スペイン語で顔(カラ)がいっぱい(マス)、という意味の「マスカラ」。個性的なマスクにカラフルな衣装をまとったいくつもの集団が、軽快な音楽にあわせて激しく踊りながらストリートをパレードする。それを熱狂的な地元市民はもとより、フィリピン全国、そして海外から集まった多くの観衆が取り巻く。毎年十月に行われるバコロドのマスカラ・フェスティバルだ。燦々と照りつける太陽の暑気と人々の熱気にあふれたストリートダンスの祭典に、コンペティション部門の審査員として招待された。
バコロドは中部ビサヤ諸島の中央に位置するネグロス島の西の中心都市。ネグロスといえば”砂糖の島”と呼ばれるほどで、町をちょっと離れればそこには広大な砂糖きびのフィールドが広がる。
かつて1980年代の中頃、ネグロス島という地名を初めて知ったのは、”飢餓の島”を救おうという日本のNGOのキャンペーンを通してだった。当時、島の多くの農民は一握りの大土地所有者の砂糖プランテーションで生計を立てていたが、砂糖の国際価格暴落によって末端の契約農民の収入は途絶え、多くは飢餓にあえいでいた。極限状態の農民は地主に対して待遇の改善を訴えてストライキを繰り返し、反発する地主側との発砲によって死者も出た。混乱に乗じて反政府ゲリラや共産党の武装組織である新人民軍も多く島内に浸透し、ネグロスは一触即発の危険な状況に置かれていた。
このマスカラ・フェスティバルは1979年に始まったとされるが、そうした危機の最中でも途絶えることなく、疲弊した人々の心を鼓舞する意味も加わって回を重ねてきた。“飢餓の島”で苦悩してきた民衆が、年にたった一度だけ熱狂できるお祭りとして大切に育ててきたのだろう。そんな人々の心意気の感じられる祭典だった。
3日間にわたるストリートダンスのコンペティション。初日は小学校と高校の部で17チーム。2日目がバランガイ(町内会)の部で22チームと、夜行われたエレクトリック・パレードならぬ”エレクトリック・マスカラ”の部で8チーム。そして最終の3日目はオープンの部で15チームが参加した。35人から65人でチームを組み、市内パレードでのストリートダンスとメイン会場での6分間の振付作品を披露し、ダンス、衣装、マスクの良し悪しなどで競う。絶望的な暑さの中、私は2日目と3日目の審査を担当し、のべ13時間、45チームの踊りを見たことになる。
日本の祭りのように、基本的には町内会(バランガイ)ごとに参加するフェスティバルだが、これがバランガイ同士の競争心をかきたててコンペの結果発表の際には異様な盛り上がりを見せる。どのチームも趣向を凝らしたマスクと衣装で見ていて飽きないが、特に印象に残ったのがオープン部門で優勝したバランガイ・マンダラガンのチーム。派手なマスクに息のぴったりと合ったダンス。何より踊ることの喜びを全身全霊で表現していることが伝わって来て、審査していた自分もぐっと熱くなった。彼らのダンスを見ていると、人は何故に踊らずにはいられないのか、なんとなくわかるような気がする。ある種の祈りや陶酔、そして蕩尽といったものが祭りを発生させる源だとすれば、“飢饉の島”で苦悩する民衆をして年に1回熱狂に駆り立て、エネルギーを蕩尽させるこのイベントは、まさに祭りの本質を垣間見させてくれた。
優勝したバランガイ・マンダラガンのチーム
今回このマスカラ・フェスティバルで、バコロドの人々の創造性と熱狂を目の当たりにして、”飢餓の島”としてインプットされていた私のネグロスに対するイメージが大きく変わったが、さらに驚いたのが、そのバコロドから北に20キロにあるシライという町の存在だ。以前このブログにビガンのことを書いたが、この町もビガンと同様にスペイン時代の富を象徴し、今もその遺産の風情を色濃く残している。アンセストラル・ハウスと呼ばれる19世紀後半以降の歴史的建築物が30以上も残されていて、その内の2軒が博物館となって公開されている。いずれもシュガー・バロン(砂糖貴族)として財を成したファミリーの邸宅で、現代に連綿と続く名家をいくつも生み出している。
