2006/04/27

民衆劇団と国立劇団 ~どちらも骨のあるフィリピンの舞台芸術~

 11月4日フィリピン国家文化芸術委員会から招待されマラカニアン宮殿を訪れた。国際交流基金奨励賞を受賞したフィリピン教育演劇協会(PETA)が大統領表敬を行うので、そのセレモニーへ同席するためだ。現在のフィリピン大統領は第14代のグローリア・マカパガル・アロヨ。フィリピン大学で経済学博士を取った才女、父親も第9代大統領だった政治一家の出身である。マラカニアン宮殿といえば、あのマルコス大統領がテレビカメラに向かって最後の演説をした執務室や、イメルダ婦人の贅沢三昧な生活を映す数百の靴の展示などが思い出される、“歴史的”な場所である。セレモニー・ホールとしてよく使われるのがマビニの間。その前室には1枚が人の背丈以上もある歴代大統領の肖像画が壁にずらりと並んでいて、奥の間にはこの国の有史以来の英雄の肖像画も数多く展示されている。歴史の舞台となり、今もなおそれを作り出している場所には、やはり独特の磁場がある。



 大統領に会えるとあって、私などはさすがに多少晴れがましい気持ちで、フィリピンの民族衣装バロン・タガログなどを着て向かったのだが、肝心の主役であるPETAの現役メンバーが誰一人として来ないということを当日になって知らされ愕然とした。理由は“政治的に中立を守るため”ということだそうだが、ノンポリ的発想からすれば、中立であるのならむしろ大統領への表敬など何ら問題ないわけで、これは明らかに彼らが現政権を支持していないという意思表示なのだな、とすぐに気が付いた。アロヨ大統領については、一族が関係しているといわれる巨額の賭博疑惑、さらには昨年の大統領選挙にまつわる不正疑惑が次々と明らかになり、数ヶ月にわたって国中を二分した非難合戦が行われている。

 結局表敬のほうは現役メンバー不在のまま行われ、PETAの創設者であり、現在は大統領文化顧問として権力の中枢にいて、そもそもこの表敬を仕掛けた張本人であるセシル・ギドーテ氏が自ら表彰台に立つという、“自作自演”のセレモニーになった。実はこのギドーテ氏は、1967年のPETA設立以来、社会運動としてのタガログ語演劇の先頭に立ち、マルコス政権に反旗を翻し、そのために権力からにらまれ、夫の上院議員とともに米国亡命を余技なくされたという経歴を持つ。しかし時代は変転して現在は権力のまさに中枢にいて、PETAを引き継いだ現役世代の反骨精神とは真っ向から対立するという、なんとも皮肉なことになっている。

 私がPETAに初めて出会ったのは1989年。日本のピープルズ・プラン21というNGOの招聘で来日公演。マニラのスラムを舞台にガキ大将を主人公としたミュージカル「カピタン・ポポ」を観たのが最初だ。お世辞にも完成された演劇というわけではなかったが、何故か印象の強烈な芝居だったことを覚えている。おそらく日本ではお目にかかれないメッセージ性の強い作品で、こんな演劇世界もあるんだと妙に関心した。あれから10数年が経過して、今年PETAは「演劇を通しての民衆啓発やコミュニティ形成への取り組み、および日本をはじめ多くのアジア諸国の芸術・市民団体とのコラボレーションの業績を称えるとともに、アジアの芸術ネットワーク形成への今後の貢献を期待して」という理由で国際交流基金の賞を受賞した。大統領表敬を敢えてボイコットするところに、いまもなお頑固に主張する気骨あるPETAの伝統が脈々と引き継がれていると納得した。

 そのPETAの長年の夢であった自前の劇場がこのほどようやく完成して、そのお披露目公演が行われた(10月16日)。演目は「Ang Palasyo ni Valentin(バレンタインのダンスホール)」というミュージカル(ソクシー・トパシオ演出)。第二次大戦前のザルズエラ(スペイン起源のミュージカル)劇場を舞台に、座付きピアニストとスター女優の恋と苦悩を軸にした半世紀にわたる物語。インドネシアにもPETAと同じように“反権力”を標榜してスハルト独裁政権時代に果敢に風刺劇を発表し続けていたテアトル・コマという劇団があるが、そのコマのレパートリーの一つにも「オペラ・プリマドンナ」という戦前の劇団を舞台としたミュージカルがあり、なんとも共通する部分があって面白い。

