらく私だけでなく、多くの聴衆に強い印象を残し、オープン部門の1位と2位を受賞した。

 1位のクリス・ランス・ラサイ君はダバオにあるミンダナオ国際大学の3年生。ハイスクールが4年制のこの国では大学3年生でもまだ18歳。ちょうど日本の大学1年生と同じ歳だ。スピーチのタイトルは“ふたつの血”。ダバオからさらに南に車で40分のところにある生まれ育ったトリルという町の日系人についての話。大学の授業で戦前の日系麻農園の調査をした時の老人たちとの対話が彼のスピーチのテーマだった。

 ちょっと長いが引用する。
 「当時、トリルでは日本やアメリカ軍の船に使われる麻を生産していました。だから高い値段で売れるので、給料も高く、フィリピンだけでなく、日本からも多くの働き手が集まって来ました。その後千以上の日本の会社が来て、近代的な産業を作ったそうです。しかし私がもっと驚いたのは、二万人以上の日本人がダバオやトリルに住み、日本人がフィリピンのもとで働き、日本人のもとでフィリピン人が働く。国籍や習慣を超えて、五十年もの長い間、協力して平和に暮らしていたことです。今わかっているだけでも、トリルの人口の十人に一人は日系人です。これは日本人とフィリピン人が仲良く暮らしていた証なのに、素晴らしいことなのに、フィリピン人はこのことを知りません。」

 私自身もフィリピンにおける日系人の問題について詳しく知ったのはマニラに赴任してからだ。聞けば聞くほど、これまでの自分の無知に、そして大多数の日本人の無関心に疑問が湧いてきた。日本からの移民労働者の歴史は今からおよそ100年前に遡る。ルソン島北部山岳地帯の道路建設に携わったのを契機に移民労働者が次々と送りこまれ、ダバオに麻(アバカ)農園が開拓されて活況を呈し、最盛期にはフィリピン全土に3万人、その内ダバオには2万人の日本人がいたという。現在フィリピンの在留邦人は13,000人だから、その2倍以上いたことになる。国際化とはいうけれど、日比関係については戦前のほうがむしろ進んでいたのだ。

        ダバオ開拓の”父”太田恭三郎の碑


 ところがこの日本人移民労働者とその家族の生活を戦争が根本から破壊した。150万人以上が亡くなったといわれる戦争の後、日本人である彼らはフィリピン人からの報復を恐れ、ある者は山中に逃れ、逃げずともその出自ゆえに社会の底辺に置かれざるをえず、日本政府の支援もなく、文字通り“棄民”として艱難辛苦の日々であったそうだ。その様子は大野俊著「ハポン-フィリピン日系人の長い戦後-」(第三書館、1991年)に詳しい。

 1980年代になって日系人の困窮を目の当たりにした帰還兵や元ダバオの日系人が中心になり、救済運動が始まった。NGOや宗教団体の支援のもとに日系人組織を作って生活支援や権利保護が行われた。いまではダバオ市内に立派な日系人会館があり、会員は5500人。間違いなくアジアで最大の日系人組織だ。会員の中にはまだ1世も4名存命で(昨年10月現在)、既に5世の会員まで誕生している。

 こうした日系人に対する支援の中で最も重要な活動が日本国籍の取得問題である。つらい苦しい“無国籍状態”に関心が向けられたのが80年代後半になってからで、日本の厚生省の調査団が送られたのが1988年。親が日本人と証明のできる二世はほぼ皆日本の国籍を取得しおわっているが、現在の問題はそれが証明できない人たちが約800名いること。しかしそれもついにこの2月2日に、フィリピンで初めて、父親が日本人であることを書類によって確認はできないが、状況証拠で日本人であると認定して新たに戸籍を認める“就籍”の第一号が誕生した。実はこの“就籍”、中国の残留邦人のケースはこれがほとんどで、既に6,000人以上が日本国籍を認められて永住帰国している。中国残留孤児のことは誰でも聞いたことがあるだろう。しかしフィリピンの“孤児”たちは、いかに長い間世間から無視され続けてきたことだろう。

 同じ日本人として、かくも異なる境遇に置かれた人たちが大勢いること、仕事や旅行でこれまで何度もアジアを訪れていたのに、アジア最大の日系人コミュニティーについて、その存在すら知らなかったことは、少なからずショックだった。ショックついでに言えば、日系人問題はこの戦前からの日系人(“旧日系”という)問題のみならず、いわゆる“ジャパゆきさん”と日本人の父親の間に生まれた混血児、通称“ジャピーノ”、もしくは“新日系”の問題も深刻だ。2004年には日比国際結婚が8500件。この10年で毎年6000~7000件の結婚があり、既に10万人以上の“ジャピーノ”がいると推定されている。彼ら、彼女たちの多くは父親が不在である。そして今後もその数は増え続けるであろう。フィリピンと日本との間には、なんとも絶ちがたい濃い関係がある。しかしいずれにしても、このアジアにおける最大の日系人コミュニティーの存在は、色々な意味で今後ますます注目されてゆくのは間違いない。文化交流というジャンルにおいても、彼らが重要なアクターになる日はそう遠くない。その意味でも無関心ではいられない。


            ミンダナオ国際大学

 昨年の10月、「ハポン」の著者であり、その時期に国際交流基金の客員教授としてマニラに派遣されていた大野教授とダバオに向かい、ミンダナオ国際大学を訪問した。この大学は日本のNGOの支援を受けて設立されてまだ4年目の大学だが、250名の学生がいる。日本から5人もの常勤の日本人教師を受け入れ、比較的恵まれた環境で日本語を学んでいる。多くの学生の夢は日本語をマスターして日本で働くこと。今回スピーチコンテストで受賞した二人はそんな学生たちのトップランナーだ。

