2008/03/24

ジャパゆきを超えて

 2006年に国際交流基金が全世界で行った「日本語機関調査」の中で、日本語を学ぶ学生たちにアンケートをした結果、その動機の上位を占めたのが、一位が日本文化に関する知識を得る、二位が日本語でコミュニケーションができるようになる、三位は日本語という言語そのものに興味があるというものだった。アンケートで設定された選択肢にもよるし、全世界的な傾向というものもあるのだろうが、私自身の頭の中では、何かあまりに動機があっさりしていて本当(本音)なのだろうかと疑問が残った。日本語を学ぶ動機は、もっと実利的だったり、生活に根ざしていたり、つまりもっと生々しいものなのではないのだろうか、と。

 今年の2月に実施された第35回日本語スピーチコンテスト。その社会人部門で28歳の主婦マリセル・ボルニリヤーさんが大賞に輝いた。スピーチのタイトルは「ジャパゆきを超えて」。彼女にとって、日本でエンターテイナーとして働き自分たち家族を支えてくれたお姉さんはヒーローのような存在であり、自分も日本語を一生懸命に勉強して、そんな姉への恩返しを誓うという内容のスピーチだった。

 「私の2番目の姉は、元ジャパゆきです。私がまだ10歳ぐらいのときに、姉は歌手として日本へ行きました。当時のビコールの田舎の人たちは考え方が保守的で、姉について悪口を言っていたそうです。でも、私はまだ子供だったのでよく分からず、お土産のことしか考えていませんでした。(中略)大きくなるにつれて、周りの人たちの悪口の意味が分かるようになり、つらい思いをしました。(中略)私は今でもこの姉にとても感謝しています。父が亡くなってから、母と私たち兄弟の面倒を見てくれ、おかげで私たちは学校を卒業することができました。(中略)私はこれから日本語教師になり、日本で仕事をするフィリピン人、特にITエンジニアやケアギバーを助けたいと思っています。そうすることが、ジャパゆきとして私を助けてくれた姉への恩返しにもなると思います。」

 以前このブログでも書いたことがあるが、フィリピン人といえばエンターテイナーというのは、現代の日本人が作り出したステレオタイプの一つだ。80年代から急増したフィリピン人エンターテイナーは、言ってみればアングラ版日比交流の象徴となった。その多くは6ヶ月間の「興行ビザ」で、ピーク時には年間8万人(2003年)のペースで日本へ渡った。両国の経済格差やフィリピンの出稼ぎ労働文化、そして日本の海外労働者受入制度の未整備という現実が作り出した“人流”の一つだろう。確かに「興行ビザ」(演劇、演奏、スポ―ツ等の興行や芸能活動のためのビザ)を取って、実際にはカラオケクラブで接客業をしているケースがほとんどで、人身売買まがいのことや売春を強要されるケースもあり、“汚れた”イメージがつきまとう。そしてフィリピン人の間でも「ジャパゆき」に対しては負の印象が強い。しかしボルニリヤーさんがスピーチで述べたように、その多くが接客業をして真面目に働き、フィリピンにお金を送金して家族の生活を支える大黒柱、こちらの言い方で“ブレッド・ウィナー”(パンを獲得する勝利者)なのだ。「ジャパゆき」というだけで非難されるいわれはないし、かといって当の本人たちにとっては“性の商品化による犠牲者”と言われることもまた、現実の感覚からはほど遠い。

 ステレオタイプや偏見は、その時代の社会状況が作り出すものだ。今では忘れられかけてはいるが、「ジャパゆき」の元となった「からゆき」という言葉。フィリピン研究者の寺見元恵氏の調査によれば、在留邦人をデータで確認できる最も早い時期において、1903年当時マニラに在住していた1000人の日本人の実に3分の1が「酌婦」や「娼婦」などの水商売に従事する女性だったようだ。(フィリピンに学ぶ会編『Filipica』2007年54号、「マニラの初期日本人社会とからゆきさん」)フィリピン≒ジャパゆきというイメージも無論、未来永劫続くというものではない。いつかは過去の話となるだろう。実際、フィリピン人の「興行ビザ」による入国者の数は2006年の外国人入国管理法改正で激減しており、2007年以降は月に約500人のペースで、ピーク時の1割以下になっている。ボルニリヤーさんが元ジャパゆきの姉への恩返しのために日本語を学ぶことを選び、「ジャパゆきを超えて」ゆこうとしているように、ジャパゆきさん自身の中からも、そんな偏見に立ち向かってゆこうとしている人もいる。

