2006/09/20

日本の伝統文化の最も奥深いところで勝負したい・・日比能共同制作にかける思い

 マニラから車で南に1時間半の人里離れた山中に、美しいシルエットで有名なマキリン山をちょうど真横に眺めるように、この国の誇る芸術分野のエリート養成校、フィリピン国立芸術高校がある。1977年の創設。鬱蒼とした広大な山中にリゾート風のコテージがいくつも散在する。60~70年代に活躍したナショナル・アーティスト(人間国宝)のアンドレ・ロクシンの設計による洒落た教室と学生寮だ。かつてこの国を専制支配したマルコス元大統領の夫人、イメルダの“ペットプロジェクト”。その全盛期にはイメルダ夫人もたびたびここを訪れ、マニラから呼び寄せたアーティストと料理人で盛大なイベントを繰り広げたという伝説の場所だ。

 驚いたのは、ここの学生のエリートぶり。1学年30数人程度(1年次のみ60人)だが、全国の小学生より毎年選抜。フィリピンでは高校といっても日本の中一から高一にあたる4年制。この国は世界でも珍しい6(初等)・4(中等)制を採用している。だから子供たちは小学校6年生の段階で“運命のオーディション”に臨むことになる。音楽、舞踊、演劇、美術、文学専攻に別れ、学生3人に対して教師が1人の贅沢ぶり。学費はもとより、全寮制の宿泊費や食費、さらには毎週マニラに帰省するが、その往復交通費など全てが無料。子供たちの親は、将来の指導者となるべきわが子の養育を、「契約」によって高校(国)に託す。麓の街まで公共交通機関もなく、ゲームもなくテレビも制限された山中での4年間。金の卵たちはひたすら自分の才能と格闘し続ける。卒業生の多くはこの国の学術・芸術各界を牽引していて、前回紹介したコンテンポラリーダンス界の新旧のリーダー、マイラ・ベルトランやドナ・ミランダもこの高校の出身だ。マルコス政権末期の腐敗ぶりはつとに有名だが、こうした桁はずれのエリート文化尊重の歴史の名残は、皮肉なものだが、いまだこの国の財産の一つとなっている。そんな超エリート高校生200人の前で、フィリピン人大学生による能のデモンストレーションが行われた(9月12日、主催:国際交流基金、フィリピン大学国際研究センター)。

 4人の学生で構成される能のチームを率いるのは、観世流シテ方の梅若猶彦氏。能楽600年の本流の一端を担う伝統の梅若家(梅若家当主の梅若六郎氏は現在五十六世、家系そのものは1300年前までさかのぼる)に生まれながら、ロンドン大学で博士号を取得し、数多くの実験的試みに挑戦するメインストリームの中のアウトローだ。国際交流基金のプロデュースによる、シェークスピアの「リア王」を翻案した「リア」にもタイトルロール役で出演している(1997年から99年にかけて日本、香港、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ドイツ、デンマークで公演)。アジア6カ国の俳優、舞踊家、音楽家が参加して、能、京劇、タイ舞踊、インドネシアの伝統音楽と武術、現代演劇やポップスなどで構成した国際共同制作事業。私も98年にはインドネシアのジャカルタに駐在していて、現地で「リア」の公演を制作した。たった3日間の公演だったが、当時政情不安のインドネシアで、連日1200人の劇場を満員にした記憶は、いまも生々しい。そんな梅若氏とここマニラで7年ぶりの再会となった。

 フィリピンで能に取り組み始めたのは1年以上前にさかのぼる。きっかけはこのプロジェクトの仕掛け人、同志社大学で博士号をとった才媛ジーナ・ウマリ、フィリピン大学(UP)講師との出会いからだ。日本人能楽師の指導のもと、フィリピン人による能を創りたい・・。当初はたいした印象もなかったし、日本人にもあまり馴染みのない難解な能、動きがスローで東南アジアの熱帯文化にはおよそ耐えられそうもないし、だいいち室町の公家社会をパトロンにその奥義を確立して600年間も守り続けてきた伝統中の伝統を、フィリピン人が一体どこまで理解できるのか・・正直とても疑問だった。

