2009/02/19

癒しとしてのアートを求めて

 今回のコタバトでの調査にはもう一つの目的があった。いまミンダナオ紛争に巻き込まれてしまった子供たちを対象にした”癒しのためのアート・キャンプ”を計画しているのだが、そのためにまずは多少なりとも現場の状況を知り、現地で一緒に手伝ってくれそうなパートナーを探すことであった。

 ピキットでイパットのドキュメンテーションを視察した翌日、今度はコタバトのコミュニティー・アンド・ファミリー・サービス・インターナショナル(CFSI)というNGOのスタッフに案内され、隣町のダトゥ・オディン・シヌスアットにある国内非難民キャンプを訪問した。CFSIのスタッフであるサンドラは、昨年の12月にJENESYS(21世紀東アジア青少年交流大計画)事業のスタディー・ツアーで日本に招待していて顔見知りだ。

 ここの難民キャンプには近郊のタラヤン、ギンドゥルガン、ダトゥー・アンガルなど3町から逃れてきた約300人の人々が暮らしている。多くは子供や老人たち。ココヤシの木で作った掘っ立て小屋に、NGOから配られたビニールシートを張って雨をしのぎ、なんとか暮らしている。食料はWFP(世界食料計画)や国際赤十字からの配給。例えばWFPからは、1家族あたり月に25キロの米といわしの缶詰、塩、砂糖、オイルにコーヒーが配給される。水は井戸を掘って調達しているが、衛生的に厳しい状況だ。もう6ヶ月間こんな生活が続いているそうだ。



 そのキャンプの敷地内に、ユニセフが資金を出してCFSIが運営している臨時の小学校と幼稚園があった。どちらも粗末な作りだが、5人のボランティアの先生たちが授業をしていて、笑顔の子供たちであふれていた。同行したサンドラも子供たちの笑顔が救いだと言う。笑顔は、多くのフィリピン人が備えている彼らのライフスタイルを支える根幹だ。


 そんな子供たちの笑顔を眺めていたら、ある絵が思い出された。

 この時期ちょうどマニラで、ミンダナオ紛争をテーマにした「デザイニング・ピース」という展覧会が開かれている(2月5日~3月30日、デ・ラ・サール大学セント・ベニルデ校デザイン・アート学部)。私の事務所もローカルグラントを出して少しだけ協力しているが、その展覧会にテン・マンガンサカンが作品を出品している。これまでミンダナオ各地の難民キャンプを訪問して集めた子供たちのドローイングを展示したものだ。どの絵のテーマも「今」と「未来」に分かれていて、それぞれのイメージが描かれている。「今」と題した絵には、銃を発砲する戦闘員や空爆の絵、燃え上がる家屋、そして犠牲者たちが描かれていた。それはごく自然に、あたかも”あたりまえの日常の光景のように”描かれていたのだ。おそらく私の娘と変わらない年頃の子供たちの描く何気ない残酷な絵に、背筋の寒くなるような恐ろしさと哀しさを覚えた。

            左側が「今」の様子

 ミンダナオのような戦乱の続く土地で、危機に直面した場所で、アートや文化は一体どんな役割を果たすことができるのだろうか?戦争による殺し合いを目の当たりにし、親や兄弟や親戚を失って心に深い傷を負った子供たちにとって、アートは何か意味のあるものを提供できるのだろうか?

 難民キャンプの学校に集まる子供たちの笑顔の裏に、どんな記憶や恐れが隠されているのか、一瞬に過ぎない出会いからは想像できるわけのない、重すぎる現実がそこにはあるのだと思う。実際に”アート・キャンプ”が実現できたとして、おそらくそこに参加できる子供の数は少ない。50万人と言われる国内避難民の少なくとも約3分の一が高校生(16歳)以下の子供とすれば、それだけで15万人の子供たちが犠牲になって、学校もろくに行けない生活をしているのだ。

 でも自分が文化を扱う仕事に携わって、そしてこのフィリピンという国に関わろうとすればするほど、そんな現実に対して何ができるのかと考えざるをえない。“大海の一滴“であるのを承知のうえで、それでもあえてその一滴をもたらす価値とは何か、意味とは何か、ここしばらくは考えてゆきたい。

2009/02/17

海から来た民族の記憶

 祖先の記憶を今の時代に残し、いかに次の世代に伝えてゆくか。”紛争地域”と言われているミンダナオで、そんな課題に挑戦している若者がいる。以前このブログでも紹介した“テン”ことマンガンサカン2世(2007年12月号参照)。モスレム独立運動の中心にして、イスラム原理主義の保守本流にもつながるマギンダナオ王家の血をひく彼が、その原理主義の偏狭に抗い、失われつつある伝統文化を守ろうとしている。

