2007/05/31

海を渡らなかったキュビズム

  パリ日本文化会館で、「アジアのキュビズム」という展覧会が開かれている(5月16日~7月7日)。20世紀初頭、ヨーロッパで生まれた美術様式の一つであるキュビズムが、アジア各国でどのように受け入れられ、また受け入れられなかったかを検証する展覧会である。アジア11カ国より、53人の作家、合計77点がパリに送られて、現在展示されている。しかしここに、今回の展覧会に出品されそこなった1枚の絵がある。フィリピンを代表する作家、キュビズムの第一人者といわれているヴィセンテ・マナンサラの「スラムのマドンナ」という作品だ。

 この作品は先の東京、韓国、シンガポール展の際にも展示されず、カタログに図版入りで紹介された(ちなみにパリ展のカタログにも登場している)。今回は、早々にパリ展の作品候補リストに入り、その出品交渉をわれわれマニラ事務所スタッフが行うことになった。実はこの絵、私も初めて図版を見たときに、一遍でぐっと惹きつけられた作品で、なんとか出展を承諾してもらうべく、オーナーに何度も電話をかけ、やっとのことで面談の約束を取り付け、直談判ではありったけの言葉でこの作品の素晴らしさと、今回の展覧会でいかに重要な位置づけであるかを強調した。かなりしつこいまでにねばったのだが、結局よい回答が得られず、最終的に出展はかなわなかった。

 マナンサラは、間違いなくフィリピンの美術史における最重要の作家の一人で、1910年生まれで1981年に亡くなるまで、独自のキュビズムのようなスタイルを中心に多くの作品を残した。今回のパリ展でも、「スラムのマドンナ」にはふられたが、彼の別の作品が3点(「コラージュ」(1969年)、「磔刑」(1971年)、「ヌード」(1973年))も展示されている。その彼が人生の半ば、40才に達した1950年に描いたのが、この作品だ。当時彼は、フィリピン人として戦後初めてユネスコの奨学金を得て、カナダに6ヶ月間滞在した。そして一旦帰国した後、今度はパリへ留学して、レジェという作家に師事して本場のキュビズムに出会うこととなった。この作品は、そうした海外渡航の合間に描かれたもので、その後の彼の進路を暗示する重要な作品となった。

 以前このブログでも触れたことがあるが、フィリピンにおけるアカデミズム画檀の歴史は意外と古い。スペインの植民地時代、エリート教育の一環として絵画が導入され、何人ものフィリピン人が画学生として西洋に渡ったが、その中で、ホアン・ルナとフェリクッス・ヒダルゴという二人の作家が頭角を現し、1884年には二人そろってマドリッドのサロンで金賞と銀賞を受賞するという象徴的なできごとがあった。1884年当時の日本といえば、西洋画の基礎を築いたと言われている黒田清輝が、18歳で初めてパリに渡った年。日本洋画壇のアカデミズムを牽引することになる“外光派”が成立するには、さらに10年を要した。その頃フィリピンには、既に西欧の本場サロンで認められる作家が複数いたということが、この国におけるアカデミズムの早熟ぶりをうかがわせる。ちなみにこの時代の作品の多くは、今でもシンガポールや香港のオークションにかかり高値で売買されていて、2002年には政府系のGovernment Service Insurance System(いわゆる日本でいま話題の“社会保険庁”にあたる)が、ホアン・ルナの「パリジャンの生活」(1892年)を、4600万ペソ(約1億円)で競り落として購入したことが話題となった。どこの国でも、この社会保険を財源とする金は不透明極まりなく、行き場所にも困っているようだ。

     ホアン・ルナ作「スポラリウム(略奪)」(1884年)

 さてそんな強固なアカデミズムに対抗し、第二次大戦前あたりから反旗を翻したのが、 “サーティーン・モダーンズ”と呼ばれる13人のアーティストたちで、マナンサラはその一人と位置づけられている。

