2007/06/20

「赤い家」とロラの記憶

 現職のアロヨ大統領を含み、これまで2人の女性国家元首を輩出しているフィリピン。先月行われた上院議員の改選選挙(上院定数合計24人の半数)でも、トップ当選は女性だった。この国のフェミニズム度は、日本より進んでいるといっていいかもしれない。そんなフェミニズム“先進国”で、海外5カ国を含め、18人の女性アーティストによる展覧会「Trauma, interrupted」が開催されている(フィリピン文化センター、6月14日~7月29日)。

 女性に対する性暴力・虐待のほか、内戦や大規模自然災害によるトラウマと、その癒しが全体のテーマである。企画したキュレーターも、メイ・ダトゥウィンというフィリピン大学芸術研究学科の女性教授だ。そしてこの展覧会には、このブログでも度々紹介してきたアルマ・キントや、国際交流基金の知的交流フェローシップで研究のためにやって来た中西美穂さん(NPO法人大阪アーツアポリア)など、日本のアーティストやキュレーターも参加している。

 この国のフェミニズムの歴史について、詳しく振り返る余裕も知識もないが、その揺籃の物語についてだけ触れておく。「マロロスの女性たち」という物語だ。時代的には19世紀末のスペイン植民地時代末期、マニラの北にあるマロロスという街のフィリピン人、特に中国人との混血(メスティソ)を中心とした有産階級の中から、女性に対する教育への欲求が目覚め、1888年、20人の女性が、女性のための夜間学校の開設を訴える嘆願状を、当時の州知事に提出した。ちなみにこの年、樋口一葉は16歳。このマロロスという街は、その後1898年、フィリピン独立宣言後に初めての議会が召集された歴史上の街で、1905年にはフィリピン・フェミニスト・アソシエーションも創設されている。マロロスは、いわばこの国のフェミニズムの聖地だ。なおこの物語は、2004年に「The Women of Malolos」という研究書が出版され(ニカノール・チョンソン著、アテネオ・デ・マニラ大学出版)、昨年にはミュージカル(ザルスエラ)も上演された。

 ところで当時、隣国のインドネシアでも、同時代に生きた女性の同じような物語がある。やはり19世紀末、ジャワ北部の名門貴族に生まれたカルティニの物語だ。彼女は、貴族という出自ゆえに様々な古い因習に縛られながらも、教育への渇望を多くの手紙に託してしたため、時代の息吹を表現した。その物語は「カルティニの風景」(土屋健治著、めこん出版)という“インドネシアスクール”の古典ともいうべき名著で紹介されている。マロロスの女性たちとカルティニが、同じ志を持って同じ時代に生きていたことは、単なる偶然を越えて、私たちに何かを語りかけてくる。西洋植民地からの独立運動の歴史も、マッチョな男性中心の物語ばかりでなく、女性の物語について、もっと語られてよいだろう。

 さてアートの話に戻して、フェミニズムを象徴するフィリピンの代表的女性作家といえば、これまでにも日本で何度か紹介されたアグネス・アレリャーノが思い出される。国際交流基金アセアンセンターが渋谷にあった頃、そのギャラリーで見た「Myths of Creation and Destruction PartⅠ」(1987年制作)というインスタレーションのことは、今でも鮮烈に覚えている。頭を切断されて逆さ吊りとなった、石膏の女性の腹が引き裂かれてぱっくりと割れ、そこから老人姿の子供の像が顔をのぞかせていた。美術史家のアリス・ギレルモによれば、それは北ルソン山岳地方の穀物神と仏陀との混合神だそうだ(同氏著「Image of Meaning」)。そして、その割れた腹から内臓が垂れ、地面には豊穣を象徴するかのように、米と卵がこぼれている。暴力と死、再生と豊穣、矛盾と背反に満ちたとても刺激的な作品である。やはりアリスよれば、アグネスは32歳の時、実家の火災で両親と妹をいっぺんに失ったが、この事件によるトラウマは癒しがたく、彼女の作品はそれ以来、生と死、創造と破壊、エロスとタナトスといった逆説の葛藤がテーマとなった(同著)。

