今年も開幕しました。コンテンポラリーダンスの祭典。今年が4回目で、年をおうごとに増殖している。CCPを会場に8日間で12の公演、8回のワークショップ。ダンス映画の上映と写真展にセミナー。そして13組の新進振付家が競うコンペティションなど盛りだくさん。何日か通えば、この国のダンス界を俯瞰できるようになること請け合い。
一昨年に続いて今回も審査員をすることになったコンペでは、新しい才能の発見にいまから期待感でわくわくしている。このコンペの優勝者や準優勝者の中から、毎年横浜で行われる横浜ダンスコレクションR、ソロ・デュオ・コンペティションに推薦してきたが、ご報告したとおり前回はローサムという男性振付家がなんとグランプリに輝いてしまった。今年もローサムに続けと、皆気合が入っている。
それから昨年に続いて日本人振付家・ダンサーも招待した。森下真樹さんという目下売り出し中のアーティストで、著名な振付家・伊藤キムの下でダンスを学び、発条ト(バネト)というダンス・ユニットで活躍。元気な踊りが信条のようで、マニラのダンス界にどんな旋風を巻き起こすか楽しみだ。
主な日程は以下のとおりなので、ぜひ会場まで足を運んでください。
6/26(金)午後8時~ 大学のダンスカンパニーとしては最もレベルの高いUPダンスカンパニーの公演。
6/28(日)午後6時~ 民間ダンスカンパニーとして最もレベルの高い、イケメン集団のエアー・ダンスによる公演。横浜グランプリのローサムなどが出演。
7/2(木)午後8時~ 森下真樹のソロ、ローサムとのデュオ。
7/4(土)午後3時~/6時~ 新進振付家コンペティション
2009/06/26
2009/06/19
バタネス、ああバタネス
とうとう行ってきました。南の国の北の最果て。想像以上に素晴らしいところだったので、ここで一気呵成に紹介します。ただし3泊4日の駆け足観光ですので、もちろん初心者向きです。
そもそも私がバタネスと最初に出会ったのは映画の中。2007年はちょっとした”バタネス・ブーム”で、バタネスを舞台にした映画が立て続けに二本公開された。
一本目はデジタル映画の『カディン(山羊)』。このブログでも紹介したが、国内最大のデジタル・シネマ・フェスティバルであるシネマラヤのコンペティション部門に出品された。監督はアドルフォ・アリックス・ジュニア。山羊の世話をして家族を助けていた兄弟だが、ある日その山羊が行方不明になり、島中を探し回る・・という話。全編に挿入される美しい島の風景と昔ながらの人々の暮らしが印象に残る秀作だった。
そして二本目は大手GMA映画が製作し劇場公開された、その名も『バタネス』。台湾の人気グループF4のケン・チューが主演して話題となったのでご覧になった方も多いかもしれない。監督はこれもアドルフォ・アリックス・ジュニア。台湾から漂着した謎のわけあり男(ケン・チュー)と、地元の美しい女性(イサ・カルザド)とのラブストーリー。たわいもないストーリーだけど、やはり島の美しさが際立った作品だった。
美しい映画を観て、いつかは行きたいと思っていたが、そんなバタネスへのさらなる思いを募らせたのが『バタン漂流記、神力丸巴丹漂流記を追って』という本だ。著者は岡山県立博物館学芸課長(2001年当時)の臼井洋輔氏。文政三年(1830年)8月に備前を出航した後に遭難して二ヶ月余り漂流し、奇跡的にもバタネスに漂着した乗組員の内の14人が、その二年後に日本に無事帰国。藩による取調べの記録が『巴丹漂流記』として岡山の池田藩の末裔のもとなどに残されていて、当時のバタン島の詳細を今に伝えている。この本は、著書がその『巴丹漂流記』に触発されて現代のバタネスを訪れ、そこに記された風土、文物、人々と今の様子を比較し、さらには同じフィリピン国内で太古の文化を今に伝えるミンドロ島のハヌノオ・マンギャン族の文化などとも比較し、黒潮文化の中での日本とのつながりを俯瞰するという、とても知的興奮にあふれた本だ。おそらく既に絶版だろうけど、図書館かどこかで手に入れて読めばバタネスへの理解はより深まるだろう。
さらに直前予習のために役に立ったのが州政府のホームページ。以下のことは全部そのホームページから抜粋。http://www.purocastillejos.com/
バタネスの”歴史”の始まりは、17世紀後半に英国人が漂着した記録から。スペイン統治時代になっても、正式にスペイン領に編入されたのはようやく1783年のこと。レガスピによってマニラが占領された二百年以上後のことだ。スペインとの独立戦争の際には、1898年にイバナという町に独立派カティプナンのメンバーがやって来て、スペイン人司祭を捕らえたという記録がある。こんな小さな離れ小島にもカティプナンはやって来たのは驚きだ。いかに当時の独立戦争が国内で広範に展開していたかがわかる。そして1941年12月8日、つまり真珠湾攻撃の日に日本軍はこのバタン島に上陸している。そのイバナ町では16人の住民がゲリラの容疑で処刑されたとある。
ここまで予習していざバタネスのバタン島へ。バタネス州はフィリピン最北の州でルソン島の北端からは280キロほど。ちなみに台湾までは200キロもなく、むしろ近い。飛行機で1時間半ほどで、私の場合はSEAIRで飛んだ。32人乗りのドイツのドルニエ社製のプロペラ機。料金は日によって異なるが普通の日で片道6,000~7,000ペソから。ただし気候条件や乗客の集まり具合などでよく欠航するので、ぎりぎりの予定での渡航はお薦めしない。飛行場はバタン島最高峰のイラヤ山の山腹を削った滑走路でスロープになっている。おそらく平地の少ないバタン島では2000メートル級の長い滑走路を作るための土地はないのだろう。従って大きなジェット機は乗り入れ不可能。
上空から眺めたバタン島。南シナ海と太平洋双方から荒波を受け、島全体に断崖絶壁が多く、波濤のくだける白が美しい。4月から6月は東からの季節風が吹くそうで、西側の南シナ海に面したバスコなどは比較的波が穏やかな季節である。
