2007/07/30

文化の底力、インデペンデントの祭典

  今年で2回目となるコンテンポラリーダンスの祭典、「Wi-fi bodyインデペンデント・コンテンポラリーダンス・フェスティバル」が、フィリピン文化センターで開催された(7月12~15日)。主だった振付家・ダンサーの新作や、マニラ首都圏にあるバレエ・スクール、高校や大学のダンス部などによる作品披露のほか、今回初めての試みとなるコンペティション部門が注目を集めた。

 フィリピン人若手振付家による未発表のソロ又はデュオの作品を競うもので、合計12名が参加。国際交流基金マニラ事務所がスポンサーとなり、名付けて” Wi-fi JF NeXtage Award”。優勝者には2万ペソ(約5万円)の賞金と、来月に実施する予定のJCDN(ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)の公演に、日本から来る4組のグループとともに、唯一フィリピンから参加する権利が与えられる。そのコンペに私も審査員の一人として参加して、全作品を観ることができた。

 いずれも10分程度の短いものだが、それぞれの思いが凝縮された作品だった。抽象的、実験的な動きから、民族舞踊を取り入れたものや、物語性の高い演劇的作品までバラエティーに富んだ内容。夫に去られた未亡人の嘆きや、この国らしくゲイのラブストーリー、はては戦時中の日本軍人とフィリピン人女性の恋の話など。特に上位の3作品は評価が拮抗したが、優勝したのはアバ・ビラヌエバという女性振付家による「インサイド」というソロ作品だった。真っ暗な舞台の上にシンプルな照明によって約2メートル四方に区切られた空間が浮かび上がり、その中で次から次へと沸き起こる体の動き・リズムに乗り、微小な動きからやがてスクエア全体を覆う激しい動きへと展開していった。時にはその極小空間で巨人に見えるほどの圧倒的な存在感となり、とても完成度の高い作品に仕上がっていた。シンプルな作品といえばそれまでだが、特にフィリピン的かというとそんなことは全くない。優れて現代性を持つ作品は、国や民族性といったローカルなものをかえって感じさせないものだと、改めて思い直した。

              アバ・ビラヌエバ

 2年前にこの地に赴任して以来、コンテンポラリーダンスの公演にはなるべく足を運び、このブログでも紹介した通りマイラ・ベルトランを日本へ招待したり、ドナ・ミランダが日本のコンペティションへ参加する橋渡しをしたり(彼女は結局、「横浜ソロ・デュオ・コンペティション」で審査員賞を受賞した)、色々と試みてきたが、この2年という短い期間でも随分と新しい才能が育ちつつあることを実感して嬉しくなった。優勝のアバには、前述の通り日本の第一線の若手グループとの競演が待っているし、2位入賞の作品を踊ったエレーナ・ラニオグも、大阪で開催されたアジア・ダンス・ショーケース(7月28日、大阪ビジネスパーク内・OBP円形ホール、財団法人21世紀協会主催)に招待されて日本で踊っている。勢いを増すフィリピンのコンテンポラリーダンス界には、未知の世界へ分け入ろうとする大きな希望と期待があって、見ていてとても清々しい。

 さて今月のCCPでは、このWi-fi以外にも、インデペンデント系のイベントが続いている。既に演劇の「ヴァージン・ラブフェスト」が先行して行われ(6月28日~7月8日)、映画の「シネマラヤ・フィルム・フェスティバル」は先週末に終了したばかりだ(7月20~29日)。いずれも若手の才能発掘や新作の発表を目的として、メインストリームとは一線を画した内容が売りで、自前の制作費や手弁当などアーティスト個人の参加に支えられているイベントだ。国からの支援は雀の涙程度で、チケット代も「ヴァージン」が1公演200ペソ(約500円)、「Wi-fi」が200ペソから300ペソ(500円~750円、学生半額)、「シネマラヤ」が100ペソ(250円、学生半額)と、なるべく多くの若者が来やすいように安く設定されている。いずれも資金難にあえいでいて、マニラ事務所では「Wi-fi」以外にも、このインデペンデント系のイベント全てに助成金を出すなど協力をしている。商業主義に背を向けて頑張っているアーティストたちの支援は私たちのモットーなので、どれも重要なイベントなのだ。「シネマラヤ」については別にレポートするとして、今回は「ヴァージン」についても紹介しておく。

