2010/03/19

バスーラ(ごみ)に託すメッセージ

 先頃マニラ日本文化センターでは、「ビデオ・アクト!日本のドキュメンタリー映画の現在!!」と銘打って、『バスーラ』(四ノ宮浩監督)、『フツーの仕事がしたい』(土屋トカチ)、『遭難フリーター』(岩淵弘樹)、『破片のきらめき』(高橋愼二)、『めぐる』(石井かほり)の5本を上映した(3月6~7日、シャングリラ・プラザ・モール、17~18日、フィリピン大学フィルムインスティテュート)。

 もともとフィリピンのスモーキーマウンテンを描いた『バスーラ』を中心に組み立てたプログラムだが、派遣労働者やフリーター、精神障害とアートなどをテーマとした作品、それに加えてフリーターとは対極にある職人の世界など、現代日本を見つめるにふさわしい多彩なラインナップになったと思う。

 どの映画も面白かったが、その中で特に今回のメインにしたのが『バスーラ』。1988年から20年間にわたってトンドのスモーキーマウンテンを描いてきた日本人監督四ノ宮浩氏の、総仕上げにあたる作品だ。日本では既に公開されて話題となっている映画だが、フィリピンを描いていても肝心のフィリピンでは未公開だった。臭いものには蓋をしたがるフィリピン人や、娯楽作品嗜好の強い大半のフィリピン人にとっては、あまり見たくないような内容だろうが、そこをあえて上映したいと思った。またマニラに住んでいる日本人にもアピールするのではとも思った。

 四ノ宮監督はこれまでに『忘れられた子供たち スカベンジャー』(1995年)と『神の子たち』(2001年)の2作品を制作しており、今回の作品は第一作目で主要登場人物として描かれたクリスティーナとその家族を中心に、スモーキーマウンテンと人々の昔と今を描いている。第一作撮影当時、クリスティーナは16才、今では36才で5人の母親。上映会の当日には彼女と子供たちが駆けつけてくれた。

 90年代頭書、まさに“スモーキーマウンテン”という子供の歌手グループが売れて紅白まで出場して話題となったが、かつてのゴミ捨て場は94年に閉鎖となり、そこで暮らしていたスクオォッターの家族は、今は政府から無償で貸与されたアパートに移住している。古い“山”は閉鎖となったが、甚大なゴミが無くなるわけでもなく、現在はその旧スモーキーマウンテンのすぐ近くに、“アロマごみ捨て場”として新たなスモーキーマウンテンが生まれ、ゴミが集めれば人も集まり、新たにニ千世帯、1万人以上が劣悪な環境で暮らすようになっている。“アロマ”とはいかにも取ってつけたような表現で、現実の悪臭のイメージの対極にある言葉だ。
 

 『バスーラ』を完成させ、“フィリピンにひと区切りをつける”ために、監督はそのアロマごみ捨て場に、「バスーラ・ハウス」なる施設の建設運動を始めた。日本から多くの学生もスタディーツアーで訪れ、現地でボランティア作業にあたっている。今後はそこを拠点に、子供のためのクリニックにして、日本の学生が宿泊できる施設にするという計画だ。映画上映の後、私は早速その「バスーラ・ハウス」を見に、アロマごみ捨て場を訪問した。

 トンドのスモーキマウンテンは初めてだったが、別の地域にある、これまた巨大なゴミ捨て場とそこに自然発生的に生まれた町であるパヤタスには二度ほど行ったので、その劣悪さは想像できたが、やはりすごいものだった。ちなみにそのパヤタスで活動する、やはり日本人が作ったNGOであるSOLT(ソルト)では、お母さんたちに手に職を付けてもらおうとタオルの制作・販売を行っていて、これがなかなか評判となり売り上げも順調なのだが、この3月には当基金の助成でそのお母さんたちを日本に招待し、自分たちの商品のマーケティング調査を行い、オルターナティブ・トレードを推進しているNGOなどと交流する予定だ。

 ビジネス街のマカティ地区からアロマごみ捨て場に行くと、まさに“天国と地獄”。汚臭と汚泥にまみれたゴミに囲まれて生きている人々の生活は言語に絶する壮絶ぶりだ。途中西欧人グループとすれ違ったが、みんな頭に風船飾りかなんか着けて(たぶん何かのお礼にそこの子供たちにもらったのだろうが)、場違いなほどに快活な雰囲気だった。そういう私自身も、ぼろをまとった裸足の子供たちには、ほぼ無理やりな笑顔で接したりして、悲惨な状況を目前にして、自己防衛なのかなんなのか、妙に快活にふるまってしまうのは何故なのだろうか。