      ミンダナオ国際大学の学生たち


 実はダバオと私の縁は25年前に遡る。まだ自分が高校2生の頃、当時一種のブームでもあった“南北問題”についてのある大学の懸賞論文に応募して佳作となり、それがきっかけでフィリピンを訪れた。ダバオではコプラのプランテーションや海洋民族(バジャオ)の水上部落を訪問し、地元の高校生たちと交流した。今でもその印象は強烈に残っている。日本では想像もできない貧困というものに出会ったが、そうした厳しい現実とは裏腹に、人々には奇妙にも不釣合いな幸福感が漂っていたのを覚えている。その幸福感とはいったい何なのか、とても気になってその後何度もアジアを旅し、気付いたら自分はこの仕事を選び、こうしてフィリピンに戻って来ていた。そして今は逆にダバオの若者を日本に送り出す側にいる(1位の副賞は日本での研修旅行)。

 「戦後、日系人はいじめられるので名前を変えて、静かに暮らしていました。でも、小さな村では名前を変えてもわかるので、山の奥に隠れ、また、わかるともっと山の奥に家族と三十年も逃げました。みんな、ずっと服は一枚だけでした。本当のことを話すと、こんな悲しい歴史を私は知りたくなかったです。それは私だけではありません。フィリピン人にとっては忘れたい歴史だから、戦前の素晴らしいこともみんなに伝えなかったのだと思います。インタビューの最後に、「よく我慢しましたね。」と、私がおばあさんに言うと、「ふたつの血が流れているから強いんだよ。」顔は涙でいっぱいでしたが、おばあさんの言葉は二つの国が、昔のようにもっと強く協力できる日が近いことを、私に教えてくれているように思いました。」

 若い18歳のまっすぐな眼差しの向こうには何があるのだろうか?

 私は16歳の夏、このフィリピンと出会った。しかし、彼にとっての日本とは、私にとってのフィリピンとは比べものにならないくらいにずしりと重く、深いものかもしれない。

2006.2.21
(了)

2005/10/11

ミンダナオの豊かな文化とテロリズム

 「アルンアルン・ダンス・サークル」は、マニラ首都圏郊外の閑静な住宅街で舞踊スクールを運営している。日曜日の午後になると、そのスクールには小さな子供から壮年女性、そして聴覚障害を抱えた女性まで20名近くの生徒が集まってくる。中には男の子や青年もいる。ここで教えているのはミンダナオ島の南西に連なるスールー諸島に伝わるパンガライという伝統舞踊。講師はリガヤ・フェルナンド・アミルバンサさん。還暦を過ぎてもなお気品の漂う女性だ。腰をかがめたままで独特の摺り足で移動する。手は複雑に波打って、その指先は極限のように反って、激しく揺れる。バックに流れている音楽は、クリンタンガンという簡素な真鍮製打楽器の音だ。私もトライしてみたが、決して激しい動きではないが、重心を常に低く保ち、それでいて全身各所にバランスよく力を入れなくてはならず、見た目以上にとてもハードな踊りだ。

 リガヤさんの経歴はとてもユニークである。生まれはマニラ。父親はマニラ首都圏のマリキナ市長という“良家”の娘で、いわば生粋の“低地キリスト教徒”。母語はタガログ語だ。大学時代にスールー海の盟主であるタウィタウィのスルタンの弟と知り合い、恋に落ちて結婚。その後1969年にパンガライの踊りに出会ったことで、その後の彼女の人生を決定的にした。スールーに住んでパンガライの研究を進める一方、スルタン家の一員として地元の伝統文化の保存と振興に取り組んだ。83年には長年の研究成果をまとめて「パンガライ」(アラヤミュージアム出版)を出版して、同年のナショナル・ブック・アワードを受賞している。夫の死後、99年にマニラに移住し、アルンアルン・ダンス・サークルを設立して現在に至っている。

 スールー諸島といえば、外国人の私などにはまず、イスラム過激派アブサヤフ(アラビア語で「父なる剣士」)の本拠地という危険なイメージが強い。アルカイーダから資金協力や軍事援助を受けていると言われていて、2000年頃より外国人を集団誘拐するようになり、昨今はフィリピン各地でのテロの主犯グループとされ、国際的にも注目されている。さらにアブサヤフ以外にも、スールー諸島を含むミンダナオには、モロ・イスラム解放戦線や、フィリピン共産党新人民軍(NPA)など、国際社会、特に米国が“テロリスト”と名指しして神経を尖らせているグループの拠点がある。最新の情報では、先日のバリでの自爆テロをはじめ、インドネシアで再三にわたってテロを起こしているジェマア・イスラミア(JI)の幹部も潜伏中と言われている。この地域は、一部の例外を除いていまや外務省の海外渡航情報でも「渡航の延期ないしは渡航の是非を検討する」必要がある地域であり、実際の距離よりもはるか遠くに感じる場所だ。

 しかしミンダナオは、1521年にマゼランがフィリピンを“発見”するはるか前から、香料の中継貿易などで繁栄を謳歌し、イスラム教徒による王国が存在していた先進地域だ。その後のスペイン統治333年の間、一度も征服されたことはなかったが、スペイン人から「モロ」(8世紀北西アフリカからイベリア半島に侵入したイスラム教徒に対する蔑称)と呼ばれ、カトリック教徒との分断統治が行われた。それを継いだ米国統治、さらには第二次大戦後のフィリピン政府も、積極的にキリスト教徒のミンダナオ移住政策を進めた結果、「キリスト教徒による政治的支配の押し付け」、「父祖伝来の土地の収奪」というイスラム教徒側の不満は高まり、紛争が絶えなかった。そして今世紀、テロが世の中を覆う時代となり、イスラム過激派に拠点を提供する“危険な”地域として世間の注目を集めるようになり、文明の衝突論にもあおられて、“ミンダナオ・イシュー”はイスラム教VSキリスト教問題としてクローズアップされるようになった。