 「ヴァージン・ラブフェスト」はフィリピン人脚本家の集まりである“ライターズ・ブロック”の主催で、未発表(“unpublished”)の戯曲の初めての舞台化(“unstaged”)を競うものだ。海外からの戯曲を含めて全18作品、つまり18人の脚本家とそれと同数の演出家に、ざっと数えただけでも100人を超える役者、さらにそれ以上のスタッフが参加した。250名定員のCCPスタジオシアターを2週間にわたって貸し切り、1作品あたりそれぞれ4回の公演でのべ72公演もある一大イベントだ。日本からも劇団燐光群の坂手洋二氏が脚本家として(作品名「三人姉妹」)、また同じ劇団の若手演出家、吉田智久氏は演出家として参加した(作品名「テロリストの洗濯婦」、脚本はデビー・アン・タン)。私も日本のものを中心に18作品中、8作品を観ることができた。

 ところで劇団燐光群は、アジア諸国の演劇人と腰を据えて交流を続けている数少ない貴重な劇団だ。劇作家であり演出家である坂手洋二氏を中心に、戦争や天皇制の問題など社会的なテーマを真っ向から扱い、そのダイナミックな硬派ぶりから、私の最も敬愛する劇団の一つである。早くからフィリピン演劇に目をつけ、フィリピンから俳優を招聘しては自分たちの公演に起用してきた。そして招聘だけにとどまらず、逆に日本からもスタッフを送り込んでいる。前述した若手演出家の吉田氏は、2002年の9月から「文化庁芸術家在外研修制度」を利用して1年間マニラで武者修行を行った後、10回近くリピーターとして再訪を繰り返してはワークショップなどを行い、とうとう昨年フィリピン人女性と結婚して、”退路を絶って”長期間滞在し、いくつかの共同作業を進めてきた。

  その吉田氏が演出して2月に公演した「フィリピン・ベッドタイム・ストーリーズ」は大成功だった。ベッドをキーワードにした様々なかたちの愛憎劇を、日比両国の作家、役者、スタッフで長年にわたって作り上げたてきた、血の通った骨のある本当の共同制作である。2004年の初演であるが、今回はさらに装いを新たにして、フィリピン人脚本家の4作品に内田春菊の書き下ろし作品を加えて、計5作品を日比両国で上演した(マニラでは2007年2月17日~25日、会場:フィリピン文化センター他、主催:劇団燐光群、国際交流基金マニラ事務所他)。なかなか衝撃的な“代理母”の話や、この国に古くから伝わる吸血女“アスワン”のラブストーリー、ラストの春菊作「フィリピンパブで幸せを」では、フィリピン人エンターテイナーと日本人男性との出会いとスピード結婚をテンポの速いドタバタ喜劇で描き、満員の会場は大爆笑だった。

 その間、劇団側も昨年より3年間の計画でセゾン文化財団からフィリピンとの演劇交流のために助成金を獲得している。文化庁、基金、セゾン・・と、あらゆる手段を試みているのだ。演劇人にとってアジアとの交流はリスキーな分野だと思う。もともと世界の演劇界のメインストリームとはいえない日本だけれど、さらに日本以外のアジアとなると、インフラも不十分だし、世界的マーケットからはずれているし、例えばあちらから“招待”されても、飛行機代など結局は自腹を切ることになるのは必定。国際交流基金でもこれまでに主催事業などで多くの演劇人をアジア諸国に派遣しているが、その後自力で助成金などを獲って地道に交流を続けている人たちはとても少ない。そんな持ち出し必須の交流だからこそ、覚悟と見識が必要になるのだと思う。これから日本の社会は、アジアからもっと多くの隣人を受け入れていくことになるのは間違いない。アジア人種のるつぼ社会が近づいているのだ。もう既にそうなっているとも言える。重要なことは、なるべく早くその事実を受け入れること。そして日本人の特権意識をぬぐい捨てることだと思う。日本の演劇界からもほとんどかえりみられることのない、フィリピンの演劇人との交流を繰り返す燐光群は、ある意味では、そんな近未来の私たちの社会に先乗りして、来るべき時に備え、演劇が社会に果たすべき役割を探しているとも言える。

