2007/12/25

世代を超えた憂国の思い、若い作家たちへのメッセージ

 演劇、映画や美術などと違って言葉の壁もあり、なかなかリサーチする機会の少ない文学。そんな文学の歴史から現在までを学び、多くの主だった作家と知り合うまたとない機会が訪れた。フィリピン・ペンクラブ50周年記念のシンポジウムが開催され、フィリピンの代表的作家が全国から世代を超えて集まり、歴史的なイベントとなった(12月8~9日、国立博物館)。うちの事務所でも日本から若手女性作家の中上紀氏を招待して、2日間のディスカッションに参加した。

 このペンクラブを創設以来50年間にわたって牽引し続け、今回もオーガナイザーとして貢献したのがフィリピンの国民的小説家シオニール・T・ホセ氏である。

 ナショナル・アーティスト(人間国宝)でもあるホセ氏は、83歳にしてなお現役ばりばりで、つい先頃も新作の長編小説を出版したばかりだ。1880年代のスペイン植民地時代末期から、1972年のマルコスによる戒厳令布告前夜まで、約100年にわたるフィリピン史を背景にした大河小説5部作が有名である。特にその5部作の中で、時代的には4番目にあたる『仮面の群れ』(原題『The Pretenders』、1962年出版、1984年めこん社より翻訳出版)は、第二次大戦後、ルソン島の片田舎からマニラに上京し苦学して上流階級の仲間に加わった主人公が、社会に対する理想と、腐敗にまみれた偽善との間で葛藤し、最後には自らの命を絶つというストーリーで、彼の代表作として28カ国もの外国語に翻訳されている。私も20年前、まだ国際交流基金に入りたての頃に日本語版を手に入れ、ピュアーな“フィリピンの良心”に触れて一気に読んだのを覚えている。思いあまって青山にある翻訳者の山本まつよさんの事務所を訪ね、部屋中に置かれたフィリピンの民芸品や山積みとなったフィリピン関係の本に心躍らせたのを鮮明に記憶している。

 『仮面の群れ』の続編にあたる『民衆』(原題『MASS』、1983年出版、1991年めこん社より翻訳出版)は、『仮面・・』の中で自殺した主人公の私生児を中心にした物語だが、やはり父親と同様に苦学して頭角を現して上流階級からの誘惑を受けるが、父親とは別の道を歩む決心をして、1960年代末に盛り上がった民衆運動にその身を投じてゆくというストーリー。当時の民衆運動とマルコス政権の弾圧事件を題材に生々しく描いた勇気ある小説として有名だ。「訳者あとがき」にある通り、1976年にこの本を書き終えた後、しばらくはマニラで出版することは不可能で、英語で書かれた原作をわざわざオランダ語に訳して出版したのが1982年。19世紀末の体制批判の小説である『ノリ・メ・タンヘレ(我に触れるな)』の初版が、ドイツでスペイン語版として出版されたことを思い出させるエピソードだ。結局ホセ氏が当局に逮捕されるという事態には至らなかったが、終始、監視や盗聴、そしていやがらせを受け続けていたという。インドネシアには、スハルト政権に立ち向って権力を告発する作品を発表し、インドネシアのソルジェニーツィンと言われたプラムディアという作家がいるが、植民地体験を経た東南アジアの国々には、ずしりとした反骨精神に裏打ちされた誇り高い作家たちがいる。

 ホセ氏は小説家であると同時に、フィリピンの文学界にとって無くてはならないプロデューサー的な存在でもある。マニラ中心部のエルミタ地区に、いまもなおラ・ソリダリダッドという有名な本屋を経営している。店の名前は19世紀末にスペインで発行されてフィリピン独立運動のオピニオンペーパーとなった『ラ・ソリダリダッド』という新聞の名前に由来する。この国で最も充実した硬派の本屋だ。さらにその本屋はペンクラブの事務局も兼ねていて、毎月最終土曜日には文学者の集まりや詩のリーディングがあって重要なサロンとなっている。今は休刊中だが『Solidarity』という月刊の文学・評論誌を35年にわたって出版し続け、アジアの代表的作家、インドネシアのモフタル・ルビスやタイのスラック・シバラクサなども紹介してきた。今の中堅作家に彼ほどの奉仕精神と行動力を備えた者はおらず、残念ながらアジアの作家のネットワークは20年前と比べて進歩しているとは言い難い。いわゆる植民地根性に対して辛らつに批判する正統派ナショナリストで、欧米や日本といった海外の資本と結託してフィリピンの富を独占する上流階級についても、“大泥棒”と言ってはばからない。毎年のように日本を訪れる彼は、伝統文化からポピュラーカルチャーまで広く日本通としても有名で、その辛口な批判は常に的を得ている。