 けれどもミンダナオは、無論テロリストの巣窟ではないし、イスラム教VSキリスト教の問題だけが重要なのではない。ぼく自身、マニラに着任してまず巡り会ったミンダナオの文化は、イスラム教やキリスト教伝来より以前の、“ルマド”と呼ばれる先住民族の文化の流れをくむエスニック音楽だった。

 マニラに来て4ヶ月間、色々なライブに行ったが、これまでに何度も足を運んだのがケソン・シティーにあるCONSPIRACYというライブハウス。“共同謀議”という、なんとも素敵なネーミング。50人も入ればいっぱいになってしまうお店は、いわばこのあたりのインテリのサロン。近くに国立フィリピン大学があり、毎週月曜日は“文学作家の夜”なる定例集会もある。オーナーは国際交流基金がかつて招聘し、いままで何度か日本でライブをしたこともあるジョイ・アヤラというミュージシャン。もう50に近いが風貌はフィリピンのボブ・ディランといったところ。エスニックな音楽をベースに、アメリカン・フォークロックから強い影響を受けて、この国の“民族音楽派”をリードしてきた。いまでもバゴーン・ルマド(「新しいネイティブ」の意味)というグループを率いる。そんな彼はミンダナオ南部の都市ダバオの出身だ。ミンダナオの土地にはノン・ムスリム、ノン・クリスチャンの先住民族が存在する。マノボ、バゴボ、ブキドノン族など17の民族に分れ、少し古いが1990年のセンサーでは、ミンダナオ全土の人口1400万人のうち、約70万人。彼らは自らを総称して“ルマド”と呼んでいる。その多くが今は山岳部に追いやられ、経済発展から取り残された暮らしをしている。

 さらに、今ぼくが最も敬愛するミュージシャンの一人である、シンシア・アレクサンドラは彼の妹だ。シンシアは、いまや実力、人気ともにお兄さんをしのぐ勢い。マニラにやって来て早々、フランス政府主催の文化イベントである「フェテ・ドゥ・ラ・ミュージック」(6月18日、会場:ポディウム他)を見る機会があった。3ヶ所の野外会場に5つのライブハウスで、夜を徹して総勢150組のグループが出演する一大音楽イベントだ。シンシアは、そのイベントのメイン会場のプライムタイムに出演していた。2000人は超すであろう若者の熱狂で、息苦しくも熱い暑いライブだった。彼女は、決して大衆的な人気があるというわけではないが、この国の文化エリート層に確かに支持されている。エスニック音楽をベースに、米国風のスピリットを兼ね備えた特色あるオリジナル曲、挑発的で鋭角的なルックスにハスキーで印象的なボイス、そして天才的ともいえる演奏テクニック。アジアでは稀有な女性ミュージシャンだと思う。

 ついでに“ルマド”関係で紹介すれば、日本でも何度か公演し、国際交流基金も支援しているアジア・ファンタジー・オーケストラ(AFO)のソロ・シンガーであり、魅惑的としかいいようのない不思議な歌声で知られるグレース・ノノも、“ルマド”(マノボ族)の一員である。また、この10月に東京で開催されるアジア・ミーツ・アジアという小劇場フェスティバル(10月17日~23日、会場:麻布die pratze他)で公演するIPAG (Integrated Performing Arts Guild) は、ミンダナオ北部のイリガン市を拠点にしている劇団(1978年設立、冒頭で紹介したリガヤはその創設者の一人)。“ルマド”、“モロ”、“キリスト教”というミンダナオの三大文化から様々な要素を取り入れた舞踊や演劇作品を創作している。東京公演の作品は、カンボジアの影絵劇団とのコラボレーションだという。この“ルマド”をめぐる問題はいずれまとめてレポートする。

 ミンダナオは、テロリストの巣窟として危険視されるところなどではなく、本来は文化的に非常に奥深いところ、観光資源も豊富な豊かな土地なのだ。

 いまやスールー諸島で、伝統的舞踊を正統に承継しているのはリガヤのグループのみといわれる。彼女がいなかったら、もしかしたらパンガライは既にこの世から失われていたかもしれない。そんな踊りを観ながら、私はインドネシアの仮面舞踊の復興に携わった時のことを思い出した。ジャワ島北岸のインドラマユという町に住んでいた、ラシナというおばあさんただ一人の記憶の中だけに残された仮面舞踊。娘の世代になって経済的理由から踊るのをあきらめたが、一人の民族音楽者の尽力で30年の時を経て再び踊ることを決意した。国際交流基金の支援もあって楽団を復興し、日本公演も行い、その後は世界各国から招聘されるようになった。その踊りは今しっかりと孫娘に受け継がれている。そのプロジェクトには米国人のドキュメンタリー作家も加わった。その映画のタイトルが、“Library on Fire”。もし図書館が火事になったら、私たちはどうするだろうか?図書館には人類の英知がつまっている。でも、ある選ばれた人間の記憶や体にも、図書館と同じ類の知恵がつまっている。それがこの世から永遠に失われてしまうとしたら・・私たちは、手をこまねいて見ていられるだろうか?

