2009/09/23

フィリピン映画の勢いは止まらない、東京国際映画祭に一挙3本エントリー!

 以前このブログで紹介した私の一押しシネマラヤ参加作品「Engkwentro」(ペペ・ジョクノ監督)が、先ごろ開催されたベネチア国際映画祭でオリゾンテ部門のグランプリを受賞した。若手作家の実験的作品に贈られるこの賞の賞金はなんと10万ドル。監督の叔母であるマリス・ジョクノ・フィリピン大学教授から聞いた話では、撮影では野外にわざわざ巨大なスラムのセットを組んだそうで、そのために膨大な借金が残ったが、これで全て返済しておつりが残ったとか。

 オリゾンテに参加した最近の日本映画といえば青山真治監督の「サッドバケイション」(2007年)などがあるが、フィリピン映画としては昨年も同部門にラブ・ディアス監督の「メランコリア」が参加してグランプリを獲得している。ちなみにこの「メランコリア」は、大胆にも8時間に及ぶ超長編で、恥ずかしながら長すぎて私は一部しか見てないが、3人の若者の内省の物語。全編白黒、ゆっくりと静かに、詩的な映像が延々と続く。ペペの作品は1時間で快走するドキュメンタリータッチの作品だから、フィリピンフィルムメーカーの様々な実験的試みが、このベネチアでは評価されているようだ。

 そしていよいよそのラブ・ディアスを含む3人のフィリピン人監督の作品が、今年の東京国際映画祭(10月17日~25日、六本木ヒルズなど)にエントリーされた。

 同映画祭の「アジアの風」部門のプログラミング・ディレクターの石坂健治氏のマニラ来訪についてもこのブログで触れた通り。そしてその時の興奮混じりのお約束通り、今回一挙に3人のノミネートとなった。

 まずはコンペティション部門で、81カ国743作品の中から厳選された16本の内の一作に、レイモンド・レッド監督の最新作未公開作品「マニラ・スカイ」が選ばれた。彼は1980年代前半、フィリピン大学学生の頃から実験映画で国際的に評価された早熟の人。特にアメリカとの独立戦争を闘ったマカリオ・サカイを描いた「サカイ」(1993年)が有名で、米国シンパの多いこの国では数少ない米国帝国主義批判の歴史映画を世に送り出した(DVDでも発売されています)。また短編の「Anino(影)」(2000年)はカンヌ映画祭で短編部門のパルム・ドールを受賞している。そんなフィリピンの伝説的映画監督の待ちに待った最新作が、東京でワールドプレミアの上映となる。

 次に「アジアの風」部門で、今年のシネマラヤで評価が高く、審査員特別賞と主演男優賞を獲得した「Colorum」(ジョビン・バレステロス監督)がノミネートされた。原題はタガログ語のスラングで、車の交通違反(路肩走行、逆走、一方通行違反)などに使う言葉だが、「白タク」という邦題で上演される。

 さらに上述したフィリピン実験映画界の現在のトップランナーであるラブ・ディアスや河瀬直美など3人の監督によるオムニバス映画「デジタル三人三色2009:ある訪問」(2009年、全州国際映画祭が毎年製作しているアジア3監督によるオムニバス・シリーズの最新版)。

 カンヌ(監督賞受賞)、ベネチア、東京以外にも、モントリオールに釜山に・・・、いまフィリピン映画は世界中から引っ張りだこだ。勢いの止まらないフィリピン映画の現在。東京国際映画祭をぜひお見逃しなく。日本にいる人がああ羨ましい。詳しくは同映画祭WEBサイトで。http://www.tiff-jp.net/ja/
 

2009/09/22

変容する戦争の記憶:メモリー・オブ・ワーからメモリー・オブ・ピースへ

 去る9月3日にバギオで「国際平和演劇祭」が開催された。バギオと日本の市民が中心となり、日本人コミュニティの繁栄とその後の太平洋戦争での惨禍、人々の再会と平和の祈りをテーマとした演劇作品を作り、昨年まで「山下降伏記念日」と呼ばれていた9月3日に上演し、その日を「平和の日」に改めようという企画だった。日本からは演出家(元劇団燐光群の吉田智久氏)、役者、ダンサーなどが参加し、ベンゲット大学の学生を中心としたフィリピン人と共演した。
 
 バギオは比島戦が終結した場所であり、9月3日はその象徴。戦争の悲惨な事実は事実として記憶し、しかし”降伏の日”として怨恨を子孫に伝えるのではなく、平和への願いに変えてゆきたいという趣旨に賛同し、私たち基金もこの演劇祭を支援した(市民青少年交流助成プログラム)。

 100万人以上と言われる比民間人の犠牲者を出した戦争の記憶は、60年以上経過してもこの国の人々の間で様々に語り継がれている。そうした記憶やその癒しにまつわる事柄は、心の中にある日本への眼差しそのものであり、まさに文化交流の領分と言える。