 ミンダナオは文化的に豊かで奥の深い島だ。フィリピンにキリスト教が入って来る前からイスラム教徒によるスルタンが統治する王国が形成されており、さらにその前はアニミズムの世界が覆っていた。しかしイスラム分離独立派と政府軍による紛争、さらにはアブサヤフなどのテロリストグループによる誘拐事件などが頻発し、治安の安定しない危険な地域とレッテルを貼られてしまった。治安の不安定化や開発の遅れは社会の荒廃を招き、フィリピンの支配的階層である低地キリスト教徒からは文化的にも後進地域と差別されるようになった。本来は豊かであるはずなのだが、特にイスラム教が支配的な村々ではイスラム原理主義の徹底した影響などで、伝統的な価値観がゆらいで文化体系が失われつつある。

 テンが今取り組んでいるのは、イスラム以前からマギンダナオ族に伝わる伝統的儀式である“イパット”の記録ドキュメンタリー映画だ。“イパット”は5年に1度行われる家族の祖先との交霊の儀式。王家の儀式では1週間から2週間続くこともある。シャーマンによって執り行われ、音楽やダンス、詠唱を伴う。音楽はクリンタンと呼ばれる銅製の打楽器を使用し、憑依に至る激しい踊りが特徴。基本的にはマギンダナオの同族以外には公開しない秘儀であるため、これまで外部の人間による記録や研究が行わることはなかった。

 それに加えて1960年代よりイスラム原理主義が浸透するに伴って、イスラムの教義とあいいれない伝統的信仰や儀式はタブーとして封印された。敢えて儀式を行う者に対しては、イスラム分離主義者やその武装勢力、特にIMLFの司令官などが攻撃を加えるまでエスカレートするようになった。攻撃を恐れる一般住民は儀式を行うことを避け、どうしても行う場合には外に音が漏れないように隠密裏に行うなど危険が伴うようになり、やがて儀式そのものから人心が離れていったという。今その儀式を行える数人のシャーマンは皆高齢で、後継者はほんの数名のみ。ここで記録をしておかなければ、マギナンダナオ族の文化的アイデンティティを支える“イパット”という儀式は永遠に失われてしまうかもしれない。すなわちそれは先祖より代々伝えられてきた大切な記憶を失うということだ。

 テンからこの記録事業について支援の要請がきたのが昨年の6月。幸いにして国際交流基金がその要請を受け入れることになった。そしていよいよドキュメンテーションが、2月13日から15日の3日間、ミンダナオ中西部の中心都市コタバトから東に車で約1時間のピキット町の郊外で行われた。ピキットは彼の叔父であるハシム・サラマットが、モロ・イスラム解放戦線(MILF)を旗揚げした縁の地でもある。どうしてもその現場を見なくてはならないと思い、私は思い切ってピキットを訪れた。

 実はこの撮影、予定ではもっと早く実施されるはずだった。しかし昨年の8月、長年続いたフィリピン政府とイスラム分離派勢力による和解交渉が成立寸前に決裂し、ミンダナオの状況は一気に混迷を深めて内戦状態に逆戻りとなり、一時は50万人もの国内避難民が発生。国軍とMILFとの交戦が激しくなって、とても記録どころではなくなってしまった。その当時はこのピキットでも戦闘が行われていたそうだ。ピキットはそれ以前にも断続的に戦闘が発生している土地だ。現在ではなんとか収まっていて、ようやく撮影を敢行できる状況になった。とはいへ、幹線道路からはずれればいつ何が起こってもおかしくない状況には変わらりはない。今でもミンダナオ中西部を中心に170ヶ所の難民キャンプがあり、31万人以上の人々が非常時の生活を強いられているが、彼らも恐怖心から自分たちの村に帰れない状態なのだ。

 イパットが行われた場所は、ピキットの幹線道路から広大なリガワサン湿地帯を30分ほど奥に入ったパイドゥー・プランギ村。現地は事前の予想とは違って、随分とのどかでのんびりしたものだった。人々の表情も明るい。この村はテンの祖先の出身地で、ここなら安全と考えて決定したという。彼の親戚もたくさんいて、一族としては26年ぶりのイパットだそうだ。70歳代のチーフ・シャーマンに、数少ない若い継承者であるアブラヒム(31歳)とファイサル(33歳)が儀式の中心。その日は3日間続いた儀式の最後のクライマックスになる場面が行われた。貴重な記録なので、この機会に主な場面を順を追って写真で紹介する。