バタネス州の州都、バスコBascoの町。バスコはバタネスがスペインに領有された後の初代知事の名前にちなんだもの。バタン島はバスコを含めて6つの町からなる。
北には標高1517メートルの休火山、イラヤIraya山がそびえる。島の最北に位置して急勾配で海に面する威容は、かつて黒潮を航海する人々の目印となっていたことだろう。
宿泊したシーサイドロッジの海側からの眺め。大きくて清潔な部屋で食事もおいしかった。町にはレストランがないのでほぼ毎食ここで食べた。他にも宿泊施設はあるが、町の中心街まで近く買い物などにも便利。インターネットを通して予約して素泊まりで1,000ペソ。直接支払いの場合は800ペソだった。ここはお薦め。バスコ近郊にあるバタネス・リゾートは綺麗なコテージが売りだが、町の中心部から遠くて自由な散策には不向き。ただ現地で仕入れた情報で、アーティストのパシータ・アバドが経営するフンダシオン・パシータは素晴らしいとの噂。収益の一部はバタネスの伝統文化保存にも利用されているようで、最低1泊5,000ペソの価値があるかもしれない。 http://www.fundacionpacita.ph/programs.php
朝食で食べた飛魚の干物のから揚げ。飛魚は黒潮海域の名物で特に4月から6月が漁期。たくさん獲ってまとめて干物にする。とても肉厚で独特な味だ。
干物状態(サブタン島のチャブヤンで)
バスコにはとにかく国や州など官公庁が多い。写真は州庁舎。周辺には公共事業道路省、農業省、環境省や地方裁判所などなど。さらにバタネス国立大学に、なんと国立サイエンス・ハイスクールまである。人口は約6000人というが、ここで働く多くの人はおそらく公務員だろう。フィリピンには81もの州があってなんて多いのだろうと思っていたが、おそらく僻地にあっては、州都があるとないとでは大違い。なるほど地方振興、雇用対策の面ではおおいに意味がある。
夕方になると州庁舎前のグラウンドは役所や学校の部活動で賑わい、公園は人々の憩いの場となる。僻地かと思ったが、若者は結構あか抜けていた。
バスコの海岸は、日没近くになると家族連れで海水浴を楽しむ人々で賑わっていた。ここには無論ストリートチルドレンはいないし、土地の老人が言っていたが、泥棒もいないそうだ。街はきれいでプラスチックゴミもほとんど落ちていない。こちらから意識的に目を合わせれば、多くの人が挨拶をしてくれる。そんな場所だ。
バスコのシンボルの灯台。ロッジから徒歩で20分ほど。米国時代には無線の中継地だった場所。
サント・ドミンゴSanto Domingo教会。18世紀後半、初めてバタネスに教会が建てられた土地。バタネ町はどの町でも教会が中心。こんな僻地にも威容を誇る教会が存在している。
空から見たマハタオMahataoの町(バスコの隣町)の様子。真中が教会。教会がいかに町作りの中心となっているかよくわかる。
バヤンVayan。ロッジから車で10分。なお島内の幹線道路にはジープニーが走っているが、初めての際は車を貸しきって回るのがベスト。1時間250ペソ。5~6時間もあれば島を一周できる。慣れればジープニーが便利。緑の絨毯となった丘が幾重も連なり、その先に真っ青な海。牛や山羊が放牧されている。水平線上にうっすら浮かぶのはバタネス州最大の島、イトバヤットItbayat島。その先に無人のヤミ島。そしてフォルモサ、台湾。南シナ海と太平洋が交わる大海の壮大な眺めが堪能できる。実に地球は丸い。
ボールダー・ビーチ。ロッジから車で10数分。悠久の歴史、荒れる波濤にまるまると削られたゴロタ石が無数にころがる。
漁師の出航。この小さなバンカボート、釣り糸と針だけで、人の背丈ほどのカジキマグロも獲れるという。もっとも多くの場合たいした収獲はないのだろう。博打のようなものだ。
バランガイ・トゥコンTukonの高台。現在ラジオ・ステーションを建設中。ここは360度の視界が息を飲む。中央がイリヤ山で右が太平洋、左は南シナ海。
高台から降りる途中の教会。ゴロタ石の美しいファサード。
バスコから南へ向かう道は海に迫った断崖絶壁の中腹を削って作られた道。車道の下には壮大な景色が続く。
途中には洒落た展望台View Deckがある。
イバナIvana町、バランガイ・サン・ホセSan Joseにあるバハイ・ニ・ダカイVahay ni Dakay(ダカイの家)と呼ばれる伝統的ストーン・ハウス。石は珊瑚の死骸からできたライムストーン。18世紀建造、最も古い家屋の一つ。現在でも使われている。
ボート作りの現場。全長2.5メートルほどの小型バンカ。3枚の長い板を接合している。木材は沖縄などでもよくあり黄色の染料にもなるフクギ。木材の曲線の掘り出しは太古からの伝統を受け継ぐ職人の勘。大航海時代、フィリピンはガレオン船の建造地かつ輸出基地として、海洋貿易の発展に大いに寄与したという。もっと古くは日本の船作りにも影響を与えたと推測されている。一ヶ月の作業で600米ドルで売るそうだ。
ウユガンUyugan町のバランガイ・イトブッドItbud。バタン島で最も伝統的ストーン・ハウスの残る美しい町並み。家屋の半数近くが石作りの壁とコゴン草の屋根。今は美しい姿だが、意識的に保存していかなければいずれ失われてしまうだろう。土地の人の話では、ストーン・ハウスの修復の際には州政府の補助金が出るそうである。
三日目は隣りのサブタンSabtang島へボートトリップ。6時半にロッジからジープニーに乗り、イバナ町のサン・ビセンテSan Vicente港まで。約30分で25ペソ。そこから写真のバンカ(20人乗り)で45分かけてサブタン島へ。50ペソ。サブタン島は人口1800人。
港は日本の政府開発援助(ODA)で整備されていた。またこの港の近くの小学校もODA(おそらく草の根援助)だった。ちなみにバスコの小学校でもODAマークを発見。バタネスではODAが大活躍だ。
