2010/02/15

平和を愛する人々の静かな戦い

 ここフィリピンで暮らし、仕事をしていると、絶望的な貧富の格差や腐敗しきった政治など、とてもやるせないことも多いのだけれども、時々きらりと光る人に出会い、まだまだフィリピンは捨てたものではないなあ、とうなったりすることもままある。今回の出会いはマンギャン族の若きリーダー。四月に予定している訪日研修(テーマは文化の多様性)の候補者選びのためミンドロ島を訪れた。

 フィリピンは民族言語学的には110のグループに分かれていると言われているが、中でもこのマンギャン族は以前からとても気になっていた存在だ。”イゴロット”と総称されるコルディレラ地方の山の民や、”モロ”と呼ばれるミンダナオのイスラム教徒たちは、いずれも差別を受け、教育の格差に苦しみ、経済的にも決して恵まれてはいないけれども、血気盛んな民族気質のゆえ、多くの人々の声を糾合し、自らのアイデンティティを声高に主張し、中央政府などに対して異議を申し立ててきた。しかしマンギャン族は、平和を愛するがゆえに闘うことを避け、または自らの利益のみを追求することがその美学に反するがゆえに、弱い立場でいることに甘んじ、結果として自分たちの土地を追われ、人里離れた電気も通じない土地でひっそりと暮らしているという。

 『Mangyan Survival Strategies(マンギャン族の生き残り戦略)』(Helbling, Jurg/Schult, Volker著, New Day Publishers, 2004)によれば、マンギャン族はフィリピンで最も平和を愛する、言い方をかえれば臆病な民族であるという。フィリピンで七番目に大きな島には、二千五百メートル級の山が迫っていて急峻な渓谷で分断されており、今でも島内をくまなくつなぐ道路は無く人の往来が困難な場所だ。そんな土地でも先住民たちはスペイン植民地時代からキリスト教化を迫られ、二十世紀になってからはアメリカからの独立戦争や日本軍占領時代を通して攻撃は繰り返され、さらにそれと平行してルソン島やビサヤ地方からの移民がやって来て、六十年代以降になるとそれが大量になり、法律に無知なマンギャン族は土地を奪われていった。しかし彼らはそのたびに紛争を避け、ある者はより生活環境の厳しい山に逃れた。そして結果的に山に入った人々の間に伝統的価値観や文化を保った生活が残されたという。争いを避け、臆病と言われても、それが結果として種族と文化を存続させる究極の知恵であったということにはおそらく大きな意味があるのだろう。

 世界中から消滅しつつある豊かな文化に、私たちが本当に思いをはせるためには、マイノリティの中でもさらにマージナルな場所に追いやられている人々のことについて考える必要があるのではないか、そんな思いからこのマンギャンを取り上げてみたいと思った。

 ミンドロ島の先住民族であるマンギャンは、大きく七つの部族に分かれる。中でもハヌノオ・マンギャンは比較的よく知られていて、日本語の本では『ハヌノオ・マンヤン族』(宮本勝著、第一書房)がある。またインド起源の独特の文字と、アンバハンと呼ばれる美しい韻をふむ七音節の詩が有名だ。オランダ人のアントゥーン・ポストマ神父がそのハヌノオの村に40年にわたって住み続けていて、その間に収集した詩は『Mangyan Treasures』(Mangyan Heritage Center、2005年)などとして出版されている。

 今回会うことになったのは、ミンドロ島の北部に住んでいるイラヤという部族のレオンシオ・バナアグ氏、通称オッチョ。イラヤは30のコミュニティーに三千人が暮らしている。上記の宮本氏の著書では、1970年のデータとして推定人口六千人と書かれているので、この四十年で半減したことなる。彼の住む村はミンドロ島の北の玄関、プエルト・ガレラから徒歩で1時間(ただし普通の人の足だと2~3時間)。マニラからプエルト・ガレラまでバスとボートで4時間くらいだから、私でも6~7時間で到着する。そんな場所に電気も通じない、素足で暮らしている人々の村がある。近いとみるか、遠いとみるか。かつてジャカルタで勤務していた時代、ジャカルタから車で4時間の距離にあるバドゥイという先住民族の村を訪問したことがある。彼らはマンギャンよりさらに保守的で、かたくなに文明を拒否して暮らしていて、一切の工業製品の使用を禁止している人々だが、文明からの隔絶は、物理的な距離感からくるものではなく意思の問題であると思う。