 疑問は疑問としてそのまま残ったものの、あるビデオを見て考えが変わった。それはやはりUPが制作して2003年に公演した歌舞伎の「勧進帳」のビデオ。オール・フィリピン人キャストで、しかもタガログ語による上演。外国人による外国語での歌舞伎なので、無論キッチュなところはたくさんあるが、老松と若竹の“松羽目板”を模した背景に、三味線と鼓のお囃子が居並ぶ中、弁慶と富樫がタガログ語でやり取りする場面を見ていて、歌舞伎という日本の誇る伝統芸能へチャレンジする気迫と心意気を感ぜずにはいられなかった。すぐにでも能のプロジェクトを支援したくなった。

 ジーナの構想は、能という日本の伝統的手法を用いて、この国の文学に表された女性の中で、常に悲劇の象徴として語られる「シーサ」を描くことにあった。「シーサ」はフィリピン独立運動の英雄にして文学者であるホセ・リサールの『ノリ・メタンヘレ』(1887年初版)に登場する女性で、二人の息子をスペイン人カトリック司祭の陰謀により亡くし、ために発狂して悲劇の末路をたどる。子供を想う母の怨念、マージナルな女性の執念は次代を越えて今も多くのフィリピン人に訴え続けている。その怨念を、能によって蘇らそうという試みだ。脚本は既にアメリア・ラペーニャ・ボニファシオ、フィリピン大学名誉教授によってタガログ語で書かれ、日本語への翻訳も終わっていた。子供を殺された母の深い悲しみのように、想像を絶する激しい感情の行き着く先、その先を何かのかたちで表現するとしたら、ある意味、身体表現の極致ともいえる能というものこそふさわしいのかもしれない。

 国際交流基金の主催事業として梅若氏を初めてUPに招聘したのが昨年の8月。それから1年以上が経過した。梅若氏は現在もUPの客員教授として学生に能と伝統文化について講義をしている。この間、ワークショップを通じて主にUPの学生に能のシテ方や大鼓、小鼓を教え、いつの間にか“UP能楽アンサンブル“なるグループをつくり、実に様々な機会に公演やデモンストレーションを行ってきた。そのハイライトの一つは、日比友好年(日本フィリピン国交回復50周年)のピークを刻む”日比友好の日“に、来比した麻生外務大臣を含む多くのVIPの前で公演した「翁」だろう(7月23日、カルロス・ロムロ劇場)。ただし、この時ばかりは「翁」役は梅若氏本人が演じ、囃子方も主役は日本から招聘した専門家たちだった。


 UP能楽アンサンブルにとってのもう一つのハイライト、そして彼らにとって本当の正念場となったのは、UP劇場で行われた公演だろう(8月11~13日、主催:UP国際研究センター、国際交流基金)。最終日を観たが、2000人収容の大劇場は7割方を埋めた学生の熱気であふれていた。前日は満員だったそうで、能の公演にこれだけの若者が集まる光景を日本で見ることは少ない。日本人は能に対する先入観が多すぎるのでなかろうか。そんな熱気ある劇場で演じられたのが、友好の日と同じ演目の「翁」と、ジーナの夢であった「シーサ」の二番。そして今回の「翁」はいよいよUPの学生が、それも演劇専攻の女子学生(ダイアナ・マラハイ)が演じたのだ。