 国際交流基金では毎年世界中から多くの日本語教師を日本に招待し、日本語研修や日本語教授法の研修を行っている。ここフィリピンからも多くの若手教師が参加しているが、2008年5月からの研修に、元エンターテイナーのロドリゲス・ラブリーンさんが参加することとなった。大学卒業後24歳で日本に渡った彼女は、その後6ヶ月間ごと合計7回にわたってエンターテイナーとして日本で働いた。そして2006年に帰国してからは、日本語をさらに勉強するためマニラの日本語学校に入学。国際交流基金のセミナーなどにも参加するようになり、日本語能力試験の3級にも合格して、いよいよ自ら教壇に立つようになった。そしてこれまでの努力が実り、来る5月から国際交流基金の研修生として採用されたのだ。

         国際交流基金日本語国際センター

 彼女は自分が元エンターテイナーであった経歴を周囲に隠さない。「お店でお客さんと話していた言葉と、日本人が普通に話す時の言葉が違うので、基金のセミナーでは最初何を話してよいかわからなかった。これからはもっと正しい日本語を勉強したい。」と、さらりと豊富を語る。将来の夢は、自分で子供たちのための日本語学校を開きたいと言う。生活のために選んだジャパゆき。彼女はその経歴からくる困難や悩みを積極的に語り、自らその壁を破ろうとしている。彼女のような元ジャパゆきさんが増えていけば、「ジャパゆき」のイメージはきっと変わってゆくに違いない。

 日本とフィリピン政府の間で2006年の9月に締結された経済連携協定(EPA)は、未だにフィリピンの上院で批准されておらず、発効の目処が立っていない。この協定の締結についてはフィリピンで様々な反対意見が出されているが、最も激しかったのが、環境保護団体を中心に、同協定が“不平等条約”であると指摘されたことだ。特に輸出入品目リストの中に有害廃棄物が含まれており、フィリピンが日本のゴミ捨て場になるのではないかと強く反発した。

 同協定にはもう一つの焦点がある。日本政府が初めてフィリピン人看護師・介護士の受入を認めたことである。高齢化が進む日本では現在90万人の介護士が必要といわれているが、実際の従事者は40万人で、日本人がいやがる介護の現場では今後外国人の介護士が増えると予想されている。これまでにも欧米や中東に看護師・介護士を派遣して海外送金で国家経済を支えてきたフィリピンは、締結交渉の過程で日本側により多くのフィリピン人看護師・介護士の受入と、日本人と同等の待遇確保を要求してきた。一方日本側は、外国人労働者の流入による雇用条件の悪化や社会秩序の乱れを懸念して、当初は受入に消極的だったが、双方で歩み寄り、最終的に2年間で千人の受入で決着した経緯がある。しかし先に述べたように、フィリピン側の環境保護団体によって有害廃棄物が同国に持ち込まれるとの懸念が表明されたことが発端となり、“日本とフィリピンの政府は、健康(看護師・介護士)と公害(有害廃棄物)を取引した”と主張する者も現れるようになった。

 こうした論争を通して見えてきたことは、この問題の根底にはフィリピンと日本の人々の間にいまだに大きな不信感が横たわっているということであった。フィリピンから見れば、100万人が犠牲になった太平洋戦争の記憶や、日本の経済進出に伴う富の流出など、心のどこかに常に被害者意識があるのは確かだろう。「ジャパゆき」はまさに二国間の格差を象徴している日常的現実だ。