 そしてこの「スラムのマドンナ」だが、今回の展覧会の出品候補リストに載せられたのは、私が考えるところ二つの理由があると思う。一つはカソリックが主流を占めるこの国で、繰り返し描かれる母子像がテーマとなっているから。その姿は当然、幼子(おさなご)キリストとマリアの聖母子像にだぶる。展覧会場となるパリは無論キリスト教文明圏で、誰もが容易に解釈ができ、その文脈を理解(誤解)することのできる図象だからであろう。さらにもう一つ、それはおそらくスラムという表象が持つ、ある意味わかりやすいアジアのイメージによるものだろう。廃墟のようなバラック小屋の建て込むスラムの前で、幼児をすっくと抱いて、怒りや不安の中にも毅然と胸をはる若い母親。こうした二つのイメージの交差するこの作品は、今回の展覧会のモチーフを明瞭に象徴する。“悲しき熱帯”であるフィリピンに、キリスト教という西洋文明が移植された図は、あたかもキュビズムという西洋美術の技法が、土着の文化に移植された姿と二重写しになるだろう。

 でも、私がこの絵から感じるものは、そうした観念的なことではなかった。この絵の中に潜む強靭さ、そして不気味にも不屈な眼差しは、一体どこから生まれたのだろう。そして、自分自身、どうしてこんなにまでこの絵のことが、心のどこかにひっかかるのだろうか・・・いろいろ調べているうちに、あることが気になり始めた。

 この絵が描かれたのは1950年。マナンサラの作風に決定的な影響を与えたといわれる太平洋戦争の終結から5年後のことである。マニラで生まれ育った彼は、日本軍の侵攻後、北部の田舎に疎開をしていた。戦争終結とともに再びマニラに戻って見たものは、その後の彼の創作人生を決定付ける光景だった。破壊され尽くし荒廃したマニラの街。それ以来、彼は麗しき自然描写をいっさい放棄したという。

 「1945年2月3日にサント・トーマス大学の民間人収容所解放に始まったマニラ解放戦は、翌3月3日をもって日本軍が完全に掃討されるまで約1ヶ月にわたり続いた。この間にマニラ市街は文字通り廃墟と化し、日本軍守備隊約2万名はほぼ全滅、米軍も約7千名の犠牲者を出した。しかしなんと言ってもマニラ戦最大の犠牲者は、約10万にのぼると言われる非戦闘員・民間人であった。その恐らく7割が日本軍による殺戮と残虐行為の犠牲者、残り3割が米軍の重砲火による犠牲者だとされる。このように第2次世界大戦でワルシャワに次ぐ都市の破壊と言われ、また日米間で戦われた初めての、また最大の市街戦であったマニラ戦は、その結果の悲惨さゆえに、解放戦であると同時に「マニラの破壊」あるいは「マニラの死」とも呼ばれている。」
(中野聡・一橋大学教授のホームページより、「戦争の記憶」に関する同氏のホームページは、多くの示唆を与えてくれる。)

 「マニラの虐殺」ともいわれ、今も語り継がれている惨事だ。マニラの旧市街には、「非戦闘員犠牲者(non-combatant victims)」10万人を追悼する祈念碑が立ち、いまも毎年2月に追悼式が行われている。その出来事は繰り返し繰り返し、フィリピン人の間で語り継がれていて、私がこの国に赴任した2005年にも、「Terror in Manila」(メモラ-レ・マニラ1945財団)という本が新たに出版された。60年以上を経た今日でもいまだ呼び覚まされている記憶。戦後5年という時間は、凄惨な「マニラの死」から癒されるには全く不十分な月日であったに違いない。この絵に漂うただならぬ怒りと、それを包み込む絶望の先には、廃墟のマニラが広がっていたのではないだろうか。この作品を契機に彼のキュビズム人生が始まるともいえるのだが、私が思うに、彼は彼のその後の人生を決める重要な局面で、5年前のあの廃墟のマニラを思い出していたのではなかろうか。不気味にも不屈な母子像が心のどこかにひっかかるのは、そこに告発の眼差しがあるからだ。