 伝統を守りぬくか、それとも革新か、古くて新しいテーマだ。でもこれほどまでに極めつけの例もなかなかないのではないだろうか。世界遺産としても名高い日本の代表的伝統文化である能、その能楽の中でも特別な曲として知られているのが「翁」。これといったストーリーはなく、せりふも意味不明だが、とにかく能の演目の中で最も古いとされ、室町のはるか以前から宗教儀式として演じられていたもの。能の主役であるシテを演じる能楽師は、その上演の1ヶ月前から女性との交渉を絶つことが求められているという、いわば秘儀中の秘儀。能の海外公演は今日それほどめずらしくないが、「翁」は意味を伝えるのが難しいし、ぱっと糸を飛ばす「土蜘蛛」などに比べて見栄えがしないという理由で、海外で上演されるのは稀だ。よりにもよってその「翁」がここマニラで、外国人、しかも女子学生によって演じられた。

 実はこのフィリピン人女子学生による「翁」の上演について、友好の日のために来比した日本人能楽師たちの間で喧々諤々の議論があった。このプロジェクトに当初から関わり、フィリピン人の真摯さに動かされていた梅若氏は、学術交流として上演を主張したのに対して、H氏(同氏も江戸時代初期から続く名家の出身)は、特別な「翁」を海外で、しかも外国の女学生が、神聖な儀式を省略して上演することは、あまりに“おこがましい”行為だと痛烈に批判した。結局梅若氏の思い通り、UP能楽アンサンブルによる「翁」の上演は行われ、同氏の言う“学術交流”は成功を収めている。しかし、例えばこれが観世流の“公認”する「翁」の公演になるかというと、おそらく絶対にそんなことにはならないだろう。日本の伝統芸能の世界を取り巻く壁は分厚く、ヒエラルキーは絶対のように見える。

 「翁」が能楽の伝統、それも最もセンシティブな儀式性、神聖さそのものに挑戦する演目だったすれば、二番目の「シーサ」は、フィリピン人女性の怨念を描くことで、能がいかに民族性や時代を超えた普遍的な芸術表現になりうるのか、ということを試す演目だった。「翁」を演じたダイアナは、続けてこの「シーサ」も演じきった。梅若氏による演出は、能の演目の中でも狂女ものとして有名な「道成寺」の翻案で、最後の場面では、死んだ二人の息子の亡霊と現前するシーサ(の亡霊)がそろって道成寺の釣鐘(に模した白いボックス)に吸い込まれていくという劇的なものだった。まあ日本人のぼくにはその翻案の意図はある程度わかったが、日本人のぼくでも驚いたのは、「道成寺」の中で最も重要、かつ数ある能の演目の中でも最も難しいとされる「乱拍子」というシテ方の特殊なステップを、あのダイアナがやってのけた(少なくとも、ぼくにはそのように見えた)ことにあった。乱拍子のステップにも取り立てて意味といったものはないが、それだけに名人級でも難しいとされる技。それをどうして2週間でこの女子学生が演じてしまうのか、演じさせることができるのか。「翁」と乱拍子に凝縮された能の最も奥深い精神性というものを、梅若氏は、日本の伝統から切り離されたフィリピンで、ある意味無垢な学生を相手に、それだからこそ逆に、敢えて惜しげもなく注ぎ込んだとも考えられるのだ。

 UPは2008年に創立100周年を迎える、この国きっての秀才が集まる最大の国立大学だ。もともとアメリカ植民地時代に、前スペイン時代の旧弊を打破し民主化を目指す拠点として作られた、いわば“前衛”を旨とする大学。全国に散らばる12のキャンパスの中で最も広大な敷地を誇るディリマン校は、500ヘクタール、23学部に2万人が学び、敷地内にはショッピングセンターから病院、ホテルまである一つのビレッジのようだ。大統領をはじめこの国のエリートを輩出する一方で、常に反権力の牙城ともなる。いまだ勢力を維持して時に激しいゲリラ戦をしかけるフィリピン共産党や、ミンダナオの独立運動とゲリラ戦を指導してきたモロ民族解放戦線の創設者も、このディリマン校の出身である。そのUPディリマンを率いる学長は、45歳の若き数学者セルジオ・カオ氏。今回のプロジェクトの最大の理解者でありサポーターでもある。学長をはじめ、多くのUPのスタッフや学生たちにも支えられた。権威と反骨のせめぎ合い、UPという場所は、まさにこのプロジェクトにふさわしい舞台を提供してくれたと思う。

