2005/07/19

35ミリがだめならデジタルがあるじゃないか! ~フィリピン映画の生き残りをかけた新たな挑戦~

 大型ショッピングモールにシネ・コンプレックス。アジアのメトロポリスでは既にありふれた光景となったが、ここマニラ首都圏一帯にも30を超える大型ショッピングモールが存在する。一つのモールに、多いところでは10館以上のミニ・シアターが入っている。主要なシネコンの上映スケジュールは毎日新聞でチェックできるが、やはり目立つのはアメリカ産の映画ばかり。もともとは多様化したミドル・クラスのニーズに応えるためにできたシネコンであろうが、現状はやはりハリウッド製のアクション、SF、恋愛コメディー映画などでほぼ独占状態。香港、台湾、韓国、そして時々日本映画がそれに混じって公開される(例えば現在は、「リング」、「呪怨」などのプロデュースで知られる一瀬隆重氏
が、“Jホラー”と銘打って世界のマーケット向けに鳴り物入りで製作した第一弾「予言」(鶴田法男監督)が公開中。)

 フィリピンの国産映画も非常に苦戦を強いられている。昨年の年間製作本数は54本(フィリピン・フィルム・アカデミー発表)。1996年~1999年の平均が164本、2000年~2003年の平均が82本だから、急激に落ち込んでいるのは明らか。もともとアメリカ植民地時代からハリウッド仕込みのスタジオ・システムを導入して、60年代から70年代にかけては長編劇場用映画だけで年間200本を超え、“黄金時代”を築いたほどの映画王国だった。銀幕のスターが大統領となったアメリカと同様に、アクション・スターから一人の大統領を輩出している(前大統領のエストラーダ。現在汚職容疑で収監中)。スター・シネマ、リーガル・フィルム、CMフィルムスという3大“メジャー”映画会社が、国産映画の製作・配給、外国映画の輸入・配給の多くを支配しているが、一昨年に当地の映画祭でグランプリに輝いた「Crying Ladies」を製作したユニテル・ピクチャーズなど、インデペンデント系の新興会社も数は少ないが存在する。

 さてそんな状況の中、映画界、そして映画界を目指す若者達の熱い期待を担い、フィリピンでは初のデジタルフィルムに焦点をあてた大規模映画祭となる「CINEMALAYA PHILIPPINE INDEPENDENT FILM FESTIVAL 2005」が開催された(2005年7月12~17日、フィリピン文化センターほかの主催)。長編と短編の二つの部門からなるコンペ形式の映画祭で、1年半の準備期間の末に実施された。長編部門では189のエントリーから最終的に9本が選ばれ、共催者であるドリーム・サテライトTVよりそれぞれに50万ペソ(約100万円)の製作費が与えられて本選に進んだ。短編は100を超えるエントリーの中から6本が選ばれた。20代から30代の監督を中心に、新作が長短計15本。これからのフィリピンを担う若い世代の映画に寄せる思い、フィリピン社会への眼差しが俯瞰できるなかなか面白い映画祭だった。15本の新作が描く世界は、ゲイ、レスビアン、売春、犯罪、暴力、貧困とシリアスなものが多いが、心温まる家族愛もある。スタイルはオーソドックなヒューマンドラマから、「呪怨」の影響濃いホラーものや、ミュージカル、アクション・コメディーに実験映画、そしてドキュメンタリー調と、“インデペンデント”というだけあって商業上映を目的とする“メジャー”では決して実現できない多様なものになった。

 今回見た長編6本と短編6本の中で特に印象に残った作品が何本かある。まずはアウレリアス・ソリート監督、山本みちこ脚本の「マキシモ・オリベロスの青春」。スラムで暮らすゲイの少年の淡くほろ苦い初恋の話。この国ではゲイであることをカミングアウトしても日本のように差別されることはない。どこにでもゲイは存在していて、コミュニティーの一要員として居場所がちゃんとある。個性的なキャラクターであることが多く、映画や演劇などでは頻繁に登場する。この作品に登場するマキシモ君も10歳に満たないお洒落なゲイ”少年“だが、スリで生計を立てる一家には既になくてはならない世話役だ。そんな彼がハンサムな若い警察官に恋をした。彼との出会いがマキシモの未来を変えるかにも思われたが、泥棒一家は警察とは対立関係にある。やがて自分の父親が恋した警官の上司に自分の目の前で殺され、彼は自分自身の立場に気づく・・そして自ら彼の元を離れてゆく、というストーリー。基本的には貧困と不条理という厳しい現実が横たわっているのは確かだが、山本の視点はマキシモの世界にとても自然に密着していてリリシズムにあふれている。雑然さと混濁に包まれたスラムの環境と、清純さと洒落たセンスに包まれたマキシモとの対比がなんとも鮮烈な映画である。

