2010/02/01

カタリスト(触媒)としての文化交流

 海外にいると、時に外国人だからこそできることがある。旧習やしがらみで縛られた地元の人々には思いもよらないこと。そんな大胆なことが、ある意味”よそ者”であるがゆえに実現できる。バギオに本拠を置くコルディレラ・グリーン・ネットワーク(CGN)が行っている「コリディレラ・ユース・エコ・サミット」という活動を見ていてその思いを強くした。

 バギオからジープニーで北の山中をさらに4時間のところにレパントという鉱山の村がある。山中の村、といより立派な町と言ったほうがいいかもしれない。町全体がLepanto Consolidated Mining Companyの所有する私有地で、従業員は現在千七百名。家族を含めれば約七千名が住んでいて、学校、病院、スーパーなどもある。そんな山中奥深くに、かつて映画館として使われていたというかなり立派な劇場もあり、そこが今回の舞台となった。

 エコ・サミットは今回で3回目。コルディレラ地方の子供たちの環境問題への関心を高め、理解を深めるのが目的。同地方を構成する六つの全ての州(アブラ、アパヤオ、ベンゲット、イフガオ、カリンガ、マウンテン・プロビンス)から代表の高校を選んで、環境をテーマにした演劇作品を創作。自分たちのローカル言語で制作して、一ヶ所に集まって発表するというもの。レパントからもこの鉱山内にあるレパント国立高校の学生たちが参加した。日本人演出家でこのブログでも何度か紹介したことのある吉田智久氏の演出。同氏が作品作りのために各州の代表校で実施したワークショップの記録、コルディレラ山中行脚のレアーな記録はCGNのブログで読める(http://ameblo.jp/cordillera/)。また吉田氏以外にも日本人ミュージシャンや舞踊家が参加してこのイベントに国際交流の花を添えた。私たちも国際交流の活動に対して初回から支援してきた。



 このイベントの仕掛け人はCGN代表の反町眞理子さん。鉱山というと、環境破壊の象徴と見られる存在。しかしそんな象徴の懐で、まさに環境問題をテーマにしたイベントを実施するという大胆さ。最初はホストとしての受け入れにあまり積極的ではなかったようだが、それは反町氏の持ち前のバイタリティーと、CGNスタッフの一人がこの町の出身だったことが幸いして、実現にこぎつけた。開会日にはLepanto Consolidated Mining Companyからも代表が挨拶に現れたし、当日の鉱山の見学ツアーでは、環境に配慮した同社のポリシーを私たち外国人やサミットに参加している高校生に説明していた。

 しかし他のNGO関係者からあとで聞いたところによれば、鉱山開発によって付近の地盤が弱くなって崩落や沈下の問題に悩まされていることもあるようで、やはり環境に対してイノセントではいられない。だからこそ、今回の企画の大胆さがわかる。

 コルディレラ地方は”イゴロット”と呼ばれる山地民族の故郷だ。かつてはヨーロッパからやって来た宣教師などから“首狩族”と言われ、その勇猛さから恐れられた人々だが、別の視点から見れば、スペイン植民地軍に対して頑強に抵抗して十九世紀後半まで独立を貫いた誇り高き民族である。コルディレラ地方は古くから豊かな金の産地として知られ、十六世紀以来その金の魅力に惹きつけられた西洋の探検家や宣教師、そして植民地政府軍とイゴロットとの争いが絶えなかった。その抵抗と帰順の歴史は、『The Discovery of the Igorots(イゴロットの発見)』という本に詳細に描かれている。

 ここで鉱山が本格的に開発されたのはアメリカ時代の1930年代になってから。大恐慌時代の1933年に、ルーズベルトが行った政策によって金の価格が急激に高騰した結果、鉱山の大規模開発に拍車をかけたのだ。そしてこのレパントもその時代、1936年に開発された。金の他に銅も産出するが、今でも1日あたり1,500トンもの土を掘り出していて、(金の平均産出量は1トン当たり3グラム)。既に70年以上も堀り続けていることになるが、まだ新しい鉱脈もみつかっているという。開発当初はアメリカ資本だったが、今では完全にフィリピン資本の株式会社である。

