2006/04/27

バギオの“アボン(家)”と戦争の記憶


 マニラから北にバスで6時間、コルディエラ山脈の懐、標高1500メートルの山間の盆地に、人口23万人の“夏の首都”バギオがある。2月から3月にかけて最高のシーズンで、15度前後の涼しい気候の中、毎年この町が誇るフラワーフェスティバルが開催される。そのフェスティバルの最中に、バギオでは初めてとなる「日本文化祭」が開かれた(3月3日~12日、バギオ市コンベンションセンター)。国際交流基金が提供する日本人形展、写真展、映画祭、それに日本のNGOが参加して生け花やお茶を披露、現地の日系人らが中心となって賑やかなフェスティバルとなった。

 以前短信06号でダバオの日系人の話を紹介したが、ここバギオがそもそも戦前の日系移民揺籃の土地である。1898年にフィリピンが米国の殖民地になった後、米国政府がバギオを避暑地にするために開発が始まったが、マニラからの幹線道路の工事が非常に困難を極め、日本の労働者を投入したのがきっかけ。日本からまとまった第一陣の移民がやって来たのが1903年。その道路は今でも健在だ。道路が完成した後、日本人移民労働者はダバオなどフィリピン各地に移住したが、バギオやその周辺の街にも多く残り、農業、建設業、商業などに従事した。1921年に日本人会、24年には日本人学校も作られ、戦争前の1939年当時、バギオの総人口24000人の内、約1000人が日本人だったとの記録がある。当時のバギオの様子は移民100周年を記念して出版された「Japanese Pioneers –In the Northern Philippine Highlands」(パトリシア大久保アファブル編)に、貴重な写真付きで詳しく紹介されている。市街図を見ると、目抜き通りにある店舗の2軒に1軒は日本の商店。特に雑貨商が目立つ。日本の商店や日本人はその当時、流行の最先端、外界への窓口として憧れの的だったようだ。

 いま、その戦前からの日系人の子孫たちは、6世まで含めて合計で6700名(2005年8月時点)。北ルソン・フィリピン日系人財団という組織がまとめ役となって、様々な活動を行っている。財団の通称は「アボン」。土地の言葉で「家」を意味する。バギオ市内の中心部を見下ろす小高い丘の中腹にある2階建ての瀟洒な邸宅を改築して、事務所を運営している。この財団の基礎を築いたのは日本人シスターの海野常世さん。1972年にバギオを訪れて以来、この地方に放置された日本人戦没者の遺骨収集に着手し、それと同時にうち捨てられた日系人を支援する組織を立ち上げた。シスター海野は、ここではまさに天使のような存在で、彼女の献身は永遠にバギオの日系人の間に語り継がれていくだろう。




 彼女は1989年に亡くなったが、その遺志を継いでアボンを切り盛りしているのが、日系2世のカルロス寺岡氏と彼の親族。カルロス氏はここを拠点に、北ルソン地方のみならず、フィリピン全土の日系人組織も束ねている。彼の父親は山口県出身、母親はフィリピン人。戦争の直前に父が急死してから、寺岡家の悲劇が始まった。二人の兄の内、長男は日本軍にスパイ容疑で銃殺され、次男は逆に地元のゲリラに殺された。山中を逃亡中に米軍の機銃掃射で母親も亡くした。なにもかも失って戦後帰国。しかし日本は安住の地ではなかった。当時まだ日本国籍の取得が認められていなかったため、様々なかたちで差別され疎外感を味わい、結局フィリピンに戻り永住を決意した。その後苦労を重ねて、いまではバギオから車で3時間のパンガシナンに広大な農場を経営するまでになった。

      寺岡氏と家族、スタッフ


 日本文化祭の開催に先立ち、アボンに共催者となってもらうため昨年の10月にバギオを訪れ、そこでこの寺岡氏と初めて出会った。ちょうど同じ時期に高知県からの視察団が訪問していて、歓迎のメッセージを兼ねた寺岡氏の講演があったが、戦時中の話になった途端、彼は突然涙を抑えきれなくなって嗚咽した。日本人が訪れるたび、おそらく思い出したくない記憶を無理に搾り出し、こうして語り聞かせているのだろうと、聞いている私もつらくなった。寺岡氏と一緒に生き残った妹のマリエさんは、いまも遺骨収集を続けていて、定期的にその遺骨を日本に持ち帰っているという。フィリピンでの日本人戦没者の数は518,000人。そのうち遺骨が収集されたのは132,000柱にすぎない。まだ38万柱の遺骨が行方不明なのだ。ここバギオは、フィリピンにおいて太平洋戦争が始まった場所であり(最初の空爆)、終わった場所でもある(降伏文書の調印)。戦後60年以上が経って、いまだにこうして現実に淡々と戦争の後始末をし続けている人々がいることに、なんともやるせない気持ちになった。日本にいるだけではとてもじゃないけど見えてこない現実、そんな現実がこの国では日常的ですらある。“アムネシア(記憶喪失)”は、日本とフィリピンの関係を解く鍵だと思う。