 リガヤさんと、リガヤを支えるNGOを組織するテレサさんとの話は尽きなかった。彼女たちの夢は、いまやリガヤにとって第一の故郷となったタウィタウィにあるモスクに、スールーの誇る文化を、パンガライの踊りを後世に伝える博物館を作ること。そして、かの地の子供たちにその踊りを伝えてゆくということだ。私が、“いずれ安全になったらタウィタウィを訪れたい”と言うと、“今でも私が一緒なら絶対に安全。100%誘拐はない”と言って屈託なく笑った。さすがにスルタン家の一員、確かにそうだろう。

 ミンダナオを考えることは、この国の将来を考えることだと思う。もちろんミンダナオが対テロリストの主戦場となったら、フィリピンはおろか、東南アジア一帯が不安定になるのは間違いない。その意味で我々日本人も無縁ではない。パンガライの踊りを後世に残すということは、火の付きかけた大切な図書館を守るという意味でとても重要なことだ。けれども、文化の保存という問題にはさらに重要なことがある。保存する行為は確かに重要だけれど、それ以上に大事なのはリスペクトする気持ちだ、とつくづく思う。マニラでは時々“モロ”にまつわる差別問題とか、それ以上の無視や無知といったものに出会うことがある。その時、何故に、あの豊かなミンダナオの文化と恐ろしいテロリズムが共存しているのか・・しなくてはならなかったのか・・という問いに対する答えが隠されているような気もする。いずれにしてもそれは、私がフィリピンにいる限り、ずっと考えてゆかなくてはいけないテーマだと思っている。

2005.10.11
(了)

2005/09/09

アートは訴える・・過激なフィリピンアートの過去と現在


 東京国立近代美術館で開催中の「アジアのキュビズム」展(主催:国際交流基金等、10月2日まで)のポスターとフライヤーに使われている絵、『キリストの磔刑』は、フィリピンの画家アン・キュウコク(1931~2005)という人の作品である。残念なことにそのアン・キュウコクは私のフィリピン赴任の直前、5月9日にこの世を去った。私は赴任して早々、そんなことも知らずにあるギャラリーで彼の作品と出会い、その力強い表現力にただものではない存在感を感じ、ぜひともその作家に会いたくなった。しかしその時既に、そんな機会は永遠に失われていたのだ。

 それからしばらくした7月中旬のある日、上述した「アジアのキュビズム」展の作品集荷のため、キュウコクの国内最大のコレクターであるパウリノ・ケ宅を訪問した際、なんとはなしに、彼の『キリストの磔刑』が展覧会のポスターなどに採用され、コレクターとしてもさぞ誇り高いだろうと話したところ、コレクター氏は顔色を少し曇らせて、「これほどグロテスクなキリストの磔刑像はフィリピンでも珍しいし、(キリスト教保守派からは)批判も大きい。日本では問題ないのか?」と逆に質問されてしまった。その時私は、キュウコクが寡黙な芸術家であり、この国に数いるナショナル・アーティスト(日本の文化勲章にあたる)の中で、ただ一人、その授賞式のスピーチで一言も言葉を発しなかったという逸話を思い出し、きっと彼のアートの根源は、怒りと絶望なのではないかと思い当たった。

 彼はフィリピン南部ミンダナオ島の中心都市ダバオで、中国人の両親のもとに生まれた。彼の生まれた時代のダバオは、多くの日本人にあふれていたが(現在フィリピンにいる日本人は推定15,000人、戦前の日本人は推定3万人)、彼の父親は筋金入りの反日家で、日本の満州侵略を憂えて、息子に「安救国=アン・キュウコク」と名前を付けた。その後彼の家族は、日本軍が市内を占領すると同時に家財を捨てて泣く泣く逃れ、近郊の山中に隠れ住んだという。その時彼は11歳。ちょうどいまの私の息子と同じ歳ごろだ。彼の怒りと絶望は、私たち日本人と無縁ではない。

 その後彼はマニラに出て絵画を学び、34歳でヨーロッパに渡って特にピカソから強い影響を受けた。『キリストの磔刑』は70年代から80年代にかけて、マルコス政権の後半から末期によく描かれたモチーフだ。末期のマルコス政権は、賄賂にまみれた悪名高い政権として世界的にも有名だが、キュウコクはそんな息の詰まる時代に、このような激しい絵を描いていたのだ。フィリピンの美術史家であるアレス・ギレルモは、その著書「Image to Meaning –essays on Philippine art-」(2001年、アテネオ・デ・マニラ大学出版)の中で、「キリストの死は無に等しい、なぜなら宗教は何も救いを見出すことができなかったから」という、彼のその当時のコメントを証言している。

 私はそのコメントを読んで、国も時代も異なるが、1990年代初頭、初めての海外赴任地であるタイのバンコクで、軍事政権末期のやはり思苦しい雰囲気の中、ワサン・シティケットという“抵抗の画家”が描いた一枚の絵、『仏は誰も救ってくれない』に出会った時のことを思い出した。タイでは王権と仏教に対する冒涜は最大のタブー。それと同様に、キリスト教徒が90%以上を占めるフィリピンでは、キリストのイメージは最も重要なイコンである。どの時代でもどんな場所でも、多くの人々がすがりつく信仰に反旗を翻すこと、負のイメージを提示することは、とても危険なことだ。しかし彼のキリストは、引き裂かれた彼自身のよう。キュウコクは“崇高なもの、神聖なもの”を描こうとしたのではなく、地に落ちたキリストを描こうとしたのだと思う。それは怒りと絶望のなせる業だ。

 今月は偶然にも、「アジアのキュビズム」展以外でもフィリピン人アーティストが日本で紹介される。それもやはり“告発”路線のアーティストだ。

 9月28日にオープンする第2回横浜トリエンナーレ。フィリピンから初めて出品作家が選ばれた。アルマ・キントという女性作家だ。日本への送り出しを目前に、作品制作に忙しい彼女のアトリエを訪問した。場所はマニラ首都圏の学園都市として名高いケソン市の中心部。これまでの活動が市の行政当局に評価され、市民の憩いの場所である広大な公園の一角に特別にアトリエを貸与されている。