             メモラーレ・マニラ1945記念碑

 展覧会はある意味、時に残酷だ。絵は見られてこそ価値が生まれ、見られ、消費されることでその絵を巡る物語が作られる。もしもこの「スラムのマドンナ」が海を渡ってパリに行っていたら、どんな物語を我々に示してくれていただろうか。または隠してしまったであろうか。いずれにしても1枚の絵と対峙する時、重要なのは、その絵がこの私に一体何を語りかけるのか、ということだと思う。

 「スラムのマドンナ」のオーナーと出品交渉していた時に聞いた話の中で、今でも気になっていることがある。彼女は現在、著名な内科医としてサント・トーマス大学病院に勤めているが、両親は戦前からフィリピン美術のコレクターであった。当時マニラ旧市街にあった倉庫には、マナンサラの戦前の作品をはじめ、多くの美術作品を所蔵していたという。それもあの「マニラの破壊」で灰塵に帰してしまったそうだ。そして、その後調べてみてわかったことだが、母親は国立博物館の美術課長を務めたこともある研究者でまだ健在だが、コレクターであった父親は、1958年に45歳の若さで他界している。その父親だが、終戦後、日本軍の協力者としてフィリピン人民裁判で“売国奴”として有罪となり、4年間も獄中にいたようだ。今回の出品拒否と、ファミリーの戦争体験と、因果関係があるか否かはわからない。しかし、そこにも絵画を巡って、私たちの知る由もない別の物語があるのは確かなことだ。

 いまから57年前のマニラで描かれた「スラムのマドンナ」。哀しいことにスラムはいまでもマニラの街の代表的な表象だ。結果的にこの絵に描かれた現実は、今でも同じように生々しく存在している。それは戦争による荒廃ではなく、グローバライゼーションというもの静かな侵略と、腐敗政治による荒廃の中にある。


(了)

2007/05/10

日本を夢見る日本人のこどもたち -ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン-

 日本で生まれ、日本人の両親を持つ私たちには自明のものである日本国籍。この日本国籍をめぐって、フィリピンには、私たちの想像力をはるかに超える物語がある。

 ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン、通称“JFC”といわれる日比混血児。“混血児”というと最近では差別用語らしい。誰だって多かれ少なかれ“血”は混じっているのに、そこで“日比”を強調することで偏見や差別が生まれるのだ・・という主張だ。ちなみに“ハーフ”という言い方も古いようで、“ダブル”という言葉が使われ始めている。“血”という物理的な交じりに焦点を当てるのではなく、文化的なアイデンティティに着目すれば、二つの文化を背負った“ダブル”になるという意味だ。

 さてそのJFC(これだってなんだかフライドチキンのようでとても気になるのだけれど、まあそれはさておく)だが、特に1980年代から急増したフィリピン人エンターテイナー(女性)と、日本人男性との間に生まれた子供が多く、現在、約10万人以上いると見られている。多くはフィリピン国籍を持ち、フィリピンに住んでいるが、日本国籍を持っている子供たちもいる。そんな7才~18才のJFC、8人からなるテアトロ・アケボノの日本ツアー直前公演が、マニラで行われた(5月10日、セント・スコラスティカ・カレッジ)。

 この劇団を主宰しているのは、マニラを拠点に活動するDAWN(Development Action for Women Network)というNGOで、日本へ渡ったエンターテイナー(通称ジャパゆきさん)の、帰国後の心のケアや、自立支援を推進している。厳しい労働、性的虐待、結婚や恋愛の失敗、そしてフィリピンへ帰国後の周囲からの差別や生活苦などで、精神的バランスを崩す女性が多く、このDAWNは、そうした心に傷を抱えた元ジャパゆきさんの駆け込み寺となっている。そして、カウンセリングや研修にやって来る母親とともに多くのJFCがこの事務所を訪れるが、いつしかそうした子供たちに対しても、日本語を教えるなど、支援活動を行うようになった。このテアトロ・アケボノもそうしたJFC支援活動の一環で、日本公演ツアーはこれで10回目になる。


