このブログではあまり旅行記のようなことは書かないのだけれど、先日訪れたビガンはとても面白い土地なので、あえてここで報告します。
富が集まるところに貧が生まれて格差が顕在化する。富が集まるところではまた知が生まれ、やがて社会を変えてゆこうという志を育む。世界遺産にも登録されているスペイン時代の古きノスタルジックな街並みの残るビガンは、そんなことを考えさせる場所だった。
この町にはある絵が見たくてやって来た。『バシーの反乱』とタイトルの付けられた14枚連作の油絵。エステバン・ビリャヌエバというビガンの商人でかつ画家の作品で、現在はブルゴス・ミュージアムに所蔵されている、というか何気なく飾られている。1821年の制作で、おそらく現存する作者のはっきりとわかる西洋風歴史画の中で、アジアで最も古い作品であろう。
ブルゴス・ミュージアム
フィリピンの美術は意外にも早熟である。スペイン植民地時代にもたらされた近代絵画は、この国では美術史的にはコロニアル・アートと総称されるが、19世紀初頭には既に肖像画家として成功を納めるスペイン人とフィリピン人による混血(メスティーソ)の画家を何人か生み出している。さらに驚くべきことに、同時期にマニラから遠く離れたこのビガンという北部の地方都市にさえ、独特で素朴な画風で知られる画家がいたことだ。ちなみにインドネシアには近代絵画の黎明期にラデン・サーレという作家がいたが、その代表的な油絵である『嵐』が描かれたのが1851年。その頃の日本といえば、葛飾北斎が没したのが1849年。後に西洋的なリアリズムによる油絵の技法を学び、『鮭』や『花魁』などの作品で“明治初期の洋画家”として知られる高橋由一が生れたのが1828年である。フィリピンにおける西洋画の歴史がいかに古いものか、だいたい想像がつくと思う。
ビガンを中心とした北ルソン西部の海岸地帯は、スペイン植民地の礎を築いたレガスピの孫であるサルセド(私が住んでいるマカティのビレッジ名でもある)による平定の後は、サトウキビやタバコのプランテーションと専売が進んだ。“バシー”とは地元のサトウキビ産のワインのことで、この連作絵画は、このバシーをめぐり1807年に実際に起こった農民一揆を描いたものだ。スペイン植民地政府は18世紀末からバシーの流通を抑え地元民の取引を禁止した。その専売反対に端を発した農民たちの一揆を、発端から平定そして処刑までの物語の形式で描いている。もともとこの作者は、おそらくはスペイン政府からの依頼で反乱農民への見せしめの意味で描いたようだが、約200年を経た今、皮肉にもフィリピン人によるスペイン植民地政府に対する抵抗運動の初期の歴史的事実を証明する貴重な資料として記録にとどめることとなった。
反乱軍が決起。ハーレー彗星が不吉な予感を告げる。
バンタイ川の戦い
首謀者の処刑
細部
このビガンを中心としたイロコス地方は、この「バシーの反乱」以前も以降も、激しい抵抗の歴史に彩られている。
学歴社会のフィリピンで、博士号を持っていてあたりまえの学術界の中で、それも最高学府の国立フィリピン大学で、博士号を持たない学者として舌鋒鋭くあらゆる植民地言説に常に反骨精神を燃やすアーノルド・アズリンという学者もまた、このビガンの出身だ。ちなみに基金ではアジア域内の第一級の知識人を日本に集めて一定期間生活を共にするアジア・リーダーシップ・フェローという事業を1996年に開始したが、彼は初代のフィリピン代表である。手前勝手ながら“無冠の反骨学者”を招待するとはなかなかいいセンスだなあと思う。その彼は「After Cristobal Colon: The Dialectic of Colonization /Decolonization in Ilocos(コロンブス以降:イロコスの植民地化/脱植民地化の弁証法)」(『Reinventing the Filipino Sense of Being and Becoming』所収、フィリピン大学出版局、1995年)という論文の中で、ビガンの街並みを“古き良き”スペイン時代の“麗しい”継承ととらえることは、サルセド将軍以来の征服とその暴力による血塗られた住民の受難の歴史を振り返る時、決して許される言説ではないと主張する。それはフィリピンの歴史をゆがめるものだ。スペインを美化するどころか、ビガンの街は反骨精神を胚胎していたという。
「外見的にスペイン風の誘惑や鎧や様式で飾られていたにもかかわらず、ビガンの街は結果として社会・政治的な変動とヨーロッパを覆うイデオロギーの流れに沿って動くさざ波を吸収していた。」
農民の反乱は早くも1589年に起こる。その後記録で明らかな大規模な反乱だけでも1669年、1762年、そして「バシーの反乱」の1807年。「バシーの反乱」以降も反骨の、あるいは革命的な、またあるいは社会改革を希求する多くの傑出した人物を生み出してきた。改革派神父として1872年に処刑され、この国の独立運動を早めたと言われているブルゴス神父。独立運動カティプナンのリーダーとして活躍し、その後教会の民主化を求めて独立派教会を創設するアグリパイ。芸術の世界では、『スポリアリウム(虐殺)』の成功で西洋画壇で評価される一方、独立運動にも大きな影響を与えたホアン・ルナ。第二次大戦後、初のフィリピン議会選挙で下院議員となったフロロ・クリソロゴは労働運動を支援し続け、現在この国の労働者を支えるソーシャル・セイフティー・ネットであるSSSの創設に尽力した。それから忘れてはいけないのが80歳を過ぎてなお意気軒昂で植民地根性を激しく糾弾し続けている社会派作家、シオニール・ホセ氏の故郷もこのイロコスだ。
そしておそらく極めてつけは何と言ってもフィリピン史上最強の弁護士と言われ、32歳の若さで憲政史上最年少の下院議員となり、48歳で大統領になったマルコスだろう。彼もおそらく若き頃は理想に燃え志高く、大胆な社会改革を夢見ていたのかもしれない。彼の遺体はこのイロコスのバタックという生れ故郷の町の生家に防腐処理をされて今も横たわっている。その遺体が安置された部屋の前には「全ての人類の父」と題して次の言葉が掲げられている。
マルコスの生家と遺体の眠る博物館
「かくも多くの我々人間は腐敗や貪欲、そして暴力の中に生きている。しかし忘れてはいけないのは、この国は、いやいかなる国でも、自己主義的な目的ではなく、人々共通の善を求めて兄弟として生きることを学ぶことなしに永続と繁栄はありえない。
我々の自己欲と腐敗、そして無責任な態度を永遠に退け、我々の生命を創る強靭さを我々に与えたまえ。」
貪欲と物質主義の限りを蕩尽した大統領とその取り巻き。北イロコスの片田舎の湖のほとりには、その見果てぬ夢と宴の後の残骸が呆然と残されている。反骨精神を胚胎する故郷として多くの気骨ある革命家、社会運動家、思想家、芸術家を生み出した土地は、また人間という存在の弱さを教えてくれる場所でもあるのだ。
物欲の象徴、”北のマラカニアン”
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