 冒頭で紹介したデモンストレーションは、国際交流基金がスポンサーとなり、梅若氏とUP能楽アンサンブルによって行われているレクチャー&デモンストレーションの国内ツアーの1コマである。マキリンの芸術高校以外にも、既に北部ルソン島の中心都市バギオ(8月18日~19日、コルディエラ大学、フィリピン大学バギオ校、VACASアートセンター)、南部ミンダナオ島のダバオ(8月29日~30日、ミンダナオ国際大学、フィリピン大学ミンダナオ校)、中部ビザヤ地方のセブ(9月19日、サンカルロス大学、フィリピン大学セブ校)など各地で実施した。30数名の参加者を得てスタートしたプロジェクトが、こうやって国内ツアーまで行えるまでになろうとは想像もしなかった。そして昨年8月の初公演以来、48回にわたる公演やデモンストレーション、観客数は実にのべ1万2千人にのぼる。能の奥義を探求する日本文化のメインストリームの中のアウトローと、日本から見れば“開発途上”のフィリピンにおけるエリート集団の実験的スピリットとの出会い。この幸運な出会いの行き着く先がどこになるのか、いまとなっては誰も想像することはできない。
(了)

2006/09/05

たった20人の観客にもめげない・・・フィンピン・コンテンポラリーダンス界のチャレンジャーたち

 よく“草創期”という言葉を聞くけれど、フィリピンのコンテンポラリーダンス界ではまさに今、新しい何かが生まれつつある。そんな草創期にあるコンテンポラリーダンスの祭典である「Wi_Fi/インデペンデント・コンテンポラリーダンス・フェスティバル」が、初めてこの国の“文化の殿堂”であるフィリピン文化センター(CCP)で、4日間にわたって開催された。(8月17~20日、主催:世界ダンス連盟マニラ支部、CCP、国家文化委員会、共催:国際交流基金マニラ事務所ほか)


フィリピン・コンテンポラリーダンスのメッカ、ダンスフォーラムスタジオ

 クラシックバレエのようにある決められた型を追求する表現に抗い、そのアンチテーゼとして生まれたコンテンポラリーダンス。現代生活を取り巻く複雑な人間感情を表現する舞踊の新しいスタイルとして、日本では多くのダンサー、振付家、そして観客が育ちつつあり、舞踏という日本の特異な表現形式の存在もあいまって、海外でも評価の高いグループが数多く存在する。しかしここフィリピンではまだまだ始まったばかり。今回の「Wi_Fi」に先立ち、今年の4月に「コンテンポラリーダンス・マップ」というイベントが開催されたが(4月29日~5月12日)、そこにエントリーしたマニラ首都圏で活動するグループは全部で6つ。おそらくそれに2~3のグループを加えればこの国のコンテンポラリーダンスの“業界図”は完成する。

 「マップ」は今年で2年目。参加しているのは、マイラ・ベルトラン・ダンス・フォーラム、グリーン・パパイヤ・アート・プロジェクト、カメレオン・ダンス・シアター、エアーダンス、ダンシング・ウーンデッド・コンテンポラリーダンス・コンミューン、フィリピン大学(UP)ダンスカンパニー。最後の大学ベースのグループを除いて、いずれもインデペンデントな個人やグループによるカンパニーだ。合計6公演のうち5公演を観たが、クラシックバレエのテクニックを背景にした“正統派”コンテンポラリーダンスから、ドイツのタンツシアターの流れに影響を受けた表現主義的なもの、さらには日本の舞踏の影響や、この国で独特なゲイカルチャーを強烈に感じさせる作品から、演劇的で“踊らない”ダンス作品まで、実に多様な作品が上演された。ぼくはそうした作品を観ながら、コンテンポラリーダンスの日比交流の様々な可能性について思いを廻らし、一人胸を躍らせていた。