 そんな戦争の記憶に、はっきりと変容のきざしが現れている。

 イエズス会が経営するフィリピンきってのエリート校であるアテネオ・デ・マニラ大学には、東南アジアで最も歴史の古い日本研究コースがある。1967年に日本研究講座が開講して42年。太平洋戦争の惨禍で多大な犠牲を強いられたフィリピンの日本研究だけあって、ほぼ毎年開かれる日本研究セミナーなどでは、これまで戦争の問題がたびたび取り上げられてきた。昨年度も基金の支援でセミナーが開催されたが(2月6日)、そのテーマは「戦争の記憶、モニュメントとメディア、アジアにおける紛争の表象と歴史の創造」。フィリピンと日本で語り継がれ、表象され続ける太平洋戦争の記憶とその変容について、モニュメント、映画やマスメディアでの描かれ方などを通じて様々な分析が紹介された。

 記憶する、もしくは思い出すという行為は、単に過去にさかのぼるだけではなく、生きている今を反映し、将来に対する期待をも含む行為だ。その意味で印象に残ったコメントはオーストラリアのアイリーン・トゥーヘイ氏の発表で、メモリー・オブ・ワーからメモリー・オブ・ピースへシフトしていることについて述べていた。戦争という忌まわしい事実をしっかりと受け止め、次世代に向けて平和のメッセージを伝えてゆこうというバギオの例にもあてはまる。

 アテネオでセミナーが行われていたまさに同じ日(2009年2月6日)、なんとも象徴的なことであるが、ミンダナオのカガヤン・デ・オロ市にあるキャピトル大学でも、たまたま同じように戦争の記憶に関連するセミナーが行われていて、これも基金が支援した。こちらのほうは私自身は出席できなかったが、戦前ミンダナオに移住した日本人とその土地の先住民であるバゴボ族の女性との結婚、そして彼らの子孫である日系人をテーマにしたセミナーでる。”残虐非道な日本人”の子孫、縁戚者として、彼らもまた戦後長い間、戦争の記憶に苦悩してきた人々である。

 しかし今回の企画がユニークなのは、フィリピン人自身が、そうした日本人の移民史と現在の日系人の姿をベースに歴史小説を創作して、戦争の悲惨な記憶によって塗り固められてきたミンダナオの日系人の歴史に新たな光を当てようとしていることだ。

「第二次世界大戦は多くのフィリピン人の心の中に日本人についての恐ろしくネガティブなイメージを植えつけた。しかし日本や日本人にまつわる経験や記憶が、戦争とともに始まらない場所もある。そうしたフィリピンの歴史の中の特別な過去といったものは、一体どのように再構築してゆけばいいのだろうか?」(『Imaging Japan A Tale From Tagabawa Bagobo Nikkeijin』、マリテス・カンセール、リリアン・デラペーニャ共著)

 変容する戦争の記憶は、映画の世界にも現れている。以前このブログでも紹介したデジタル・シネマの『コンチェルト』。昨年のシネマラヤに出品されて話題を呼んだが、その後一般の劇場などでも公開された。映画自体の評価は分かれるところだが、日比文化交流史の中では非常に重要な作品だと思う。以前紹介した時の記事。

 第二次大戦中、ダバオで実際にあった家族の物語をもとに作られた『コンチェルト』(ポール・モラレス監督)という作品は、これまでさんざん映画でステレオタイプ化されてきた日本軍と全く異なる姿を提示した点で特筆に値する。監督の曽祖父の家族の実話にもとづいているのだが、日本軍のダバオ侵攻に伴って森の中に疎開した際に音楽を愛する日本人将校たちと交友を暖め、日本側の戦況の悪化に伴って同部隊が明日駐屯地を移動するという最後の晩に、その家族が彼らのために森の中でピアノの演奏会を開き、コンチェルト(協奏曲)を奏でるという美しいストーリーだ。戦争被害の甚大なフィリピンでこのように日本軍人を賛美するともとらえられかねない映画を作ることなど、おそらくちょっと前までは想像もつかないことであっただろう。

 この映画はポール(監督)の母親が書いた『Diary of the War: WWⅡMamories of LT.COL.Anastacio Campo』(2006年、アテネオ・デ・マニラ大学出版)という本が下敷きになっている。そしてその本は、ポール自身の曾祖父で戦時中ユサッフェ・ゲリラであったアナスタシオ・カンポ中尉の戦時中の手記(日本軍に発見されないように秘密の場所に保管されていたものが、カンポ家で2000年に発見された)に基づいて書かれたものだ。この映画のもととなった日本軍人との交流については、家族と疎開した日々やゲリラとしての活動、そして日本の憲兵隊から受けた拷問などが克明に描かれている全体のたった1ページほどに書かれているにすぎない。しかしカンポ中尉のひ孫にあたるポールの手によって、たった1ページのエピソードの記憶が、長編映画の中で美しい記憶に変容したとも言える。