港に着いたらまず近くのヘリテージ事務局で登録(100ペソ)。そこで出会った公認ガイドのボーイ・アラバードBoy Alabadoさんは、とても親切でしっかりとガイドしてくれた。ガイド付きバイクで3時間600ペソ。ガイドブックにはサブタン島には宿泊施設が無いとあるが、少人数ならこのヘリテージに宿泊可能。絶景の海辺でキャンプもできるそうだ。サブタン島を訪れる際は彼に連絡すると良い。Tel:0919-866-6497
港のカンティーンで昼食。ある方のブログの薦めに従いココナッツクラブ(椰子蟹)を食べる。身がしまっていて、味噌もいっぱいで美味。一匹250ペソ。
臼井氏の本で紹介されている日本では”修羅”と呼ばれた車輪の無い運搬道具。本当にまだ使われていた。地面との摩擦の少ない車輪の発明は、人類にとって革命的なできごとだったのだろうと納得。
バランガイ・サビドゥッグSAVIDUGにあった原型をとどめるイバタン族の伝統的ストーンハウス。原型は屋根が低い位置まで降りていて、入り口の間口は7~80センチ程度。台風の激しい風に耐えるため。
緑の絨毯のような丘陵と紺碧の海。そして映画『カディン』にも登場した山羊。ここは映画のロケ地になった。
バランガイ・チャバヤンChavayanの美しい町並み。『カディン』の主人公の兄弟が住んでいる家がある。
イバタンの伝統家屋の本当のオリジナルはライムストーンを使わずに、コゴン草と椰子の葉などでできていた。ストーンハウスの技術はここを支配したスペイン人が持ち込んだもの。
土地の名物である女性用のヘッドギアー、ヴァクルVakulを編む。素材はアバカの繊維。
バージンアイランド
帰りのバンカでカツオが釣れた。たった一本の糸と針で。小ぶりだけどれっきとした黒潮海流のカツオが、たったの100ペソ。早速買って帰り、ロッジで刺身にしてもらった。当然美味。ちなみにロッジには日本の醤油とわさびまであった。
南シナ海に沈む夕日
そもそも私がバタネスと最初に出会ったのは映画の中。2007年はちょっとした”バタネス・ブーム”で、バタネスを舞台にした映画が立て続けに二本公開された。
一本目はデジタル映画の『カディン(山羊)』。このブログでも紹介したが、国内最大のデジタル・シネマ・フェスティバルであるシネマラヤのコンペティション部門に出品された。監督はアドルフォ・アリックス・ジュニア。山羊の世話をして家族を助けていた兄弟だが、ある日その山羊が行方不明になり、島中を探し回る・・という話。全編に挿入される美しい島の風景と昔ながらの人々の暮らしが印象に残る秀作だった。
そして二本目は大手GMA映画が製作し劇場公開された、その名も『バタネス』。台湾の人気グループF4のケン・チューが主演して話題となったのでご覧になった方も多いかもしれない。監督はこれもアドルフォ・アリックス・ジュニア。台湾から漂着した謎のわけあり男(ケン・チュー)と、地元の美しい女性(イサ・カルザド)とのラブストーリー。たわいもないストーリーだけど、やはり島の美しさが際立った作品だった。
美しい映画を観て、いつかは行きたいと思っていたが、そんなバタネスへのさらなる思いを募らせたのが『バタン漂流記、神力丸巴丹漂流記を追って』という本だ。著者は岡山県立博物館学芸課長(2001年当時)の臼井洋輔氏。文政三年(1830年)8月に備前を出航した後に遭難して二ヶ月余り漂流し、奇跡的にもバタネスに漂着した乗組員の内の14人が、その二年後に日本に無事帰国。藩による取調べの記録が『巴丹漂流記』として岡山の池田藩の末裔のもとなどに残されていて、当時のバタン島の詳細を今に伝えている。この本は、著書がその『巴丹漂流記』に触発されて現代のバタネスを訪れ、そこに記された風土、文物、人々と今の様子を比較し、さらには同じフィリピン国内で太古の文化を今に伝えるミンドロ島のハヌノオ・マンギャン族の文化などとも比較し、黒潮文化の中での日本とのつながりを俯瞰するという、とても知的興奮にあふれた本だ。おそらく既に絶版だろうけど、図書館かどこかで手に入れて読めばバタネスへの理解はより深まるだろう。
さらに直前予習のために役に立ったのが州政府のホームページ。以下のことは全部そのホームページから抜粋。http://www.purocastillejos.com/
バタネスの”歴史”の始まりは、17世紀後半に英国人が漂着した記録から。スペイン統治時代になっても、正式にスペイン領に編入されたのはようやく1783年のこと。レガスピによってマニラが占領された二百年以上後のことだ。スペインとの独立戦争の際には、1898年にイバナという町に独立派カティプナンのメンバーがやって来て、スペイン人司祭を捕らえたという記録がある。こんな小さな離れ小島にもカティプナンはやって来たのは驚きだ。いかに当時の独立戦争が国内で広範に展開していたかがわかる。そして1941年12月8日、つまり真珠湾攻撃の日に日本軍はこのバタン島に上陸している。そのイバナ町では16人の住民がゲリラの容疑で処刑されたとある。
ここまで予習していざバタネスのバタン島へ。バタネス州はフィリピン最北の州でルソン島の北端からは280キロほど。ちなみに台湾までは200キロもなく、むしろ近い。飛行機で1時間半ほどで、私の場合はSEAIRで飛んだ。32人乗りのドイツのドルニエ社製のプロペラ機。料金は日によって異なるが普通の日で片道6,000~7,000ペソから。ただし気候条件や乗客の集まり具合などでよく欠航するので、ぎりぎりの予定での渡航はお薦めしない。飛行場はバタン島最高峰のイラヤ山の山腹を削った滑走路でスロープになっている。おそらく平地の少ないバタン島では2000メートル級の長い滑走路を作るための土地はないのだろう。従って大きなジェット機は乗り入れ不可能。
上空から眺めたバタン島。南シナ海と太平洋双方から荒波を受け、島全体に断崖絶壁が多く、波濤のくだける白が美しい。4月から6月は東からの季節風が吹くそうで、西側の南シナ海に面したバスコなどは比較的波が穏やかな季節である。
バタネス州の州都、バスコBascoの町。バスコはバタネスがスペインに領有された後の初代知事の名前にちなんだもの。バタン島はバスコを含めて6つの町からなる。