 さて今回のシンポジウムのテーマは、「文学、国家、そしてグローバライゼーション」。スペイン、アメリカ、日本と、約400年にわたって外国からの支配を受け入れてきたフィリピンの人々にとって、ナショナリズムや愛国心は心の琴線に触れる重要なテーマである。そもそもフィリピンで最も人気のある国民的ヒーローであるホセ・リサールも作家であり、スペイン植民地体制の時代を批判的に描いた彼の代表作である『ノリ・メ・タンヘレ』と『エル・フィリブリテリスモ(反逆者たち)』は、いわばナショナリズムのバイブルである。

 今回のシンポジウムに集った作家たちの中で最高齢はホセ氏の83歳だが、彼以外にも50年前のペンクラブ創設時からのメンバーの何人かが参加した。その世代にとっての外国支配といえば、1942年から1945年の間にこの国を統治し、はかりしれない犠牲をもたらした大日本帝国である。その意味で、創設メンバーの一人であり著名な劇作家でもあるアメリア・ラペーニャ・ボニファシオさんが、「ペンクラブの思い出」と題したスピーチを山下将軍の処刑の話から切り出し、「私は戦争の生き残りとして(作家としての)人生をスタートした」と語ったのは象徴的だった。

 しかし彼ら創設メンバーに続く世代、現在60代から50代の作家たちにとってのナショナリズム、愛国心とは、かたちとしては独立を果たしたものの、実際には旧態依然の植民地的な負の遺産をひきずって苦悩する祖国に対する憂いである。特にマルコス政権時代、1972年の戒厳令前後の言論の冬の時代に活動していた中堅作家たちは、今この国の言論界の中枢を担っているが、その迫害の時代にいかに権力に対峙して抵抗をつらぬいたか、または権力に擦り寄ったかで、いまに至って本当の尊敬をかちえているかどうかがわかるのだ。セブアノ語詩人として著名なミンダナオ生まれのドン・パグサラは、マルコス政権に幽閉された時のことを詩に描き、牢獄からわが子を思う哀歌をせつせつと歌った。また同じくミンダナオ生まれの作家であるホセ・ラカバも、やはりマルコス政権時に捕らえられて拷問を受けた経験を詩にして朗読した。いずれの作家も今は多くの人々から尊敬を集めていて、この国の言論界の抵抗の歴史を象徴する影のヒーローであるとも言える。逆に、マルコス時代にそのスポークスマンを務め、当時若干29歳で情報省長官に抜擢されたある作家も長々と演説をぶっていたが、私の友人は冷ややかに見つめて苦笑いをしていた。ちなみにマルコス政権の戒厳令時代には、こうした文学者の集会には必ず情報省のスパイがウェイターなどに変装して潜り込んでいたという。そして、今の政権だってやりかねないことだと言う。ジョークにしては笑えない、ちょっと不気味な話だった。

 今回のシンポジウムに唯一海外から参加した日本の中上紀さんは、ご存知の方も多いと思うが故中上健次氏の長女で、つい先ごろまで基金の雑誌『をちこち』でエッセイを連載していたこともある新進気鋭の作家だ。アジアをテーマにした小説やエッセイが真骨頂で、北タイを舞台にした叙情的でミステリアスな小説『彼女のプレンカ』(集英社文庫)で、1999年のすばる文学賞を受賞している。今回縁あってマニラに招待することとなり、日本から何冊か取り寄せて読んでみた。作品の舞台となっているタイやインドネシアは私も駐在していたし、紀さんが最も愛しているというミャンマーは、私も仕事で二度ほど訪れたことのある懐かしい場所だ。1999年にはヤンゴンやパウンデーという地方都市で、ペーザーやパラバイと呼ばれる古文書の調査をしたのが昨日のように思い出される。その土地の空気と匂いが伝わってくるような彼女の作品を読んでいると、もう一度自分がその場所にいるような錯覚を覚え、とても楽しい体験だった。