 さてそのオッチョは、12人兄弟の下から三番目で32歳。農耕を生業とするマンギャンにとって、子供の数は多いほどよい。村のマンギャン・コミュニティーの小学校を出た後、ビクトリアという町で農業大学を卒業し、1年間イスラエルに留学もしたことのあるインテリ。その間マンギャンのためにソーシャルワーカーとして働き、現在ではマニラに拠点のある国家文化芸術委員会から、マンギャン族のリーダーに指名されている。リゾートとして有名なホワイト・ビーチに近いイラヤのコミュニティーを訪問した時も、長老や村人から色々な相談を受けていた。

 彼のこれまでの業績のハイライトはなんと言っても2004年に「先祖伝来の土地証明書」(Certificate Ancestral Domain Title)を獲得したことだ。五千七百ヘクタールに及ぶ広大なその山林は、ホワイト・ビーチの背後にどんと鎮座している。その権利は全てイラヤの人々にゆだねられた。ちなみに山手線内の土地面積は六千三百ヘクタール。



 フィリピンでは「先住民族権法」(Indigenous Peoples Right Act)が1997年に施行され、先住民族国家委員会(National Commission on Indigenous Peoples)という政府機関も設立された。この法律自体は本当によくできていて、先祖伝来の土地に関する権利や、文化や言語、慣習法を保護する権利など、先住民の権利保護を包括的に保障している。例えば先祖伝来の土地をどう定義するのかといった問題については、原則として先住民自らの申告制をとっていて、その根拠は慣習とか言い伝え(を書き記したもの)や、物理的な標しである境界石や古い村とかからどれか一つ、という規程になっている。実際にイラヤの土地の境界と認定された境界石も見せてもらった。



 ところでこの「先住民族権法」はおそらく世界的にも進んでいるほうで、例えば国連でさえ「世界先住民族の権利に関する宣言」が国連総会で採択されたのが、ようやく2007年になってからだ。

 日本にいたっては先住民族は公式にはいないことになっているようで、アイヌを先住民族として認めるのか、認めないのか、中途半端な状況にある。1899年から1997年まで施行されていた 「北海道旧土人保護法」はアイヌの保護を名目に共有地を奪ったものであったようだし、悪名高い同法に代わって制定された「アイヌ文化振興法」は、アイヌを先住民族とは認めずに、先祖伝来の土地の権利については沈黙したままである。

 そんなことを考えた場合、この五千七百ヘクタールの土地の持つ意味はまた違ったものになるだろう。ちなみにマンギャン全体では彼の業績が第一号となり、他にも2つの地域で証明書が発行されたようだ。オッチョはそうした土地問題以外にも、ユネスコが支援している伝統文化保存運動(School of Living Tradition)で12歳から25歳の若者を対象に音楽や詩、伝統工芸を教える活動をしたり、マンギャンの祭りをオーガナイズしている。様々な活動をしてはいるが、オッチョの現在の最大の関心事で、手が付けられないでいることは、消滅の危機にあるイラヤ語の問題。いまのところ小学校でも教えておらず、イラヤ語を話せる人の数は減る一方だ。

 素晴らしい法律に守られ、広大な土地を与えられているといっても、現実はかなり悲惨である。今回訪問したカリパナンという村は、イラヤのもとの居住地を離れて、低地人との混血が進む中で新しくできた村だが、主な収入源は伝統的なラタン(籐)のバスケットと出稼ぎで、極めて不安定。私もいくつか購入したが、完成まで5日間くらいかかるものが500ペソ程度。1日、100ペソ(約200円)の勘定で、それも運良く売れた場合である。粗末な掘っ立て小屋の不衛生な環境に暮らしている。マニラのアヤラ財団の支援でできた学校だけが妙に立派だが、生活は一見して苦しそうだった。出稼ぎと言ってもいい職にはめったにありつけず、マンギャン独特の風貌と貧しい身なりから、タガログやビサヤの移民からは疎まれ、あからさまな差別を受け続けている。