北には標高1517メートルの休火山、イラヤIraya山がそびえる。島の最北に位置して急勾配で海に面する威容は、かつて黒潮を航海する人々の目印となっていたことだろう。
宿泊したシーサイドロッジの海側からの眺め。大きくて清潔な部屋で食事もおいしかった。町にはレストランがないのでほぼ毎食ここで食べた。他にも宿泊施設はあるが、町の中心街まで近く買い物などにも便利。インターネットを通して予約して素泊まりで1,000ペソ。直接支払いの場合は800ペソだった。ここはお薦め。バスコ近郊にあるバタネス・リゾートは綺麗なコテージが売りだが、町の中心部から遠くて自由な散策には不向き。ただ現地で仕入れた情報で、アーティストのパシータ・アバドが経営するフンダシオン・パシータは素晴らしいとの噂。収益の一部はバタネスの伝統文化保存にも利用されているようで、最低1泊5,000ペソの価値があるかもしれない。 http://www.fundacionpacita.ph/programs.php
朝食で食べた飛魚の干物のから揚げ。飛魚は黒潮海域の名物で特に4月から6月が漁期。たくさん獲ってまとめて干物にする。とても肉厚で独特な味だ。
干物状態(サブタン島のチャブヤンで)
バスコにはとにかく国や州など官公庁が多い。写真は州庁舎。周辺には公共事業道路省、農業省、環境省や地方裁判所などなど。さらにバタネス国立大学に、なんと国立サイエンス・ハイスクールまである。人口は約6000人というが、ここで働く多くの人はおそらく公務員だろう。フィリピンには81もの州があってなんて多いのだろうと思っていたが、おそらく僻地にあっては、州都があるとないとでは大違い。なるほど地方振興、雇用対策の面ではおおいに意味がある。
夕方になると州庁舎前のグラウンドは役所や学校の部活動で賑わい、公園は人々の憩いの場となる。僻地かと思ったが、若者は結構あか抜けていた。
バスコの海岸は、日没近くになると家族連れで海水浴を楽しむ人々で賑わっていた。ここには無論ストリートチルドレンはいないし、土地の老人が言っていたが、泥棒もいないそうだ。街はきれいでプラスチックゴミもほとんど落ちていない。こちらから意識的に目を合わせれば、多くの人が挨拶をしてくれる。そんな場所だ。
バスコのシンボルの灯台。ロッジから徒歩で20分ほど。米国時代には無線の中継地だった場所。
サント・ドミンゴSanto Domingo教会。18世紀後半、初めてバタネスに教会が建てられた土地。バタネ町はどの町でも教会が中心。こんな僻地にも威容を誇る教会が存在している。
空から見たマハタオMahataoの町(バスコの隣町)の様子。真中が教会。教会がいかに町作りの中心となっているかよくわかる。
バヤンVayan。ロッジから車で10分。なお島内の幹線道路にはジープニーが走っているが、初めての際は車を貸しきって回るのがベスト。1時間250ペソ。5~6時間もあれば島を一周できる。慣れればジープニーが便利。緑の絨毯となった丘が幾重も連なり、その先に真っ青な海。牛や山羊が放牧されている。水平線上にうっすら浮かぶのはバタネス州最大の島、イトバヤットItbayat島。その先に無人のヤミ島。そしてフォルモサ、台湾。南シナ海と太平洋が交わる大海の壮大な眺めが堪能できる。実に地球は丸い。
ボールダー・ビーチ。ロッジから車で10数分。悠久の歴史、荒れる波濤にまるまると削られたゴロタ石が無数にころがる。
漁師の出航。この小さなバンカボート、釣り糸と針だけで、人の背丈ほどのカジキマグロも獲れるという。もっとも多くの場合たいした収獲はないのだろう。博打のようなものだ。
バランガイ・トゥコンTukonの高台。現在ラジオ・ステーションを建設中。ここは360度の視界が息を飲む。中央がイリヤ山で右が太平洋、左は南シナ海。
高台から降りる途中の教会。ゴロタ石の美しいファサード。
バスコから南へ向かう道は海に迫った断崖絶壁の中腹を削って作られた道。車道の下には壮大な景色が続く。
途中には洒落た展望台View Deckがある。
イバナIvana町、バランガイ・サン・ホセSan Joseにあるバハイ・ニ・ダカイVahay ni Dakay(ダカイの家)と呼ばれる伝統的ストーン・ハウス。石は珊瑚の死骸からできたライムストーン。18世紀建造、最も古い家屋の一つ。現在でも使われている。
ボート作りの現場。全長2.5メートルほどの小型バンカ。3枚の長い板を接合している。木材は沖縄などでもよくあり黄色の染料にもなるフクギ。木材の曲線の掘り出しは太古からの伝統を受け継ぐ職人の勘。大航海時代、フィリピンはガレオン船の建造地かつ輸出基地として、海洋貿易の発展に大いに寄与したという。もっと古くは日本の船作りにも影響を与えたと推測されている。一ヶ月の作業で600米ドルで売るそうだ。
ウユガンUyugan町のバランガイ・イトブッドItbud。バタン島で最も伝統的ストーン・ハウスの残る美しい町並み。家屋の半数近くが石作りの壁とコゴン草の屋根。今は美しい姿だが、意識的に保存していかなければいずれ失われてしまうだろう。土地の人の話では、ストーン・ハウスの修復の際には州政府の補助金が出るそうである。
三日目は隣りのサブタンSabtang島へボートトリップ。6時半にロッジからジープニーに乗り、イバナ町のサン・ビセンテSan Vicente港まで。約30分で25ペソ。そこから写真のバンカ(20人乗り)で45分かけてサブタン島へ。50ペソ。サブタン島は人口1800人。
港は日本の政府開発援助(ODA)で整備されていた。またこの港の近くの小学校もODA(おそらく草の根援助)だった。ちなみにバスコの小学校でもODAマークを発見。バタネスではODAが大活躍だ。
港に着いたらまず近くのヘリテージ事務局で登録(100ペソ)。そこで出会った公認ガイドのボーイ・アラバードBoy Alabadoさんは、とても親切でしっかりとガイドしてくれた。ガイド付きバイクで3時間600ペソ。ガイドブックにはサブタン島には宿泊施設が無いとあるが、少人数ならこのヘリテージに宿泊可能。絶景の海辺でキャンプもできるそうだ。サブタン島を訪れる際は彼に連絡すると良い。Tel:0919-866-6497
