2007/09/10

次の世代へバトンをつなぐ喜び

 今回のブログはいつもと趣向を変えてとても個人的な話を書きたいと思います。

 国際文化交流という裏方の仕事をしていて最も充実していると感じるのは、おそらく、学者やアーティストなど、社会をかたち作り、支えている人々、または学生のようにそのようなことを将来にわたって期待される人々、いわばそうした主役となる人たちが、生涯にわたって影響を受けるような経験(ライフタイム・エクスペリエンス)をする後押しをしている、と実感するときだと思う。


 先日、ミンダナオ島北部の中核都市、カガヤン・デ・オロ市にあるキャピトル大学を訪問した。基金の草の根交流助成というプログラムで同大学の学生7人による訪日研修が実現するはこびとなり、その学生との顔合わせに招待された。

 実はこの町を初めて訪れたのは1979年、今から28年前、まだ私が16歳、高校1年生の時だった。当時ブームだった“南北問題”に関するある大学の懸賞論文に入選し、同級生2人とともにフィリピンにやってきた。このカガヤンに来たのは、私の高校がイエズス会系の高校であり、同じカソリックで姉妹校であるアテネオ・デ・カガヤン高校が受け入れてくれたからだ。短い滞在だったが、同じ年頃の友達もたくさんできて、高校の授業にも飛び入り参加した。田舎者の私は皮肉にも、タワーレコードやシェーキーズというアメリカ文化に初めて接したのもこの町だった。タワーレコードで買ったイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーのLP、ビニールに包まれた輸入版のあの独特な匂いは、今でも昨日のことのように覚えている。

 けれどもたくさんの濃密な経験の中で、その後のぼくの人生の中で終生忘れえぬものとなったのは、お世話になったフィリピン人家庭の温かさであり、家族で行った教会で見たフィリピン人の敬虔さ、その神秘的ともいえる姿であり、日が沈む頃になると家の前の道路のここかしこに集まっては談笑し、ギターを弾き語る、なんともいえないロマンティックな光景だった。当時から貧富の格差が激しかったフィリピンだから、若い自分には相当ショッキングな貧困の現実というものを目の当たりにしたのだけれど、私の頭の中の最終的な残像は、ほとんど幸福にまつわるものばかりだった。厳しい現実と隣り合わせのなんとも奇妙な幸福感。これが大雑把にいって、私がこの国に抱いた印象だった。1週間足らずの滞在なのに、カガヤンを発つ飛行機の中では何故か涙が止まらなかった。あまりの感情の揺らぎに自分自身も驚き、心の中で「必ず戻ってくるから」と、言い聞かせた。

 それから2、3年、そこで知り合った友人たちと文通を繰り返した。やがて音信不通になり私は大学に進んだが、このカガヤンでの体験は常に心のどこかにあったのだと思う。厳しい現実と隣り合わせのなんとも奇妙な幸福感。私たち日本の日常とは全く異なる世界、価値、そして匂いがあった。大学に入ってからもバックパッカーとなって随分いろんな国に行ったけれど、今から思えば、どの街へ行ってもあの「奇妙な幸福感」の追体験を求めて、そのなぞかけに対する答えを探していたのかもしれない。その意味で、カガヤンが全ての出発点、ぼくにとっての“異界”への入口だったのだ。

 その後カガヤンを取り巻く環境は大きく変わった。第一、ミンダナオはモスレムによる分離独立運動が激しくなった。私がフィリピンから帰国して数ヵ月後、ダバオという町で初めて爆弾テロによる犠牲者が出た。いまでは日本人の多くは、ミンダナオ島と聞けばイスラム原理主義やテロリストをイメージするだろう。私も基金に入って何度かフィリピンを訪れる機会はあったが、カガヤンに来ることはなかった。そして、2年ほど前に基金のマニラ事務所を預かることになった。