 中上さんとマニラで会ってから聞いた話なのだが、彼女は彼女なりにこの国に来る理由があって、今回の招待についても快く引き受けてくれた。25年前の1982年、まだ彼女が12歳のとき父親に連れられてこのフィリピンを訪れた。彼女にとっては初めての日本以外のアジア体験だった。そして当時中上氏がここを訪れた理由の一つは、フィリピンの友人に会うためであったという。しかしその友人、アントニオ・マリア・ニエバは当時のマルコス政権を批判したために投獄されていて、結局会うことができなかったそうだ。あとで調べてわかったことだが、ニエバはこの国のナショナル・プレス・クラブの創設者で反骨のジャーナリストとして著名だが、既に亡くなっている。その後中上氏も1992年に46歳の若さで亡くなっていて、二人で語り合ったというアジアの作家による雑誌の出版は夢のままで終わってしまった。

 中上健次氏の生れ故郷は、紀伊半島の神宮市。人間の煩悩や罪深さを濃密に描いた『岬』や『枯木灘』は、いまも私たちに強烈な個性で訴えてくる。その小説の舞台となった熊野の南を流れる黒潮は、あの柳田國男が『海上の道』で描いた、南の島へつながる海流だ。フィリピンは、その黒潮の起点である。もしかしたら中上氏は、遠い記憶としての南の島々とのつながりを、その体のどこかに持っていたのかもしれない。それでアジアの作家との交流を夢に描いたのだろうか。そしてその娘の紀さんは今、彼女の言葉で表現すれば、“海の距離感の視点”を持って、そんな父親のやり残したことに挑戦しようとしているようにも見える。そもそも作家になった動機も、父親の死であったという。失ったからこそ必要に迫られた自分のルーツ探し。自身自身のルーツをたどり、父親を追って、このフィリピンを再訪したともいえる。

 今回日本から作家を招待するにあたってホセ氏が望んだことはたった二つ。英語ができることと、若いということ。紀さんは30代の“若手”作家だが、83歳のホセ氏にとっては私すら孫の世代だ。そしてシンポジウムには、彼にとって孫や曾孫の世代にあたる若い作家たちも大勢集まった。40半ばで中国系の英語小説家として第一線で活躍するチャールソン・オンや、30半ばで実力派若手タガログ語作家のニコラス・ピチャイなど、みな次の時代を担う人々だ。会議も終盤に近づいた昼食の席で、ホセ氏がスピーチを行った。

 「・・・熱意にあふれ希望に満ちた若者よ、どうかこの老人が何度も何度も言ってきたことを繰り返させてくれ。半世紀も前、我々はこの国の汚職や下劣な政治に堕落することはなかった。我々は東南アジアの優等生だった。・・・しかしその後一体何が起こったのか?

 我々はみな知っている。植民地主義がいまだ終わっていないことを。それどころかこの国には内なる植民地主義が破滅的にはびこっている。・・植民地主義とは搾取である。見せかけがどうであろうと、キリスト教や民主主義や文明を装っていたとしても、忘れてはならない。植民地主義は悪徳だ。

 いま広がっている世代間のギャップを埋めなくてはならない。旧世代の作家たちは、親切ぶった態度や自らの業績をみせびらかすことなく、若い世代の作家たちに接し、若い作家たちは、先輩を知り鬼才から学び、先人の築いた瓦礫の山を再評価しなくてはならない。そして作家たちによる世代を超えた堅固なコミュニティーを作って、未来をつくる目標を分かち合っていってほしい。・・・」

 「告別の辞」と題したスピーチは、半世紀以上にわたってフィリピンの歴史を、民族の記憶をつむいできたホセ氏の遺言のようにも聞こえた。そんなホセ氏の最後の思いを聞きながら、フィリピン・ペンクラブ50周年という歴史的イベントの幸運な一人の目撃者として、次の世代への橋渡しのために少しでも何かできないだろうかと思いを巡らせていた。
(了)

2007/12/13

ビデオカメラとペンを手にした若きスルタンの末裔

 たまたま目を通した新聞の記事がずっと気になり、切り抜いてファイルにした後もそこに書かれている主人公のことが常に頭のどこかにあって、いつかは会ってみたいと思いつつも時が過ぎ、それが言ってみれば“潜伏期”となり、そして最終的にようやく当の本人との出会いがやってくる・・なんてことがたまにはある。グチェレス・マンガンサカン2世、通称テンとの出会いも、1年前の一つの新聞記事が発端だった。その記事の中で31歳の若きフィルムメーカーとして紹介されているテンは、ミンダナオ島でもイスラム教徒が最も多い地域、マギンダナオの出身でスルタンの末裔である。ミンダナオの人々、特に若手のアーティストや研究者との交流を目指す私としては、機会があればぜひとも彼と仕事がしたいと思っていたが、今回ようやくその好機が訪れた。アジア地域の次世代の若者たちによるセミナーが、国際交流基金の主催で日本で実施されることとなり、フィリピンから2名の代表を送ることとなった。私は迷わず1年前の新聞記事を引っ張り出し、テンを派遣することに決めた。(12月17日に早稲田大学小野記念講堂にて公開シンポジウムが実施される予定)

