2006/05/08

日本とASEANをつなぐ夢 ~舞台技術者たちの2週間の奮闘~

 マニラ首都圏のほぼ中心部、マンダルーヨン市の庶民の住宅密集地、いわゆるコミュニティーの真っただ中に、日本人舞台照明家、松本直美さんが運営しているパフォーミングアーツ・スタジオがある。松本さんの愛称はショーコ。1994年以来この国に居を構え、98年に支援者や友人らと、フィリピンの舞台技術者を養成するための拠点となるシナーグ・アーツ・ファンデーションを設立した。「シナーグ」とは、タガログ語できらきらの意味。フィリピンの舞台は面白い、でも残念なことに照明などの技術が追いつかない。優秀なスタッフを育てれば、フィリピンの舞台はもっともっと素晴らしくなる。このシナーグは、そんな松本さんたちの思いがいっぱい詰まったスタジオだ。そんなシナーグを舞台にして、日本とASEANの若手舞台技術者を集めた2週間の集中ワークショップが、国際交流基金の支援のもとに行われた(3月13~26日)。

 このワークショップにはブルネイを除くASEAN9カ国と日本から選ばれた22歳から39歳の舞台技術者、合計15名が参加した。講師はショーコさんのほかに日本人2名とフィリピン人3名。いずれも第一線で活躍する人たち。照明、音響、セットデザイン、技術、舞台監督、アートマネジメントの合計6項目で、ほぼこれが舞台の全てだ。ワークショップは2週間、朝の9時から夜、時には深夜にわたってみっちりと行われた。1日も休むことなく体力は大丈夫だろうか、精神的にもきつくないか、そんな心配をよそに参加者全員が無事にこのハードな研修を修了。3月25日にはその成果発表をかねて、国立タンハーラン・フィリピーノの新作で、スーパー・オカマ・ヒーローを主人公にしたコミックが原作のミュージカル・コメディー、「シャシャ・ザトゥルナー」の公演を行った。ところでこの「シャシャ」は2月の初演以来、タンハーラン劇団の久々のヒット作品となり連日若者で満員、チケットを入手するのが困難な作品。フィリピンの演劇で最も人気があるといえるバクラ(オカマ)もので、荒唐無稽なストーリーだが、なんともバクラの存在感が際立つ面白いミュージカルだ。この国の成熟した“バクラ文化”についてはまた別の機会に報告する。

           (写真は全て澤口佳代さん撮影)


 そもそもこの企画の発端は、2003年にショーコさんも参加した国際共同制作プロジェクトにさかのぼる。日本ASEAN友好年を記念して創られたダンス作品「リアライジング・ラーマ」。アジアが共有するインド起源の古典、「ラーマヤーナ」をモチーフにして、現代的にアレンジした創作舞踊だ。その企画に日本からただ一人照明家として参加し、ASEAN諸国のキャストやスタッフと長期にわたって寝食を共にすることで、人材育成と交流の重要性を実感した。それから夢がふくらんで、いつか自分のスタジオでASEANから若者を集めて将来につながる何かがしたい。そんな構想に寄せる思いを、準備段階からショーコさんに聞かされていたぼくは、やはり2003年に自分が手がけた、日本とASEANとの共同制作事業を思い出しながら、再びこのマニラの地で起こるはずの、多くの人との出会いに期待をふくらませていた。

 2003年はぼくにとっても忘れられない年だ。

 「東南アジアと日本を舞台にして、昨年の秋、一つの歌を巡る物語が始まった。ASEANはこの東南アジアの10の国々からなる。域内の人口は5億人。民族や言葉は異なるけれど・・・そんなASEANの国々と日本の人々が、もし一つの歌を共有することができたら・・・。“6億人の歌”、J-ASEAN POPsのイメージソング作りはそんな夢から生まれた。」(J-ASEAN POPs横浜公演のパンフレットより)