 同じく長編の「ルームボーイ」(アルフレッド・アロイシウス・アドラワン監督)は、若い娼婦とその娼婦が常宿としているモーテルのボーイとのラブストーリー。娼婦役の新人女優メリル・ソリアノはこの美しく悲しい娼婦役を軽妙に演じて高い評価を得た。さらに短編では「ババエ(ウーマン)」(シグリッド・アンドレア・ベルナルド監督)が圧倒的に良かった。これもスラムが舞台となっている。二人の幼馴染の女の子が一緒に暮らしながら成長してゆく過程でやがて愛しあうようになり、レイプで身ごもった一方の子供を二人で育ててゆくというお話だが、20分足らずの時間の中で完成度の高い作品を作りあげた。いわゆるレスビアンの話といってしまえばそれまでだが、二人が愛情を育んでゆく姿がペーソスとユーモアに包まれて描かれてゆく。民族楽器を使って現代風に軽妙な演奏をするマキリン・アンサンブルの音楽もいい。貧困、ゲイ、レズ、犯罪などなど、フィリピン社会の底辺ではありふれすぎた素材でしかない。ただそれを描くだけなら、ああまたか・・ということなのだろうが、そう感じさせないところにフィリピン映画界の未来がある。いやというほどそうした不条理と日々格闘し、その上で生きることを肯定し、その醜い現実から一編の真実を掬い取る方法を獲得した人たちのみに与えられた力が、これらの作品のクオリティーを高めていると思った。

 コンペ出品作品以外にも、インデペンデント映画の最近の代表作が特集上映された。その中で際立っていたのは、2003年カンヌ国際映画祭の短編部門でパルム・ドールを受賞した「アニーノ」(レイモンド・レッド監督)や、今年の第7回プラハ国際人権映画祭で最優秀監督賞を受賞した「ブンソー(最年少)」(ディッツィー・カロリーノ監督)。後者はセブの監獄を舞台に、劣悪な環境下で暮らす少年犯のドキュメンタリー映画。2003年の製作だが、映画の“タイトルロール”である主人公の二人の少年は、ドラッグ中毒と交通事故で既にこの世にいない。日本の人たちにはほとんど知られていないだろうが、こうしてフィリピンの映画人は結構頑張っているのだ。

 シネマラヤでは、映画上映のほかにもインデペンデント映画をテーマに2日間のシンポジウムが開かれた。“メジャー”映画の黄金期を築いた先人に対する敬意は忘れないが、この国の映画界は、“メジャー“の世界から逸脱した多くのインデペンデント系の作家を輩出してきており、そのことに対する自負心には大きなものがある。そして現在まさにその”メジャー“が瀕死状態に陥っている中、インデペンデントという言葉に託す思いはさらに強くなっていると感じた。しかもデジタル映像の技術的進歩が、こうした思いを後押ししている。「35ミリがだめなら、デジタルがあるじゃないか。」無論デジタル映像は、いまだセルロイドに追いついてはいない。大画面で、それも明るい画面での画質の劣勢は誰の目にも明らか。しかし、映画を撮る者にしてみれば、メジャーもインデペンデントも、セルロイドもデジタルも本質的には関係ないのかもしれない。ただ映画が撮りたいだけだ。映画研究家のニック・デ・オカンポが言っていたように、映画は常にテクノロジーとともに歩んできた。今後デジタル・フォーマットにどんな運命が待っているか誰にもわからないが、このまま衰退するよりも挑戦することが重要。選択肢はない。この国の文化はある意味で健全だ。革新的なものの多くが周辺から生まれてくるように、どん詰まりに行きかけたこの国の映画界の中から、近い将来、世界をあっと驚かせる傑作が生み出されるかもしれない。
(了)
2005.7.19