2008/12/09

声を挙げ始めたミンダナオのモスレム女性たち

 ほぼ同じ内容が今週の「まにら新聞」にも掲載されましたが、写真をつけてブログにもアップしておきます。

 去る8月に激化したミンダナオの紛争による国内避難民は、既に50万人に達しったと言われている。長年続いたフィリピン政府とイスラム分離派勢力による和解交渉が成立寸前に決裂し、状況は一気に混迷を深めて内戦状態に逆戻りとなった。いつの世も戦争による最大の犠牲者は、女性や子供などの非戦闘員だ。そんなミンダナオの各地からモスレムの女性リーダーが集まり、このたび日本を訪問して市民と交流し、平和を訴えた。

 モスレム女性はフィリピンでは様々な意味で差別を受けている。第一にイスラム教徒であるがゆえの差別。この国の大多数を占めるキリスト教徒にとってモスレムは、スペイン植民地時代以来繰り返された戦争の結果、忌々しい敵として歴史に刻まれた。イスラム教に対する理解も不十分で、多くの誤解に満ちあふれている。特にテロが世の中を覆う時代となり、モスレムといえばアブサヤフなどイスラム過激派と関係する危険な人々と、偏見は強まった。

 第二に女性であるがゆえの差別。イスラム教は社会規範でもあるが、コーランが伝える教えは女性保護を特色とする。しかし現代社会では時にそれは女性から自由を奪い、差別の温床ともなる。伝統的イスラム色の強い地域では、女性の教育、結婚、職業選択の自由がいまだに制限されている。

 さらに問題を複雑にしているのが、民族的出自によるイスラム内部の階層化からくる差別だ。イスラムの雄を名乗るマギンダナオやマラナオは地位が高く、海洋民族であり”シー・ジプシー”とも呼ばれるサマやバジャウは低いと考えられている。

 これまで色々な人から話を聞いてわかったことだが、ミンダナオのモスレムといってもアラビア語ができてコーランの教えなどを正しく理解しているのはほんの一握りのエリートたちのみであるようだ。インドネシアのように全国津々浦々にマドラサ(イスラム学校)やプサントレン(寄宿制イスラム学校)があるわけではなく、イスラム教のオルターナティブ教育のシステムが脆弱なフィリピンでは、そもそもイスラム・コミュニティー自身の中にイスラムに関する偏見や誤解が偏在している。

 こうしたモスレム女性の問題との出会いは、かつての基金アジアセンターの同僚で、現在は九州大学アジア総合政策センターで准教授を務める小川玲子さんの紹介による。彼女の薦めもあって、まずは現地の状況を視察するため、2006年の4月にミンダナオ西部のモスレム文化の中心地であるマラウィ市を訪れた。ミンダナオ北部のカガヤン・デ・オロという町から車で向かったのだが、途中マラウィ市内へつながる山中に入った途端、国軍の検問所が立て続けに増えて緊張感が漂った。しばらく走ると風景は教会からモスクへと一変。目的地のミンダナオ国立大学はラナオ湖を見下ろす高台に広がっていた。

                ラナオ湖

 受入役は当時副学長だったエリン・グロさん。ミンダナオ国立大学はミンダナオ島一帯に何箇所ものキャンパスを有する総合大学。モスレム分離派の真っ只中にあるともいえる同大学は、対モスレム掃討の戦略上の要衝でもあったため、当時の学長は元フィリピン国軍将校。学問の世界ではかなりリベラルなフィリピンにおいては、例外的に政治的な学長ポストである。そんな大学で、彼女はモスレム女性としては初の副学長に就任していた。その後米国でジャーナリズムを研究し、現在は同大学報道広報局の所長。ラナオ湖を守るNGOも運営しており、声を挙げ始めたモスレム女性の先頭に立つ。環境破壊の影響で水位が後退して汚染の進む湖の現状や、19世紀前半に建てられたスルタンの屋敷で、現在はうち捨てられているマラナオ族の伝統家屋(トロガン)を案内してくれた。インドネシアでは似たような木造の伝統家屋をいくつも見たが、代表的なものは国の文化財局でよく修復・管理されていた。それに比べてここフィリピンでは崩壊寸前だ。紛争や環境破壊さえなければ、風光明媚で資源に恵まれ、クリンタン(銅製打楽器)の音が響いてカラフルな民族衣装の舞う、豊かな土地なのだろうと想像した。

               トロガン

            マラナオの伝統舞踊

 この訪問を契機に、在マニラのNGOであるピース・ウーマン・パートナーズが取りまとめ役となり、まずはその年に同大学から5名を日本へ招待。8月の原爆慰霊祭にあわせて訪日し、広島と長崎を訪問して被爆者と交流した。その後、それが縁で石川県原爆被害者の会の西本多美子さんが来比してマニラでフォーラムを実施した。

