2006/02/26

こんな時にコスプレしている場合? “非常事態宣言”下のポップスコンサート

 2月24日金曜の昼、フィリピン全土に衝撃が走った。アロヨ大統領がクーデター計画を未然に察知して国軍の幹部を逮捕し、“国家非常事態宣言”を発出した。というか、出してしまったのだ。自宅にいた私は、事務所の同僚からの第一報を受け、すぐにテレビのニュースをチェック。街頭を埋め尽くしたデモ隊と当局とがにらみあう様子が生々しく伝えられていた。

フィリピンでは2月22~25日は「エドサ革命記念日」といって、マルコス政権を倒した“ピープルズ・パワー”を讃える日。それも今年は20周年という特別な年だ。威圧する戦車を目の前に、民衆の先頭に立って国軍と対峙したシスターが、こともあろうに兵士に向かって一輪の花を手向けたシーンは、今も人々の記憶に残っていることだろう。そんな現代の無血革命を再びと、その日は多くの民衆がエドサ通りの革命記念碑を中心に集まって、大統領退陣を要求していた。そんな矢先に“宣言”が出たことで、デモ隊の群集に油が注がれて事態は緊迫度を増していた。

 一報を受けてまず考えたことは、これで明日(2月25日)のポップスコンサートを中止にしなくてはいけなくなるのではないかということ。日本からコア・オブ・ソウル(COS)というグループが来比していて、フィリピンの人気ミュージシャン、HALE、キッチー・ナダル、バービー・アルマルビスの3組とライブをする予定だった。コンサートの予定会場は、これが運悪く革命記念碑から10キロ程度しか離れていないエドサ通り沿いにあるショッピングモールの野外会場。“非常事態宣言”で集会が禁止となり、いまや反政府勢力のメッカとなっている拠点から至近距離の野外で、しかも夜の公演。フィリピンの人気歌手が出演とあって、かなりの数の観衆が予想される。誰だって躊躇して当然。絶体絶命だった。


 しかし結果的にはコンサートを決行したうえに、神様の仕業かどうかわからないが、これ以上人が集まったら会場はパンクぎりぎりという2000人ほどの観衆を集めて大成功。路上に座り込む人たちや何重もの人垣で、実際何人来てくれたのかカウント不可能だった。こちらではほとんど知名度ゼロと思っていたCOSの曲を知っている人たちもいて、J-POPファン=日本アニメファンの底深さを垣間見た。フィリピン人出演者も今が旬のアーティスト揃いで、ミュージシャンと観客との一体感にあふれた素晴らしいライブとなった。3時間に及ばんとする公演の最後の曲、COSの「パープルスカイ」を聴きながら、私はおおよそ1年前のソウルの夜のことを思い出していた。

 国際交流基金の主催事業としてはおそらく初めてとなる海外でのオールナイトイベント。日本から10組のDJやバンドなど総勢80名のメンバーが、ソウルのホンデという音楽の街でライブを行った。しかしそのライブを実現するまでに、多くの関係者が苦悩した。公演の準備をしていた3月中旬、島根県議会の「竹島の日」条例制定を機に“竹島問題”が勃発。韓国メディアは反日一色になり、韓国側メインスポンサーが急遽降板したり、共催者の韓国クラブ文化協会にはいやがらせの電話が相次いだ。

 ほとんど中止にしようと考えていた私を思いとどまらせてくれたのが、そのクラブ文化協会の代表であるチェ・ジョンファン氏の一言。“竹島問題は国家間の政治問題。政治と音楽は別。ホンデという街を誰もが音楽を楽しめる街にしたい。いまこのプロジェクトを中止にしたらホンデに未来はない。私はこの街の若者を信じている。”彼は50歳を越えたばかりの活動家で、かつてはバリバリの反日だった。私はこの一言でコンサートの実施を決心した。そして代表の言葉通り、韓国と日本の若者はその日、思いっきり音楽に酔いしれた。嫌がらせやトラブルは一切無かった。多くの人々でごった返すホンデの路上に出現した巨大テントの中で、ソウル・フラワー・ユニオンという日本のロックバンドが歌った「アリラン」を、私はいつまでも忘れないだろう。

