2008/07/21

沖縄舞踊と黒潮文化

 沖縄とフィリピンは近い。気候・風土も似ている。沖縄名物のゴーヤー(苦瓜)はフィリピンでもよく食べられているし、パパイヤやマンゴーなどフルーツの植生も似通っている。フィリピンの先住民族は、沖縄のオジイやオバアとは遠い親類同士だから顔つきもそっくりだ。歴史的にも日本からの移民の多くは沖縄からで、戦後は米軍キャンプのある沖縄で多くのフィリピン人が働いてきた。“パタイ”という言葉はフィリピンでも沖縄でも同じ “死”を意味する。日本広しといえども、タガログ語の単語が方言に採用されているのは沖縄ぐらいだろう。だからこの7月にマニラで行われた沖縄舞踊の公演は、いつものいわゆる“日本文化紹介”とは、意味というかニュアンスが若干異なる仕事だった。

 沖縄から15人の公演団を率いてきたのは「沖縄文化民間交流協会」というNPOの代表で84歳になっても意気軒昂な玉城正保氏。沖縄舞踊はいくつかの流派に分かれていてそれぞれしのぎを削っており、今回初めてわかったことだが、その舞踊界をサポートする地元の二大新聞(沖縄タイムズと琉球新報)の系列で真っ二つに舞踊界を分かつ派閥があるようで、双方のグループ同士でなかなか交流する機会はないという。しかしこのNPOの企画に限っては派閥を超え、流派を超えて、踊りの演目ごとに持ち味を十分に発揮できる舞踊家が集まり、演奏を担当する地方も、組踊りで重要無形文化財の集団指定を受けている喜瀬慎仁氏をはじめ一流の演奏家がそろった。

 公演のほうは800人収容の劇場にほぼ満員の観客を集め、冒頭の「かぎやでぃ風」から観衆を引き付け、華やかな紅型をまとった「本貫花(むとぅぬちばな)」、芭蕉布の衣装による農民の踊り「むんずるー」、濃い藍染めの琉球絣で優雅な「花風」と見所多い踊りが続き、クライマックスには舞台の上で観客を巻き込んでお決まりのカチャーシーで、最後まで多くの観衆を魅了して成功裏に終了した。

 沖縄舞踊は、宮廷舞踊と民衆踊りという対極的な二つの要素を同時に持っためずらしい舞踊だ。宮廷舞踊は能を彷彿とさせる摺り足と優雅な所作を基本に、華やかな衣装が彩りを添える。一方民衆踊りである“雑踊り”は、民衆生活や沖縄の自然をモチーフとした生き生きとして軽快な所作が特徴。衣装も芭蕉など伝統的に庶民に親しまれてきたものが中心である。変化に富んでいるので見ていて飽きない。こうした多様性が受け入れられているのか、海外における“日本”文化紹介事業の中でも、和太鼓や津軽三味線などと並ぶ“御三家“として人気の分野である。

 タイやインドネシアに駐在した際にも公演やワークショップなどで沖縄舞踊の紹介をしてきたが、そのたびに沖縄のアーティストの心意気といったものに感銘を受けたものだ。いまや沖縄舞踊の大家の一人で、玉城流の家元である秀子先生率いるグループをバンコクで受け入れた際には、楽屋やバスの中でも気がつくと三線を伴奏に歌いだす陽気な人々に、確かに“ヤマト”の人々とは異なる気性をかいま見た。またアユタヤという古都に行った際には、自分たちの祖先がかつて住んでいたという日本人街に思いを馳せて目をうるますその姿に、世代を越えた想像力の豊かさに驚きを覚えた。インドネシアの古都ジョグジャカルタで比嘉いずみさんという中堅の舞踊家を招いて行ったワークショップでは、ジャワ文化の粋ともいえるジャワ古典舞踊の舞踊家たちと交流し、腰を据えたゆったりとした動作や優雅な手の所作など様式の共通点に嬉々とした。