 今年は国際交流基金の主催事業または助成事業として、コンテンポラリーダンス分野の日比交流プロジェクトを集中的に企画している。まずは日本からカンパニーを招聘してマニラで公演を行い、同時に日本人批評家が日本のコンテンポラリーダンスのレクチャーをする。その後今度はフィリピン人振付家を日本に招待して日本のダンス事情を視察して、マニラで開催される重要な公演をサポートする。そして最後に、フィリピン人の若手振付家が日本、さらには国際的舞台でデビューすることをサポートする。ちょっと一気に欲張りだけれど、夢の中の話ではない。でも、なんでそもそもコンテンポラリーダンスなのか。

 新しいアートの草創期というものは、いつの時代でも抵抗が多く、続けていくためには相当な心理的・経済的な苦労を強いられるのが普通だ。今回「マップ」で実際に観た5公演は、観客数にすればどれも20人から30人ほど。お世辞にも多くの人たちから支持されているとは言いがたい。日本でこのジャンルで人気のある、たとえば山海塾や、勅使河原三郎、HRカオスなどが公演すれば、1000人規模の劇場を満員にするのは比較的容易だけれど、ここでは見果てぬ夢の世界。20人とはあまりに寂しい現実が目の前にある。だがしかし、20人だからといって簡単に片付けてはいけない。たかが20人、でも本当にその表現が尖っているとしたら、20人の理解者がいれば十分。同じようなことは歴史が何度も証明している。新しいアートが作られる現場は実はとっても重要なところなのだ。頑なに反コマーシャリズムを追求し、マージナルな場所から発信されるアートほど、メインストリームに挑む大きな力を生み出す源泉になりえるのだと思う。

 そして何よりもダンサーたちの真摯さには頭が下がる。一昨年、CCPの専属バレエ団であるフィリピン・バレエ・シアターの中核的ダンサーの10余人が、香港のディズニーランドに高給で引き抜かれたという話だってある。ある程度踊れるってことは、常にそうした“危険”が潜んでいるということでもある。けれども敢えてコマーシャリズムに抗い、なんとか自分の表現世界を創り出そうと真剣に取り組んでいて、時に悲壮感さえ漂う。何でも吸収してやろうというある種貪欲さがいいところで、こんな人たちと付き合っているときこそ、つくづく文化交流をしていてやりがいを感じるのだ。


    コンドルズの公演に集まった観衆(CCPロビー風景)

 大音量のロック音楽をバックに踊る10人の中年男性ダンサーと若い人たちの歓声。舞台の袖には特設の大型スピーカーが設置されている。CCPの大ホールでこれほど騒々しくも迫力のある公演は稀にしかないそうだ。そもそもCCPではロックコンサートはやらないし、ここは“格調高い”芸術の殿堂なのだ。今回招聘したコンドルズは、日本のコンテンポラリーダンス界の中でも異色の存在。ダンスの中にコントを取り入れて若者の人気を獲得。いまでは10代の女性を中心にファンクラブまである稀有なダンスカンパニーだ。そんなコンドルズがマニラにやって来た。(6月23日、国際交流基金・CCP主催、マニラ国際演劇フェスティバル参加招聘公演)

 この国ではおそらく誰一人としてコンドルズを知っている人はいなかっただろう。まさか1800人収容の大劇場が満席になるとは思いもしなかったが、蓋を開けてみれば事前の反響はすごいもので、いくら無料公演とはいえチケットは事前予約で早々と無くなり、当日はキャンセル待ちの若者で劇場はあふれ、1階ロビーから階段を上り2階ロビーまで連なる長蛇の列となった。