 彼はマギンダナオの著名なスルタンの家系。いわばフィリピンにおけるモスレムの保守本流、メインストリームにいる一人だ。そんな彼が一体映画で何を撮っているのか、どうして映画なのか、最初は単純な疑問だった。しかし調べていく内に、彼が背負ったものの重さや恐ろしさ、それがためのこれまでの数知れない葛藤、そして決意の真摯さに心を打たれないではいられなかった。この世界を覆う“民族紛争”や“宗教紛争“、その一翼を担うミンダナオの内戦。もし自分がその戦争の指導者の血を引いていたとしたら、この世界は一体どのように見えるだろうか。どう見ることが許されるのだろうか。

 テンの祖父、ダトゥー・ウトック・マタラムは著名なモスレム・リーダーで、1940年代後半と1960年代に、ミンダナオのコタバト州の州知事を務めた。1960年代後半になると、フィリピン全土で共産主義運動や学生運動が盛んになり、その影響を受けてモスレムによる民衆運動も盛り上がった。当然そうした民衆運動の中心にいたダトゥー・マタラムは、1968年に起きたモスレム虐殺事件を契機に、急速にフィリピン政府からのモスレム独立を求めるようになり、その同じ年に「ミンダナオ独立運動(MIM)」を創設した。つまり彼の祖父は、それ以来今日まで40年にわたって続いているミンダナオ・モスレム独立運動の基礎を作った人なのだ。

 新聞で紹介されていた彼のドキュメンタリー映画『House Under the Crescent Moon』(2001年)は、その祖父が建て、テンを含む多くの家族とともに暮らした、故郷の大きな赤い家の物語である。上述したMIMは、まさにこの家で産声をあげた。そしてその8年後の1976年にテンが生れたのもこの家だが、その時代はMIMの運動を受け継いだ「モロ民族解放戦線(MNLF)」と政府軍との戦闘が最も激しかった時代だ。その後ダトゥー・マタラムはテンが6歳のときに亡くなり、テン自身もその家を離れて都会で学校に通うことになった。そしてその赤い家はしばらく彼の記憶から失われた。マニラの大学で映画を学んだ彼は久しぶりに帰郷してその赤い家を訪れたが、そこで彼の見たものは、当時内戦が激化して多くの難民の避難所となり荒廃した家の姿だった。テンは我を忘れたようにその姿を記録し続けた。そうしてできた映画が『House Under the Crescent Moon』だ。このルーツ探しのドキュメンタリー映画は彼の記念すべき処女作となり、フィリピン文化センターからその年の優秀映画賞が与えられた。

 そんな彼の最新作が、ちょうど先ごろマニラで公開された。「コントラ・アゴス(反潮流):レジスタンス・フィルム・フェスティバル」という、かなりきわどい検閲すれすれの作品を集めた映画祭で、会場はいまやインディーズ・シネマのメッカとなったショッピングモールのロビンソン・ギャラリア(2007年12月5~11日)。作品のタイトルが『The Jihadist(聖戦主義者)』。『House・・』では彼の祖父がテーマだったが、今回は彼の叔父ハシム・サラマットが主人公だ。サラマットは、モスレム分離独立運動の中でもより“過激”だと言われている「モロ・イスラム解放戦線(MILF)」の創設者として有名だ。1960年代にカイロのアル・アズハル大学で学んだ知的エリートであったが、当時フィリピン大学で講師をしていた俊才のヌル・ミスアリとともに、1970年、モスレムの独立を目指して「モロ民族解放戦線(MNLF)」を結成した。その後、フィリピン政府との妥協を目指すMNFLとは袂を分かち、1977年にMILFを結成して政府との対決色を鮮明にした。MILFは彼の死後、「アブ・サヤフ」など原理主義的なグループとも接近するようになり現在に至っている。映画ではそんな叔父サラマットの足跡をたどり、彼の築いた村、そして今では内戦の傷跡が深く刻まれた村を訪れ、村人のインタビューを通して、イスラムの指導者としての純真な姿を描いてゆく。