 その部屋に入ったとたんに目にしたのは、原色の色鮮やかなテキスタイルで縫い合わされ、パッチワークをほどこされた無数のオブジェ。鳥や蝶々やいろいろな動物。天井から吊るされた緑の蚊帳。そして大きく股を広げた女性と拡大された局部のぬいぐるみ。明るいおとぎ話の世界と、見え隠れする際どいエログロ。いったいこれは何なのだろうか・・・。

 昨年の彼女の個展”Soft Dreams and Bed Stories”のカタログに収録されているエッセイ「From Darkness to Light」(メイ・ダトウィン著)は、こんな話で始まる。

 「シャロンが6歳の時両親は離婚し、彼女の母親は次々と別のパートナーたちと暮らすようになったが、まもなくしてその内の一人が彼女を強姦した。(それ以前)6歳まで彼女は母親の手でしばしば“質”に入れられていた・・」

 彼女は、13歳になってようやく性的虐待児童を保護するNGOに助けられたのだが、当時の彼女の症状は、重度のパラノイドと妄想でかなりの重症であったそうだ。現在は無事に社会復帰しているが、そのきっかけとなったのが95年にアルマ・キントらが主宰していたワークショップに参加したことだった。



 アルマはPhilippine Art Educators AssociationというNGOを組織して、アートを通じて性的虐待児童のセラピー活動を行っている。絵を描いたり、様々なオブジェを作ってそれで遊ぶという行為を通じて、語りがたい記憶や苦痛を、個人の内側に押し込めてしまうのではなく、アートの領域に晒し出すこと、そしてそうしたトラウマに苦しむ子供たちの新しい生を復活させること、それが彼女たちの願いだ。

 初めてこの国のアーティストと出会ったのは今から10数年前、1980年代の終わり頃だ。神田の本屋で見つけた一冊のミニコミに書かれた「The Black Artists of Asia(BAA)」というグループの不思議な響きに惹かれて、フィリピン中部のパナイ島のイロイロという町を訪れ、3人のアーティストに会ったのが最初である。その中で今でも印象に残っているのは、骨太の黒い輪郭線で克明にしっかりと描かれた、大きな目をした素朴な農民の像。鋤や鍬とともにライフル銃をかついでいて、どことなくユーモラスだが、実は殺気に満ちているという不思議な油絵だった。隣のネグロス島出身のヌネルシオ・アルバラードという画家の作品だ。

 ネグロス島は当時、“飢餓の島”として世界中に知られていた。島の多くの農民は一握りの大土地所有者の砂糖プランテーションで生計を立てていたが、砂糖の国際価格の暴落によって末端の契約農民の収入は途絶え、多くは飢餓にあえいでいた。極限状態の農民は地主に対して待遇の改善を訴えてストライキを繰り返し、反発する地主側との発砲によって死者も出た。混乱に乗じて反政府ゲリラや共産党の武装組織である新人民軍も多く島内に浸透し、ネグロスは一触即発の危険な状況に置かれていた。アルバラードは危険を承知で島の奥地へ入り込み、おそらく新人民軍の兵士らと寝食をともにして、あの油絵を描いていたのだろう。イロイロで会った時彼は30代の後半。ほかのアーティストとともにBAAを結成し、ネグロスという飢餓の島から世界に向かってアートで告発を始めていたのだ。

 フィリピンにはもちろん芸術のための芸術も多く存在する。「ムーイ・インディ(美しい東インド)」と同じ系譜のロマンチックな写実的絵画も多い。しかし、私は過激な作品が好きだ。そして社会問題のショーケースであるフィリピンでは、社会参画型のアートの“伝統”が綿々と引き継がれている。だからといってアートの役割がアドボカシーばかりとは、決して思わない。当然だけど。けれども、やはりこの国で様々な現実を目の辺りにするとき、アートの果たすべき役割がはっきりと見える場合がある。それはある意味で幸せだと思う。絶望や怒りは決して無力化されてはいけない・・彼ら彼女らの過激な作品を見ながら、そんなことをいつも思っている。

2005.9.9
(了)

2005/08/09

ごちゃまぜフィリピン演劇から、いまのこの国の状況が見えてくる

フィリピンは知る人ぞ知る、パフォーミング・アーツの宝庫だ。

この国に来て早々、独立記念日を祝う前夜祭のイベント(6月11日)を観て、まずは圧倒された。会場となったのは“芸術の殿堂”と言われているフィリピン文化センター。イベントが始まる前から劇場の入り口は100人を超す民族舞踊やブラスバンドの混成部隊でお祭り騒ぎ。その熱気はそのまま会場に持ち込まれ、この国を代表するシンフォニー・オーケストラ、バレエ団、伝統舞踊団、世界的にも評価の高い合唱団、そして現代演劇にミュージカル。スタイルも伝統から現代ものまで幅広く、構成はフィリピンの歴史をなぞるかたちになっている。全てが渾然一体となってテンポよく進行し、クライマックスは「ミス・サイゴン」で見事にミュージカル・スターとして成功(89/90年度ローレンス・オリヴィエ賞最優秀女優賞受賞)したレア・サロンガの独唱。そして出演者、観衆が一体になっての国歌斉唱。なんとも熱気に包まれたハロハロ(タガログ語で「ごちゃまぜ」)な国家イベントだった。しかし、そのハロハロさに、この国のパフォーミング・アーツの将来を左右する鍵があると思った。