 今回は公演の翌日に国立フィリピン大学(UP)でワークショップも実施したが、緊張感張り詰めた公演とは打って変わり、多くの学生を相手に賑やかで楽しい交流となった。舞踊、音楽とそれぞれに別れて双方30名はいただろうか、午前はそれぞれのパートに分かれて練習、午後は合流してのミニ発表会となった。それにしても踊りのパートで師匠格の久手堅一子さんが話していた内容に目から鱗が落ちるような思いを抱いた。伝統舞踊というもの、まずは型からと思いきや、「沖縄の人々はとても音楽を愛しています。今日も素晴らしい演奏をする先生がそろっています。さてどこからか音楽が聞こえてきました。私たちはそんな音楽を聴くと、もういてもたってもいられなくなるんです。ほらほら体が自然と動き出します・・」と言って学生たちを踊りに誘っていった。これほど踊りの本質を簡潔にかつ素直に伝えることは意外と難しい。三線の音色や踊りのリズムが生活に密着した沖縄のウチナンチューだからこそできることなのかもしれない。ちなみにこのフィリピンにおける東大ともいえるUPにも音楽学部の中に舞踊学科があるが、主流は西欧のバレエで伝統舞踊は教えていない。伝統のほうはまた別に体育学部にコースがあるようだが目立った活動はない。姿勢をまっすぐにしてひたすら上へ上へと体を伸ばしてバレエの訓練を積み重ねてきた学生の体は、それと見てはっきりとわかる体型の子たちが多い。重心を低くしてスローにゆったりと踊る沖縄舞踊に触れることで、体が記憶しているに違いない自分たちの祖先の踊り、その身のこなしの感覚を少しでも蘇らすことはできただろうか。


 フィリピンと沖縄をつなぐ絆は想像以上に太い。1940年当時フィリピンにいた日本人は領事館の登録ベースで19,288人。そのうち沖縄県人が9,899人と半数を超えている。例えば漁業の世界での糸満漁師の活躍は特質に値する。フィリピンの複雑な海岸線と遠浅の海は追込漁を得意とした糸満の漁師にとっては願ってもない漁場だったらしく、マニラにおける漁業の実権はほとんど沖縄の人々が握っていたようだ。

 3年前にフィリピンに来て取り組みたいことが色々とあった中で、フィリピンから海流に乗って北上し、台湾を経由して沖縄を貫く“琉球弧”に至る黒潮の道をたどる交流事業は、ぜひともやってみたいことの一つであった。かつて東京のアジアセンターという部署でアジアの文化財保存事業を担当していた頃、アジアの織物文化をテーマに各地から織物作家を招待し、芭蕉布を求めて西表島まででかけたことがある。芭蕉布は、今回の舞踊公演でも影の主役を努めた沖縄の民衆に愛用されたバナナ科の植物繊維から作られる織物だが、第二次大戦の戦火で一度は途絶えたものが沖縄本島の北部の喜如嘉で復興したものだ。西表にも紅露工房というところがあり、芭蕉の採集から糸作り、染料の採集と染め、そして織りに至るまでの一連の作業を体験することができた。

 芭蕉布が一体どこからやって来たかという疑問についてはいまだに解答はないが、ここフィリピンにもやはり芭蕉の一種であるアバカを用いた織物がミンダナオに残っている。かつてはフィリピン全土にあったといわれる織物だが、現在ではミンダナオ島南西部のチボリ族に伝わるティナラクという織物が最も原型をとどめていて有名だ。私が山原の喜如嘉にある芭蕉布会館を訪れた際も、そのチボリ族のティナラク織りが展示されていた。アジアの染織作家を集めた研修旅行の後、その芭蕉布のことが気になってある人に依頼して台湾にも同じような織物があるかどうか調べてもらったことがある。しかし残念ながら現段階では台湾の芭蕉布はみつかっていない。そんなこともあり、沖縄の芭蕉布とミンダナオのティナラクとの間のミッシングリンクを埋めるような“黒潮文化”に関する国際会議などできないものかと、今でも夢に思い描いている。

               ティナラク織り

 文化交流は人と人とをつなぐ仕事だ。新しい人と人との出会いはそれだけでかけがいのない価値を持つものだが、それが人と人とのつながりの記憶を、ひょっとしたら古き時代から交流してきた民族と民族の記憶を呼び覚ます可能性があるものであれば、そこにはまた次元の異なる意味が生れる。グローバライゼーションの時代といわれる中でますます希薄化していると言われている人間関係。国境を越えた人間関係もまたある種の希薄化をまぬがれない。しかしだからこそかつては確かにあったリンクに思いを馳せ、そのつながりを実感することが大切なのだと思う。華やかで爽快な沖縄舞踊の中にも、踊りの所作や衣装の中にそうした交流の痕跡が残されているはずだ。ミッシングリンクを埋めることはそう簡単なことではないけれど、ほんの一握りのウチナンチューとフィリピーノとの出会いを生み出すこともまた、その空隙を埋めるための一歩なのだと思っている。