 日本のフィリピン占領時代には、ここは三井マンカヤン鉱山と言われていて、日本人技術者によって操業されていた縁もある。新聞記事が当時の様子を生き生きと伝えているので、長くなるが引用する。

『大阪朝日新聞』 1942.3.27(昭和17)

「比島~装甲車に軽機を据え山から金塊を運ぶ、配当十割の黄金狂時代 金と銅」

【バギオにて 扇谷特派員二十六日発】皇軍の占領以来すでに三ヶ月フィリッピン諸島の中心地ルソン島はバタアンの一角を残しほぼ全島にわたって治安が確立され力強い建設の歩みを踏み出しているが各産業部門に魁けて中でも資源開発は急速調に進められ世界的に有名なバギオ金山ならびに品位の優秀な点では東洋一と称されるマンカヤン銅山がこのほどわが軍により確保された、同時に内地からは早くも三井マンカヤン銅山調査隊団長山下諭吉氏が乗込み警備隊に守られつつ鶴嘴を揮っているなど占領即建設の面目を遺憾なく発揮、フィリッピン資源の扉は今新東亜建設の脚光を浴びて開かれようとしている、記者は一日バギオを訪れ占領下のバギオ金山ならびにマンカヤン銅山の状況を視察、鉱山確保にいたるまでの道路隊や警備隊の苦心あるいはバギオ在留邦人挺身協力の模様を知ることができた、以下はその報告書である。

一、バギオの金山は七つある、海抜六千尺、松の緑に囲まれた山岳都市バギオ市外南方四十キロにわたる山々に一本の金脈が走っている、通称キーンストン金脈とよばれ幅平均十米、長さ七十六キロにわたる金脈である、この金脈を中心に点在するパラドック・ベンゲット・コンソリテーデッド・イトコン・アンタモック・ゴールドフィールド、ビッグウェッジ・バギオ・ゴールド・デモンストレーションなどの金山がこれで開戦前の産金額は七つの金山で全比島の約七割、ここに働く従業員は家族を合せると二万人といわれる尨大なものでこの金山はさる一月はじめバギオ市の皇軍占領と同時に無血占領された、しかもこの占領に当っては勝手知った在留邦人がわづか一名ないし二名で乗込みアッという間に占領したといわれしたがって鉱山附属の重油こそ焼かれたがその他の施設はそっくりそのまま確保されている、愉快なことは各会社とも日米開戦をみこし万一の場合アメリカ本国と交通遮断されることを予想し旧臘鉱山資材のストックを運び終えたばかりで夥しい鉄管やパイプがそのまま残されてあり今後の資源開発に恰好の資材を提供していることである、現在はこの金山を南北両地区にわけバギオ金山生活二十余年という吉本、稲吉の両技師によって管理されているが金景気の時代には各会社とも配当十割、月二回山からマニラ金塊を運ぶときには装甲自動車に軽機を据え強盗の襲撃に備えるという物々しさだったという

二、フィリッピンの宝庫マンカヤン銅山はバギオ市の北方約百六キロにある、最高七千尺、最低三千尺の峰つづきの山々を縫う辺り日本アルプスの燕の縦走路を思わす山道は去る二月バギオを追われた敵によって滅茶苦茶に破壊された、車を駆ってみると脚下はそそり立つような断崖絶壁に深い霧が漂い谷底は見えず見下すと目がくらくらする、ただ酷暑のフィリッピンにここだけは別世界、内地の十月位の温度でどこやらで啼く鶯の声に一しきり故国への感慨を催される、道は屈折が多くて一キロに四、五ヶ所もあり、カーブをきり損ねると千仭の谷底で思わずひやひやする、徐行して進む、ドドドドと山崩れの音がする地質の弱いこの山は山頂からたえず土砂と岩石がころげ落ちてくるのだという、道端に「上前通」という碑がたっている、去る三月六日ここで戦死した上前忠通訳(岡山県)に捧げた道路碑であった、記者は今さらのごとく深山に僅か〇名で日夜敗残の敵と戦い道路修理工事をつづけた藤田隊の地味な努力に思わず頭が下った、同隊岡本俊二中尉(滋賀県庁土木課勤務)はその苦心を左のごとく語る