 さて「ヴァージン」に話を戻せば、個々の作品の完成度にばらつきがあるものの、かなりレベルの高い、内容の豊富なイベントであったと思う。おそらく現代演劇でも、せりふ芝居というジャンルでは、私の知る限り近隣の国々を凌駕していると思う。タイはなぜか伝統的に現代演劇が弱いし、インドネシアでは伝統に根ざした舞踊や肉体的な演劇(フィジカルシアター)に圧倒的な魅力があるが、せりふ重視の現代演劇となるとまだまだ良質なものは少ない。またウォーターフロントに劇場コンプレックスを擁して世界中から公演団を招聘し、いまやアジア舞台芸術のハブとなったシンガポールにしても、そこで作られる作品については、生活空間に根ざした物語のバリエーションが少なく、狭い世界観から生み出された頭でっかちの観念的で退屈な作品が結構多いように思われる。

      「テロリストの洗濯婦」(ニコラス・ピチャイ提供)

 水をはったバスタブの中で展開するこってりとしたゲイのラブストーリー。マニラの下町を舞台にゲイとオカマの“結婚”生活の日常を生き生きと描いた作品。そして吉田氏の作品は、やはりマニラの中華街の路地裏あたりのチノイ(華人)の生活を、洗濯婦と雇い主の家族を通してコメディータッチで描いた秀作。今回観た8作品はいずれも様々な世界を描いていて、言葉はわからなくても十分楽しめる内容だった。こうした物語のバリエーションの多様さが、確かにこの国の演劇を支えているのだと思う。そしてそこに盛られたたくさんの毒と、それを無力化させてしまうほどにあふれるユーモアやペーソス。決して声高に何かを主張するわけではないけれど、どの作品にも“生きたい”という思いがあふれていて、だからこそまた何度でも劇場に足を運びたくなるのだ。演劇の“辺境”、マニラのちっぽけなスタジオシアター。照明回線がねずみにかじられてボロボロの劇場だけれども、そこにはインデペンデントなスピリットが充満していて、この国の文化の本当の底力を感じさせるのだ。
(了)

2007/07/12

”テロリストの島”と「花より男子」

 ミンダナオ島の最西端、スールー海に突き出た歴史的要塞の町、ザンボアンガを訪れた。いつかは行きたいと思っていた場所だが、このたび国際交流基金の助成で、アテネオ・デ・ザンボアンガ大学の学生が参加する訪日研修を実施する可能性が高まったことをうけ、同大学との関係づくりのために訪問することにした。

 ミンダナオ島の南西部やスールー諸島が、広範にイスラム化されたのは、実はそれほど古い話ではなく16世紀半ばと言われている。そしてその約100年後には、今度はスペイン人キリスト教徒(イエズス会士)がやって来て、1635年にこの町に要塞を築いた。以来、スールー海やインドネシアのスラウェシやマルク諸島に連なる広大な海域を舞台に、スペインなどの植民地軍と、地元のイスラム教徒との抗争が続いた。その背景には、当時ここが貿易で繁栄していた先進地域だったということがある。そんな歴史を背負い、どこか趣のある美しい町だ。

        100年前のアメリカ総督府が現在の市庁舎

 ところが今のザンボアンガといえば、テロリストとの関連で思い出される“危険な町”というイメージが定着してしまった。今から1ヶ月前にも、ここから車で4時間のザンボアンガ・シブガイ州のある町で、イタリア人宣教師がアブ・サヤフと見られる武装勢力に誘拐され、いまだ未解決である。