 バギオの日本文化祭と同じころ、マニラでは日本研究セミナーが開かれたが(3月8~9日、在フィリピン日本大使館、国際交流基金マニラ事務所、デ・ラサール大学ユチェンコセンター共催)、戦争に関する“アムネシア”が一つの重要なキーワードとなった。開会の挨拶に立った山崎隆一郎・日本大使は、真摯な言葉で“先の”大戦での日本軍による多大な被害に関してお詫びの言葉を述べていたが、発表者の一人であり、アジア・太平洋の国際関係に関して戦争の記憶や戦争責任の問題に焦点を当てて研究している中野聡・一橋大学教授が指摘するとおり、こうして日本政府が繰り返し謝罪しても日本のメディアではほとんど注目されず、フィリピンにおける戦争被害に関する日本人の“アムネシア”の進行をとめる手立てはない。しかしここマニラでは、何かの機会に、ごく日常的に、戦争の記憶というものが、もちろん僕の記憶ではないけれど、その記憶の総体みたいなものが立ち現れることがままあるのだ。

 初めて開催された日本文化祭のオープニングには、地元選出の下院議員やバギオ市長など各界の重要人物が集まり、地元メディアでも大きく取り上げられた。予想以上に日本への感心は高い。日本人会の人の話では、数年前までは日本の出し物に対して土地の言葉で露骨な悪口が聞かれたが、最近はそれも少なくなり、今年は全く聞こえてこなかったそうだ。戦争の記憶に関する日本人のアムネシアは激しいが、フィリピン人だって忘れつつあるのも事実。バギオの人々が日本や日本人に寄せる思いは、おそらく戦後60年以上が経ち、いまようやく戦争前に日本に抱いていたような憧れに近い気持ちに近づいているのかもしれない。かつて戦前、日本人の雑貨屋に外の世界の香りを嗅いでいたように、日本食や日本のファッションに、熱い視線を寄せている。日本文化の紹介や日本語教育、アーティストの交流など、特別な“縁”で結ばれた、このバギオでやることはたくさんある。今年の9月からは、このアボンに国際交流基金ボランティアの派遣も計画している。


          ボランティアの学生さん


 もちろんそうした日本との特殊な関係以外にも、バギオは文化的に非常に重要な意味を持つ。ここは北ルソンの山岳地方(コルディエラ)文化の中心地で、ユニークな芸術家のコミュニティーがある。実験映画の世界で有名なキッドラット・タヒミックという映画監督もここに住んでいる。ちなみに彼は国際交流基金との関係も深く、かつて基金の支援によって日本で「竹寺」というドキュメンタリー映画を製作した。度々日本を訪れていて、純粋なフィリピン人だが、“イナズマ・ヒカリ”という日本名も名乗る。片時もビデオカメラを離さない、とにかくクレージーなアーティストだ。バギオのアートコミュニティーについては、いずれ別の機会にレポートする。

 フィリピンの日系人にとって、カルロス氏の存在はとても大きい。すさまじい戦争体験や、“自分は一体何人だろうか”という疑問。日本に戻りたくても、戻れなかった多くの人々。彼はそうした日系人の、“棄民”としての歴史と苦悶を背負っている。けれど今の彼からは、日本という国に対する恨みつらみの言葉は聞かれない。それどころか、周りの誰しもを包み込むような大きな包容力を感じさせる。そんな彼の存在を通して、昭和30年代生まれのこの僕が、戦争の記憶を感じるとることに一体どんな意味があるのだろうか、と考える。

 別に格好つけるわけじゃないけれど、アムネシアに抗うこと。とりあえずそれこそが、いまの僕にできるほとんど唯一のことだと思っている。自分の元に送られた様々な企画書の中で、例えば元“従軍慰安婦”(フィリピンではほとんどのケースがレイプだと言われている)に対する癒しのためのアートワークショップや、レイテ戦でマッカーサーの上陸地点となった街、パロで行われるフェスティバルへの参加要請など、戦争に関連するものがいくつかある。戦争責任というものに真正面から取り組んでこなかった日本の、それも公的機関に働く一員として、戦争の問題は、どこかで避けて通りたいと思うところがあるのは確か。しかし、このフィリピンという国で、文化というものに携わる以上、避けては通れないことも時々ある。文化や芸術の重要な役割の一つに、癒しというものがあるとしたら、ぼくはこの国で可能な限りアムネシアに抗いながら、少しでも癒しのための文化交流を続けてゆきたい。おそらくそれがこの国に暮らす自分に与えられた、一つの役割だろうと思っている。
(了)

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