そんな宝庫の中で、最近面白いと思った二つの演劇についてレポートする。

まずはコミュニティー演劇。フィリピン経済の大動脈マカティ市から車で1時間半。マニラ首都圏の北にブラカンという州があり、そこの州都マロロス市の劇団を訪問した。当日は1日3公演のうち最も早い午前の部。朝から250名収容の小さなスタジオ形式の劇場は、400人を超える子供たち(小学校の高学年が中心)でむせ返るほどの熱気に包まれていた。演目はシリアスな家族崩壊の物語と、フィリピンの様々な代表的キャラクター(米国留学帰り、ヒップホップ少年、スターバックスのウェイトレス、山岳民族、イスラム教徒、そしてゲイ少年)をカルカチュア化したコメディー作品の二本立て。食い入るように見つめる子供たちの目と目。役者の一言一言に一喜一憂し、最後は怒涛のような歓声と拍手。休憩をはさんで2時間の公演は、異様なまでに濃密な雰囲気の中あっという間に過ぎ去った。一体、この熱は何だろう?みんな、何を演劇に期待しているのだろう?

劇場関係者の話によると、子供たちからもしっかりと入場料を取るという。金額にして70ペソ(150円)。映画館でハリウッド映画を見るより若干安い程度だが、子供にしてみれば決して安い金額ではない。しかも近隣の町々からやってくるそうだ。今回の公演では1日3回入れ替えて、合計6日間、18回の公演。毎回大入り満員だという。劇団名はBARASOAIN KALINANGAN FOUNDATION(バラソアイン文化財団、BKF)といい、今年が設立30周年。当初は様々な困難があったが、現在ではコミュニティー劇団としての実績が買われて、州政府から年間20万ペソ(40万円)の補助金と州の文化センター内の劇場(スタジオ)を無料提供されている。40万円の年間補助のおかげで10名近いフルタイムのスタッフを抱えることができる。

この劇団が普通の劇団と異なるのは、そのアウトリーチ・プログラムのユニークさにある。今回見た芝居もワークショップ(WS)の成果発表だった。誰もが100ペソ(200円)程度払えば参加できるWSだが、4ヶ月にわたる訓練の最後にはこうして本公演で結果を出すことが求められる。こうしたWSもこれで25回目になるという。WS参加者に貴賎はない。年齢も小学生から老人まで。学生から社会人まで幅広く、職業も教師、公務員、農民、トライシクル(三輪オートバイ・タクシー)の運転手もいるそうだ。昨年はフィリピン文化センターよりアートアワード(演劇部門)を受賞しており、来年には創立30周年を記念してブラカン州内の地域劇団を集めた演劇フェスティバルを計画中だ。同劇団ほど成功はしていないが、フィリピン国内各地には様々な地域劇団があるそうだ。かつて私がインドネシアに駐在していた時代、地方都市の演劇状況を調べた際にあまりの劇団の多さに絶句したことがある。日本の某著名演出家も同じように驚いていた。経済的には必ずしも恵まれていなくても、演劇はどこにでも存在していた。多くは“アマチュア”劇団だが、プロフェッショナルであるかどうかは次の問題。何より重要なことは、その演劇が生きているかどうか、ということだと思う。

演劇が生きていると実感するのは、こうした演劇の成り立ち方そのものに感銘を受ける時ばかりではない。演劇の中から心ゆさぶるメッセージが発せられ、私たちがいま現に生きている時間と、歴史という大きな時間の流れの間に何かが切り結ばれる時、やはり同じように生きていると感じる場合がある。デュラアンUP(フィリピン大学劇団)によるミュージカル公演「ST. LOUIS LOVES DEM FILIPINOS」(邦訳「セントルイスは民主主義者フィリピン人がお好き」、2005年7月13日~31日、フィリピン大学ウィルフリード・ゲレロ劇場)を観た時にも、生きた演劇というものに出会えたと実感した。なぜそう感じたのか?それは、この演劇がいまのフィリピンの多くの人々の迷いや苦悩、そして誇りや希望を代弁していると思えたからだ。言い換えれば、それがフィリピン人のナショナリズムの琴線に触れる演劇だったからだと思う。

ミュージカルはフィリピンではお家芸のようなもの。俳優の実力ははっきり言って日本以上。冒頭に書いたようにレア・サロンガのようなブロードウェイ・スターも存在する。ちなみに彼女はそのほかにもディズニー・アニメ「アラジン」の主題歌なども歌っていて、我々日本人もどこかでその声を耳にしているはずだ。また、かつて日本でも国際交流基金の主催で、フィリピンの代表的ミュージカル作品「エル・フィリ(原題:エル・フィリブリテリスモ)」が上演されて好評を博した(1995年)。英語が公用語の国だけあって、ブロードウェイやウェストエンドのミュージカルが原語そのままで上演できるため、フィリピン人スタッフ・キャストで頻繁に上演されている。先日も「美女と野獣」(2005年6月、メラルコ劇場、主演:KCコンセプシオン/カレル・マルケス)を観たが、歌のうまさについては舌を巻くほどだった。そんなミュージカル先進国だけあって、オリジナル・ミュージカル作品は数知れない。米国のミュージカル文化が移植されるはるか前、記録に残っている限りでは1629年にスペインの音楽劇ザルズエラが当地に伝えられ、いまでもフィリピン化した“サルスエラ”として上演され続けている。