 DAWNと僕たちとの関係は、昨年11月、このブログでも紹介したことのある、アルマ・キントという女性アーティストによるワークショップを、国際交流基金マニラ事務所の助成事業として実施したことにさかのぼる。参加したのは元ジャパゆきさんのお母さんとJFCの子供たち。将来の夢をドローウィングやパッチワークで作品に仕上げ、アートを通して心のヒーリングをしようというものだった。そして、今度はそのワークショップに参加した子供たちを中心に8人のメンバーが劇団を作り、日本へ公演旅行に行く計画だ。そのための準備ワークショップも、マニラ事務所が協力して実施した。


 この劇団のメンバーの中に、マサユキ(13才)とチエコ(10才)という二人の兄妹がいる。両親が同じ兄妹でも、兄は日本人、妹はフィリピン人だ。マサユキは3才まで日本にいたが、その後両親は離婚して母親はフィリピンに帰国。帰国の際に母のお腹の中にいたチエコは、父親から認知を受けることもなくフィリピンで生まれ、その後、父親とは音信普通となった。日本の民法では、母親が外国人で、日本人の父親と結婚していない場合、日本国籍を取得できるのは、父親による出生前の認知が前提。JFCが抱える多くのケースでは、父親が行方不明、もしくは認知がなされず、結果的に母親のフィリピン国籍となるケースが多い。でも日本国籍が取得できたとしても、無論それだけで幸せになれるとは限らない。マサユキの場合、周りのいじめや、母親が家にいつかなかったこともあり、やがて不登校となってしまった。DAWNに通うようになり、同じ境遇にいる友達と出会うまでは、希望を失っていたそうだ。今では、母親とともに事務所の近くに移り住んで、学校にも通っている。昨年のアート・ワークショップにも参加していたが、ドローウィングがとても繊細で色使いもうまく、きらりとした才能を感じさせる子だ。

 実はこのJFC問題、このところようやく社会的にクローズアップされるようになってきている。セブ島にある日本人会では、JFCのための日本語クラスを運営したり、日本国籍を持つJFCの日本渡航と仕事の斡旋なども始めている。日本国籍を持つJFCは、フィリピンでは、法律的にはいわば不法滞在者(ビザなしで長期滞在している)で、日本へ出国するためには多額の罰金を支払う必要がある。が、そんな大金、普通は持っていない。セブ日本人会では、そうした不遇な日本国籍のJFCを助けるべく、アロヨ大統領と出入国管理局に嘆願状を出し、日本出国にあたっての罰金の免除を訴えていたが、このたびその嘆願が認められるという朗報もあった。

 2004年の統計によれば、日本の婚姻の年間総計が72万組で、国際結婚が約4万組。その内、夫が日本人で、妻がフィリピン人のケースが8,400件。ちなみに逆はたったの120組で、やっぱりフィリピン人男性は日本人女性にあまり人気があるとはいえない。いずれにしても、フィリピンは、日本人の国際結婚の相手としては中国に次いで堂々の2位だ。子供(JFC)の数も、数千人から1万人のオーダーで毎年増え続けており、現在は、冒頭に書いた通り10万人を超すと言われている。しかし、その多くは貧しい階層の出身で、社会的弱者、周囲の偏見にも囲まれて悲惨な状況にある。

 世の中の人々の間では、所詮ジャパゆきさんと無責任な日本人父親の身勝手から生まれた悲劇、プライベートな問題にまで一々同情はできないという意見もあるが、子供たちに罪はないことは確か。ある時期大量のジャパゆきさんを生み出したのは、そもそも日本とフィリピンの社会が持つ宿痾という側面もあるし、JFC問題に対応できない両国の現行法の不備も指摘されている。たとえば、この国で暮らす日本国籍を持ったJFCに、日本国憲法で保証されている、いまや話題の“生存権”-すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する-が与えられているのだろうか、と疑問に思えることも多い。そんなJFCをめぐる様々な問題に対処すべく、先月、DAWNと同じビルの中に、Center for Japanese-Filipino Children’s Assistanceという新たなNGOが立ち上がり、まずはJFCの実態調査をということで、初の全国調査が始まった。「10万人のJFC」とはいうものの、その数字はまったくの推測。人数はもとより、国籍、生活状況など、データの蓄積はゼロ。一体どれくらいの日本国籍を持ったJFCがいるのかもわかっていない。