 ミンダナオのイスラム分離独立運動は1970年代に盛り上がり、「モロ民族解放戦線」が政治の表舞台で活躍した。その後同戦線がフィリピン政府と対話を行う間に、組織が分裂して「モロ・イスラム解放戦線」が結成された。さらに1991年には、ザンボアンガから高速船で40分のところにあるバシラン島で、アブドラガク・ジャンジャラーニというイスラム神学生によって、より急進的なグループである「アブ・サヤフ」が結成された。

 アブ・サヤフは、当初はイスラム原理主義の団体であったが、創設者の死後、安易な誘拐や人質事件などを繰り返すことで変質し、現在では単なる“テロリスト集団”とみなされるようになってしまった。数々の誘拐事件やテロを列挙したらきりがないが、2001年に外国人観光客を誘拐して、このバシラン島に連行した事件は有名。昨年、創設者の弟であり当時の最高指導者であったカダフィ・ジャンジャラーニがフィリピン軍によって殺害されたが(殺害の場所はザンボアンガから船で8時間のホロ島)、彼はアメリカの情報提供によりGPSで居場所を探知された。そして密告者のフィリピン人には、米国政府から500万ドルの懸賞金が与えられた。まさに“キリングフィールド”。

 日本から限られた情報をもとに眺めていれば、ザンボアンガという所はさぞかし危険な場所に思えてくるだろう。特にこの町には、テロリスト掃討の拠点となっているフィリピン国軍ミンダナオ軍管区の本部があるし、アンドルーズ空軍基地には、フィリピン軍との共同作戦(表向きは“訓練”)のため、沖縄から米軍海兵隊もやってきている。要するに”キリングフィールド“への出撃拠点なのだ。当然外務省の海外安全情報も、最も危険度の高いクラスに次ぐ、「渡航の延期をお勧めします」という地域になっている。

 ただ、この海外安全情報は、あくまでも用心深く、“一網打尽”的に平均的な評価をしているもので、立場が変われば見方も変わるとか、時々刻々の状況の変化とかには、なかなか対応はできない。つまり確かな現地情報を得られれば、“危険“と思われている所だって、実はマニラなどと比べてもむしろ安全だったりする時もある。

 私は以前赴任していたジャカルタで、安全に関する認識について180度発想の転換を迫られた経験がある。1998年スハルト政権を退陣に追いやったジャカルタ暴動。当時ジャカルタ中が火の海となり、現地の日本人に対して国外退避勧告が出た。インドネシア全土に散らばるJICAの専門家や青年海外協力隊なども国外に退避、ジャカルタの高級住宅街に集中していた基金の派遣専門家もシンガポールに逃れた。そんな切迫した状況の中、基金のフェローシップで当時ジャカルタのど真ん中にあるスラムにホームステイして、都市開発について研究していたある若い学者から、ぜひそのまま居残って暴動の行方を見届けたいと懇請された。市内では暴動、略奪が横行していたが、そのスラムに住む住民は嬉々として“戦利品”を持ち帰っていたようで、敵の真っ只中にいるのが最も安全、という彼の判断だった。私はすぐに東京にその旨を伝え、本部の英断で彼をそのままジャカルタに残した。地域研究者にとっては千載一遇のチャンス、その判断は今でも正しかったと思っている。

 今回の訪問にあたっては、アテネオ大学の講師にあらかじめ町の様子を確認して、何ら問題はないということだったので決行したわけだが、実際に行ってみたところ、少なくとも町の中では軍や警察をほとんどみかけることもなく、あまりの見かけの平和さに拍子抜けがした。