 正直言って最初は単なる思いつきに等しかった、日本とASEANをつなぐイメージソング作り。それが「島唄」で有名なBOOMの宮沢和史さんと、彼をめぐる人々との出会いを通じて実現していった。宮沢氏が原曲を作り、英語のオリジナル歌詞をシンガポールのディック・リーが書き下ろす。タイトルは「Treasure the World」。それを11カ国の言葉と、異なるアレンジの曲に作り変え、各国を代表する歌手が歌い継いだ(日本語版タイトル「あなたに会いに行こう」、詩・大貫妙子、歌・有里知花、東芝EMIより発売)。もちろん6億人の歌というのは見果てぬ夢だけど、バラード調からロックバージョン、ラップまで、11通りの「Treasure the World」が生まれた。それまでタイやインドネシアに駐在して、東南アジアの国々に出かけていくことが多かっただけに、ぼくにとってこのJ-ASEAN POPsは、国際文化交流という仕事をし続けてきた一つの中間報告、折り返し地点のようなプロジェクトだった。広くて多様な東南アジアの国々。思い出そうとすれば、次から次へと様々な風景が頭に浮かんでくる。

 「その水はチベット高原を源に、ミャンマー、ラオス、タイの山間部を通り、カンボジアを抜け、ベトナムのデルタ地帯を貫通して東シナ海に流れ込む。インドシナ半島の穀倉地帯を支える壮大なメコンの流れ。東南アジアの大陸部は、このメコンのような大河が生命線だ。タイからは南の赤道に向かってマレー半島が延び、その先端にはシンガポール、東南アジアの島嶼部は海の世界。マレー半島をまたぎ西はアチェから東のパプアまで東西に広大な海域を持つインドネシア。そして隣接するブルネイと、海流に乗って北上すればフィリピン諸島群。東南アジアは実に多様な自然、風土、文化に恵まれている。」(同)

 「リアライジング・ラーマ」を携えて、東南アジアの国々を旅したショーコさんの頭の中にも、様々な風景がいっぱいつまっているのだろう。彼女とはそんな東南アジアの風景と“2003年の夢”を共有していると思った。

 でも何故フィリピンのマニラで-?せっかく外国人を相手に舞台技術の研修をするのだったら、立派な劇場があり、設備や機材が整っている日本でやればいいじゃないか・・と、普通は思うかもしれない。はっきり言ってASEAN諸国の中でだって、最近のフィリピンは、国としてはかなり低迷していると言っていい。シンガポール、マレーシア、タイからは既に経済的に相当の遅れを取ってしまい、いまや後からASEANに加盟したベトナムにも追いつかれそうな情勢だ。そんな近隣諸国の発展を尻目に、自分の足元はあいかわらずのクーデターや反政府勢力の活動、大統領の汚職疑惑や不正選挙疑惑で不安定きわまりない。

 しかし国としてはそんなひどい状況でも、NGOなどの国際的プロジェクトとなると、フィリピン人は異様なリーダーシップを発揮する。国際交流基金の事業の中に、アジア域内の知的交流を推進するグラント(助成)があるが、毎年フィリピン1国で4~5件の狭き採用枠に100件近い申請が寄せられる。おそらく申請の数でいえば、東南アジアでダントツ一位だろう。英語が公用語の国なので国際会議はお手のもの。英語で要求される分厚い申請書だって難なく書いてしまう。まあこれは才能の部類に入るのだろう。今回のワークショップも、その意味でマニラで実施することに違和感はない。少なくとも日本でやるよりは余程スムーズにコミュニケーションができ、そして何といっても安上がりだ。いい設備、いい機材があるだけでは中身のある研修はできない。ものが無ければ、ないなりになんとかなる。第一、ワークショップに参加したメンバーだって、本国に帰ればもっと悲惨な状況が待っていたりするのだ。