 フィリピンに赴任したら私にはぜひやってみたいことがあった。それはミンダナオの人々との交流だ。日本から見ればテロリストの巣窟かもしれないミンダナオ。でも当然だけれどそこに住む大多数の人々は、あのカガヤンで出会った友人たちのように、平和を愛するロマンティストであるに違いない。待っていては事は始まらないので自分からどんどんでかけることにした。そしてダバオから平和運動の活動家(神父)を日本に招待したり、マラウィからはモスレム女性リーダーのグループを広島と長崎の原爆の日にあわせて派遣した。幸運にもスールー諸島のスルタンの家系につながる舞踊家と出会い、同地に伝わる伝統舞踊をめぐる国際シンポジウムを実施したりした。でもやはり当然のことながら、最も気になっていたのはカガヤン・デ・オロのことだ。

 今回訪日するキャピトル大学の7人の学生は、看護学科、国際学科、商業学科の18歳から20歳までの学生(フィリピンの学制は小学校6年、高校4年、大学4年)。その内の一人はモスレム自治区からやって来たイスラム教徒の女子学生だ。日本では1週間ちょっとの短い間に、創価大学の特別講義に出席するほかに、彼ら彼女たちによるフィリピン文化紹介や平和問題に関する日本人学生向けのレクチャーもあるという充実ぶりだ。


 28年前にこの町を訪れることがなかったら、今の僕はここにいただろうか。16歳の時にこの町からもらった大事なもの。ようやくそのいく分かをお返しすることができる。ライフタイム・エクスペリエンスを目前にして、期待に胸をふくらませて満面の笑顔をたたえる彼らを前にして、あの時僕が受け取ったバトンを、今こうやって次の世代の若者に確かに渡すことができたと、そう確信してとても嬉しくなった。

2007/09/03

Dシネ・ブームの先に見えるもの-フィリピン映画の過去・現在・未来-

 前回報告した「シネマラヤ」の興奮まだ冷めやらぬマニラで、今度は、「シネマニラ国際フィルムフェスティバル」が開催された。既に9回の歴史を重ねて年中行事といってもいい映画祭だが、国内Dシネの祭典シネマラヤと異なり、こちらは世界各国から名作を集めて充実のラインナップ。日本でいまや大人気、タイのペンエーク・ラタナルアン監督の新作「プローイ」を筆頭にASEAN映画特集や、2005年ベルリンで金の熊賞を受賞した南アフリカのカルメン歌劇「ユー・カルメン・イン・カエリージャ」などのアフリカ映画特集、カンヌ、ベルリン、ベネチアといった著名な国際映画祭での受賞作や招待作品を中心に、32カ国から133作品が上映された。日本からは「武士の領分」、「フラガール」とアニメの「時をかける少女」の3本が参加している(8月8日~28日、アラネタ・センター)。

 ちなみにフィリピンにおけるメジャーな映画祭といえば、「シネマラヤ」に「シネマニラ」、そしてあと一つ「メトロマニラ・フィルムフェスティバル」というのがある。歴史的にはこれが最古の映画祭で、1975年から数えて昨年の開催で32回目になる。こちらは純国産の商業映画が中心で、毎年クリスマスシーズンに開催。昨年はコメディー映画「Enteng Kabisote 3」(作品賞)を筆頭に9本のエンターテイメント作品がエントリーし、興行成績もまずまずだったようだ。

 さてシネマニラだが、今年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した「4ヶ月、3週間と2日」(クリスチャン・ムンギウ監督)は衝撃的だった。チャウシェスク共産党政権末期のルーマニアの小さな大学の街が舞台で、女子学生による非合法の堕胎と、それを助けるルームメイトの恐怖をリアルに描いた作品だ。ルーマニア映画がパルム・ドールを受賞したのは史上初。WEB情報では年間10~15本の映画しか製作されておらず、ムンギウ監督は国内唯一の映画学校で学び、低予算でこの映画を製作したという。そんな成功物語を目の前にして、フィリピンの若いフィルムメーカーたちは何を思っただろうか。年間50本の35ミリ映画を世に送り出し、映画を学べる学校もいくつかあり、ましては昨今のDシネの盛り上がりだ。きっとフィリピンの映画人にもチャンスはある。シネマラヤに集った若者たちの中から明日のヒーローが生まれても不思議ではない。

 シネマラヤ以来、映画にどっぷりという感じだが、派手な映画祭以外にも、地味ながらきらりと光る面白いイベントもある。この国のインデペンデント系のフィルムメーカーを取り巻く環境を知る上でも興味深いイベントを二つ紹介しておく。