       PETAのワークショップ

 オープニング公演に続いたのが、メコン流域諸国の演劇人を集めてワークシップと芝居作りに取り組む「メコン・パフォーミングアーツ・ラボラトリー」(10月9日~28日)。中国(雲南)、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイから総勢30名。エイズをテーマに各国ごとに芝居を作り一般公開した。こうした企画はPETAの真骨頂で、自前の劇場も完成して、いよいよアジアの演劇拠点として次のステップに進むための体制を整えつつある。ちなみにこの企画のスポンサーはロックフェラー財団で、私のアジアセンター時代の同僚であるアラン・ファインスタイン氏が同財団バンコク事務所のAssociate Directorになっていてマニラで再会した。同氏によれば、ロックフェラー財団は現在メコン流域プロジェクトを集中的に支援していて(“Learning Across Boundaries in the Greater Mekong Sub-region”)、文化・芸術、食糧安保、衛生などの分野に年間2億円の予算を投入。さすがに米国の民間財団である。「選択と集中」とは本来、こういうことを指すのだろうなと考えさせられた。

 この国の現代舞台芸術史を振り返る時、PETAがタガログ語演劇による一種の民衆運動で重要な役割を果たしたとすれば、国家による文化政策の遂行という意味で重要な役割を担ったのが1969年にオープンしたフィリピン文化センター(CCP)である。

 CCPはマニラ湾に面した広大な土地にあり、コンクリートむき出しの幾何学的で重厚な外観を誇る。もともとマルコス政権時代にイメルダ婦人の陣頭指揮で国威発揚のために建設された。独裁政権からの予算(国民の税金だ)を惜しみなく投入していた当時は華やかなイベントを繰り返し、実験的なこともたくさん行った。マルコス政権崩壊後、“民主的”な大統領のもとでの運営は、予算不足と人材流失に悩まされた。今でもイメルダ時代を懐かしむ人が多いのは皮肉なものだ。ちなみにそのイメルダ(マルコス家)はとっくの昔に復権を果たし、娘が上院議員、息子は県知事、本人も下院議員だ。私もCCPで何度かフィリピン史上最大の芸術の“パトロン”を見かけたが、なんとも複雑な心境だ。

 ところで広く東南アジア全体を見渡しても、CCPほどの国家文化機関は見当たらない。大劇場(1800名収容)、中劇場、スタジオ、映画館、ギャラリー、図書館などを擁する複合施設ということのほかに、多くのレジデントカンパニーを抱える。シンフォニーオーケストラ、バレエ団、民族舞踊団、合唱団、そして劇団。ないのはオペラぐらいで、これだけのレジデントカンパニーを維持するのは大変なことだと思う。インドネシアのタマン・イスマイル・マズルキやタイ文化センターにはレジデントカンパニーは存在しないし、今や舞台芸術の国際的ハブとして目覚しい発展を遂げたシンガポールはそもそも民営が基本。東京の新国立劇場は、オペラはあるが劇団を持たないのが決定的に違う。このCCPの存在は、フィリピンの国情を考えるとまったく奇跡としかいいようがないほどだ。しかし当然運営は非常に厳しく、昨年度の赤字が数千万円。最近大劇場の照明をコントロールする調光卓が故障したが修理する予算すらなく、先日のトヨタクラシック(ブタペスト・オペレッタ管弦楽団)のコンサートの途中で明かりがつかなくなり、10分ほど公演が中断した。



      フィリピン文化センター外観

 そんな厳しい状況の中でも、アーティストたちは頑張っている。現在中劇場ではレジデントカンパニーのタンハーラン・ピリピーノが「ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)」というミュージカルを上演中で、今後の劇団の方向を示す上でとても興味深い。