 四ノ宮監督は何故この映画を作り、NGOを立ち上げて「バスーラ・ハウス」を建設しているのだろうか?それは何故この私が『バスーラ』の上映を国際交流基金の仕事として(つまり日本人の税金を使って)行い、そして私自身がこの「バスーラ・ハウス」にまで来ているのか、という疑問にも重なる。こうした“社会派”映画を上映すること自体が、普通の娯楽映画の上映とは違った意味を持つはずだ。ここはただ“やりっぱなし”にしないため、少しでもこの“何故”という疑問について書いておきたい。

 シャングリラでの映画上映後に監督は、300名を超える観衆の前で、こう切り出した。「20年経ってもフィリピンは全く変わってないんですよね・・。」そして、私にはこっそりとこうも言った。「この先もフィリピン政府には全く期待できないよな。」まったく同感である。

 その一方で、彼のホームページにはこのようなことが宣言されている。
『僕は絶対に「日本の若者が世界を変える」礎としての「BASURA HOUSE」を完成させ、ひとりでも多くのゴミ捨て場の子供たちの命と希望を守ります。』
『愛を込めて「共に分かち合う」こと、また「互いに仕え合う」ことをめざします。』


       バスーラ・ハウスとボランティアの学生たち、左は四ノ宮監督

 はて、私が直接監督の肉声として聞いた諦念と、この力強い“希望に満ちた”メッセージとの間にあるギャップは一体何なのだろうか。そして、20年間の長きにわたって、このフィリピンに対して同じ希望を、そして絶望を持ち続けてきたということは、いったいどういうことなのだろうか。

 私のかつての同僚で、敬愛する映画研究家の石坂健治氏の著作である『ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話』(現代書館)の中で、土本氏のコメントとしてこんな下りがある。

『私がドキュメンタリー映画を作るときも、いつもそこには考えることの快楽があった。最近、「水俣映画をなぜこのように長い間作られたのですか」と聞かれた。私は「水俣病が私を考え続けさせたからです」と答えた。これは私の正直な気持ちだ。』

 土本氏は水俣病を告発する作品を作り続け、それが大きな運動体の中心となり、現に水俣病は大きな社会的関心を集め、住民を動かし、行政を動かし、今、50年以上の時を経て、ようやく最終的な“解決”に向かおうとしている(昨今の報道では、未認定患者への和解金支払いについて裁判所の勧告が出た)。そんな土本氏と四ノ宮氏とを比較することはできないが、ここフィリピンの絶対的貧困にも、出会った(出会ってしまった)者に、何かを考えさせる強烈な磁場があることは確かなことだと思う。とりあえず考えてみるか、思考を止めるかは、無論、個人の選択だけど。

 そしてドキュメンタリーを作り、人に見せるという行為は、それを誰かに押し付けるとかいうものではなく、たった一人でも二人でもいいから、何かを感じ取って欲しいということだろう。かつて記録映画が、熱い政治の季節の中で、社会変革を唱えるメッセージを揺籃するメディアとして存在していた時代が過去のものとなり、運動の主体となるべき確かなバックボーンを具えた思想が失われた現代では、ばらばらに拡散しているかに見える様々な価値観の中で、とにかく何かに拘泥し、思考をやめないために続けること、それが重要なのではないかと思う。考えたからといって何かが変わるかっていうと、そんなことはない。考えることでとりあえず納得してしまうというのも、偽善者すれすれの態度だ。でも、ゼロと、ゼロではないとは確かに違うのだと思う。ここフィリピンは、圧倒的な、ときに信じがたい事実の前に、気持ちがすくみ、思考不能の海に沈んでしまう可能性が常につきまとう場所である。それでもなんとか自分の目でみて一度は考えてみること、この『バスーラ』という映画は、そんなことを教えてくれる。

2010/03/09

自然災害を語り継ぐ試み

 現在フィリピンでは、エルニーニョが原因とされる旱魃による被害が深刻である。昨年は逆に台風「オンドイ」、「ペペン」の水害がひどかった。四方を海に囲まれて、モンスーンも台風もやって来る火山列島の国は、大規模自然災害のデパートのようだ。