港のカンティーンで昼食。ある方のブログの薦めに従いココナッツクラブ(椰子蟹)を食べる。身がしまっていて、味噌もいっぱいで美味。一匹250ペソ。
臼井氏の本で紹介されている日本では”修羅”と呼ばれた車輪の無い運搬道具。本当にまだ使われていた。地面との摩擦の少ない車輪の発明は、人類にとって革命的なできごとだったのだろうと納得。
バランガイ・サビドゥッグSAVIDUGにあった原型をとどめるイバタン族の伝統的ストーンハウス。原型は屋根が低い位置まで降りていて、入り口の間口は7~80センチ程度。台風の激しい風に耐えるため。
緑の絨毯のような丘陵と紺碧の海。そして映画『カディン』にも登場した山羊。ここは映画のロケ地になった。
バランガイ・チャバヤンChavayanの美しい町並み。『カディン』の主人公の兄弟が住んでいる家がある。
イバタンの伝統家屋の本当のオリジナルはライムストーンを使わずに、コゴン草と椰子の葉などでできていた。ストーンハウスの技術はここを支配したスペイン人が持ち込んだもの。
土地の名物である女性用のヘッドギアー、ヴァクルVakulを編む。素材はアバカの繊維。
バージンアイランド
帰りのバンカでカツオが釣れた。たった一本の糸と針で。小ぶりだけどれっきとした黒潮海流のカツオが、たったの100ペソ。早速買って帰り、ロッジで刺身にしてもらった。当然美味。ちなみにロッジには日本の醤油とわさびまであった。
南シナ海に沈む夕日
2009/06/17
再び、世界に発信し始めた新しいフィリピン映画
同じような記事を『まにら新聞』に書きましたが、ちょっと内容を変えて。
今年で第六十二回を迎えたカンヌ国際映画祭。日本人ではただ一人、かつて大島渚のみ受賞したことのある栄誉ある監督賞を、なんとフィリピン人が受賞するというビッグなニュースが届いた。ブリリャンテ・メンドーサ(四十九才)監督で、作品名は『キナタイ(屠殺)』。請負殺人をテーマに、娼婦による遺体切断といった猟奇的なシーンが話題となったサイコスリラー風の作品だ。あまりの残酷なシーンに審査員の評価も賛否両論まっぷたつに分かれたが、類まれな独創性が認められての受賞となった。
彼の自宅兼スタジオは、マンダルーヨン市の何の変哲もない住宅街の一画にある。事務所には、この四年間に獲得した国内外の数々の映画賞のプラークが飾られていた。
メンドーサの監督デビューは4年前。『マサヒスタ』というゲイ専門のマッサージパーラーを舞台にしたきわどいデジタル作品で、制作費はたったの二百万円だった。サント・トーマス大学の美術学科を卒業して広告業界で地歩を築いた彼は、当初、映画制作はその一作のみの予定だった。しかし同作品がいくつかの海外の映画祭で評価され、その後の彼の人生は大きく変わった。二作目は『マノロ』。アエタというネグリート系の先住民族の子供が文字を覚えて大人に教える教師になるという物語。『フォスターチャイルド』は数々の国際映画祭で受賞。地方の場末の成人映画館の日常をリアルに描いた『セルビス』は、昨年のカンヌ監督週間で上映されている。今回の『キナタイ』を含みこれまで八本を制作。カンヌの監督賞で、ルネ・クレマンやマーティン・スコセッシ、ウォン・カーウァイなど世界的名監督と並び称されることになった。
今回の出来事は彼の個人的名誉を超えて、フィリピン映画の新しい波の到来を世界に告げる象徴的な事件である。
以前このブログでも紹介したとおり、フィリピンはかつてインドに次ぐアジア第二の映画大国だった。アメリカ植民地時代からハリウッド流スタジオ・システムを導入して、六○年代から七○年代にかけて、長編劇場用映画だけで年間二百本を超える“黄金時代”を築いた。国民も大の映画好きで、アクション・スターのエストラーダは、庶民から絶大な支持を受けて大統領にまで上り詰めた。
特に七○年代には歴史に残る多くの秀作が生み出された。マルコス政権の戒厳令下には、過酷な時代に挑戦するように社会的テーマを取り上げた芸術性の高い作品が作られた。中でもリノ・ブロッカ監督は今もこの国の若い映画人に多大な影響を与え続けている。母親の内縁の夫にレイプされるスラムの娘の復讐を描いた『インシャン』は、一九七六年カンヌの監督週間で上映された。今から三十三年前のことである。
国際交流基金でも二十年ほど前からフィリピン映画祭(一九九一年)やリノ・ブロッカ監督特集(一九九七年)などを通じて、優れたフィリピン映画を日本で紹介してきた。しかし九十年代末以降は全体として低調な時代が続いたため、日本で得られる情報は非常に限定的になった。多くの日本人はフィリピン映画のことを全く知らないであろう。
フィリピン映画アカデミーの発表によれば、三十五ミリ映画の年間製作本数は、九六年~九九年の平均が百六十四本で、二○○六年が四十九本と、この十年で急激に落ち込んだ。公開される作品は、有名歌手の知名度に頼ったラブロマンスや、中途半端なホラー映画が多い。基本的に悲惨な状況の中で、なぜメンドーサのような監督が出現したのだろうか。
これもここでたびたび紹介しているとおり、ここ数年フィリピンの映画界は、”インデペンデント”といわれる大手製作会社に属さない個人によるデジタル映画が盛んだ。コンパクトなデジタル・ビデオ・カメラの技術的進歩で、多額の予算がなくても撮りたい映画が撮れるようになった。二○○五年には、関係者の熱い期待を担って政府系のイベントである「シネマラヤ・フィリピン・インデペンデント・フィルム・フェスティバル」が産声を上げた。毎年参加作品が増え、昨年は一挙に百六十五本の国産デジタル映画が上映され、今年も七月十七日~二十六日に開催される予定(会場はフィリピン文化センター)。
インデペンデント映画のテーマとなる物語は、犯罪、暴力、貧困、売春、ゲイとシリアスなものが多い。いずれもフィリピン社会の底辺ではありふれた素材でしかないが、そこには描くに足る生命力に満ちた生活が確かにある。多くのことを語ってくれる物語の宝庫だ。
昨年、メンドーサが福岡アジア映画祭に招待されて日本を訪れた際、日本人の観客は彼の作品にとても好意的だったようだ。