 彼のように教育を受けていながら電気のない村にとどまるのは、一体どういった動機なのか尋ねたら、「町で暮らしても常に自分の生まれ故郷のコミュニティーのことが心配だ。結婚して子供でもできれば自分の家族のほうが大切になってしまうので、いまは結婚もしたくない」と語り、私をホワイト・ビーチのホテルまで見送った後、山の中へ帰っていった。夜になれば、ランプの光の中でまだ見ぬ日本のことをあれこれと思い巡らしているだろう。そんな若者も育むことのできるフィリピンの夜の闇は、私など想像もできないほど、とても深いのだと思う。

2010/02/09

平和構築をモスレム女性たちの手で

 紛争が泥沼化しているミンダナオのモスレム自治区を中心に、全国各地から150名を超えるモスレム女性リーダーたちが集まり、平和構築に向かって行動することを高らかに宣言した。

 「平和の灯火、女性たちの誓い」と題された国際会議が、1月24日から2日間ダバオで開催された。主催はマグバサキタ財団とイスラム民主主義フィリピン・カウンシル(PCID)。前者は、比史上でただ一人モスレム女性で上院議員となったサンタニーナ・ラスル氏が代表で、モスレム社会の識字教育の推進に尽力してきた。PCIDの創立者は娘のアミナ・ラスル氏で、イスラム社会で重要な役割を担うウラマー(男性知識人)の全国的組織を作り、イスラム教徒の声を糾合してきた。今回の会議では女性知識人(アラビア語で「アリーマ」)の組織化を目指し、海外からゲストを招いて初の全国大会となった。

 日本政府はミンダナオの復興と開発のために、日本・バンサモロ共同イニシアティブ(通称J-BIRD)などを通じて、教育、衛生、労働などのインフラ整備を重点的に支援しているが、私たち国際交流基金は、こうした文化交流や知的交流を通じた平和構築の活動を支援してゆきたいと考えている。

 ミンダナオの状況が一昨年の8月から悪化して以来、一時は50万人もの国内避難民が発生した。比政府と分離独立派の和平交渉はようやく再開されたが、今でもミンダナオ中西部を中心に難民キャンプがあり、恐怖心から自分たちの村に帰れない多くの女性や子供たちがいる。

 昨年11月にはマギンダナオ州で、今年5月に予定されている統一選挙のからみで対立する候補者による57人もの虐殺事件が起きた。犠牲者には多くの無抵抗な女性やジャーナリストが含まれていて、この不名誉な事件は一気に世界中に知れ渡った。現職の同州知事をはじめ、軍・警察や私兵を含む600人以上の男たちが書類送検されている。今回の会議には、逮捕された州知事の代行を務めるモスレム女性のナリマン・アンボルット氏も参加して、マギンダナオの復興を説いていたが、その弁舌には覇気はなく、彼女や同州の人々がこの事件のトラウマから快復するには相当な時間がかかるだるだろうと思われた。

 一昨年私が初めてマグバサキタ財団の事務所を訪れ、サンタニーナ元上院議員から話を聞いた時、「女性こそが平和への触媒たらんと立ち上がるべき時だ。家族の要である母親として、地域コミュニティーの中心として。大きな紛争の種は、多くの場合はコミュニティーという身近な世界で起きる争いや憎しみあいがほとんどだ。そこではモスレム女性としての知恵と慈愛が試される。男性に支配された暴力に彩られた歴史を今こそ変えなくてはならない。ミンダナオの平和構築を私たち女性の手で実現してゆきたい」と熱く語っていた。

 無論ミンダナオ紛争の根底には貧困、そしてキリスト教徒の支配する他の地域との格差という大きな社会問題が横たわる。教育の格差も深刻だ。2003年の統計によれば、モスレム自治区の識字率は比国内で最低の70%。他のミンダナオ地域の87%からもさらに離されている。