 それから約1年が経過して、今度はフィリピンで同じようなぎりぎりの選択を迫られることになった。ただし今回の場合はチェ氏のように全幅の信頼を置ける人はいない。最後は自分で決めなくてはいけない。私はソウルの夜のことを思い出した。あの「アリラン」や、音楽に酔いしれて入り乱れる日韓の若者たち、そして多くの人々との出会いを思い出していた。中止にすることは簡単。でもぎりぎりまで待つ・・。

 フィリピンでは現在、反政府運動に最早かつてのような広汎な市民の支持はない。国軍や政界に隠然たる力を持っているラモス元大統領が暴力革命を支持しないと明言したことで、政治色のないポップスコンサートが混乱を招くことはありえないと判断し、最終的に実施を決断した。本番開演5時間前のこと。でも最終的に私を思いとどまらせたのは、コンサートを待ち望む多くの人たちの見えない力だったのかもしれない。

 予想通りライブはまったく平穏に、多くの観衆の黄色い声援に包まれた。そんなライブ会場で驚いたのは、観客の中に“コスプレ”のコスチュームでやって来た学生が何人かいたことだ。“非常事態宣言”と“コスプレ”との間には計り知れない距離が横たわっているように思えた。どう考えても理解できないミスマッチに私の頭は若干混乱した。

 20年前の同じ日、政権に最後までしがみついたマルコスを引きずり降ろして世界中から喝采を浴びたフィリピンの“ピープルズ・パワー”(エドサ革命=エドサ1)。その後2001年には、汚職疑惑にまみれたエストラーダ政権を崩壊に導いた(エドサ2)。しかし今回、“エドサ3”はなかなか成就しない。というより、一向に改善しない社会格差、政権が代わってもなくならない汚職や社会不正、そんな国家の深刻な課題を放棄して政争に明け暮れる政治家や軍人たち、多くの良識ある若者の間には、確実に政治への無関心が広がりつつあるのだろう。“ピープルズ・パワー”が死んでしまったか否か、私にはまだ判断はできないが、このコンサートを通じて見えてきたものは、大多数の無関心層と先鋭化した少数の反政府勢力という、この国の二極分化の姿だ。こんな時にコスプレしている場合なの?・・と思う一方で、黄色いスーツを颯爽と着て反大統領デモの先頭に立つコーリー(アキノ元大統領)を眺めながら、千載一隅のチャンスであった農地改革に失敗して社会格差是正の機会を失い、この国の民主主義に喪失感という深い傷を負わせてしまった責任は一体誰にあるのだろうか、とも思うのだ。

 エドサ革命の際に高らかに歌われて“第二の国歌”とも言われた「バヤンコ(我が祖国)」。今でも反大統領デモや集会で歌われている。私もかつては覚えていたけれど、今はほとんど歌えない。自分がまだ学生の頃、テレビにかじりついて感動的に見守っていたエドサ革命。ちょうど20年が経過して、自分はそのエドサで、「非常事態宣言」を無視して若者たちのきらきらした目に囲まれて、「バヤンコ」ではなく、COSの「パープルスカイ」を歌っている。アイロニカルだけれども、これが今のフィリピンの現実だ。




 その夜のコンサートに集まった彼ら、彼女たちの明日が明るいなどと決して思わないが、「非常事態宣言」を無視して、思いっきりおしゃれをしてコンサート会場にやって来るその心意気に、この国を別の方向に導くかもしれない新しい世代が生まれつつあることを実感した。

2006.2.28
(了)

2006/02/21

日比をつなぐ“ふたつの血” 日本語スピーチコンテストを制した若きトップランナー


 全世界で250万人以上が学んでいると言われている日本語。日本語を始める動機は人それぞれだが、今の若い人なら“日本のアニメや漫画が好きだから”というのが一般的で、もうちょっと年上だと“就職に役立つから”といったことが多い。テクノロジーとポピュラーカルチャー。これが大多数の外国人がまずは抱く日本のイメージ。