「ぼくの映画は貧困や犯罪など、物語自体がネガティブだったり、全く救いのないように見える。でもそんな救いのない物語の中でも、そこで暮らす登場人物には生きようという意思が感じられる。自殺の多い社会に暮らす日本人から見ると、とても新鮮なんじゃないかな。」
メンドーサのカンヌ受賞に至る道のりは、フィリピンのインデペンデント映画の興隆と重なる。彼が撮影を始めた四年前は、まさに「シネマラヤ」が産声を上げた年。以来、フィリピン映画界の新たな大きな波の先頭ランナーとして突っ走り、おそらく幸運にも恵まれて時代の寵児に躍り出たのだろう。彼の背後には、デジタルシネマで息を吹き返した多くの若きフィルムメーカーが夢や野望を抱いて、虎視眈々と控えている。
既に昨年からフランス人のプロデューサーと契約し、今回のカンヌ受賞で海外での配給は飛躍的に拡大しそうだ。今後の課題は、海外よりもむしろ国内の観客を育てることだと彼は言う。「シネマラヤ」の十日間はCCPを埋め尽くす根狂的な観衆も、熱が冷めてしまえばインデペンデント映画には冷淡だ。現在もロビンソン・ギャレリアというショッピングモールにあるシネ・コンプレックス内の一館では、常にインデペンデント映画を上映しているが、ほとんど毎回観客はいない。私の経験では平均十人程度。いくら芸術的な作品を作って海外の映画祭に招待されても、その映画は自分たちの国で一体どれだけの人の目に触れるのだろうか。海外でレッドカーペットの上を歩くことが映画制作の目的、ではもちろんないだろう。
『キナタイ』はかなり激しい残酷なシーンを含むため、検閲の厳しいこの国では多くの大事なシーンがカットされてしまうのは必定。そのため、彼は最初から劇場公開をあきらめている。公開は検閲の入らないUPや学校のみ。なるべく多くの若者に見せ、フィリピン映画の将来を担う観客を育てたいと抱負を語っていた。(おそらくフィリピン初公開は7月末、UPかCCPであろう。)
今再び大きな波が訪れているフィリピン映画は、確かに世界に向かって発信を始めている。しかし、今度はここフィリピンで、ハリウッド制のアクション映画やホラー映画に映画館を占拠されないためにも、メンドーサたちの今後の健闘に期待したい。
今年で第六十二回を迎えたカンヌ国際映画祭。日本人ではただ一人、かつて大島渚のみ受賞したことのある栄誉ある監督賞を、なんとフィリピン人が受賞するというビッグなニュースが届いた。ブリリャンテ・メンドーサ(四十九才)監督で、作品名は『キナタイ(屠殺)』。請負殺人をテーマに、娼婦による遺体切断といった猟奇的なシーンが話題となったサイコスリラー風の作品だ。あまりの残酷なシーンに審査員の評価も賛否両論まっぷたつに分かれたが、類まれな独創性が認められての受賞となった。
彼の自宅兼スタジオは、マンダルーヨン市の何の変哲もない住宅街の一画にある。事務所には、この四年間に獲得した国内外の数々の映画賞のプラークが飾られていた。
メンドーサの監督デビューは4年前。『マサヒスタ』というゲイ専門のマッサージパーラーを舞台にしたきわどいデジタル作品で、制作費はたったの二百万円だった。サント・トーマス大学の美術学科を卒業して広告業界で地歩を築いた彼は、当初、映画制作はその一作のみの予定だった。しかし同作品がいくつかの海外の映画祭で評価され、その後の彼の人生は大きく変わった。二作目は『マノロ』。アエタというネグリート系の先住民族の子供が文字を覚えて大人に教える教師になるという物語。『フォスターチャイルド』は数々の国際映画祭で受賞。地方の場末の成人映画館の日常をリアルに描いた『セルビス』は、昨年のカンヌ監督週間で上映されている。今回の『キナタイ』を含みこれまで八本を制作。カンヌの監督賞で、ルネ・クレマンやマーティン・スコセッシ、ウォン・カーウァイなど世界的名監督と並び称されることになった。
今回の出来事は彼の個人的名誉を超えて、フィリピン映画の新しい波の到来を世界に告げる象徴的な事件である。
以前このブログでも紹介したとおり、フィリピンはかつてインドに次ぐアジア第二の映画大国だった。アメリカ植民地時代からハリウッド流スタジオ・システムを導入して、六○年代から七○年代にかけて、長編劇場用映画だけで年間二百本を超える“黄金時代”を築いた。国民も大の映画好きで、アクション・スターのエストラーダは、庶民から絶大な支持を受けて大統領にまで上り詰めた。
特に七○年代には歴史に残る多くの秀作が生み出された。マルコス政権の戒厳令下には、過酷な時代に挑戦するように社会的テーマを取り上げた芸術性の高い作品が作られた。中でもリノ・ブロッカ監督は今もこの国の若い映画人に多大な影響を与え続けている。母親の内縁の夫にレイプされるスラムの娘の復讐を描いた『インシャン』は、一九七六年カンヌの監督週間で上映された。今から三十三年前のことである。
国際交流基金でも二十年ほど前からフィリピン映画祭(一九九一年)やリノ・ブロッカ監督特集(一九九七年)などを通じて、優れたフィリピン映画を日本で紹介してきた。しかし九十年代末以降は全体として低調な時代が続いたため、日本で得られる情報は非常に限定的になった。多くの日本人はフィリピン映画のことを全く知らないであろう。
フィリピン映画アカデミーの発表によれば、三十五ミリ映画の年間製作本数は、九六年~九九年の平均が百六十四本で、二○○六年が四十九本と、この十年で急激に落ち込んだ。公開される作品は、有名歌手の知名度に頼ったラブロマンスや、中途半端なホラー映画が多い。基本的に悲惨な状況の中で、なぜメンドーサのような監督が出現したのだろうか。
これもここでたびたび紹介しているとおり、ここ数年フィリピンの映画界は、”インデペンデント”といわれる大手製作会社に属さない個人によるデジタル映画が盛んだ。コンパクトなデジタル・ビデオ・カメラの技術的進歩で、多額の予算がなくても撮りたい映画が撮れるようになった。二○○五年には、関係者の熱い期待を担って政府系のイベントである「シネマラヤ・フィリピン・インデペンデント・フィルム・フェスティバル」が産声を上げた。毎年参加作品が増え、昨年は一挙に百六十五本の国産デジタル映画が上映され、今年も七月十七日~二十六日に開催される予定(会場はフィリピン文化センター)。