Myths of Creation and Destruction PartⅠ(福岡アジア美術館所蔵)

 今回の「Trauma, interrupted」では、トラウマとその癒しがテーマであるが、中でも、何人かの作家が共通してとりあげ、中心的テーマとなったのが、第二次世界大戦中の日本軍による“慰安婦”の問題だ。ちなみに最近の学会などでは、ややもすると柔らかな印象で問題の核心をぼかしかねない“慰安婦”という表現ではなく、状況に応じて”Sex Slave”とか“Rape Victim”というのが正しいそうだが、ここでは便宜的に“慰安婦”を使う。

 その展覧会オープニングの日に、パーフォマンス・アーティストのイトー・ターリさんは、韓国人元“従軍慰安婦”をテーマにした作品を披露した。ビニール製の上着をまとって登場したイトーは、やがて空気を入れて乳房とお腹をぱんぱんに膨らましたが、ある瞬間を境にそれが破裂し、全身を痙攣や痛みが襲う。苦悩の時間は長く続いたが、その中からやがて再生が始まり、最後は、玉ねぎの皮をむく行為を通じて苦悩の記憶を浄化してゆく・・、そんなパフォーマンスだった。なんとも心に突き刺さる鋭い作品だったが、それ以上にぼくの心を揺らしたのは、多くのフィリピン人元“慰安婦”のロラ(おばあちゃん)たちが、そのパフォーマンスをじっと見つめていたことだ。


 そのロラたちは、マパニケという村からやって来た。1944年11月23日、日本軍の総攻撃で住民の多くが虐殺され、多くの婦女子がレイプされた村だ。オープニングでの出会いの後、イトーさんら日本人アーティストたちとともに、今度は私たちがその村を訪れた。

 「赤い家」(バハイ・ナ・プラ)は、マニラから車で3時間、北ルソンに向かう幹線道路沿いに忽然と現れた。赤レンガで覆われた木造2階建ての家は、当時日本軍の宿舎として接取されていたそうだが、11月の総攻撃の日を境にして、おぞましいレイプ現場となっていった。この家からマパニケ村まで約3キロ。マパニケ村でのレイプの犠牲者によって結成されたマリア・ロラというグループは、当初90人のメンバーがいたが、既に28人が亡くなって、足腰がいまだ丈夫でアクティブな会員は、20人程度となってしまった。もっともレイプ被害を告白したのは犠牲者の一部で、名乗り出ることをいまだ拒んでいる人々も多いという。そのグループのリーダーをつとめるロラ・リタが、「赤い家」で私たちを待っていてくれた。以下は彼女の証言である。

 「その日は朝の6時から砲撃が始まった。砲撃などから生き残った者のうち、成人男性は村の小学校に集められて虐殺された。自分は日本兵に捕らえられ、この「赤い家」で一昼夜監禁されてレイプされた。」

 ロラの話を聞きながら、ぼくは「赤い家」の外の田園風景を眺めていた。その当時も、こうして田んぼはみずみずしい姿でそこに広がっていたのだろうか。60数年の時間が止まったように思えた。



 「赤い家」の後に訪れたマパニケ村の教会では、73歳から81歳までの21人のロラが集まった。ちょうど私の母親と同じ世代だ。現在73歳といえば、被害のあった1944年当時は10歳ということになる。想像を超える悲しい現実が目の前にあった。そしてあえて不謹慎な言い方をすれば、こんなにたくさんのレイプ犠牲者と一堂に話をすることなど、生まれて初めての経験だった。

 “従軍慰安婦”問題は、1991年に韓国の金学順さんらが、日本政府による公式謝罪と補償を求めて東京地裁に提訴したことから始まり、その後フィリピンでも名乗り出る人たちが現れた。焦点となっている政府の公式謝罪について、例の「河野談話」があるが、問題の核心は、日本政府が明確に謝罪していないのではないか、という疑念にある。今年の3月には安部首相が、「強制があったという証拠がない」と発言して当地でも物議をかもしたが、被害者のロラにしてみれば、やっぱり日本は本気で謝罪していないじゃないか、ということになるのは当然だろう。