 さてテアトロ・アケボノの今回のツアーには、もう一つ重要な仕掛けがある。この8人のJFCの日本公演、そして父親の国への旅を、もう一人のJFCであり、現在フィリピンで最も注目されている若手脚本家が同行取材して、新作映画を製作するという構想だ。脚本家の名前は山本みちこ。氏名は日本名だが、フィリピン国籍。日本語は全くわからない。父親が日本人だが、一度も会ったこともなければ、本人にとっても初めての訪日になる。国際交流基金では、毎年その国の重要な文化人を短期間招待するプログラムがあるが、今年はこの山本さんを選んだ。実はこの山本さん、このブログでも以前紹介したことがある。2005年7月の原稿で、彼女にとって脚本2作目となったデジタル映画「マキシモ・オリベロスの青春」(2005年製作)のことを書いたが、その後のこの作品の“快進撃”はすごかった。国際映画祭での受賞だけでも、モントリオール世界映画祭でGolden Zenith for Best First Fiction Feature Film(2005年)、ロッテルダム国際映画祭批評家賞(2006年)、ベルリン国際映画祭・テディアワード(ゲイ、レスビアン部門)作品賞(同年)。そして世界中のインディー映画人憧れの的、サンダンス映画祭(同年)にも公式招待され、さらに結局エントリーは実現しなかったが、前回の米国アカデミー賞外国映画部門にフィリピン代表として推薦を受けた。そんな彼女の次回作、映画関係者のみならず、多くのフィリピン人が注目している新作、それがJFCの物語なのだ。山本さん本人はとても恥ずかしがりやで、なかなか自分について多くを語ろうとしない中、JFCについてのストーリーを夢見る彼女の目はきらきら輝いていた。

    「マキシモ・オリベロスの青春」の主人公マキシモ君

 今回の日本ツアーは、埼玉、川崎、新潟、大阪、福岡などを巡演し、各地の学校や教会などで公演を行う予定だ(5月18日~6月5日)。ミュージカル仕立ての芝居で、マサユキやチエコの両親たちのストーリーを、メンバーみんなで作り上げた。劇中、彼らの心中を正直に吐露するショッキングな場面もある。そしてツアー中、もう一つの目的、父親探しと対面が待っている。

 「ぼくはお父さんが大嫌い。でも、思い出さずにはいられないのは何故だろう。ぼくが今、どんな気持ちでいるか、お父さんが知る日は来るのだろうか。ぼくがどれだけ傷ついているか、お父さんにわかってほしい。ぼくの心の傷や悲しみを、すべて吐き出してしまえたらいいのに。いつか、どうにかして、お父さんへの憎しみはなくなるだろう。お父さんを許す?今はまだ・・」(テアトロ・アケボノ公演「贈りもの」より)

 今回日本へ行ける子供たちの背後には、多くの声なき子供たちが待機していることを、忘れることはできない。そうした子供たちに対する自立支援、法律援護についても、今後ますます課題が多くなることだろう。片親が日本人であるならば、いつでも誰でも日本の国籍取得を選択する自由を持つ、そんな単純なことが早く実現されることを願っている。日本に対する神話的幻想は、まだまだこの国では、まして最低限の生活を余儀なくされている人々からすれば、色褪せることはない。けれども、だからといって、あたりまえのことだけど、日本国籍が幸福を保証するとは限らない。日本か、フィリピンか、どちらの国籍を選択するにせよ、一つだけ確かなことは、彼ら、彼女らが、近い将来、日本とフィリピンの二つの国をつなぐ大切な財産になるであろうことだ。その意味で、テアトロ・アケボノや、山本さんがやり遂げようとしていることを応援し、そして多くのジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンが、彼らに続いて少しでもその夢に近づけるように、わたしたちは見守ってゆく必要があるのだと思う。
(了)