               西本さんを囲んで

 そして今年は再度来日するエリンがリーダーを努め、スールー、バシラン、ジェネラルサントスなどミンダナオ各地からメンバーを集めて二度目の訪日事業となった。九日間に福岡、大阪、名古屋、東京を訪問して九州大学、大阪大学、名古屋学院大学、一橋大学でそれぞれセミナーを実施。帰国後もマニラで記者会見や報告会を行い、紛争でゆれるミンダナオの現在と日本での交流について発表した。参加者の中で最年少のシティ・サリップさんは、「日本は原爆被爆国として世界に例の無い素晴らしい平和憲法を持っている。私たちも非暴力による平和を訴えてゆきたい」と語った。

 ミンダナオのモスレム女性が抱える問題は、我々日本人とも無縁ではない。ミンダナオがさらに混乱すれば、東南アジア一帯が不安定化することもあり得る。困難をおしてようやく声を挙げ始めたモスレム女性のメッセージに、私たちは耳を傾ける必要があるのだと思う。

 大阪大学で日本のクリンタングループと交流(写真:コーラ・ファブロズ)

2008/12/02

アートの力で町興し ~抵抗の精神を受け継ぐ現代のヒガンテス~

 リサール州アンゴノはマニラから車で一時間半。西方を広大なラグナ湖に接した半農半漁の町で、今ではマニラ首都圏のベッドタウンとして多くの人口を抱えるが、知る人ぞ知るアートの町だ。太古の人間の”芸術”の証があり、民衆の反骨精神を象徴するお祭りがあり、近代美術史上の傑人を生み出した。最近ではこの町に生まれマニラで学び、卒業後は都会の喧騒を避けて再びアンゴノに戻ってここを拠点に活動するアーティストが増えている。さらにアンゴノ以外の地域からも仲間が集まり、アートの力で町興しをしていこうというグループが生まれた。その名も”ネオ・アンゴノ・アーティスツ・コレクティブ”。2004年に結成され、いまやメンバーは100人にのぼる。

 彼らとの直接の関わりは今年の5月にさかのぼる。基金で「クリエイティブ・シティー」をテーマに、アジア各国から若手リーダーを集めて10日間の訪日研修を企画したが、以前から気になっていたネオ・アンゴノから招待しようと考え、初めて彼らの事務所を訪れた。「クリエイティブ・シティ」とは「文化芸術創造都市」という概念で、都市とアートを結びつけ、アートによって町とコミュニティを活性化させようという試みのことで、90年代中頃からヨーロッパで盛んになってきたコンセプトである。

 それまでにも何度か彼らの”作品”と出会ったことがあるが、最も強烈だったのが新聞の一面でも報道され、美術作品というより社会的事件ともなった作品。ネオ・アンゴノがナショナル・プレス・クラブの発注で「報道の自由」をテーマに巨大な壁画を制作した。そこには現政権を批判する著名な活動家やシンボル、そしてジャーナリストの暗殺について書かれた新聞記事などが克明に描かれていたのだが、彼らの許可無く公開直前に何者かによって改ざんが加えられた。「報道の自由」がテーマだったのが、皮肉にもこの国のジャーナリズムの限界と著作権の問題を白日の下に晒すこととなり、公開討論が行われるなど物議をかもした。いまもその壁画は未公開となっているが、今度は彼らはその事件そのものを作品として展示し、アートと表現の自由をテーマに積極的に社会と関わろうと試みた。アートを通したアドボカシーであり、一般市民を巻き込む「パブリック・アート」の原点。まさに彼らはフィリピン社会派アートの伝統を受け継ぐ確信犯である。



 訪日研修への参加を打診するため初めてアンゴノを訪問した際に、町に点在するアートの拠点をいくつか訪れた。

 まずは紀元前3000年前にさかのぼると推定されている岩窟絵画。わりと最近発見されたので詳しいことはまだわかっていないが、もちろんフィリピンで最古の絵。今ではこの町の誇るべき文化遺産であり、マニラ近郊からひきりなしに学生や観光客が訪れる。

 そして「近代美術史上の傑人」、画家のカルロス・ボトン・フランシスコ(1912~1969)の生家。彼はドラマティックな歴史画や重要な壁画など多くの名作を残したことで、この国の美術史において重要な作家の一人。また美術家としてだけではなく、上記の岩窟絵画を発見したり、後述の”ヒガンテス祭り”を復興したり、この町のアートコミュニティーを牽引した功労者であった。ナショナル・アーティスト(人間国宝)として今でもこの町の誰もが故人をしのぶ。彼の生家に通じる街路は、彼の作品を複製した壁画で埋め尽くされ、ごく普通の庶民が暮らす通りながら、アートをリスペクトする雰囲気があって生き生きとしている。