 今回の会議には、ジェンダー問題で国政をリードするピア・カエタノ上院議員や、女性政党ガブリエラの党首で下院議員(政党リスト制)のリザ・マサらも参加して、女性の社会進出について熱弁をふるった。ジェンダー問題の大物を二人も呼んでくるとは、さすがに政治力がある。海外からの参加者の中では、特に四千万人のモスレム会員を抱えるインドネシアの巨大組織、ナフダトール・ウラマーの女性支部代表も参加し、先行するモスレム女性組織の奮闘史を紹介した。

 今後はこのネットワークを通して、自分たちの地元で識字教育の改善や人材育成に取り組み、全国レベルで彼女たちの声をまとめて中央の政界や国際社会に訴えてゆく計画だ。今回の会議を企画したアミナ氏の夢はつきない。モスレム女性の声を届ける雑誌や、ゆくゆくはモスレム女性政党も作りたいと抱負を語る。産声をあげたばかりのモスレム女性たちの力で、ミンダナオの平和構築に新たな灯火がともされることを心から願っている。



 ほぼ同じ内容の記事を『まにら新聞』にも掲載しました。

2010/02/01

カタリスト(触媒)としての文化交流

 海外にいると、時に外国人だからこそできることがある。旧習やしがらみで縛られた地元の人々には思いもよらないこと。そんな大胆なことが、ある意味”よそ者”であるがゆえに実現できる。バギオに本拠を置くコルディレラ・グリーン・ネットワーク(CGN)が行っている「コリディレラ・ユース・エコ・サミット」という活動を見ていてその思いを強くした。

 バギオからジープニーで北の山中をさらに4時間のところにレパントという鉱山の村がある。山中の村、といより立派な町と言ったほうがいいかもしれない。町全体がLepanto Consolidated Mining Companyの所有する私有地で、従業員は現在千七百名。家族を含めれば約七千名が住んでいて、学校、病院、スーパーなどもある。そんな山中奥深くに、かつて映画館として使われていたというかなり立派な劇場もあり、そこが今回の舞台となった。

 エコ・サミットは今回で3回目。コルディレラ地方の子供たちの環境問題への関心を高め、理解を深めるのが目的。同地方を構成する六つの全ての州(アブラ、アパヤオ、ベンゲット、イフガオ、カリンガ、マウンテン・プロビンス)から代表の高校を選んで、環境をテーマにした演劇作品を創作。自分たちのローカル言語で制作して、一ヶ所に集まって発表するというもの。レパントからもこの鉱山内にあるレパント国立高校の学生たちが参加した。日本人演出家でこのブログでも何度か紹介したことのある吉田智久氏の演出。同氏が作品作りのために各州の代表校で実施したワークショップの記録、コルディレラ山中行脚のレアーな記録はCGNのブログで読める(http://ameblo.jp/cordillera/)。また吉田氏以外にも日本人ミュージシャンや舞踊家が参加してこのイベントに国際交流の花を添えた。私たちも国際交流の活動に対して初回から支援してきた。



 このイベントの仕掛け人はCGN代表の反町眞理子さん。鉱山というと、環境破壊の象徴と見られる存在。しかしそんな象徴の懐で、まさに環境問題をテーマにしたイベントを実施するという大胆さ。最初はホストとしての受け入れにあまり積極的ではなかったようだが、それは反町氏の持ち前のバイタリティーと、CGNスタッフの一人がこの町の出身だったことが幸いして、実現にこぎつけた。開会日にはLepanto Consolidated Mining Companyからも代表が挨拶に現れたし、当日の鉱山の見学ツアーでは、環境に配慮した同社のポリシーを私たち外国人やサミットに参加している高校生に説明していた。

 しかし他のNGO関係者からあとで聞いたところによれば、鉱山開発によって付近の地盤が弱くなって崩落や沈下の問題に悩まされていることもあるようで、やはり環境に対してイノセントではいられない。だからこそ、今回の企画の大胆さがわかる。

 コルディレラ地方は”イゴロット”と呼ばれる山地民族の故郷だ。かつてはヨーロッパからやって来た宣教師などから“首狩族”と言われ、その勇猛さから恐れられた人々だが、別の視点から見れば、スペイン植民地軍に対して頑強に抵抗して十九世紀後半まで独立を貫いた誇り高き民族である。コルディレラ地方は古くから豊かな金の産地として知られ、十六世紀以来その金の魅力に惹きつけられた西洋の探検家や宣教師、そして植民地政府軍とイゴロットとの争いが絶えなかった。その抵抗と帰順の歴史は、『The Discovery of the Igorots(イゴロットの発見)』という本に詳細に描かれている。