 『House Under the Crescent Moon』と『The Jihadist』は、ともに彼の親族の足跡をたどるルーツ探しの物語だ。祖父も叔父も人々の記憶に残る、そして今後もこの国のモスレムの歴史に名を残す、独立運動のリーダーであり闘士であった。しかしテンが映画の中で描いているものはそうした独立の英雄の物語などではなく、内戦で荒廃した家や土地、そして戦争被害で心に傷を抱えた人々の心に写し出されるある種虚しさのようなものではないかと感じた。

 「コントラ・アゴス」ではテンの作品以外にも、彼がプロデュースして他のフィルムメーカーが撮影した現代のミンダナオをテーマにした短編作品が合計7本も公開された。その中でも『Walai』(アジャニ・アルンパック監督)という作品は、コタバト市の有力なスルタン一家の栄華と抗争、そして没落と苦悩を描いた秀作だ。世間の人々はミンダナオのことを宗教紛争や民族紛争のメッカと言っているが、こうした作品を見ると、実はその抗争の多くが地元の政治的または経済的な利害関係に由来した、極めて具体的な怨恨から生れているということがよくわかる。いずれにしてもテンの存在は、いまや多くのミンダナオの若手アーティストを動かす原動力になっているようだ。

 さらに彼はプロデューサーとして、もう一つ重要な仕事を最近やり遂げた。彼が編集者となって『Children of the Ever-Changing Moon: Essays by Young Moro Writers』(Anvil出版)というアンソロジーを出版したのだ。16人のミンダナオの若手ジャーナリスト、アーティストや教師らによるエッセイだが、これが現代のモスレム社会の様々な揺らぎを率直に表現していて大変興味深い。親の反対を押し切ってキリスト教徒と結婚をする話、イスラム風の名前に対する偏見と恥じらい、同じモスレムでも父方と母方が異なる民族的出自を持っているがために起こるアイデンティティ喪失の問題、イスラム教徒のゲイに向けられた偏見、超保守的な土地で育った女性モスレムの教師への険しい道のり、生れて初めて故郷のモスレムの土地タウィタウィを訪れた夢のようなひと時、マニラのイスラムコミュニティーの生活などなど、どの物語も今を生きる若いモスレムたちの本音がとてもよく伝わってくる。

 その中のエッセイの一つ、モスレムの女性としてはとても珍しいことだが、マニラを拠点とする大手新聞社でジャーナリズムのメインストリームで活躍するサミラ・アリ・グトックの作品から。マニラの大学で教育を終えて、モスレム独立運動に希望を抱いて帰郷した友人が経験した挫折感を次のように書いている。

「私の友人は生れ故郷のラナオの町に、モロ(イスラム教徒)として誇りをもって帰郷した。しかしその後私が彼女に会った時、彼女は大きなフラストレーションに直面していた。モロ民族のために、その闘いのためにと思っていた理想は、そこに住む人々の間に見つけることができなかった。そのかわり、彼らは保守的で、すぐ誰かに頼る弱い人間で、無関心で腐敗していた。」

 テンの祖父たちによって起こされたミンダナオのモスレム独立運動。40年を経た今日、その理想と希望はあまりにも多くの挫折と裏切りと腐敗と怨恨に侵されてしまったのだろう。しかしそんな理想にまとわりつく空虚さを一端受け入れた上で、そこから何かを始めようとしている若い人たちも確かに存在する。このアンソロジーからはそうした人々の息使いが十分に感じられる。そして10年前にはおそらくタブーだったことも、今、ようやくこうして30歳前後の若きモスレムたちによって発言され始めている。

 テンの子供のころの夢は医者になることだった。それが大学時代に出会った小津やフェリーニといった外国映画でその後の人生が変わったという。そして医学をあきらめた彼は映画を勉強してドキュメンタリーを撮り、こうしてミンダナオの若手アーティストのコミュニティーの中で重要な位置をしめるようになった。モスレムの伝統の核心を受け継ぐスルタンの末裔、そしてミンダナオ独立運動の戦闘家の家系。そんな彼には普通の者にはない威厳すら漂っているが、気になるのは話している間もほとんど笑わないことだ。

「人々の心の中にある不条理な怒りや恐れ、そして偏見を癒す苦くて甘い薬、私の映画や書き物がそうなることを願っている。そうなれば、かつて私が子供の頃に医者になりたいと思い描いたように、人々の心を癒すことができるだろう。」

 生まれながらにして数奇な宿命を背負い、暗い民族の記憶からおそらく逃れることのできない彼にとって、カメラとペンは彼なりの最後の抵抗の手段なのかもしれない。
(了)