 一つは、環境をテーマにしたローカルのドキュメンタリー映画祭である「ムーンライズ・フィルムフェスティバル」(8月15日~21日、ロビンソン・ギャレリア、Center for Environmental Awareness and Education主催)。コンぺティションの出品作はいずれも短編で合計9本。中部ビサヤ地方の小島で起きているダイナマイト漁による漁場の破壊を描いた「カウビアン」(ウリセス・シソン監督)、昨年ギマラン島沖で起こった石油タンカーの重油流出事件による海洋汚染を描いた「ショコイ」(レイ・ジブラルタル監督)、ルソン島コルディエラ山地の森林破壊をテーマにした「猿はどこへ行った?」(マベル・バトン監督)などを観た。

 環境破壊について日本では断然中国が注目されているが、ここフィリピンもかなりひどい状況だ。明確に人為的な環境破壊以外にも、天災や、過度の森林伐採が遠因である地すべりや鉄砲水など、天災を装った人災の被害と後遺症は想像を超えるものがある。その意味でこうしたドキュメンタリーの対象となる素材はごろごろあるというのが誇れない現実だ。

 コンペ作品の中で「猿・・」を制作したのはコルディエラ・グリーン・ネットワークといって、バギオを拠点に活動している環境NGOである。代表を務めているのは反町真理子さんという日本人で、植林運動や環境教育のほか、山岳地帯の貧しい村の子供たちに奨学金を出したりして活躍している。今回の「猿・・」プロジェクトでは、インドネシアから陶芸作家や日本人アーティスト廣田緑さんを招聘して共同制作を行った。

         「猿はどこへ行った?」のポストカード

 インドネシアはあの2年前の悪夢のような津波以外にも、自然災害や環境破壊について深刻な問題だらけだ。それに加えて長年続いた内戦による荒廃。色々な意味でここフィリピンと似たような状況にある。こうした災害や戦乱で心の傷を負った人たちにとって、文化やアートはどういう意味を持ちえるのか、持ちえないのか?これは私たち国際文化交流を仕事としている者にとっても大切な問いかけだと思う。今年になって東京とジャカルタの基金スタッフが試みたインドネシアのアチェでのワークショップ、内戦による悲惨な過去がトラウマとなっている子どもたちが参加した演劇ワークショップは、そうした問いかけに対する一つの試みとして貴重な体験だったと思う(http://www.jfsc.jp/webmember/topics_cont/fr-0708-0004)。

 今回バギオにやってきた廣田さんも、アートを通して社会との接点を求めて活動している女性作家だ。彼女の拠点はジョグジャカルタという古い都だが、一昨年の大地震では多くの犠牲者が出た。多くのアーティストが被災したこともあって彼女は被災地の支援に乗り出した。日本の友人たちからのサポートを受け「救援パック」と名づけて物資を届けるプロジェクトを続けていたが、支援の輪が広がって、最終的には子どもたちのために3つの幼稚園を建設した。その様子は彼女のブログに詳しい(http://midoriart.exblog.jp/m2006-09-01/)。そんなインドネシアの社会派アーティストとフィリピンのアーティストとの出会いに期待して、マニラ事務所では「猿・・」をさかのぼること1年前にこの廣田さんの展覧会をマニラで実施して、バギオのアーティストとも交流した。そして今回の企画につながった。

 話しがそれてしまったが、この「ムーンライズ・フィルムフェスティバル」もシネマラヤと同様に今年で三年目。やはり昨今のDシネブームと無縁ではないだろう。さらにはこの映画祭の会場となっているショッピングモール(ロビンソン・ギャレリア)のシネコンプレックスでは、今年からインディーズ系のDシネが常時観られる上映館が提供されていて、インデペンデント・フィルムメーカー協会という新しいNGOが企画を任されている。とはいってもシネマラヤで見た一部の人々の盛り上がりとは裏腹に、なかなか一般の観客は集まってこない。何度か足を運んだが、300人くらい入る映画館の中にお客さんはいつも10人、20人ほど。まだまだ本格的なDシネ時代の到来には時間がかかるだろう。それでも商売ぬきで映画館を貸しているこのショッピングモールも、なかなか懐が深いと思う。こうした新たな動きがいつか実ることを期待している。