 シンガポールから参加した音響デザイナーのユン・ホーが言っていた。「これまでに多くの外国人と一緒に仕事をして指導を受けたが、基本的に欧米人は自分の指示に従わせるだけ、アジア流はケースバイケースでふさわしい方法を見つけてゆく。決して押し付けはしない。」ちなみに彼女は、クオ・パオ・クンという東南アジアを代表する劇作家(故人)が立ち上げた演劇学校のスタッフで、この学校では日本の能、インドのクーリヤッタムからチャイニーズ・オペラまで、アジアの伝統演劇を一線級の役者たちから学ぶことができる。アイデンティティーの交錯する極めてシンガポールらしい学校だ。そんな国際的で汎アジア的な環境にいる彼女の発言は、あながち嘘ではないだろう。

 ラオスから参加した日本人の諸富裕典氏もユニークな存在だ。彼の会社の名前がメコン・オーキッド。ラオスとカンボジアに事務所を構える。二つの国の将来性を見込んで仲間と一緒にイベント制作会社を立ち上げた。フィリピンに腰を据えて格闘する日本人照明家の存在には驚いたが、ラオスを拠点に定めた日本人の舞台技術者がいるとは・・ショーコさんの存在を超える驚きだった。本当に日本人は世界中でいろんなことにチャレンジしている、とつくづく思うのだ。その二カ国から同じ会社の女性スタッフも参加している。彼の影響が大きいのだろうか、どちらも優秀な若手だ。

 インドネシアから来たクリントは、今回ただ一人、プロフェッショナルな劇団専属の照明家だ。彼の劇団はディープなジャワ文化の故郷、ジョグジャカルタを拠点とするテアトル・ガラシ。大地に根ざしたようなジャワの伝統文化と前衛的な実験精神があふれた優れた作品を創りだしている。ちなみにこの劇団は、現在国際交流基金が共催するプロジェクトのために日本に招聘されていて、6月には日本の劇団ク・ナウカとの合同公演を予定している(6月11~18日、ザ・スズナリ)。クリントは、シナーグで学んだことを早速日本で実践することになる。こうやって色々とつながってゆくことは素晴らしいことだと思う。


 ワークショップの最中にぼくも何度かスタジオをのぞいたが、短い期間に何でも吸収してやろうと意欲がみなぎっていて、皆いい顔をしていた。風土や文化が違い、言葉が違い、政治体制や社会状況、そして一人一人のバックグランドは異なるけれど、だからこそ一緒に何かを創ってゆく醍醐味がある。そんな参加者の中で最も忘れがたい一人が、ミャンマーから参加したゾウ・ミン・ウーだ。彼も2003年の「リアライジング・ラーマ」の参加者で、今回ぜひこのワークショップに参加させようと、ショーコさんが賢明に連絡先を探り、なんとかぎりぎり間に合った。彼はいまヤンゴン文化大学で照明技術を教えているが、いまのミャンマーの軍事政権下、実際問題インフラはぼろぼろで、本当は舞台どころではないだろう。表現の自由が奪われた国で、舞台の仕事を続けることがどんなにリスクを伴い、苦しい生活を強いられるか、今のぼくには想像もつかない。でもそんな厳しい状況を背負っているはずの彼が、このワークショップでは一番生き生きしているように思われた。将来は自分で設計した新しい国立劇場を作りたいという。「リアライジング・ラーマ」の公演で訪れた日本で、ぜひ本格的に舞台のことを勉強したいと訴える。

 2週間という限られた時間の中で、果たしてどの程度期待していた“技術移転”ができたかはわからない。ASEANの国々と日本に散らばってしまえば、あまりにもちっぽけな15粒の種だ。でも、いまから思えばつかの間のことだったが、参加した彼ら、彼女らにとっては、この体験がいずれ大きな力になるに違いない。いまは想像もつかないかもしれないが、いつかゾウ氏のつくったヤンゴンの劇場で、フィリピン人のバクラ演じるコメディー・ミュージカルに、ミャンマーの人たちが報復絶倒するする時代がやってくるかもしれない。ぼくらは現在進行形のミャンマーの状況に、何か特段にコミットできるわけではないけれど、いつかは自分たちの劇場をと、あきらめないで奮闘している彼と、こうやって”2003年の夢“を共有し、少なくとも心の中で応援し続けることはできるのだ。
(了)2006.5.8