 7つの天をあしらった7層のお供え段













 精霊へのお供え物の白米、赤米と卵








 芭蕉の幹で作られた人形の根元に付けられた男根。後で悪霊が宿る












 海からやって来た祖先の記憶を呼び覚まさすために塩と水で塩水を作る












 クリンタンの演奏が始まり、徐々に儀式の雰囲気が高まる







 キンマが用意され、シャーマンが噛む








 シャーマンが米を撒いて場とテンを清める












 若いシャーマンが刀を清め、口付けして呪文を唱える







 シャーマンの祈りが始まる









 老女の歌に続いてシャーマンが謳い、踊りだす







 黄色と赤の布で示された橋をまたいで悪霊と闘う








 一般の参加者が塩水をかけあう








 悪霊の宿った芭蕉人形に槍を刺して退治する












 船の形をしたご神体に先祖の精霊が降りて来た。参加者全員で揺りかごのように揺らして精霊を送り出す。そうすれば病も一緒に消える




 シャーマンがテンに呪文を語りかける













 若いシャーマンが倒れて(実際に記憶を失う場合も多いという)、儀式は終わる












 現在イパットを完全なかたちで執り行えるシャーマンは10人にも満たないという。コタバトから同行したマギンダナオ人の友人は30歳を過ぎているが、イパットを体験するのは今回が初めてだった。儀式の中で謡われる歌は、マギンダナオの古語のため意味がわからないそうだ。31歳の若さでイパットに参加しているアブラヒムは、小学校2年の時に霊的体験をして以来シャーマンを志すようになった。病気治癒などのために時々呼ばれはするが、ほとんどの若者はイパットに関心を示さないと嘆く。もう一人の若きシャーマンのファイサルが、儀式の中で塩水を作る場面で話してくれた。

「我々の祖先は海からやって来た。今はその海から遠く離れてしまったけれど、こうして海の水を作って、はるかな昔を思い出すんだ。」

 今はリガワサン湿地の奥深くに暮らすマギンダナオの人々の祖先は、かつて海の向こうからやって来た。こうして呼び覚まされた彼らの祖先のスピリットも、船に乗って旅をする。記憶というものは、単に過去にさかのぼるということではなく、現在の私たち自身の姿、そして将来への期待も映し出すものだろう。今に生きる我々自身が思い出そうとする限り、記憶はその中身を変容させながらもいつまでも生き続ける。マギンダナオの人々が必要とする限り、集団の記憶はこうして次の世代に引き継がれて旅をし続けるのだろうと思った。

 このイパットを収録したドキュメンタリー映像は、3月26日にマニラで行われる国際会議(国際フォークロア学会(IOFA)主催、国際交流基金助成)にて発表が予定されている。ご関心のある方はご連絡ください。

2009/02/13

フィリピン人振付家が日本のダンス・コンペティションでグランプリ受賞!

 マニラに赴任して以来、数え切れないほどフィリピンのダンスを観て、時に感動し、時に欲求不満で腹を立て、多くの人たちと語らい、内輪のもめごとに頭をいため、その中の何人かはある程度信頼もできる友人となった。このブログでもたびたびコンテンポラリーダンスを取り上げ、どうしてこの分野で交流するのかも自分なりの考えを伝えてきた。そして3年以上が経過した。

 今回、ついにというか、自分の期待をはるかに超えて、横浜ダンスコレクションというイベントの『横浜Solo×Duo+』で、フィリピンから参加したロサム・プルデンシャド・ジュニアという若手振付家が、なんとグランプリにあたる「若手振付家のための在日フランス大使館賞」を受賞した。

 このコンペは日本でも新人振付家の登竜門として最も権威のある賞。もともとは世界中から振付家が集まるフランスのバニョレ振付家フェスティバル(現在)のアジア予選(プラットフォーム)として始まったもので、現在でもグランプリ受賞者はフランスでの6ヶ月間の研修と、留学中にパリ日本文化会館で公演を行うことが保証されている。正直、第一報を受けた時の感想は、まさか・・と思った。

 すぐに関係者に連絡をしたが、2年前に当地を訪れてフィリピンのダンサーたちと交流した舞踊評論家の石井達朗氏から以下の内容のメールをいただいた。

「横浜ダンスコレクション、わたしが行けたのは4日間のうち、2日目と最終日の4日目でした。わたしが見た2日間でローサムの作品が圧倒的によく、フィリピンからこのような作品で出てきているのがすごく嬉しく、本作が是非賞をとれればいいと祈っていました。本当によかったです。ローサムの作品、映像の使い方もすごくよくて、また、彼の動きが抽象的でありながら映像のイメージとリンクしているので、深い余韻を残しました。深いレベルで批評性のある作品で、日本人にはこういうものが欠如しているので、見習って欲しいくらいです。鈴木さん、これからもフィリピンのコンテンポラリー、後押ししつづけてください。」

 この受賞を、マイラ・ベルトランをはじめフィリピンでコンテンポラリーダンスの発展に身をささげる多くの人たち、地方のすみずみまで頑張っている多くのダンサー、フィリピンのダンスにつながる日本の方々、そして友人たちと分かち合いたいと思います。