 アテネオ・デ・ザンボアンガ大学は、イエズス会士によって1912年に創立された由緒ある大学で、付属の高校や小学校まで含めると6000人の学生を抱える。私立の名門校だけに学費も高く、キリスト教徒の富裕な家庭の子女が中心。被り物をしたモスレム女性はあまり見かけない。表敬訪問をした学長は、イエズス会のフィリピン人神父でもあり、ある意味では17世紀以来のキリスト教徒殖民の歴史と、今の姿を象徴している。彼はこの地の紛争について、「キリスト教とイスラム教という宗教対立ではない」と言い、マイクロ・ファイナンスなどの開発援助プロジェクトを通じて、貧困の問題を解決してゆきたいと抱負を語った。いわば“支配する側”の中枢にいる人といってもいいのだが、その真摯な姿から、少しは希望が見えてくる。

          アテネオ・デ・ザンボアンガ大学

 翌日、ザンボアンガからバシラン島に渡った。アブ・サヤフの生まれた土地であり、今も最大の活動拠点である。まあさすがにそこまで行くとなるとある程度の覚悟はいるし、何かあった場合の責任はどうなるんだということになるのだが、実際は、島へ渡る船内もいたって長閑なものだった。もちろんアテネオ大学講師の引率付きで、キリスト教徒が多数を占める危険地帯ではないイザベル市を訪問するということで決行した。バシラン島は6つの市に分かれていて、イザベル市と後述するラミタン市ではキリスト教徒が多数を占める。本当はイスラム教徒の町にも行きたいのはやまやまだけれども、現地の人が薦めない。このあたりが本当の限界というものだろう。

 イザベル市ではアテネオ大学とは反対の側、つまり長い間侵食され続けてきた“支配される側”のイスラム教徒が多く学ぶ、バシラン国立大学を視察することとなった。さらにイスラム教徒である学長の案内のもと、彼の出身地である隣町のラミタン市の分校を訪ねた。シュロの葉を葺いた屋根に、板張りの壁。ここから数時間の距離にあるアテネオ大学を思い出し、隣り合う二つの世界の間に広がる残酷なまでに明瞭な格差を感じぜずにはいられなかった。いかにも仮の作りという校舎では200人の学生が、政治学科、コンピューター学科、それに看護士学科に分かれて学んでいた。6割はイスラム教徒だという。“テロリストの島”の掘っ立て小屋のような学校でも、若い学生の関心を引き付けているのは、マニラの大学でもてはやされているITや看護コースだった。

          バシラン国立大学ラミタン分校



 四方田犬彦氏がパレスチナやバルカン問題について書いた言葉は、ここミンダナオでも真実だ。

 「繰り返していうが、民族と宗教の違いが戦争の原因となったのではない。戦争によって引き起こされた異常な状況が、エスニックな自己同一性を人々に準備させたのである。戦争とは単に軍事的な事件ではなく、人間の文化と生活を一変させ、彼らに敵との対立関係を通して新しいアイデンティティを与える。この時点においてもっとも身近にあって簡単に呼び出されたのが民族であり、宗教であった。」
 (「見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行」・作品社)

 イザベルの町でふと立ち寄ったモスクで、イスラム教徒の男子高校生から話しかけられた。イザベル市は、ジャンジャラーニ兄弟の生まれた町だ。彼らの人生の出発点も、こんな何のへんてつもない町のモスクだったかもしれない。テロリストの首領として米国政府から500万ドルの懸賞金をかけられた男の姿が、その男子高校生と一瞬だぶった。しかし彼らから出た言葉は、日本のマンガの話。「花より男子」が好きだという。屈託のない彼らの笑顔を見ていると、ここが世間で騒がれている“キリングフィールド”の一部であることを忘れさせてしまう。マニラや他の町でもやっているように、このバシランの高校や大学で、日本の映画を上映したり、よさこいソーランを踊ったり、そんなことができる日はいつやってくるのだろうか。いま“テロリストの島”でぼくらのできることは限りなくゼロに近いが、そんなレッテルの貼られた島にも「花より男子」が好きな高校生がいて、ITや看護を学び、外の世界へつながろうとしている大学生がいることを、忘れてはいけないと思っている。


(了)