 約1時間半の公演は、いつもの通り学生服スタイルのメンバーによる躍動感あるダンスを中心に、コントと映像作品を織り交ぜて終始会場を興奮に包み、あっという間に疾走するように終わった。特にコントのコーナーでは、フィリピンの人気キャラクターやタガログ語などを取り入れてアピール。そうした観客とのインタラクションを重視するコンドルズの作風は、この国の多くの人たちに好意的に受けとめられたと思う。何故コンドルズを呼んだかといえば、ややもするとシリアスになりすぎるマニラのコンテンポラリーダンス界に、多少おバカさんだけど、ダンスはもっと楽しくていい、シリアスな表現だってマンネリ化すればただ退屈なだけ、批判の対象にもなりえる、ということを伝えたかったこともある。その意味で今回の公演は十分にメッセージを伝えることができたと思う。

 本番前の2日間にわたって行われたワークショップやディスカッションも、双方のアーティストにとってとてもいい経験になった。特に「Wi_Fi」や「マップ」で中心的役割を担うマイラ・ベルトランという女性振付家・ダンサーが運営するダンス・フォーラムというスタジオで行われたディスカッションは、この国のダンス界が抱える問題とそれへのチャレンジ、それにまつわる苦難と自負など、とても率直で生々しい話になった。マイラは現在46歳。クラシックバレエの王道を進み、国立バレエ・フィリピンのプリンシパルダンサーとして活躍したが、1991年に退団して伝統的な表現と“決別”。10年前から自宅を改造したスタジオをベースに自分のグループをなんとか維持し、自らも踊り続けるのみならず、多くのイベントも仕掛ける誰もが認めるこの世界の最大の功労者だ。こんもりとした椰子のおい茂る広い庭の一画、半野外に作られたスタジオに敷かれた黒いリノリウムの床には、そんなマイラと彼女の仲間たちの思いや迷い、そして日々のレッスンの汗が染み付いている。コンドルズの振付家である近藤良平氏や、レクチャーのために来ていた石井達郎氏(朝日新聞などでの論評で著名な舞踊評論家、慶応大学教授)もきっと何か感じるものがあったに違いない。

 そんなコンドルズ公演が終わって1ヶ月が経過した7月下旬、今度は逆にそのマイラが日本を訪問した。国際交流基金の短期招聘プログラムで11日間の滞在。彼女にとっては今回が初の訪日である。11日間の日程で、トヨタ・コレオグラフィー・アワードなどのコンテンポラリーダンスの公演はもとより、歌舞伎、能、劇団四季や宝塚の公演など、今の日本の舞台芸術を概観できる盛りだくさんの内容だった。

 でも実は彼女に一番見せたかったのは、黒田育世という女性振付家の「SHOKU」という作品だった(8月11日、横浜赤レンガ倉庫)。女性だけのBATIKというグループを率いてヨーロッパでも公演を行い高い評価を得ている。女性ダンサーが髪をふりみだし、肉体を酷使して激しく踊る力強い作品で、ストイックでいてエキセントリック、男性的に破壊的だけれど同時に女性的なリリシズムが交錯するような、一度観たら忘れられない作品だ。マニラに来てここのダンスを観て、ぼくの頭にまず思い浮かんだのが実はこの作品だった。「SHOKU」には、今のフィリピンのコンテンポラリーダンスの状況が重なって見える。現代文化のフロントランナーたちは、意識するしないにかかわらず、きっとどこかでつながっているのだろう。マイラも何かを感じるに違いない。そんな確信があったのだが、帰国後の彼女のレポートを読んで、やはりその確信は的外れでなかったことがわかった。