「敵は火薬を約二万箱も使用しこの山道を約四十ヶ所にわたって削り取った、山の傾斜が約八十度、一本のロープに生命を託してまず足場を作り杭をうち込み橋桁をわたす、橋といっても粗末なものでやっと道と道をつないだのです、敗残の敵は約二百、地の利を知る彼らは我々の手薄に乗じて襲撃する、遂に戦死一、重傷者〇名を出した、殊に朝晩はよく霜が降り内地の十一月ごろの気候、夏服の兵隊さんの大半は下痢するという始末だったが我々はその度にその道は東亜の資源に通ずる道だといい合った、この我々の気持を籠めて各橋には報国、皇国、強国開国、愛国、経国、護国と名づけて進み最後の橋に我々がたえず頭に描いている靖国橋という名前をつけた、この橋を完成した日待望のマンカヤン銅山を目のあたりに見たときは思わず涙が出た」

            フィリピン・ハイウェイの最高地点を通過

             現在のレパント鉱山への入り口

             1954年に掘削された坑道への入り口

 今回の企画がユニークなのは、環境破壊の懐で環境問題を考えるイベントをやるということの他にもう一つある。それは、コルディレラの人々の”イゴロット”としてのアイデンティティに関わる問題だ。古来コルディレラの人々は部族ごとに激しく対立していて、部族間の抗争”トライバルウォー”が絶えなかった。現代になってもさすがに”首狩”の習俗は破棄されたが、まだまだ部族間の争いは多い。昨年、やはり同じイベントでカリンガ州のルブアガンという山の中の町を訪問したが、ライフル銃を持つ男たちに警護された副町長に挨拶した時にはさずがに緊張した。参加する子供たちの親の中には、あんな恐ろしい場所に自分の子供を行かせることができないとむずかった者もいたと仄聞した。

 そんなアイデンティティの錯綜したコルディレラで、6つ全ての州から子供たちを集めて、しかも芝居ではそれぞれ異なるローカルな言葉を使って演じて英語で字幕が付けられる。あくまでも自分たちの足元のアイデンティティを確認しつつ、”イゴロット”としての一体感も醸成しようという野心的な意図がある。

 Gerard Fininというハワイ大学の研究者が書いた「The Making of Igorot: Contours of Cordillera Consciousness(イゴロットの創造:コルディレラ意識の輪郭)」(2005年、アテネオ・デ・マニラ大学出版)という本がある。もともと部族に分かれて抗争に明け暮れていたコルディレラの人々が、歴史的にどのような経緯で”イゴロット”としての一体感やアイデンティティを持つまでに至ったのかを描いているが、その中で、アメリカ時代の鉱山の果たした役割を強調している。大量の労働者を必要とする大規模鉱山が、史上初のイゴロット・コミュニティーを生み出し、それがその後のイゴロットとしてのまとまりの原点となっていったという。



 その意味で今回のエコ・サミットは、結果的にはイゴロット・アイデンティティーにとって歴史的に縁のある地で、現代のイゴロットの若者たちがそのアイデンティティーを確認するという、まさに象徴的なイベントとなった。“よそ者”だからこそできるカタリストとしての役割。それは文化交流という仕事の持つ一つの醍醐味でもある。

1 comment:

pandak said...

鉱山開発は結果的に「よい成果」を生み出さないことはもはや常識?小規模、の枠を使って行われる、たとえばミンダナオ北部の事例などはGMAの許認可権濫用の見本でもあった!鉱採ダムはえてしてそのまま埋め立てられ…足尾の事例は懸案の八場ダムとなって現代にまさに亡霊のように甦っている。これを愛媛の研究者は最近「資源の呪い」と呼んでいると聞くが…いずれにしても、環境と資源の両立はバーゼル宣言の精神をどこまで尊重できるかにかかっている!