 しかしこの世界には、そうした表象的なイメージを通した日本とのつながりよりも、もっと生々しく、そして残酷なまでに運命的に日本とつながっている場所もある。

 日本語スピーチコンテスト。世界各国で日本語を学ぶ人たちのために行われる一大イベント。フィリピンは今年で33回目を迎え、去る2月18日に開催された。会場となったショッピングセンターSHANGRI-LA PLAZA MALLの映画館は大勢の聴衆で満員となり、期待と適度の緊張感に包まれた。日本語の学習時間数などによってビギナー部門とオープン部門に分けられて、それぞれ5人と7人が5分ずつのスピーチを行った。私は主催者である国際交流基金マニラ事務所の所長として審査に加わったので、審査の内部情報については書くことはできないが、個人的な感想として圧倒的に印象に残っているのは、ミンダナオ島南部の町ダバオからやって来た二人の若者のことだ。この二人はおそらく私だけでなく、多くの聴衆に強い印象を残し、オープン部門の1位と2位を受賞した。

 1位のクリス・ランス・ラサイ君はダバオにあるミンダナオ国際大学の3年生。ハイスクールが4年制のこの国では大学3年生でもまだ18歳。ちょうど日本の大学1年生と同じ歳だ。スピーチのタイトルは“ふたつの血”。ダバオからさらに南に車で40分のところにある生まれ育ったトリルという町の日系人についての話。大学の授業で戦前の日系麻農園の調査をした時の老人たちとの対話が彼のスピーチのテーマだった。

 ちょっと長いが引用する。
 「当時、トリルでは日本やアメリカ軍の船に使われる麻を生産していました。だから高い値段で売れるので、給料も高く、フィリピンだけでなく、日本からも多くの働き手が集まって来ました。その後千以上の日本の会社が来て、近代的な産業を作ったそうです。しかし私がもっと驚いたのは、二万人以上の日本人がダバオやトリルに住み、日本人がフィリピンのもとで働き、日本人のもとでフィリピン人が働く。国籍や習慣を超えて、五十年もの長い間、協力して平和に暮らしていたことです。今わかっているだけでも、トリルの人口の十人に一人は日系人です。これは日本人とフィリピン人が仲良く暮らしていた証なのに、素晴らしいことなのに、フィリピン人はこのことを知りません。」

 私自身もフィリピンにおける日系人の問題について詳しく知ったのはマニラに赴任してからだ。聞けば聞くほど、これまでの自分の無知に、そして大多数の日本人の無関心に疑問が湧いてきた。日本からの移民労働者の歴史は今からおよそ100年前に遡る。ルソン島北部山岳地帯の道路建設に携わったのを契機に移民労働者が次々と送りこまれ、ダバオに麻(アバカ)農園が開拓されて活況を呈し、最盛期にはフィリピン全土に3万人、その内ダバオには2万人の日本人がいたという。現在フィリピンの在留邦人は13,000人だから、その2倍以上いたことになる。国際化とはいうけれど、日比関係については戦前のほうがむしろ進んでいたのだ。

        ダバオ開拓の”父”太田恭三郎の碑


 ところがこの日本人移民労働者とその家族の生活を戦争が根本から破壊した。150万人以上が亡くなったといわれる戦争の後、日本人である彼らはフィリピン人からの報復を恐れ、ある者は山中に逃れ、逃げずともその出自ゆえに社会の底辺に置かれざるをえず、日本政府の支援もなく、文字通り“棄民”として艱難辛苦の日々であったそうだ。その様子は大野俊著「ハポン-フィリピン日系人の長い戦後-」(第三書館、1991年)に詳しい。

 1980年代になって日系人の困窮を目の当たりにした帰還兵や元ダバオの日系人が中心になり、救済運動が始まった。NGOや宗教団体の支援のもとに日系人組織を作って生活支援や権利保護が行われた。いまではダバオ市内に立派な日系人会館があり、会員は5500人。間違いなくアジアで最大の日系人組織だ。会員の中にはまだ1世も4名存命で(昨年10月現在)、既に5世の会員まで誕生している。