 世界に目を向けると、つい最近ではチリ大地震やハイチ大地震(死者23万人以上)、まだ記憶に残る08年の四川大地震(同5万人以上)や、04年のインド洋大津波(同24万人)など、世界中で大規模災害による犠牲者の数は年々増え続けている。古来より自然災害の経験を神話や物語で言い伝えてきた例は枚挙にいとまないが、教訓を後世に語り継ぎ、被害を最小限に抑える努力がますます重要になっている。

 先ごろ(2月15~16日)「東南アジアと日本における災害の危険回避」と題した国際セミナーが国立フィリピン大学で開催され、当基金が支援した。自然災害にまつわる様々な事柄を文化人類学、歴史学、地理学、教育学などの面から取り上げた。インド洋津波で最も多くの犠牲者を出したアチェから参加した研究者は、妻や子供を含む家族全員を失ったが、今ではその悲劇を乗り越えて、津波への対処方法を後世に伝える立派な語り部となっている。アチェは、私もかつて津波の5年前、インドネシア在勤時代に現地の国立公文書館を訪ねたことがある。昨年には津波博物館が開館している。

                    アチェの津波博物館

 世界では今、災害を後世に語り継いでいこうという試みが盛んになりつつある。このセミナーには、兵庫県教育委員会や淡路高校の先生も参加したが、阪神淡路大地震の罹災者たちがそうした運動の中心にいる。今月の20日より世界各国から約20名の専門家を招き、神戸で「世界災害語り継ぎフォーラム2010」が開催される予定だ。(国際交流基金日米センター助成、問い合わせは同フォーラム事務局:078-842-2311)

 ひるがえってフィリピンでは、忘れっぽい国民性か、過ぎ去ったことにくよくよしない天性の明るさからか、はたまた歴史感覚の欠如か、災害を語り継いでゆくことがまだ一般的でないようだ。

 フィリピン大学でのセミナーの翌日、ピナツボ山とアエタの村を訪問した。91年に起きたピナツボ火山の大噴火で、大量の火山灰や火山泥流が周辺地域を埋め尽くして多くの避難民を出した。中でも深刻な影響を受けたのが、そこに古くから住んでいたアエタ族の人々だった。噴火から18年が経ち、今現場はどうなっているのかを視察するのが目的だった。

 アエタ族は約2万年前にマレー半島経由で比にやって来たネグリート系の先住民で、現在人口は約3万人。狩猟・採集と焼畑が生活の基礎で、褐色の肌と縮れっ毛が特色。避難生活を余儀なくされていた人々も、徐々に以前の村に戻るようになったが、豊かな森林は灰に埋もれてしまい、かつての暮らしは蘇らない。外見や教育の遅れからひどい差別を受けていて、町での生活も容易ではない。

 ピナツボ山の噴火は、20世紀最大の噴火とも言われるほど激烈なものであったが、幸いに予測が的中して住民の避難が進んだため、噴火による直接の犠牲者の数は300名程度と少なかった。アエタ族のリーダー、ローマン・キング氏の話では、森の中の鳥や蛇が大量に移動するなど様々な前兆があった。山の洞窟に逃げ込んだ人々は、ラハール(火山泥流)に飲み込まれて命を落としたという。

                     ローマン・キング氏

 大爆発で吹き飛んだ山頂跡には直径2.5キロの巨大なカルデラ湖が生まれ、今は美しい公園が整備されていて、週末はかなりの観光客が訪れるようだ。我々はその地域を管轄する空軍の案内で軍用トラックに乗り、ラハール(火山泥流)で埋もれた以前は川であった地帯を1時間にわたってしたたかにゆられ、山頂付近の休憩所に到着。そこから山頂の公園までは、ハイキングで20分。一般の旅行者もかなりいて、4輪駆動のジープで訪れていた。

                     ラハールの上を疾走


             四駆のジープで観光客もやって来る


           ラハールの上に作られたアエタの人々の家

  山頂のカルデラ湖は、エメラルドグリーンの神秘的な水をたたえていた。しかし気になったのは、噴火に関する資料館どころか、一切何の説明もなかったことだ。


  今回の国際セミナーを主催したフィリピン大学国際研究センターでは、新しい取り組みとして今年度から「災害の文化」と題する講座を開講している。現在15名の学生が学んでいるが、専攻は心理学、経済学、工学など様々だ。同センター代表のシンシア・ザヤス教授は、将来的には小学校から大学の授業で災害について学べる環境を整えたいと抱負を語る。この国でも今後防災意識が高まり、貴重な体験を次世代に伝えてゆく動きがもっと広がることを期待したい。

 ほぼ同じ内容の記事を「まにら新聞」にも掲載しました。


(了)