また蓄えた財力は子供の教育に投資したため、その名家からは優秀な法律家、政治家、そしてアーティストが輩出された。フィリピンで初めて欧米の歌劇場で『カルメン』のタイトルロールで成功したメゾ・ソプラノのコンチータ・ガストンや、この国で最も著名な建築家でナショナル・アーティスト、CCPやマンダリン・オリエンタルなど数々のホテルを設計したレアンドロ・ロクシンもこの町の出身だ。今もロクシン家は町の中心部にあるいくつかのビンテージハウスを所有している。偏在する富によって生み出された知や芸術が、この国の根幹を支えていることはまぎれもない事実だ。
以前にもこのブログに書いたが、私が初めてこのバコロドを訪れたのは20年も前のことだ。
神田の本屋で見つけた一冊のミニコミに書かれた「The Black Artists in Asia (BAA)」というグループの不思議な響きに惹かれてここまでやって来て、3人のアーティストに出会った。その中で今でも印象に残っているのは、骨太の黒い輪郭線で克明にしっかりと描かれた、大きな目をした素朴な農民の像。鋤や鍬とともにライフル銃をかついでいて、どことなくユーモラスだが、実は殺気に満ちているという不思議な油絵だった。ヌネルシオ・アルバラードという画家の作品だ。彼は危険を承知で島の奥地へ入り込み、おそらく新人民軍の兵士らと寝食をともにして、あの油絵を描いていたのだろう。今でも同じスタイルを頑固に貫きマニラで活躍している。
ヌネルシオ・アルバラード『給料を待つ』(1994年)
それから伝統的な素材や日常的なオブジェで作品を創るノルベルト・ロルダン。彼もその後マニラに出て今はグリーン・パパイヤというオルターナティブスペースを運営しており、若い芸術家たちに貴重な場を提供している。そして3人目は幻想的な作風で不気味な人物像を描くチャーリー・コー。みな20年前は20代後半から30代前半の油の乗りきった時代で、ネグロスという”飢餓の島”から世界に向かってアートで告発を始めていたのだ。
アジアの現代美術は、70年代末より福岡市美術館によって本格的な日本紹介が始まった。国際交流基金も90年代初頭から様々な展覧会を企画し、アジア美術が国際的に注目される道を切り拓いてきた。いまや多くの作家の作品が香港やシンガポールのオークションで高値で取引されている。特にフィリピンでは社会的なテーマを扱う”ソーシャル・リアリズム”の作家の活躍が目覚しく、アルバラード、ロルダン、コーの3人もメッセージ性のある力強い作品が評価され、これまでに何度か日本でも紹介された。なおご参考まで、11月22日と23日に国際交流基金の東京本部で過去20年間にわたるアジア美術をめぐる諸問題を振り返る国際シンポジウム「Count 10 Before You Say Asia」が実施されますので、ご関心のある方は下記WEBサイトをご参照ください。http://www.jpf.go.jp/j/culture/new/0810/10-01.html
マニラに出たアルバラードやロルダンとは異なり、コーはいまだバコロドに残ってこの地域のアートを牽引している。彼が2005年にオープンしたオレンジ・ギャラリーを訪ねた。2階と3階のフロアーは一帯にショッピングモールを経営する実業家から無料貸与されたという。月に1度は若手アーティストの企画展を実施しているが、ほとんどの作品がインスタレーション中心で、このバコロドという地方都市でどうやってこのスペースを運営しサバイバルしているのかとっても不思議だ。私が訪れた最中も”マジカ・マスカラ5”というバコロドの光と影をテーマにした展覧会を実施中だった。お祭り騒ぎのこの時期、こうやって影の部分も見逃さないことに彼の真摯な思いを感じた。かつて”飢餓の島”と呼ばれた場所で、アートを通してメッセージを発信し続けるコーたちを支援し、日本のアーティストとの交流などできないものかと、今は次の可能性を考えている。
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