 映画の中で日本軍や日本人がどのように描かれてきたかといえば、それは無論、全くひどいものだった。フィリピン人もしくはアメリカ人による映画で比島戦に関する作品は大きく3つのタイプに分かれると思う。戦史に基づいて描かれたオーソドックスな”正統派”戦争映画。次に戦争にまつわるサイドストーリーを描いた作品。そしてもう一つはドキュメンタリー。

 戦争映画の中で私が見た象徴的な作品は、米国映画の『The Great Raid(大退却)』(2005年、ジョン・ダール監督)。1945年の戦争末期、米軍がカバナトゥアンにあった日本軍捕虜収容所から500人の米国人とフィリピン人捕虜を救出して退却し、史上最大の救出作戦を成功させたという史実に基づいた物語で、無論日本軍人を生身の人間として描く要素は皆無。

 第二のカテゴリーは、例えば『Yamashita, The Tiger's Treasure』(2001年、チト・ロニョ監督)。フィリピンには,中国戦線からばく大な財宝を持って南下してきた山下将軍(第14方面軍司令官)が,敗戦間際に北ルソンの山中にそれを隠したという有名な”伝説”があり、いまでも大真面目に発掘を続けている人たちがいるが、この映画はその財宝を埋めるまでの話(過去)と現代の財宝探しがクロスして進行する。そこでは日本兵がフィリピン人捕虜を虐待して財宝を隠す場面が描かれている。

 そしてある意味”キワモノ”で『愛シテ、イマス。1941』(2004年、ジョエル・ラマンガン監督)。日本人将校がフィリピン人と恋に落ちるが、実は彼女はオカマで将校も同性愛者だったという極めてフィリピンぽい話。この作品については、タイ映画で日本人将校コボリとタイ人女性とのラブストーリーとしてタイ人なら誰でも知っている『クーカム(邦題メナムの残照)』のパロディーとも言えるが、話の基本は日本軍と戦ったフィリピン人ゲリラの追想と彼らを称えるお話。”醜い日本人”の基調は全く変わらない。

 第三のカテゴリーであるドキュメンタリーでは、1945年2月の”マニラの虐殺”を描いた『Manila 1945: The Forgotten Atrocities(忘れられた残虐)』(2007年)が有名俳優のセザール・モンタナが出演していて話題となり、大学などでも上映された。

 そうした映画の中で繰り返し醜く表象されてきた日本人が、ここ数年『コンチェルト』のように時にポシティブに語られる作品も現れてきている。『コンチェルト』以外にも『イリウ(郷愁)』(2009年、ボナ・ファハルド監督)という作品が既に完成して公開が待たれているが、これは世界遺産で有名なビガンの街並みが、実はフィリピン人女性と恋におちた日本人将校の英断で破壊から免れて残ったというストーリー。ウソかマコトか、これも実話に基づいた作品とされている。さらに、実は私のもとに2~3年前から似たような物語の映画化の相談がいつくか寄せられている。北ルソンの山中でフィリピン人を救った日本の”シンドラー”とか、戦前からフィリピン社会に貢献してきた大沢清氏の話とか、いずれも戦時中の日本人による”美談”の映画化である。こうした動きは、戦後60年間以上封印されてきた物語にようやく日の目を当てることができるようになったということを意味する。

 こうした戦争の記憶の変容は、おそらく我々の一人一人の心の中で、実は日々起こっていることなのかもしれない。

 今年7月の日比友好月間に基金の主催で実施したJクラシック公演に、比人ギタリストのブッチ・ロハス氏をゲストに迎えた。彼の提案でこの国で親しまれているタガログ語の子守唄「サ・ウゴイ・ナン・ドゥヤン」を演奏することになったが、その曲を癌と闘う姉のために演奏したいと提案された。日比友好のために実施する公演なので、あまりに個人的な思いと違和感があったが、やがて彼の家族が抱える戦争にまつわる記憶を知るに至り、考えが変わった。

 ロハス家は有名な芸術エリート一家だが、彼の母方の祖母が戦時中日本軍に処刑された。そのショックで母親は戦後長く日本製品をボイコットしていたという。そんな歴史を背負う彼は、その子守唄を家族の癒しのために演奏したいと思っていたのだと打ち明けられた。コンサートではそのことを観衆に伝えず、日本人演奏家には公演終了後に話せばよいと考え、彼の提案通りとした。結果的に大成功で、私の前で聴いていたロハス家の人々も目を潤ませていた。コンサートの最後の曲が映画『おくりびと』のテーマだったのは偶然だが、戦争の記憶を抱えた一人の比人演奏家とその家族にとって、その日の演奏によってその記憶は変容し、確かな癒しとなったのではないかと今でも思っている。