 こうした日系人に対する支援の中で最も重要な活動が日本国籍の取得問題である。つらい苦しい“無国籍状態”に関心が向けられたのが80年代後半になってからで、日本の厚生省の調査団が送られたのが1988年。親が日本人と証明のできる二世はほぼ皆日本の国籍を取得しおわっているが、現在の問題はそれが証明できない人たちが約800名いること。しかしそれもついにこの2月2日に、フィリピンで初めて、父親が日本人であることを書類によって確認はできないが、状況証拠で日本人であると認定して新たに戸籍を認める“就籍”の第一号が誕生した。実はこの“就籍”、中国の残留邦人のケースはこれがほとんどで、既に6,000人以上が日本国籍を認められて永住帰国している。中国残留孤児のことは誰でも聞いたことがあるだろう。しかしフィリピンの“孤児”たちは、いかに長い間世間から無視され続けてきたことだろう。

 同じ日本人として、かくも異なる境遇に置かれた人たちが大勢いること、仕事や旅行でこれまで何度もアジアを訪れていたのに、アジア最大の日系人コミュニティーについて、その存在すら知らなかったことは、少なからずショックだった。ショックついでに言えば、日系人問題はこの戦前からの日系人(“旧日系”という)問題のみならず、いわゆる“ジャパゆきさん”と日本人の父親の間に生まれた混血児、通称“ジャピーノ”、もしくは“新日系”の問題も深刻だ。2004年には日比国際結婚が8500件。この10年で毎年6000~7000件の結婚があり、既に10万人以上の“ジャピーノ”がいると推定されている。彼ら、彼女たちの多くは父親が不在である。そして今後もその数は増え続けるであろう。フィリピンと日本との間には、なんとも絶ちがたい濃い関係がある。しかしいずれにしても、このアジアにおける最大の日系人コミュニティーの存在は、色々な意味で今後ますます注目されてゆくのは間違いない。文化交流というジャンルにおいても、彼らが重要なアクターになる日はそう遠くない。その意味でも無関心ではいられない。


            ミンダナオ国際大学

 昨年の10月、「ハポン」の著者であり、その時期に国際交流基金の客員教授としてマニラに派遣されていた大野教授とダバオに向かい、ミンダナオ国際大学を訪問した。この大学は日本のNGOの支援を受けて設立されてまだ4年目の大学だが、250名の学生がいる。日本から5人もの常勤の日本人教師を受け入れ、比較的恵まれた環境で日本語を学んでいる。多くの学生の夢は日本語をマスターして日本で働くこと。今回スピーチコンテストで受賞した二人はそんな学生たちのトップランナーだ。

      ミンダナオ国際大学の学生たち


 実はダバオと私の縁は25年前に遡る。まだ自分が高校2生の頃、当時一種のブームでもあった“南北問題”についてのある大学の懸賞論文に応募して佳作となり、それがきっかけでフィリピンを訪れた。ダバオではコプラのプランテーションや海洋民族(バジャオ)の水上部落を訪問し、地元の高校生たちと交流した。今でもその印象は強烈に残っている。日本では想像もできない貧困というものに出会ったが、そうした厳しい現実とは裏腹に、人々には奇妙にも不釣合いな幸福感が漂っていたのを覚えている。その幸福感とはいったい何なのか、とても気になってその後何度もアジアを旅し、気付いたら自分はこの仕事を選び、こうしてフィリピンに戻って来ていた。そして今は逆にダバオの若者を日本に送り出す側にいる(1位の副賞は日本での研修旅行)。

 「戦後、日系人はいじめられるので名前を変えて、静かに暮らしていました。でも、小さな村では名前を変えてもわかるので、山の奥に隠れ、また、わかるともっと山の奥に家族と三十年も逃げました。みんな、ずっと服は一枚だけでした。本当のことを話すと、こんな悲しい歴史を私は知りたくなかったです。それは私だけではありません。フィリピン人にとっては忘れたい歴史だから、戦前の素晴らしいこともみんなに伝えなかったのだと思います。インタビューの最後に、「よく我慢しましたね。」と、私がおばあさんに言うと、「ふたつの血が流れているから強いんだよ。」顔は涙でいっぱいでしたが、おばあさんの言葉は二つの国が、昔のようにもっと強く協力できる日が近いことを、私に教えてくれているように思いました。」

 若い18歳のまっすぐな眼差しの向こうには何があるのだろうか?

 私は16歳の夏、このフィリピンと出会った。しかし、彼にとっての日本とは、私にとってのフィリピンとは比べものにならないくらいにずしりと重く、深いものかもしれない。

2006.2.21
(了)