インデペンデント映画のテーマとなる物語は、犯罪、暴力、貧困、売春、ゲイとシリアスなものが多い。いずれもフィリピン社会の底辺ではありふれた素材でしかないが、そこには描くに足る生命力に満ちた生活が確かにある。多くのことを語ってくれる物語の宝庫だ。
昨年、メンドーサが福岡アジア映画祭に招待されて日本を訪れた際、日本人の観客は彼の作品にとても好意的だったようだ。
「ぼくの映画は貧困や犯罪など、物語自体がネガティブだったり、全く救いのないように見える。でもそんな救いのない物語の中でも、そこで暮らす登場人物には生きようという意思が感じられる。自殺の多い社会に暮らす日本人から見ると、とても新鮮なんじゃないかな。」
メンドーサのカンヌ受賞に至る道のりは、フィリピンのインデペンデント映画の興隆と重なる。彼が撮影を始めた四年前は、まさに「シネマラヤ」が産声を上げた年。以来、フィリピン映画界の新たな大きな波の先頭ランナーとして突っ走り、おそらく幸運にも恵まれて時代の寵児に躍り出たのだろう。彼の背後には、デジタルシネマで息を吹き返した多くの若きフィルムメーカーが夢や野望を抱いて、虎視眈々と控えている。
既に昨年からフランス人のプロデューサーと契約し、今回のカンヌ受賞で海外での配給は飛躍的に拡大しそうだ。今後の課題は、海外よりもむしろ国内の観客を育てることだと彼は言う。「シネマラヤ」の十日間はCCPを埋め尽くす根狂的な観衆も、熱が冷めてしまえばインデペンデント映画には冷淡だ。現在もロビンソン・ギャレリアというショッピングモールにあるシネ・コンプレックス内の一館では、常にインデペンデント映画を上映しているが、ほとんど毎回観客はいない。私の経験では平均十人程度。いくら芸術的な作品を作って海外の映画祭に招待されても、その映画は自分たちの国で一体どれだけの人の目に触れるのだろうか。海外でレッドカーペットの上を歩くことが映画制作の目的、ではもちろんないだろう。
『キナタイ』はかなり激しい残酷なシーンを含むため、検閲の厳しいこの国では多くの大事なシーンがカットされてしまうのは必定。そのため、彼は最初から劇場公開をあきらめている。公開は検閲の入らないUPや学校のみ。なるべく多くの若者に見せ、フィリピン映画の将来を担う観客を育てたいと抱負を語っていた。(おそらくフィリピン初公開は7月末、UPかCCPであろう。)
今再び大きな波が訪れているフィリピン映画は、確かに世界に向かって発信を始めている。しかし、今度はここフィリピンで、ハリウッド制のアクション映画やホラー映画に映画館を占拠されないためにも、メンドーサたちの今後の健闘に期待したい。
2009/06/10
マカティー最新アート情報
久しぶりのブログです。これまでわりとまとまった記事を1ヶ月に1本ぐらいのペースで書いていましたが、ちょっと方針を変えて、短いやつをなるべく多く、仕事関連もそうじゃなくてもレアな情報を紹介してゆきます。
それでまずは身近なネタで、バージョンアップした最新のマカティー・アート・シーン。随分前に「アートスペース情報」としてギャラリーのことなど書いたが、その中で紹介したシルバーレンズ・ギャラリーhttp://www.silverlensphoto.com/main.htmlは、本業の写真ギャラリー以外に、最近もう一つの新しいギャラリー、SLab(シルバーレンズ・ラボラトリー)をオープンした。現代美術の中堅から若手まで積極的に紹介し始めている。ちなみにこのシルバーレンズの創設者にして若手写真家のイサ・ロレンツォhttp://www.isalorenzo.com/は、この7月から2ヶ月間ほど日本に招待する予定。前半は東京ワンダーサイトで滞在し公開制作などもあるので、ご関心のある方はどうぞ。
ちなみにそのシルバーレンズで、たった今何をやっているかというと、写真ギャラリーではブリッシオ・サントスという写真家によるモノクロの写真展。マカティーをテーマに無機的な対象を撮影し、ざらっとした手触り感覚のあるマチエールで印刷した作品。
それからSLabでは、バコロド出身の画家チャーリー・コーの個展。チャーリーは私も20年近く前から知っている社会派シュール・リアリスト。今回は木炭で描いた15枚の絵。いつもながらユーモラスで不気味だ。
そして一番小さくて四畳半くらいの20スクエアというスペースでは、ベア・カマチョという女性作家の"Disconnect The Dots"という作品展。このベア・カマチョはちょっと面白い人なので紹介しておく。中華系フィリピン人で26才。コンセプチャル・アートの新星だ。18才でアメリカのハーバード大学に留学し、アート・環境学科をトップで卒業したという才媛。最近フィリピンのアートシーンでちょくちょく名前を聞くようになった。
それで今回の作品は下のようなもの。
12枚のフレームは12ヶ月を表す。1枚ごとに縦横に小さなドットが並んでいる。で、このドット、縦軸は自分も含めた彼女の家族メンバー、右からお父さん、お母さん、お姉さん、私・・・。横が1日ごとを表す。そしてそれぞれその時にどの国にいたかを調べ、国のカントリーコードを出し、その数字に対応する色をカラーコードから引き出してドットに色付けをしたもの。一目見て、いろんな色がパターン化していてきれいだけれど、つまりそれは、それだけ家族がばらばらだっていうことを表している。
フィリピンの社会問題として、海外移住、頭脳流出、ディアスポラなど様々な機会で議論され、いろんなかたちで表象されるけど、彼女の作品は無味乾燥としたあくまでもフラットなもので、これが抽象というのだろうが、良く考え抜かれていて面白いと思った。
その彼女の作品展だが、ほぼ同じ内容ものをシルバーレンズの近くに昨年オープンしたフィナーレ・アート・ギャラリーhttp://www.finaleartfile.com/でも開催している。同じ内容の展覧会を二つの異なるギャラリーで同時にやるところが面白い。