 ここで鉱山が本格的に開発されたのはアメリカ時代の1930年代になってから。大恐慌時代の1933年に、ルーズベルトが行った政策によって金の価格が急激に高騰した結果、鉱山の大規模開発に拍車をかけたのだ。そしてこのレパントもその時代、1936年に開発された。金の他に銅も産出するが、今でも1日あたり1,500トンもの土を掘り出していて、(金の平均産出量は1トン当たり3グラム)。既に70年以上も堀り続けていることになるが、まだ新しい鉱脈もみつかっているという。開発当初はアメリカ資本だったが、今では完全にフィリピン資本の株式会社である。

 日本のフィリピン占領時代には、ここは三井マンカヤン鉱山と言われていて、日本人技術者によって操業されていた縁もある。新聞記事が当時の様子を生き生きと伝えているので、長くなるが引用する。

『大阪朝日新聞』 1942.3.27(昭和17)

「比島~装甲車に軽機を据え山から金塊を運ぶ、配当十割の黄金狂時代 金と銅」

【バギオにて 扇谷特派員二十六日発】皇軍の占領以来すでに三ヶ月フィリッピン諸島の中心地ルソン島はバタアンの一角を残しほぼ全島にわたって治安が確立され力強い建設の歩みを踏み出しているが各産業部門に魁けて中でも資源開発は急速調に進められ世界的に有名なバギオ金山ならびに品位の優秀な点では東洋一と称されるマンカヤン銅山がこのほどわが軍により確保された、同時に内地からは早くも三井マンカヤン銅山調査隊団長山下諭吉氏が乗込み警備隊に守られつつ鶴嘴を揮っているなど占領即建設の面目を遺憾なく発揮、フィリッピン資源の扉は今新東亜建設の脚光を浴びて開かれようとしている、記者は一日バギオを訪れ占領下のバギオ金山ならびにマンカヤン銅山の状況を視察、鉱山確保にいたるまでの道路隊や警備隊の苦心あるいはバギオ在留邦人挺身協力の模様を知ることができた、以下はその報告書である。

一、バギオの金山は七つある、海抜六千尺、松の緑に囲まれた山岳都市バギオ市外南方四十キロにわたる山々に一本の金脈が走っている、通称キーンストン金脈とよばれ幅平均十米、長さ七十六キロにわたる金脈である、この金脈を中心に点在するパラドック・ベンゲット・コンソリテーデッド・イトコン・アンタモック・ゴールドフィールド、ビッグウェッジ・バギオ・ゴールド・デモンストレーションなどの金山がこれで開戦前の産金額は七つの金山で全比島の約七割、ここに働く従業員は家族を合せると二万人といわれる尨大なものでこの金山はさる一月はじめバギオ市の皇軍占領と同時に無血占領された、しかもこの占領に当っては勝手知った在留邦人がわづか一名ないし二名で乗込みアッという間に占領したといわれしたがって鉱山附属の重油こそ焼かれたがその他の施設はそっくりそのまま確保されている、愉快なことは各会社とも日米開戦をみこし万一の場合アメリカ本国と交通遮断されることを予想し旧臘鉱山資材のストックを運び終えたばかりで夥しい鉄管やパイプがそのまま残されてあり今後の資源開発に恰好の資材を提供していることである、現在はこの金山を南北両地区にわけバギオ金山生活二十余年という吉本、稲吉の両技師によって管理されているが金景気の時代には各会社とも配当十割、月二回山からマニラ金塊を運ぶときには装甲自動車に軽機を据え強盗の襲撃に備えるという物々しさだったという