2009/09/15

文化と政治(1)

 いま文化と政治の問題がこの国で話題になっている。文化はどこまで政治から中立でいられるか?政治はどこまで文化に介入できるのか?それぞれの国で政治と文化の土壌の違いで差異があるにしても、ひるがえって自分たちの問題を考えるためにも興味深いテーマだ。

 9月8日はフィリピンのアーティストにとって記憶すべき日である。40年前の同じ日、フィリピン文化センター(CCP)がオープンした。先週の月曜日、40周年を祝ってガラコンサートが行われた。そして同じ週の11日、今度はCCPの創設者であり、フィリピン史上最大の芸術のパトロンと呼ばれるイメルダ・マルコスを称えるためのガラが行われた。題して「Seven Arts, one Imelda」。

 Seven ArtsとはCCPが扱う7つのアートジャンル、音楽、演劇、舞踊、美術、映画、文学、メディアアートを指し、それら全てのアートがイメルダの恩恵にあるという意味だ。以前このブログでも触れたとおり確かにCCPほどの国立文化施設は東南アジアには稀有だ。財政的な問題はひとまずおいておけば、理念的な面も含めてこれほど包括的な国立文化施設は日本にも見当たらないだろう。

 私も4年前にこの国に赴任して以来、事務所と自宅を除いて最も足しげく通った場所であり、基金の主催事業でも、これまでに大劇場3回(和太鼓倭、コンドルズ、オペラ・コンサート)、中劇場1回(Jクラシック)、そして小劇場3回(室伏鴻、チョン・ウィシン演出『バケラッタ』、踊りに行くぜ!)と数多くお世話になった。全て会場費はほぼ無料で、有形無形の様々な便宜をはかってくれて、基金の舞台関係事業はCCPなしには考えられない。

 歴史に“もし”はありえないが、この国にもしCCPが存在しなかったら、アートの“業界図“はざぞかし寒々としていたのではと想像するが、それだけその存在感は突出している。どうしようもない問題を抱えるフィリピンであるが、多くのアーティストの活動を支え、つまり人々の夢や誇りを支え、日々物語りを生産し続けている。

 しかしそのCCPの礎を築いたのが、史上最悪と言われる汚職と圧制にまみれたマルコス政権の第一夫人であれば話は複雑である。イメルダを称賛する今回のガラについても、Alliance of Concerned Teachersという戦闘的な教員団体が、マルコス時代に迫害を受けた多くの人々の気持ちを代弁し、同イベントに否を唱え、ガラ公演当日も会場前でデモを行った。

 当日は新たに館長代理に就いたラウル・ズニーコ氏が、開会のあいさつの中で「政治と文化を切り離し」と、ちょっと苦しげな(と見える)スピーチをしていた。ガラ後半のイメルダの生涯をテーマにした音楽劇の最後には本人がステージに上ったが、スタンディング・オベーションで迎えたのは約8割くらいであろうか、やや複雑な表情でかたくなに座ったままの人々もかなりいたのは象徴的だった。

 私はといえば、CCPの成立がある強大な権力を持った政治家の決断の結果だったとしても(CCPの土地は第二次大戦後海軍の所有となったが、イメルダ夫人の肝入りでマルコス政権の最初期に海軍から召し上げたという経緯がある)、やはりそれは人々の汗水たらして得た労働の対価からくる税金で作られたものであり、ましてはその時代が信じられない汚職と政治的迫害の時代のただ中にあったとすれば、そこに称賛などありえるのだろうか、と率直に疑問に思うのだ。たとえ部外者としてもスタンディング・オベーションなどする気にはなれなかった。

 しかしもし人間の性悪説を認めるとして、政治というものが必要悪であらゆる利権や物欲の調整機能であるとした場合、いかにひどい統治者であったとしても、あとから振り返れば後世に残ることもしていると、功罪論として語られるようになるのだろうか。

 イベントのパンフレットの冒頭にジェレミー・バーンズ(マラカニアン宮殿ギャラリー館長)のエッセイが掲載されている。

「もしイメルダ夫人のCCPという目標に向かった尽力がなければ、40年を経た今日、私たちの時代に、いまあるものと等しいものが存在していただろうか?・・・CCPはある意味遺産であり立証であると言えるだろう。たとえそれがひどく破壊的な政治的ビジョンの遺産だとしても、それにもかかわらずフィリピン人精神を絶賛し、芸術的才能と文化的表現を生み出してきた。・・・」

 「破壊的な政治的ビジョンの遺産」なんて、なんとも悲しい表現であるが、そんな遺産を称賛しなくてはならないほど、いまの政治的状況や文化と政治との関係が破壊的であるとも解釈できるし、この国の民主主義は未成熟だと言うこともできるだろう。