このフィナーレは、かつてのギャラリーのメッカであるSMメガモールにショールームを持っていた老舗画廊だが、昨年このパソンタモ・エクステンション通りに移転。倉庫街の一角で大きなスペースのギャラリーをはじめた。いま話題のスペースだ。元倉庫だからとにかくでかい。現在はワイヤー・トゥワゾンという画家のスーパーリアルっぽい油絵が展示されている。
あの懐かしいスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」がモチーフの大判油(96インチ×144インチ)だけど、1枚100万円の値がついていた。不思議となんでもよく売れるフィリピンの現代美術市場だが、彼の作品も7枚中3枚も売れていた。ちなみにこのワイヤー氏は、アンゴノに住んでいて、あのネオ・アンゴノのリーダーだ。ネオ・アンゴノとは今年11月のフェスティバルでアジアのアーティストや研究者を集めて一緒に大きな国際セミナーをやる予定で、今から楽しみだ。
このパソンタモ・エクステンション界隈にはまた別のギャラリーが近く新規オープンするようで、これからも目を離せない。さらには最近話題のケソン市のノース・エドサにもいくつかギャラリーがオープンしたようだ。ちょっと前まではグローバルシティーが最先端だったが、今はノースエドサとトライノーマ。にわかに活気付いている新しいアートスポットについては随時調査して報告する。
それでまずは身近なネタで、バージョンアップした最新のマカティー・アート・シーン。随分前に「アートスペース情報」としてギャラリーのことなど書いたが、その中で紹介したシルバーレンズ・ギャラリーhttp://www.silverlensphoto.com/main.htmlは、本業の写真ギャラリー以外に、最近もう一つの新しいギャラリー、SLab(シルバーレンズ・ラボラトリー)をオープンした。現代美術の中堅から若手まで積極的に紹介し始めている。ちなみにこのシルバーレンズの創設者にして若手写真家のイサ・ロレンツォhttp://www.isalorenzo.com/は、この7月から2ヶ月間ほど日本に招待する予定。前半は東京ワンダーサイトで滞在し公開制作などもあるので、ご関心のある方はどうぞ。
ちなみにそのシルバーレンズで、たった今何をやっているかというと、写真ギャラリーではブリッシオ・サントスという写真家によるモノクロの写真展。マカティーをテーマに無機的な対象を撮影し、ざらっとした手触り感覚のあるマチエールで印刷した作品。
それからSLabでは、バコロド出身の画家チャーリー・コーの個展。チャーリーは私も20年近く前から知っている社会派シュール・リアリスト。今回は木炭で描いた15枚の絵。いつもながらユーモラスで不気味だ。
そして一番小さくて四畳半くらいの20スクエアというスペースでは、ベア・カマチョという女性作家の"Disconnect The Dots"という作品展。このベア・カマチョはちょっと面白い人なので紹介しておく。中華系フィリピン人で26才。コンセプチャル・アートの新星だ。18才でアメリカのハーバード大学に留学し、アート・環境学科をトップで卒業したという才媛。最近フィリピンのアートシーンでちょくちょく名前を聞くようになった。
それで今回の作品は下のようなもの。
12枚のフレームは12ヶ月を表す。1枚ごとに縦横に小さなドットが並んでいる。で、このドット、縦軸は自分も含めた彼女の家族メンバー、右からお父さん、お母さん、お姉さん、私・・・。横が1日ごとを表す。そしてそれぞれその時にどの国にいたかを調べ、国のカントリーコードを出し、その数字に対応する色をカラーコードから引き出してドットに色付けをしたもの。一目見て、いろんな色がパターン化していてきれいだけれど、つまりそれは、それだけ家族がばらばらだっていうことを表している。
フィリピンの社会問題として、海外移住、頭脳流出、ディアスポラなど様々な機会で議論され、いろんなかたちで表象されるけど、彼女の作品は無味乾燥としたあくまでもフラットなもので、これが抽象というのだろうが、良く考え抜かれていて面白いと思った。
その彼女の作品展だが、ほぼ同じ内容ものをシルバーレンズの近くに昨年オープンしたフィナーレ・アート・ギャラリーhttp://www.finaleartfile.com/でも開催している。同じ内容の展覧会を二つの異なるギャラリーで同時にやるところが面白い。
このフィナーレは、かつてのギャラリーのメッカであるSMメガモールにショールームを持っていた老舗画廊だが、昨年このパソンタモ・エクステンション通りに移転。倉庫街の一角で大きなスペースのギャラリーをはじめた。いま話題のスペースだ。元倉庫だからとにかくでかい。現在はワイヤー・トゥワゾンという画家のスーパーリアルっぽい油絵が展示されている。
あの懐かしいスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」がモチーフの大判油(96インチ×144インチ)だけど、1枚100万円の値がついていた。不思議となんでもよく売れるフィリピンの現代美術市場だが、彼の作品も7枚中3枚も売れていた。ちなみにこのワイヤー氏は、アンゴノに住んでいて、あのネオ・アンゴノのリーダーだ。ネオ・アンゴノとは今年11月のフェスティバルでアジアのアーティストや研究者を集めて一緒に大きな国際セミナーをやる予定で、今から楽しみだ。
このパソンタモ・エクステンション界隈にはまた別のギャラリーが近く新規オープンするようで、これからも目を離せない。さらには最近話題のケソン市のノース・エドサにもいくつかギャラリーがオープンしたようだ。ちょっと前まではグローバルシティーが最先端だったが、今はノースエドサとトライノーマ。にわかに活気付いている新しいアートスポットについては随時調査して報告する。
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