 「ノリ・メ・タンヘレ」はフィリピンの独立運動に多大な影響を与えた国民的ヒーローであるホセ・リサール(1861~1896)の原作(1887年出版)。おそらくもの心ついたフィリピン人でその名を知らない人はいないだろう。それだけこの国におけるホセ・リサールの英雄化はすさまじいものがある。同じように長い間西欧諸国の支配を受けたインドネシアには、これほどの民族的英雄は存在しない。ストーリーは、イバラという西欧留学帰りの若者が、スペイン修道会の圧制から序々に植民地政策の不条理に目覚めてゆく過程を、幼馴染のクララとの再会と別れというラブストーリーを縦糸にして展開してゆく。

 原作の発表から100年以上の時を経て1995年にミュージカル初演。ビエンヴェニード・ルンベーラ脚本、ラヤン・カヤブヤブ作曲、ノノン・パディーリャ演出。日本でも同年に初演、さらには国際交流基金が続編の「エル・フィリブステリスモ」と2本立てで招聘し、再演された。この作品自体はアマチュア劇団や映画やテレビで何度も扱われているが、タンハーランとしては今回の公演が10年ぶりの新演出。今シーズンから若手演出家のハーバード・ゴーを新芸術監督に迎え、新しいタンハーランを印象付ける機会となった。私が見た公演は高校の貸切公演だったため劇場内は若者の熱気であふれていたが、その熱気に負けない熱い舞台だった。秀逸だったのが実験的な舞台セット。床全体を木材で組んだスロープ形式、それも波打つ坂道のようにして、そのスロープの各所に役者を配し、舞台全体に波動が伝わるダイナミックな雰囲気となり、結果として非常に重層的な群集劇に仕上がっていた。

 新芸術監督のねらいはとにかく若い世代に演劇の面白さ、リアリティーを伝えること。去る8月に行われた彼の芸術監督デビュー作は「R’meo Luvs Dew-Lhiett」(8月5日~9月18日毎週末、演出も同氏)。シェークスピアの定番ラブストーリーを元にして、ヒップホップ世代のマニラの下町を舞台に、“ジョログ”という“不良”言葉が飛び交うスピーディーなコメディに作り換え、連日会場を埋め尽くした高校生から拍手喝采を受けていた。(ちなみにJFマニラ事務所前副所長の上杉氏が“パリス”役で出演した。)そして今回の「ノリ」では自らの大学時代の同級生を演出家(ポール・モラレス)、セット・デザイナー(クリント・ラモス)に抜擢し、見事に成功した。いずれも35歳の俊英だ。

 1960年代後半にほぼ時を同じくして誕生した民衆劇団と官製劇団。当然のことだがリーダーは世代交代する。けれどもその反骨精神や実験精神は受け継がれ、彼らが牽引役になって、フィリピンの舞台芸術はその裾野を広げている。こちらに来て何本もミュージカルを観たが、時々つくづく思うことがある。日本でもいくつか気の抜けたようなミュージカルを観たが、日本で何十年やってもおそらくフィリピンのミュージカルの水準には追い付かないのではないだろうか・・。でもいくら素晴らしくても、フィリピン製ってことで簡単に済んでしまうことがあまりに多い。

 PETAの奨励賞受賞を祝うマニラでのレセプション会場で、代表のガルーチョが言った言葉は忘れられない。彼女は東京での授賞式のハイライトでもある天皇・皇后両陛下への拝謁を行ったが、現天皇の父である先の昭和天皇は、この国で100万人といわれる犠牲者を出した第二次世界大戦の時の最高責任者。拝謁することに抵抗はなかったかと素直に聞いたところ、「あの戦争は私たちの(あなたの)世代が起こしたことではない。今回日本の天皇に会えた意味は、それよりも別のところにある。日頃フィリピン人は日本人から下に見られていると思う。問題なのは、それをフィリピン人も感じとっていること。今回天皇に拝謁したことで、わたしたちのイメージを少しでも変えたいし、もっと誇りを持つようにフィリピン人にも伝えたいと思う。」

 その言葉は今でもぼくの喉の奥に、魚の骨のように突き刺さったままだ。
2005.11.21

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