 また70年代から80年代にかけて、アンゴノを精力的に描き続けたホセ・ブランコもこの町のアート史を築いた一人。田園風景とそこに生活する人々を叙情的に描いていて、懐かしい田舎の暮らしぶりが伝わってくる。古き良きフィリピン・スピリットが満載された作品群だ。彼には七人の子供がいるが、大きなアトリエを使って家族作業で油絵を仕上げていくうちに、その七人全員が画家となってしまった。ブランコ本人は残念ながら去る8月に亡くなったが、いまはその子供たちがファミリー美術館を運営して、亡き父と子供、そして孫の絵まで含めて数え切れないほどの作品を公開している。


 その後7月の訪日研修にはキョ・ザパタという女性詩人を招待したが、それから半年、今度は逆に日本から西尾ジュンさんという舞踊家をアンゴノに招待して2週間の滞在プログラムを実施。ネオ・アンゴノにとって年に一度の大きなイベントであるネオ・アンゴノ・アート・フェスティバル(11月20日~22日)に参加した。

 今年で5回目となるフェスティバルは、全国的にも有名な”ヒガンテス(巨人)祭り”にあわせて開催されている。このヒガンテス祭りは、アンゴノの人々の誇り、そしてフィリピン人の抵抗の精神を象徴していて非常に興味深い。もともとは聖イシドロという農民の守護神を祝うスペイン起源のお祭りで、紙でできた張りぼての巨大な人形が町を練り歩くというものだ。しかしこのアンゴノでは、19世紀のスペイン植民地時代に、ハシエンダ(大規模農園)地主に反抗する農民の運動として始まった。地主への抗議で職を失った農民は、ヒガンテスを作ってパレードし、地主たちにトマトを投げつけて抵抗したという。フィリピン版非暴力不服従の運動だ。


 一度はすたれたお祭りだったが、80年代にカルロス・ボトンらの手によって信仰の対象を猟師の守護神である聖クレメンテに変えて復活。彼の死後は今度はフィリピン政府が観光振興のために奨励し宣伝した。しかしネオ・アンゴノは、このヒガンテスが持っていた農民の抵抗運動の肖像としての本来の意味を現代社会に蘇らせようと、その精神を受け継ぐ活動を展開するようになった。今では若者を中心に誰もが参加できる民衆参加型の熱狂的な祭典となっているが、パレードする側の人間が、観衆に向かって放水したり泥を塗りつけたりする行為は、かつてトマトを投げつけて抵抗の意思表示をしたこの祭りの痕跡をとどめているのだろう。 


 ヒガンテスに先立って行われたネオ・アンゴノ・アート・フェスティバルでは、子供たちのための絵画コンクールや子供劇団による公演、詩の朗読会や実験映画の上映、そして前衛バンドによるコンサートなど、数日間にわたって一般住民を巻き込んだ数々のイベントが開催された。日本から参加したジュンも、大阪の梅田でアマントというアートスペースを運営して地域に根ざしたアートを実践する舞踊家。大きな体育館に集まった数百人の民衆を前に、日本人の古(いにしえ)の体の記憶を呼び覚ますようなミステリアスな踊りを披露した。

        高校生と詩を朗読するイアン

 町中いたる所、神出鬼没でアートを実践して一般大衆を巻き込むパブリックアートは世界でも多くの例がある。東南アジアで言えば、私が90年代初頭に駐在したタイでは、チェンマイ・ソーシャル・インスタレーションが実験的な試みを行っていたし、90年代末のインドネシアでは、バンドンやジョグジャカルタなどでスハルト政権末期の混沌とした社会状況の中、緊張と発散のイベントを繰り返していた。この種のアートというより運動は、いずれも中央集権を象徴する首都以外の地方都市で盛んである。中央の権威のいわば裂け目に生まれるところに面白さがあるのだろう。

 ただしここフィリピンは社会の階層分化の激しい国。社会の格差は教育の格差でもあり、アートへの関心・理解は所属する階層でかなり異なる。一般的にこの国の大多数の庶民にとって、アートは鑑賞や理解の対象からは遠く、貧困層にとっては飯のタネにならない別の世界の出来事として映るだろう。そうした環境でアートを志すこと、そしてさらにアートとコミュニティーをつなげようとすることは大きなチャレンジである。生活がかかっていればなおさらだろう。そんな困難に挑戦するネオ・アンゴノは、アートが刻まれた時の痕跡と19世紀農民の抵抗のスピリットを引き継ぐ、ある意味、現代のヒガンテスなのだと思う。