 さてデュラアンUPの作品も、そうした正統派ミュージカルの系譜に属し、美しく耳に馴染み易いミュージカル・ナンバーには心底感心させられたが、なお尽きない興味を覚えたのがそのテーマにある。1904年、米国のセントルイスで歴史的なルイジアナ買収100周年を祝って万国博覧会が開かれた。1272エーカーという万博史上最大級の敷地に、1576の建物群と21キロの鉄道、のべ1969万人が訪れた(日本も参加)。フィリピンは当時米国の属領として20ヘクタールの土地が割り当てられ、100以上の建物(ニッパ椰子の家からゴシック様式の教会まで)が建てられたのだが、そこに“陳列”するためフィリピンより1200人の先住民が米国に派遣された。このことは当時よりフィリピン人民族主義者から激烈な批判を受け、つい最近まで歴史的汚辱として記録・記憶されてきた事件だ。しかしフロイ・キントスの脚本は、そうしたステレオタイプ化した視点を避け、当時バゴボ族の首領として海を渡った実在の人物ダトー・ブーラン(主演:ミゲル・カストロ)に焦点を当て、米国での成功にかける野望、最愛の妻との別れと新たな恋、夢と現実とのギャップ、凋落、そして祖国への変わらぬ思いと誇りを描き、幾多の言説にまみれた歴史的事件に新たな解釈を提示した(演出:アレキサンダー・コルテス、作曲:アントニオ・アフリカ)。300人程度の小さな劇場ではあったが、超満員に膨れ上がった観客が全員、長い長いスタンディング・オベーションを送り続けるなか、どうしてこれほどまでにみんなが熱狂的になるのだろうか、私はその理由を考えていた。

フィリピンは15年前、歴史の岐路に立たされた。それまでこの国を守っていたのは米軍だったが、91年にクラーク空軍基地を、そして92年にはスービック海軍基地を相次いで米国より奪還した。無論反対派も多くいたが、思い切った政策転換が行われたのだ。それ以来、米国崇拝一辺倒といわれた文化的嗜好にも変化が現れ、自国の固有文化に対する感心も高まった。しかし一方で、米国は依然として多くのフィリピン人移民を受け入れる“希望の土地”であることに変わりはない。いまアメリカを見つめる眼は、憎むべきかつての宗主国か、はたまた憧れの移住の地か、という単純な二律背反的なものだけではなく、もっと多様で複雑である。

この国を代表する歴史家のアンベス・オカンポ(国家文化委員会議長)は言う。「400年に及ぶスペイン支配の“桎梏”、米国による“植民地支配”、日本軍による“残虐行為”。歴史上の数々の事実と虚構。われわれはもう一度クールな眼で、歴史を見つめ直す必要がある・・長い間わたしたちの思考を縛り付けていた“植民地言説”から逃れる努力が、いま始まったばかりである。」私はその日、まさにそのアンベス氏らとともに「ST. LOUIS・・」を観ていた。そして、なんとも表現できない高揚感を共有した。おそらく観客は、「ST. LOUIS・・」という作品を通して、一国の歴史(的言説)を書き換え、あるべき国の姿を求めてゆこうという努力の先にあるものを夢想していたに違いない。それはおそらくナショナリズムの領域だったような気もする。もちろんその意味では私は部外者。でも幸運な目撃者だ。しかしその夜、最も幸運だったのは、そうした高揚感に支えられた演劇そのものだったのかもしれない。
(了)

2005/07/19

35ミリがだめならデジタルがあるじゃないか! ~フィリピン映画の生き残りをかけた新たな挑戦~

 大型ショッピングモールにシネ・コンプレックス。アジアのメトロポリスでは既にありふれた光景となったが、ここマニラ首都圏一帯にも30を超える大型ショッピングモールが存在する。一つのモールに、多いところでは10館以上のミニ・シアターが入っている。主要なシネコンの上映スケジュールは毎日新聞でチェックできるが、やはり目立つのはアメリカ産の映画ばかり。もともとは多様化したミドル・クラスのニーズに応えるためにできたシネコンであろうが、現状はやはりハリウッド製のアクション、SF、恋愛コメディー映画などでほぼ独占状態。香港、台湾、韓国、そして時々日本映画がそれに混じって公開される(例えば現在は、「リング」、「呪怨」などのプロデュースで知られる一瀬隆重氏
が、“Jホラー”と銘打って世界のマーケット向けに鳴り物入りで製作した第一弾「予言」(鶴田法男監督)が公開中。)

 フィリピンの国産映画も非常に苦戦を強いられている。昨年の年間製作本数は54本(フィリピン・フィルム・アカデミー発表)。1996年~1999年の平均が164本、2000年~2003年の平均が82本だから、急激に落ち込んでいるのは明らか。もともとアメリカ植民地時代からハリウッド仕込みのスタジオ・システムを導入して、60年代から70年代にかけては長編劇場用映画だけで年間200本を超え、“黄金時代”を築いたほどの映画王国だった。銀幕のスターが大統領となったアメリカと同様に、アクション・スターから一人の大統領を輩出している(前大統領のエストラーダ。現在汚職容疑で収監中)。スター・シネマ、リーガル・フィルム、CMフィルムスという3大“メジャー”映画会社が、国産映画の製作・配給、外国映画の輸入・配給の多くを支配しているが、一昨年に当地の映画祭でグランプリに輝いた「Crying Ladies」を製作したユニテル・ピクチャーズなど、インデペンデント系の新興会社も数は少ないが存在する。

 さてそんな状況の中、映画界、そして映画界を目指す若者達の熱い期待を担い、フィリピンでは初のデジタルフィルムに焦点をあてた大規模映画祭となる「CINEMALAYA PHILIPPINE INDEPENDENT FILM FESTIVAL 2005」が開催された(2005年7月12~17日、フィリピン文化センターほかの主催)。長編と短編の二つの部門からなるコンペ形式の映画祭で、1年半の準備期間の末に実施された。長編部門では189のエントリーから最終的に9本が選ばれ、共催者であるドリーム・サテライトTVよりそれぞれに50万ペソ(約100万円)の製作費が与えられて本選に進んだ。短編は100を超えるエントリーの中から6本が選ばれた。20代から30代の監督を中心に、新作が長短計15本。これからのフィリピンを担う若い世代の映画に寄せる思い、フィリピン社会への眼差しが俯瞰できるなかなか面白い映画祭だった。15本の新作が描く世界は、ゲイ、レスビアン、売春、犯罪、暴力、貧困とシリアスなものが多いが、心温まる家族愛もある。スタイルはオーソドックなヒューマンドラマから、「呪怨」の影響濃いホラーものや、ミュージカル、アクション・コメディーに実験映画、そしてドキュメンタリー調と、“インデペンデント”というだけあって商業上映を目的とする“メジャー”では決して実現できない多様なものになった。