 もう一つ紹介したいイベントは、フィリピン大学フィルム・インスティテュートで実施中の「フライデー・フィルム・バー」という企画(8月10日~10月5日の毎週金曜日)。フィリピン映画の名作上映とバンドの生演奏だ。オープニング映画は、この国の人間国宝ともいえる「ナショナル・アーティスト」に、映画監督として初めて指定(1976年)されたランベルト・アヴェリャーナ(1915年~1991年)の代表作「バジャウ」(1957年)。バジャウ族はインドネシアの島々からフィリピンに広がる海洋民で、古くから「家船」を居住空間にする“漂海民”で知られている。映画はスールー諸島のホロ島を舞台に、バジャウ族の若きリーダーと、その宿敵タウスグ族の娘とのラブストーリーを、両部族の抗争を織り交ぜて描いた作品。最後は部族間の争いを乗り越えて、若きリーダーがバジャウの後継者に選ばれる。いまではバジャウ族といえば未開や無知、貧困という偏見に満ちているなかで、50年前にそのバジャウのヒーローを描いて、立派に娯楽映画を作っていたのだから、当時のフィリピン映画界の豊かさが想像される。

 この企画の会場となっているフィリピン大学フィルム・インスティテュートは、この国の映画関係者のメッカである。1976年にフィルムセンターとして出発して以来これまでに多くの映画人が集い、一昨年にはマスコミ学部映画視聴覚学科と合併して名実ともに映画人育成の拠点となっている。日本でいう東大のような最高学府にしっかりとした映画専攻課程と研究機関があるのだ。その点では日本よりよほど恵まれているといってよい。よってこの国の映画人には、結構知的エリートが多い。そして800席のシネマ(シネ・アダルナ)とギャラリーがあり、基金主催の人気イベント、日本映画祭の実施会場でもある。ここフィリピンでは映画の上映に際して映画テレビ検閲委員会(Movie-Television Review and Classification Board)の検閲が義務付けられているが、このフィリピン大学のみ例外。ここは検閲なしでいかなる映画の上映も可能という治外法権が与えられているのだ。ちなみにこのフィリピン大学以外にも、主なところでデ・ラサール大学やサント・トマス大学といった名門私立大学のマスコミ学科で映画を学ぶことができる。サント・トマス大学は1611年に設立されたアジア最古の大学である。また映画関係者の福利厚生団体であるモウェル・ファンド・フィルム・インスティテュートというNGOでは、研究、アーカイブ事業(映画博物館もある)以外に、定期的にワークショップを実施していて、ここからも多くの映画人が輩出されている。このブログでもたびたび紹介している日系フィリピン人の売れっ子脚本家である山本みちこさんは、サント・トマス大学の卒業でモウェル・ファンドが実施した脚本ワークショップの修了生だ。多くの映画人の卵は大学を卒業した後、テレビドラマやニュース、CMやミュージックビデオなどの仕事をしながら、それぞれに映画の夢を追い続けている。


 CCPが編集した「Encyclopedia Philippine Art Volume Ⅷ Philippine Film」(1994年出版)の中で、「オルタナティブ・シネマ」に1章が与えられている。そこではフィリピン映画の誕生(マニラで最初の映画館は1897年にオープン)とともにドキュメンタリーや短編映画など商業映画とは異なる「オルタナティブ・シネマ」が生まれたとあるが、特に現在のフィルムメーカーに影響を与えているのは、1950年代半ば以降の動きだろう。マニラで初の国際映画祭が開催されたのが1956年。上述したランベルト・アヴェリャーナらがドキュメンタリーの分野でも活躍し、1960年代になると数々の海外映画祭に出品されるようになった。