二、フィリッピンの宝庫マンカヤン銅山はバギオ市の北方約百六キロにある、最高七千尺、最低三千尺の峰つづきの山々を縫う辺り日本アルプスの燕の縦走路を思わす山道は去る二月バギオを追われた敵によって滅茶苦茶に破壊された、車を駆ってみると脚下はそそり立つような断崖絶壁に深い霧が漂い谷底は見えず見下すと目がくらくらする、ただ酷暑のフィリッピンにここだけは別世界、内地の十月位の温度でどこやらで啼く鶯の声に一しきり故国への感慨を催される、道は屈折が多くて一キロに四、五ヶ所もあり、カーブをきり損ねると千仭の谷底で思わずひやひやする、徐行して進む、ドドドドと山崩れの音がする地質の弱いこの山は山頂からたえず土砂と岩石がころげ落ちてくるのだという、道端に「上前通」という碑がたっている、去る三月六日ここで戦死した上前忠通訳(岡山県)に捧げた道路碑であった、記者は今さらのごとく深山に僅か〇名で日夜敗残の敵と戦い道路修理工事をつづけた藤田隊の地味な努力に思わず頭が下った、同隊岡本俊二中尉(滋賀県庁土木課勤務)はその苦心を左のごとく語る

「敵は火薬を約二万箱も使用しこの山道を約四十ヶ所にわたって削り取った、山の傾斜が約八十度、一本のロープに生命を託してまず足場を作り杭をうち込み橋桁をわたす、橋といっても粗末なものでやっと道と道をつないだのです、敗残の敵は約二百、地の利を知る彼らは我々の手薄に乗じて襲撃する、遂に戦死一、重傷者〇名を出した、殊に朝晩はよく霜が降り内地の十一月ごろの気候、夏服の兵隊さんの大半は下痢するという始末だったが我々はその度にその道は東亜の資源に通ずる道だといい合った、この我々の気持を籠めて各橋には報国、皇国、強国開国、愛国、経国、護国と名づけて進み最後の橋に我々がたえず頭に描いている靖国橋という名前をつけた、この橋を完成した日待望のマンカヤン銅山を目のあたりに見たときは思わず涙が出た」

            フィリピン・ハイウェイの最高地点を通過

             現在のレパント鉱山への入り口

             1954年に掘削された坑道への入り口

 今回の企画がユニークなのは、環境破壊の懐で環境問題を考えるイベントをやるということの他にもう一つある。それは、コルディレラの人々の”イゴロット”としてのアイデンティティに関わる問題だ。古来コルディレラの人々は部族ごとに激しく対立していて、部族間の抗争”トライバルウォー”が絶えなかった。現代になってもさすがに”首狩”の習俗は破棄されたが、まだまだ部族間の争いは多い。昨年、やはり同じイベントでカリンガ州のルブアガンという山の中の町を訪問したが、ライフル銃を持つ男たちに警護された副町長に挨拶した時にはさずがに緊張した。参加する子供たちの親の中には、あんな恐ろしい場所に自分の子供を行かせることができないとむずかった者もいたと仄聞した。

 そんなアイデンティティの錯綜したコルディレラで、6つ全ての州から子供たちを集めて、しかも芝居ではそれぞれ異なるローカルな言葉を使って演じて英語で字幕が付けられる。あくまでも自分たちの足元のアイデンティティを確認しつつ、”イゴロット”としての一体感も醸成しようという野心的な意図がある。

 Gerard Fininというハワイ大学の研究者が書いた「The Making of Igorot: Contours of Cordillera Consciousness(イゴロットの創造:コルディレラ意識の輪郭)」(2005年、アテネオ・デ・マニラ大学出版)という本がある。もともと部族に分かれて抗争に明け暮れていたコルディレラの人々が、歴史的にどのような経緯で”イゴロット”としての一体感やアイデンティティを持つまでに至ったのかを描いているが、その中で、アメリカ時代の鉱山の果たした役割を強調している。大量の労働者を必要とする大規模鉱山が、史上初のイゴロット・コミュニティーを生み出し、それがその後のイゴロットとしてのまとまりの原点となっていったという。



 その意味で今回のエコ・サミットは、結果的にはイゴロット・アイデンティティーにとって歴史的に縁のある地で、現代のイゴロットの若者たちがそのアイデンティティーを確認するという、まさに象徴的なイベントとなった。“よそ者”だからこそできるカタリストとしての役割。それは文化交流という仕事の持つ一つの醍醐味でもある。