 今回見た長編6本と短編6本の中で特に印象に残った作品が何本かある。まずはアウレリアス・ソリート監督、山本みちこ脚本の「マキシモ・オリベロスの青春」。スラムで暮らすゲイの少年の淡くほろ苦い初恋の話。この国ではゲイであることをカミングアウトしても日本のように差別されることはない。どこにでもゲイは存在していて、コミュニティーの一要員として居場所がちゃんとある。個性的なキャラクターであることが多く、映画や演劇などでは頻繁に登場する。この作品に登場するマキシモ君も10歳に満たないお洒落なゲイ”少年“だが、スリで生計を立てる一家には既になくてはならない世話役だ。そんな彼がハンサムな若い警察官に恋をした。彼との出会いがマキシモの未来を変えるかにも思われたが、泥棒一家は警察とは対立関係にある。やがて自分の父親が恋した警官の上司に自分の目の前で殺され、彼は自分自身の立場に気づく・・そして自ら彼の元を離れてゆく、というストーリー。基本的には貧困と不条理という厳しい現実が横たわっているのは確かだが、山本の視点はマキシモの世界にとても自然に密着していてリリシズムにあふれている。雑然さと混濁に包まれたスラムの環境と、清純さと洒落たセンスに包まれたマキシモとの対比がなんとも鮮烈な映画である。

 同じく長編の「ルームボーイ」(アルフレッド・アロイシウス・アドラワン監督)は、若い娼婦とその娼婦が常宿としているモーテルのボーイとのラブストーリー。娼婦役の新人女優メリル・ソリアノはこの美しく悲しい娼婦役を軽妙に演じて高い評価を得た。さらに短編では「ババエ(ウーマン)」(シグリッド・アンドレア・ベルナルド監督)が圧倒的に良かった。これもスラムが舞台となっている。二人の幼馴染の女の子が一緒に暮らしながら成長してゆく過程でやがて愛しあうようになり、レイプで身ごもった一方の子供を二人で育ててゆくというお話だが、20分足らずの時間の中で完成度の高い作品を作りあげた。いわゆるレスビアンの話といってしまえばそれまでだが、二人が愛情を育んでゆく姿がペーソスとユーモアに包まれて描かれてゆく。民族楽器を使って現代風に軽妙な演奏をするマキリン・アンサンブルの音楽もいい。貧困、ゲイ、レズ、犯罪などなど、フィリピン社会の底辺ではありふれすぎた素材でしかない。ただそれを描くだけなら、ああまたか・・ということなのだろうが、そう感じさせないところにフィリピン映画界の未来がある。いやというほどそうした不条理と日々格闘し、その上で生きることを肯定し、その醜い現実から一編の真実を掬い取る方法を獲得した人たちのみに与えられた力が、これらの作品のクオリティーを高めていると思った。

 コンペ出品作品以外にも、インデペンデント映画の最近の代表作が特集上映された。その中で際立っていたのは、2003年カンヌ国際映画祭の短編部門でパルム・ドールを受賞した「アニーノ」(レイモンド・レッド監督)や、今年の第7回プラハ国際人権映画祭で最優秀監督賞を受賞した「ブンソー(最年少)」(ディッツィー・カロリーノ監督)。後者はセブの監獄を舞台に、劣悪な環境下で暮らす少年犯のドキュメンタリー映画。2003年の製作だが、映画の“タイトルロール”である主人公の二人の少年は、ドラッグ中毒と交通事故で既にこの世にいない。日本の人たちにはほとんど知られていないだろうが、こうしてフィリピンの映画人は結構頑張っているのだ。

 シネマラヤでは、映画上映のほかにもインデペンデント映画をテーマに2日間のシンポジウムが開かれた。“メジャー”映画の黄金期を築いた先人に対する敬意は忘れないが、この国の映画界は、“メジャー“の世界から逸脱した多くのインデペンデント系の作家を輩出してきており、そのことに対する自負心には大きなものがある。そして現在まさにその”メジャー“が瀕死状態に陥っている中、インデペンデントという言葉に託す思いはさらに強くなっていると感じた。しかもデジタル映像の技術的進歩が、こうした思いを後押ししている。「35ミリがだめなら、デジタルがあるじゃないか。」無論デジタル映像は、いまだセルロイドに追いついてはいない。大画面で、それも明るい画面での画質の劣勢は誰の目にも明らか。しかし、映画を撮る者にしてみれば、メジャーもインデペンデントも、セルロイドもデジタルも本質的には関係ないのかもしれない。ただ映画が撮りたいだけだ。映画研究家のニック・デ・オカンポが言っていたように、映画は常にテクノロジーとともに歩んできた。今後デジタル・フォーマットにどんな運命が待っているか誰にもわからないが、このまま衰退するよりも挑戦することが重要。選択肢はない。この国の文化はある意味で健全だ。革新的なものの多くが周辺から生まれてくるように、どん詰まりに行きかけたこの国の映画界の中から、近い将来、世界をあっと驚かせる傑作が生み出されるかもしれない。
(了)
2005.7.19