 1970年代にフィリピン映画は黄金期を迎え、歴史に残る多くの秀作が生み出された。戒厳令下(1972年~1981年)のマルコス政権の全盛期とも重なるのだが、不思議なことに、この過酷な時代に敢えて挑戦するように、社会的テーマを取り上げた硬派作品や芸術性の高い作品が数多く作られたのだ。なかでもリノ・ブロッカ(1939年~1991年)は、20年間に67本もの作品を生み出して、その後の映画人たちに大きな影響を与えた。地方からマニラにやってきた青年が貧困の中で男娼となり破局を迎える「マニラ・光る爪」(1975年)や、母親の内縁の夫にレイプされるが最後は彼を殺して復讐をとげるスラムの娘を描いた「インシャン」(1976年、カンヌ監督週間にて上映)など。いずれも社会の底辺を題材に、胸に突き刺さるようなリアリズムで醜悪の中にペーソスやリリシズムを描き、一度観たら忘れられない作品である。いまでも彼は若い映画人たちにとってのヒーローであり、その作品は繰り返し上映されて大きな影響を与え続け、そうしてこの国の社会派映画人の命脈が続いているのだ。

 そして1980年代前半はインデペンデント映画が盛り上がり、このブログでも紹介したことのあるキドラット・タヒミックや、彼より一世代若いレイモンド・レッドらが活躍した。タヒミックを一躍世界的な映画監督にした代表作「悪夢の香り」(1977年、ベルリン国際映画祭批評家賞を受賞)は、実験的な自伝的ファンタジー・コメディー作品だが、これもリノ・ブロッカの名作同様に繰り返し上映され続けている。今回の「フライデー・フィルム・バー」でも、「マニラ・光る爪」とともに上映される予定だ。そして当の本人は、その特異な生き様そのものもあいまって、既にオルタナティブ映画のクレージーな“伝説的”イコンとして、多くのアーティストから尊敬されている。なおこれらブロッカ、タヒミック、レッドなどの作品は、先日国際交流基金を退職した石坂健治氏によって20年ほど前から日本で紹介されてきた。彼の精力的な仕事によって私たち日本人は、多くのフィリピンの秀作映画を観ることができたのだ。同氏は現在東京国際映画祭‘アジアの風’部門のディレクターを務めているが、このブログの場を借りて、彼のこれまでの仕事に敬意を表したいと思います。そしてもちろん東京国際での今後のご活躍を楽しみにしています。

     フィリピン映画祭(1991年国際交流基金主催)

 その石坂氏などが中心となって日本で実施されてきたフィリピン映画の特集上映は、1980年代前半の作品群の紹介を最後に、なかなか後が続かない状況となっている。もちろん単発で生まれる秀作はあっても、新しい波といったものが訪れないまま、基本的にはぱっとしない、インデペンデントな映画人にとってみればなかば絶望的な20年の時が経過してしまった。

 そしてようやく今、Dシネブームとともにフィリピンの映画界に再び大きな波が訪れようとしている。その新たな波を生み出している若いフィルムメーカーたちには、アヴェリャーナやブロッカが残した豊かな社会派の伝統や、タヒミックやレッドが示した実験的才能に富んだインデペンデントの血統が受け継がれているに違いない。今年のシネマラヤで作品賞を受賞したスラムのギャングを描いた「TRIBU」などは、明らかに”ブロッカの子どもたち”の作品の一つであろう。

 同じくシネマラヤで上映された作品の中で、今回ただ一つ、ミンダナオのイスラム社会を描いた作品があった。「ガボン(雲)」という作品で、伝統的イスラムが支配するマラウィという町を舞台に、彼らの古い言い伝えにある“子どもの幽霊”が小学校にやってくる話である。監督のエマニュエル・デラ・クルーズは、この作品で短編部門の監督賞を受賞したが、彼の次の目標は、ミンダナオの若者たちに映画を教えることだという。映画というものが私たちに最も身近なメディアの一つであり、私たちの姿を生々しく映し出す鏡でもあるとすれば、いまフィリピンの映画は、再びその本来の役割を取り戻そうとしているようにも思える。50年前にモスレムのヒーローを生き生きと描いたように、貧困、偏見、そして内戦で疲弊した現代のミンダナオの日常を、ミンダナオの若き映画人が描く時がやがてやって来るのだろうか。いまはこの新しい波の向こうにあるものを想像しては、少し希望で胸をふくらませている。

(了)