 さらに補償について日本政府は、国家賠償等で解決済みという立場で、フィリピンでは1956年に日比賠償協定が成立している。が、そこにはレイプ被害者への補償は含まれておらず、その後充分に加害者を裁くこともなく、フィリピン政府から犠牲者への支援も一切ない。ただ、日本政府は1995年に民間資金を集めて「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し、被害者に見舞い金(一人あたり200万円)を支給した。が、これも、政府の補償でないことから受け取りを拒否したロラもいる。なお、この基金は“役割を終えた”として、今年解散している。

 ざっとこれが元“慰安婦”問題の核心部分だが、この非常にハードなテーマについて、果敢にも取り組んでいる坂本千壽子さんという日本人研究者がいる。彼女は、韓国人元“慰安婦”のオモニたちが暮らしている「ナヌムの家」で、外国人として初めての居候となったという経歴の持ち主だが、昨年からフィリピン大学に研究留学している。今回も彼女のつてでマパニケ村を訪ねることができたのだ。ともすると戦闘的で怖くて暗いイメージのつきまとう元“慰安婦”のロラたちに、密着することで自然体のつきあいをし、そこから日常の素顔や本音を引き出し、それを伝えることで、普通のおばあちゃんを襲った異常なできごとを書き留めてゆく。過酷な記憶をむしかえし、声高かに主張するのではなく、静かに、しかししたかかに訴える。いま彼女は、ロラたちの日常生活を撮りためてドキュメンテーションを制作中だ。高齢なロラたちの“残された時間の中で”、大切な記憶を残して後世に伝える作業が淡々と続いている。

 集会では、彼女たちの体験談や日本への訴えとともに、イトー・ターリさんによるパフォーマンスを見た感想も聞くことができた。表現活動というものが、人間の心の傷に対して何ができるのか、また何ができないのか、どちらも真実で、その意味するところは大きくて深い。

 「こうして展覧会で取り上げられ、多くの人たちが私たちのことを表現してくれることで、私たちの心の傷は少しずつ和らいでゆくような気がします。」(ロラ・リタ)

 「玉ねぎの皮を1枚1枚はぐように、心の傷を少しずつはがしていっても、心に残った傷、そのトラウマを完全に取り除くことはできないでしょう。」(ロラ・ペルラ)

 前回に続いて今回も戦争の記憶の話になってしまった。この国にいるとどうしても目に入ってくる現実。でも、正直言えば、目をそらすことだってできるのだと思う。ただ、文化交流という仕事の原型が、人と人との交流にあるならば、人々の心の琴線に触れる記憶の今と、これからの問題から、どうして目をそらすことができるのだろうか。でもそれは私にとっては、別にたいそうな覚悟やある種の身構えのいることではなく、あらかじめ課されている宿題に等しい、とでも言ったらぴったりするだろうか。ロラたちの最も望んでいる、国による謝罪や補償の問題は、ぼくには大きすぎるテーマだけれど、記憶の風化のことならば、もしかしたら何かができるかもしれない。

 「赤い家」は、ロラたちにとって、つらく忌まわしい記憶の源泉だけれども、トラウマと闘い、謝罪と補償を求めて自らを表現してゆく記憶を支える、確かな拠り所でもあるのだ。10年後にこの家がどうなっているのか、朽ち果てているか、人手に渡って真新しい家になっているのか、誰にもわからない。もしも何年か経って、このロラたちが、皆この世を去り、そしてこの「赤い家」も無くなってしまったら、この村で起こったことは、どんな意味を持ちえるのだろうか。まだ今はかろうじて、ロラたちの記憶を蘇らせる装置として、「赤い家」は、圧倒的な存在感でぼくたちに訴えかけてくるのだ。


(了)