 しかし今度のEPAによってもたらされるであろう両国交流のさらなる展開は、フィリピンと日本の間に、その人流に大きな変化をもたらす可能性がある。

 先に述べた通りEPAには様々な問題点が指摘されてはいるが、現実は一足早く進んでいる。フィリピンでは2006年あたりから協定発効後の労働市場“解禁”を期待して、介護士向けの日本語教室が雨後の筍のように出現した。そこでは主に高校を卒業してフィリピンの介護士資格を取得した人たちが日本行きを目指して学んでいる。

 日本語教育という点では、IT業界でも新たな取り組みが活発である。タガログ語とならんで英語が公用語であるフィリピンでは、優秀な人材に対する外国企業からの需要は大きい。コールセンターなど米国系のビジネス・プロセス・アウトソーシング業界には、年間23万人の大卒者が就職するというデータもある。一方で、日本におけるIT技術者は、少子高齢化や日本人学生の理系離れが影響して慢性的な人手不足の傾向にあり、2010年までに15万人が不足するという予測もある。そのため日系IT企業の間では、日本語のできるフィリピン人技術者を巡って激しい人材の争奪戦が繰り広げられている。先を見越した企業では、社内の日本語教育に力を入れたり、大学や民間の日本語学校とタイアップして人材育成を進めている。

 フィリピンは長い間スペインとアメリカの植民地であったためダイレクトに欧米文化が伝えられてきたこともあり、日本への関心は低いと言われてきた。しかし1990年代に入ってアジア諸国を席捲した日本のポップカルチャー人気の影響を受けて、日本文化や日本語への関心が高まった。国際交流基金の調査によれば、2003年の日本語学習者は11,259人で、10年前に比べて1.8倍に増加したが、ここ数年の増加率はそれをさらに上回り、2006年の調査では18,199人と、3年間で1.6倍に飛躍した。

 しかし近隣のアジア諸国に比べて日本語の教育基盤が脆弱で、かつて業界では“日本語教育不毛の地”とまでささやかれていた。質の高い日本語教師が圧倒的に不足していて、教師を養成する教育機関などのインフラも未整備なのだ。多くのフィリピン人は、自分たちの地元で話されている母語以外に、公用語であるタガログ語、それに学校教育の中や、社会でいい仕事に就くためには英語が必須になっていて、日本語などの外国語の習得には多大な負担が伴う。

 しかしそんな状況の中で、フィリピン政府もようやく最近になって日本語教育に対して真剣に目を向けるようになってきている。国際交流基金でもそうしたニーズに応えるために、2007年の2月から新たに日本語教師養成のための研修講座を開講したり、高校生の日本語学習ニーズを開拓するため「日本語キャラバン」という模擬授業や日本語を使った文化紹介をパッケージにしたプログラムを開発し、マニラ近郊の高校を中心に巡回デモンストレーションを開始した。今後日本語のニーズは、産業界はもちろん、大学や高校でもますます高まっていくことだろう。

           高校での日本語キャラバン

 いま日本語は、少子高齢化で人材不足にあえぎ将来に不安を抱える日本の人々と、人口過剰や貧富の格差拡大という問題を抱えながらもより良き将来を求めるフィリピンの人々をつなぐ、希望の鍵を握っていると言える。これまでジャパゆきさんがそうであったように、そう遠くない将来、フィリピン人看護師や介護士、それにIT技術者が日本の津々浦々で活躍する日がやってくるかもしれない。経済的な繁栄を成し遂げて、成熟した高齢化社会に向かうはずの私たちが、本当にアジアの隣人に信頼される存在になれるのか。お互いの相互不信を乗り越えて、心を開きより豊かな共生関係を築くことができるのか。そんな新たな時代を目前にして、私たちこそが試されているのかもしれない。不信感や偏見の克服というテーマは、まさに文化の領域だろう。「ジャパゆきを超えて」、それは今私たち全てに向けられたメッセージなのだと思う。


(了)

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