 「・・・(「SHOKU」を見て)私は言葉を失った。私もダンサーなので、彼女たちが直面しなくてはならない様々な困難がよくわかる。毎日かかさず体をウォーミングアップしなくてはいけないし、体は傷つきやすいし、だいちいつも疑問だらけだろう。けれども彼女たちはそれを続ける、疑いも無く、一瞬一瞬全身全霊で。私が思うに、それこそが日本人の特徴なのではないだろうか。私自身、またフィリピン人ダンサー、いや西洋のどんなダンサーだってあれほどの作品を踊りきることは想像できない。・・(中略)・・そこには何か(日本の進んだアートや文化で解釈できるもの)を超えるものがあると感じる。超越した何かとつながろうとする試み、それはこの作品を創りあげるための犠牲、その犠牲に対して“イエス”と認める気持ち。そうした“イエス”と言える心が、日本人の信念、日本の文化の核心ではないだろうか。」(マイラのレポートより)

 彼女はさらに自らの立場、フィリピンのコンテンポラリーダンスの置かれた状況に思いを馳せる。

 「・・・しばしば私は“一本気すぎる”とか“役にたたない情熱”とか言われて批判されることがある。しかし今回の作品のように私と同様に、いや私以上にそう思われるようなダンサーを見るにつけ、インスピレーションと確信はますます大きくなるばかりである。確かに彼女たちの作品は日本でよく受け入れられているし、その価値もあると思う。またそれが彼女たちにとって発奮材料にもなるのだろう。ひるがえって私たちフィリピンのダンサーが払っている犠牲だって、なかなか立派なものだと思う。自分たちの作品を創り続け、そしてなんとか今まで生き残っているのだから・・・」(同レポートより)



 マイラ・ベルトランがフィリピンのコンテンポラリーダンスの草創期を支えてきた第一の功労者だとすれば、ドナ・ミランダは、これからを担ってゆく新しい世代のリーダーだ。そもそもぼくがここでコンテンポラリーダンスに出会ったのは、ASEF(アジア欧州基金)主催の「ダンスフォーラム」というプロジェクトで、彼女が日本に招聘されたのがきっかけ。ちなみにアジア、ヨーロッパから20名を超えるダンサーが参加した同プロジェクトの公演は、国際交流基金フォーラムで行われている(2005年9月13日)。気がついてみたらASEFはいまやアジアとヨーロッパの芸術交流におけるキープレーヤーの一つだ。

 ドナは現在伸び盛りの27歳。「マップ」の主要メンバーであるグリーン・パパイヤ・アート・スペースのダンサー・振付家として昨今の活躍は目覚しい。彼女は国立芸術高校とバレエ・フィリピンでダンスの英才教育を受け、その後フィリピン大学に進むと同時にマイラ・ベルトランに師事し、数々の大舞台でも活躍してきた若きエースだ。とても小さくて華奢な体つきだけれども、一端踊りだすとその存在感は圧倒的で、確かな技術とそれを超えるセンスが光る。確実にこの国のコンテンポラリーダンスの地平を切り開いてゆく存在だと思う。彼女の現在の目標は、来年の1月に日本で開催される「横浜ソロ×デュオ 」。このコンペの優勝者はパリでの6ヶ月間の研修と、パリ日本文化会館での公演が約束される。若手振付家にとって世界への登竜門だ。フィリピンから日本を通り、そして世界へ・・それは想像しただけで目の前がぱっと開けるような素敵なことに違いない。既に予選のためにビデオを送っていて結果待ち。彼女のために、そしてこの国のコンテンポラリーダンスの明日のためにも、ドナが日本の舞台に立てることを祈っている。



 新しい何かが創られようとするとき、そんな貴重な瞬間に立ち会っているのだという実感を得られることが、国際文化交流という仕事をしている醍醐味の一つだと思う。そして新しい文化創造の現場で、多少なりとも何らかの貢献ができることは、とても誇らしいことだ。それが特に尖った世界の、時に暗闇の中で悪戦苦闘をしているチャレンジャーに出会ったとき、だからこそ誰かのサポートが最も必要とされていると感じられるとき、ぼくたちがここにいる本当の理由がわかるのだ。